2024/07/15 民主主義

米国で大統領選挙への立候補予定者が銃撃を受けた。 犯行の目的は現時点で明らかではないが、思い込みによる報道が世界には充満している。

現時点で明らかなのは、銃を用いた殺人および殺人未遂事件があった、ということだけである。 これを特定の政治的目的を達するための犯行である、と決めつける報道が目立つし、 それを前提として「民主主義を脅かす蛮行」というような表現もみられる。 しかし、もし、これが単なるトランプへの個人的な恨みによる犯行であるならば、 その被害者がたまたま大統領選挙への立候補予定者であったというだけのことであり、民主主義云々とは別の話である。

日本でも二年ほど前に、内閣総理大臣経験者が街頭で射殺される事件があった。 当時マスコミ等は、今回と同様に「民主主義に対する冒涜」というような表現を安易に用いた。 結局、あの犯人の目的が何であったのかは確定していないが、どうも、政治的主張を実現する目的ではなく、 安倍個人に対する恨みによる犯行であった、という解釈がもっともらしい。 すなわち、安倍がいわゆる統一教会を支援しており、その統一教会のせいで家族がひどい目にあった、という理屈で 安倍に対し怨嗟を募らせたわけである。 むろん、彼の行なったことは殺人であり、犯罪であり、社会的に許容できないが、民主主義の破壊を試みたわけではない。

むしろ民主主義の破壊を試みたのは、安倍をはじめとする政府与党の方である。 地元への利益誘導により票を実質的に買収し選挙を有利に進めるのは、かの政党が何十年も前から継続している手法である。 また、近年ようやくマスコミでも問題視されるようになってきたが、いわゆるパーティー券や政治献金という形態で 企業や個人から資金を募っているが、どうみても公然の賄賂である。 合法ではあるが、民主主義の理念、理想を破壊する政治手法には違いあるまい。 なお、こうした賄賂は大手野党も公然と募っている。 この点において清潔な政治姿勢を示しているのは、日本共産党をはじめとする少数の弱小政党のみである。 また、安倍はいわゆ「桜をみる会」や「森友・加計問題」をはじめとする汚職疑惑もあり、 さらにそれを隠蔽する目的で公務員を自殺に追い込んだ疑いが強い。 政府与党についていえば、政府に都合の良い人物を検事総長に据えるために、 検察官の定年について恣意的な措置を図ったことも知られている。 この検察官問題は、本来であれば単独で政府が揺らぐような大問題であるように思われるが、 政府与党の裏金問題に比して注目を集めなかったのは、おそらく、 日本の一般国民の民主主義に対する理解や関心が乏しい故であろう。 なお、この検察官問題については朝日新聞記者等が当該検察官と賭け麻雀をしていたことが発覚して政府の陰謀は潰えたが、 同時に、マスコミが「権力に対する監視」を謳いつつも実際には権力と癒着して情報の横流しを受けている、 という問題が広く知られる契機にもなった。

ついでにいえば、昨今のウクライナ情勢に関係して、ロシアを「民主的ではない」と表現する人も少なくない。 ロシア大統領はロシア国民による選挙によって選ばれているにもかかわらず、である。 日本や米国が民主的であり、ロシアが民主的でない、という考えは、一体、どのような根拠に基づいているのだろうか。 ロシアでは選挙の不正がまかり通っている、などという人もいるが、 日本だって、上述のような公然かつ合法の収賄や、「一票の格差」問題、 および認知症で施設入所している人の投票率が妙に高い問題など、 選挙の不正を疑わざるをえない事例が多数、あるではないか。

民主主義を脅かしているのは、一体、誰なのか。 考え方によっては、大統領候補予定者の殺害に失敗した犯人は、民主主義を守ろうとしたのだ、といえなくもない。 あの犯人が殺人犯、殺人未遂犯であるというのは事実であるが、それをテロだの何だのというのは、 個人の主観、好悪の問題であって、客観的事実ではない。 意見と事実を混同してはならぬ。


2024/07/10 女子枠

朝日新聞に 東工大、来春の入試で「女子枠」149 人にという記事が掲載されていた。

私は、大学入試に性別を指定した枠を設けることには断固反対である。 多様性確保のために女子枠を設けるというのなら、なぜ身体障害者枠やイスラム教徒枠、ブラジル人枠などを設けないのか。 南米にルーツを持ち日本に住む人は珍しくないし、その中には日本国籍者も多い。 しかし東京大学や東京工業大学といった名門大学の学生には、人口比の割に、そういう属性を持つ者が少ないのではないか。 人種差別ではないか。

そもそも東京大学や東京工業大学に女子学生が少ないのは、 生まれてから高等学校を卒業するまでの間に、意識的にか無意識にかはともかく、 男女の間で著しく偏った教育がなされていることが原因であろう。 その偏向教育をそのままに、単に大学入学者数の帳尻だけを合わせたとして、一体、何が解決するのか。 表向きの統計から男女格差がみえにくくなるだけで、差別と偏向は厳然として存在し続けるのである。 みえなければよい、という考えなのか。

問題の根底を考えなければならない。 現代においても「女が物理や数学などやったら、嫁の貰い手がなくなる」というのに近いことを言う親は、稀ではない。 たとえば幼い我が子について「将来、医療従事者になるのかしら」という意味のことを言う場合、 男児に対しては「医師」を挙げることが多いのに対し、女児に対しては「看護師」を挙げることが多いのではないか。 実際には男女の別に関係なく、それぞれの人の個性の問題として医師向き、看護師向き、技師向きなどと 様々であるのに、性別を根拠に勝手に決めつけるのである。 そういう偏見に幼い頃から晒され続けた結果が、東京大学における男女比の偏りであろう。

現在の大学において、厳しい男女差別が存在することは事実である。 私は京都大学時代にも、名古屋大学時代にも、北陸医大 (仮) 時代にも、 教員や学生が無思慮にセクハラ発言や性差別発言するのを、幾度となく聞いてきた。 京都大学では、留学生が文化的相違から近隣トラブルを引き起こした際、 准教授が謝罪・調停に赴くにあたり「女性もいた方が場が落ち着きやすいから」と女子学生に同伴を求めたことがあった。 また北陸医大では、某教授が女性スタッフについて「女性は ○○ だから」などというステレオタイプに基づく 差別発言を繰り返していたことが、強く印象に残っている。 残念ながら我が陸奥大 (仮) においても「xxx 先生は女子だからといって甘くしない」という差別発言を聞いたことがある。

こういう、生まれた時から続く偏見、セクハラ、性差別の風潮を葬るために、 とにもかくにもまず女子学生を増やす、という方策は、理解できないでもない。 ただし、それならば、文化的無知から生じる人種差別を解消するために、黒人枠やイスラム教徒枠も設けるべきである。 また、男子であるというだけの理由で相対的に入試が厳しくなる男子受験生に対する補償も必要であろう。


2024/07/07 中東における武装勢力による民間人虐殺について (1)

少し日記の間隔が空いてしまった。 北陸医大 (仮) 時代には、日々の職務環境で滅入ってしまい日記を書けないことが多かった。 しかし陸奥大 (仮) に来てからは、むしろ日々の研究に熱が入り、日記にまで手がまわっていない。 とはいえ、この日記を残すことにもたぶん、相応の社会的意義があると思うので、なるべく書き続けていこうと思う。

この記事は 6 月 10 日に下書きしたが、デリケートな内容であるために推敲に時間を要し、掲載が遅れてしまった。

たまたま文春オンラインで、岡真理さんの記事をみかけた。 週刊文春 3 月 14 日号に掲載された記事週刊文春 CINEMA 2004 夏号に掲載された記事である。

もう二十年以上前のことなので、岡さんは私のことなど覚えていないであろう。 岡さんが京都大学に助教授として赴任したのは 2001 年であり、私が京都大学に入学したのは翌 2002 年 4 月である。 この私が入学した年から、第二外国語としてのアラビア語科目が新設され、岡さんが授業を担当した。 当時の世界情勢もあり、4 月時点での受講者はたいへん多く、教室に納まりきらず、廊下で聴講する者も多かった。 しかし回が進むにつれ、どんどん脱落していき、年度末まで残ったのは 10 人程度であったように思う。 これは全学部合わせた人数である。 年度末の試験だけ受験した者も少なくなかったが、むろん、それで合格するほど甘い試験ではなかった。 私は試験当日に寝坊したが、雨の中、タクシーを使って大学に行き、なんとか 20 分ほどの遅刻で済んだので、合格した。 二年目ともなると、受講者は 6 名程度だったように思う。少人数の、楽しい授業であった。

岡さんについて、強く印象に残った言葉がある。 以前に日記に書いたようにも思うが、検索しても出てこないので、もう一度書こう。 いつであったか、京都大学で行われた学生主催の講演会で岡さんがパレスチナの話をした時のことである。 質疑応答の際に、ある男性が岡さんに対し「ご主人は何の仕事をしているのですか」と不躾な質問をした。 むろん、講演の内容に関係のない不適切な質問なのであるが、岡さんの切り返しは見事であった。 「私には共同生活者はいますが、主人はいません。敢えていえば、私は私自身の奴隷です。」と言ったのである。 夫のことを「主人」と表現することの不適切さを述べているのだが、 私が感心したのは「私は私自身の奴隷である」という部分である。 なお、質問者は、岡さんの言葉の意味を理解できなかったようである。

文春の記事をみて、岡さんの最近の著書である『ガザとは何か』の存在を知ったので、さっそく買って読んだ。 この書物は、岡さんが 2023 年に京都大学と早稲田大学で行った講演の内容をまとめたものである。 この講演は、1948 年から現在に至るまでパレスチナで虐殺を継続的に行っている武装勢力の活動を非難し、 その実情を広報するものである。 岡さんは日本のマスコミは、特に中東情勢に関しては偏向が著しい、という点についても厳しく批判している。

イスラエルと称する武装勢力は 1948 年に「建国」を宣言して以来、パレスチナに住むアラブ人に対する 虐殺、迫害を継続的に行っている。 これには直接的に武器を使用して民間人を殺害することだけでなく、徹底した経済封鎖により 食料すら手に入らない状況に追い込む、というものも含まれている。 厄介なのは、このイスラエルの「建国」自体は国際連合の決議により「国際的に承認」されている上に、 この武装勢力自体も国際連合に加盟している、という点である。 そもそも国際連合の総会や安全保障理事会には、国連憲章上、各国の主権を尊重する義務がある。 それを無視してイスラエル「建国」を認めたこと自体が、そもそも不法であった。 それゆえに、アラブ諸国の多くやイランなどは、 イスラエルを国家として承認しておらず、あるいは外交関係を有していない。

最近の岡さんの考えをよく知らないのだが、私が京都大学にいた頃の講演では、 パレスチナ問題の解決に向けて、まずはパレスチナが国家として認められ、交渉のテーブルに就くことが必要である、 と述べていたように記憶している。 それについて当時、私は、甘いのではないか、と思った。

今年の 5 月に、ノルウェー、アイルランド、スペインがパレスチナを国家承認した。 日本や米国の他、英独仏伊をはじめとするヨーロッパの大国の多くはパレスチナを国家承認していないが、 国の数でいえば国連加盟国の 7 割以上はパレスチナを国家承認しているという事実について、 日本のマスコミはあまり積極的に言及しないようである。 この欧州 3 国によるパレスチナ国家承認について、パレスチナ問題の解決に向けた動き、と判断するのは早計であろう。 JETRO の記事などによれば、 この三国はいずれも「二国家解決」を唱えているが、その内容が問題である。

二国家解決というのは、パレスチナとイスラエル双方の国家を共存させる、という案である。 一方、国家間の領土問題については、第三国は介入しない、というのが国際関係の基本である。 すなわち、スペイン等のいう「二国家解決」というのは、ありていにいえば、 「我々は関与しない。当事者同士で解決しろ。」と言っているだけのことではないのか。

パレスチナを支持しつつ二国家解決を唱える人々は、楽観的に過ぎるのではないか。 パレスチナが国家として広く承認され、イスラエルと国家間交渉したとして、 イスラエルがパレスチナに何らかの譲歩をする可能性があると考えているのか。 エルサレム全域あるいは東エルサレムをパレスチナに譲渡あるいは共同統治したり、 あるいは既に存在する植民地から撤退したり、また新たな植民地の建設をやめる、 などといった内容に合意する可能性があると思っているのか。 なぜ、イスラエルがそのような譲歩をすると思うのか。 二国家間の問題だから、外国は口を出すな、と言って、これまで以上にパレスチナへの迫害を強めるのは明白ではないか。

なお、この「植民地」については註記が必要であろう。 現在イスラエルが行っているのは、自国の領域外である土地に植民者を送り込み、 現地住民との紛争には軍を送り込んで武力で解決する、という活動である。 これが植民地化でないならば、一体、何を植民地と呼ぶのか。 しかしイスラエルによる領土拡張に対しては、なぜか「植民地」や colony ではなく 「入植地」 とか settlement とかいう、いささか柔らげた表現が用いられることが多い。 イスラエルに対する、なにがしかの遠慮の結果であろう。 歴史的に虐げられた民であるユダヤ人を悪くいうのは気が引ける、という気持ちは、わからないではない。 しかし、かつてホロコーストの被害者であったとしても、現代において加害者に転じたシオニストに対し、 何を遠慮する必要があるのか。

ついでに書くと、現在行なわれているジェノサイドの加害者を「ユダヤ人」と括るのは適切ではなく、シオニスト、 などと表現するべきである。 というのも、敬虔なユダヤ教徒の中には、イスラエルによる乱行に対し批判的な意見が強いからである。 パレスチナの地は神がユダヤの民に約束された土地ではあるが、 それをユダヤ人に与えるのは神の御業であって人が為すべきことではなく、 人が軍事的に土地を奪取するのは、むしろ神に対する冒涜である、という論理である。 かつて敬虔なキリスト教徒が十字軍の東方遠征を非難したのと同じように、 真のユダヤ教徒はシオニズムを認めないのである。

話を元に戻そう。 そもそも、英国や国際連合が、その地に住んでいる人々を無視し、 信教の自由を否定するイスラエルの「建国」を認めてしまったことが、諸悪の根源である。 国連によるイスラエル建国の承認、いわゆるパレスチナ分割決議は、 基本的人権や、大小各国の同権、寛容、国際の平和などを謳った 国連憲章の理念すら無視して行われた蛮行であった。 その過ちを反省し、是正することが、国際社会の責務ではないのか。

パレスチナの地に、ユダヤの宗教国家としてのイスラエルが存続する限り平和はありえない、とする 一部の強硬派イスラム教徒の主張は、遺憾ながら、正しいように思われる。 二国家共存による住み分けではなく、信教の自由が保証された単一国家の形成が、唯一の可能性ではないか。 信教の自由を認めるかどうかはイスラエルの国内問題だから、などといって口を挟むことをはばかるのは、不誠実である。 諸君は 21 世紀に入ってからも、アフガニスタンやイラクで国内問題に口を挟み、軍事的に介入して現地政府を転覆し、 新しい政治体制を構築したではないか。 ウクライナ東部に住むロシア人の独立を阻止するために、 ウクライナ軍に対する武器支援などを通じ積極的に介入しているではないか。

なおパレスチナ問題について、ウクライナの大統領がイスラエル支持の声明を発したことを、我々は忘れない。 イスラエルの行動を支持しながらロシアの軍事行動を非難する、というダブルスタンダードを、私は認めない。


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