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2024/06/03 宮城谷昌光『孔丘』

好きな作家は誰か、と言われれば、私はまず宮城谷昌光を挙げる。中学生の頃、囲碁部の先輩から借りて読んだ『晏子』は、今でも私が最も好きな小説である。その宮城谷昌光が 2018 年から 2020 年にかけて書いた『孔丘』は、だいぶ前に買ったまま積んであったものを、つい先日、読んだ。

孔丘というのは、いわゆる孔子のことである。宮城谷昌光の作品には、中国のいわゆる春秋時代あたりの人物に焦点を当てた伝記的小説が多い。『孔丘』も、その一つである。あとがきによれば、宮城谷昌光は五十代の頃と六十代の頃に孔子を小説に書こうとして「むりだ」と諦めたらしい。そして七十代になって「いま書かなくては、死ぬまで書けない」とおびえつつ、自分を鼓して書く決意をしたらしい。「神格化された孔子を書こうとするから、書けなくなってしまうのであり、失言があり失敗もあった孔丘という人間を書くのであれば、なんとかなるのではないか」と肚をくくったという。

それほど書くのが難しい相手であった、ということもあるのだろうが、率直なところ、残念な作品であった。確かに面白い小説ではあるが、宮城谷がこれまで書いてきた『晏子』『楽毅』『管仲』『夏姫春秋』をはじめとする諸作品と比べると、表現のあり方に対する探求が乏しいように思われる。ほんとうに推敲したのか、と疑いたくなる部分すら、みられる。以下、特に気になった部分を挙げる。ページ番号はいずれも文藝春秋の単行本初版第一刷のものである。

最も違和感が強かったのは、324 ページである。孔丘の門弟である子説が、兄である魯の仲孫何忌と論争した場面であり、以下のように表現されている。

「無礼者め」
何忌は几をたたいて叱声を放った。弟の意見を正言とは認めたくないし、認める気もない。
「季孫氏を詆ってはならぬ。(中略) ゆえに孔先生には政治がわからぬといったのだ」
真の思想は真の不自由さから生じるものだ。それがわかるほど何忌は不自由な生活をしたことがない。その点、子説は何忌と生母がおなじでも、養母がちがうため、早くから他人とのつきあいかたを学び、客観が育った。そういう目で、兄の主観を照らせば、一理をみつけることはできる。

問題は、この「真の思想は真の不自由さから生じるものだ。」という部分である。この段落が誰の視点で描かれているのかと考えると、最初の文の「何忌は」という表現から、子説視点とは解釈できず、宮城谷視点と考えざるをえない。すなわち「真の思想は……」は宮城谷の考えということになるが、このような思想的な部分について、宮城谷が自分視点で断定することは珍しい、というより、私の記憶する限りでは、過去に例がない。これまでであれば「……生じるものであろう。」と文末をやわらげるか、あるいは登場人物の誰か、この場合であれば子説、の意見として語らせるかの、いずれかであったように思われる。今回のような宮城谷視点での断定表現では、何忌の考えを一方的に切り捨てることになってしまい、トゲトゲしい。美しくない、と思う。

次に気になったのは 359 ページである。魯の未来について仲由と漆雕啓が論じる場面である。

要するに、晋の上卿が実際には天下を経営しているのであるから、かれらが陽虎の実力を認定すれば、陽虎は三桓の上の位に登って魯国を支配することができる。仲由は、そんなことがあってはならないが、まったくないとはいい切れぬことが怖い。

この最後の文において「そんなことがあってはならないが」が浮いていて、読みにくい。「そんなことがあってはならないが、まったくないとはいい切れぬことが仲由には怖い。」などとする方が良いのではないか。敢えて「仲由は」を文頭に持ってくる意図が、私には読み取れない。

また宮城谷はこれまで『王家の風日』をはじめとして、少なくとも私が読んだ限りでは、周の前の王朝の名称を「殷」ではなく「商」とし、その最後の王を「紂王」ではなく「受王」としていたように思う。どちらが正しいか、という点について未だ定説はないと思われるが、「商」「受王」を選んだことには、宮城谷の信念があったはずである。しかし『孔丘』では 273 ページをはじめとして「殷」「紂王」を採用し、「商」や「受王」という名は一度も登場しない。宮城谷の考え方が変わったのか、それとも『孔丘』における特殊事情があったのかは知らぬが、その点については「あとがき」も含めて、一切の説明がなされていない。これまでの宮城谷であれば、こうした点について、作中のどこかしかるべき場所で説明を入れていたのではないか。説明する余裕がなかったのかもしれないが、いささか、読者に対し不親切であるように思われる。

以上は全て表現の問題であるが、内容についても一点だけ、気になった部分がある。419-420 ページで、孔丘が師襄子に就いて琴を習った場面である。

練習のために一曲を与えた師襄子は、孔丘ののみこみの早さにおどろき、
「つぎに進まれたらよい」
と、いった。だが孔丘は喜ばず、
「この曲にある志がわかりません」
と、いい、曲から離れなかった。師襄子はころあいをみて、
「志はおわかりになったようですな。つぎに進まれよ」
と、うながした。が、孔丘は、
「この曲を作った人がみえてこない」
と、応え、さらに弾きつづけた。やがて孔丘はようやく納得したという表情で、目を高くあげて、
「作曲者がどういう人であるか、わかりましたよ。色はどこまでも黒く、そうとうな長身で、志は広遠であり、そのまなざしは遠くをみるようであり、天下四方を掩有している。これが周の文王でなければ、たれがこの曲を作れましょうか」
と、いった。

孔丘は、琴を習うだけで、その作曲者が文王であることを察知した、というのであるが、これはさすがに、後世の人の創作であろう。これまでの宮城谷であれば、文献に記載のある内容であっても、真実と思われる部分だけを採用し、創作と思われる部分は省くか、あるいは創作であろう、とことわりながら紹介してきたように思われる。ところが今回は、そういうことわりなしに、史実であるとみなすような表現で描かれている。神格化された孔子ではなく、孔丘という人間を書く、と言いつつ、この逸話を採用するのは、一貫性を欠いているのではないか。

このように、いくつか気になる点はあるのだが、あくまで宮城谷の作品だから、過去の作品があまりにも文学として素晴らしかったので、それと比較して気になる、というだけのことである。他の小説家の作品であるならば、このような細かな点について、私も気にしない。


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