学術研究の成果を宣伝する目的でプレスリリースなどを通じた広報が盛んに行われている。 その取り組み自体は結構であるが、大衆向け広報にあたっては、学会発表や論文以上に、科学的誠実さが必要である。 専門家を相手にする学会や論文では、研究成果の妥当性に対する評価は聴衆・読者に委ねる、という態度でよい。 しかし大衆向け広報では、読者は研究の妥当性を評価するだけの学識を持たない素人なのだから、 不確かな内容、語弊のある内容を伝えて読者の誤解を誘導するような広報は、社会的に不誠実であるといえよう。 さらにいえば、その広報を仲介する報道関係者には、発表者の主張の妥当性を判断できる程度の学識が求められる。 我々は xx 大学の oo 教授の発言内容を伝えているだけで、その真偽は知りません、というのであれば、 「我々は、この発表内容の真偽を確認できていない」と記事中に明記すべきである。
8 月 28 日付の朝日新聞に無料記事として 難解な医大の論文、6 分半のアニメで「見える化」 未来の医療知って というものが掲載されていた。 福島県立医大が、研究内容を一般向けに「わかりやすく」説明する動画を YouTube で公開した、というものである。 こうした取り組み自体は結構であるが、はたして、その広報内容は適切であるか。 ここで紹介された論文は H. Tanabe et al., Diabetologia 67, 2446-2458 (2024). である。 この Diabetologia という論文誌は European Association for the Study of Diabetes という学会が 刊行している雑誌であるらしいが、私は専門外なのでよく知らない。
機械学習に多少なりとも通じている人であれば、動画中にも紹介されている本論文の図のうち Receiver Operating Characetristic (ROC) 曲線に違和感をおぼえるのではないか。 本論文は「AI を用いて糖尿病のクラスター分類を行った」というものであるが、 ここでいう AI とはランダムフォレスト法のことである。 ランダムフォレスト法は古典的な機械学習法であり、昨今の流行である深層学習とは異なり 少ない計算量で実行可能であるが、簡便なだけに精度は低いのが通常である。 ところが本論文の Figs 1 and 2 では ROC Area Under theCurve (AUC) が 1 に近い、 極めて理想的にみえる ROC 曲線が描かれているのである。 なぜ、ランダムフォレスト法で、これほどの精度が出せたのか。
これを理解するには、本論文で取り扱っている Ahlqvist の糖尿病サブタイプ分類 (E. Ahlqvist et al., Lancet Diabetes Endocrinol. 6, 361-369 (2018).) の定義が肝要である。 Ahlqvist のサブタイプ分類は、患者の検査値を教師なし機械学習の一種である k-means 法で クラスター分類したものであり、患者間の相対的な分類に過ぎない。 つまり論文中の Fig. 1 は、教師なしの k-means 法を、教師ありのランダムフォレスト法で再現できた、 という自明なことを確認しているだけであり、著者がなぜこの図をわざわざ掲載したのか、よくわからない。 本論文で重要なのは、Ahlqvist の k-means 法に含まれていた HOMA2-B, HOMA2-IR を説明変数から除外しても それなりの ROC を保つことができた (Fig. 2b) という点である。
問題なのは、Tanabe らが解析対象とした Ahqvist のサブタイプ分類である。 糖尿病を病態ではなく検査値に基づいて分類するという点には、 病理学的、あるいは臨床検査医学的な観点からは違和感がある。 「同一の患者であっても、解析の母集団によって分類が変わる」という時点で、 病態の本質からは乖離していると考えられる。 この違和感、気持ち悪さは、たぶん糖尿病の研究者達も感じているのではないか。
Tanabe らの報告は、Ahlqvist の分類においてインスリン関連変数、具体的には C-ペプチド, HOMA2-B, および HOMA2-IR が必須ではない可能性を指摘している点で学術的に興味深い。 「インスリン抵抗性」という、病理学的によくわからない変化の本質に迫る一歩である可能性がある。 従って私は、この論文自体には学術的意義があると考える。
しかし、福島県立医科大学の、あの動画は、違うのではないか。 あの動画では、糖尿病のサブタイプ分類という確固たる分類法が存在し、 それを特別な検査なしに簡便に判定する AI を開発した、と言っているようにみえる。 Ahlqvist の分類法自体の怪しさを隠してしまっているではないか。 研究業績を大きく宣伝したい気持ちはよく理解できるが、これは誇大広報であると思う。 もっとも、誇大広報は世界中で多くの研究者が行っていることであるし、 大きく宣伝した者が社会的に注目と研究資金を集め、 結果として研究資源が有効に活用されず、科学の進歩が阻害されているのが現状であるから、 本件が他の事例に比して特に問題だと言っているわけではない。
機械学習の分野で、標準化 (normalisation) と正規化 (standardisation) の相違について言及されることがあるらしい。 曰く、標準化とは通常、データが一定の範囲 (たとえば 0-1) に収まるように 全ての値に定数を乗じてスケーリングすることをいい、 正規化とは「平均 0, 標準偏差 1」になるように定数を加減乗除してスケーリングすることをいうらしい。
このような記載は、日本語に限らず英語のウェブサイトでも広くみられるのだが、馬鹿げている。 これは数学や統計学の基礎を修めずに、scikit-learn などの既存ライブラリを使う 小手先の作業だけで機械学習を「扱っている」気分になっている人々が、いかに世の中に多いかを表しているのだろう。 諸君は一体、大学で何を学んできたのか。
Normal とか standard とかいう語の混乱には長い歴史がある。 ガウスの誤差理論が確立された頃に「正規分布 (normal distribution)」という語が創出されたが、この命名が悪かった。 本稿では敢えて、いわゆる正規分布をガウス分布と呼ぶことにする。 誤差がランダムに生じる、という仮定に基づくガウス理論では、確かに測定値はガウス分布に従う確率変数として 表現されるので、これを normal と表現したくなるのは理解できる。 しかし、これはランダム誤差の解析に限った話であって、世の中に存在するデータのほとんど (if not all) は ガウス分布に従わない。 それにも関わらず、統計学は数学理論的に解析が容易なランダム誤差の解析に特化して進歩し、 その過程で「平均 0, 標準偏差 1」の「正規分布」を特に「標準正規分布 (standard normal distribution)」と呼ぶ 慣習が根付いた。 これは、ガウス分布を normal distribution と命名してしまったために、 「規格化 (normalise) されたガウス分布」を normalised normal distribution と呼ぶのが紛らわしく、 やむなく normal と同義である standard の語を用いて standard normal distribution と呼んだのではないか。 繰り返すが、これが標準 (normal) だとか正規 (standard) だとかいうのは、ランダム誤差の解析に限った話である。
さて、ランダム誤差に限らない一般のデータ解析において、主に数値処理上の都合から、 データを何らかの形で「揃える」作業をすることがある。 最大値と最小値の範囲を規定するとか、分布の形状を規定するとか、いろいろ方法は考えられるが、 この種の「揃える」作業を英語では normalise, 日本語では規格化とか標準化とか呼ぶ慣習が成立した。 この normalise はガウス分布を意味する normal とは全く異なる意味である点が紛らわしい。
このことから、標準化 (normalise) を「データの最大値と最小値の範囲を揃えること」などとする説明が 正しくないといえる。 それは min-max method などと呼ばれる手法であり、normalisation の一種であるが、他にも様々な方法による normalisation が可能だからである。 なお、英語のウェブサイトでは、その点をふまえた解説が行われている例も多く、 日本語ユーザーよりもキチンと学んだ者が多いことが示唆される。
Normalisation の一種として「平均 0, 標準偏差 1」にデータを揃えることもあり、 これは z-score method などと呼ばれる。 冒頭に述べた説明は、この z-score 法を特に正規化 (standardization) と呼んでいるわけであるが、 この流儀がいかなる経緯で発生したのかは、知らぬ。 もし対象データがガウス分布に従っている、いわゆる normal distribution であるならば、 この方法による規格化によりデータが standard normal distribution になるので、 そのあたりから発生した言葉なのではないかと想像される。
要するに、normalisation も standardisation も、基本的には同じ意味であると考えてよかろう。 ただ、ガウス分布の場合に限り、z-score normalised の意味で standard と呼ぶ用法が歴史的に確立されている。
私は、日本語では「規格化」、英語では normalise の語を常に使い、 具体的にどのような規格化であるのか (min-max 法, z-score 法, ヒストグラムマッチング法など) を 明記するようにしている。 これで混乱が生じることはない。 Normalise や standardise という語に、特定の方法を指すかのような意味を持たせるべきではない。
ベンチマークついでに PC 自作情報も少し書いておく。 費用対効果に優れた、いわゆるミドルレンジの GPU として AMD Radeon RX 9060 XT が発売されたのは 今年の 6 月であるらしい。 おおよそ NVIDIA GeForce RTX 4060 と同程度の性能だが、ビデオメモリ 16 GB モデルの存在などにより人気のようである。
私は Hanoi と Dublin に、この Radeon RX 9060 XT を搭載した。 Hanoi は ASUS Prime Radeon RX 9060 XT 16GB GDDR6 OC Edition, Dublin は 玄人志向 RD-RX9060XT-E16GB/DF である。 前者の選定理由は「私が ASUS 派だから」というだけのことである。 Dublin も同製品を搭載したかったのだが、設置場所の都合で採用した Silverstone SG11 ケースの仕様に「グラフィックスカードの幅制限 113 mm」とあるため、 幅 126 mm の ASUS 製品は積めないように思われたからである。 これに対し玄人志向の製品は小型で幅 109 mm であるため、問題なさそうであった。
この ASUS 製品と玄人志向製品の最大の相違点はファンの数である。 ASUS の方は 3 ファンであるのに対し玄人志向は 2 ファンである。 当然、この差は冷却能力の差に直結するであろうが、2 ファンの玄人志向製品でも冷却能力は充分である、 というようなレビューをみかけたし、SG11 より大型のケースを採用することも難しかったので、この構成に決めた。
実際に組んで全力の PyTorch-ROCm 並列計算を行ってみると、両者の間には顕著な差がみられた。 GPU 100% 使用しながら rocm-smi で温度を確認すると、 Helsinki の ASUS 製品は 46度 程度であるのに対し、 Dublin の玄人志向製品は 75度 程度であった。 また Dublin のケースは、ビデオカード周辺が非常に熱くなっていた。
一応、動作に問題はない程度ではあるが、Dublin の冷却が足りていないように思われる。 SG11 には、グラフィックカードの上に追加で 80 mm のケースファンを搭載スロットがあるのだが、私は使っていない。 というのも、このケースはエアフローが乱雑で、ここにファンを付けても効果が乏しいように思われたからである。 なおこのケースの排気性能不足は他の人も 指摘しているようである。 とはいえ、micro ATX マザーボード搭載可能で小型なケースとしては優秀なので、 諸君が背の低い GPU 搭載 PC を組みたい時には検討されるとよい。
PC のベンチマーク情報はインターネット上に溢れているが、大抵は美麗なグラフィックを伴う ゲームを念頭においたものであり、我々が行うような数値計算とは事情が異なる。 そこで今回、私が実際に研究として計算しているデータを用いたベンチマークを行った。 詳細は伏せるが、これは PyTorch を用いた深層学習であり、 CPU または GPU でのベンチマーク用にパラメーターを調整したものである。 ここで用いた深層学習は単純な多層パーセプトロンモデルで、中間層は 1 層、 ノード数は入力層 40, 中間層 16,384 (GPU) または 4,096 (CPU), 出力層 2 である。 学習データ数は 300 万、バッチサイズは 8192, エポック数は 30 (GPU) または 20 (CPU) とした。 タスクとして 1) CPU のみ, ジョブ 1 個; 2) GPU のみ, ジョブ 1 個; 3) CPU のみ, ジョブ 3 個自明並列; 4) GPU のみ, ジョブ 3 個自明並列; 5) CPU ジョブ 3 個 + GPU ジョブ 3 個の自明並列; の 5 通りを行い、 それぞれの処理完了までに要する時間を 5 回計測し、中央値を採用した。 この処理時間には NFS を介するファイル転送なども含まれており、実際の研究における処理を模したものになっている。 なお Helsinki, Muscat, Venezia は PyTorch 2.7.1 + CUDA, Hanoi と Dublin は PyTorch 2.8.0 + ROCm 6.4 である。 結果を表に示す。
Hotname | CPU 1 ジョブ | GPU 1 ジョブ | CPU 3 ジョブ並列 | GPU 3 ジョブ並列 | CPU + GPU 6 ジョブ並列 |
---|---|---|---|---|---|
Helsinki | 12 分 30 秒 | 4 分 48 秒 | 26 分 4 秒 | 7 分 1 秒 | 28 分 40 秒 |
Muscat | 12 分 24 秒 | 4 分 54 秒 | 24 分 10 秒 | 7 分 9 秒 | 32 分 23 秒 |
Venezia | 20 分 57 秒 | 5 分 8 秒 | 38 分 53 秒 | 7 分 18 秒 | 39 分 49 秒 |
Hanoi | 17 分 53 秒 | 5 分 5 秒 | 22 分 10 秒 | 8 分 12 秒 | 23 分 11 秒 |
Dublin | 23 分 31 秒 | 5 分 32 秒 | 31 分 0 秒 | 9 分 9 秒 | 33 分 11 秒 |
CPU と GPU でジョブの処理に要する時間の差が大きすぎた。 GPU のエポック数を 75 程度にすれば良かったのだが、やり直すのは面倒なので、このまま考察する。
まず不可解な点として、Hanoi と Dublin は CPU 1 ジョブの際の処理が異常に遅い。 top コマンドで演算中の CPU 使用率をみると Helsinki は 1000% を超えるのに対し、 Hanoi 900% 程度、Dublin 450% 程度となっており、CPU コアを使い切っていない。 PyTorch が CPU コア数を正しく認識できていないようにみえるのだが、詳細は検討していない。 これはソフトウェア的な問題だと思われるので、ハードウェアの性能評価としては今回の CPU 1 ジョブの値は使えない。
RTX 4060 (Helsinki, Muscat, Venezia) と RX 9060 XT (Hanoi, Dublin) の間で著明な差はみられなかった。 Dublin がやや遅かったのは、メインメモリ (DDR5-3600) の遅さがが足を引っぱったものと思われる。
面白いのは CPU 3 ジョブ並列の結果である。 まず Helsinki と Muscat を比較すると、前者の方が CPU は優れているはずなのに、成績では後者に負けた。 この処理時間の比 (1.08) は両者のメモリ速度比 (5200/4800 = 1.08) と一致した。 すなわち、この演算の処理速度は CPU ではなくメモリの速度で律速されていたと考えられる。 私が PC 自作を始めた中学生や高校生の頃は、PC の演算速度は主に CPU で規定されるものと考えられており、 メモリ速度は 1% 以下の差を追求するオーバークロッカーなど 一部のマニアだけが気にする問題であったように思う。 しかし現代では CPU の速度向上に比してメモリ速度の向上が乏しかったために、CPU ではなくメモリが 全体の演算処理速度を規定することが稀ではないのである。 このような時代にあって、CPU に過剰な投資をするのは研究費の効率的な使用という観点からは無駄であるから、 諸君が研究用 PC を新調する際には構成をよく検討されるべきである。
Venezia は Ryzen 9 とはいえ旧式の AM4 規格であり、当然メモリも低速の DDR4 であることを反映し、 CPU での処理はたいへん遅かった。 しかし GPU での処理では問題ないのだから、Helsinki や Muscat との価格差を考慮すれば費用対効果は高かったといえる。
Hanoi は CPU 3 ジョブで CPU コアを使い切っている状況では速かったが、 Helsinki との速度比は 1.17 であり、メモリの速度比 (6000/4800 = 1.25) よりもやや低かった。 また Dublin は遅いものの、Helsinki との速度比は 0.84 であり、メモリの速度比 (3600/4800 = 0.75) よりは高かった。 大雑把な近似として、どうやら計算速度はメモリ速度の 2/3 乗ぐらいに比例しているようにみえる。理屈はわからない。
もう一つ、当然といえば当然だが注意すべき結果として、CPU 3 ジョブ自明並列計算を行っているところに GPU 自明並列ジョブを追加しても、全体の計算時間はあまり伸びなかった。 これは、GPU ジョブではメインメモリからビデオメモリの間の転送を要するものの、 演算の過程ではメインメモリへのアクセスがないために CPU ジョブを妨げない、という理解でよかろう。
結論としていえることは、現代ではメモリアクセスがボトルネックとなるために、 私のような数値計算では CPU の性能を使い切るのは難しい、ということである。 CPU キャッシュを効率的に使うよう最適化したプログラミングを行っている場合はどうだか知らぬが、 私程度の素人では Ryzen 9 9950X のような宝物を使いこなせていないようである。
私は自分の研究専用の計算機として、7 台の PC を研究室に設置している。 このうち 1 台は事務作業用、もう 1 台は研究データ管理用のファイルサーバーであり、残る 5 台が計算用 PC である。 今回、これらの計算用 PC の演算能力を評価・比較したので、記録しておく。 まず、これらの計算機の概要を示す。
Hostname | CPU | GPU | RAM 動作条件 |
Storage | OS | 運用開始 | 調達価格 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
Helsinki | Ryzen 9 7945HX 16 コア |
GeForce RTX 4060 8 GB |
32 GB (16 GB x 2) DDR5-4800 40-40-40-77 |
SSD 1 TB | Linux 6.1.0 Debian 12.11 |
2024.05 | 24 万円 |
Muscat | Ryzen 9 7845HX 12 コア |
GeForce RTX 4060 8 GB |
32 GB (16 GB x 2) DDR5-5200 タイミング不明 |
SSD 1 TB | Linux 6.1.0 Debian 12.11 |
2025.04 | 20 万円 (新品時) |
Stockholm | Ryzen 5 5500 6 コア |
n/a | 32 GB (16 GB x 2) DDR4-2133 16-18-18-38 |
HDD 2 TB HDD 10 TB |
Linux 6.1.0 Debian 12.11 |
2025.06 | 11 万円 |
Venezia | Ryzen 9 5900XT 16 コア |
GeForce RTX 4060 8 GB |
32 GB (16 GB x 2) DDR4-2133 16-18-18-38 |
SSD 256 GB | Linux 6.1.0 Debian 12.11 |
2025.06 | 15 万円 |
Hanoi | Ryzen 9 9950X 16 コア |
Radeon RX 9060 XT 16 GB |
64 GB (32 GB x 2) DDR5-6000 (EXPO) 30-40-40-96 |
HDD 2 TB HDD 20 TB |
Linux 6.1.0 Debian 12.11 |
2025.07 | 34 万円 |
Dublin | Ryzen 7 9700X 8 コア |
Radeon RX 9060 XT 16 GB |
256 GB (64 GB x 4) DDR5-3600 36-44-44-96 |
HDD 2 TB | Linux 6.1.0 Debian 12.11 |
2025.08 | 34 万円 |
Helsinki は私が大学院に入学してから計算用に私費購入したラップトップ PC である。 Ryzen 9 (16 コア), RTX 4060 搭載の ASUS ROG G713PV が 23 万円と安かったため購入した。 メモリは 16 GB と心許なかったので 32 GB に換装した。 この Helsinki は 2024 年度を通じて私の唯一の研究用計算機であったが、 2025 年夏に Hanoi が登場したことで主力計算機の座を明け渡した。
Muscat は 2024 年春に計算用に 20 万円で購入した Ryzen 9 (12 コア), RTX 4060 搭載のラップトップ PC, ASUS TUF FA607PV である。 ところが購入直後に 16 コアの Helsinki がセールで手に入ったため、未開封状態で妻に譲渡した。 その後、2025 年度に入って Helsinki のみでは演算性能の不足が目立ってきたため、妻から再譲渡を受けて 私の計算用 PC としてデビューした。
Stockholm は Helsinki や Muscat のストレージ不足を補う目的で自作したファイルサーバーである。 今回の PC 群の中で唯一、私費ではなく研究費で購入した。 当初は 10 万円以内に収めるつもりであったが、CPU にグラフィック機能がついていないことを見落としていたため 追加でグラフィックボードを購入した。
Venezia は「今なら AM4 の構成で安く 1 台組めるのではないか?」と考えて追加した計算サーバーである。 省スペースのために Mini ITX, ケースは Silverstone SUGO 16 で組んだキューブ型 PC である。 CPU の Ryzen 9 5900XT に対し CPU クーラーは noctua NH-L9a-AM4 と小型構成であり、 noctua の CPU compatibility list では Cooler cannot handle base clock となっているが、実際には問題なく冷却できている。
Hanoi 誕生の経緯はいささか複雑である。 陸奥大学 (仮) では昨年度、JST SPRING を受給している博士課程大学院生向けの研究費として 年間 34 万円の基本額に加え、最大で 100 万円以上の追加支援が行われた。 私は、今年度の追加支援に計算用高性能 PC の購入費を申請するつもりであったので、 支援の詳細が発表されるであろう夏を待っていた。 ところが 6 月になって今年度の追加研究費は国際学会のための海外渡航支援しか行われないことが発表された。 私は憤然とし、私費でのモンスター PC 構築を決断した。 当初 Ryzen 9 9950X, Radeon RX 9060 XT 16 GB, メモリ 256 GB (64 GB x 4) で構築したのだが、メモリアクセスが遅すぎ、期待された性能を発揮できなかった。 そこで AMD EXPO を発動したが、今度は起動すらできなくなった。 やむなく 256 GB メモリを諦め、64 GB のメモリを購入し直して、Hanoi としてデビューした。
上述のような Hanoi デビューまでの混乱の結果、14.4 万円で購入した 256 GB 分の DDR5 メモリが余った。 私は今年度中に 256 GB のメモリを必要とする大規模計算を行う計画なので、今のうちに、 この 256 GB を搭載した PC を追加で組んでおくことにした。 その結果、誕生したのが Dublin である。 DDR5-3600 での動作になるため CPU 性能が過剰とならないよう、当初は Ryzen 5 9600X を搭載する予定であった。 ところが私はうっかりドスパラで Ryzen 5 9600 を購入してしまった。 9600 は 9600X に比してごく僅かに性能が劣る一方、 価格は 1,000 円ほど安く、しかも CPU クーラーが附属するので経済的である。 だが私は 9600X を購入したつもりだったので、CPU クーラーとして noctua NH-L9A-AM5 も購入してしまった。 結果として CPU クーラーが無駄になるため、恐縮しつつ Ryzen 5 9600 は未開封で返品した。 代わりに新しく Ryzen 5 9600X を購入してもよかったのだが、 送料を負担しドスパラに面倒をかけてまで返品した上で ほとんど同等の品を買い直すのも悔しかったので、 構成を変更して Ryzen 7 9700X を購入した。 こうして、メモリ速度の割に CPU が過剰な Dublin が誕生した。 設置場所の都合上、高さを低く抑えたかったので、ケースは Silverstone SG11 を採用した。
私は CPU については AMD 派である。 PC 自作を始めた中学生の頃は Intel 派であったが、 京都大学工学部在学中に Pentium 4 Prescott の異常発熱対策として水冷を導入したものの、 ほどなくして温度センサの故障で警報が止まらなくなり、最終的にクロックダウン + 空冷で対応した。 それ以来、Intel CPU は買っていない。 GPU については NVIDIA は「シェアが大きすぎる」という理由で嫌いなのだが、 深層学習ライブラリ PyTorch を CUDA で動かすために、当初はやむなく GeForce を購入していた。 しかし Radeon + ROCm でも問題なく PyTorch できるらしい、という情報を入手したため、 Hanoi 以降は Radeon に切り替えた。 これで問題なく動作しているので、今後 GeForce を購入する予定はない。
次回、ベンチマークの内容と結果を記す。
朝日新聞に 共生の鍵は祭り? アフリカの少年が日本で漫画家になって考えたことという有料記事が掲載されていた。 アフリカ諸国はいずれも人口増加が続いており、外国への移民も多く、世界的に存在感が増している、というような 内容である。 記事では出入国在留管理庁の統計を紹介しており、それによると 2024 年末時点での在日アフリカ人は 23,788 人であり、10 年前のほぼ二倍であるという。
ここまで読んでいただければわかると思うが、はなはだ無思慮な記事である。 アフリカ人、とは、いったい、どういうことなのか。
たとえば諸君がヨーロッパに旅行したとする。 思慮の浅い現地人が、日本人も朝鮮人も中国人も区別せずに「アジア人」と認識して 「ニーハオ」などと諸君に挨拶したとしよう。 諸君は、どう感じるだろうか。 さらにいえば、日朝中だけでなくインド、イラク、トルクメニスタン、ベトナム、その他の国々を 「アジア人」と一括した上で「アジア人の移民が云々」などと議論されたら、諸君は何を思うであろうか。
いうまでもなくアフリカは広大である。 エジプトやモロッコをはじめとする北アフリカと、ナイジェリアのような西アフリカ、 エチオピアやケニアなどの東アフリカ、さらに南方の南アフリカ共和国など、 アフリカは民族も宗教も言語も多様な人々が構成する大陸である。 日本とバングラデシュが異なるのと同じぐらい、モロッコとコンゴの文化・社会・経済は異なるのである。 これを「アフリカ人」と括って論じるのは、アフリカ諸民族に対する関心が乏しい証左である。
書いている途中で、何とも思わなかったのか。
毎年、この時期になると平和について、あるいは戦争について述べる言説が増える。 それは良いし、重要なことだと思うのだが、朝日新聞などは 「平和の尊さ」などを繰り返すばかりで、思慮の浅い論述が多いように感じられる。
平和は尊い、戦争はするべきではない、という点については、ほとんどの人が賛同するであろう。 日本に住む人々だけでなく、米国人も、アフガニスタン人も、アイルランド人も、同意するであろう。 米国のトランプも、ロシアのプーチンも、イスラエルのネタニヤフも、イランのハーメネイーも、皆、平和を望んでいる。 ハマースもシオニストも、ロシアもウクライナも、インドもパキスタンも、 中華人民共和国も台湾も、クルド過激派も、誰も戦争を欲してはいない。
ただひたすらに平和は尊いと繰り返す人々、戦争はいけないと説き続ける人々は、 そうした世界中の紛争当事者達が戦争を望んでいるとでも思っているのだろうか。
彼らにはそれぞれの事情があって、やむをえず戦っているのである。 その事情を無視して「平和は尊い」と当然のことを説くのは、他者に対する無理解、無配慮の表出であり、 自分の価値観を無自覚に押しつけているのであって、紛争当事者を侮辱しているのではないか。 そういう態度こそが戦争の根源なのではないか。
「平和は尊い」と主張するのは簡単である。 誰もが思っていることを述べているだけなのだから、その主張を批判される恐れはないし、 安心して「自分は正しい」と信じて言葉を発することができる。 簡単で、無責任な言説である。
真に平和を望むなら、紛争の根源を解消することを主張しなければならない。 そのためには、誰かの主張を否定しなければならない。 反論や批判を受けることを覚悟して、議論しなければならない。 批判を受けないような「安全な主張」を繰り返して平和に貢献しているかのように思うのは、卑怯である。
「アラブ系パレスチナ人の主張はわかる。シオニストの立場も理解できる。しかし両者ともに矛を納めよ。」というのは、 矛盾している。 パレスチナは、アラブ人がパレスチナに主権者として住む権利を主張しているのに対し、 シオニストはパレスチナを「神がユダヤ人に与えた地」としてユダヤ人の他民族に対する優越を主張しているのであって、 両者の主張には共存の余地がないのである。 これを収めるには、少なくとも一方の主張は否定しなければならない。
私の見解では、信教によって公然と人を差別するシオニストの主張は認められない。 思想の自由、信教の自由は、人類に普遍的に認められるべきであり、この点は譲れない。 宗教国家が容認されるのは、それを国民が主体的に受け入れた場合に限られる。 パレスチナの地には少なくとも 2,000 年前から非ユダヤ教徒が少なからず存在している以上、 かの地にユダヤ教国を樹立することは認められない。 仮に二国家解決を図る場合、エルサレムなどの重要な土地をシオニストが占有する形での二国家併存は許容されない。 それよりも、信教の自由を保証するユダヤ・アラブ混成国家の樹立を目指すべきである。 だいたい、かの地ではシオニストがイスラエル建国を主張するまで 2,000 年以上にわたり、 多宗教多民族が適度に融和して存続していたのである。 シオニストの主張する「ユダヤ人の優越」さえ社会的に否定されれば、誰もユダヤ人を迫害などしない。
近年、社会的な多様性がしばしば論争の的となっている。 国会議員や会社役員、あるいは学会発表の登壇者などについて、 性別や人種などが多様であることを重視する考えが広まっている。 多様性を重視するために、議員定数や大学入学者に女性枠などを設け、男女の均衡などを図る試みもある。 これに対し、過剰な女性優遇である、男性差別だ、などと批判する意見もある。 これらを、どう考えるべきか。
なぜ多様性が重要なのか、という点について思索の乏しい人が多いのではないか。 性別や人種に基づく不当な差別はいけない、ということには、まず異論はないであろう。 問題は、具体的に何が差別なのか、という点である。
政治家としての適性、科学者や医師としての適性について、 男女や人種の別そのものが重大な影響を与えると考えるのは無理がある。 もし社会に性差別や人種差別が全く存在しなかったならば、 政治家や科学者の数について、男女比や人種比は、社会全体の男女比・人種比と概ね等しくなると推定される。 従って、政治家や科学者の構成比が社会全体の構成比から大きく乖離しているならば、 どこかに不当な差別が存在すると考えられる。それはよくない。 つまり男女比が偏っていること自体が問題なのではなく、それが示唆する差別の存在を我々は問題視しているのである。 たとえば、仮に世の中の男女比が 9:1 であったならば、政治家の男女比が 9:1 と大きく偏っていても何ら問題はない。
従って、国会議員や大学入学者に女性枠や少数民族枠を設けることは、 結果として構成比を是正するものの、社会に存在する差別を解消することにはならず、 むしろ差別をみえにくくし、問題を隠蔽することに他ならない。 なお、いうまでもないことだが、ここでは入学試験に際し男性を加点し女性を減点する、というような 不正な工作を行う某大学医学部のような事例は問題にしていない。 そういう知能の低い野蛮な差別主義者を、我々は相手にしない。
中には、多様な社会的背景を持つ人々を取り込むことで多様な考え方が生まれ云々、と、 多様な人々が存在すること自体に意義があると主張する者もいる。 たとえば女性らしい視点でどうこう、と訴えて選挙に立候補する人々である。 しかしこれは、多様性を訴えているようにみえて、実は差別を固定化する差別主義者的な思考である。
そもそも「女性らしい視点」などというものが、存在するのか。 男性の考え方、女性の視点、などというものが存在すると認めるならば、 そうした性差による能力や性向の違いを認めることになる。 結果として、医師は男性向きである、看護師は女性向きである、女性は政治家に向かない、 物理学や数学は男性の学問である、というような、 性別に基づくステレオタイプを正当化することになる。 「女性らしい視点」を主張する人々は、フェミニストのふりをした差別主義者であるといえよう。
繰り返すが、多様性は、それ自体が重要なのではない。 差別がなければ多様になるはずなのに、現実はそうなっていない、ということが問題なのである。 多様性を欠いている現状が、重大な差別の存在を意味しているから、ダメなのである。 形式的な多様性のみを実現しても意味がなく、むしろそれは、新しい差別を生みだしているに過ぎない。
既に同じようなことを何度か日記に書いたが、何度でも書こう。 これは人類の尊厳を侵犯する蛮族との戦いであり、文筆家である私にとって最大の武器は文章だからである。
朝日新聞の イスラエル・パレスチナ問題 特集ページは 「イスラム組織ハマスが 2023 年 10 月 7 日、イスラエルに大規模攻撃を行いました。」 という記載から始まっている。 それまで 75 年間にわたり、イスラエルと称する武装勢力は パレスチナ人の住居をブルドーザーで破壊し住民を轢殺し、 工場や行政施設および報道機関を空爆し、抗議する民間人を戦車で駆逐し、 投石する少年を銃撃し、報道記者を狙撃し、 パレスチナ人を排除した土地を接収して植民し続けてきたことには触れずに、である。 イスラエルによる徹底した経済封鎖のために、食料も燃料も正規の経路で輸入することはできず、 エジプト等からの密輸に頼る以外に生きる術がなかったパレスチナ人の苦境にも、もちろん言及することなしに、である。 むろん、これらの行為は非人道的であるだけでなく、国連憲章や国連安保理決議にも反しているのだが、 イスラエルを批判することは悪だと信じている欧米諸国からの支持を背景に、 かの蛮族は公然とパレスチナ人に対する虐殺を続けてきた。
朝日新聞をはじめとして、日本のマスコミの多くはパレスチナ情勢について、著しく偏った報道を続けている。 たとえば パレスチナ国家樹立まで「武装解除はしない」 ハマスが声明 という記事では、ハマスが強硬に武装闘争路線を貫くことで 和平が阻害されているかのような印象を与える報道がなされている。 これは「イスラエルは信用できる」という前提に立った報道であるが、 これまでにイスラエル政府がどれほど嘘をつき、アラブ人を欺いてきたか、 どのようにアラブの民間人を虐殺してきたか、という歴史を知らない記者が書いたのであろう。 この点については同記事の「コメントプラス」として川上泰徳氏がコメントを書いており、 たぶん会員登録なしで読めるので、ぜひ読まれるとよい。
ガザについては、イスラエルと称する武装勢力の高官や、そのスポンサーである某合衆国の首領などが 「住民のパレスチナ域外への移住案」に言及している。 朝日新聞などは、これについて淡々と「事実」を 書いているために、 それも一つの「やむをえない選択」であると勘違いする者が、無知な読者の中にはいるのではないか。 NHK は、これについて イスラエル ガザ地区南部に住民移住計画 戦争犯罪などと批判もと批判的な声も伝えているが、かなりトーンが弱い。
言うまでもないことであるが、軍事力を背景に地域住民を脅迫し移住を強制することは、典型的で明確な戦争犯罪である。 BBC は、この公然たる戦争犯罪計画を批判する声を 比較的詳しく報道しており、 日本語訳もなされているので、 よくわかっていない人は読まれるとよい。
我が母校たる京都大学は、ウクライナから逃亡してきた学生を 積極的に留学生として受け入れている。 そうした動きを、イラクやアフガニスタン、パレスチナ、ミャンマーなどでの事態に対して行ったとは聞いていないが、 なぜウクライナだけが特別なのか。 ウクライナは文明国であり学術水準も高いが、 イラクやパレスチナの野蛮人は京都大学の学術水準に達していないとでもいうのか。 なお、京都大学の学生や教員には人間としての良識を備えている者が 少なからず存在するようである。
博士課程の学生は、何らかの研究を行い、それを投稿論文や学位論文にまとめ、 審査を受けて博士の学位を授与されることになる。 研究を行うには、資金が必要である。 化学や生物学の実験を行うのであれば試薬購入費や実験動物の飼育費が必要であろうし、 私のように数値計算を中心とする研究ならば計算機購入費が必要である。 それらの資金は、一体、どこから拠出されるのであろうか。
既に研究室として行っている研究プロジェクトの一員として博士課程学生が加わる場合は、話は簡単である。 そのプロジェクトを遂行するための資金を、教授か誰かが既に 日本学術振興会の科学研究費 (いわゆる科研費) などとして 確保しているはずであるから、それを用いて研究して論文を書くのである。 ただし博士課程学生の研究として、それで良いのか、という疑問が残る。
研究を行うにあたり本当に重要なのは、実験作業や数値計算処理を行うこと自体ではなく、 どのような研究を行うのか、どのような手法で行うのか、その妥当性を考え計画を立てることであろう。 実験や計算の作業自体は、高校生に多少のトレーニングを施せば実施可能であって、それ自体は難しくない。 学識がなくとも、優れた論理的思考能力がなくとも、できるのである。 その意味で、中学生や高校生に実験などを体験させるのは科学への関心を高める意味では有効であるものの、 実験すること、計算すること自体が研究であるかのような勘違いをさせないよう、指導者は細心の注意を払うべきである。 中には中学生や高校生に学会発表や論文発表をさせることで立派な教育をしているかのように自慢する指導者もいる。 学会発表や論文発表すること自体は 参加費や掲載料を払えば簡単にできるので、 発表したからスゴい、国際論文誌に載ったからスゴい、ということはないのだが、世間ではしばしば誤解されている。 はたして、その中学生や高校生は、本当に科学的思考を身につけているのだろうか。
既存の研究プロジェクトに加わって、つまり既に研究計画が立案され、研究の遂行方法の大枠が決まっているところに 後から加わって学位を取得する者は、はたして、本当に博士の学位に値するのだろうか、 ということを私は述べているのである。
中には、研究費自体は教授の科研費を使っているが、研究計画自体は自分で立案している、という者もいるであろう。 その場合、研究の質自体はよろしいかもしれないが、科研費を申請した際とは異なる内容の研究を行っているので、 研究費の不正使用、目的外流用にあたり、研究倫理上の問題がある。
既に何らかの財源で購入されて研究室の備品となっているが 研究期間が満了して用途の制限がなくなっている計算機等のみを用いて研究を行う場合には問題ないのだが、 これで満足な研究を行うことができることは稀である。
従って、博士課程学生がマトモな研究を行うためには「その博士学生のための研究費」がある程度必要である。 ところが現在の日本の多くの大学では、学生のための研究費、などというものは存在しない。 学生には原則として科研費の申請資格がないし、民間の研究助成金は競争が厳しく、 獲得できるとしても、よほど例外的な場合を除いては 博士課程の 2 年目に申請して 3 年目に交付されるようなスケジュールになるから、 それを財源として研究を始めるのでは博士論文には間に合わない。
昨日述べた JST SPRING の場合、学生一人に年間 34 万円の研究費が交付される。 まぁ、ちょっとした計算機一台分の金額である。 ないよりはマシだが、世界水準の研究をするには、かなり厳しい。
現実には、多くの学生は、これまでに述べたような「何らかの問題がある方法」で研究を行い、 博士の学位を取得しているものと思われる。 日本政府は博士号取得者数を増やそうとしているようだが、博士の学位の質については興味がなく、 これで特に問題はないという認識なのであろう。 学位を発行するだけなら簡単である。
私の場合、研究費の不足分は私費を充当している。 私費で研究用物品を購入することは公私混同につながり好ましくないし、大学によっては禁じられているようだが、 我が陸奥大学 (仮) には禁止規定が存在しない。 一応、自分宛ての研究助成として大学に寄付する、という方法が正攻法ではあるのだが、 学生がそれをやると人間関係においてつまらない軋轢が生じる恐れがあるので、 私は、指導教員に黙ってコッソリと私費購入している。 今年度は既に 100 万円ほどを投入した。 年度末までに、さらに少なくとも 50 万円以上を投入する予定である。 大学からは「生活費相当額」として年間 216 万円の「研究奨励費」を給付されているが、 実際には生計維持ではなく研究費として使われているのである。
しばらく間隔があいたが、これは私が人生に疲れたからではなく、 日々の生活が充実するあまり執筆の余裕がなかったからである。 研修医時代から思っていたことであるが、やはり私は、医師に向いていない。 私が一般的な医師より劣っている、という意味ではなく、むしろ医師としては「上の下」ぐらいだとは思うが、 私の能力が最大限に活きる立場は医師ではない、ということである。 私は京都大学で環境に恵まれず標準的ではない道を辿ったが、 これが迂路であったのか、実は誰も知らない近道であったのかは、いずれ明らかになるであろう。
私は昨年 10 月に博士課程学生に対する公的な経済支援である 次世代研究者挑戦的研究プログラム (JST SPRING) の支給対象に選ばれた。 我が陸奥大学 (仮) の場合、対象学生には基本的に月 18 万円の研究奨励費と年 34 万円の研究費が支給される。 これに加えて、学内競争的資金として数十万円程度の追加研究費が支給されることもあるが、詳細には触れない。 これは日本の博士課程学生に対する経済的支援としては、かなり恵まれている方である。 なお、わかりにくい名称だが「研究奨励費」というのは奨学金のようなものであって、つまり個人の収入であり、 むろん使途の制限も使途報告の必要もない。
この JST SPRING について、おかしな誤解に基づく批判が一部にあるようなので、当事者の立場から説明をしておく。 JST SPRING は、制度上は留学生支援を目的とするものではないが、 現実に受給学生の少なからぬ部分が留学生によって占められているのは事実である。 ただし、これは国や大学が留学生を優遇しているからではなく、 単に SPRING に応募する学生が少ないからであろう。 SPRING 支援学生の枠は大学ごとに割り振られているようであり、 東京大学や京都大学では毎年数百人の大学院生が新規採択され 3-4 年間の支援を受けるのに対し、 北陸医大 (仮) のような地方大学では毎年の新規採択が数名程度と、少ない席を多くの学生が争うことになる。 陸奥大学については、一応は匿名で書く立場から、触れない。 この限られた席の分配について、大学によっては、ある種の思惑によるのであろう、 医学研究科博士課程に特に多くの枠が割かれているようである。 ここで問題になるのは、誰が医学研究科博士課程に入学するのか、ということである。
多くの大学において、医学研究科博士課程学生の多くは医師であろう。 そして医師の博士課程学生は、多くの場合、非常勤医師として働きながら「片手間」で大学院生としての研究に従事する。 大学病院では非常勤医師の給与は安いことが多く、 北陸医大時代の私の場合は非常勤契約で週に 38.75 時間ほど働いて月給 28 万円程度 (賞与なし、通勤手当なし)、 すなわち時給 1,700 円程度であった。 しかし市中病院に非常勤で勤務する場合は、少なくとも日当 4 万円程度、 高いところでは日当 7 万円程度、特に条件の良い当直などなら日当 10 万円に達するようなものもある。 従って、週に 2 日働くだけで少なくとも年収 400 万円程度になる。
JST SPRING の受給には「年収 180 万円未満」という収入制限があるため、 虚偽申告しない限り、大抵の医師は対象外となる。 私は非常勤病理医として働いてはいるものの、日当 4 万円、週に 1 日未満で年収は 170 万円程度であり SPRING の対象となっているが、こういう医師は少数派であろう。
結果として、医学研究科博士課程の大学院生のうち多数を占める医師のほとんどが、SPRING の対象外である。 では非医師の学生はどうなのか。 他大学の事情はよく知らないが、陸奥大学の私が知る範囲では、 医学研究科の修士課程学生のうち博士課程に進む者はごく少数であり、大抵は修士修了の時点で就職する。 あるいは、病院等に就職した上で、社会人学生として博士課程に進学する。 そのため SPRING の対象となるようなフルタイム博士課程学生の道を選ぶ日本人学生は、かなり少ない。 結果として SPRING 応募資格のある学生のうちかなりの部分が留学生によって占められている。
つまり国籍について特段の差別なしに選考を行えば、SPRING 受給学生のかなりの部分が留学生になってしまうのである。 これは留学生を優遇しているわけではなく、単に日本人学生が対象研究科の博士課程に進学しない結果である。 諸君が博士課程に進まないから、留学生に日本のカネが流れているのである。 これを問題だというのなら、その責任は、博士課程に進学しない日本人諸君にある。
長くなってきたので、続きは次回にしよう。