これはhttp://mitochondrion.jp/に掲載している「医学日記」を 検索用に 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われます。 通して読むには、トップページからオリジナルページにアクセスしてください。
私がはじめて中島敦の『名人伝』を読んだのは、中学校だか高校だかの現代文の授業においてであった。当時の私は現在にくらべて教養が著しく乏しかったので、この作品を老荘的な観点から名人というものを描いたのである、と単純に理解していた。
『名人伝』の解釈について、特に紀昌を真の名人として解釈すべきか、あるいは世間からもてはやされるだけの虚像と解釈すべきか、という点について、文学者が様々な見解を示している。比較的新しいところでは山口大学の郭玲玲の論文 (東アジア研究 11, 167-179 (2013).が詳しく議論している。郭は、紀昌のいう「至射は射ることなし」が老荘的な観点でいう無為とは質的に異なることを指摘した。「名人の一代記ではなく、寓意を込めた作品である」という郭の指摘を念頭に、改めて『名人伝』を読んだ。すると、文章の構成に中島の意図が込められているように思われる点があった。それは次の箇所である。
ところが紀昌は一向にその要望に応えようとしない。いや、弓さえ絶えて手に取ろうとしない。山に入る時に携えて行った楊幹麻筋の弓もどこかへ棄てて来た様子である。そのわけを訊ねた一人に答えて、紀昌は懶げに言った。至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなしと。なるほどと、至極物分りのいい邯鄲の都人士はすぐに合点した。弓を執らざる弓の名人は彼等の誇となった。紀昌が弓に触れなければ触れないほど、彼の無敵の評判はいよいよ喧伝された。
様々な噂が人々の口から口へと伝わる。毎夜三更を過ぎる頃、紀昌の家の屋上で何者の立てるとも知れぬ弓弦の音がする。名人の内に宿る射道の神が主人公の睡っている間に体内を脱け出し、妖魔を払うべく徹宵守護に当っているのだという。彼の家の近くに住む一商人はある夜紀昌の家の上空で、雲に乗った紀昌が珍しくも弓を手にして、古の名人【げい】と養由基の二人を相手に腕比べをしているのを確かに見たと言い出した。その時三名人の放った矢はそれぞれ夜空に青白い光芒を曳きつつ参宿と天狼星との間に消去ったと。紀昌の家に忍び入ろうとしたところ、塀に足を掛けた途端に一道の殺気が森閑とした家の中から奔り出てまともに額を打ったので、覚えず外に顛落したと白状した盗賊もある。爾来、邪心を抱く者共は彼の住居の十町四方は避けて廻り道をし、賢い渡り鳥共は彼の家の上空を通らなくなった。
「至極物分かりのいい」邯鄲の人々は、紀昌の「至射は射ることなし」という言に納得し、評判が高まり、その次に噂が広まったのである。もし紀昌を天下一の弓の名人として描くなら、邯鄲の人々を「至極物分かりのいい」などと敢えて形容する必要はないし、話の順番を入れ換えて
ところが紀昌は一向にその要望に応えようとしない。いや、弓さえ絶えて手に取ろうとしない。山に入る時に携えて行った楊幹麻筋の弓もどこかへ棄てて来た様子である。そのわけを訊ねた一人に答えて、紀昌は懶げに言った。至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなしと。
様々な噂が人々の口から口へと伝わる。毎夜三更を過ぎる頃、紀昌の家の屋上で何者の立てるとも知れぬ弓弦の音がする。名人の内に宿る射道の神が主人公の睡っている間に体内を脱け出し、妖魔を払うべく徹宵守護に当っているのだという。彼の家の近くに住む一商人はある夜紀昌の家の上空で、雲に乗った紀昌が珍しくも弓を手にして、古の名人【げい】と養由基の二人を相手に腕比べをしているのを確かに見たと言い出した。その時三名人の放った矢はそれぞれ夜空に青白い光芒を曳きつつ参宿と天狼星との間に消去ったと。紀昌の家に忍び入ろうとしたところ、塀に足を掛けた途端に一道の殺気が森閑とした家の中から奔り出てまともに額を打ったので、覚えず外に顛落したと白状した盗賊もある。爾来、邪心を抱く者共は彼の住居の十町四方は避けて廻り道をし、賢い渡り鳥共は彼の家の上空を通らなくなった。
弓を執らざる弓の名人は彼等の誇となった。紀昌が弓に触れなければ触れないほど、彼の無敵の評判はいよいよ喧伝された。
と、したほうが話の流れが自然になる。敢えて「至極物分かりのいい邯鄲の人々」を出した点に、中島の意図が表れているとみるべきではないか。このあたりについて、文学者がどのように議論しているのかは、知らぬ。