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2024/02/21 北陸医大教授との思い出 (2)

教授との思い出といっても、キチンと時系列に沿っているわけもないし、整然と整理されているわけでもない。思い出すままに、雑然と、しばらくは記載していくことにしよう。

細胞株、という言葉には明確な定義は存在しないようであるが、大抵「形質やゲノムが概ね均一な細胞集団」というような意味で使われることが多いように思われる。同様に「細胞株を樹立する」という語も意味は曖昧であるが、「長期間にわたり形質を維持したまま培養可能な細胞株を得る」というような意味で使われることが多いのではないか。

私は北陸医大時代、ある癌細胞由来の細胞株に対して、詳細は伏せるが、ある種の浸潤アッセイのような操作を行うことによって「浸潤能が高い細胞株」を選び出し、これと元の細胞株との間で遺伝子発現にどのような差があるかを調べる、という研究を行おうとしていた。この「選び出された細胞株」を、以後、便宜上、「高浸潤株」と呼ぶことにしよう。なお、これは我々の研究室で以前から同様の研究を継続していたものであって、いわば教授から与えられたテーマである。教授から与えられたテーマで実験・研究するだけでは、世間一般の基準でいえば、博士を称するには値しない。私は細胞を使った生物学実験については素人であったから、教授から与えられたテーマで研究を開始し、途中から独自性を発揮することで博士相当の研究に到達する目論見であった。

そもそも、形質が一様である (と思われている) 癌細胞株 (以下、親株と呼ぼう) に対して簡単なアッセイ操作を行うだけで、元の細胞株とは形質の異なる「高浸潤株」を選び出すことができる、ということ自体、興味深い話である。これは、親株も実は形質が一様ではなく、浸潤能の高い細胞と低い細胞とが混在している、ということであろう。この混在が、遺伝子の相違によるものであるのか、エピゲノム的な問題なのか、あるいは環境的な問題なのか、など、イロイロと議論の余地がある。ここを巡ってもイロイロと思うところはあるのだが、デリケートな話になるので、これ以上は触れない。

「浸潤能」という語も曖昧であり、評価方法も定まっているとはいえない。「浸潤アッセイ」と呼ばれる実験系は多数存在するが、大抵、細胞の浸潤と増殖とを明確に分離できていないため、評価には慎重を期す必要がある。我々の研究室で従来採用していた「浸潤能の評価法」は、不思議なものであった。一応、市販の実験キットを使っているのだが、販売元の推奨する方法とは異なるやり方で「浸潤能」を評価していたのである。詳細はデリケートな話になるので省くが、その方法では浸潤よりも増殖の影響を強く反映してしまうのではないか、と思われた。これについて、研究検討会で指摘したことがあるのだが、教授は「従来、これでやってきているのだから、これでよい」として、私の主張を気にも留めなかった。ある学生は、このおかしな方法で「浸潤能」を評価したために、「細胞の浸潤能が分単位、時間単位で刻々と変化する」というような実験結果になってしまった。常識的には、細胞の浸潤能がそのような短時間で変化するとは考えにくいのだが、そのような奇妙な実験結果でも、論文誌の査読を通過した。

私も、そのように、難しいことを考えずに査読を通すことだけ考えていれば容易に博士学位を取得できたであろう。実際、そうしようかと思ったことも何度もあるのだが、結局、できなかった。今から思えば、それができるぐらいなら、私は京都大学を辞めなかったであろう。

2024.02.01 追記

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