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ここ数日、学問の業績を称えるナントカ賞というものの受賞者が発表され、一部の人々が騒いでいる。いうまでもなく、自然科学や人文科学の成果を賞によって判断するのは、下劣である。ある学術研究の成果が偉大であるというのは、その成果自体が偉大なのであって、賞を受けたから偉大なわけではない。学問を讃えるならば、受賞しなくても讃えるべきである。それまで低く評価していたならば、受賞したからといって評価を変えるべきではない。それなのに、日本の少なからぬ人々は「受賞したから、すごい」というようなことを平然と言う。その態度そのものが、学問に対する冒涜であり、研究者に対する侮辱である。
ノーベル賞は、スウェーデン生まれのアルフレッド・ノーベルの遺産を元に設立された。ノーベルは、高性能爆薬を発明し、軍需産業に売り込むことで莫大な特許料収入を得た。そして死の商人として名を馳せたが、自分の死後に悪名だけが残ることを恐れてノーベル賞の設立を遺言したという。せめて生きているうちに財団を設立すればよいものを、死ぬまで財産を手放さなかったのがノーベルという男である。
学問に対する業績を賞で評価すること、しかも、その賞が死の商人によってもたらされていることを理由にしてノーベル賞の受賞を拒否した者は、極めて少ない。他者からの強制によって辞退させられた例や平和賞を別にすれば、自身の信念に基づいてノーベル賞を拒否したのは、1964 年に文学賞を拒否したサルトルのみである。自然科学者は誰一人として、ノーベル賞を拒否していないのである。
私は北陸医大 (仮) にいた頃、この問題について、直接の上司とは別の病理学教授と、語り合ったことがある。当時博士課程の学生であった私に対し、教授は「君は、ノーベル賞でも狙っているのか。」と問うた。私は「いいえ。学問の業績を賞で評価するということ自体が、くだらない。」と答えた。すると教授は「では、学問は何によって評価されるのか。」と問うた。私は少し躊躇して「本当に価値のある研究であれば、その価値は自ら明らかになります。」というようなことを述べた。すると教授は、私の躊躇を見透かしたように笑い、こう述べた。「曖昧だな。学問の価値は歴史が評価する、ぐらい言ったらどうなのか。」
私が言いかけて、気恥ずかしさから引っこめた言葉を、教授はサラリと口にしたのである。私がそれを言えなかったのは、自分はいずれ歴史に否定されるのではないか、という恐れが心の片隅にあったからであろう。自分が正しいという自信さえあれば、堂々と「歴史が評価する」と言えたはずなのである。
あの屈辱は、生涯、忘れまい。