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近年、社会的な多様性がしばしば論争の的となっている。国会議員や会社役員、あるいは学会発表の登壇者などについて、性別や人種などが多様であることを重視する考えが広まっている。多様性を重視するために、議員定数や大学入学者に女性枠などを設け、男女の均衡などを図る試みもある。これに対し、過剰な女性優遇である、男性差別だ、などと批判する意見もある。これらを、どう考えるべきか。
なぜ多様性が重要なのか、という点について思索の乏しい人が多いのではないか。性別や人種に基づく不当な差別はいけない、ということには、まず異論はないであろう。問題は、具体的に何が差別なのか、という点である。
政治家としての適性、科学者や医師としての適性について、男女や人種の別そのものが重大な影響を与えると考えるのは無理がある。もし社会に性差別や人種差別が全く存在しなかったならば、政治家や科学者の数について、男女比や人種比は、社会全体の男女比・人種比と概ね等しくなると推定される。従って、政治家や科学者の構成比が社会全体の構成比から大きく乖離しているならば、どこかに不当な差別が存在すると考えられる。それはよくない。つまり男女比が偏っていること自体が問題なのではなく、それが示唆する差別の存在を我々は問題視しているのである。たとえば、仮に世の中の男女比が 9:1 であったならば、政治家の男女比が 9:1 と大きく偏っていても何ら問題はない。
従って、国会議員や大学入学者に女性枠や少数民族枠を設けることは、結果として構成比を是正するものの、社会に存在する差別を解消することにはならず、むしろ差別をみえにくくし、問題を隠蔽することに他ならない。なお、いうまでもないことだが、ここでは入学試験に際し男性を加点し女性を減点する、というような不正な工作を行う某大学医学部のような事例は問題にしていない。そういう知能の低い野蛮な差別主義者を、我々は相手にしない。
中には、多様な社会的背景を持つ人々を取り込むことで多様な考え方が生まれ云々、と、多様な人々が存在すること自体に意義があると主張する者もいる。たとえば女性らしい視点でどうこう、と訴えて選挙に立候補する人々である。しかしこれは、多様性を訴えているようにみえて、実は差別を固定化する差別主義者的な思考である。
そもそも「女性らしい視点」などというものが、存在するのか。男性の考え方、女性の視点、などというものが存在すると認めるならば、そうした性差による能力や性向の違いを認めることになる。結果として、医師は男性向きである、看護師は女性向きである、女性は政治家に向かない、物理学や数学は男性の学問である、というような、性別に基づくステレオタイプを正当化することになる。「女性らしい視点」を主張する人々は、フェミニストのふりをした差別主義者であるといえよう。
繰り返すが、多様性は、それ自体が重要なのではない。差別がなければ多様になるはずなのに、現実はそうなっていない、ということが問題なのである。多様性を欠いている現状が、重大な差別の存在を意味しているから、ダメなのである。形式的な多様性のみを実現しても意味がなく、むしろそれは、新しい差別を生みだしているに過ぎない。