南国旅行記 2025

2025/10/24 アデレードの休日

どうでもいいことであるが、昨日、書き忘れたのでここに書いておく。 昨日、姫路庭園から戻って Central Market に寄った際「雄大な南方大陸における逞しい男達のトイレ」で用を足した。

アデレードにも、ベトナム料理店よりは少ないが日本風の料理を提供する店はある。 Sushi バーのような店はチェーン店を含めしばしばみられるが、大抵、日本の寿司からは大きな変貌を遂げたオーストラリア風 Sushi である。 日本でみられるものと共通なのは、かろうじてサーモン握りぐらいであろうか。大体、握り 1 貫 2.2 ドル~、といった価格設定であり、値段自体は日本と大きく変わらない。 エビフライ巻きなどはしばしばみられるようだが、fry という語は通常、英語では衣をつけることを意味しないため、エビフライの英訳は難しい。 Panko Shrimp なる訳をしている例や、Tempura Shrimp という不適切に思われる訳もみかけた。

アデレードには動物園がある、という話を学会会場で別の参加者から聞いたので、私も本日、訪れてみようかと思った。 が、調べてみると入場料が 48 ドルとのことである。 それほどの金額を払ってまでカンガルーをみたいとは思っていなかったので、動物園は、やめた。

本日は 9 時過ぎに宿を出て、徒歩で Adelaide Railway Station に向かった。 今日は土曜日である。どうやら当地では土曜日が休日、お出かけする日のようであり、メトロは土曜日が終日 peak 扱いで 4.55 ドルである。 日曜日は終日 off-peak 扱いで 2.6 ドルであるらしいのだが、これは日曜日を安息日とするキリスト教的な行動が反映されているのだろうか。 とにかく、土曜日は休日であるために、鉄道駅のバインミースタンドやカフェも休業していた。 私は 9:47 発の Outer Harbor 行きに乗車した。

Outer Harbor 行きの列車は、Adelaide Railway Station を出た後は Woodville まで停車しないようである。 Woodville では、先日訪れた Grange 方面の列車と進路が分かれる。 さらに進むと Alberton という停車場があり、ここで Port Dock 行きの列車と進路が分かれる。 Alberton の次は Port Adelaide であり、私はここで下車した。 今日は暑く、陽射しも強いようである。

Port Adelaide の駅は高架になっており、地上に降りるためには長い階段を下らなければならなかった。 停車場の近くに Port Adelaide Plaza というショッピングモールがあった。 ここには郵便局もあったが、今日は休業日のようである。トイレは無料でキレイであった。

Port Adelaide 駅の近くの port river に行ってみたが、特に面白いものはなかった。 Port Adelaide には Railway Museum, Maritime Museum, Aviation Museum という 3 種の博物館があるのだが、 いずれも 19 ドル程度の入場料を取る割にはあまり魅力を感じられなかった。 暑いので、日本から持ってきた日傘をさすことにした。 日本では長らく、日傘は女性が使うものであるかのように扱われてきたが、近年は男性の日傘使用者も増えており、結構なことである。 私は京都大学にいた頃は笠やアラブ風の被り物を使っていたが、名古屋大学に入る頃から日傘を使い始め、現在使っているものは三代目の日傘である。 オーストラリアでは、なぜか男女を問わず、日傘をさしている人が少ない。 オーストラリアの白人には皮膚癌が多いと聞くが、なぜ癌の予防に日傘を活用しないのか、理解に苦しむ。 私は日傘をさして街中をブラブラしたが、特に面白いものもみかけないまま Port Dock の駅に向かった。

Port Dock を 11:18 に出発する列車で Alberton に戻り、そこから Outer Harbor に向かうつもりである。 乗車時に MetroCard を validate するのだが、この時は運賃を引かれなかった。 前回乗車から 2 時間以内であれば乗継とみなされて運賃を引かない、というような運用なのであろうか。 車内で 5 ドルを追加チャージした。この時は硬貨で支払った。 オーストラリアでは 5 ドル以上が紙幣であるが、2 ドル硬貨が小さく、50 セント硬貨が大きい。 価値が高いほど大きく重い日本の硬貨はわかりやすいと思う。

本日は休日であるが、列車の乗客が少ないように思われる。日本でいう赤字ローカル線ぐらい、閑散としている。 なぜオーストラリア人は公共交通機関を使わないのか。 このメトロは南オーストラリア政府が運営しているので、赤字であっても税金から補填されるのであろうが、 自動車にもっと課税するなどして、鉄道利用を強く促すべきではないか。

ところで、当地は日本語で「南オーストラリア州」などと表現されるが、英語では South Australia, 略して SA であり、 「州」に該当する単語は使われていない。 なぜか米国の連邦構成単位である state を日本語では「州」と訳す習慣があるので、それがここにも援用されているのであろうが、 国家内の行政区分を表す「州」という語を米国やオーストラリアの連邦構成単位の意味で使うのは、本来不適切である。 ましてやオーストラリアの場合、そもそも原語に「州」を表す単語がないのだから、単に「南オーストラリア」と表現すべきであろう。

Alberton で下車した私は、反対側のプラットフォームに移動し、Outer Harbor 行きの列車を待った。 近くの民家には、藤のような薄紫色の花が木から下垂していた。オーストラリア在来種のフジモドキの花であろう。 Alberton の駅では、線路上に少々のゴミが不法投棄されていた。いささか人心に乱れがあるとみえる。

Alberton の駅は東西二つのプラットフォームがあるが、どちらがどこ方面の停車場であるのかは表示がない。 次に来る列車がどこ行きなのかも、いつ到着するのかも、表示がない。 当地では車両は左側通行であり、私は北方に向かわんとしているのだから、西側のプラットフォームで待機した。 やがて南方から列車が到着した。 私が確認できた範囲では、列車の車体にも行先の表示がない。 路線図から考えれば、当駅から北方に向かう列車は Port Dock 行きと Outer Harbor 行きの両方があり得るのだが、これを区別できる情報がないのである。 もし Port Dock 行きに乗ってしまうと、私はただ Port Dock と Alberton を無駄に往復することになってしまう。 が、わからないので、50% の確率に期待して、到着した列車に乗り込んだ。 とりあえず MetroCard を validate したところで、車内の電光表示に To Port Dock の表示がある。ハズレであった。 私は、慌てて、まだ開いていた列車の扉から飛び降りた。 このときも、乗継扱いなのであろう、私の MetroCard から料金は引かれなかった。

Port Dock 行きの列車が出発すると、すぐに別の列車が南からやってきた。 これこそが Outer Harbor 行きであった。

車窓から外を眺めると、ネコジャラシを大きくしたような赤い穂を多数下垂させている樹木が目立った。オオネコジャラシの木である。 私は南国の街並みを眺めながら、北へと進んだ。

Outer Harbor の駅に降りると、眼前には貨物港が広がっていた。 みえる範囲には、飲食店やショッピングモールの類はみあたらず、観光客が来るような場所ではない雰囲気である。 私はとにかく海に行こうと思い、貨物港の立ち入り制限区域の端を目指して歩き始めた。 なぜか、小さな蠅のような虫が私にまとわりつく。私が一体、何をしたというのか。

少し南に歩くと、公園が広がっていた。 岩だらけの海岸には、複数の釣り人がいた。 政府による釣り人向け看板があり、魚や蟹などの採取規制が説明されていた。 種によって、獲ってよい大きさや数の制限があり、水産資源の保護に苦心しているようである。 日本では近年、水産資源の枯渇が問題視されているにも関わらず、稚魚や稚蟹などの採取の規制が乏しいと聞く。オーストラリアをはじめとする諸外国に倣うべきであろう。 ところで、この辺りの海ではイルカもしばしばみられるらしく、イルカの行動について説明した看板も立てられていた。

私はこのときも、Outer Harbor の大まかな地図をなんとなく確認しただけで現地を訪れたので、詳しい地形を把握していなかった。 事前に確認した地図では、Outer Harbor のあたりから西南方向に延びる突堤があったように思うのだが、それが現在位置からみてどの方向にあたるのかもわからない。 ただ、北西方向の海の向こうに突堤のようなものがみえ、その付け根は砂浜になっているようであった。 北側から回り込めるのであろうか、と思い、私は Outer Harbor の駅の北側に向かった。 しばらく歩いたが、道は東方に曲がっていき、目的とする砂浜につながる様子はない。 私は諦めて、駅に戻った。Port Adelaide に比べて、私にまとわりつく小蠅のような虫が多い。東アジア人の皮膚分泌物に惹かれるのであろうか。甚だ不快である。

ところで、今になって地図を見返すと、私が当初訪れようとしていた突堤は、私が行った海岸の公園よりもさらに南であった。 駅の北に行くのではなく、そのまま南に進めばよかったのである。 次にアデレードに来る機会があれば、その時こそは突堤をみに行こうと思う。 なお、私が北西の海の向こう側にみた突堤や砂浜に相当する構造物は、地図に記載されていない。 形だけでいえば、私が目指していた突堤に類似するのだが、方向がてんで違うのである。 蜃気楼でもみたのだろうか。

Outer Harbor 駅では、過日 Grange 駅でみたのと同じような、音声による列車案内装置があった。音声案内を聴いていると、ちょうど Adelaide 行きの列車が到着した。 12:28 発とのことである。 ここでは、乗車して MetroCard を validate すると 4.55 ドルを引かれた。 理屈がわからないのだが、最初に乗車した時刻から 2 時間までは乗継扱いになる、というようなことなのだろうか。

Adelaide Reilway Station に着いた。「雄大な南方大陸における逞しい男達のトイレ」を使用した。

週末は Railway Station から South Terrace 方面に行くトラムが 20 分に 1 本と、平日の 10 分に 1 本に比して少ないらしい。 私は 14 分ほど待ってから乗車し、Victoria Square に向かった。 土曜日だからなのか、昼だからなのかは知らぬが、Central Market は大いに混雑していた。 Market は 3 時に終業し、日曜日と月曜日は休みであるから、3 日分の食材を買い込む人が多いのかもしれぬ。 私は Central Market のチョコレート屋で土産品を確保した。現金で 101.9 ドルを支払った。

Victoria Square の Halal Food Festival に出店しているパレスチナ料理の屋台で、Lamb Wraps と水を合わせて 21 ドル (クレジットカード) で購入した。 陽射しが強いが、木陰の席は満席である。 私はヴィクトリア女王の像の傍の日陰で、食事を済ませた。美味である。

歩いて宿に戻った。明日の空港行きバス乗り場を確認しようと思ったのだが、どうやら少し西に行った場所のバス停から乗らねばならないようである。 初日に私は、最寄のバス停から 200 m ほど西で降りてしまった、と思ったのだが、どうやら偶然にも、実は最適なバス停で降りていたようである。

宿に着いたのは 14:35 頃であり、少しばかり昼寝をした。

18 時を過ぎた頃に、Victoria Square に向かった。 ちょうど最寄の Rundle Mall をトラムが発車した直後であったため、待つまでもないと思い、歩いて南に向かった。 会場を少しブラブラした後に、アルゼンチン料理店で肉と馬鈴薯とサラダを盛ったプレートと水を 21 ドル (クレジットカード) で食べた。

20 時少し前であろうか、昨日と同じくアザーンが始まった。 会場は、芝生の広場と、その東西北の三方向を囲む高台から成っており、高台部分に屋台が並んでいる。 芝生の広場のうち南半分には椅子と卓子が並べられており、北半分にはシートが敷かれている。 アザーンが始まって少し経つと、このシート部分に人が集まり、集団礼拝が始まった。 こんな場所で礼拝するのかと驚いたが、寛大なアッラーは礼拝の場所を (基本的には) 制限しないので、それ自体は問題ないのであろう。 しかし会場の構造には、問題があるように思われる。 当地からみてメッカは概ね西北西にあたるのだが、シートが敷かれた位置から西北西には屋台が並んでいる。ちょうどアルゼンチン料理の屋台が正面にあたる。 すなわち、礼拝者は、アルゼンチン屋台に向かって礼拝するような恰好になってしまうのである。 礼拝中も、屋台の営業は続けられているし、客も構わず行動しているので、礼拝者の前を往来するような形になってしまう。 Halal Food Festival であるなら、このあたりをもう少し配慮できなかったのだろうか。 実際のところ、このような形で礼拝することに疑問を抱くイスラム教徒も少なくないと思われる。 この集団礼拝には加わったのはごく一部の者だけであったし、かまわず「メッカ側」の屋台前を往来するイスラム風の者も多かった。

食事を済ませた後は星空を観察したかったのだが、あいにく、本日は薄い雲が広がっており、南十字はよくみえない。 かろうじて、十字の一部と思われる星が 1 個、みえるだけであった。

昨日は特に言及しなかったが、南十字のそばにあるケンタウロス座α星、いわゆるアルファ・ケンタウリは、太陽系から最も近い恒星であると信じられている。 地球から 4.3 光年の位置にあり、A 星と B 星の連星系である。 アルファ・ケンタウリ自体はそれほど強く光っているわけではないが、地球に近いために、太陽を除いて全天で 3 番目に明るい星として知られる。 この星はかなり南の方に位置しているため、日本ではほぼ観測不可能なのであるが、オーストラリアの空ではよく目立つ。 光速の 10% の速さで飛行できれば 43 年で行けるわけだから、いずれ無人探査機か、あるいは遠い将来には有人探査機が、アルファ・ケンタウリに到達する時代が来るかもしれぬ。 さすがに私が生きている間には不可能であろうが、そのような未来を空想しつつ、空を眺めた。

南西の空に昨日と同じく輝いていた明るい星はカノープスであろう。 シリウスに次いで全天で 2 番目に明るい星であるが、シリウスが地球から 8.6 光年と比較的近いのに対し、カノープスは 310 光年の位置にあると考えられており、かなり遠い。 つまり、実に明るく輝いている星である。 これも日本からは観察困難な星の一つであるが、オーストラリアでは (緯度によるが) 一日のほとんどの間は地平線の上に存在している。 諸君が南方に旅行した際には、ぜひ南十字と併せて観察されるとよい。


2025/10/03 学会終了

アデレードで一週間近く過ごして、気づいたことをまとめておこう。 まずはホームレスについてであるが、ヨーロッパの大都市ほど目立ちはしないが、アデレードにも少なからぬホームレスがいる。 法的にどう扱いになっているのかは知らぬが、一度、警察官がホームレスに対し何らかの対応をしているのをみかけた。 ただし、乞食はほとんどみかけない。私は初日に金を無心されたことが一度あるだけである。 他にも一度、別の人が通りすがりに金を無心されている現場に遭遇したことがあるが、その二度だけである。

路上喫煙は、かなり多い。路上喫煙を控えられたし、というような表示もみかけない。 当地では、路上喫煙を不道徳とみる習慣がないのであろうか。 受動喫煙防止ということについては、日本の方が先進的であるように思われる。

街中で Gaming あります、というような看板をしばしば目にする。 私は当初、ゲームセンターか何かかと思ったのだが、ここでいう Gaming とはカジノのことであるらしい。 よくみると看板には、法律で定められているのか、ギャンブル依存症相談センターのような施設の連絡先が併記されている。 このように街中の随所にギャンブル場があるのは、健全とはいえまい。 もっとも、日本でもパチンコなどという、どう考えても違法なギャンブルなのに、なぜか形式的にはギャンブルではなく合法だとされている 理解困難な遊戯場が存在するのであるから、どちらがマシであるかは、よくわからない。

よくわからないのだが、街中ではシーク教徒風のターバン姿の人をよくみかける。 私が過去に訪れたヨーロッパではあまりみかけなかったのだが、アデレードでは日に何人かはターバン姿を目にするのである。 オーストラリアには、厳格なシーク教徒が多いのだろうか。

当地の交通道徳は、かなり良好である。 信号無視をする自動車は少なく、赤信号では停止するし、停止線を越えることも少ない。駐車場などの出入口にあたる部分を塞がないように配慮して停車するし、 信号がない横断歩道では歩行者優先が徹底されている。 日本では停止線を越えてから止まる自動車が多く、歩行者がいても停止しない運転者が多く、この点において、 日本はオーストラリアに比して未開の文明であるといわざるをえない。

さて、今朝は 9 時過ぎに宿を出て、徒歩で Central Market に向かった。 朝食に、先日と同じミートパイ 7.15 ドル (クレジットカード) を食べた。美味であった。

Central Market の東側、Victoria Square のすぐそばにあるフランシスコ・ザビエル聖堂を訪れた。 ザビエルの名を冠していることからわかるように、カトリックの聖堂である。 ミサが行われるのは 8:00 からと 12:30 からと夕方であり、それ以外の時間帯は自由に入れるらしい。 正面の扉を入ったところには、フランシスコ・ザビエルの像があった。 ザビエル自身はオーストラリアを知らないはずであり、なぜ、この聖堂が彼の名を冠しているのかは知らぬ。 礼拝堂に入る扉は閉まっており、たぶん、自分で開けて入って構わないのだろうが、私はカトリック教徒ではないので少し気がひけて、建物のまわりをぐるりと一周した。 すると脇の扉が開いていたので、私はここから礼拝堂に入った。 カトリック的な、ステンドグラスを含め華美な装飾の施された礼拝堂であったが、あまり金色にキラキラ輝くほどの装飾ではなかった。 蝋燭の献灯に 2 ドルの寄付が求められた。寄付のためのクレジットカード決済端末が設置されていた。 実は現金を寄付するための募金箱もあったのだが、他の人が現金を投入するまで、私は気づかなかった。 その他に、貧困者のための現金式寄付箱と一般寄付 (クレジットカードのみ) に少額の寄付をした。 私はカトリック教会はあまり好きではない、というよりヴァチカンは嫌いなので、あくまで少額である。 修道士のための寄付 (クレジットカードのみ) は行わなかった。 カトリックは歴史的に政治との結びつきが強い。というよりも、ヴァチカン自体が国家として政治活動や軍事活動を行ってきた歴史がある。 その中で、聖書の記述に基づかない様々な規則を生み出し、運用してきたように思われる。 教皇や枢機卿といった身分は聖書に記載されていないし、イエスやその弟子はヴァチカンのような荘厳な宮殿に住まず、きらびやかな衣服も纏っていなかった。 イエスは異教徒を駆逐せよとは言わなかったのに、ヴァチカンは神の名の下に東方遠征を主張した。 彼らには彼らの論理があるのだろうが、私には理解できない。

Victoria Square から北に向かうトラムで学会会場に向かうつもりであった。 ところが、南からやってきたトラムには South Terrace 行きであるとの表示がなされている。 停車場には、北に向かう便は 2 分後である旨が表示されている。 私は、この後に北行きの車両が来るのだろう、South Terrace 行きというからには折り返して南に向かうのだろう、と思い、この便を見送った。 ところが、この車両は当然のように北へ向けて発車した。 停車場の表示は、次の北向きは 9 分後、と変わっていた。 どうやら車体の行先表示が間違っていただけのようである。 やむなく私は次の便を待ち、10:41 頃に Victoria Square を出発した。

Adelaide Railway Station でトラムを降り、歩いて学会会場に着いたのは 10:52 であった。 水を飲み、トイレに寄って、11 時のセッション開始には間に合った。 Image Processing のセッションである。 チェコの法医学者による、銃創の画像解析に関する 2 件の発表は面白かったが、もう少し理論的な部分の説明があるとなおよかった。 米国からの発表は、何をしたいのかよくわからなかった。 バングラデシュからの Pegion Hole Imaging の発表は面白かったのだが、機械学習を適用する前に、もう少し理論的、数学的に詰める余地があるように感じられた。 私は昼食にサンドイッチ 3 個を食べた後、日本から来た修士課程学生の某氏と少し話して会場を後にした。 14 時からのセッションはあまり面白そうではなかったので、不参加とした。

私は Railway Station からトラムに一駅だけ乗り Art Gallery で降りた。 少し北に歩くと Migration Museum という小さな施設がある。入場無料である。 ここには、ヨーロッパ人が侵入する前のオーストラリア先住民の、言語・民族の分布図が展示されていた。 先日も書いたが、当然ながらオーストラリアには昔から多様な民族があり、文明が存在したのであって、アボリジナルという単一民族が住んでいたわけではない。 その多様な民族の文化を破壊し、土地を奪い、ヨーロッパ人が住み着いたのである。 その歴史については、この museum において比較的誠実に記述されており、european invader という語も用いられていた。 現在のオーストラリア社会においては、彼らの祖先はヨーロッパから来た侵略者である、という事実を認め、 先住民の文化・伝統を尊重する動きが広まっているようである。 ただし、以前にも書いた通り、これは自分たち移民がオーストラリアの主人であることを前提として、先住民の権利も認める、という態度であるようにみえる。 移民と先住民を対等な関係とはみなしておらず、あくまで先住民を保護対象と考えているのではないか。 もし移民と先住民が対等、あるいは移民を「住ませていただく立場」と考えるならば、英国王をオーストラリアの国家元首に据えるという発想には至らないであろう。 元首が英国王であるという事実は、オーストラリアが英国植民地として始まった国、つまりヨーロッパ系の国である、と彼らが考えていることを示している。 移民と先住民が対等の立場でオーストラリアの国を作るのならば、英国との関係を清算し、オーストラリア共和国として独立するべきではないのか。 もし将来、オーストラリアが共和制に移行して名実ともに英国から独立するならば、私もオーストラリア移住を考えないでもない。

話が逸れるが、この共和制問題は日本にも当てはまるであろう。 現在の日本が、少なくとも北海道と琉球に関しては侵略者であり、現地住民を迫害して土地を収奪したことは事実である。 法的にはともかく、倫理的には釈明の余地がない。 日本が天皇を戴く立憲君主的な体制をとり、かつ北海道や琉球の領有を主張する限り、倭人が北海道や琉球を侵略・征服したという事実を清算することはできない。 北海道や琉球を日本領と主張し、かつ、侵略ではなく先住民との対等な共生関係を考えるならば、 日本は倭人、アイヌ、琉球人、その他諸民族から成る国家として共和制移行せざるをえないのではないか。

さて Migration Museum を出た私は、さらにトラムで東に進み、Botanic Garden に到着した。 入口から少し入って地図をみると、この Garden はなかなか広いようである。 私は明後日の午前にも暇な時間があるので、その時に改めてこの Garden を訪れることにして、今日は南方にある姫路庭園に行くことにした。

トラムで Adelaide Railway Station に戻り、South Terrace 行きに乗り換えて南に向かった。 トラムを降りてから東に広がる公園の中を、東に進んだ。 前を歩いていた現地人らしき二人組が、急に慌てて走り去り、脚を盛んに振り始めた。 みると、地面の上を無数の小さな黒点が高速で動き回っている。昨日紹介した、ミナミアリの大群である。 どうやらミナミアリに戦慄し遁走するのは、私だけでなく、現地人も同じであるらしい。 おそらくミナミアリは、獲物を発見すると大量の仲間を呼び寄せ、しかも移動速度を上げることで、短時間のうちに獲物を処理するのであろう。 この能力の獲得により、ミナミアリは南方大陸の過酷な自然環境において少ない獲物を確実に収穫でき、生存競争を勝ち抜いたものと思われる。

少し歩くと、今度はミナミアリよりもずっと小さな、よくみなければ頭胸腹の三部構造を有することも確認できないような、小さな蟻をみかけた。 これもミナミアリと同様に、普段の動きはそれほど速くないが、いざとなると群集を成して高速移動するようである。ミナミワイショウアリと呼ぶことにしよう。 公園には、ネコジャラシのような、しかし穂の形が少し違うような植物が生えていた。ネコジャラシモドキである。

しばらく東に歩くと、なにやら日本風な門がみえた。あれが姫路庭園であろう。 門をくぐると、なるほど、確かに和風の趣のある小さな庭園であった。 基本的にはオーストラリアの在来植物を使い、日本庭園を造ったようである。 桜や椿のような木もあったが、これが日本の桜や椿と同じものなのか、類似した現地の植物なのかは、知らぬ。 日本の植物を持ち込むことの危険性を考えれば、形のよく似た現地の植物なのだろうと思われる。 ただしソメイヨシノに関しては生殖能力が失われていることから、理屈としては安全にオーストラリアに持ち込むことは可能であろう。

庭園を出た私は South Terrace からトラムに乗り、Victoria Square で降りて Central Market に向かった。 土産用にジャムを 3 瓶、計 27 ドルをクレジットカードで支払った。 また早めの夕食に Paella, Large Size を 16 ドル、クレジットカードで支払ったのだが、 どうも渡されたものは Small Size のように思われる。 というのも、この店の Paella 用容器は深いものと浅いものがあるようであり、私が渡されたのは浅いものに一杯のパエリアだったのである。 ウーム?と思いつつ、私は国内外を問わず、こういう時に何も言わない主義なので、黙って食べた。 が、他の客の様子をみるに、私のものは Small Size で間違いないと思われる。 たぶん、私の体格が現地人に比して小さいので、こやつが Large Size を食べるはずがない、と思い込み、うっかり小さい方に盛ってしまったのであろう。

Central Market から北に出て、宿まで歩くつもりであった。 ところが、この market は非常に対称性の良い形状をしているために、私は誤って南に出てしまったらしい。 そして東に進んでいるつもりが、実際には西に進んでいたようなのである。 道を誤っていることに気づいた私は、改めて北に向かった。 すると、Central Market の西のあたりで唐人街 (いわゆる中華街、chinatown) に至った。 アデレードに中華街があることは知っていたが、それが、どうやらここであるらしい。 この区画では簡体字中国語の看板が多く、英語併記されていることも、されていないこともあった。 私は、外国で中国人街であるとか、日本人街であるとか、そういう区画を形成するべきではないと思う。 慣れない異国の地で、同郷の者同士の互助組織を作るのは結構であるが、それは現地に融け込むためのサポートに徹するべきである。 異なる言語を使う、異なる民族のコミュニティ、地区を作ってしまえば、それは現地社会の分断につながる。 母国と同じような文化、同じような様式で暮らしたいと思うなら、移民などするべきではない。 オーストラリアに住むと決めたなら、オーストラリアの社会に融和し、そこに僅かな中華風あるいは和風の香りを添えるに留めるべきである。

一旦、宿に戻ってジャムの瓶をしまった私は、再び街に繰り出した。 なにしろ Small Size のパエリアだけでは物足りないので、何か補食が欲しかった。 今日は金曜日であり、多くの店が夜遅くまで営業しているはずである。 と、思ったのだが、Rundle Mall の City Cross のフードコートではいくつかの店が既に閉店していた。 そこでスーパーマーケット Coles に隣接する別のフードコートに行き、ベトナム料理店で Katsu Chicken の Banh Mi 11.5 ドルを現金で購入した。 Katsu Chicken というのは、私の理解が正しければチキンカツのことである。Katsu なるベトナム語は存在しない。 オーストラリアにおける、思わぬ日越のマリアージュであった。 店員は、人参や玉葱を入れるか、マヨネーズはどうするか、soy sauce はどうするか、など細かく尋ねてきた。 細かくカスタマイズできる方式であるらしい。私は no coriander, no chilli を依頼した。

私は Banh Mi を持ったまま、徒歩で Victoria Square に向かった。 星を眺めるためである。 せっかく南半球に来たのだから、日本やヨーロッパではみられない星空を眺めたいと思うのは自然なことである。 空が暗くなるのは日没後、19 時頃であるが、不慣れな異国の地で夜間に遠出はしたくない。 空が広がっていて、それなりに暗く、かつ治安もよさそうな近場というと、Victoria Square しか思い浮かばなかった。 普段は 17 時や 18 時に閉まる商店も、金曜日は 21 時頃まで営業しているところが多いから、夜遅くなっても人が多く安全であろう、と考えて、今日を星空の日に定めたのである。

Victoria Square に着くと、何やら催しがなされていた。曰く Halal Food Festival とのことである。 世界各地の Halal 料理を集めた催しのようである。 看板によれば、トルコ、イタリア、エジプトなど様々な料理が出店されているらしく、 特にパレスチナ、トルキスタン、などの名が私の関心をひいた。 なお、日本の名は出ていなかった。 本来、日本料理は halal との相性が良いと思うのだが、こういうところで japanese が出てこないところに、日本の排外主義、海外文化との融和性の低さが感じられる。 私は空腹のままここに来なかったことを後悔しつつ、まずは手に持っていた Katsu Chicken Binh Mi を食べた。

私は既に満腹であったので、出店している屋台を一通り眺めた後で、アイスクリームだけ食べた。 1 scoop 7 ドル、2 scoop 9 ドル、3 scoop 10 ドル、とのことである。 この値段設定では、3 scoop にしなければ損な気がしたので、私は vanilla, mango, chocolate の 3 種を注文した。クレジットカード払いである。 なお、実際には 1 scoop 目は 1.5 scoop ほど盛られるようである。 カップとコーンとが選べるようであるが、私はカップにした。

Halal Food Festival であるだけに、イスラム風の服装の女性が多い。 普段あまり街中でみかけないような、スカーフだけでなく体をしっかりと隠した重装備の女性も多い。 男性諸君は、そうした女性にぶつからないよう、充分な宗教的配慮をもって行動すべきである。

会場にはイスラム的な歌が大音量で流されていた。 私は歌詞を聞き取るのが日本語でも英語でも苦手なのだが、アラビア語の歌で「神に称賛あれ」と連呼している部分だけはわかり、嬉しくなった。

Halal Food Festival が行われていたのは、Victoria Square の北半分である。 この会場は多くの照明により明るく保たれていたが、それでも暗くなった南の空には 3 個の星がみえた。 2 個は南東方向の互いに近い位置にある星であり、もう 1 個は南西の空にある。 アイスクリームを食べ終えた私は、Square の南側に移動し、空を見上げた。

Victoria Square の南半分には疎な木立がある。周囲の建物や信号からの明かりがある程度遮られ、市街地の中では、空を眺めるに適した場所と思われる。 私は南の空をみあげ、この地が概ね南緯 35 度であることから概算して天の南極の方向を推定した。 なるほど、南極には、目印となるような明るい星が存在しない。 南極の近くには南十字があり、かつて航海者達が測位に使っていた、という話を聴いたことがある。どれが南十字であろうか。

Halal Food Festival の会場からみえていた明るい 2 個の星の少し下に、小さな三角形がみえた。 2 個の頂点は明るく、もう 1 個の頂点は比較的暗かった。 私は、南十字星がどのような位置に、どのような形で、どのような大きさでみえるのか調べずに Victoria Square に来たのであるが、 後に宿に戻ってから確認したところでは、この三角形が南十字星であった。本当はもう 1 つ 3 等星があるのだが、周囲が明るいためによくみえなかったのであろう。 南十字の近くにはケンタウロス座α星とβ星があり、南十字を探す目印になるという。これが、最初からみえていた明るい 2 個の星である。 天頂付近にも、小さな三角形や、その他の見慣れぬ星々が散らばっていた。 当然であるが、私が日本で見慣れたような星座は、この地ではみえぬ。

星を眺めてから、宿に戻るために Victoria Square からトラムに乗ったのは 19:55 頃のことである。 Festival の会場から、礼拝の時刻を伝えるアザーンが聞こえてきた。 私が以前、最後にアザーンを聞いたのは前回イスタンブールを訪れた 10 年近く前のことだと思う。 まさか、この南の地でアザーンを聞くとは、思ってもいなかった。


2025/10/02 学会 4 日目

昨日のセッション終了後、初日に私と同じセッションで発表を行ったナイジェリア出身の大学院生である B. S. Yahaya 氏と互いの研究のことについて語り合った。 たいへんに話の通じる人物であった。 氏は肝臓の放射線画像に対する数値解析を研究しているのだが、彼の研究について思うところ、特に病理学的観点から研究アイデアを伝えた。 また彼も、腫瘍の不均一性を考慮した私の数値解析法の考え方をよく理解してくれたように思う。

ところで昨日の夕食にはフォー・ボーを食べたが、その際には箸とレンゲが与えられた。 どうやら、この地では箸が広く普及しているようであり、他の客も当然のように箸でフォーを食べていた。 街中には多数のベトナム料理店があり、ベトナム人留学生に対するサポート施設などもある。 現在のオーストラリアは主に移民によって成立した国であり、こうした外国文化を受け入れて融和していくことで 自分たちの独自性を確立してきた歴史がある。 おそらく、ベトナムからすれば日本よりもオーストラリアの方が身近な国であろう。 日本社会は、ベトナム人を安価な労働力として受け入れることはあっても、その文化ごと包み込む度量には乏しいように思われる。 米国の主張する関税を巡る貿易問題に際しても、ベトナムをはじめとする諸外国と連携・協調して対応を探るという話は聞こえてこない。 この国は、また孤立の道を、自ら選ぼうとしているようである。

さて、本日は 9 時過ぎに宿を出て、CBD (central business district) と呼ばれる市街中心部の南方にある公園へ向かった。 宿の近くの Rundle Mall からトラムに乗り、South Terrace で降りればよい。 CBD は、東西南北 4 つの Terrace で区切られているようであり、概ねこの範囲はトラムやバスが無料である。 アデレードの街は公共交通が発達しているので、移動に不便はないのだが、それでも自家用車が多く、また自転車は少ない。 オーストラリアは環境問題に対する意識が高い、と考えられており、特にゴミの減量・リサイクルには熱心である。 しかし自動車の削減にはあまり熱心でないようにみえ、どういうことなのか、理解いたしかねる。

さて、私は South Terrace まで乗るつもりで、South Terrace 行きのトラムに乗った。 ついでに述べておくと、路線自体は South Terrace よりもずっと先の Glenelg という街まで存在するのだが、 現在は補修工事の都合だか何だかで、来年 1 月まで一時的に区間運休されているらしい。 その代わりに、Glenelg まで代替バスが運行されているとのことである。 私は、現在の終点である South Terrace まで乗るつもりだったのだが、City South に到着する際に車内アナウンスで terminal 云々と言っていたように聞こえた。 はて、ここが終着駅であっただろうか、と思って私は降りたのだが、トラムは、他の乗客を乗せたまま何事もなかったかのように出発していった。 私の聞き違いのようである。

このあたりには、姫路庭園なる日本庭園があるらしい。姫路はアデレードの姉妹都市とのことである。 が、私が本日訪れたのは、それよりも西にある Veale Gardens という公園である。 芝生が敷かれ、植栽が整備された公園である。 特に何があるというわけではないが、散歩には適しているので、諸君が当地を訪れた際には、ぜひ立ち寄られよ。

公園の中には、広い芝生の中に黄色い花が群生している広場もあった。 足元をみると、芝生が一部欠けて土が露出している部分を、多数の蟻が高速で歩き回っている。 その数は膨大であり、私はこれまでにこれほど多数の蟻の群集をみたことがなかった。 その歩く速さも私の知っている蟻のものではなかった。 おそらく、オーストラリアの蟻は、日本の蟻とは大きく異なる性状を持っているものと思われる。 私は、この蟻をミナミアリと勝手に命名した。 ミナミアリの一匹が、私の左足の靴に這い上がった。 私は恐怖し、左足を振り回し、爪先を大地に打ち付け、ようやく蟻を振り落とし、急いでその場を離れた。 戦闘力でいえば私の方がミナミアリよりも強いはずであるが、あの力強い動きは、私を怯えさせ遁走させるには充分であった。 黄色い花の群生地には、鳩のような大きさの、しかし首から胸、腹にかけて赤い色を呈する鳥が群れており、これを私はアカクビバトと名付けた。 また木陰の花畑には、アカクビバトよりも一回り大きな白い鳥が集合していた。シロガラスである。 アカクビバトもシロガラスも、一見、日向ぼっこをしているようにみえたが、よくみると盛んに首を上下させている。 おそらく摂食行動であり、地上を這うミナミアリなどを食べているのであろう。

はるか昔、オーストラリアとユーラシアが分離した頃には、ミナミアリとクロオオアリの共通祖先たる古代種の蟻が ユーラシア~オーストラリアに広く分布していたはずである。 大陸が分かれた後にそれぞれの大陸でそれぞれの蟻が独自の進化を遂げた。 その過程では実に多様な種の蟻が発生したのであろうが、東アジアではクロオオアリなどが、 オーストラリアではミナミアリが、それぞれ勝ち残ったわけである。 同様に、アカクビバトやシロガラスの祖先も、各々の大陸で独自の進化を遂げたわけである。 しかあしアカクビバトがオーストラリアの気候に適し、カワラバトやキジバトが日本の気候に適している、というわけではなく、 単に進化の過程で偶然、ユーラシアではカワラバトが、オーストラリアではアカクビバトが発生したに過ぎない。 実際、カワラバト、あるいはそれに酷似した鳩は、アデレードでもみかけた。 生物学をよくわかっていない人の中には、生物はそれぞれの環境に適応するように進化してきた、などと考える者がいるが、 環境に適応するよう変化する、などという機能を生物は持っていないというのが現在の通説である。 偶然によって生じる多様な個体の中から、比較的子孫を残しやすい形質が残っていく、というのが進化における淘汰圧の正体であって、 環境に適応するような進化が選択的に起こっているわけではない。 具体的に言えば、オーストラリアの環境においてカワラバトよりアカクビバトがより適応しているとは限らず、 日本のカワラバトをアデレードに放てば、現地のアカクビバトよりも強い生存力を発揮し、その生存圏を脅かす恐れもある。 こうした恐れはあらゆる生物種について存在するため、オーストラリア政府は外国からの生物の持ち込みを厳しく規制しているのである。

さて、私は 11 時のセッションが始まるまでに学会会場に行かねばならない。 公園を東方に抜けてから北に進めばトラムの停車場に着くので、そこから会場まで移動するつもりであった。 公園を出てから少し歩道を歩いているうちに、ふと、私は自分がおかしな方向に進んでいることに気が付いた。 太陽が左前方に位置しているのである。 今は 10 時頃であるから、太陽は概ね南東に位置しているはずであり、それが左前方にみえるならば、私は南に進んでいることになる。 道に迷ったのか。まぁ、海外旅行ではよくあることである。 初めてヴェネツィアに行ったとき、東に進んでいるつもりで、いつのまにか島の南端に出てしまい、太陽の位置で自分が道を誤ったことに気づいたことを思い出した。あの時は、暑い夏であった。

賢明な諸君は、首をかしげたであろう。 アデレードは南半球の街なのだから、10 時には太陽は北東に位置するのであって、それが左前方に見えるなら、自分はに進んでいることになる。 全くその通りなのだが、この時の私は自分が南半球にいることを忘れ、太陽は南に移動すると思い込んでいたので、的外れな考察をしていたのである。 それはそれとして、私は公園を東に出た後に北上しているつもりだったのだから、東に歩いていたなら、道を間違えていることには違いない。

交差点に出た。この交差点には鉄道の線路も通っているが、線路上に金網のフェンスが設置されており、どうやら現在は使われていない線路のようである。 左をみると、何やら高層ビルディングがみえる。この状況を整理して、私は現在位置を把握した。 この線路は、たぶん、現在区間運休中の、South Terrace から Glenelg に向かう路線であろう。 左にみえるビルディングは市街中心部に違いない。 つまり、ここを左折して少し歩けば、South Terrace の停車場に着くはずである。

後で地図をみて確認したところによれば、どうやら私は公園の東側に出るつもりで、誤って南側に出ていたらしい。 つまり公園内を南下しているつもりで、いつのまにか西進しており、東へ方向転換したつもりで南端に向かっていたのである。

私が停車場に着くとほぼ同時に、列車が到着した。乗客が降りて行った。 私は何の疑問も持たずに、この列車に乗り込んだ。 すると鉄道スタッフが、降りろ、というような手振りをして where do you want to go? と声をかけてきた。 私が Railway Station と答えると、反対側のプラットフォームだよ、と教えてくれた。 つまり彼は、私がトラムの区間運休のことを知らずに、Glenelg に行くつもりで乗り込んだのではないかと心配し、わざわざ私の目的地を訊いてくれたのである。

私は Railway Station の例のベトナム軽食スタンドで Grilled Chicken のバインミー 9.5 ドル (現金) を買い、 学会会場の入口外で日向ぼっこをしながら食べた。途中で暑くなってきたので、日陰に退避した。 私が会場の中に入ると、ちょうどセッション開始 10 分前のブザーが鳴った。

11 時から参加したのは Image Quantification using AI and Machine Learning というセッションである。 最初の発表者はネーデルランドの I. Sechopoulos 博士であり、深層学習を用いた X 線画像の解析についての総論的講演であった。 私の理解が正しければ、この講演は、深層学習を使うことで情報量が増える、というようなことを主張する一部の研究者に対して苦言を呈するものであった。 私が常々、一部の研究者に対して抱いている不信感をキレイにまとめてくれた講演であり、たいへんよろしかった。 当然のことであるが、深層学習は魔法の杖ではないのだから、研究者は、それをブラックボックスとして扱うのではなく、自分が何をやっているのか理解していなければならない。 深層学習で「情報が増えた」かのようにみえるのは、過去の学習データからステレオタイプに基づいて情報を付け加えているだけであって、 そのような偽情報を診療、特に診断に用いるのは言語道断であえる。 過去の症例から学んだ傾向に基づいて検査結果を補完するのは、人種や性別に基づいて個人の能力を類推するのと同様の愚行である。

ところで、この種の学会等での発表に際し、発表前に、発表者の経歴を座長が長々と紹介する場合があるが、あれはやめた方がよい。 科学的議論というものは、その内容のみによって判断されるべきであって、誰が主張しているかに左右されてはならない。 立派な経歴の発表者であろうが、単なる大学院生の発表者であろうが、それによって聴衆の態度が変わることはない。 まぁ、発表者が教授なのか学生なのかによって質問の厳しさが多少変わるぐらいはあってもよかろうから、その程度の短い紹介ならば、悪くはないかもしれぬ。

昼食には、オレンジジュースを飲み、サンドイッチを 2 個、食べた。

14 時からのセッションは Artificial Intelligence Patient Prognosis Prediction in Oncology/Radiomics であった。 学生の発表が多かったようである。 このセッションで印象に残ったのは、ある大学院生の発表に対する、Christopher White 氏の質問である。 これは脳腫瘍に対する放射線治療に関する発表であったが、氏の質問は「全ての患者に対し、投与された線量などの治療内容は同じであったのか?」というものであった。 私の理解が正しければ、発表内容では放射線治療効果の予測精度が不自然に高かったのに対し、White 氏は「単に投与線量の違いをみているだけなのではないか?」と指摘したものと思われる。 私は氏の慧眼に舌を巻くと共に、それを端的かつ婉曲に指摘する質問能力に感心した。 氏は見事な髯を蓄えた風格のある人物であり、さぞや名のある教授であろう、と思ったのだが、調べてみるとどうやらオーストラリアの Wollongong 大学の大学院生であるらしい。 冒頭で述べたナイジェリアの Yahaya 氏といい、昨日述べた Wollongong 大学の Brown 氏といい、今回の学会には優秀な大学院生が集っているようである。

16 時からのセッションには特に惹かれなかったため、会場を抜け出して散歩に出た。 Rundle Mall のスーパーマーケットやフードコートに行ってみようと思い、会場近くの Railway Station からトラムに乗ったのだが、これは Botanic Gardens 行きであった。 つまり Rundle Mall 方面には行かないのである。 私は、一駅先の Art Gallery で降りた。 近くには、どこかのタイミングで覗いてみたいと思っている Migration Museum があるのだが、それは後日訪れることにして、私は Rundle Mall に向かった。 正確に言えば、Rundle Mall の南側の Grenfell 通りに面する City Cross というショッピングモールを訪れた。 フードコートにはレバノン料理の店などもあり惹かれたが、閉店時間が近いようなので今日は避け、明後日あたりの昼に再度訪れることにした。

City Cross の近くにある Cole という大きなスーパーマーケットを訪れた。 ひとしきり眺めて思ったのは、やはり食料品価格は日本に比べて高くない、むしろ、多少安いぐらいである、ということであった。 果物類は販売単位が日本と違うので比較しにくいが、小さな林檎が 1 kg で 8 ドル、セール品なら 4 ドル、といった具合である。 肉は国産の牛挽肉が 1 kg で 16 ドル、ランプなら 30 ドル、という具合で、輸送費の分ぐらい、日本で買うオーストラリア産牛肉よりも安い。 よくわからなかったのは、ペットボトルの水の価格である。 市中の日用品店では 600 mL のボトルが 4.5 ドル程度、1.5 L で 6.5 ドル程度、飲食店では 500 mL か 600 mL ほどが 3 ドル程度が相場のように思われる。 これに対し Coles ではプライベートブランドの 1.5 L のペットボトルが 1 ドル未満と、破格であった。 これが、単なる客寄せのための利益度外視商品なら良いのだが、安全性はどうなっているのか、中身は水道水ではないのか、などがよくわからなかった。 結局私は、Cool Ridge の水 750 mL 2 本を計 5 ドルで買った。これまで何度か購入したブランドの品である。レシートには Cool Ride と印字されているが、誤植であろう。 他に、国産牛肉のローストビーフ 150 g のパック 2 個を 8.5 ドル (単価 4.8 ドルだが 2 個購入で割引)、 Tim Tam というチョコレート菓子 2 個を各 6 ドルで購入した。 100% recycled paper bag は 25 セントであり、合計 25.75 ドルを現金で支払った。 レジは日本でも普及してきたセルフスキャン方式であり、Card Only の機械が多いが、現金を使えるマシーンも少数用意されていた。

荷物を一旦、宿に置いてから、近くのベトナム料理店で夕食を摂った。 Grilled Chicken Fried Rice 17 ドル、現金払いである。いわばベトナム風チキン炒飯であり、美味であった。 米は日本で食べるものに近い短粒種であった。 過日、アフガン料理店で食べたものは長粒種であったが、当地では両方の米が広く流通しているのであろうか。 ところで注文の際、店員から「どこから来たのだね?発音からすると日本ではないかと思うのだが」と言われた。 明察である。


2025/10/01 インド洋

宿から Central Market に向かう途中、キングウィリアム通りが分岐するあたりに Charles Sturt の像がある。 彼は explorer として知られ、アデレードの街から出発してオーストラリア内陸部などを探検した、とされる。 オーストラリア連邦はブリテンの植民地が独立した国であるが、形式的な国家元首が英国王であることに示されているように、 ヨーロッパ人が作った国である。 むろん、ヨーロッパ人がこの大陸に到来する前にも、この地には人が住み、文明を形成していたのであるが、 圧倒的な軍事力の差によって先住民を駆逐したブリテン人が、ここを植民地化したのである。 この大陸に昔から住んでいた人々はアボリジニーと呼ばれていたが、この言葉には差別的な響きがあることから、 近年ではアボリジナルなどと呼ばれている。 またオーストラリア本土ではなくトレス海峡諸島に住む人々は、アボリジナルとは区別されてトレス海峡諸島民などと呼ばれる。 いうまでもなく、いわゆるアボリジナルは、それぞれ異なる文化を持つ多数の民族から成っているのであり、 「アジア人」というのと同じような大雑把な括りである。 オーストラリアの歴史では、ヨーロッパ人によるアボリジナル虐殺や、いわゆる白豪主義による同化政策が勧められた時期が長かったが、 現在のオーストラリア政府は、アボリジナルやトレス海峡諸島民の文化の保護を重視している。 が、冷静に考えれば、自分たちが侵略者であるという歴史的事実に対し、どれだけ誠実に向き合っているかは疑問である。 Charles Sturt は「探検」に向かうにあたり、現地住民の権利をどれだけ尊重したのか。 彼らの住む土地に進入するにあたり、許可を求め、対価を払ったのか。 正当な理由なき略奪や殺人は、行わなかったのか。 これらについて信頼できる文献を私は知らないのだが、Sturt より後の時代のブリテン人が彼らをどう扱ったかを思えば、 Sturt が現地住民を対等な相手として扱ったと想像するのは難しい。 その Sturt を「探検家」とするのは、侵略者たるヨーロッパ人の視点に過ぎない。 もし彼らが本当に、侵略者たる自分の立場を認め、先住民に対し謝罪するならば、なぜ今なお英国王を国家元首とするのか。 なぜ、オーストラリアの土地がヨーロッパ人のものであるかのように振る舞うのか。 彼らのいうアボリジニへの謝罪は、あくまで自分たちヨーロッパ人がオーストラリアの主人であることを前提とした上での、形式的な謝罪に過ぎないのではないか。

さて、本日の午前は特に参加したいセッションもないので、9 時過ぎに宿を出て、Metro Train で西へ行くことにした。 Adelaide Railway Station には複数の入口があるが、ノーステラスから緩やかな坂を下りていく途中にバインミーなどのベトナム風軽食を売るスタンドがある。 私はここで Roasted Pork のバインミー 9.5 ドルを買って食べた。現金払いである。 ここでは、辛いソースやコリアンダーなどを入れるかどうか選べるようなので、諸君は注文する際に No chilli, No coriander などと言えば良い。 ここで買ったバインミーをムシャムシャやりながら歩いていくのも当地では特におかしなことではないのだが、 日本で育った私の感覚では、食事をしながら列車に乗るのはあまり行儀が良くないように感じられる。 そこで私は駅入り口の坂の隅に立ったまま、食べた。美味であった。

この駅には、第一次および第二次世界大戦において軍に入隊した、南オーストラリア鉄道であっただろうか、当時の鉄道会社の社員名を書いたプレートが掲げられている。 原文では enlisted であるから、戦死者や叙勲者ではなく、入隊者、ということでよろしかろうと思われる。 犠牲者を追悼するのなら理解できるのだが、入隊者の名を掲げる感覚は、私にはよくわからない。

Adelaide Railway Station のトイレも無料であった。というより、私はこれまでオーストラリアで有料トイレには一度も遭遇していない。 この駅トイレは、Central Market でみかけたものと同様の、しきりもなく単に壁に向かって放尿する様式であった。 私は密かに、これを「雄大な南方大陸における逞しい男達のトイレ」と呼ぶことにした。 まぁ、積極的に使いたいものではない。

MetroCard の残額が 2.4 ドルしかなかったため、10 ドルを recharge した。 機械の操作手順が少し分かりにくかったが、カードをマシンに挿し込んでから buy tickets を選べば、recharge することができる。 クレジットカードの contactless 決済を使った。 駅の改札付近に案内掲示があり、駅の改札口を通る時と乗車する時の車内の 2 回、MetroCard を valide しろ、とのことである。 Adelaide Railway Station には改札機があり、Card を読み込ませるとバーが回転して一人だけ通過できるようになっている。 他の小さな駅にはこの種のゲートは設置されていないのに、この駅にだけ設置されているのは、乗降客が多いラッシュ時の不正を防止するためであろうか。 なお、運賃は 9 時以降の off-peak 時なら 2.6 ドル固定なので、Metro Card を読み込ませるのは乗車時のみでよく、降車時には何もせず下車してよい。

私が改札を通過したのは 9:57 頃であり、案内表示をみると 10:15 に Grange 行きの列車があるらしい。 その次は 10:45 とのことであるから、30 分に 1 本の頻度なのであろう。 改札内をブラブラしながら時間を過ごした。 メトロ自体はほぼ地上を走る鉄道なのだが、Adelaide Railway Station は地下にあるため、景色は良くなかった。 線路上には少しばかりゴミが捨てられていたが、だいたい日本と同じぐらいであり、格別に汚い印象は受けなかった。

Grange 行きの列車は 2 両編成で、扉の内と外に開扉ボタンがついている、ヨーロッパでよくみかける方式であった。 車内では扉の近くに非常ボタンもあり、いざという場合には乗務員に連絡できるようである。 乗客は非常に少なく、出発時点で、私の車両には計 3 名しか乗っていなかった。 赤字と思われるが、南オーストラリア政府が運営する鉄道なので、必要なインフラストラクチャーとして税金が投入されているのであろう。 鉄道は非電化であり、hybrid と車体に書かれていたことから、ディーゼルエンジンと電気モーターを併用しているものと思われる。

車窓から外を眺めると、落書きが目立った。 が、よくみると、落書きは主に列車内からみえやすい場所になされており、沿線の民家の壁などはほとんど綺麗である。 つまり、ならず者たちも彼らなりの節度をもって落書きしているのであろう。 悪事には違いないのだが、完全な無法者というほどではないようである。

さて、私の目的地である Grange というのは、メトロの終着駅の一つであって、海辺の街である。 列車を降りた私は、駅から西に向かえば海がある、というだけの情報を頼りに歩き始めた。 とにかく西に行けばよいのだから簡単な話であるが、注意すべきは、私が南半球にいるという事実である。 太陽は東から昇り、北に至り、西へ沈むのである。 このことを忘れていると、西に向かうつもりで東に進む、という珍事が起こりかねない。 見知らぬ国の見知らぬ街を、地図も時計も持たずに歩くことに抵抗を感じる者もいるかもしれないが、 かつて「西に進めばインディアスの地があるはず」というだけの情報を頼りに大西洋へと出航したジェノヴァ人のクリストバル・コロンに思いを馳せつつ街を歩くのは、楽しいものである。

私は、特に迷うこともなく海岸にたどり着いたので、拍子抜けした。 そこには Grange Jetty という突堤があり、ちょっとした観光・散歩コースになっているらしい。Grange Jetty Cafe なるカフェもあり、多くの人が屯していた。 この突堤は木造であり、上を歩いて先端まで行けるようになっているが、足元の板と板には隙間があり、小物が上着のポケットからこぼれたら海にまで落ちてしまいそうである。 先端に向かって歩き始めてすこし経つと、向こうから帰ってくる老夫婦らしき二人とすれ違った。morning. と挨拶をした。 私は、この突堤を 1/3 ほど歩いてみたが、風は強く、海も深そうであった。もし間違って落ちたら、死ぬのではないか。宿の鍵を海に落としたら、面倒なことになるのではないか。 高所を恐れ泳ぎもできない私は、ふと我に返り、こんな怖いものを我慢してまで、無理に先端まで行く必要はないのではないか、と気づき、 「とんだクリストバル・コロンであるな」と思いながら引き返した。 先ほどすれ違った老夫婦は、自分たちの後を追うかのように引き返してくる東洋風の男をみて、不審に思ったかもしれぬ。

海辺には様々な植物が生えている。 特に目を惹いたのはタンポポのような背の低い花であるが、よくみると花の形も葉の形もタンポポとは異なる、未知の植物であった。 オーストラリアの固有種であろう。

私は突堤から垂直方向に、海岸線に沿って砂浜を歩いた。 海辺で遊ぶ家族連れや、2, 3 人のサーファーの姿がみえた。 風が強く、寒かった。 砂浜には、波に運ばれてきたのであろう貝殻が多数、散乱していたが、ゴミの不法投棄はほとんどないようであった。 なお、この海岸に立てられていた当局の看板によれば、 「誰にでも、この場所を楽しむ権利がある」ということで、犬にもリードから放たれて走り回ることが許されているらしい。 ただし、他の人や荷物に近づくことは許されておらず、そうした躾がなされていない犬はリードでつながなければならないとのことであった。

海自体は、緑色の、ごく普通の海であった。 私の目にはみえなかったが、水平線の向こうにはインド、アラビア、アフリカがあるはずである。 たぶん、かつてブリテン人がこの地に至るよりも何百年も前から、海を越えてやってきた、そして祖国に還ること能わなかった、インド人やアラブ人もいたのであろう。 未知の土地を発見する喜びは、おそらく我々科学者が日々追い求めているものと近いのであろうが、それを報告できぬ苦しみは、あまり想像したいものではない。

砂浜を少し歩いた私は、Grange の駅に戻った。11:25 頃のことである。 列車の時刻表も、次の列車の案内表示も、駅にはなかったのだが、ボタンを押すと音声で次の列車時刻を案内してくれる装置が設置されていた。 音声のみ、というのは、これまでにない経験であった。

11:47 発の列車に乗り、私は Adelaide Railway Station に向かった。 Grange 駅を出てすぐのところに、Charles Sturt Avenue なる小さな通りがあった。

学会会場に着いたのは 12:10 頃である。 メールをチェックすると、私が以前に応募した、研究助成金つきのとある研究奨励賞の受賞が決まったという連絡が入っていた。 その受賞通知自体を私は現時点で直接確認していないのだが、事実であるならば、たいへん喜ばしい。 賞自体は重要ではないが、私が学位取得後に研究に専念するための学術ポストを狙うためには、研究のための外部資金獲得実績が必要と思われるからである。 論文の数だとか、インパクトファクターだとか、賞だとか、そういうもので科学者を評価するのは下劣でくだらないのでやめるべきだと思う。 私としては賞などに応募しない方が気分は良いのだが、すでに二度も戦いに敗れている私は、そこで我を通せる立場にはない。苦渋の決断としての応募が、通ったのである。

ついでに書くと、昨日、私は日本学術振興会の特別研究員 (D2) の不採用通知を受けた。 それも、評点としてはほぼ最低点の評価であった。 つまり学振のセンセイ方の判断として、私の研究はオリジナリティが乏しく、背景や今後の展望が不明瞭であり、学術の将来を担う優れた研究者となることを期待できない、と判定されたわけである。 いくら何でも、そこまで酷い申請書ではなかったと思うのだが、思い当たるフシはないでもない。 私の研究は、私のこれまでの工学部や病理医としての学識・経験に基づいて、私が発案し、一から私が始めた研究であって、研究室として既に動いているプロジェクトとは無関係である。 また着想自体が先行研究と大きく異なっているし、平たく言えば「病理診断を臨床医療から追放する」という、重大なパラダイムシフトを狙っている。 あまりに話が大きすぎて、普通に考えれば、博士課程の学生が行う研究としては現実味が乏しい、といえなくもない。 科学の歴史に残っている偉大な研究のうち少なからぬものは大学院生の手によって行われてきたのだが、そのことを審査員のセンセイ方は知らないのかもしれない。 私からすれば、この種の研究を行うにあたり、病理専門医であり工学にも情報処理にも通じている私以上の適任者はいないであろうと思われる。 実際に私は、これが本当に実現可能であることを示唆するだけの結果を既に得ているのだが、私の理論を査読者に理解できる形に整えるのに苦戦し、まだ論文掲載には至っていない。 このあたりの事情に加え、私に大学院中退歴があること、年齢が 40 を超えていることから、おそらく学振の審査員は、私を妄想癖に呑まれ大言壮語するだけの学生と判断したのであろう。 彼らの慧眼が正しく私が本当に無能な医者崩れなのか、それとも彼らのフシアナが日本の学術界から有能な芽を摘もうとし、しかし摘みきれないでいるのかは、いずれ歴史が明らかにするであろう。

さて、会場で昼食のサンドイッチや中東風羊肉包みを食べた後、14 時からは Brachytherapy すなわち小さな放射線源を用いる治療法のセッションに参加した。 なお、この「中東風」という表現に、彼らの中東への無関心が表れている。 これは日本や朝鮮あるいは中国の料理を「東アジア風」とまとめるようなものであって、現地文化に対する無理解を象徴する表現である。

前立腺小線源療法における線量分布の不確かさをモンテカルロ法で評価したオーストラリア報告は面白かったが、もう少し理論的な部分の説明が欲しかった。 また、スライドや発表技術の手を抜いているようにみえたのは遺憾であったが、研究内容自体は魅力的であった。 二番目の、前立腺小線源療法の放射線源の位置を光ファイバーを用いたシンチレーターで正確に測定する手法についての報告は、私は好きである。 スライドの文字が多すぎ、マシンガントークで話の流れもよくわからなかったが、研究自体は面白い。 これに対し「線源の位置が多少不確かでも、結局、線量分布があまり変わらないなら、臨床的にはどうでもいいのではないか」という野暮な指摘が会場から発されたのは遺憾である。 臨床のことだけ考えるとそうみえるかもしれないが、こういう、一見して役に立たないかもしれない技術が、思わぬ発見につながるのこともあるのが科学なのである。 ただし、この「臨床的には意味がないのではないか」という疑問の意味での a kind of "so what?" という表現は、面白かった。 他の発表については、ここでは言及しない。 ただ、このセッション中に気づいたのだが、英語が流暢であるかのようにみせる一種のテクニックとして「語尾を無闇に上げる」話し方をする者が多いように思われる。

Afternoon tea の時間に、私は 1 個の林檎をかじり、水を飲んだ。

16 時からは Artificial intelligence and image segmentation のセッションであった。 これは 90 分の枠に 9 人の発表者が登場する過密セッションであり、しかも各発表者が時間超過気味に話すので、質疑応答の時間がほとんどとられなかった。 発表に際しての最低限のルールとして、時間は守るべきである。 いわゆる AI を使う放射線画像セグメンテーションについての臨床試験である LOCATOR 試験の紹介は、面白かった。 この分野で、いわゆる evidence based medicine の考え方が置き去りにされている現状に反発する研究である。 何を主張したいのかわからない発表もいくつかあったが、超音波画像のセグメンテーションのために Feature Pyramid Network (FPN) を使った報告も良かった。 理論的な部分の説明がもう少しあれば、なお良かった。それがないと、発表者がどういうつもりでこの手法を採用したのか、さっぱりわからない。 最も面白かったのは、オーストラリアの University of Wollongong の大学院生である Rhianna Brown 氏の発表であった。 前立腺のセグメンテーションについて、STAPLE 法による Consensus segmentation を基準として評価する場合、STAPLE 法に用いるデータの数によって 誤差の評価値が大きく変わってしまう問題に対する取り組みである。 研究内容自体も問題意識が明確でよく考えられていることに加え、発表技術、話し方が、今回の学会で私がみた中では一番巧かった。

セッション終了後、私は宿と会場の中間点にあるベトナム料理店でフォー・ボー、すなわち牛肉入り米粉麺を食べた。18 ドル、現金払いである。 美味であったが、少し量が物足りなかった。 宿から少し東南東の方に散歩した。雨が降ってきた。 そのあたりにスーパーマーケットがあるはずなのだが、発見できず、宿に戻った。 途中で Dumpling 100 なる店に寄り、鶏肉と海老の餃子 8 個入り、soy sauce つき 11 ドルの現金払いであった。 私は具を選べることを知らなかったので応対に手間取った。 最初に私は 10 個、と言ったのだが、具をどうするか云々のやり取りをした後で「8 個だっけ?10 個だっけ?」と訊かれて 8 個と答えてしまった。 というのも、"8 or 10" という言葉が「エイチ or テン」と聞こえ、よくわからないままエイチと答えたのである。 まぁ、疲れていたのであろう。


2025/09/30 学会 第 2 日

8 時頃に起床し、9 時前には宿を出た。 本日の通常セッションは 11 時開始なので、その前に Central Market で朝食を調達することにした。

ところで、この地における信号の挙動は、日本におけるものとは、いささか異なる。 日本の歩行者用の信号は、青が点滅を開始してから赤に変わるまでの時間が短いために、 青信号をみてから横断歩道を渡り始めても、途中で赤に変わってしまうことが珍しくない。たいへん危険である。 ここアデレードの歩行者用信号は、青になってからすぐに赤の点滅もしくは黄色のカウントダウンに変わるが、 このカウントダウンは 30 秒も続くし、赤の点滅も同程度に長時間、続く。 従って、青信号をみてから渡り始めれば、まず間違いなく、赤に変わる前に渡りきることができる。 日本でも、この信号方式を導入すべきだと思う。

今日は火曜日であるため、Central Market のほとんど、あるいは全ての店が営業していた。 全体をゆっくりみてまわると、値段の仕組みが分かってきた。 果物や肉の値段は、日本と比べて大差ないか、ものによっては日本よりも安い。 すなわちオーストラリアの食料品全般が日本より高いということはない。 また空港から市街地までのバス運賃が 2.6 ドル程度であったこと、 ホテルの宿泊費も一泊 100 ドルほどで立派な部屋に泊まれることなどを考えると、 全体的な物価は日本と同程度であると考えてよかろう。 ところが飲食店に入ると、インド料理店でビリヤニが 19 ドルなどと日本より高めの値段設定であるし、 ミートパイ 7.15 ドルだとか、ケーキ 1 個が 9 ドルだとか、日本よりも高めの食品も市場には並んでいる。 おそらく、未加工の食品は高くないのだが、人の労働が費やされて製造される物品には、 その労働者の賃金が著明に反映される結果、高い値段が付されるものと思われる。 すなわち、オーストラリアでは日本よりも賃金が高い分、人の労働が詰まった商品は高価なのである。 この理屈から考えると、オーストラリアの輸出品目は農産物や鉱物などが主体のはずである。 これらの産品は少ない労働力で生産されるために安価に輸出できるが、 工業製品、特に重工業製品などは、労働者の人件費が高い分だけ高価になり、輸出しても日本や欧米との競争で圧倒的に不利になる。 実際のオーストラリアの輸出品目を確認してはいないが、たぶん、この推測は正しい。 そして、このように賃金を価格転嫁する形で労働者の収入を増やし、国内総生産の値を増やすことは、日本においては困難であることもわかる。 資源が乏しく、労働を売るしかない日本では、この方式で工業製品の物価が上がると、輸出して海外市場で競争することが困難だからである。

そのようなことを考えながら Central Market をブラブラした後に、私は Becon and Egg Brioche 9.5 ドルを購入し、飲食コーナーで食べた。 支払いはクレジットカードである。 現金払いもできるのかもしれないが、どうもクレジットカード払いが当然であるかのような雰囲気であったため、ローマ人に倣ったのである。 店によっては、クレジットカード払いの場合は決済手数料 1.2% を頂戴するが、代わりに現金で払うこともできる、と掲示しているところもあった。 日本では、クレジットカード会社側の規定によって、決済手数料を徴収することが禁じられているらしいが、独占禁止法上の問題があるように思われる。 このオーストラリアの店のように、手数料を顧客に転嫁するのが適切であろう。

ところで、私はブリオッシュがいかなるものであるのかを、正しく理解はしていない。パンの一種である、というぐらいの認識であった。 番号札を渡され、席で待っていると、よくローストされた状態のベーコン卵ブリオッシュが運ばれてきた。 なお、注文時にソースはどうするか、バーベキューソースか?トマトソースか?と訊かれ、私はトメイトゥと答えた。 が、後から思うと、オーストラリア式英語ではトメイトゥではなくトマートゥの方が適切であったような気がする。 まぁ、Central Market は観光地でもあるようなので、店員氏も日本訛りの英語には慣れているのであろう。 私はトマトソースなるものがいかなるソースであるか知らずに注文したのだが、運ばれてきたものをみると、我々が普段トマトケチャップと呼んでいるものと酷似するソースであった。

この Central Market にはトイレがある。 オーストラリアの他の都市のことは知らぬが、少なくともここアデレードでは、この種のトイレは無料である。 商業施設のトイレがしばしば有料であるヨーロッパとは対照的である。 私は、清潔なトイレを維持するための費用は利用者が負担する、というヨーロッパ方式が合理的であると思うのだが、利用する側のことだけでいえば、無料トイレはたいへん助かる。 なお、この Central Market の男子トイレは恐ろしいことに、仕切りもなく、単に壁に向かって放尿するという古式ゆかしいトイレであった。 日本でも 30 年ほど前にはこのようなトイレがあったような気もするが、近年ではとんとみかけない。 これがオーストラリアなのか、自然の中で生きる逞しい人々の姿なのか、と思いつつ、動揺を隠して放尿していると、 後から入ってきた人々は当然のような顔をして個室に入り排尿を始めた。 何のことはない、この壁に向かって放尿するスタイルには、現地人も辟易しているのであった。

Central Market から出ようとすると、雨が降っていた。 オーストラリアは雨が少なく、それ故に農地の拡大は土地そのものではなく、灌漑能力によって制限されているものと思われる。 とはいえ、アデレードのような平野部では、それなりの降水量があるものと思われる。 あいにく傘を宿に置いてきてしまったので、少しばかり濡れながら宿に戻った。 歩いているうちに、雨足は弱くなった。

宿に戻ったのは 10 時 30 分頃である。 宿から学会会場までの最短経路は安全な道であり、10 分程度で到着できることを既に知っている。 時間の余裕は充分であった。

11 時からのセッションの前には morning coffee の時間があり、洋梨や林檎といった果物が提供されていたが、私は食べなかった。 セッション開始まで少し時間があるので、ポスター発表を眺めようかと思ったのだが、e-poster の端末が少なく、空きがなかったので諦めた。 近年では、従来のポスターセッションのように紙に印刷したポスターを掲示する方式ではなく、 PDF か何かのデータを大きなモニタに表示する形式の e-poster が普及しつつあるらしい。 この方式は、ポスター印刷・運搬の手間が省ける、掲示の場所が少なくて済む、という利点があるものの、 全てのポスターを全てサラリと眺め、興味があるものだけを詳しくみる、という形式での閲覧を行いにくいという問題がある。 また、ポスター発表者と訪問者の間での討論も行いにくいという問題がある。 その対策という意味もあるのだろうが、訪問者はポスター発表者に e-mail でメッセージを送れるようなシステムが搭載されていた。 私は、関心のあるポスターの発表者に対し、能うならば貴君の発表内容について議論したい、という旨のメッセージを送ったのだが、9/30 22 時現在、返信がない。

11 時からは AI LLM and workflow というセッションに参加した。 AI というのは、artificial intelligence, 人工知能という意味である。人工知能という語の正確な定義については、キチンと認識していない者が多いように思われる。 「人間のような意思決定を行うことのできるプログラム」というような表現をされることが多いように思うが、何をもって「人間のよう」であるとするのか。 いわゆる人工知能と、単純な加減乗除の演算を行うプログラムとの間に、何か線引きはあるのか。 私の考えでは、知能と呼べるようなプログラムは現在の科学においては実現しておらず、世間で人工知能と呼ばれているものは単なるパターン認識・解析に過ぎない。 それを、研究予算を獲得したい者や、商売に活用したい者が、誇大に宣伝する目的で「人工知能」と称しているのが現状なのではないか。 また、LLM というのは large language model のことであり、我々が普段使うような自然言語を処理する大規模な深層学習系のことをいう。 ChatGPT などは、正確にいえば、この LLM にチャット型式のインターフェースを付したもの、といえるであろうが、ChatGPT そのものを LLM と表現する者も少なくない。 この LLM を科学技術、たとえば放射線治療などに活用できないか、という観点から研究をしている者も少なくないようであるが、 どのように活用するのか、その活用にどのような意義があるのか、という点がはっきりしない。 流行だから、使ってみる、という学術的でない発想で行動している者が多いと思われる。

セッションが始まる直前に、林檎をかじりながら入室・着席した婦人がいた。 日本では、林檎をムシャリとしながら着席するのはたいへん不躾な行為であるように思われるが、そのあたり、オーストラリアや欧米は寛容であるように思われる。

昨日も書いたが、この世界大会である国際学会において、発表者の技術はあまり高くはない。 原稿を読む発表者が多すぎる。 手元のコンピューターに映されているのであろう原稿を凝視するばかりで一度も視線を上げない者、 ときどき 0.5 秒ほどチラリと聴衆の方をみるだけの者、手元のコンピューターとスクリーンの間で視線を往復させるが我々聴衆の方はみない者、これらがほとんどを占める。 聴衆をみて話せる者は稀である。 また、図中の文字が小さく、たいへん読みにくい者が多い。 たぶん、Excel か何かで作った図をデフォルト設定のまま貼り付けているのであろう。 聴衆に自分の考えを伝えたい、という意志が感じられない。 スライドの字が多すぎる者や、流暢な英語を話しているようにみえて、緩急や抑揚が乏しく、何を伝えたいのかわかりにくい者も多い。 諸君は一体、何のためにここに来たのか。我々に伝えたい何かがあったのではないのか。 それを伝えるための最善の手段を工夫した結果が、これなのか。 一体、どういう了見なのか。

11 時 45 分からは AI in imaging というセッションに参加した。何がしたいのか全体像がよくわからない発表が多かった。 Dynamic PET-CT の画像を深層学習で画質向上させる研究は、深層学習が抱える本質的問題、つまりステレオタイプに基づく判定を行いやすくなるため 診断用途では非典型例に対する誤診の恐れがあることを触れていない、もしくは認識していないようであった。 X 線透視の際の患者が被曝する放射線量を推定する研究は、何のためにやっているのかよくわからなかった。その線量を仮に正確に推定できたとして、それをどう使うのか。 4D PET-CT セグメンテーションの研究は、何をしたかったのかよくわからなかった。なぜ U-Net を使ったのかも、理解できなかった。

12 時過ぎにセッションが終わり、企業展示や e-poster のある部屋で、昼食として teriyaki chicken を小麦粉らしき生地で包んだものや、サンドイッチ、水やオレンジジュースが提供された。 これは学会参加費に含まれたもののようなので、倫理的問題なく食べることができる。 営利企業からの差し入れ弁当付きシンポジウムは、別に開催されているようである。

外では、雨が激しく降ったり、晴れたり、天候が忙しかった。

12 時からは Dose Audits in Diagnostic Imaging というセッションに参加したが、場違いであった。 あまりに分野が違いすぎて、全くわからないし面白くなかった。 というより、学術ではなく政治的、法制度的な話であって、何を議論しようとしているのかもよくわからなかった。議論というより、広報目的なのだろうか。 私は途中で退出した。

セッションの合間に afternoon tea の時間があり、私はバナナを一本食べ、水を飲んだ。 日本でよくみかけるものよりもやや青いバナナであり、少し硬い。 これが本来のバナナであり、日本で普及している甘くて黄色いバナナは米国かどこかの企業が広めた、 いわば不自然なバナナであったと記憶している。 どちらを好むかは、意見が分かれるであろう。

16 時からは endoscopy and robotic surgery のセッションに参加した。 手術の際に用いるトレーサーとしてγ線放出核種ではなくβ線放出核種を使うという、ローマ大学 Sapienza の Riccardo Milabelli 氏の発表は面白かった。 統計処理の部分で気になる点があったので、後でメールしようと思う。 なお、発表の本質とは関係ないが、手術中に測定している様子の写真において、測定者の鼻がマスクに覆われず露出しているのが衝撃的であった。 他に、上部消化管内視鏡にアタッチメントを付けて 360 度パノラマ撮影を試みる研究は装置の大きさ、つまり検査時の患者の苦痛について言及がないのが気になった。 他の発表は、何をしたいのか、全体像がよくわからなかった。

17 時過ぎに会場を出て、西に向かって少しあるいてみた。 南オーストラリア大学や、アデレード大学の建物があった。 少し歩くと、市中心部の西端、ウェストテラスに着いた。 日も暮れかけていたので、ここからトラムで戻ることにした。

アデレードのトラムは、市中心部に無料エリアが設定されている。 私が乗った Royal Adelaide Hospital は無料エリアに含まれているので、他の乗客の真似をして、Metoro Card のタッチなどもせずに単にトラムに乗り込んだ。 どこで降りるか決めていなかったのだが、宿の近くの Rundle Mall で降りた。 Rundle Mall というのは、華やかな商店街である。 ここで何か夕食を摂ろうかと思ったのだが、特に惹かれる店がなかったので、一昨日に訪れたアフガン炭焼き料理店に行くことにした。 一昨日に通った道のはずなのだが、なぜか、目的の店がみあたらない。 しばらく歩くうちに、どう考えても通り過ぎている、と気づいた私は、道を引き返した。 ひょっとすると、カンガルーに化かされたのかもしれぬ、と思ったのだが、戻る途中で無事に目的の店を発見した。 ラムのケバブプレートを食べた。31 ドル、現金払いである。 ラムの串 4 本とフライドライスであり、ボリュームたっぷりであった。美味であったが、串は 3 本で充分だった。 もしかすると、これは一人で食べることを想定されていないメニューなのかもしれぬ。


2025/09/29-2 リハビリテーション

私が携帯電話の類を今回の旅行に持ってきていないことは先に述べたが、実は私は時計も持ってきていない。 普段から腕時計は使っていないし、懐中時計はしばらく前に壊れたままである。 なので正確な時刻の把握は困難であるが、まぁ、割となんとかなっている。

13 時になると、企業の出展ブースが設けられているホールの扉が開かれ、ここで軽食も提供された。 私は午後に発表があるので、食事は控えた。

私はこれまでに、海外学会での発表経験は 3 回ある。 初回はロシアのオブニンスクで開かれたロシア語主体で一応は英語通訳もつく小規模な学会であった。 二回目はスイスのインターラーケンで開かれた 2008 年の Physor という原子炉物理学の学会であり、 三回目は米国のピッツバーク、2010 年の Physor であった。 この他にフランスのマルセイユで開催された ANIMMA という学会に、観光ついでに私費で参加したことがあるが、この時は発表なしであった。 つまり私にとって、今回の学会発表は 15 年ぶりの海外発表であった。 長いブランクがあったので、はたして、まともに話すことができるのか、リハビリテーションのつもりであった。

この学会では、最大 12 のセッションが同時進行する。 私の発表は 16 時からのセッションで、地下の 6 番会場であった。 私は会場の雰囲気に慣れる目的で、14 時から同じ会場で開催された、私にとっては専門外の分野の発表を聴きにいった。

ところで、今回の学会は世界大会であり、規模は大きい。 ただし、規模が大きいからといって、必ずしも発表の質が高いとは限らない。 これは発表する内容についてだけでなく、発表技術についてもいえる。 遺憾なことに、ただ原稿を読むだけの発表者が稀ではなく、もはや技術云々以前の問題である。 規模の大きさと質の高さは別の問題だ、と気づいたことで、私の気持ちは楽になった。 今回の学会参加者の中では、発表技術も発表内容の水準も、たぶん、私はかなり高い方である。 研究するとはどういうことか、発表するとはどういうことかを、日本で後進の若い学生諸君にみせるのと同じように、今回の学会参加者諸君にみせればよいだけのことであった。 会場の反応から考えるに、私の発表は、なかなかの高評価をいただけたものと思われる。 リハビリテーションは成功であった。

最も感心したのは、マレーシアから参加した某氏による、肝細胞癌の画像診断法についての研究発表であった。 専門分野が多少異なる相手を想定し、丁寧な説明とわかりやすい言葉の選択がなされており、高い発表技術が感じられた。

19 時から、Adelaide Oval で Welcome reception が行われた。 Adelaide Oval というのは、ラグビーやクリケットなどが行われるスタジアムのようであり、そこに併設されている屋外宴会場が会場であった。 日本から参加した人々を含め、これまでに面識のない人々などとお話しをした。 サウジアラビアで働いているというインド出身のある人ともお話をしたが、彼のインド・アラブ訛りの英語をよく理解するには、私の言語能力は不充分であった。

宴会場からの帰り道は、雨に降られた。 私は折り畳み傘を宿に置きっぱなしにしていたので、濡れながら帰路についた。 オーストラリアは雨が少ない気候のはずであるが、それなりには降るらしいので、諸君が旅行する際には気を付けられよ。


2025/09/29-1 学会第 1 日 午前

午前 8 時に起床し、身支度をして学会の会場である Adelaide Convention Centre に徒歩で向かった。 朝食は摂っていない。 日本では、ほとんど利益が出ないような価格で朝食や昼食を提供する飲食店をしばしばみかけるが、そういう店はオーストラリアを含め諸外国では稀なように思われる。 高い代金を払って朝食を摂るか、バナナ一本などで軽く朝食を済ませるのが一般的なのではないか。 私は朝食に食べるようなものを用意していなかったので、何も食べずに出かけたのである。

街は出勤途中と思われる人々が盛んに往来していた。 この地における横断歩道の挙動は、日本ではあまりみかけない方式である。 歩行者の信号が青になると、ポコポコポコ、というような信号音が鳴るので、その間に我々は道路を横断する。 日本ではカッコウ、あるいはピッポッというようなかわいらしい音を耳にするが、それに比べて急かされるような音である。 この音は日本では聞いたことがないものの、フィンランドであったかスイスであったか忘れたが、ヨーロッパのどこかで聞いた覚えがある。

キングウィリアム通りからノーステラスを西進し、アデレード鉄道駅を過ぎると会場に着いた。 会場では、自動受付機に自分の氏名を入力すると、名札が印刷された。 名札を首にかけるための紐は自動受付機の横に吊るされており、これを一本取ればよいらしい。 この紐は、これまでにみたことがない形式であった。 この種の紐は大抵、輪になった紐の一箇所に留め具がついていて名札を吊り下げることができるのだが、歩いているうちに名札が表裏ひっくり返り、 名前を隠した状態で歩いている人をしばしばみかける。 今回の会場で配布されていた名札は、この問題を解決するために、輪になっていない一本の紐の両端に留め具をつける、という工夫を凝らしている。 両端の留め具を、名札の左上と右上に掛けることで、名札が安定し、ひっくり返りにくいのである。

会場では日本人学生らしき参加者を何人かみかけた。 なぜか日本の人は、学会というとフォーマルスーツを着用し、ネクタイを結んで参加することが多い。 これは経験豊富なエラい先生よりも、若い学生に強くみられる傾向である。 しかし、これは日本独特の、特に医学関係で顕著にみられる習慣であり、世界的には全く標準的ではない。 今回の学会でも、くだけた服装の参加者が大半であった。 私は普段、大学に行く時と同じような服装で参加した。 敢えて言えば、普段は裾がボロボロになったズボンをはくこともあるのだが、これはファッションでも何でもなく、 単に捨てるには惜しく繕うのも面倒なだけなのであるが、さすがに裾が破れていないズボンを選んで持ってきた。

会場をブラブラしていると 9:30 になり、大ホールでオープニングセレモニーが始まった。 私は後方に着席したのだが、私の真後ろに座った人物がなにやら不穏な咳を頻回にしているので、少し離れた座席に移った。 COVID19 云々とは関係なしに、インフルエンザだろうが普通感冒だろうが、咳嗽があるならばマスク着用その他の配慮をするべきだと思う。

さて、オープニングセレモニーでは、何やらエラい人が登壇して何かスピーチをしていたが、あまりに退屈なので、私は 10 時過ぎであっただろうか、途中で退出した。 こういう格式ばったセレモニーを好む人が存在することは知っているが、私の嗜好には合わぬ。 プログラムによれば、オープニングセレモニーに続いて plenary presentation なるものがあるらしく、その間は通常の学術発表は行われない。 この plenary presentation というのは、誰がどうやって選んだのかは知らないが、学術的に特に重要な内容をエラい人が発表するので、 全参加者は傾聴されたし、との趣旨のようである。 が、何が重要で何が重要でないかは個々の科学者が個別に判断すべきものであって、学会だか重鎮だかが「これは重要である」などと指定すべきものではない。 私としては、その plenary presentation の内容云々以前に、plenary なるものの存在自体が、好かぬ。 そんなものを聞くよりも、アデレードの街を散策して思考に耽った方が、私の研究に新しい風を吹き込む効果が期待され、ひいては全人類の利益になるものと考えられた。 通常のセッションは 14 時に始まるらしいので、それまでに会場に戻ればよかろう。

アデレードの街には Central Market という食品店街があることを事前に把握していた。 これは会場から南方に 1 km ほど歩いたところにあるので、これを散歩の目的地にした。 地図で大体の位置は把握していたが、キングウィリアム通りを南下し、道が二股に分かれたところを少し西に行けばよい。 着いてみると、どうやらマーケットは毎週日曜日と月曜日が休みであるらしく、本日は月曜日であるために多くの店が休業中であった。 肉屋や果物屋など、一部の店舗は営業していたので、私はウィンドウショッピングに勤しんだ。 オーストラリアでは肉が安いのかと思っていたが、日本のスーパーマーケットでみかけるオーストラリア産牛肉に比べて格別に安いようにはみえない。 もっとも、ここは日本でいうデパート地下食品店街のようなものであろうから、いささか高級な肉ばかりが置かれているのかもしれぬ。 街中の、もっと庶民的な店では、肉の価格はどのようになっているのであろうか。

私は、Central Market の中で営業していたある店でミートパイ 7.15 ドルを購入し、遅い朝食または早い昼食として、食べた。 パイの中には、挽肉たっぷりのトロリとした具が入っており、たいへんに美味であった。 食べ終えた時点で、11 時頃であったように思われる。

私は宿の近くの日用品店で 1.5 L 入りの水を 6.5 ドル購入し、現金で支払った。 店員から where are you from? と聞かれ、japan と答えると、そうだと思ったよ、ハハハ、などと言われた。 詳しいことはわからぬが、どうも私の立ち居振る舞いは日本人的であるらしい。

水を宿に置いて、学会会場に戻ったのは 11:40 頃であった。


2025/09/28 アデレード散策

今回の旅行にあたり私は、自宅にあった米ドル 36 ドル分も持参していた。 これをオーストラリアドルに替えるつもりで空港を歩くと、Travelex のカウンターがあった。 が、両替レートが掲示されていない。 好みの問題であるが、この種の商売でレートを店頭に示さない商法を私は好かぬ。 それに、今回の滞在は、既に両替した 300 ドルで事足りるかもしれぬ。 そうしたことを考え、米ドルはそのまま、両替せずに持っておくことにした。

特にアデレード空港に用はないので、私はバス乗り場に向かった。 空港から市街地まではバスで移動できる、ということを事前に把握していたからである。 このバスの運賃は、どうやらクレジットカードの Contactless 決済でも支払えるようであるが、 実は私のクレジットカードが使えるかどうか、確証がなかった。 というのも、私は普段、カード決済手数料を販売価格に転嫁することを禁じるクレジットカード会社のやり口を嫌い、 可能な限り現金払いに努めていたために、日本ではオンライン決済を除きクレジットカードでの支払いをしていない。 そのため、今回持ってきたクレジットカードが本当に使えるかどうか、試したことがないのである。 そこで私は、プリペイド式 IC カードである MetroCard を買うことにした。 バス乗り場の説明を読んで私が理解したところによると、この街の公共交通手段は次のようなシステムになっている。 空港と市街地などを結ぶ路線バスは乗車 1 回あたり定額制で、peak 時は 4.5 ドル程度であるが、off-peak 時は 2.6 ドル程度である。 この他に 1-day パスとか 14-day パスとかもある。 街の中心部を巡るトラムは無料であるらしい。 MetroCard はチャージ式のプリペイドカードで、通常パスの場合、初回は 10 ドル払うとカード代 5 ドルが引かれて 5 ドル分がチャージされた状態で始まる。 私は、バス乗り場の自動販売機で、この 10 ドルの通常パスを買った。 支払いには Bank Card が使えるようであり、クレジットカードも Bank Card に含まれるようである。 私のクレジットカードは、無事に機能した。

空港のバス停からバスに乗る旅客は、あまり多くないようである。 人々は、一体、どうやって移動しているのだろうか。 私がバス停で待っていると、キャリーケースを引いたインド人風の男から excuse me と声を掛けられた。 ibis ホテルに行きたいのだが、このバスで良いのだろうか、とのことである。 彼の目には、荷物の少ない私が当地の事情に精通した人間のようにみえたのかもしれないが、私もアデレードに来るのは初めてである。 I'm sorry, I don't know... But perhaps that map may help you. と、私はバス停に掲示された路線図を示した。 しかしインド人氏は、その地図を一目見ただけで役に立たぬと判断したらしく、別のバス待ち乗客に声をかけていた。 どうも彼は文明の利器に毒されているようで、よく知らぬ街を探索する術も意欲も、私より乏しいらしい。

やがてバスが来た。ある婦人が乗車したのに続いて私も乗車し、その婦人の真似をして MetroCard で支払いを行った。 ここで問題なのが、私はどこでバスを下車すべきか、という問題である。 私は、このバスが街の中心部に行くことは知っていたが、具体的にどこに行くのかは知らなかった。 どこか適当な所で降りて、あとは歩けばホテルに着くと思うのだが、どこが「適当な所」なのか、わからないのである。 雰囲気を観察して、もっともらしい場所を推測するしかあるまい、と考え、私は窓の外の風景をじっと眺めた。 車内に案内放送のようなものはないが、旅客は慣れたもので、自分の目的地が近づくと降車ボタンを押す。 バスが止まると、そのまま降りていく。 支払いは乗車時に済ませているので、降車時には特にカードをタッチする必要はないらしい。 しばらくバスに乗っていると、どうも車窓の景色が賑やかになってきた。 バスが停車する間隔も短く、それぞれの停留所で 2, 3 人の乗客が降りていく。 このあたりであろうか、と見当をつけ、私は他の旅客に続いて降車した。 停留所の標識には D3 と書かれていた。

私は Millar Apartments という宿を予約していた。 停留所の地図をみて判断するに、私は宿の最寄バス停より 200 m ほど手前で降りてしまったようだが、大した問題ではない。 ところで私は携帯電話の類を持たずに旅行しているし、旅行用ルーターなども使用していないので、この時点でインターネットへの接続手段はない。 が、空港で Google map のスクリーンショットを準備しておいたので、特に道に迷うこともなく、宿にたどり着くことができた。

宿にチェックインしてから、付近を少しばかり探索した。 宿を出て 20 メートルも歩かぬうちに、若い男から声をかけられた。 曰く、金を貸してくれないか、あるいは両替してくれないか、とのことである。 私は no, と短く答えて立ち去った。 アデレードの街中を歩くときに油断してはならぬ、という教訓的な事例である。

宿の前の通りを東にいけば、賑やかで、ブランド品などの少しばかり高級な物品を販売する商店の並ぶ区画のようである。 本日は日曜日であるため、多くの店が休業しているらしい。 多くの飲食店も日曜日は休業のようであり、利用者としては不便であるが、社会全体としては健全であるように思われる。 昨今の日本は年中無休の店が多すぎるのではないか。 30 年ほど前であれば、スーパーマーケットなども週に一日は定休日があったが、それで良いと思う。

私は夕食を摂る場所を求めて、今度は宿から西に向かった。 このあたりはいささか行動に注意を要する区画のように思われる。 Chinese massage や Swdeish massage の店が多く、これらの店自体はいかがわしいものではないと思うのだが、 明らかに卑猥な姿態を呈する女性の写真を掲げている店も存在し、あまり上品な感じのしない区画なのである。 私は、ふと目についた日用品店に入り、ペットボトルの水を購入した。 冷蔵ケースには Cool Ridge というブランドの水が 600 mL 2 本で 6 ドル、というステッカーが貼られていたのだが、 他に飛行機の中で供された nu というブランドの水もあった。 値段がわからなかったので、店員氏に how much is this nu water? と聞くと 4.5 とのことである。 私は Cool Ridge より nu の方が高いのか、と思い、Cool Ridge を 2 本、購入した。 店員氏は 9 ドルだという。 冷蔵ケースには 6 ドルと書かれていたような気がするのだが、まぁ、いいかと思い、9 ドルをクレジットカードで支払った。 後から思えば、そもそも 600 mL などの小さなペットボトルではなく、1.5 L だか 2 L だかを買えばよかったのである。 次からは、そうしよう。

この日用品店の近くに、アフガン炭火焼き料理店と、インド料理店とがあった。 アフガン料理店の店頭に掲示されていたメニューをみると、アフガンというよりインド料理が主体のように思われた。 それならそれで構わない、と思い、私はアフガンの店に入った。 羊肉の串焼きにも惹かれたが、今日は少しばかり空腹の度合いが大きかったため、 私はボリュームのありそうな Chicken Biriyani 19 ドルと、サモサ 3 ドルを注文した。 Biriyani は、いわばインド風ピラフであり、私は週に一度の頻度で、大学近くにあるインド料理店のチキンビリヤニを食べている。 かつて名古屋大学にいた頃は大学近くのムガルパレスなるインド料理店でチキンビリヤニとモモを食べていたし、 北陸医大 (仮) にいた頃には駅近くのインド料理店でマトンビリヤニとチキンティッカをしばしば食べていた。 そのように、ビリヤニは私にとって身近な料理であるので、ここオーストラリアのビリヤニがどのようなものであるか、興味があった。 なおサモサはインド風の包み揚げであり、具はジャガイモをつぶしたものが主体である。 私が京都大学工学部二回生の時、初めて一人で海外旅行し、ドバイの空港に着いて初めて食べたのがサモサであった。思い出の料理である。

この店のサモサは、これまで私が食べたサモサの中でもとりわけ、皮が柔らかかった。 日本のインド料理店で食べるサモサは、大抵、皮が硬くパリッとしているのとは対照的であった。 これがアフガン風サモサなのか、それともこの店の特徴なのかは、知らぬ。 ビリヤニも私が知っているものとは少し変わっていた。 私の味覚では具体的にどういうスパイスが使われているのか判然としなかったが、 クローブやクミンなどの形がわかる状態のスパイスはほぼ入っておらず、しかし味はキチンと整えられていた。 イメージとしては、かつてイスタンブールの街中で、英語が通じない屋台で買って食べた鶏肉ピラフに近い味である。 ひょっとすると、カブールあたりの人々が食べるビリヤニは、このようなものなのかもしれぬ。


2025/09/28 アデレードへ

シドニーからアデレードに向かう機中にて記す。

Boeing 737-800 の 3 列 x 2 群の計 6 列座席に通路 1 本の仕様である。 私には右の窓側の座席が割り当てられた。 シドニーから一旦東の海上に出て、ぐるりと回って我々は南西のアデレード、今回の会場がある都市へ向かう。 眼下には南方大陸の広大な大地に、長方形に整えられた農地が広がっている。 オーストラリアの農産物が安いのは、この広大な農地で効率的な農業を営んでいるが故であろう。 狭い農地に労力を大量に投入する日本式農業は、いつまでも続けられるものではあるまい。

離陸してしばらく経つと軽食が供された。 生の人参スティックと、クラッカーと、あと何かが、3 区画に区切られたプラスチックケースに入った軽食である。 私はまず人参スティックを食べた。人参の味がした。 オーストラリア人の強靭な肉体は、こうした野菜によって支えられているのか、と感心しながら、食べたが、あまりたくさん食べたいものではない。 人参スティックは 6 本か 8 本ほど入っていたが、半分を食べた時点で、人参の隣の区画に入っているのがソースの類であることに気が付いた。 パッケージには●●の dip と書かれていたが、私の知らない単語であった。 人参スティックをこの dip につけて食べると、美味であった。 クラッカーも、なかなかである。

時刻は現在、シドニー時間で 9 月 28 日 15:55 である。


2025/09/28 シドニー (2)

いくつか書き忘れたことがある。

まず航空機での移動についてであるが、シドニーとアデレードの間を 2 時間に 1 本の飛行機が飛んでいる、という恐るべき事実である。 オーストラリア人には、環境負荷を軽減するという思想がないのだろうか。 シドニーとアデレードの間に、鉄道の線路自体は存在するのだが、定期便は 2 日に 1 本程度しか走っておらず、しかも所要時間は 8 時間ほどである。 飛行機であれば 2 時間ほどなのだから、とても実用的な鉄道とはいえない。 ここに新幹線のような高速鉄道を走らせれば、はるかに環境負荷の少ない、安価な輸送が実現すると思われる。

またシンガポールからシドニーまでの旅程では、最大で時速 160 km ほどの追い風であった。 おかげで対地速度が時速 1,000 km を超えたのだが、まさか帰路では、時速 160 km の向かい風になるのだろうか?

先ほどの記事で私は「現在時刻は 12:35」と書いたが、これは日本時間であった。 ここシドニーは日本との時差が 1 時間あるので、ほんとうは 13:35 であり、搭乗までの時間は 90 分ではなく 30 分であった。 危ないところであった。


2025/09/28 シドニー

シドニー空港のカンタス航空への国内線乗継ゲートの待合にて記す。

私がシンガポール空港で航空機から降りたのは、現地時刻 23:50 頃であったと思う。 翌 0:45 シンガポール発シドニー行のシンガポール航空 SQ231 便に乗り継ぐ予定であったので、あまり時間の猶予がない。 シンガポールまでの機中で乗継情報を確認したところでは、到着ゲートは T1 C1 であり、シドニー行きの出発ゲートは T2 A4 である。 ゲート間は徒歩 20 分ほどと書かれていたが、T1 から T2 へは Skytrain なる無料の無人列車が運航されているらしい。 待ち時間次第であるが、Skytrain を使うのと自身の脚で歩くのと、どちらが早いのであろうか?

徒歩 20 分なら Skytrain を使わずに速足で歩こう、と決めて、T2 A4 ゲートはどちらかしらん、と思いながらとりあえず歩き始めた。 こういう時、まず進むべき方向を確定してから歩き始める人もいるようだが、私はとりあえず歩く。 方向が間違っていることがわかったら、その時に引き返せばよいのである。 歩き始めるとすぐに、Skytrain はこちら、4 分毎の運航、との表示があった。 4 分毎なら、歩くよりも早く着きそうだ、と思い、私は Skytrain に乗ることにした。 この Skytrain には、私と同じく東京からシンガポール航空に乗ってきたのであろう、日本語を話す旅客が多くみられた。

T2 A4 ゲートに到着すると、まだ多くの旅客が搭乗せずにゲート前で屯している。 どうやら何らかの不手際があったらしく、搭乗が遅れているようである。 本日のシンガポール航空は、大変であるなぁ、と思いながら、私はゲート前をブラブラと歩き回った。

搭乗を待っている旅客の中に、60 代か 70 代ぐらいにみえる、品の良い白髪で眼鏡をかけた婦人がいた。 待合ソファに座って本を開き、ゆったりと時を過ごしていらっしゃる。 いずれ、あのような老人になりたいものである。

この便はエアバス 350-800 であっただろうか、羽田からシンガポールまで乗ったのと類似の 3 列 x 3 群シートであり、 今度は私は搭乗口から数えて 2 行目、左から 2 列目の座席であった。 私の右に座ったのはオーストラリア人と思われる巨漢であるが、しきりに鼻をすすっており、品が良いとは言えぬ。 日本では鼻をすすることを習慣にしている者も少なくないが、この行為は特に欧米では甚だ行儀の悪いこととみなされる。 下品な例えで恐縮であるが、鼻糞を食べるのと同等の行為とみなされる、と思えばよかろう。 日本においても、鼻をすする行為は特に上品とみなされているわけではないのだから、この習慣はやめるよう、意図して矯正するのがよろしいと思われる。 音を立てて鼻をかむのが憚られる場合には、そっとチリ紙かハンカチで鼻を拭えばよいのである。

私の左隣に座ったのは、宗教学者のようである。 キリスト教徒と仏教徒の云々、というような論文を開き、何かをメモしながら読んでいた。 後には、論文原稿と思われる印刷物に書き込みをしていた。ひょっとすると、学生が書いた学位論文か何かを添削していたのかもしれぬ。

我が機は出発予定時刻の 9 月 28 日 0:45 を大幅に過ぎて、1:30 頃にようやく離陸した。 シンガポールとシドニーの時差は 2 時間であり、飛行時間は 6 時間少々とのことである。

離陸して少し経った頃に軽食が供された。 four cheese pizza or mushroom pizza と問われたのだが、現時点で私の耳はまだオーストラリア英語にあまり順応できておらず、聞き取り能力がかなり低い。 さらに、four cheese pizza なるものの存在を日本のピザ屋が配るチラシで知ってはいたが、これが日本独自ではなく世界的に存在するものとは知らなかったがために 「four cheese pizza と言っているように聞こえたが、気のせいだろう」と思い、確実に聞き取れた mushroom pizza に逃げようとしつつ、しかし 本当に four cheese pizza なら、そちらの方が良い、という気持ちもあり「mushroom pizza...?」という曖昧な言葉を私は発した。 すると客室乗務員は私の心中を察知したようで「or, four cheese pizza」と繰り返してくれた。 私は four cheese pizza, please と言った。 これはイタリアの会社が作っている箱入りの一切れピザであり、特に美味ではなかった。

機中で少しばかり眠り、シドニーまであと 2 時間足らず、という頃になって朝食が供された。 スクランブルエッグとナントカとソーセジ、もしくはシンガポール風ナントカケーキ、という選択肢が提示されたように思うのだが、 あまりに複雑な言葉なので、私には肝心な部分が聞き取れなかった。 なので、かろうじて聞き取れた sausage, please と言って凌いだ。 与えられたのは、スクランブルエッグとホウレン草のソテーと一本のソーセージであった。特に美味ではなかった。

ところで、シンガポール航空のエコノミークラスの食事では、ステンレス製のフォークなどが使用されている。 それなりに鋭利な代物であるが、防犯上の重大な脅威ではない、という判断なのであろう。

シドニー空港に到着したのが何時頃であったかは、覚えておらぬ。 外気温は摂氏 20 度とのことであり、快適な温度である。

到着前に機内でオーストラリアへの動植物持ち込み禁止についてのビデオが流された。 オーストラリアは他大陸から隔離された環境で独特の生態系を保っているため、これを脅かさないよう、動植物の持ち込みが厳しく制限されている。 そのため動植物類の持ち込み有無に関する申告書の提出が義務付けられており、用紙がシンガポールでの搭乗時に配布されていた。 私はボールペンが保安検査で引っかかることを恐れ、筆記具を機内に持ち込んでいなかったため、シドニーに着いてから記入することにした。 なお機内で左隣に座った宗教学者婦人はボールペンで書き物をしていたところをみると、実際にはボールペンの機内持ち込みは問題ないようである。

シドニー空港ではパスポートコントロールの手前に、申告書の記入台があった。いささか混雑していたが、ここで私は様式に記入した。 問題なのは「オーストラリアで規制されている可能性のある医薬品やステロイド等」と「植物類、たとえば...やナッツなど」という 2 つの項目である。 私はアレルギー性鼻炎やアレルギー性湿疹治療薬としてのエピナスチン錠と、皮膚湿疹治療薬としてのグルココルチコイド入り外用薬を持っている。 また諸般の事情から日本のローソンで購入し、なりゆきで現在も鞄に入っているアーモンドチョコレートも所持している。 このような普通の医薬品や、熱処理されたナッツが持ち込み規制されているとは考えにくいが、絶対に大丈夫という自信はない。 機中で上映されたビデオでも「わからなければ申告されたし」と述べられていたし、申告書にも「はっきりしなければ yes にしろ」と書かれているので、 私は上述の 2 項目について yes と書いた。

パスポートコントロールはかなり自動化されており、パスポート読み取り機で自動的に顔写真が撮影されるシステムであった。 ところが、この読み取り機の一つが動作不良を起こしているようであり、私が捜査しても動かない。 首をかしげて、後ろに並んでいた中国人に please と言って順番を譲ったが、この中国人も、できない。 私は it seems not working. と言い、中国人も something is wrong. と言い、別の列に並んだ。 隣の機械は、特に問題なく動いた。

入国ゲートも自動化されており、顔写真が登録されているかどうかの照合が行われると通過できる仕組みのようであった。 このシステムは利用者にも便利で、不逞外国人の入出国を抑制する効果も期待できるが、顔写真を国家が管理することには議論の余地がある。 個人情報を国家に把握されない権利は基本的人権に含まれるべきである、とする立場から、私は、このような入出国管理システムには反対である。

入国ゲートを過ぎると、動植物持ち込みの申告がある者はこちらへ、という表示と共に係官が立っていた。 私が 2 項目で yes を選んだ申告書を提示すると、係官は medication? と訊いた。 自分で使う薬か?という意味であろう。私が yes, and nuts. と述べると、係官は nuts are OK. と言い、私の申告書にスタンプを捺した。 私は単に nuts と言ったのであって、チョコレートナッツだとも、加熱処理されているとも言っていないし、むろん現物も見せていない。 もし私が所持しているのが生のナッツだったらダメだと思うのだが、そのあたりの確認すらされなかった。 まぁ、私の風貌がマトモな人間で、生ナッツを密輸するような悪人にはみえないから、敢えて確認するまでもないと判断されたのであろう。

次は動植物持ち込み確認ゲートである。申告がない者は申告書を提出してそのまま通過できるようだが、 私のように申告がある者は担当官の方へまわされる。 しかし、この担当官も medicine? と訊くだけで、私が yes, and I have nuts. と言うと、OK. と述べ、確認は終わりであった。 このように、常備薬やチョコレートナッツ程度であれば申告の手間も非常に軽微なので、 自己判断で「大丈夫だろ」と考えて no で申告するのではなく、一応 yes で申告しておくことをお勧めする。 万が一、入国後に警察の世話になった場合、無申告の医薬品やチョコレートナッツを所持していると、立場が悪くなる恐れがあるからである。

ところでシドニー空港のトイレは、羽田や成田と同程度には清潔で、上質な紙も備えられているので、トイレにうるさい紳士諸君でも安心して用を足すことができる。

シドニー空港で私は両替商を探した。恐るべきことに、100 yes が 0.8 ドル、つまり 1 ドル 125 円であって、日本の Travelex よりもはるかにレートが悪い。 どうやらオーストラリア旅行の際は、日本でドルに交換してから訪れるべきと思われる。

シドニー空港では、国際線到着ロビーと国内線ロビーとが離れているようである。 が、国際線到着ロビーのすぐ近くに、カンタス航空の国内線乗継カウンターが設けられており、ここでチェックインすることができる。 私は、電源プラグの変換器をうっかり預入荷物に入れていたので、これを機内持ち込み荷物に入れ替えてから、チェックインカウンターに向かった。 ここで、私の英語のマズさが表れた。 私が予約していたのは 14:35 シドニー発アデレード行きの便であるが、12:45 分の便にも空きがあるらしく、これに変更するか?と訊かれた。 earlier flight に変えるか?と訊かれたのだと思うが、私はそのような選択肢があり得ることを知らないどころか、 そもそも「今から間に合う、早い便」などというものが存在する可能性すら考えていなかったので、何を聞かれているのかわからない、earlier すらマトモに聞き取れなかった。 で、係員が画面をみせてくれてようやく理解したのだが、特に急ぐ旅でもないので、non, non, とフランス語のような返事をした。 せっかくなので non, merci と東アジア訛りのフランス語を発揮すればよかったのだが、遺憾なことに merci が出てこなかった。 さらに、私は預入荷物 1 個、持ち込み荷物 1 個、のつもりであったのだが、これも伝わらず、全部持ち込み荷物扱いされてしまった。 これは私が航空旅客用語をよく理解していなかったから生じた誤解である。 たぶん、この業界では check-in baggage とは預入荷物のことを指すようなので、海外で飛行機に乗る諸君は、最低限、この表現を覚えておくと良いであろう。 もっとも、どう考えても持ち込めないような大きな荷物を持っていれば誤解の恐れはないのだが、今回の私のように、 荷物全部合わせても機内持ち込みできる程度の所持品しかない場合は、問題になるのである。

さて、チェックインを終えると、バスが私をどこかへ運んでくれるようである。 特に便名の表示などもないので、とにかく来たバスに乗ればよいらしい。 どこに連れていかれるのかも知らないままにバスに乗ると、国内線到着ゲートで降ろされた。 後はどこなりと、好きに行くがよい、ということであろう。 私が乗るカンタス航空 QF739 アデレード行きは 14:35 にゲート 8 から出発とのことである。 ゲート付近の店を眺めると、500 mL のペットボトルの水が 6 ドル、エッグマフィンが 10 ドル、ハムチーズクロワッサンが 15 ドル、といった具合であり、 1 ドルが 100 円程度と考えると、かなり高い。 これがオーストラリアの相場なのか、空港内の特別価格なのかは、知らぬ。

現在、時刻は 12:35 である。搭乗開始まで、まだ 90 分ほどの余裕がある。


2025/09/27-2 フィリピン

フィリンピン北東を往く機中にて記す。

結局、搭乗ゲート近傍の SBJ 銀行で 300 ドルだけ両替して、私は日本を離れた。 羽田空港では、ポケモンスタンドなる自動販売機に長い列ができており、たぶん日本でしか入手できないポケモン土産が外国人に人気なのだと思われる。 また自動運転の電動車椅子に乗って喜ぶ若者も多く、平和であった。 一方、NHK のワールドニュースは、タイの洪水を伝えていた。

グリニッジ時間 11 時 20 分頃であろうか、北回帰線を越えたあたりで機内食が供された。 Chicken Teriyaki or Beef stew とのことであったので、私は鶏肉を所望した。 ところが渡されたトレイにはフォークなどの食器がついていない。 後でくれるのかと思ったが、周囲の様子を探ると、どうやら単に付け忘れただけのようであった。 客室乗務員に、フォークなどをいただけますでしょうか、と申告し、無事に私は食器を手に入れた。 なお、この便の客室乗務員には英語を主言語とする者と日本語を母語とする者が混在しているようである。 全部英語で通してもよいのだが、私は名札に日本語名が書いてある乗務員には日本語で話すことにした。

食事内容は、鳥と野菜の照り焼きとライスがメインであるが、それに加えてパンと蕎麦を供する食事センスは、私にはよくわからない。 デザートはハーゲンダッツのバニラアイスであった。

ところで、我が機はエアバス A350-900 で、座席は 3 列 x 3 群の計 9 列、通路が 2 本の方式である。 私は右から 2 列目の座席であった。右隣、つまり窓側の乗客は黒髪で体格が良く、美しい英語を話す男であった。 左隣の通路側座席は空席であったので、私は広々と空間を占有してシンガポールまでの時間を過ごすことができる。 残念なのは私の近傍に座っている何者かが非常に強い香水か何を使用しているようで、不快な臭いを散布していることである。 諸君が飛行機にのる際は、香水の使用を控えめにするのがよろしいと思われる。

ところで、シンガポールと日本の時差は一時間のようである。 ベトナムと日本が二時間差であったように思うので、シンガポールが一時間というのは違和感がある。夏時間であろうか?


2025/09/27 出国

羽田空港第 3 ターミナルのゲート 108A 待合所にて記す。

IUPESM World Congress 2025 という国際医学会がオーストラリアのアデレードで開催されるので、これに参加するための旅行である。 私にとって、医学物理学分野における初の海外学会である。 当初は、陸奥大学が博士課程学生支援として行っている年間最大 40 万円の旅費支援を財源とする出張のつもりであった。 しかし遺憾ながら、私の申請は不採択となったため、やむなく完全に私費での旅行となった。およそ 30 万円の出費である。 大学当局は、海外学会への参加経験のない学生を優先する、と明記していたし、陸奥大学は学生の研究支援のための予算を大幅に削減していると思われるので、 過去に 4 回の海外学会参加経験がある私が支援対象外とされたことは不思議ではない。 まぁ、研究者などというものは、自分の大学で育成しなくても、よそで育った人を高給で召し抱えればよいのだから、 「世界最高峰の研究大学」を目指すにあたり、大学院生の教育研究などを支援する予算を削減するのは、たいへん合理的な戦略である。 こうして、日本の学問は衰退するのである。

さて、私が搭乗する予定のシンガポール航空 SQ633 東京発シンガポール行きは、当初 17:05 に出発の予定であったが、機材到着の遅れにより 17:45 発に変更されるとのことである。 私は 13:45 頃に羽田空港に到着したので、4 時間ほどの暇ができた。 第 3 ターミナルでは、航空会社の社員による吹奏楽団によるものであろうか、コンサートが開かれており、人だかりができていた。

今回の旅行ではアデレードで 7 泊する予定であるが、うっかり下着を 1 着しか持ってこなかった。 どう考えても不足なので、羽田で買い足しておきたい。 ところが第 3 ターミナルは国際線専用であるためか、土産用の 5000 円近くする T シャツはあっても、日用品の衣類を売っている店がみあたらない。 そこで、時間もあることだし、第 1 ターミナルか第 2 ターミナルまで買い物に行くことにした。

羽田空港は、どういう事情なのかは知らぬが、第 1, 第 2 ターミナル間は徒歩移動が容易であるのに対し、第 3 ターミナルと他ターミナルとの間は徒歩移動困難なようである。 そこで無料のシャトルバスに乗ることにしたが、バス乗り場には長蛇の列ができている。 バス一台には到底、乗り切れない人数なのであるが、バス自体がひっきりなしに到着するので、10 分も待たずに乗ることができた。 第 1 ターミナルにはユニクロがあり、私はシャツ 1 枚と下着 1 枚、ついでにショルダーバッグを 1 個購入した。

第 1 ターミナルから他ターミナルへの無料シャトルバス乗り場は、混雑していた。 第 2 ターミナル行きのバスも、第 3 ターミナル行きのバスも、同じ乗り場から出発するのであるが、乗客の列は区別されていなかった。 そのため、第 2 ターミナル行きのバスが到着しても、列の前の方を成している第 3 ターミナル行きの旅客は動かず、第 2 ターミナル行き旅客は 「列を抜かす」ような恰好で己のバスに乗らねばならぬ。 こうした混乱に対し、けしからん、なっとらん、羽田空港は何をやっているのだ、と憤る日本人もいるであろうが、この程度の混乱は世界的には普通のことである。 頭を虚無にしてただ列に並べばよい、というのは、洗練されたシステムにもみえるが、知能を失った歯車のように思われないこともない。どちらが良いと一概に言えるものではなかろう。

羽田空港の Travelex では、オーストラリアドルの売買価格が 1 ドルあたり 110/80 円であった。売買価格の開きが、少し大きすぎるのではないかと思う。 もう一つの、何という業者かは忘れたが、とにかく Travelex ではない両替商では 107/88 円であった。Travelex よりは良いが、ユーロや米ドルは売買価格差が 10% 程度であることを思うと、 まだ少し開きが大きい。 オーストラリアにおける日本円の取引価格がどの程度なのか把握していないが、もう少しマシなレートであることを期待して、日本円を持ったまま出国することにした。

現在、16:10 である。出発まで、まだ 90 分の暇がある。


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