2021/02/24 男女差別

人権の話に戻ろう。 当初の予定では医療における人権侵害について書くつもりであったが、その前に、男女差別の話をする。

仮に統計的に「女性は不必要に長く話をする」という傾向があったとしても、それを根拠に「女性は話が長い」と一般化して述べるのは、不当な蔑視である。 また、話が無駄に長い女性がいたとしても、それを「あの人は女性だから話が長い」というように表現するのも不当である。 その人の個性ないし特性として無駄に話が長いのであって、「女性だから」話が長いわけではないからである。

これは、男女差別ではなく人種差別に置き換えて考えると、わかりやすい。 国によっては、白人に比して黒人は貧困者が多く、高等教育を受けている者が少ない、という傾向がある。 そうした統計的事実を根拠に「黒人は教育水準が低くて貧しい」と一般化して述べるのは、不当である。 むろん、「あいつは黒人だから教養がない」などと表現するのも不当である。 その人の教養が乏しいというのは事実であるかもしれないが、その原因は「黒人だから」ではない、別の何かのはずである。

「傾向がある」のと「一般的事実」とでは、雲泥の差なのである。 冗談としても不適切である。 あの元総理大臣の発言に擁護の余地はない。あれを擁護する者も、差別主義者である。

なお、「プライベートにおける発言ならともかく、公の場ではまずい」という趣旨のことを述べる者もいるようである。 そういう人々は、自分が差別主義者であることを公言しているわけであるが、はたして、その自覚はあるのだろうか。

また、「今の時代にはそぐわない」などという者もいるが、時代の問題ではなく、人類の性質に関する普遍的事実として、女性であることは話が無駄に長いことの原因ではない。 「今の時代には」という者は、暗に「女性は話が無駄に長いというのは事実であるが、現代社会ではそれを言ってはいけない」と述べているのであって、やはり差別主義者である。

話は変わるが、日本では天皇位の継承について、公然と男女差別が行われている。 私は、この男女差別を廃し、女性天皇も女系天皇も認めるべきだと考える。男性や男系に限る合理的根拠がないからである。 むろん「これまで、そうだったから」というのは、理由にならない。 さらにいえば、そもそも天皇という地位自体を廃止して、共和制に移行することが望ましい。 人を生まれによって差別するべきではない。


2021/02/19 COVID-19 の恐怖 (2)

前回の話だけでは素人にはわかりにくいであろうから、具体例を示そう。

昨年 12 月 27 日に羽田雄一郎参議院議員 (当時) が死亡した。 朝日新聞の記事によると、 「死因は検視の結果、新型コロナウイルス感染症だったことが 28 日、わかった。」とのことである。 また時事通信の記事によると、 「死因が新型コロナウイルス感染症だったことが分かった。(中略) 東京都監察医務院による検視結果という。」とのことである。 その他の報道でも、だいたい同じような内容である。

法医学に詳しくない人のために、まず「検視」という言葉の意味を確認しておこう。 福島弘文 『法医学 改訂 3 版』(南山堂; 2015) の 7 ページには、次のように記載されている。

検視は刑事訴訟法第 229 条の基底に基づいて行われる検察官の業務であり, 一般には検察官の代行者の警察官 (司法警察員)が行う. 死体の外表検査以外にも現場, 衣類, 関係者からの事情聴取などの調査も含まれる.

この「検視」と似た言葉として「検案」がある。これも『法医学』の 6-7 ページによれば

死体の外表検査とその既往歴などを検討したうえで, 死因, 死因の種類, 死亡時刻, 法医学的異状の有無などを判断することを検案 (死体検案・死後診断) という. 検案は医師が専任する判断行為であるが, これには 2 つの形態がある. 一つは医療機関収容時などにすでに死亡している人を検案する場合と, もう一つは異状死体として届けられた死体について, 警察官が行う検視の補助手段として医師に依頼される検案である.

とのことである。 検案の際には、必要に応じて血液検査などの検体検査も併用される。

上で引用した時事通信の記事では「東京都監察医務院による検視結果」とあるが、監察医務院が行ったのは、正しくは検案であろう。 検視を行うのは検察官または警察官であって、監察医務院が検視を行うのは普通ではない。

さて、この「検視」には、司法解剖などの法医解剖は含まれない。 検視の結果として、犯罪性が疑われれば司法解剖が行われるし、犯罪性なしと判断されれば監察医解剖などが行われたり、解剖されなかったりする。 報道では解剖された旨は述べられていないので、たぶん、検案の際に行った検査を根拠に、解剖なしで「新型コロナウイルス感染症だった」と判断されたのだろう。

さて、羽田氏が SARS-COV-2 に感染していたことは事実であろうが、はたして、本当に死因は COVID-19 なのだろうか、という問題が残る。 糖尿病などの基礎疾患を背景に心筋梗塞あるいは脳梗塞などを来して死亡したのだが、たまたま SARS-COV-2 感染を合併していた、という可能性は否定できるのだろうか。

素人は、医者は何かスゴい特殊能力を持っていて、身体診察や検査所見から疾患や死因を看破することができる、などと思っているかもしれないが、 実際には、そのような超能力は持っていない。 「たぶん、この病気じゃないかな」「この病気だとしても矛盾はないな」ぐらいのことはわかるかもしれないが、本当の死因など、そう簡単にはわからない。 羽田氏の事例も「COVID-19 による死亡」としても矛盾はないが、「心筋梗塞に合併した SARS-COV-2」としても矛盾はなく、両者の鑑別は極めて困難なのである。 むろん、社会的事情を考慮し、便宜上の診断として「COVID-19 による死亡」と判断することにも一定の合理性はあるが、それが揺るぎない真実だと思ってはならぬ。

私が学生のときに受けた講義で、ある法医学の大御所は次のようなことを述べた。 「そもそも、体表観察や簡単な検査のみで死因を確定すること自体、無理がある。 だから死因に疑問がある場合には、無理せず「不明」としてしまって構わない。 そうすると警察は困るかもしれないが、それは諸君の責任ではない。」


2021/02/17 COVID-19 の恐怖 (1)

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ワクチンの話を書いたついでに、COVID-19 そのものについても書いておこう。

日本においても海外においても、COVIC-19 はそれほど怖い疾患ではない、と主張する人々が少なからず存在する。 一方、高齢者などが感染すると死亡のリスクが高い、などとして、死に直結する恐ろしい疾患であると考える人も少なくないようである。 はたして、実際は、どうなのだろうか。

COVID-19 が個々の患者に対して実際にどれだけ恐ろしい転帰をもたらすかについては、「いまのところ、よくわからない」とするのが適切であると、私は考える。

「コロナは怖くない」派が指摘しているように、現在の「COVID-19 による死者数」の発表は、あまり信頼できない。 というのも、SARS-COV-2, いわゆる新型コロナウイルス陽性患者が肺炎などに罹患した場合に、それが COVID-19 であるのか、それとも誤嚥性肺炎など他の疾患にたまたま SARS-COV-2 感染が合併したのかを、鑑別することが困難だからである。

もし COVID-19 が致死率の高い疾患であるか、あるいは罹患率の低い疾患であるならば、問題は簡単である。 「別の原因で死亡した人が、たまたま COVID-19 を合併していた」ということは稀だと考えられるからである。 しかし現実には、COVID-19 は致死率が低く、罹患率は高い。 その場合「無関係な原因で死亡した人が、たまたま無症候性ないし軽症の COVID-19 を合併していた」という事例が、かなりの頻度で存在するはずである。

はたして、本当に COVID-19 が原因で死亡した人は、どれだけいるのだろうか。 信頼できる統計がないので、本当のところは、誰にもわからないのである。

個々の症例について、それが COVID-19 による死亡なのか違うのかを正確に判定することは極めて困難である。 従って、患者が死亡した場合には全て「COVID-19 による死亡」に含める、というのも、実務上はやむをえない。 やむをえないが、しかし、それでは、COVID-19 の恐ろしさを正しく評価することができない。

そこで威力を発揮するのが、疫学、統計学である。 広島県が 70-80 万人を対象とする大規模な PCR 検査を実施するとの報道もあったが、 当局の発表によると、情勢の変化もあり、とりあえず部分的に施行するらしい。 疫学の観点からは、当初の予定通り 80 万人規模の検査が実施されれば、たいへん有益な情報が得られるであろう。 というのも、こうした大規模検査を行えば、無症候の一般大衆のうち、どれだけが PCR 陽性となるかを推定することができる。 すると、「適切な比較」を行えば「SARS-COV-2 陽性の死者」のうち「無関係な原因で死亡したが偶然 SARS-COV-2 陽性であった」人の割合を評価できる。

たとえば、無症候の一般大衆のうち 5% が検査陽性であったとする。 一方、ある地域である期間に死亡した人の数が 1 万人であり、そのうち 600 人が SARS-COV-2 陽性であったとする。 このとき、「無症候の一般大衆のうち 5% が検査陽性」という事実から、「COVID-19 とは無関係な原因で死亡した人が 1 万人いるとき、そのうち 500 人は検査陽性である」と推定される。 従って、細かな端数は近似してしまうことにすれば、SARS-COV-2 陽性の死者 600 人のうち 500 人は「無関係な原因での死亡」と考えられ、 本当に COVID-19 が原因で死亡した人は 100 人、と見積もることができる。 この推定では「どの 100 人が COVID-19 で死亡したのか」はわからないが、COVID-19 による死亡率を推定するには有益である。 この推定法は、統計学の分野で false discovery rate (FDR) と呼ばれる統計量を Benjamini-Hochberg 法で推定するのと本質的には同一であるので、統計学に興味がある人は調べてみると良い。

ただし、この Benjamini-Hochberg 法を疫学に適用するのは、実際には容易ではない。 というのも、死亡するような人は大抵、何らかの基礎疾患を抱えているのであって、無症候性の一般大衆とは背景が大きく異なる。 たとえば、全身状態不良で免疫能が低下している人は一般大衆より SARS-COV-2 に感染しやすい、あるいは感染すると発症しやすい、ということがあるかもしれぬ。 その場合、一般大衆における「5%」という値を、死亡した人にそのまま当てはめて良いのかどうか、疑わしい。 従って、先に述べた「適切な比較」というのが、具体的にどうすれば良いのか、よくわからないのである。 あるいは、恣意的に調整することで、COVID-19 を原因とする死者数を敢えて多くみせかけたり、逆に少なくみせかけたりすることが、できてしまう。 だから正確な評価は困難なのであるが、それでも、検査陽性者をそのまま「COVID-19 による死亡」とみなすよりは、いくぶんマシな推定ができるであろう。


2021/02/16 mRNA ワクチン (3)

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大抵のウイルスは、特定の種類の細胞にしか感染しない。 普通のコロナウイルスは上気道の上皮細胞に感染するが、中枢神経系には感染しない。 ヘルペスウイルスは神経細胞に感染するが、心筋細胞には感染しない。 そうした制限があるために、ウイルス感染によって障害を来す臓器は、ある程度限定されている。

一方 mRNA ワクチンの場合、エンドサイトーシスを来す細胞であれば、理論上、あらゆる細胞が mRNA を取り込む可能性がある。 そして mRNA を取り込んだ細胞は、class I HLA を介して、キラー T 細胞の標的となり、アポトーシスなどの細胞死に至恐れがある。 とはいえ、たぶん、このような事象の頻度は低いであろう。 投与された小胞が、樹状細胞やマクロファージよりも先に一般の細胞に貪食されることは、それほど頻繁には起こらないと期待されるからである。

それでも、時には起こるであろう。 何らかの事情、現在の医学では「体質」という言葉で誤魔化すしかないような何らかの条件を備えた人の場合、 たとえば腎臓や心臓の細胞が積極的に小胞を取り込んでしまうことがあるかもしれぬ。 そうすると、腎臓や心臓の細胞が、いわば自己免疫応答によって、損傷されることになる。

そのような「体質」の持ち主であっても、実際に小胞を取り込む心筋細胞の数は少ないであろうから、 臨床的にはっきりわかるような自己免疫性心筋炎や自己免疫性腎炎を来すことは稀であろう。 しかし、臨床的にはっきりしない程度の損傷であっても、将来的に心不全や腎不全を来すリスクを高める恐れがある。 あるいは、悪くすると、ワクチン接種を契機に膠原病を発症することも、あるかもしれぬ。

そうした理論上の懸念が、一般大衆には適切に伝えられていないように思われる。 たとえば Wikipedia には、誰が書いたか知らぬが

mRNAが注入された細胞は単に抗原を提示するだけであり、抗体の標的にはならないため安全である。

と、ある。 確かに抗体の標的にはならないが、キラー T 細胞の標的になる恐れがあるのだから、「安全である」は言い過ぎである。

製薬会社は、臨床試験の結果として重大な有害事象は極めて稀であると主張しているが、 上述のような自己免疫様の有害事象の頻度は、今後数年、数十年にわたり多数の事例を観察しなければ、わからないはずである。

私は、mRNA ワクチンは危ない、接種しないべきだ、と言っているわけではない。 「接種直後に死亡するような急性の有害事象は少なそうだが、長期的な有害事象については、よくわからない、というべきである」と主張しているのである。 長期的な有害事象の頻度は確認できていないし、理論的には安全面に対する懸念があるのに、 製薬会社や政治家あるいは医療関係者が無責任に「安全性を確認した」「安全である」などと宣伝するのは、かえって一般大衆からの信頼を損ねるのではないか。


2021/02/15 mRNA ワクチン (2)

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私はいまのところ、今回臨床的に用いられている mRNA ワクチンの詳細について、開発元が発表した論文を読んでいない。 あくまで mRNA ワクチンの総論として、理論的に考えられる問題を述べる。

脂質二重層などの小胞に mRNA を投与してヒトに投与した場合、特別な工夫をしなければ、その mRNA は体内の様々な細胞に取り込まれるであろう。 というのも、脂質二重層は細胞膜と親和性が高いので、小胞と細胞とが融合することは難しくないからである。 たぶん、これらの小胞の多くは樹状細胞やマクロファージと呼ばれる細胞に貪食されるのであろうが、 血管内皮細胞やその他の細胞も、適切な条件が揃えばエンドサイトーシスによってこうした小胞を取り込むであろう。 今回の mRNA ワクチンが、この点について特別な工夫をして、特定の細胞に選択的に取り込まれるようになっているのかどうかは、知らない。

樹状細胞やマクロファージが小胞を取り込んだ場合には、製薬会社が期待するような現象が起こる。 つまり、それらの細胞の中で mRNA が翻訳され、ウイルス特有の蛋白質が生成される。 この蛋白質は細胞表面に class II HLA と共に提示され、リンパ球の活性化などを引き起こすのである。

この class II HLA とは何かについて、簡潔に述べておこう。 樹状細胞やマクロファージは、体内に侵入した「異物」を認識して貪食する、とされる。 ここで、何をもって「異物」と認識するのだろうか、と疑念を抱いた人は、科学的センスが豊かである。 この部分の説明は本筋から逸れるので割愛するが、正確には「異物」を認識しているわけではなく、特定の構造を持つ物質を認識しているらしい。

「異物」を貪食した樹状細胞は、その「異物」を断片化し、一部を自身の細胞膜表面に提示する。 この際に、異物だけを提示するのではなく、ヒトの場合は class II HLA と呼ばれる蛋白質に「異物の断片」がくっついた状態で提示されるのである。 さて、白血球のうちリンパ球と呼ばれる細胞は、こうした「class II HLA と『異物の断片』との複合体」を認識し、「異物の断片」を標的と認識する。 リンパ球のうち、B リンパ球あるいは B 細胞と呼ばれる細胞は、この「異物の断片」に選択的に結合する蛋白質を産生する。 この蛋白質のことを免疫学者は「抗体」と呼んでいる。 こうして産生された抗体は、ウイルスなどの外来病原体を排除する際に役に立つ。

さて、mRNA ワクチンとして投与された mRNA が、樹状細胞やマクロファージ以外の、たとえば血管内皮細胞に取り込まれた場合、どうなるだろうか。 血管内皮細胞の中で、mRNA の翻訳が行われ、ウイルス特有の蛋白質が産生されるであろう。 こうして産生された蛋白質の一部は、class I HLA と共に、細胞表面に提示される。 樹状細胞の場合は class II であったが、今度は class I である。 この class I HLA は、ヒトのほとんど全ての細胞に発現している。

通常、この class I HLA が威力を発揮するのは、その細胞がウイルスなどに感染した場合である。 ウイルスに感染した細胞は、細胞内でウイルス蛋白質を産生し、ウイルスの複製を行うのだが、その際にウイルス蛋白質の一部が class I HLA と共に細胞表面に提示される。 すると「キラー T 細胞」などと呼ばれるリンパ球の一種が、この感染細胞を「排除すべきもの」と認識し、感染細胞が細胞死に至るように働きかけるのである。 血管内皮細胞などの一般的な細胞がワクチン由来の mRNA を取り込んだ場合、こうした「通常のウイルス感染の際に生じるプロセス」が発動し、細胞死が惹起されるであろう。

長くなってきたので、続きは次回にしよう。


2021/02/14 mRNA ワクチン (1)

本記事は転載を認めない。 「こんなことを述べている医師がいた」などと断片的で不正確な情報が流布されると、社会全体にとって有害だからである。 本記事を紹介したい場合にはこちらへのリンクを利用されたい。

人権の話はまだ続くのだが、一旦、別の話をしよう。最近話題の mRNA ワクチンについてである。 なるべく素人にもわかるように書くので、生化学や免疫学の基礎を修めた人には退屈な部分もあるだろうが、ご容赦いただきたい。

SARS-COV-2、いわゆる新型コロナウイルスに対するワクチンとして、初めて mRNA が臨床的に使用されることになった。 詳細はよく把握していないが、この mRNA ワクチンについて、一部で不正確な情報が飛び交っているらしい。 Wikipedia によると、 mRNA ワクチン投与によって DNA の変異を来す、というような荒唐無稽な噂まで流れたらしい。 その一方で、mRNA ワクチンの安全性や有効性を過度に強調する情報も流布されているように思われる。

先に結論を述べておくと、私は mRNA ワクチンが安全であるとは思っていない。 従来のワクチン接種は、毒性の弱いあるいは無い物質を使って、通常の感染過程を模擬するものである。 従って、ワクチン接種による有害事象は、ごく稀な事例を除いては、真の病原体への感染に比べればかなり軽度である。 一方、mRNA の接種は、通常の感染過程では起こらない現象であって、従来型ワクチンや通常の感染では生じないような有害事象を惹起する恐れがある。

我々の細胞は、核の中に DNA として遺伝情報を蓄えている。 もう少し詳しく言えば、DNA は四種類の核酸が連結されたものであり「どの核酸がどのような順番で連結されているか」という形で情報を表現しているのである。 この「核酸」というのは「塩基」と呼ばれることもあるが、厳密には「デオキシリボースの骨格に塩基がついたもの」が連結されているのであり、塩基そのものが並んでいるわけではない。 この「どの核酸がどのような順番で連結されているか」のことを、生化学では「塩基配列」と呼んでいる。 核の中では、DNA の塩基配列を元に、RNA が合成される。この RNA 合成のことを我々は「転写」と呼んでいる。 RNA も四種類の核酸が連結されたものであり、その塩基配列によって、DNA とほとんど同じ遺伝情報を表現している。 RNA にはいくつかの役割があるが、そのうち「どのような蛋白質を合成するか」という情報を蓄えている RNA のことを messenger RNA と呼んでいる。 ただし「messenger RNA」とイチイチ長い名前を呼ぶのは面倒なので、mRNA と略されることが多い。 この mRNA は核の中から細胞質へと移動する。 そしてリボソームと呼ばれる細胞内小器官において、mRNA の塩基配列を基に、蛋白質が合成される。 この蛋白質合成のことを生化学者は「翻訳」と呼んでいる。

なぜ、生物が進化の過程において、DNA と RNA という二種類の核酸を使い分けるようになったのかは、はっきりしない。 核の中で「保存用 DNA」と「翻訳用 DNA」の二種類を作っても良さそうな気がするのだが、 それだと用済みになった「翻訳用 DNA」を破壊する際に、誤って「保存用 DNA」を壊してしまう、という事故が起こりやすいのかもしれぬ。 そこで DNA と RNA を使い分けることで事故防止に成功した細胞が、我々の祖先なのだろうか。

さて、mRNA ワクチンは、脂質二重層から成る小胞などに mRNA を容れて人体に投与することで、mRNA を細胞内に送り込むものである。 この mRNA は、リボソームにおいて翻訳される。 mRNA の塩基配列が適切であれば、翻訳によってウイルス特有の蛋白質が細胞内で産生され、さらに細胞外へと分泌される。 従来型ワクチンではウイルス特有の蛋白質そのものを投与するのであるが、mRNA ワクチンの場合は、ヒトの体内でウイルス特有の蛋白質が生成されるのである。 ひとたびウイルス特有の蛋白質が合成されると、それを標的とする抗体が産生されるであろう。 そうした抗体があれば、いざ本当のウイルスが体内に侵入したとき、これを速やかに排除できると期待される。 従って、予めワクチンを接種しておけば、ウイルスに感染しにくい、または感染しても軽症で済むと期待されるのである。

なお、この「ウイルス特有の蛋白質」のことを世間では「ウイルス抗原」などと呼ぶことも多いが、 「抗原」という語の本来の意味を考えると、あまり正確な表現ではないように思われる。 従って、本記事では、いささか冗長ではあるが「ウイルス特有の蛋白質」という表記を用いる。

長くなってきたので、続きは次回にしよう。


2021/02/13 人権 (5) --- 自由とは

ヨーロッパ諸国では、COVID-19 対策として政府が講じる諸々の規制に対し反発する抗議行動が行われている。 たとえば昨年 8 月に時事通信が配信した記事は、 マスク着用が義務化されたのに対し、ベルリンなどにおいて、マスク着用するかどうかは個人の自由である、と反発するデモを伝えている。

日本の報道では、こうした活動の背景にある自由と人権についてよく理解していない記者が多いようで、単に規制に反発している、といった具合に伝えられることが多いように思われる。 おとなしくマスクをすれば良いのに、どうして、そこまでして反発するのか、理解できない、と思う者も多いであろう。 そうした「理解できない」現象をみたとき、諸君は「自分の理解力が足りない」と考え、理解しようと努めるであろうか。 それとも「理解不能な行動をする彼らは馬鹿だ」あるいは「民度が低い」と判断するであろうか。

彼らは、マスク着用そのものよりも、それを国家に強制されることに対し反発しているのである。 自由を侵害されたことに対し、怒っているのである。 仮にマスク着用が有益であったとしても、なぜ、それを国家に命令されなければならないのか。 我々は、国家の奴隷ではなく、むしろ、国家の主人なのである。

人類が「自由」「平等」「人権」という考えを樹立したのは、フランス革命の頃である。 人は生まれながらにして自由であり、平等である。貴族とか平民とかいう、生まれに基づく差別は、あってはならない。 そうした理想を掲げ、フランス人は王制を廃止した。 しかし周辺諸国は絶対王政を維持しており、フランスにおける革命の動きが自国に及することを恐れ、革命政府を認めず、王制への復帰を強く求めた。 むろん、フランス革命政府はそうした要求に従わず、ついには戦争が始まった。 当時のフランス軍は、地方の富裕層が出資し、農民が武装しただけの義勇兵などで構成されていた。 きちんと組織された軍隊は存在せず、強大な隣国であるプロシアやオーストリアと戦えるような状況ではないように思われた。 それでも、ほとんどヨーロッパ全てを敵にまわしてでも、彼らは自由と平等を諦めなかったのである。 戦争で家族友人を喪い、国家滅亡の危機に瀕しても、なお自由は尊いのだと彼らは信じ、譲らなかった。 そうした先人の犠牲の下に、我々人類は自由と平等を獲得したのである。

日本の歴史では、フランス革命のような市民革命は起こらなかった。 日本国憲法も、日本人だけでは成立しなかったであろう。 GHQ からの「押しつけ」があったからこそ得られた憲法には違いない。 外国勢力から押しつけられた、という経過はあまり誇らしいものではないが、 しかし、その日本国憲法によって、かつてフランスの先人が確立した自由と平等の概念が日本にもたらされた点は、感謝すべきものである。

感染症の拡大を抑えるためには、確かに、個人の自由を制限することは有効であろう。 しかし、それでも自由を制限するべきではないし、憲法もそれを許していない。 国家事変の場合にあっても個人の自由は尊重される、というのが、自由の国・日本の憲法の理念なのである。


2021/02/12 人権 (4) --- 雇用主との関係

諸君には移動の自由がある。 国家は、その自由を制限するこはできない。たとえ法律を定めても、その法律は違憲であり無効であって、諸君の自由を侵すことはできないのである。 ところが、その不可侵の権利である移動の自由を、あたりまえのように侵害しようとする人々がいる。

一部の大学や病院では、学生や職員に対し、緊急事態宣言下などにおいて、県外への私的旅行を禁止した事例があるらしい。 また、東京などの感染者が多い地域に旅行した場合は 2 週間の自宅勤務を命ず、というような通達が出された事例もあるらしい。 もちろん、週末に東京に遊びに行ったから 2 週間は自宅勤務します、などということを本当に申告したら、職場で非難されるのは明白である。 つまり、「旅行したら 2 週間の自宅勤務」というのは、事実上の旅行禁止である。 これらの制限について、私の所属大学でどうなっているのかは、敢えて述べぬ。

言うまでもなく、雇用主は従業員に対し、私的旅行を制限する権利を有さない。 どうしても制限したいのであれば、予め雇用契約に盛り込む、あるいは別途手当を支給して個別に合意を形成する、といった方策を講じなければならない。 そうした明確な契約がないならば、休暇中に県外に旅行することは、諸君の自由である。 むろん、休暇の過ごし方を勤務先に報告する必要はない。

「医療従事者なのだから自覚をもって行動しなさい」などと言われることもあるが、これは 2 つの意味で不適切である。

まず第一に、医療従事者が、自身の人権を放棄する必要はない。 何人であろうとも、医師であろうと自衛官であろうと花屋であろうと無職の路上生活者であろうと、全ての人に同じように保証されているのが人権である。 医師であるからといって、移動の自由を放棄するよう求められるいわれはない。

第二に、医療従事者が特別なわけではない。 確かに医療従事者は、病人と接する機会が多いのだから、感染リスクが一般大衆よりは高そうであるし、また多くの人と接するから他人に感染させるリスクも高そうである。 しかし、それは、学校教員も、鉄道やバスの職員も、コンビニエンスストアの店員も、皆、同じことである。 なぜ、医療従事者が特別だと思うのか。

一つには、医療従事者側の選民意識があるだろう。 私は命を扱う特別な仕事をしているのだ、一般大衆とは違うのだ、という意識の持ち主は少なくないように思われる。 自分は特別だ、という意識と、自分は特に犠牲にならなければならない、という歪んだ使命感が、表裏一体に存在しているのではないか。

もう一つは、医療従事者をまるで英雄のように祭り上げることである種の快感を得ている部分もあるだろう。 ただ、これは一応は「祭り上げられる側」である私が書くのも憚られるし、「医療従事者を応援する拍手」などに対する批判として他の人も書いているから、ここでは述べない。


2021/02/11 人権 (3) --- 職業選択の自由

COVID-19 の流行に対する「緊急事態宣言」で、飲食店などの夜間営業の自粛などが要請されている。 これに対し 2021 年 2 月 13 日に施行される「新型インフルエンザ等対策特別措置法等の一部を改正する法律」の第 45 条第 3 項では、 都道県知事が「政令で定める多数の者が利用する施設を管理する者」に対し「当該施設の使用の制限若しくは停止」などを「命ずることができる」としている。 具体的には、飲食店の営業時間短縮などを命令できる、というわけである。 この命令は、憲法が定める職業選択の自由 (営業の自由) に対する不当な侵害ではないのか。

「自粛の要請」は、あくまで自粛を要請しているに過ぎない。 その要請を受け入れるかどうかは、諸君が自由な意思に基づいて決定すべきことである。 要請に従うのが模範的で善良な市民の態度だ、というわけではない。 諸君は政府の指揮命令に従って生きているのではなく、むしろ、政府が主権者たる我々国民のために奉仕しているのである。 決定するのは各々の国民であって、政治家ではない。 要請を拒否したからといって、非難されるいわれはない。

ところで「職業選択の自由」とは何か、という点について、若干の補足を要するかもしれない。 ここでいう「職業選択」というのは「医師になる」「大学教員になる」「サッカー選手になる」というような漠然とした枠組だけを意味するのではなく、 いわゆる「営業の自由」を含む、というのが憲法学における通説である。 「営業の自由」というのは、たとえば「医師として診療行為をする」「大学教員として講義を行う」「サッカー選手として試合に出場する」というような具体的な営業活動を行う自由、 という意味であって、これを憲法第 22 条は保証しているのである。 だから、たとえば私が政府に批判的で生意気な態度を取っているからといって、 法律で「君が医師になるのは職業選択の自由として認めるが、その反政府的な態度が気にいらないから、診療は一日一時間以内に限る」などと決めることはできない。 私が医師免許を持っている以上、私が診療行為をするのは、公共の福祉に反しない限り、私の自由である。それが憲法の保証する「職業選択の自由」なのである。

同様に、たとえば飲食店が夜間に営業するのも、職業選択の自由の範疇である。 公共の福祉に反しない限り、経営者は、自由に夜間営業できる。 ただし、たとえば閑静な住宅街において深夜に酒場を営業されると、周辺住民の安寧が脅かされるので、 そういう場合には「公共の福祉に反する」として営業時間の制限などが課されることは、ありえる。

では、COVID-19 の流行下において、飲食店の夜間営業は、公共の福祉に反するのだろうか。 飲食店で、友人や家人と楽しく会話しながら飲食すれば、多少の唾液は飛散するので、多少の感染リスクには、なるだろう。 大人数なら危険で少人数なら大丈夫、ということはなく、飲食する時点で、多少のリスクはある。 あたりまえのことだが、昼なら大丈夫で夜は危険、ということはない。 強いていえば、大人数で密接して大騒ぎするような店の中には、夜間のみ営業している店もあると思われるが、それは店の営業内容の問題であって、営業時間の問題ではない。 統計によっては、「夜間の飲食店では感染リスクが高い」ということを示せるであろうが、 統計というのは、とりかたによって、かなり任意な結果を出せるので、それ自体では科学的根拠として不充分である。

要するに、飲食店の夜間営業が感染リスクを高める、という科学的根拠があるわけではない以上、夜間営業が公共の福祉に反するとはいえない。 それを、緊急事態宣言だの蔓延防止等重点措置だのといって、職業選択の自由を制限することは、違憲である。 自粛要請でさえ際どいのに、「禁止」「過料」というのは、憲法上の根拠を欠いている。 それにもかかわらず、まるで国民の自由を制限する権限を政府や国が持っているかのような前提で議論や法令改正が行われているのが日本の現状である。

感染症学や公衆衛生学の専門家の中にも、感染拡大防止のためとして、強制力のある移動制限や営業制限を支持する者がいる。 彼らは、法学や憲法学については素人であり、自由と人権には関心がなく、自分の専門分野のことにしか興味のない偏狭な学者なのであろう。

なお、時間帯を問わずに「飲食店の営業自体が公共の福祉に反する」として、営業自体を全面禁止するのであれば、一応の筋は通るかもしれない。 とはいえ、そこまで厳しい規制は現在のところ検討されていないようなので、その妥当性については、ここでは議論しない。

2012.02.12 加筆訂正
2012.02.13 語句修正

2021/02/10 人権 (2) --- 移動の自由

日本国憲法は、移動の自由や職業選択の自由について次のように定めている。

第 22 条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。

これは、昨日引用した大日本帝国憲法 (旧憲法) 第 22 条と比べると 「法律ノ範囲内ニ於テ」という部分が「公共の福祉に反しない限り」と変更されている。 つまり、健全な社会運営を妨げるような場合については法令によって職業や移転を制限することができるが、 それ以外の場合には、法律によって職業や移転を制限することはできない、という意味である。

移動の自由というのは、たとえば、国内旅行をする自由のことである。 諸君は、いつでも好きな時に、旅行することができる。それを憲法が保証しているのである。 その自由を法律によって制限することができるのは、諸君の旅行が公共の福祉に反している場合に限られる。

そこで問題になるのは、COVID-19 が流行している現在において、諸君が娯楽目的で旅行することは公共の福祉に反しているかどうか、という点である。 「迷惑だから」「もしかすると感染を広げるかもしれないから」だけでは、公共の福祉に反しているとはいえない。

たとえば、煙草に関係する職業がある。煙草農家とか、煙草を製造する工場とか、煙草の小売店とかである。 私は喫煙しないが、私が住んでいる日本海沿岸の地方都市では街中での歩行喫煙が多くて、非常に迷惑している。 煙草の煙や匂いが不愉快であるし、ひょっとすると、受動喫煙で肺癌になるかもしれない。 喘息患者の場合、受動喫煙によって喘息発作が惹起され、場合によっては生命が脅かされる。 つまり私を含め少なからぬ善良な市民が、煙草によって迷惑を被っているだけでなく、具体的な健康被害の恐れもある、といえよう。

それでも「煙草の生産は公共の福祉に反する」とまでは、いえない。 公共の福祉というのは、売春とか、違法薬物の販売とか、そういう、直接的に明白に社会の健全性を損ねるものをいう。 単に「迷惑である」という程度は、互いに受忍すべきものであって、職業の自由を制限するものではない。

もし諸君が COVID-19 を罹患しており、現にウイルスを撒き散らしていることが明白であるならば、その状態で旅行することは公共の福祉に反するといえよう。 しかし、感染しているかどうかもわからない状況で、「ひょっとすると」というだけの根拠で、諸君の旅行を妨げることは、できない。

だから、政府は「自粛を要請」するのみであり、移動を禁止することはできないのである。 ついでにいえば、昨日引用した旧憲法第 31 条にあるような「国家事変ノ場合」の特例も日本国憲法では廃止されている。 だから、たとえ戦争が起ころうとも、国家存亡の危機であろうとも、いかなる非常事態であろうとも、 公共の福祉に反しない限り、諸君の移動の自由や職業選択の自由は保証されるし、それを法律で制限することはできない。


2021/02/09 人権 (1)

半年近くも間隔があいてしまった。 これは、私が精神的に疲弊しており、日記を書くだけの気力がなかったからである。 誤解されては困るのだが、これは昨今の COVID-19 の流行とは何の関係もない。 詳細は今は書けないのだが、いずれ、この日記で事情を説明するつもりである。

本日から何回かにわけて、人権について書く。 これは、昨今の COVID-19 対策において、不適切な人権侵害が日本を含め世界的に行われていることを批判するためである。 また、COVID-19 とは別の話として、以前から日本の医療現場では人権軽視の風潮があることも、併せて批判する。

医師の多くは、日本国憲法を識らない。 日本の小学校や中学校・高等学校で、憲法や人権についてキチンと教えている学校は少ないと思われる。 医学科の教育課程でもキチンと教えない大学が多いであろうし、わざわざ憲法学を自学自習する学生も少なかろう。 日本という国家が、いかなる理念に基づいて運用されているのかを、彼らは知らないのである。 その結果、自分の個人的な価値観に基づいて行動することになるのだが、大抵の医師は、高潔な倫理を備えているわけではないので、 無意識に他人の人権を蹂躙してしまう。

日本においては、大日本帝国憲法の制定により人権の概念が法制化された。国立国会図書館のウェブサイト から引用すると、

第 22 条 日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ居住及移転ノ自由ヲ有ス

第 23 条 日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ

第 29 条 日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス

などとあるように、移動の自由、身体の自由、言論の自由、集会・結社の自由などが規定されていた。 しかし、「法律ノ範囲内ニ於テ」「法律ニ依ルニ非ズシテ」とあるように、法律で定めれば、これらの自由はいくらでも制限することができた。 さらに

第 31 条 本章ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ

とあり、非常時においては、これらの自由よりも「天皇大権」が優先されることになっていた。 つまり、「国家事変」の場合に天皇が「集会を禁ずる」と命令すれば、法律の規定がなくとも、集会の自由は失われたのである。

1945 年に、日本は、負けた。連合国に対し無条件降伏したのである。 その後、連合国最高司令部 (General Headquarters; GHQ) の指令の下、日本国憲法が制定された。 この制定過程について、GHQ からの押しつけ憲法である、と批判し、「自主憲法の制定」を唱える勢力もいる。 特に、日本政府が提出した「憲法改正要綱」を GHQ が否定し、それとは大きく異なる GHQ 草案に基づいて日本国憲法が定められたことを問題視する者は少なくない。 彼らの主張にも一理はあるが、少なくとも形式的には、帝国憲法第 73 条が定める憲法改正の手続きに従い、 日本国の憲法は、大日本帝国憲法から日本国憲法に変わったのである。


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