2014/04/07 実験的証明

今日、ある人と話していて、これまであまり明確に意識していなかった問題を、明らかに意識するようになったので、記載しておく。 科学研究において、実験的証明とは何か、ということである。

以前に書いたように、私は、量子力学における「不確定性原理」は誤りであると信じている。 その根拠は、「不確定性原理そのものを理論的に、または実験的に証明した人はいない」ということである。 証明されていない以上、間違っているかもしれないと考えるのは、物理学や数学において基本的な姿勢である。

では、ある仮説について「実験的な証明する」とは、どういうことをいうのか。 これは、その仮説が正しいと考えなければ、どうしても実験結果を論理的に説明することができないような、そういう実験結果を得ること、と考えてよかろう。 すなわち、不確定性原理が正しいと考えなければどうしても説明できない、というような実験結果が示されない限り、 不確定性原理が正しいことを証明したことにはならない。 以前に書いたように、過去の実験結果は不確定性原理を否定する立場からも説明可能であるので、不確定性原理は実験的に証明されたことにならない。 また、「不確定性原理は理論的に証明できる」と主張する人もいるが、その証明は不確定性原理と同値の仮定から出発しているので、意味がない。 もちろん、不確定性原理は「近似的には」正しいであろうが、何らかの手段により、たとえば電子の位置と運動量を同時かつ正確に測定することは可能であるかもしれない。

同様に、世間では広く信じられている、とある物理法則について、私は京都大学一年生の頃から、一貫して懐疑的な姿勢を保っている。 この法則は、理論的にも実験的にも証明されておらず、私は、この法則は厳密には正しくないのだと考えている。 私は、この話が大好きで、身近な人の多くにはベラベラと喋っているのだが、インターネット上では秘密にしておこうと思うので、ここには書かない。 私の生涯の目標は、この法則の破れを実験的に証明することである。


2014/04/07-2 臨床実習日誌

本日から、名古屋大学附属病院における臨床実習が始まった。 私は昨年度一年間、おおいに怠けていたので、臨床的なことについては、右も左もわからないような状態である。 本日は筋電図と脳波に関する実習を行なったが、さっぱりわからなかったので、さんざん、復習を要した。 復習ついでに、学習の上で注意すべき要点のまとめを報告書として作成し、私が実名で運用しているウェブサイトに掲載した。

私のメールアドレスで、nagoya-u.ac.jp でも mitochondrion.jp でもないものをご存じの方は、 そのアドレスを「○○○@△△△.jp」とすれば、「http://△△△.jp/」が私の実名ウェブサイトであるので、そちらから報告書をご覧いただけると幸いである。 間違っている箇所などの指摘をいただければ、なおありがたい。

可能な限り、今後もこうした形式の報告書を作っていきたいとは思っているが、なかなか骨の折れることであるので、いつまで続けられるかはわからない。


2014/04/09 異常心電図

昨年の春から夏にかけて、私は心電図に興味を持ち、正常心電図や異常心電図を理論的に理解しようと試みたことがある。 その時、正常心電図については一応の定性的解釈を得るに至ったのだが、異常心電図、特に血中カリウム濃度の異常が心電図に及ぼす影響については理解に苦しんだ。 また、私の主張を巡ってイザコザもあったため、途中で意欲を失い、異常心電図の理解については放置状態となっていた。

昨日、臨床実習で異常心電図を取り扱ったことから、ふたたび異常心電図の定性的理解に対する意欲が湧き起こり、日本医師会編『心電図の ABC』の助けを借りつつ、 なんとか、主要な異常心電図の理論的理解を得るに至った。その成果を、「臨床実習日誌」としてインターネット上の某所で公開した。

おそらく、多くの学生は心電図の「読み方」について、パターン認識と丸暗記に頼っていると思われる。 しかし、可能な限り理論的理解をした方が、将来の心電図利用法の開発や、非典型的な心電図所見への対応において有益であると思われる。 従って、余力のある方は、私の報告書を読み、内容の合理性について吟味し、不適切と思われる点については批判をしていただけるとありがたい。


2014/04/09 教授と顕微鏡

2018 年 3 月 10 日の記事も参照されたい。

本日の臨床実習では、病理部を見学した。 感心し、感動したことはいくつかあるが、一番驚いたのは、教授の顕微鏡の扱いの見事さである。

一般的な光学顕微鏡では、ステージの上にプレパラートを置き、接眼レンズおよび対物レンズを通して標本を観察する。 視野を移動する際には、レンズではなく、プレパラートを動かすのが普通である。 多くの顕微鏡では、ダイヤルを回すことで、プレパラートを動かすことができるような仕掛けになっている。 このように言葉で書くとわかりにくいかもしれないが、とにかく、普通の光学顕微鏡を想像していただければよい。

病理医の中には、ダイヤルを回してプレパラートを動かすのではなく、直接プレパラートを手で動かすことを好む人が少なくないようである。 その方が、ダイヤルを使うよりも速い、というのである。 そこで私も、手で直接プレパラートを動かす練習をしているのだが、なかなか、難しい。

多くの顕微鏡では接眼レンズの倍率は 10 倍で固定されており、対物レンズは 4 倍, 10 倍, 20 倍, 40 倍が多いようである。 対物 20 倍までであれば、私は、手でスムーズにプレパラートを動かすことができる。 しかし対物 40 倍の場合、視野の端に少しみえている部分を中央に持ってこようとする時など、つい、行きすぎてしまうことが多い。 なにしろ私は手先が不器用であるから、こうした細かな作業が苦手なのだ。

ところが、今日、教授と学生とで一緒に標本をみていた時、教授は対物 40 倍であるにもかかわらず、実に滑らかに、 スーッとプレパラートを動かし、みたい場所を、的確に、視野の中央に持って来たのである。

私も、いずれは、あのようになれるのだろうか。

2014/04/10 語句修正

2014/04/10 心電図学の定性理論

今日は、たまたま時間を確保することができたので、これまでに心電図について定性的に考察した内容を一つの文書にまとめた。 心電図学の歴史について、昨年夏に某所で発表した内容を文章にまとめなおした。 正常心電図や異常心電図の波形の成因については、過去に書いた文書の一部を修正して転載した。

これにより、昨年夏からずっと気になっていた、心電図の定性的理論的解釈の問題が一段落したといえる。 ある程度は成書や論文で調べたとはいえ、大半は私の想像の産物であるから、ひょっとすると、記載内容には多くの間違いが含まれているかもしれない。 それでも、心電図波形の成因について、一応はそれらしい理論的解釈を与えることができたことは、有益であると思う。


2014/04/12 珍妙な質問

4 月 21 日の記事5 月 6 日の記事も参照されたい。

臨床実習は、6 人ないし 7 人の班で各科各部をまわるものである。少人数であるから、学生側も、比較的、質問しやすい雰囲気である。 そこで私も、疑問に思ったことを遠慮なく口にしているのだが、結果的に、ヘンテコな質問を多数、発しているかもしれない。 先日も、血液疾患について、我ながら珍妙な質問を発した。 先天性プロテイン C 欠損症の症例の血液検査結果をみて、「急性ビタミン K 欠乏症の可能性はないでしょうか」と問うたのである。 以下、恐縮ながら専門的な話になるので医学関係者以外にはわかりにくいと思うが、生理学を学んだ人や医学科三年生以上なら、充分に理解できるはずである。

まずプロテイン C について確認すると、これはプロテイン S およびトロンビンにより活性化され、第 V, VIII 因子を不活化することで抗凝固作用を発揮する。 すなわち血液凝固における負のフィードバックを担っている蛋白質である。 なお、ヘパリンはアンチトロンビンを活性化することで第 IX から第 XII 因子などを不活化するし、 ワルファリンはビタミン K と拮抗することで第 II, VII, IX, X 因子の産生を阻害する。 細かいことをいえば、ビタミン K はこれらの因子がゴルジ体でカルボキシル化される反応の補酵素なので、 ワルファリンは適切に修飾されていない異常蛋白質の産生を亢進させることになる。 また、EDTA やクエン酸ナトリウムはカルシウムイオンをキレートすることで、トロンビンなどの活性化を阻害する。 このように、一口に「抗凝固」といっても作用機序は多様であるので、これらを適切に使いわける必要がある。

さて、ワルファリン誘発性表皮壊死症という病態は、初等的な教科書には書かれていないこともあるが、ワルファリンの性質を的確に反映している。 プロテイン C やプロテイン S もビタミン K 依存的にカルボキシル化されるため、ワルファリン投与により活性が低下する。 凝固因子の中では第 VII 因子の半減期が特に短く、6 時間であるが、プロテイン C の半減期も 14 時間と、かなり短い。 従って、ワルファリン投与直後には第 VII 因子とプロテイン C の血中濃度が大きく低下し、いわゆる内因系による血液凝固が一過性に亢進する。 健常人であれば、これは何らの異常も生じないことが普通であるが、先天性にプロテイン C が少ない人の場合、 微小血管系に血栓が生じることがある。 このため、時に皮膚が広範に壊死することがあり、これをワルファリン誘発性表皮壊死症などと呼ぶ。 この機序から考えてわかるように、ワルファリン誘発性表皮壊死症は、たとえ症状が広範にわたっていても、 一過性の凝固傾向に過ぎないため、特別な治療は必要なく、やがて回復する。

このことをふまえて、血液検査所見としてトロンビン時間や活性化部分トロンボプラスチン時間が概ね正常で、プロテイン C が少ない患者をみたとき、 ひょっとすると急性ビタミン K 欠乏症の可能性があるのではないか、という考えが頭をよぎったのである。 が、結論としては、ビタミン K 欠乏症は、よほど偏った食事をしていなければ来さないし、ましてや、急性に生じると考えるのは無理がある、とのことである。

というわけで、これは非常にくだらない質問であったわけだが、こうした細かな疑問について自問自答を繰り返し、また質問を繰り返すことで、 学問に対する理解が深まっていくのではないかと思う。

2014/04/21 ワルファリンの作用機序について追記

2014/04/13 卑屈な精神

この mitochondrion.jp のウェブサイトについて、アクセルログを眺めてみると、どうやら「医学部 編入」というようなキーワードで検索していらっしゃる方が多いようである。 必然的に、アクセス数の多いページは編入試験のページであり、 次いで博士課程時代の話へのアクセスが多いようである。 どうやら、私が当初想定した通りの人々が、訪れてくれているらしい。

ふと、他の人はどんなことを書いているのだろうと思い、「医学部 編入」などのキーワードで検索をしてみた。 あまり熱心に調べたわけではないので、たぶん、全体像を正しくは把握していないのだが、ちょっと、卑屈な精神の持ち主が多すぎはしないだろうか。

まず第一に、建前が多すぎる。 編入やら再受験やらを目指した理由として、医療への関心が云々とか、人の命が云々とか、家族の死を経験して云々とかいう綺麗事が多すぎる。 前職への情熱は、その程度であったのか。その程度のつまらない職に、なぜ就いたのか。最初から医学部に行けば良かったではないか。 どうして、今になって医療への関心が高まったのか。 家族が死ぬまで、人の死というものをまともに考えてこなかったのか。そんな想像力の乏しい人間が、本当に他人を思いやれると思っているのか。 どうせ匿名で書くなら、正直に書いたらどうなのだ。 人生につまずいたから、逆転を図って医師を目指したのではないか。

一度、人生で失敗したからといって、それが何だというのか。 日本の社会は、失敗した者に対して、あまりに不寛容なのではないか。 だから、若者が失敗を恐れて萎縮し、物事に挑戦しなくなり、社会全体が衰退するのではないか。 18 歳の若者達の間で、これだけ医学部の人気が高まっている現状は、極めて異常である。

第二に、目標が低すぎる。 合格するにはどうすれば良いか、入学した後にキチンと進級するにはどうすれば良いか、国家試験に合格するにはどうすれば良いか、そうした、くだらない話題ばかりである。 全部、他人が設定した関門をクリアすることばかりなのである。自分自身で、目標を定めていない。精神が実に卑しい。

「そうはいっても、医師免許を取得できねば始まらない」などと弁明する者がいるが、それは詭弁である。 たとえ医師免許を取得しても、医師免許を持っているだけの藪医者では意味がない。 正しい医道を歩み、その上で医師免許を取らねばならないのである。 たぶん、誰もが、最初は夢を持ち、志を胸に抱いて医学部の扉を叩くのだと思う。 しかし卑屈な勉強を四年間なり六年間なり続けているうちに、はじめは猛る闘争心を持っていた虎も、牙が折れ、爪を失い、戦闘能力を失った野良猫に成り下がるのである。


2014/04/19 批判すること

4 月 13 日の記事にも関係するが、どうも、医学科には批判的精神の持ち主が少ないように思われる。 これは、近年の風潮なのか、名古屋大学の特性なのか、それとも医学界の古臭い年功序列的上下関係のせいなのかわからないが、いずれにせよ、遺憾である。

ひょっとすると、批判することを悪いこと、あるいは相手に失礼なことだと思っている人が多いのではないか。 もしそうであれば、それは、とんでもない誤解である。 少なくとも科学の世界においては、批判することこそが礼節なのであり、相手を尊重する態度である。 相手の持つ権威に対して萎縮し、口をつぐみ、疑問を自己の内に留めることは、相手に対して極めて非礼なことである。 かつてリチャード・ファインマンは、誰に対しても忌憚なく批判的意見を述べたがために、ニールス・ボーアに信頼されたという。 それでこそ、真の科学者である。

私は、教科書を読むときには、徹底的に批判を行い、その内容を余白や、表紙の裏にある空白のページに記入することにしている。 中には揚げ足取りに近いものもあるが、揚げ足を取られるような記述をする方が悪い。 そのように必死に攻撃しながら読むわけだから、逆に、批判しなかった部分については、私は充分に納得しているわけである。 もし、私が納得した部分に対して批判を加える人がいたとすれば、私はその人に対し、自信を持って反撃することができるであろうし、 そうでなければ「教科書を読んだ」とは言えないと思う。

さて、月曜日から循環器内科の臨床実習であるから、今さらながら『ハーバード大学テキスト 心臓病の病態生理 第 3 版』を読んでいる。 しかし、心電図の説明を読んで、私は、憤りを禁じ得なかった。この教科書の説明は、子供騙しである。

一部の教科書は、電気軸の概念を明確な定義なしに導入し、Einthoven の正三角形近似に基づいて 電気軸の方向を決定し、心筋の興奮状態の図と対応させて「この状態では、電気軸の向きはこうなるのだ」と天下り式に宣言しているようである。 この説明では、実験事実から電気軸の方向を決定しているものの、「なぜ、そうなるのか」については充分な説明をせずに、読者を煙に巻いていることになる。 aVL の例でいえば、たぶん、q 波や R 波の前半部分について 「なぜ、電気軸がその向きになるのか」を合理的に説明している教科書は、ほとんど存在しないと思う。

一部の教科書が、読者の理解力に合わせて平易な記述を重視し、議論をごまかすのは、やむを得ないかもしれない。 しかし、天下のハーバード大学テキストが、それをやるとは、いかなる了見なのか。極めて遺憾である。 もし、簡明な説明が困難であるのならば、その旨を明記すべきであり、決して読者を欺くような記述を用いるべきではないだろう。

2014/04/19 追記

誤解を招くといけないので明記するが、『ハーバード大学テキスト 心臓病の病態生理 第 3 版』は名著である。 名著であるにもかかわらず、心電図に関しては論理の破綻した説明をしているからこそ、私は憤っているのである。

電気軸を「興奮が伝わる向き」と説明するのは、やめるべきである。 単細胞モデルでは、確かに電気軸と興奮が伝わる向きは一致するが、実際の心臓においては、それは成立しない。

2014/04/20 語句修正

2014/04/21 ワルファリンについて

5 月 6 日の記事も参照されたい。

4 月 12 日の記事で、ワルファリンはビタミン K に拮抗すると書いた。 しかし、どうやらこれは私の思い込みであったらしく、『ハーバード大学テキスト 病態生理に基づく臨床薬理学』によれば、ワルファリンは ビタミン K の還元、すなわち活性化を阻害するのであって、拮抗するわけではないらしい。

なお、『ハーバード大学テキスト 血液疾患の病態生理』では「ビタミン K 拮抗薬」と書かれている。 また、ビタミン K とワルファリンは構造が類似している、という漠然とした記憶があったために、なんとなく拮抗と思い込んでしまったのであろう。

こうした違いは、臨床的にはさほど重要ではないのだろう。 しかし思い込みはイロイロと危険であるから、言葉を発する時には、常に正確さを期すべきである。


2014/04/27 病理学会総会

昨日は、広島で開催された第 103 回日本病理学会総会に参加した。 といっても、学術的な発表をしたわけではなく、「学生の声」という、病理学に対する学生からの意見を述べるセッションで発表したのみである。 それでも、私にとっては医学界におけるデビュー戦であることには違いないので緊張した。

実のところ、今回は何を発表すれば良いのか自分でもイマイチよくわからず、発表準備が遅れに遅れた上に、 練習にも気合が入らず、とうとう、準備不足のまま当日を迎えることになってしまった。 しかも、近頃は花粉のせいかどうか知らないが、鼻と喉の具合が悪く、5 分間も話していると喉が痛くなってくる始末であった。 ところが不思議なもので、いざ登壇してみると、鼻も喉も調子が良くなり、咳ひとつなく、発表を終えることができた。 よくわからないのだが、おそらく、私の喉は軽いアレルギー性喘息様の異常を抱えているのだろう、 本番で適度に交感神経系が刺激されると、気管支が拡張し、喉の具合が良くなるものと考えられる。

ところで私は3 月 14 日の記事で、基礎医学セミナー発表会におけるポスター発表の形式に対し疑問を呈したのだが、 病理学会におけるポスター発表も同様の形式であった。 すなわち、司会者が順番にポスターの前を巡り、発表者は司会者の前で 5 分ほどの説明と質疑応答を行う、という形式である。 私には、この形式はポスター発表の良さを台無しにしてしまっていると思うのだが、もしかすると、医学の世界ではこうした形式が主流なのだろうか。


2014/04/28 ハーバード大学テキスト

以前にも書いたが、私はハーバード大学のファンである。 同大学は「ハーバード大学テキスト」としていくつかの教科書を出版しているが、そのうち 『病態生理に基づく臨床薬理学』『血液疾患の病態生理』『心臓病の病態生理』は日本語訳が出されており、いずれも名著である。

これらの教科書はいずれも内容が詳しく、日本の国家試験の範囲をしばしば超越していることから、 「内容が高度すぎる」とか「非常に専門的である」などの指摘を受けることがある。 しかしながら、これはとんでもない誤解である。 というのも、これらの教科書はあくまで学生向けに著されたものであり、ハーバード大学医科大学院の学生は、誰でもこれを読んでいるのである。 時に勘違いしている人がいるが、ハーバード大学は名門とはいえ、あくまで米国の一私立大学に過ぎない。 従って、日本と米国の間で医学の水準に大きな差はないことを思えば、 日本における屈指の名門大学である名古屋大学がハーバード大学より格下だということはない。 すなわち、名古屋大学医学部の学生も、ハーバード大学テキストに示されている程度の内容は、修得していて当然である。


2014/04/29 オピオイド

今日、たまたま薬局で「コデイン類の鎮咳薬は一人一箱まで、未成年 (18 歳未満?) は云々」という注意書きをみて、おや、と思った。 私の記憶によれば、コデインはメチルモルヒネであり、体内でモルヒネに変化する。 つまり、法的にはともかく、薬理学的にはコデインは麻薬であり、そんなものを薬局で売っているのか、と驚いたのである。

「麻薬」という言葉は定義が曖昧であり、法的にはコカインなども含むらしい。 しかし医学的には麻薬といえばオピオイドのことであり、コカインは薬理学的にはアンフェタミンなどの覚醒剤と類似の作用を有する。 覚醒剤は交感神経系を刺激する一方、オピオイドはむしろ中枢神経系を抑制するので、 おおまかにいえば麻薬と覚醒剤は反対方向の作用を有するわけであるから、両者を混同してはならない。 オピオイドは、基本的には鎮痛薬として用いられる。これはかなり強力な作用を有するのだが、依存性も強いので、使い方には注意を要する。 覚醒剤は、法的には医療目的で使うことが可能であるが、現実には、滅多に用いられないらしい。

以前、緩和ケアの選択講義の場において、オピオイドの副作用として眠気が QoL の観点から問題である、という話を聴いたとき、 私はふと思いついて「オピオイドと覚醒剤を併用してはどうでしょうか」と述べてみた。 そのときは残念ながら、あまりに突拍子もない質問であったために趣旨が正しく伝わらず、これという回答は得られなかった。 実際のところ、こうした併用療法は、どうなのだろうか。

さて、私が常々疑問に思っているのは、鎮痛目的でオピオイドを使用した場合、患者がオピオイド依存に陥ることはあるのだろうか、ということである。 一部の書物などでは、「不思議なことに、鎮痛目的で使用される限りにおいては、オピオイドは依存性を発揮しない」といった説明がなされている。 『ハリソン内科学 第 4 版』でも、NSAID などで患者の痛みを取り除くことができない場合はオピオイドの使用を躊躇してはならぬ、とされている。 その一方で、少なからぬ臨床医は、依存性の観点から、オピオイドの使用にはしばしば躊躇するようである。 これは、こうした臨床医が無知なのか、それともハリソン内科学などが積極的すぎるのか、あるいは両者ともに正しいのか、一体、どういうことなのだろうか。


2014/05/01 師弟関係

科学の世界において、一部では、徒弟制度に近い師弟関係が存在するようである。 たとえば、A という科学者が B という科学者が主宰する研究室で学生時代や若手時代を過ごした場合、 「A は B の弟子であった」などと表現されることがある。 これは医学の世界だけでなく、物理学界でも、少なくとも過去にはみられた風習のようである。

科学研究にも、たとえば実験のやり方や論文の書き方などに一定の作法はあるから、 こうしたものを教えるという意味では教授と学生は師弟関係にあり、弟子という表現も不適切とはいえないかもしれない。 しかし、旧制第三高等学校の流れを汲む京都大学の出身である私としては、「弟子」という呼称には賛同いたしかねる。 京都大学附属博物館の展示によれば、「自由」を旨とする旧制三高では、教師が生徒に学業を伝授するという一方向の上下関係を良しとせず、 教師と生徒が互いに「さん」づけで呼ぶ習慣すらあったという。

5 月 5 日の記事に続く

2014/05/04 急性冠症候群

5 月 5 日の記事も参照されたい。

急性冠症候群とは、不安定狭心症や急性心筋梗塞の総称である。 心筋梗塞や狭心症の概念に関する記述は、教科書によって多少のばらつきがあり、 私自身、ここ二年間ほど系統的な理解を得られずに苦しんだので、ここに、簡潔に要約する。 多くの教科書は、これらの疾患を臨床的な観点から解説しているようである。 しかし、そうした記述は救急の現場においては有用であろうが、疾患の本質を理解する上では混乱を招く恐れがあるため、 ここでは、あくまで病理学的観点からの理解を試みる。

まず、虚血性心疾患は心筋梗塞と狭心症の二種類に分類できる。 前者は梗塞、すなわち壊死を伴うものをいい、後者は壊死に至らない、可逆的な変性のみによるものをいう。 なお、「狭心症 angina pectoris」とは、この疾患の臨床症状に基づいて与えられた呼称であり、 疾患の本質を表していない不適切な名称であるが、歴史的経緯により、現代では疾患名として用いられている。

心筋梗塞は、ふつう、冠状動脈が何らかの事情により急激に閉塞して生じるものであるから、臨床的には急性心筋梗塞と呼ばれることもある。 しかし慢性心筋梗塞という疾患は存在しないので、わざわざ「急性」とつけることには意味がなく、急性心筋梗塞と心筋梗塞は同義と考えて良い。 一方、狭心症の原因は大きく二つに分けられる。すなわち、血栓あるいはその他の塞栓によるものと、冠動脈の攣縮によるものである。 冠動脈の攣縮による狭心症は欧米人には少ないが日本人では比較的多く、「冠攣縮性狭心症 vasospastic angina」と呼ばれる。

冠動脈が攣縮する機序はよくわかっていないが、たぶん、内皮細胞の障害が背景にあるのであろう。 ADP やアセチルコリンなどの物質は血管平滑筋を収縮させる作用を有するが、血管内皮細胞はこれらの物質に反応して 一酸化窒素やプロスタサイクリンを産生し、平滑筋の弛緩を促す。 そのため、正常な血管では ADP やアセチルコリンは全体として血管の弛緩を促す。 しかし血管内皮細胞障害のある部位では、平滑筋の収縮作用が優位となるため、血管は収縮する。 これは、外傷などにより破綻した血管を収縮させ、出血を抑える働きがあると考えられる。 しかし慢性的に血管内皮細胞が障害されている場合には、交感神経緊張などにより一過性に冠状動脈が狭窄し、 そのために心筋への酸素供給が減少し、狭心症発作を来す。

以上が機序による急性冠症候群の分類であるが、臨床的には、心電図所見による分類がしばしば用いられる。 まず狭心症についていえば、典型的には ST 下降を呈するとされているが、 冠攣縮性狭心症では、しばしば ST 上昇を呈し、これを特に「異型狭心症」と呼ぶ。 異型狭心症と ST 下降型狭心症の違いについては長くなるので別の機会に考察するが、 本質的に重大な差異はないように思われる。

また、狭心症のうち、身体的活動により心拍出量が増加した時、すなわち心筋の酸素需要が増加した時のみ胸痛などの症状を呈するものを「労作狭心症」という。 これは、「安定狭心症」と同義と考えてよく、冠状動脈の一部が高度に狭窄しているために、労作時の酸素需要が酸素供給を上回っているために生じる。 非労作時にも症状を呈する場合は「安静狭心症」という。 安静狭心症の中には塞栓が関与するものもあるというが、塞栓だけでは安静時に発作を来すことが説明できないため、 基本的には冠状動脈の攣縮によって引き起こされると考えるべきであろう。

「最近になって新たに発症した、または増悪した狭心症」のことを特に「不安定狭心症」という。 こうした狭心症は、しばしば心筋梗塞の前駆症状となるために、特別な名称が与えられているのである。

心筋梗塞については、ST 上昇型と ST 下降型に大別される。 厳密には異なるが、基本的には、ST 上昇型は貫壁性の、ST 下降型は非貫壁性の、心筋梗塞と考えられる。 心内膜側は心筋の収縮により圧が高く、側副血行路に乏しく、また心筋潅流の下流に位置することから虚血に陥りやすく、 時に心内膜側に限局して梗塞を来すことがあり、これが非貫壁性の心筋梗塞である。

さて、以上のことからわかるように、ST 上昇型と ST 下降型では、心筋梗塞にせよ狭心症にせよ、 臨床上の重大性はともかく、疾患としては本質的に大きな差はないと考えられる。 このことから、急性冠症候群の概念は教科書によって若干の相違はあるものの、基本的には、 「不安定狭心症 -> 非貫壁性心筋梗塞 -> 貫壁性心筋梗塞」という、重症度は異なれど本質的には同一である疾患群の総称と考えてよかろう。

2014/05/05 語句追加

2014/05/05 緊張感

5 月 1 日の記事の続きである。

学問の場においては、教授と学生、あるいは先輩医師と後輩医師の間であっても、基本的には対等の立場で議論するべきである。 相手が教授であろうと先輩であろうと関係なしに、疑問点や不明な点は指摘するべきなのであって、 相手に恥をかかせまいと不要な配慮をしてはならない。 こうした姿勢で学問に臨むことは、京都大学に限らず、まともな理工系大学においては常識であるように思われるのだが、 医学界においては、どうであろうか。

京都大学や名古屋大学などの名門であれば、学生も充分に勉強しているから、講義をする先生方も大変である。 うかつなことを喋れば、すかさず学生から鋭い質問が提出されるし、 時には、教授でさえ深く考えていなかった問題点を学生に指摘されることもある。 当然、質問に対してうまく答えられないことなど、日常茶飯事である。

誤解している人がいるようだが、質問に対して答えられないことは、教授や先輩医師にとって恥ずかしいことではない。 というよりも、そもそも、質問に対しては必ずしも答える必要はない。 教授と学生とで、一緒に疑問点を提出し合い、共に議論し、解決の道を模索することこそが大学における教育である。 旧制第三高等学校が目指し京都大学が引き継いだ「自由」の学風は、そうした教育の実現のために必要であったし、 名古屋大学も同様に自主自律の精神を尊んでいる。

もし「正しい答え」を教えてもらうことを期待して教授に質問する学生がいるとすれば、それは、とんだ勘違いである。 また、正しく答えることができないような小難しい質問を繰り出す学生を「生意気だ」と考える教授がいるとすれば、非常に残念なことである。 大学における学問は、教授と学生が対等の立場に立ち、適切な緊張感を持って対話することによって初めて成立するのである。

名古屋大学の名門たる所以は、一つには、こうした適切な緊張感を保つことのできる教授が少なくないことである。


2014/05/05 急性冠症候群の補足

誤解を招くといけないので、昨日の記事に補足する。 ST 上昇型と ST 低下型とで本質的に差はない、と述べたのは、細胞レベルで起こっている現象としては同一である、という意味である。 臨床的には、ST 上昇型と ST 低下型では治療方針が変わってくるので、診断の上では両者を鑑別することは重要である。


2014/05/06 ワルファリンの謎

4 月 21 日の記事の続きである。 ふと思い出して、ワルファリンの作用機序について少し調べてみたのだが、文献によって記述がまちまちで困る。 ひょっとすると、こうした薬理機序については無頓着な人が多いのではないだろうか。

前提知識を確認するが、血液凝固因子の II, VII, IX, X は翻訳後にゴルジ体においてビタミン K 依存的にカルボキシ化を受ける。 これによってカルシウムとの結合が可能になり、血液凝固因子として活性を有するようになる。 還元型ビタミン K は、このカルボキシ化の際に酸化されて不活性型になるが、 エポキシドレダクターゼにより還元されて、活性を有する還元型に戻る。 ワルファリンは、このビタミン K 依存的なカルボキシ化を抑制することによって抗凝固薬として働くのであるが、 問題は、具体的にどの反応を阻害するのか、ということである。

まず『ハーバード大学テキスト 病態生理に基づく臨床薬理学』では、ワルファリンはエポキシドレダクターゼを阻害する、とある。 この記述によれば、ワルファリンの作用はビタミン K の活性化の阻害である。 後述するように、どうやら、これがワルファリンの作用機序として最も正確な説明であるらしい。

『ハーバード大学テキスト 血液疾患の病態生理』をみると、ワルファリンは「ビタミン K 拮抗薬」として紹介され、 「ビタミン K 依存性の転写後修飾を阻止する」と簡潔に書かれている。なお、この「転写後」は「翻訳後」の誤りである。 はっきりとは言及されていないが、素直に読めば、ビタミン K 依存性カルボキシラーゼによるカルボキシ化反応を阻害する、と述べているかのような印象を受ける。 しかしながら、たぶん、ここでは「ビタミン K の働きを抑える」という程度の意味で「拮抗」という言葉を使っているのであって、 実際には上述のようにエポキシドレダクターゼを阻害しているのであろう。

また『医学書院 医学大辞典 第 2 版』の「ワルファリンカリウム」の項では、 「ビタミン K の生体内活性化に拮抗し、ビタミン K 依存性血液凝固因子の生合成を抑制し」とある。 「生合成を抑制し」という表現は気になるが、ここでは ワルファリン存在下では適切な修飾を受けていない異常な血液凝固因子 (Protein Induced by Vitamin K Absence or Antagonist; PIVKA) が産生される、 ということを意味しているのだろう。 さて、前半部分に「生体内活性化に拮抗し」とあるが、この「拮抗」とはどういう意味か。

「拮抗阻害」という言葉は「競合阻害」と同義であるが、「拮抗作用」という場合には、意味が広い。 『医学書院 医学大辞典 第 2 版』の「拮抗作用」の項によれば、拮抗作用とは 「2 つの薬物の併用による効果が, ある特定の作用をもつ一方の薬物のみによる効果よりも小さい場合をいう」のであり、 1) アンタゴニストによる「薬理学的拮抗」 2) 相反する生理作用を有する薬剤同士による「生理学的拮抗」 3) 薬物代謝酵素の誘導による「生化学的拮抗」 4) 薬物同士が結合して不活性化する「化学的拮抗」 の 4 つに分類されるという。 さて、「薬物 A は薬物 B の活性化を阻害する」という場合には、A と B は拮抗しているといえるのだろうか。 たとえばワルファリンの場合、2) 3) 4) とは異なるし、1) は基本的に受容体とリガンドの関係についていうものであるから、 いずれにも該当しないように思われる。 むしろ、「エポキシドレダクターゼと拮抗する」というのであれば、4) の意味で「拮抗作用」といえるであろう。

さらに『生化学辞典 第 4 版』(東京化学同人) の「ワルファリン」の項をみると、 「ビタミン K が促進するプロトロンビン, VII・X・XI 因子の合成を拮抗阻害し」とある。 この辞典は誤植が非常に少ないのであるが、珍しく、ここでは「IX」を誤って「XI」としてしまったようである。 ここでは「拮抗阻害」と明言している一方、II, VII, IX, X の合成のうちどの段階を阻害するのか明らかには示されていない。 しかし、わざわざ「ビタミン K の構造類似体で」と記されていることから考えると、 ワルファリンとビタミン K が競合する、という意味に解釈したくなる。

次に、エーザイ株式会社が販売しているワルファリンカリウム製剤である「ワーファリン錠 0.5 mg」の添付文書における 「薬効薬理」のうち「作用機序」をみると、ワルファリンは 「ビタミン K 作用に拮抗し」「ビタミン K 依存性凝固因子 (中略) の生合成を抑制し」とある。 『生化学辞典 第 4 版』の記述と同様の説明である。 この記述の根拠論文は「青崎正彦: 循環器科, 10, 218 (1981)」であるらしい。 幸い、この文献は名古屋大学附属図書館医学部分館に所蔵されているため、さっそく、閲覧してみた。

この 30 年以上前に著された文献におけるワルファリンの作用機序の説明は、 『ハーバード大学テキスト 病態生理に基づく臨床薬理学』によるものと同一であり、要するにビタミン K の還元を阻害する、ということである。 なお、この阻害の様式については、特に言及がない。

以上のことから、何がいえるか。 まず「拮抗」という言葉は、「薬物の作用を減弱させる」という程度の意味で広く使われているようである。 しかし狭義の「拮抗作用」は『医学書院 医学大辞典 第 2 版』でいうような 4 つの様式による直接的な抑制作用のみをさすとすれば、 ワルファリンはエポキシドレダクターゼと拮抗しているのであって、ビタミン K と拮抗しているわけではない。 いずれにせよ「拮抗」という語の意味は非常に曖昧であるから、なるべく使わない方が良いだろう。 次に、『ハーバード大学テキスト 血液疾患の病態生理』や『生化学辞典 第 4 版』およびワーファリン添付文書の記述は、 ワルファリンの直接的な作用であるビタミン K 活性化の阻害について言及しておらず、語弊がある。 臨床で用いられる薬剤添付文書が根拠論文の記述を不適切に要約していることは、極めて遺憾である。

結論として、ワルファリンの作用を正しく説明するならば 「エポキシドレダクターゼの作用を阻害することにより、ビタミン K の活性化を妨げる。 これにより凝固因子 II, VII, IX, X は正常に翻訳後修飾されなくなり、血液凝固が抑制される。」 ということになる。


2014/05/06 ベルヌーイの定理

血液や循環器の勉強をしていて思うのだが、どうも、血圧というものをよく理解していない人が少なくないようである。 名著『ハーバード大学テキスト 心臓病の病態生理』でさえ、血圧については時に子供騙しの説明をしているほどである。 特に問題となるのは、弁膜症、たとえば僧帽弁狭窄症において、なぜ左心房の血圧が上昇し、さらに肺高血圧が生じるのか、という問題であろう。 この現象は、上述の教科書によれば「受動的メカニズム」と「反応性メカニズム」によって生じるという。 後者については、詳細がいまいちよくわかっていないようであるが、何らかの経緯により肺小動脈が繊維化することによって生じるらしい。 一方、前者についてはよくわかっているのだが、物理学、特に初等的な流体力学を理解することなしには、適切な説明をすることができない。 しかし現在の医学科のカリキュラムではベルヌーイの定理すらまともに教えていないようであるから、 一般的な医学科生には、このあたりの病態生理を理解するのは困難であろう。

以上のような事情から、多くの学生は漠然とした直観的解釈によって「なんとなく」血圧というものを理解しているのではないか。 また、「ハーバード大学テキスト」も含めて、多くの教科書は漠然とした説明によって学生をわかった気にさせているように思われる。 しかし、そうした曖昧な解釈では時に重大な過ちを冒すことになるし、なにより、「なんとなく」の理解では患者に対し自信を持って正確に説明することができない。 そこで、本記事では僧帽弁狭窄症において肺高血圧症が生じる受動的メカニズムを説明する。 とはいえ、さすがに初等物理学から話を始めると長くなるので、 エネルギー保存の法則や次元解析、および層流と乱流の違いについては既知であるという前提で書くことにする。

血圧の問題を考えるには、ベルヌーイの定理を用いるのが良かろう。 ベルヌーイの定理は、層流についてのエネルギー保存の法則を定式化したものである。 心臓の中の血流が層流かどうかという点には、いささかの疑問があるが、定性的な議論であると割り切るならば、層流と近似して概ね問題あるまい。 ベルヌーイの定理の詳細は流体力学の教科書に譲るとして、心臓の議論に限ってエネルギー保存の関係を表せば、 血液が非圧縮性流体であるという近似の下で、次のようになるだろう。

圧力のエネルギー + 血液の運動エネルギー + 血液の位置エネルギー = 一定

次に各項が、どのような物理量で表現できるのかを考える。 上述の式は積分型でも微分型でも成立するはずであるが、ここでは微分型で議論しよう。 これは、平たくいえば「単位体積あたりのエネルギー」について議論する、という意味である。

まず「圧力のエネルギー」は、血圧に比例すると考えられる。血圧は臨床医学的には mmHg の単位で表現されるが、 これは SI 単位系では N/m2 と同じ次元を持っている。 従って、血圧を P とし、適切な無次元の係数 A を用いて

圧力のエネルギー = AP

と表せる。というのも、エネルギーの単位である J は Nm と同じ次元であるから、 「単位体積あたりのエネルギー」は N/m2 と同じ次元となり、すなわち圧力と同じ次元になるからである。

同様に、血液の流速を v とすれば、Ns/m3 と同じ次元を持つ係数 B を用いて

血液の運動エネルギー = Bv

となる。

血液の位置エネルギーは、頸静脈の怒張などを議論する際には重要であるが、今回は議論を簡単にするために一定であるとみなすことにしよう。

以上の議論から

AP + Bv = 一定

という関係が成立する。 血圧の基準点は、臨床医学的にはともかく物理学的には任意であるから、ここでは上式を

AP + Bv = 0 mmHg

と書き換えることにする。 この式を用いて、僧帽弁狭窄症における左心房や肺循環の血圧を考えよう。

まず心室収縮期の左心房血圧であるが、僧帽弁が狭窄していれば血液は緩徐に流れるようになるため、v が小さくなる。 すると、エネルギー保存の関係により P が大きくなるわけである。 この圧力 P の変化は、心房壁が伸展することによる弾性エネルギーの変化に由来する。 これが左心房の血圧が上昇する理由である。

さらに血流の上流まで遡り、肺血圧を考えよう。肺血圧という言葉は「肺のどの部分の血圧なのか」をごまかした不適切な表現ではあるが、 今回は肺の中での血圧分布を問題にしていないので、肺の平均血圧、ぐらいの意味で、この語を用いることにする。 エネルギー保存の式から、肺血圧は肺における流速のみによって一意に定まるのであって、実は左房圧とは直接は関係ないことがわかる。 これは直観に反するようだが、よく考えると、左房圧が上昇すると肺における流速が低下し、その結果として肺血圧が上昇しているのである。 これが、受動的メカニズムによる肺高血圧の機序である。

このエネルギー保存則は、肺動脈楔入圧の測定原理を理解するためにも重要である。 すなわち、肺の小血管を閉塞させて流速を 0 にすれば、その位置における血圧は下流にある左心房の血圧と一致する。 ただし、これは左心房における流速が 0 であることと、測定位置と左心房の間に高低差がないことを仮定している。

2014/05/18 語句修正

2014/05/07 生化学・生理学勉強会

私は、生化学と生理学についてはあまりキチンと系統的には勉強しなかったので、正直なところ、理解が少しアヤフヤな点がある。 しかし、いまさら生化学や生理学の教科書を独りでポツポツと読むのも、いまひとつ、やる気が起きぬ。 そこで生化学・生理学勉強会として、しっかりと学び直す勉強会を開きたかったのだが、今のところ、誰も乗ってくれそうにない。

もし二年次の講義で生化学や生理学をすっかり理解しているというのであれば、こうした催しに需要がないのは当然だが、 周囲の諸君をみるかぎり、とても、そのようには思われない。 それゆえ、三年生以下の学生の中には食いつく者もあるかと思ったのだが、どうも、こういう催しは名古屋大学医学部医学科では流行らないらしく、遺憾である。 ひょっとすると、呼び掛け人である私が敬遠されているだけなのかもしれないが、 それならそれで、あの鬱陶しい五年生をコテンパンにやっつけてやろう、ぐらいの気持ちで参加する学生がいても良さそうなものである。 彼らは、本当に医学を学ぶ気があるのだろうか。

名古屋大学医学部の学生でなくても良いので、こうした勉強会に関心のある人がいたら、ぜひ、ご連絡いただきたい。 今の時代なら、ボイスチャットなどもあるので、場合によっては遠隔地の学生同士で集まってやる手もあるかもしれない。


2014/05/08 心不全

来週からは泌尿器科の臨床実習であるが、今日もまた循環器の話である。 私は以前から、心不全、特に慢性心不全の治療方針に頭を悩ませていた。 慢性心不全の治療としては、ACE 阻害薬や利尿薬が使われるが、これらは要するに体内の水を減らす薬である。 また、β遮断薬も用いられるようであるが、これは心臓の働きを弱める薬である。 慢性心不全は、何らかの事情により心臓が機能低下したものをいうのであり、 体内に水が貯留するのは、その代償反応の一部である。 すなわち、体液の貯留自体は異常ではないのに、それを薬で抑えようとするのは、一体、どういうことなのか。 心臓が弱っているのに、それをさらに弱めるのは、なぜなのか。 生理学などの教科書には何やら小難しい理論が書かれており、一応、理屈はわからないではなかったのだが、 どうにも釈然としないものがあった。

近頃になって、ようやく、これは「治療」という言葉の定義を巡る問題なのだと理解できた。 私の考えでは、「治療」とは治し療することであり、すなわち病気の人を病気でなくするよう試みることをいう。 しかしながら現代医学では、「治療」という語はもう少し広い意味で使われており、病気の人を治せないまでも、死亡を遅らせることも含ることが多い。 なお、「延命」という語を正確に定義することは難しいので、ここでは議論しない。

慢性心不全に対しては、大半の場合、心臓移植や人工心臓を使う以外の方法では、心機能を回復することは不可能である。 もちろん、慢性心不全の背景に何らかの基礎疾患があり、心臓に不可逆な変性は生じておらず、 しかも基礎疾患が治癒可能であるならば心機能も回復し得るが、そういう例は比較的稀である。 従って、慢性心不全に対する「治療」の目的は、心機能の回復ではなく、心機能のさらなる低下を極力防ぎ、死亡を遅らせることである。 このことをよく認識していなかったために私は慢性心不全の治療を理解できなかったのであるが、 心機能の回復を諦めているのであれば、なるほど、利尿薬やβ遮断薬の使用は合理的である。

軽度の心不全に対しては、体液の貯留や交感神経刺激などによる生理的な代償機構が働くため、著明な身体症状は生じない。これを代償性心不全という。 しかしながら心不全が進行すると、すなわち心臓の収縮力あるいは拡張性が高度に低下すると、生理的反応では代償しきれなくなる。 これが、いわゆる非代償性心不全である。 非代償性心不全においては、腎血流の低下により尿量が減少し、さらに体液が貯留する。 『ハーバード大学テキスト 心臓病の病態生理 第 3 版』では明記されていないが、『ガイトン 生理学 原著第 11 版』によれば、 この状態ではもはや Frank-Starling の法則は成立せず、体液量が増加しても心拍出量はむしろ低下するという。 この場合、心拍出量の低下と体液量の増加が正のフィードバックを形成してしまうため、体液量は急激に増加し、重篤な肺水腫を来して呼吸困難となり、死亡するわけである。

そこで、心機能の回復を断念し、正のフィードバックを阻止することだけを考えるならば、利尿薬を用いるのは自然なことである。 また、心筋に負荷がかかればリモデリングが亢進するであろうから、β遮断薬によって心筋負荷を軽減すれば、心不全の増悪は遅くなるであろう。 もちろん、こうした状態では心拍出量は少なく、患者は充分に運動することができない。 心機能を増強するには、ドブタミンなどのカテコールアミン、すなわちβ刺激薬を用いる手があるが、 これは、たぶんβ受容体のダウンレギュレーションにより耐性を生じやすく、またリモデリングを促す恐れがあるため、あまり長期的に用いることはできない。

このようにして、心機能の回復を諦めて「死なないこと」に専念するのが慢性心不全の「治療」の基本方針である。 こうした基本的な考え方は、多くの教科書にはハッキリとは説明されていないようであるが、なぜなのだろうか。 また、臨床現場においては、心不全患者に対してどのように説明されているのか、私には、よくわからない。

2014/05/08 語句修正

2014/05/09 医学部批判

私は世相に疎いために、全国医学部長病院長会議が 4 月 11 日に 「国家戦略特区での医学部新設に反対する」声明を出していたという事実を、 今日になるまで知らなかった。 この声明は、医学部の新設および医師の増員を図る政府方針に対する抗議および批判を述べたものである。

声明では、いくつかの見解が述べられているが、東北地方における医学部新設については 1) 病院勤務医の引き抜きにより地域医療の連鎖的崩壊を誘発すること 2) 過剰な医師の養成は医師の粗製濫造につながり、結果として国民に提供する医療水準の低下をもたらす懸念のあること 3) 早晩、医師過剰となり、定員削減に方向転換する必要性が明白であること などを挙げている。 おおよそ、医学部らしい、世間の常識から乖離した発想である。

まず第一に、医学部の定員増加と医師の増員を一緒にして考えていることがおかしい。 医師の定員を国策で調節するのであれば、国家試験の合格者数を調整すれば済むのであり、医学部の定員をどうこうする必要はない。 医学部を卒業した者のほとんど全てが医師になれるという現状が、おかしいのである。 医学部生は、卒業さえすれば、免許さえ取得すれば、生涯の安泰が保証される。 その安寧の中で自由にのびのびと学問に励むことができる、というのが、この制度の元来の趣旨であったかもしれない。 しかし現状では、安寧ゆえに惰眠を貪り、医学を学ばずに試験対策テクニックを学ぶ学生が多い、というのが実情である。 これでは、この過保護な制度を正当化することはできない。

こういうことを言うと、「医学部の教育は専門性が高く、医師以外の職業では活かすことが難しい」と反論する人がいるかもしれない。 しかし、それならば、文学部や、経済学部は、どうなるのか。 教育学部出身でも教師にならない者は多いし、法学部出身者のうち法曹界に進む者はむしろ少数派である。 そもそも、大学は職業訓練学校ではない。大学で学んだ内容を直接的に社会で活かそうという発想の方が、おかしいのだ。

第二に、過剰な医師の養成が粗製濫造につながるという話だが、まるで、現在の医学部入試では 医師としての適正や能力が高い学生が選抜されているかのような論調である。 現在の医学部には、単に高校で成績が良かった、教師に勧められた、親が医者だ、そういった学生が、多数、入学している。 高校で物理や数学の点数が良かったことが、医師の素質なのだろうか。 医者の息子や娘こそが、良い医者になるのだろうか。

第三に、医師が過剰になったら医学部の定員を削減するのがあたりまえだ、とでも考えているかのような主張である。 どうして、医学部の定員を削減する必要があろうか。 文学者の数に比べて文学部卒業者が多すぎたら、文学部の定員を減らすのだろうか。 なぜ、医学部だけが特別だと考えるのだろうか。

医師が増えて困るのは、主に医師、特に開業医ではないのか。 勤務医は、特に麻酔科医などを中心に人手不足で疲弊しており、むしろ増員を希望しているのではないか。 現に、名古屋大学医学部には、人手不足による過剰労働への対策として「医師を増やそう」と主張するポスターまで掲示されているのである。

医師を増やそうにも、雇用するだけの予算がない、と主張する人もいるかもしれない。 簡単なことである。医師の給料を削減すれば良いのだ。 勤務医の給料は安い、などと主張する人がいるが、それは嘘である。 国公立病院の常勤医の給料はあまり高くないというが、そうした医師の多くは非常勤医として、いわゆるアルバイトをしているらしい。 くわしい市場原理は知らないが、医師には非常に高給のアルバイトが少なくないらしく、結局、収入は一般サラリーマンよりもはるかに高いらしい。 その証拠に、名古屋大学医学部附属病院の職員用駐車場には、アウディ、メルセデス、BMW、ポルシェ、その他の高級外車が並んでいるし、 国産車にしても、高級車がずらりと駐車されている。 とても、給料の安い労働者が乗るような車ではない。


2014/05/10 性決定プロセスについてのメモ

泌尿器科学の教科書をみていて、気になった点を記録しておく。

2013 年 9 月 15 日に 「SRY を持たないヒトが身体的に男性になる例はないと思うのだが、 よくわからない」と書いた件である。 医学書院『標準泌尿器科学 第 9 版』の p.29 によれば、 XX の男性や卵精巣性性分化疾患の中に、SRY を持たない例があるらしい。 すなわち、SRY がなくても、何らかの条件が揃えば 精巣が形成され、身体的に男性となることがあるらしいのである。 詳細はよくわからない。


2014/05/10 ステロイドホルモン産生障害

先天性ステロイドホルモン産生障害、特に先天性副腎過形成についてである。 この疾患は、副腎におけるステロイド産生に関する酵素を先天性に欠いているために 糖質コルチコイド産生能が低いことが原因であり、常染色体劣性遺伝する。 代償的に ACTH が過剰産生されることから、反応性に副腎が過形成となる。 表現型は多様であるが、基本的には、欠損している遺伝子に応じて生理学的に予想できる。

先天性副腎過形成の 95 % 程度は 21 水酸化酵素欠損症であり、これは 新生児マススクリーニングの対象となっている。 この酵素を欠くことにより、アルドステロンやコルチゾールを産生することができず、 結果的に 17-ケトステロイド、すなわちアンドロゲンが過剰産生される。 このため、女児においては陰核が形態異常を呈し、陰茎様になることが多い。 いわゆる副腎性器症候群である。 本疾患の可能性が予想される場合には、妊娠中に ACTH 分泌抑制能が強い デキサメタゾンを適量投与することで予防できる。 また、発症した場合には外性器を再建し、鉱質コルチコイドや糖質コルチコイドを 適量投与することが治療の基本である。 ただし、この「適量」というのが難しい。

なお、稀ではあるが 17α-水酸化酵素欠損症の場合も先天性副腎過形成を来すが、 この場合は糖質コルチコイドやアンドロゲンを産生できず、結果的にアルドステロンが過剰になる。 このため、いわゆる低レニン性高血圧症を来すわけであるが、 文光堂『小児科学 改訂第 10 版』によれば、その発症は主に青年期であるらしい。 なぜ幼児期に高血圧を来さないのか、よくわからぬ。

ところで、ACTH 分泌能を調べるためにメチラポンという薬剤を使用することがある。 これは 11β-水酸化酵素阻害薬であり、コルチゾール産生を選択的に阻害するとされる。 すなわち、ACTH 分泌能が正常であれば、メチラポンを投与すると 血中コルチゾールが減少し、それに反応して血中 ACTH が増加する。 この反応が遅い場合には、何らかの事情で ACTH の分泌能が低下しているのではないかと疑われるのである。 さて、私はこの話を『ハーバード大学テキスト 病態生理に基づく臨床薬理学』で読んだとき、首をかしげた。 11β-水酸化酵素は、アルドステロン合成にも必要な酵素であるから、これを阻害すれば アルドステロン産生も阻害され、結果的に低血圧や低ナトリウム血症を来すのではないか、と思ったのである。 しかし本日ようやく理解したのであるが、11β-水酸化酵素の基質である 11-デオキシコルチコステロンは鉱質コルチコイド活性を有するため、メチラポンを投与しても 血圧は低下するどころか、むしろ上昇するのである。 同様に、11β-水酸化酵素を先天的に欠損する人は低レニン性高血圧を来すわけであるが、 どうやら、これも幼児・学童期に発症するのがふつうであるらしい。 よくわからぬ。

さて、問題は、先天性副腎過形成の残りの 5 % である。 文光堂『小児科学 改訂第 10 版』 p.450 によれば、リポイド過形成症が 4.6 % を占めるらしい。 これはコレステロールをプレグネノロンに変換することができないものであり、 結果として、全てのステロイドホルモンを産生できなくなる。 一方、医学書院『標準泌尿器科学 第 9 版』 p.273 によれば、 「残りの 5 % は 11β-水酸化酵素欠損症である」となっている。 これは一体どういうことなのかと思い、 難病情報センターのウェブサイトを調べてみた。 するとリポイド過形成症は 先天性副腎過形成症の 4.1 % を占める、とあり、文光堂の方が正しそうである。 一方11β-水酸化酵素欠損症については 我が国では先天性副腎過形成症の 1 % 程度であるが、欧米では比較的多く、 イスラエルでは 5 % を占める、とある。 すなわち『標準泌尿器科学』は、欧米での報告を元に記載しているのだろう。

このように、著名な教科書であっても、語弊のある記述は散見されるものであるから、 勉強をするにも textbook literacy が必要である。


2014/05/18 性同一性障害

以前性同一性障害について書いたが、 先日、私の不見識を文光堂『小児科学 改訂第 10 版』に指摘されたので、補足および一部訂正する。 私の以前の記述をみて不快に感じられた人がいたら、申し訳ないことであり、ここにお詫び申し上げる。 しかし過去の記事については、もうだいぶ古くなっているので、修正せずに本記事へのリンクを設けるに留める。

そもそもヒトの性別は、生物学的、あるいは医学的に、明瞭に定義できるものではない。 性別を決定する要因には、性染色体、外性器の形状、性腺すなわち精巣や卵巣などの形態、脳の機能的性別などがある。 最後の「脳の機能的性別」が、いわゆる「心の性」であり、それ以外の要因が「身体の性」を構成する。 定型的には、性染色体が XY であれば外性器は陰茎を形成し、性腺は精巣などに分化し、脳の機能は男性的になるし、 XX であれば、陰核や膣、卵巣などが形成され、脳の機能は女性的になる。 しかし、ヒトの発生は非定型的に進行することも稀ではなく、その結果、いわゆる性分化障害が生じるのである。

たとえば、いわゆる副腎性器症候群の女児においては、ステロイド合成に関係する遺伝子が先天的に欠損しているために、 胎児期に副腎でアンドロゲンが過剰に産生される。 このため、陰核が陰茎様に形成されてしまうことがある。 しかし、このアンドロゲンの過剰分泌が起こる頃には既に脳の性別は決定されているらしく、性同一性障害を合併することは稀である。 そのため、性染色体が XX で卵巣を持つような副腎性器症候群の女児については、早期に外性器の形成手術を行い、戸籍上の性別は女性とされる。

また、何らかの事情により、たとえば性染色体が XY であるのに卵巣と精巣が形成されてしまう人もいる。 かつては半陰陽と呼ばれたが、この呼称は医学的実態を反映しておらず、不当に差別的と考えられるので、現代では用いられない。 この場合、性染色体だけを根拠に男性とみなして治療や戸籍登録を行うのは不適切である。 性染色体は、性別を決定する絶対的な基準ではないからである。 性別の判定が困難である場合には、いわゆる「心の性」を重視する観点から出生時点での性別判定を保留して出生届を作成し、 性別欄を空欄のまま戸籍登録することも可能であるということは、医師ならば必ず知っておくべきである。 従って、比較的少数ではあるが、外見や外性器は男性にみえても、医学的に女性と判定され、女性として戸籍登録される人も存在する。

以上のことから、性同一性障害は、脳以外の部分は定型的な性分化を遂げる一方で、 脳だけは非定型に性分化したものと考えられる。 すなわち、これは本質的には性分化障害の一型であるが、しかし出生時には診断不可能である。 このため、出生時にはその障害を見逃され、不幸にして誤った性別で戸籍登録されてしまうのである。 なお、性同一性障害を性分化障害に含めない意見もあるようだが、 それは臨床における便宜上のものであり、疾患の本質からは、あくまで性分化障害と考えるべきである。

また、性同一性障害患者で「心の性」を重視する患者については、性分化障害を見逃された、すなわち誤診されたわけであって、 医学的見地からは、戸籍上の性別が誤っているといえる。 現行法では、戸籍上の性別を変更するには性別適合手術を受けていることなどの厳しい条件が課されているが、これは不適切である。 すなわち出生届における性別欄の記載が実は誤っていたのだから、本来は、診断さえついていれば性別適合手術の有無に関係なく戸籍上の性別を修正すべきである。

残念ながら、こうしたことを深く考えていない、認識の甘い医師も少なくないようである。 たとえば MtF, すなわち「体の性」が男性で「心の性」が女性であるような性同一性障害の患者について、 「戸籍上の性別は男性だから」という理由で、カルテには男性として記載するような病院や医院も少なくないらしい。 上述の議論からすれば、これは戸籍上の性別が誤りなのだから、カルテには女性として記載するのが当然である。 戸籍上の性別は医学的判断に基づいて決定されるのであり、医学的判断が戸籍によって左右されてはならない。


2014/05/21 神戸大学病院

トップページに掲載しているリンクに楽園はこちら側を追加した。 これは、神戸大学病院の某医師のブログである。 いろいろ書きたいこともあるのだが、この方も、一応は匿名で書いていらっしゃるようなので、余計なコメントは控えることにする。 このブログを読んで、私は、初期臨床研修先の候補リストに神戸大学病院も含めることにした。

現在の候補リスト (50 音順): 岡山大学病院, 金沢大学病院, 神戸大学病院, 東北大学病院, 富山大学病院, 名古屋大学病院, 北海道大学病院


2014/05/22 目指す医師像

先日、四年生の友人達から、暖い言葉をいただいた。 彼らは、私の戦闘意欲と学術的好奇心を高く評価してくれた上で、 「独りで戦いすぎである」と心配してくれたのである。

名古屋大学医学部医学科においては、少なからぬ学生が、試験特化型の勉強法を採用している。 定期試験の際には過去問をよく研究し、講義の際に配布された資料を重点的に勉強するし、 CBT やら国家試験の前には、Question Bank なる市販の試験対策問題集を中心に勉強するらしい。 そこで私は、そうした勉強法を「学問の正道から外れており、下品である」などと、常々、批判している。 一部の学生は、こうした私の主張に対し一定の理解を示してくれるのだが、 少なからぬ学生は、私のことを「うざい」と言い、蛇蝎の如く嫌っていると推定される。 これは、博士課程時代の状況と似ているとも考えられるし、 将来、私が孤立して再び挫折する原因となるかもしれぬ、と、彼らは心配してくれているようである。

確かに、私の言動には、いささかの行き過ぎがあるように思われるので、以後、適度に慎もうと思う。

だが、基本的には、学問に対する彼らの姿勢を批判し続けていく必要があると思う。 というのも、彼らは、学問の何たるかを、全く理解していないからである。

学問における基本的な姿勢は、未知の物事に対し「なぜ」と問いを発することである。 大学において、いわゆる一般教養科目が必修とされているのは、この学問の基本を体得するためであろう。 私は、かの自由の学園を、何らの専門的学識をも身につけることなく卒業したが、 しかし学問の基本だけは存分に学んだ。 そして現在の名古屋大学医学部医学科の様子をみると、 多くの学生は私よりもはるかに多くの医学的知識を有しているにもかかわらず、学問の基本を充分に修得している者は少ないように感じられる。

私自身の将来について言えば、結果的に周囲の反感を買って孤立したとしても、構わないと考えている。 たとえ京都大学を逐われ名古屋大学に棄てられようとも、それでも地方大学や私立大学の中には私を必要としてくれるところもあるだろうし、 そうした大学こそが、22 世紀の医学を担う人材を輩出するのだと思う。


2014/05/23 放射線科

最近、放射線科に興味が湧いてきてしまった。 私はもともと放射線の専門家(の端くれ)であったので、「昔の専門分野に固執するのは良くない」との考えから、 「放射線科にだけは、絶対に行くまい」と思っていたにもかかわらず、である。

いかん、どうしよう。


2014/05/24 診断学をいつ学ぶか

名古屋大学医学部医学科の場合、特別に「診断学」という枠での講義や実習は行われない。 PBL だか基本的臨床技能実習だかが、それに当てられていたように思う。 従って、基本的には、診断学をいつ、どのように学ぶかは、学生の主体性に一任されていることになる。

私の場合、五年生の現在に至るまで、診断学は特別に勉強していない。 医学書院の『内科診断学』が名著だという噂は聞くが、自分では買ってもいないし、読んでもいない。 というのも、内科学が「各疾患について、その病態生理や診断、治療を学ぶ」という、いわば正引きであるのに対し、 内科診断学は「症候や検査結果から病態生理を推定する」という逆引きであるように思われる。 すなわち、理屈としては、内科学を存分に学べば、内科診断学は特別に勉強せずとも、おのずから修得されるはずではないか。

内科診断学を学ぶこと自体が悪いとは思わないが、思わぬ陥穽に嵌らぬよう、気をつける必要があろう。 すなわち、診断法を記憶すれば、一見、医学に習熟し、優れた学生であるかのように錯覚されるが、 それは記憶した知識や技法を実施しているに過ぎず、内科診断学が本来目指す所である論理的思考や医学的考察を修得した証左ではない。 学生のうちに、そうした実用的知識を修得する必要はなく、むしろ、医学の基礎をしっかりと理解することに専念するべきであろう。 今のうちに、どれだけ回り道をしたかが、将来の、医師としての引き出しの数を決めるのではないか。

というわけで、私は、診断学を学ぶのは六年生の終わり頃でよかろうと思っているのだが、いかがだろうか。

2014/05/31 語句修正

2014/05/27 御侍史

医療業界だか医学界だかでは、書面の宛名において、医師への敬称として「御侍史」というものが使われるらしい。 たとえば、山田太郎医師宛の書面の宛名を「山田太郎先生御侍史」などとするのである。 「侍史」とは、秘書、とか、付き人、とかいう意味であり、「山田先生のような偉い方に直接宛てるのは恐れ多い」というような意味合いである。 この敬称には賛否があり、日本語としておかしい、との批判もあるようだが、とにかく、相手をとても高く持ち上げる敬称である。

私は先日、日本病理学会総会に出席したのだが、その後、病理学会からお手紙が送られてきた。 特に用事があったわけではなく、ただの挨拶状である。 この手紙の宛名が「○○ 先生御侍史」となっていた。 なんと気持ち悪いことであろう。

医師に対して「先生御侍史」などという敬称をつけること自体、どうかと思うが、ましてや、私は学生である。 いったい、どうしたことだろうか。

2014/06/07 語句修正

2014/05/29 大動脈解離と医療哲学

5 月 30 日の記事も参照されたい。

大動脈解離とは、大動脈に解離を来したものをいう。 解離とは、血管壁に偽腔を生じるものをいうのであり、平たくいえば「血管壁が裂けて、そこに血液が流れ込んでいる状態」である。 大動脈解離は、典型的には中膜の変性によって生じる。 臨床症状としては胸背部痛を来すのが典型的とされる。解離の生じる場所により、四肢の血圧に異常を生じることがある。 たとえば腕頭動脈の血流が減少すれば右上肢における血圧は低下するし、腎動脈の血流が減少すれば全身性に高血圧を来す。 大動脈解離を放置すれば、心タンポナーデを来すなどして死亡する危険があるため、胸痛を訴える患者においては、必ず解離の可能性を否定しておく必要がある。 しかし、大動脈解離は特徴的な症候や身体診察所見が乏しいことから、「大動脈解離ではない」と断言するのは、なかなか難しい。

さて、今年の四年生の PBL では、最初に急性心筋梗塞の症例を扱ったらしい。これは、我々が昨年度に扱ったものと同一症例である。 主訴が胸痛であり、心電図で ST 上昇がみられ、心エコーでは心臓壁の運動異常が認められることなどから、急性心筋梗塞と診断できる。 問題は、この症例において大動脈解離を伴っている可能性を否定できるか、ということである。 ひょっとすると一部の学生は、心電図や心エコーにおいて心筋梗塞を示唆する所見が得られたことから 「これは解離ではなく心筋梗塞である」と判断したかもしれない。 だが、この発想は危険である。

朝倉書店『内科学』第 10 版 p.649 によれば、解離によって生じた intimal flap、すなわち大動脈の内膜が剥がれかけてプラプラと動く状態になり、 これが冠状動脈の起始部を閉塞し、結果として心筋梗塞を来すことがあるという。 「この場合, 下壁心筋梗塞だけで, 基礎にある大動脈解離を見落とすことがあるので注意が必要である.」と、同書には明記されている。 従って、注意深い学生であれば、下壁梗塞の所見が得られた上でなお、解離が存在する可能性を疑うであろう。

昨年度の「PBL まとめセッション」では、この点について私は「診断過程のどの時点で、解離の可能性を否定することができたのであろうか」という質問を提出した。 朝倉『内科学』によれば、冠状動脈造影 CT でさえ、解離について特異度は 100 % であるものの感度は 96 % であり、25 例に 1 例は検出できないということである。 結局のところ、解離を完全に否定することは不可能であるから、治療を進めていく中で、常に、 実は背景に解離が存在するかもしれない、という可能性を念頭に置いておくべきであろう。

このあたりは、医療哲学とでもいうべき問題も絡んでくる。 私は defensive であるから、25 例に 1 例の可能性をも念頭において常に解離を警戒したいと考えるが、中には、 「そのような極めて稀な例までは考える必要がなく、見落したとしても医師の責任ではない」とする意見もあるだろう。 これは、どちらが正しいといえるものではなく、個人の理念の問題なのかもしれない。 だが、私は、いかに稀な例であったとしても、警戒を怠って見落したのであれば、医師の責任であると考える。

2014/05/30 語句修正

2014/05/30 補足

昨日大動脈解離について記したところ、ある人物からコメントをいただいた。 心筋梗塞の原因として後から解離がみつかることは、それほど稀ではなく、大きな病院であれば年に数例はみられる、というのである。 従って、積極的に解離を疑う所見がなかったとしても常に解離の可能性を警戒することは、個人の理念の問題ではなく、専門家であれば当然のことらしい。 中には、解離の可能性を否定するために積極的に大動脈造影を行うべきだとする意見もあるようだが、 さすがに大動脈造影は侵襲も大きく大変な検査であるので、一般的には行われない。

大動脈解離の可能性を除外することは、このように、難しいのである。


2014/05/31 医師の収入

6 月 8 日の記事も参照されたい。

世間一般では、医者は高収入であると認識されているようである。 それに対し、特に勤務医については、それほど高収入ではない、という声もある。 勤務が過酷であり、時給換算したら安い、などの意見もある。 はたして、本当だろうか。

厚生労働省の報告によれば、 医師の平均年収は、病院や診療所の種別にもよるが、少なくとも 1100 万円程度はあるらしい。 私の考えでは、たとえ勤務内容が厳しかったとしても、1000 万円の年収を得ながら「時給換算では安い」などと述べることは、極めて非常識である。

さらに、医師には、こうした統計には表れない「副収入」が存在する疑いがある。 先日、兵庫県三田市の三田市民病院の院長が患者から計 50 万円の謝礼を受け取っていたことが発覚した、という事件があった。 三田市民病院では患者からの謝礼受け取りは禁止されていたにもかかわらず、である。

さて、以下は、さる筋から私が得た情報に基づいて記載するが、契約上の微妙な問題があるため、情報源については公開することができない。

世の中には謝礼の受け取りを禁止していない医療機関があるらしい。理由は知らぬ。 また、謝礼禁止の医療機関であっても、菓子折り程度であれば受けとっても良いと考える医師は、かなり多いらしい。 さらに、数万円程度であれば無碍に断わる必要はないと考える医師も少なくない上に、 50 万円の場合であっても「受けとって良い」と考える医師が一部には存在するらしい。 こうした「謝礼」が、医師の「収入」として確定申告されているのかどうかは知らない。

我が名古屋大学附属病院では、患者から医師その他職員への私的な謝礼の類は、お断りすることになっているし、その旨の掲示がなされている。 これは当然のことであり、その理由を、いまさらここで説明しようとは思わない。 医師が患者から謝礼を受け取ることがなぜ良くないのか理解できない人は、医学云々の前に、社会勉強をするべきである。


2014/05/31 全身麻酔が心電図に及ぼす影響

最近、気になっているのが、全身麻酔の際に用いる吸入麻酔薬が心電図に及ぼす影響について、である。 たぶん全国どこの病院でも同じだと思うのだが、少なくとも名古屋大学医学部附属病院の場合、全ての手術室には心電図や酸素飽和度などのモニターが設置されている。 手術の際に、この心電図を眺めていて、ふと気づいたことが二つある。

第一に、全身麻酔の導入前後で、電気軸が変化する例があるのではないか。 私がみた一例では、麻酔前の心電図では電気軸が 70 度程度であったのに、導入後には 90 度近くに変化したようである。 軸の向きは目算なので正確ではないが、少なくとも、第 I 誘導の R 波が減高し、S 波が深くなった。 患者の体位は変化していなかった。左脚後枝ブロックでも生じたのだろうか。

第二に、全身麻酔下では T 波が増高する例が多いように思われる。 たとえば第 II 誘導では、ふつう、T 波は R 波よりもだいぶ小さい。 しかし全身麻酔下では、T 波が R 波の 1/2 以上の高さを持つ例が少なくないのではないか。

私は、こうした現象が典型的なのかどうかも知らないし、原因もよくわからぬ。 臨床的にはあまり気にされない問題ではあるらしいのだが、基礎医学的な観点からは、たいへん興味深い。 もし、詳細をご存じの方がいれば、ぜひ教えていただきたい。


2014/06/06 心電図を知っているか

私は、心電図が大好きである。 以前は大嫌いだったのだが、心電図のことを少しずつ理解するにつれて、どんどん、好きになっていったのである。 今では、まるで自分が心電図学の権威であるかのような顔をして、心電図の理論的解釈について実名で著した文書を インターネット上に公開しているほどである。 しかし、私もまだまだ、「心電図を知っている」などと言える域には程遠いのだ、と思い知らされる事件があった。

先日、某診療科の臨床実習の場におけるできごとである。 教授は、ペースメーカーによって心臓を動かしている患者の心電図を示し、 「この場合、ペースメーカーは、どこを刺激しているのか?」と問うた。 その心電図からは、ペースメーカーが心房ではなく心室を刺激していることは容易に読み取れた。 というのも、心室を刺激している場合には、心電図上では QRS 群の幅が広くなるのであるが、実際、 その心電図では QRS 群がとても幅広だったのである。 なぜ幅広になるのか、という理由は心電図学の理論により説明できるのだが、正しく説明しようとすると話が長くなるので、ここでは割愛する。

さて、私は、それが心室を刺激している心電図であることを直ちに理解した。 しかし「心室……」とまで述べたところで、得体の知れぬ不安に襲われ、たちまち勇気を失い、なんとなく 「……あるいは、それよりも上流のどこか」という意味不明な文言を付け加えてしまった。 「どこか」とは、どこなのか。一体、なぜ「上流のどこか」だと思ったのか。 自分でもよくわからない。というより、何も考えていなかった。 単に、断言する気力を失い、発言をぼかしてしまったのである。

教授はニヤリとしながら、「心室だよね」と言った。 あのニヤリの真意は、たぶん、「君は一体、何を言っているのだ」とか、 「わかっているのなら、変にぼかさずに、はっきり言いたまえ」とかいう意味であったのだと思う。

要するに、私は心電図をわかっていなかったのだ。 本当に心電図を知っているなら、堂々と「心室である」と断言できたはずである。 もし間違っていたならば、教授に対し「かくかくしかじかの理由で心室と考えたのだが、何が間違っているのか」と質問できたはずである。 断言できないということは、つまり、わかっていない、ということなのだ。


2014/06/07 21 トリソミー、出生前診断、人工妊娠中絶

昨日の学生 CPC で、21 トリソミー、すなわちダウン症候群が話題になった。 しばしば、21 トリソミーのことを「ダウン症」と表現する人がいるが、これは医学的には不適切な表現である。 そもそも「○○症」という語は「○○を呈する疾患」という意味であり、「○○症候群」の略称ではない。 21 トリソミーは単一症状ではなく、症候群、すなわち一連の多彩な症候を呈するものであるから、「ダウン症」ではなく「ダウン症候群」である。

近年では、21 トリソミーをはじめとした染色体異常が、出生前にある程度診断できるようになってきたために、 先天異常を理由とした人工妊娠中絶の可否が、以前から議論になっている。 一昨日には、函館地方裁判所で、出生前診断の結果を誤って両親に説明した医院に対し、 両親が人工妊娠中絶をするかどうか選択する権利を不当に侵害した、として損害賠償を命ずる判決が出た。 もちろん、これは極めて異常な判決である。なぜならば、ダウン症候群などの先天異常を理由とした人工妊娠中絶は、違法だからである。 違法行為を、裁判所が「権利」として認めてしまったのだ。

そもそも堕胎をすることは、刑法第二百十二条違反であり、堕胎罪にあたり、一年以下の懲役が課される。 母親に依頼されて堕胎させた者は、同法第二百十三条違反であり、同意堕胎罪である。 また、医師などが堕胎させた場合は、同法第二百十四条違反の業務上堕胎罪であり、三月以上五年以下の懲役となる。 さて、例外的に堕胎が許され得る状況が、人工妊娠中絶である。これは母体保護法第二条で 「胎児が、母体外において、生命を保続することのできない時期に、人工的に、胎児及びその附属物を母体外に排出することをいう。」 と定義されている。「生命を保続することができない時期」とは、現代医学においては、妊娠第 22 週未満と考えられている。 母体保護法第二十四条は、強姦によって妊娠した場合や 「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」に限り、 人工妊娠中絶を認めている。

すなわち、妊娠 22 週以降の堕胎は人工妊娠中絶にあたらず、緊急避難にあたる場合を除いては、基本的に堕胎罪である。 また、強姦や「母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」以外に行う人工妊娠中絶も、堕胎罪である。 従って、先天異常を理由にした人工妊娠中絶も、堕胎罪である。 しかし現状では、出生前診断により先天異常が疑われた場合に、無理矢理「母体の健康を害する恐れがある」とこじつけて 人工妊娠中絶を行う医師がいるらしい。 彼らは、こうした行為が法的に認められていないことは知りつつも、社会的需要があることから、ある種の信念によって、 人工妊娠中絶を行っているのだろう。

個人が信念を持つのは結構であるが、法律に違反してまで信念を貫けば、それは犯罪である。 いったい、医者は、いつから法律を曲げる権限を持つようになったのか。 なぜ検察は、かかる不逞な医者を野放しにしているのか。

なお、誤解されると困るのだが、私自身は、母体保護法第二十四条を改正し、 先天異常を理由とした人工妊娠中絶を認めるべきだと考えている。 「命の選択」は良くない、とする意見もあるようだが、命を選択することを法的に規制せねばならぬ理由は存在せず、 両親の自由に委ねられるべきである。 だいたい、命の選択を許さないのであれば、カトリックのように、避妊も禁止するべきではないか。


2014/06/08 患者から医師への謝礼

5 月 31 日に、 「医師が患者から謝礼を受け取ることがなぜ良くないのか理解できない人は、医学云々の前に、社会勉強をするべきである。」 と書いた。しかし、よくよく考えてみると、医師や医学部生の中には、極めて狭い社会の中で生きてきたために、 謝礼を受けとることの何が悪いのか、本当に理解できない人がいるかもしれないということに気がついた。 そこで、謝礼の授受が良くない理由について、ここで述べることにする。

こうした謝礼は、患者から医師への感謝の気持ちを表すものであるから、患者から強く勧められた場合には、 無碍に断わらずに受けとるのが、礼儀といえば礼儀である。 実際、かつては、こうした謝礼の授受が自然なこととして行われていた時期もあったらしい。 しかしながら、そうした謝礼が、ごく自然な慣習として広まった結果、何が起こったか。 「重い病気を患った身体を治してもらったのだから、医師に対して謝礼をするのは、人として自然なことである。 それを行わない患者がいたとすれば、その人は社会常識を欠落した野蛮人である。」というような考えが、次第に広まったのである。

そんな馬鹿な、謝礼はあくまで任意であって、それを厚かましくも要求するような発想を抱くはずがない、と考える人もいるかもしれない。 そういう人は、結婚式の祝儀や、葬式の香典のことを思い起こしていただきたい。 あまり親しくない友人の結婚式に招待されて、今月は懐も寂しいし、と、五千円だけの祝儀を包んだり、 あるいは祝儀を持たずに参列した人は、その後、仲間内でどのように噂されるであろうか。

ひょっとすると、結婚式は誰しもが行うものであり、お互い様だ、と詭弁を弄する人もあるかもしれない。 しかし、現代では結婚しない人もいるし、結婚するにしても、22 歳にとっての三万円と、32 歳にとっての三万円では、重みが全く異なる。 また、結婚式を身内だけで行う人もいるし、友人を招くにしても、招待の範囲は人によって異なる。何がお互い様であろうか。

祝儀と謝礼の間に、いかなる本質的な差異があろうか。 患者が義務感から謝礼を支払っているならば、それはもはや患者の感謝の心を表すものではなく、謝礼ではなく、不正な利得である。 それは思い違いだ、謝礼を支払わなくても診療内容には何らの変化もないのだから、患者はそのような義務感を抱く必要はない、と主張する人もいるかもしれない。 しかし、問題は医師側がどう思っているか、ではなく、患者がどう思うか、である。 「謝礼がなくても診療内容は同じですが、謝礼をいただけるなら受け取りますよ。」と言われて、額面通りに解釈する患者がいると思うのか。 また、さる筋による調査では、医師のうち 1/3 程度は、「謝礼が診療に影響する」と述べている。これをどう考えるのか。 なお、情報源については、契約の関係上、明らかにできなくて恐縮である。

結論として、謝礼を一律に禁止せねば、患者に「医師に謝礼をせねばならぬ」という義務感を植えつけることになってしまう。 そうした義務感に便乗して金品を受けとることは、ゆすり、たかりと同じであり、不当な利得である。

2014/06/11 誤字修正

2014/06/11 カルテへの記載

名古屋大学医学部医学科の場合、臨床実習を行っている学生には、電子カルテを閲覧する権限と、電子カルテに記入する権限の両方が与えられている。 当然のことであるが、こうした権限を不適切に用いない旨の誓約書を書いた上でのことである。 なお、残念ながら、医師の卵に過ぎない我々は、時として医学的に間違った内容をカルテに記入してしまう。 そのため、我々が書いた内容には「学生が書きました」という意味の印が付けられているし、 免許を持った正規の医師が確認するまでは「未承認ですよ」という意味の印が付けられている。

さて、今日ようやく認識したのであるが、四月に臨床実習が始まってから二ヶ月間、私は、実に怠けてきたようである。 というのも、これまで、ほとんどカルテへの記入をしてこなかったのだ。 我々は、患者と接する許可を与えられ、カルテへの記載も許されているのだから、どんどん診察を行い、積極的にカルテに記入するべきである。 その際には、否が応にも緊張するし、記載内容に誤りはないか、所見は適切だろうか、あるいは診察漏れはないか、と非常に神経を使う。 こうして悩み苦しむことこそが、勉強なのであり、教育なのである。 今後は、積極的にカルテに記入していこうと思う。

なお、くだらない内容をカルテに記載して、先生方の手を煩わせては申し訳ない、と考える学生もいるかもしれない。 実は私も、少しばかり、そのような気持ちを抱いていた。 しかし、よく考えれば、我々の病院は大学病院なのである。 教育は、大学病院に勤める医師の職務の一部でもある。 学生が書いたカルテに目を通すことを煩わしく思うような医師は、大学病院の医師たるにふさわしくない。 まともな医師であれば、我々の記載をみて「ほほぅ、熱心にやっておるな」と思い、記述の誤りに気がつけば ニヤリと嗤って「ふふん、まだまだ未熟であるな」と言うはずである。 だいたい、我々のようなヒヨコが、立派な先生方の労力を慮ること自体、僭越というものである。


2014/06/14 『3 秒で心電図を読む本』

『3 秒で心電図を読む本』という書籍がある。著者の山下武志氏は循環器を専門とする医師である。 氏は多くの学生や内科医が心電図を苦手としている現状を憂い、心電図の要点だけ簡潔に読み取る技法を伝授しようとしているらしい。 私は以前、この書物を店頭でみかけた時、タイトルだけ読んで、その内容をくだらないものと決めつけ、手にとることをしなかった。 しかし、今年の四年生の一部の間で、この本が好評を博しているらしいとの噂を耳にして、一体、いかなる内容が記されているのかと思い、購入した。 途中で飽きたので、キチンと全部は読んでいないのだが、この本は、心電図をよく理解していない学生が読むにはふさわしくないと思う。 その理由を、以下に述べる。

まず第一に、はじめから、このような小手先の技術に頼るのでは、志が低すぎる。 医師として必要最低限の技能の獲得を目指して学ぶものは、ついに、その最低限の水準にすら達することがない。 循環器の専門家たらんとする意欲をもって学んだ者は、かろうじて、最低限の技能を身につけることができる。 そして、循環器を学ぶうちに、自分が循環器病学の権化であるという確信を抱いた者だけが、真に循環器の専門家となることができるのではないか。 山下氏の書は、専門家たらんと志して挫折した学生が、その後に、最低限の技能を確保するために読むべきものであろう。

第二に、氏は心電図の威力を過小評価している。同書の 15 ページで、氏は、心電図の意義をスクリーニングと位置付けている。 現在の臨床現場で、心電図が不当にもそのような扱いを受けていることは、事実である。 しかし、心電図は心臓の電気的活動を測定するほぼ唯一の手法であり、これは CT や MRI、核医学検査などによって代替可能なものではない。 すなわち、心電図は本質的には患者の心臓が持つ電気的特性について多彩な情報を含んでいるにもかかわらず、 それを精密検査として活用する技術が未だに確立されていないのは、Einthoven 以来 100 年間の心臓生理学者や循環器医の怠慢の結果に過ぎない。 こう書くと、侮辱されたと感じた生理学者は、私に対し「では、おまえがやってみろ」と言うであろう。 よろしい。もし本当に他にやる人がいないのであれば、仕方がないので、いずれ私が、精査目的での心電図の活用法を編み出してご覧にいれる所存である。

なお、こうした新しい技術の開発に対し多くの医学科生や臨床医が無関心であるという事実は、 日本における医学教育水準の低さを表しているように思われる。

2014/06/15 語句修正

2014/06/15 Primary Care

近年、若い医師、特に初期臨床研修医の間で、プライマリケアなるものが流行しているようである。 多くの病院では、初期臨床研修プログラムの紹介の中で「プライマリケアを重視し」というようなことを述べているし、 研修医の体験談には「初期臨床研修ではプライマリケアの修得が重要である」というような意見が多い。 しかしながら、こうした研修医をはじめとして、多くの医師や学生は「プライマリケア」という言葉の意味をよく理解せずに使っているようである。 意味をよく理解しないままに「プライマリケア」という言葉を濫用しているという事実は、 こうした医師や学生が、物事を雰囲気だけで判断し、しっかりと考えずに行動していることを示唆している。

プライマリケアとは、どういう意味か。 まず、医学書院『医学大辞典』第 2 版をみると、プライマリ・ケアとは 「患者の抱える問題のほとんどに対して総合的な視点から対処でき, 信頼感が醸成される人間関係を築くことで患者が受診しやすい状況を作り出し, かつ家族や地域という枠組みのなかで責任ある診療を行う医師によって提供されるヘルス・ケア・サービスのこと。」とある。 次に、日本プライマリ・ケア連合学会による 医療関係者向けの「プライマリ・ケアとは?」という文書をみると 「プライマリ・ケアの定義や意味合いは幅広く、用いられる場面や状況によって若干ニュアンスが異なる場合があります。 簡潔にすべてを包含できる解釈は難しいのですが、その一つに1996 年の米国国立科学アカデミー (National Academy of Sciences, NAS) が定義したものがあります。」とある。 そこで NAS が 1996 年に出した報告書である Primary Care: America's Health in a New Era をみると、primary care は次のように定義されている。

Primary care is the provision of integrated, accessible health care services by clinicians who are accountable for addressing a large majority of personal health care needs, developing a sustained partnership with patients, and practicing in the context of family and community.

これを私が訳すと、次のようになる。

プライマリ・ケアとは、臨床医による総合的で受診しやすいヘルス・ケア・サービスの提供であって、 その臨床医が、患者が必要とする健康上の諸問題の大半への対処、 患者との持続的な信頼関係の醸成、 および家庭や地域に根差した診療について、責任を負うものをいう。

日本プライマリ・ケア連合学会がいうように、プライマリ・ケアという語の定義は必ずしも一定していないが、 基本的にはこの NAS の定義が広く用いられているようであるから、以下、この定義に基づいて議論する。

まず定義からただちにいえることとして、研修医がいくら救急外来で診療経験を積んでも、 プライマリ・ケアを修得することは不可能だということがわかる。 救急外来では、患者が強く訴える症状およびその背景にある疾患の治療が中心となるのであって、 日頃の生活における健康上の不安などには対応しない。 従って「患者が必要とする健康上の諸問題の大半への対処」は行われない。 また、長期にわたり救急外来に通院する患者はいないから、「持続的な信頼関係」も醸成されない。 もちろん、「家庭や地域に根差した診療」を行うわけではない。 従って、救急外来では、全く、プライマリ・ケアは行われないのである。 それにもかかわらず、救急外来でプライマリケアの経験を積む、などと言っている医師や学生があまりに多いのは、いったい、どういうことなのか。

では、プライマリ・ケアは、どこで行われているのか。 私はよく知らないのだが、たぶん、都市部では、プライマリ・ケアを行っている医師は極めて稀であると思う。 もし日本でプライマリ・ケアを行っている医師がいるとすれば、たぶん、農村や過疎地の医院に勤める医師であろう。 村でただ一人の医師、となれば、否応なしに、プライマリ・ケアを行わなければならなくなる。 ただし、そうした地域では、独特のしがらみによって、医師と患者が「持続的な信頼関係」を築けない例も少なくないというから、 実際にプライマリ・ケアを行っている医師がどれだけいるかは、よくわからない。

海外の例は知らないが、少なくとも日本ではプライマリ・ケアはほとんど行われていないにもかかわらず、 あたかもプライマリ・ケアが重要であるかのように言われているのは、なぜだろうか。 先のNAS の報告書の冒頭では、primary care の定義に続いて、次のように書かれている。

To bring this vision of the future of primary care closer to reality, the Institute of Medicine (IOM) appointed an expert committee to carry out a two-year study intended to address the opportunities for and challenges of reorienting health care in the United States.

このようなプライマリ・ケアの将来の見通しをより実現に近づけるために、 米国医学研究所は専門委員会を設けて、二年間かけて 合衆国におけるヘルス・ケアの再構築の展望について検討を行った。

つまり、崩壊しつつある米国の医療制度を再構築するにあたり、目指すべき理想像を「primary care」と呼んでいるのであり、 その具体的内容が先に述べた primary care の定義とされているものなのである。 そう考えると、実は primary care の定義は「地域における理想的な医療体制のこと」などとするのが正しく、 世間でプライマリ・ケアの定義とされているものは、実は「定義」ではなく「目標」と考えるべきである。

さて、以上の議論から、次のようなことがみえてくる。 プライマリ・ケアは、市民がまず最初に受診する診療所の医師が提供するべき医療サービスの理想像である。 これは高度に専門的な技能であり、安易に「全ての医師はプライマリ・ケアを修得するべきである」などと言えるものではない。

2014/06/19 語句修正

2014/06/19 閉塞性動脈硬化症の心電図所見

非常に専門的でマニアックな話であるが、今週の私の頭の中は、この問題で一杯であるので、ぜひ、これを日記に書かないわけにはいかない。 動脈硬化とは、動脈壁が何らかの事情により肥厚し、内腔が狭窄する病態をいう。 動脈硬化は大動脈や大腿動脈などの大血管にも生じ、時に、これを閉塞せしめることがある。 結果として、その血管から血液を供給されている組織が虚血に陥り、痛みや痺れなどの症状を来すことがある。 これが閉塞性動脈硬化症であり、下肢の障害を来すことが多い。

さて、私が現在抱いている仮説は、次のようなものである。 「左下肢に閉塞性動脈硬化症を有する患者の標準十二誘導心電図をみると、四肢誘導では R 波には著変はみられずに P 波や T 波が減高することが多い。 この場合でも、電極を体幹に装着して四肢誘導に相当する心電図を得た場合には、P 波や T 波も正常である。 また、左下肢が正常で右下肢に閉塞性動脈硬化症を有する患者においては、こうした変化は認められない。」 この仮説は、専ら私の乏しい経験に基づくものであるから、信憑性は高くない。 しかし、次のような理論的考察から、左下肢の閉塞性動脈硬化症は心電図に有意な変化を来すと予想することができる。

しばしば、心電図は電圧計であると信じている人がいるが、実は心電計は電流計であってもよく、 それどころか、初期の心電計は電流計であった。 従って、心電図は、電極間に電流が流れてはじめて、記録され得るものである。 では、心臓より発する電流は、具体的に、どこを通って左下肢の電極に至るのか。 人体の大半は水であるとはいえ、骨は電流を通さないし、繊維性結合組織も高い電気抵抗を有している。 たぶん、心電図の源たる電流の少なからぬ部分は、脈管、すなわち血管やリンパ管の中を流れているのであろう。 従って、動脈の閉塞を来している患者においては、四肢の電流が低下し、心電図に有意な変化を来し得る、と考えるのは、自然なことである。

遺憾ながら私は、現時点において、閉塞性動脈硬化症が P 波および T 波の減高を来す可能性を指摘することはできても、 その具体的な機序について、充分に合理的な仮説を立てるにも至っていない。 たぶん、R 波の信号は主に静脈を伝わり、P 波や T 波は主に動脈を伝わっており、 それ故に閉塞性動脈硬化症は特に P 波と T 波を減高させるのだと思うのだが、いかがであろうか。


2014/06/20 診察とセクハラ

以前、研究室に置いてあった書籍で、乳癌検診と称してセクハラを行う医師がいる、という記事を読んだことがある。 その書籍は、詳細はよく覚えていないが、何かの週刊誌の特集記事を単行本化したものか何かであり、 信憑性は低いのだが、とある病院だか医師だかを告発する内容であったように思う。

その記事には、ある医師からセクハラを受けたと主張する女性の証言か掲載されており、曰く、 その医師は触診と称して乳房にイヤラシイ触り方をし、乳頭にも卑猥に触れた、とのことである。 私は、その診察風景をみていないのでよくわからないが、この証言だけからは、その医師の触診方法が特に猥褻であったと推定することはできない。 乳房触診においては、乳房全体をよく触って「しこり」がないかを調べる必要があるし、 乳癌に由来する異常な分泌物が乳管から出てこないかを調べるために、乳頭から内容物を絞り出すような触り方もしなければならないからである。 これは、知らない人の目には、極めて猥褻な行為をしているかのようにみえる恐れがある。 特に、医師が男性であれば、なおさらである。

そこで我々、特に男性医師は、あらぬ疑いをかけられないように、細心の注意を払わねばならない。 診察室で患者と二人きりにならないように、必ず常に女性看護師に付き添ってもらう必要があるし、 診察においても、具体的に何の目的で何をしようとしているのか、患者によく説明する必要がある。 さらに、猥褻なことを考えているかのように誤解されぬよう、表情や視線にも充分に注意する必要があるだろう。 前述の医師に過失があったとすれば、患者に何らかの誤解を受けかねないような説明、手つき、表情、あるいは視線をもって診察したことであると思われる。

こうした誤解を受けることは、医師にとっても患者にとっても実に残念なことであり、それを回避するよう務めるのは、我々の責任である。 しかし根本的な問題として、個人的には、こうした触診は同性である女性医師が行う方が望ましいと思うし、 また、マンモグラフィーや婦人科の内診についても同様であるように思う。 とはいえ現状では女性医師が非常に不足しているため、なかなか、そのようにはいかない。難しいところである。


2014/06/21 臨床実習でみかけた不適切な言動

6 月 23 日の記事も参照されたい。

臨床実習が始まって、二ヶ月半ほどになる。この間、遺憾ながら、病院の一部医師による不適切な言動を幾度か目にした。 その中で、特に受忍限度を超える三点について、適当なタイミングで大学当局に苦情を申し入れようと考えている。

第一は、セクハラ発言である。 ハラスメントに無理解な者の中には、セクハラとは異性に対する不適切な身体接触などの猥褻な言動をいう、 とする意見もあるようだが、相手が同性であれば問題ない、というものではない。 このことは、厚生労働省による 男女雇用機会均等法令の見直しにおいても明示されている。 大学における教員と学生の関係は、男女雇用機会均等法の適用範囲外ではあるが、 男性教員が男子学生に対し、不必要に性的な冗談を頻発して困惑させる事態があるとすれば、それはセクハラに該当する疑いがある。 残念なことに、このような場面に、私は遭遇したことがある。

たぶん、その教員は場を和ませる目的で、いわゆるシモネタを連発したのであり、私を困らせる意図は全くなかったのだと思う。 しかし、ハラスメントで問題になるのは行為者の目的ではなく、あくまで、その行為を受ける側がどう感じるか、である。 男同士ならシモネタで盛り上がれるはずだ、というのは勝手な思い込みであり、場合によってはセクハラになることを認識していないのは、教員側の落ち度である。

第二は、学生の進路に関する不適切な発言である。 ある実習において、私は、その教員から特に低く評価されたようである。 そのためであろう、最後の総括の場において、その教員は私に対し、半ば冗談めかして、君は臨床医に向いていない、という趣旨の発言をした。

私が臨床医としてはいささかの弱点を抱えている、ということは、私自身、よく認識している。 従って、その教員の指摘自体は、必ずしも的を外したものではないと思う。 しかしながら、そのような重大な指導をするのであれば、冗談めかすのではなく、真剣に私に対して語りかけるべきではなかったか。 また、他の学生もいる場面において、そのような指導をするのは、いかがなものであろうか。 あるいは、ひょっとすると、彼は冗談のつもりで、そのような発言をしたのかもしれない。 しかし、もし本当にそうであったならば、極めて悪質な冗談であり、言語道断である。

私は、仮に臨床医としては凡庸であったとしても、研究医としては、いくつかの点において、他者の追随を許さぬ程に才能に恵まれているという自信がある。 従って、一介の医師ごときに何を言われようと、不快に感じることはあっても、それで重大な精神的苦痛を受けることはない。 しかしながら、もし将来に不安を感じている若い学生であったならば、彼のような不用意な発言により、とり返しのつかぬ心の傷を負う恐れもある。 教育に携る以上、そうした可能性を配慮するのは、当然の義務である。

第三に、特に手術中の暴言である。 一部の医師は、手術中に、不必要に怒鳴りちらし、不適切な暴言を看護師らに投げつける癖があるらしい。 そうした場面を、何度か、私は目撃した。 こうした行為は、職場におけるパワハラ云々という問題もあるが、学生に対する教育という観点からも、不適切である。

2015.03.31 語句修正

2014/06/23 学生としての心のあり様

私はこの日記を匿名で書いているが、中には鋭くも私の正体を見破る友人もあり、その一人が、次のようなことを教えてくれた。 21 日の記事における「他者の追随を許さぬ」のくだりが、一部に笑いを引き起こした、というのである。 たぶん、「あの男は、一体、何を言っているのか」とか、「よく言うよ」とか、そういった意味合いであると思われるが、実に心外である。

我々は、もう大学五年生である。他学部でいえば、修士課程一年生に相当する。 修士課程といえば、一部の学生は自らの学問の才能を確信し、「ひょっとすると自分は神の申し子なのではないか」ぐらいのことを思い始める年頃である。 現在の名大教授なども、学部五年生の頃には「私は天才である」と確信していたに違いない。 これは研究を志す者に限ったことではなく、臨床医においても同様であろう。

これは冗談でもなければ、誇張でもない。 我々は、既に基礎医学を一通り学び、座学としては臨床医学も一応は修めた身である。 広大な医学の世界における自らの立ち位置を見定めることができるだけの経験を積んだわけである。 この状況において、もし自らの才覚に自信を持つことができていないとすれば、残念なことである。


2014/06/24 放射線診断学と病理診断学

ひとくちに「診断学」と言った場合、非常に幅広い学問分野を指すことになる。 放射線診断学と病理診断学は、いずれも診断学の一部であるが、それぞれ非常に高い専門性を有するために、独立した学問分野として扱われることが多い。 病院においても、放射線科あるいは放射線部だとか、病理診断科あるいは病理部といった名称で、独立した部門となっていることが多い。

私は、もともと、病理医、すなわち病理診断を専門とする医師になるつもりで、名古屋大学医学部に来た。 病理診断とは、患者から採取した細胞または組織の標本を顕微鏡で観察し、その所見に基づいて診断を下すことをいう。 病理診断は、患者の病変において実際に何が起こっているのかを、かなり直接的な方法で観察する手法であり、 特に腫瘍の診断において威力を発揮するとされる。 というのも、放射線や超音波などを用いた検査方法では、いかなる名医といえども、「これは、たぶん、癌である」というようなことは言えても、 「これは、間違いなく癌である」と断言することはできない。 しかし病理診断であれば、標本が正しく採取されている限りにおいて、「これは、間違いなく癌である」とか、「これは、腫瘍ではない」とか、断言することができる。 実際には、病理診断を行わなくても、だいたいの場合は、放射線や超音波などを用いた検査により、正しく癌や良性腫瘍を診断できる。 それでも、「だいたい」の診断によって患者の臓器を切除するかどうか決めるわけにはいかない。 そこで「本当に間違いないのか」という最後の確認をする、という意味において、病理診断には重要な意義があると考えられている。

ところで、私はもともと、放射線の専門家であった。 放射線による診断技術は、単純 X 線写真、X 線 CT, PET, 厳密には放射線ではないが MRI など、多岐にわたる。 これらの検査は、疾患があるかどうかわからない場合や、あるいは疾患があるとは推定できるが、いかなる疾患なのかよくわからない場合に、 診断を下すための手段として用いられる。 すなわち、放射線診断学は、未だ診断が下されていない患者に対して「たぶん、この疾患である」と判断することに長けているのである。 この観点からは、診断学において、病理診断学と放射線診断学は、対極的な立場にあって双璧をなしていると考えることもできよう。

風の噂で聞いただけなので、真実かどうかは知らないのだが、日本のとある大学病院では、病理部や放射線科が信頼されていない、という。 一部の臨床医は、放射線科による読影レポートを信用せずに自分達の読影所見を信じるし、 しばしば、病理診断所見よりも臨床所見を重視する、というのである。 これは本来おかしなことであり、 神戸大学病院感染症内科の某医師 が言うように、一般臨床医は、病理所見については病理診断医に及ばず、 放射線読影については放射線科医に及ばないはずである。 もし臨床的な所見や自己の読影所見が、病理医や放射線科医の所見と一致しないならば、 その点を病理医や放射線科医と、よくよく議論するべきである。 もし、本当にそれがなされていないとすれば、その病院の病理医や放射線科医がよほどのヘッポコであるか、 あるいは臨床医が慢心しているかの、いずれかであろう。

2014/07/17 語句修正

2014/06/25 カエサル

6 月 26 日の記事も参照されたい

私は、幸いにしてペアレンツという辛抱強いスポンサーから、潤沢な資金提供を受けている。 これほど恵まれた環境にいる学生は極めて稀であり、私は、このことに心から感謝している。 そのような立場にいる私が借金について書くと「お前は恵まれた環境にいるからわからないのだ」などと反感を買うであろう。 しかし、どうにも理解に苦しむので、書かずにはいられない。

医学科の学生は、たぶん、富裕な家庭に生まれた者が多いものと思われるが、中には学資に苦労している人もいる。 そこでアルバイトに精を出したり、法に抵触する手段で教科書を入手する者がいるらしい。 もちろん、ある種の社会経験のため、あるいは単に楽しいからという理由でアルバイトをするのは良いと思うのだが、 アルバイトのために勉強時間が削られ、「効率的な」勉強法に走るようなことがあっては、本末転倒であろう。 このように述べると、当然、「そうは言っても、金が必要なのだ」という反論が予想される。

ところで、奨学金という語は、英語では scholarship と訳されることが多いが、ふつう、scholarship には返済義務はない。 返済義務が課されるものは loan である。 従って、日本学生支援機構が学生ローンのことを「奨学金」と称し、 しかも scholarship と訳していることは、欺瞞であると言わざるを得ない。

私が何を言いたいかというと、「借りろ」ということである。 以前、ある同級生にこれを述べたところ、学生のうちにあまり大きな借金を作りたくない、とか、 あんたの考えは非常識だ、というようなことを言われた。 もちろん、常識的ではないということは、私もよく理解している。

かつて、ローマにユリウス・カエサルという男がいた。 彼は金と女にだらしがない人物で、不埒な女性関係を重ねた上に、若いうちから莫大な借金を作った。 その借金で何か一大事業をなしたというわけではなく、主に遊興費として使ったらしい。 彼は後に政界に進出したが、政治資金が枯渇するたびに、スポンサーに対して 「今までの借金を返してほしければ、もっと俺に投資しろ」と言わんばかりの意味不明な交渉を展開し、借金を重ねていったという。 彼こそが、ガリア、すなわち今でいうフランスを征服し、ルビコン河を越え、エジプト女王と親密になり、ローマ帝国の礎を築いた男である。

私が恐れるのは、借金を気にするあまり、心のゆとりが失われ、発想が貧弱になり、人生のスケールが小さくなってしまうのではないか、ということである。 借金を意識しすぎると、就職先の選び方が近視眼的になり、また国家試験不合格や留年を極度に恐れ、結果として勉強法が卑屈になり、 医師としての才能が縮こまってしまうのではないかと、懸念される。

だいたい、京都大学とか名古屋大学とかいう名門出であれば、よほど怠慢な学生でない限りは、将来、収入に困ることは考えられない。 ましてや、医学部であれば、高々 1000 万や 2000 万の借金で、何を心配することがあろうか。 若者であれば、カエサルぐらいの度胸と野望を抱くべきである。

2014/06/27 誤字修正

2014/06/26 アウグストゥス

誤解されては困るので、昨日の記事に補足を加える。 私は、国立大学でさえ、奨学金制度が貧弱な上に年間五十万円以上もの学費を学生に請求している現状は、実によろしくないと思う。 国立大学であれば、授業料を無料とするのは当然であり、返済義務を負わない奨学金制度を充実させるべきである。

義務教育における授業料が無料であるのに対し、高等教育が有償であるのは、受益者負担、という考え方によるものであろう。 すなわち、学生は自分の利益のために勉強しているのだから、そのための費用については、相応分を自己負担すべき、というわけである。 ここで問題にしたいのは、「学生は自分の利益のために勉強している」という考えについてである。

そもそも、京都大学や名古屋大学などの前身である帝国大学は、国家の未来を担う人材を育むために設立された機関である。 その基本的な精神は、現在の国立大学においても同様であるし、慶應大学をはじめとする少なからぬ私立大学も、建学の趣旨は同様であろう。 それを思えば、我々が学問することによる「受益者」は、日本国民全体であると考えるべきであるから、 受益者負担の原則からすれば、そのための費用は公費で担うべきである。 しかるに、受益者負担と称して学生自身に学費を負担させることは、 「諸君が学問により身につけた能力は、諸君自身のために使えばよく、広く社会のために能力を活かす必要はない」と言っているようなものである。 医学科の例でいえば、我々は、社会正義だの公共の福祉だのということを考える必要はなく、自分の金儲けに専念してもよろしい、ということになる。

中には、「税金から少なからぬ補助も出ているのだから……」などと言う人もある。 しかし、そのような恩着せがましいことを言うのであれば、授業料を無償にした上で最低限の生活費ぐらいは支給し、 学問に専念するための環境を整えてほしいものである。 それをせずして、何が技術立国であろうか。


2014/06/27 東京大学の学生による公開質問状

6 月 24 日付の朝日新聞報道などによると、 最近の東京大学医学部における研究上の不正疑惑について、大学当局の対応に不信感を抱いた医学部医学科 6 年生の五名が、 総長、病院長、および学部長宛に連名の公開質問状を提出したらしい。 これに対し、25 日までに病院長と学部長からの返答があったという。

さすが東京大学であり、羨しい、というのが、私の感想である。 もし仮に、不幸にして同様の不正疑惑が名古屋大学医学部で生じた場合、 科学と医学への忠誠を貫き、当局への反乱ともいえる行動を起こせる学生が、はたして、五名も集まるだろうか。


2014/06/28 EBM について 舌癌を例に考える

名大医学科五年生は、基本的に毎週金曜日の午後に、学生 CPC を行っている。 昨日は舌癌の症例を扱ったのだが、その臨床経過は、次のようなものであった。 舌癌で cT2N0M0 の Stage II と診断された患者に対し、舌部分切除術を施したが、 後にリンパ節に再発し、これを切除したものの、多発転移を来して死亡した。 念のため補足すると、この症例では、実際にはリンパ節に微小な転移が存在したにもかかわらず、 それを臨床的に発見することができずに Stage II と誤診したものと考えられる。 正しくは、少なくとも T2N1M0 の III 期であったのだろう。 なお「誤診」と書くと、あたかも医師に過失があったかのように感じる人もいるかもしれないが、それは適切ではない。 医者は神様ではないのだから、たとえ過失がなくとも、疾患の全てを正しく診断することは不可能である。

さて、この CPC において某君が提出した質問は、次のようなものであった。 「結果論であるが、もし仮に、最初の舌癌切除時に放射線療法なり化学療法なりを追加していれば、かかる悲惨な転帰は避けられたものと推定される。 それを行わなかったのは、『行わない方が良い』というエビデンスがあるからなのか、それとも『行った方が良い』というエビデンスがないからなのか。」 本記事では、この質問を例に、Evidance-Based Meidicine (EBM) のあり方について考察する。

まず最初に、某君の質問に対する解答を述べると、これは「『行った方が良い』というエビデンスがないから行わなかった」といえる。 日本頭頸部癌学会編『頭頸部癌 診療ガイドライン 2013 年版』によれば、標準的治療としては、 cT2N0M0 の場合には舌部分切除術が基本であり、場合によっては頸部リンパ節郭清や、術後補助療法として放射線治療や化学療法を行う、とのことである。 ここで「場合によっては」とあるが、どのような場合に行うべきか、という点については、共通見解が存在しない。 また、cT2N1M0 の Stage III の場合には頸部リンパ節郭清が標準的であるから、もし臨床的に正診が得られていたならば、当初にリンパ節郭清が行われていたであろうし、 それならば再発することもなかったと推定される。

さて、「標準的治療」という言葉の意味については、特に学生の中には、重大な誤解をしている人が少なくないと思われるので、ここで説明する。 ふつう「標準的治療」といえば、ガイドライン等に定められている指針に沿った、ありふれた治療のことをいう。 近年では、有効性が統計学的に証明された治療法が標準的とされることが多い。 従って、仮に有効な治療法であっても、統計学的に有効性が証明されるまでは、標準的とはみなされないことが多い。 以上のことから、「標準的治療」は必ずしも「最適な治療」ではない。 このことは、識者の間では常識であるから、大半のガイドラインは、 「ガイドラインは医師の裁量を否定するものではない」という趣旨のことを明記している。

すなわち、「標準的治療である」という事実は、それ単独では、その治療法が、その患者に対して適切であると主張する根拠にはならないのである。 たとえば、仮に私が、学生同士の雑談の中で、ある常識外れな治療法を提案したとする。 その時、「そんな治療法は、エビデンスがない、すなわち標準的ではないから駄目だ」と主張する人がいるとすれば、その人は「エビデンス」というものをわかっていない。 エビデンス云々を言うのであれば、「そんな治療法は無効だというエビデンスがあるから、駄目だ」という主張でなければならない。 このことは、EBM の歴史を振り返ることで明らかになる。 以前には、病理学や薬理学、生理学などの基礎医学に基づいて理論的考察による治療法の選択が重視されていた時代があった。 しかし、こうした理論的考察では予想しきれない結果が生じることが臨床的には少なくなかったために、 「理論的考察は、統計学的な証明によって裏付けられるべきである」という考えが広まった。 これが基本的な EBM の考え方である。 つまり、統計学的な証明は、あくまで理論的予想を評価する目的で行われるのであって、 統計学的証明がない治療は不適切だ、ということではない。

ここで、前述の某君の質問に対する解答を振り返ろう。 「『行った方が良い』というエビデンスがないから行わなかった」というのは、論理が成立していない、ということがわかるであろう。 そこで論理を正しく成立させるために、省略なく説明するならば、次のようになる。 「『行った方が良い』というエビデンスはないが、『行わない方が良い』というエビデンスもないから、行うという選択も、行わないという選択も、どちらもあり得る。 しかし当該患者は、必要最小限の治療に留めて欲しい、との希望を述べていたから、行わなかった。」

以上の議論からわかるように、かかる再発により不幸にして死亡する患者が存在するのは、 現代医学では転移の有無についての診断能力が未熟であり、時に誤診してしまうことが原因である。 どうすれば誤診を減らすことができるのか。 「仕方ないのだ」と言って諦める医師がいるとすれば、私は、その人を軽蔑する。 医学の改善を常に追究する姿勢は、全ての医師に等しく要求される資質である。


2014/07/03 大腸腺腫治療のインフォームド・コンセント

我々が昨年 PBL で扱ったものと同一症例が、今年の四年生の PBL でも扱われたらしい。 これは、次のような症例である。

定期健康診断で便潜血陽性を指摘され、精査目的の結腸内視鏡検査で直腸にポリープを認めた。 生検により腺腫と診断されたため、内視鏡下粘膜剥離術 (Endoscopic Submucosal Dissection; ESD) を施行した。 ところが、切除標本の病理組織検査では、腺癌と診断された。 この腺癌は粘膜下層への高度の浸潤を来していたため、追加の大腸切除およびリンパ節郭清を勧めた。

専門外の人のために補足すると、ESD という手術法は、良性腫瘍や、あまり浸潤していない癌に対して行うものである。 高度な浸潤を伴う癌に対して ESD を行うと、癌組織の一部を取り残してしまうし、その場合、 残された癌細胞が活性化し、播種、すなわち遠隔転移を来しやすくなってしまうと考えられている。 この症例では、良性腫瘍であると思って ESD を行ったら、実は高度浸潤を伴う癌であったために、 「しまった」と思って追加手術を行ったのである。 なお、ここでいう「活性化」という言葉の意味は曖昧であるが、医学では、こうした不明確な術語で説明をごまかすことが少なくない。 これは現代医学の限界である以上、やむを得ないことではあるのだが、これらが曖昧で不適切な表現であるという認識は忘れてはいけない。

さて、ここで問題にしたいのは、最初に ESD を行う時点で、患者に対し、どのように説明するか、ということである。 「腺腫です。」と断言した場合、後で「誤診でした。実際には腺癌でした。」と言わざるを得なくなる。 一方、「腺腫と思われますが、腺癌である可能性を否定できません。」と言えば、「もっとキチンと検査してくれ。」と言われるであろう。

私は、この場合は「腺腫である」と断言し、後から腺癌であることが判明した場合には誤診した旨を告げて謝罪するべきであると考える。 これを何人かの友人に言ってみたところ、現実に誤診率が高いにもかかわらず、腺癌である可能性を予め言及しないのは、不誠実ではないか、との批判を受けた。 「もっとキチンと検査しろ」という患者側の要求に対しては、「検査してもわからないこともあるのだ」と返答すべし、というのである。

しかし、高度浸潤を伴う腺癌の可能性を考慮しながら ESD を行うというのは、どういうことなのか。 ひょっとすると悪性腫瘍のまんなかを切断することになってしまうかもしれないが、まぁいいか、と、考えているのか。 もしそうであるならば、あまりに無責任であり、野蛮な手術である。

そうではあるまい。ESD を行う以上は、それが良性腫瘍である、あるいは悪性であったとしても浸潤の程度は軽い、という自信を持っていなければならない。 生検で適切な部位を採取できていないかもしれない、と思うのであれば、充分に多数の試料を採取するなどの対応が必要である。 従って、患者に対して「癌である可能性を否定できない」と説明して ESD を行うことは、あり得ない。


2014/07/04 言葉遣い

これは名古屋大学に限ったことではないのだが、医者や医学部生が書いた文章では、 しばしば、述語を省略したり、略語を過度に頻用するなど、不適切な言葉遣いがみられる。 たとえば、学術的な症例報告における病歴の記述において、次のような表現があったとする。

31 歳男性。腹痛を主訴に来院。右下腹部に圧痛。ロキソニン内服により軽快。IBD 疑い。

第一に、IBD という略語は、Inflammatory Bowel Disease のことなのだろうが、何の前触れもなしに使っているのは不適切である。 原則として、文書内で略語を用いる場合には、それが何の略であるか、初出の際に宣言する必要がある。 さすがに CT スキャンの「CT」ぐらいは説明なしに使っても良いかもしれないが、 基本的には、あたりまえの略語であっても、意外と通じないので、無断で使ってはならない。

第二に、述語の不適切な省略がみられる。「右下腹部に圧痛」では、 「右下腹部に圧痛を自覚して来院した」なのか「身体診察において右下腹部に圧痛を認めた」なのか、よくわからない。 「ロキソニン内服により軽快」も、たぶん「軽快した」という意味なのだろうが、「軽快しなかった」なのかもしれない。 「IBD 疑い」というのも、自分で疑ったのか主治医が疑ったのか不明なので、「IBD を疑われた」などとするべきであろう。 日本語においては、述語は非常に重要なのである。

第三に、薬剤の名称を「ロキソプロフェン」という一般名ではなく「ロキソニン」という商品名で記している。 このような表現をした場合、「ロキソプロフェンの製剤にはいろいろあるが、その中で特にロキソニンを使用したことに意味がある」と主張していることになる。 たとえば料理のレシピでは、ふつう、「塩 大さじ 1」などと書くが、ここでもし 「伯方の塩 大さじ 1」と書かれていた場合、それは「食塩の中でも伯方の塩という商品を使わなければならず、シチリア産岩塩ではダメである」という意味になる。 同様に、症例報告において、投与された薬剤がロキソニンという商品であることに重大な意義があると考えているならば 「ロキソニン」という記述は適切だが、そこに意義を認めていないならば「ロキソプロフェン」とするのが正しい。

このような不正確な言葉遣いは、素人目には、あたかも専門的でカッコイイかのように感じるかもしれない。 しかしながら、これは単に曖昧で意味不明なだけなので、誤解してはならぬ。

2014/07/04 語句修正
2014/07/07 語句修正
2014/07/09 脱字修正

2014/07/07 スクワイヤ 放射線診断学

私はもともと放射線の専門家であるが、以前の専門に固執するのはよろしくない、という観点から、 放射線科医は進路の候補として考えないようにしてきた。 しかしながら最近になって、放射線医学が魅力的に感じられてきた。 これは、たぶん、私が放射線を愛好していることとは無関係に湧いてきた関心であるので、進路の選択肢として放射線医学を考えてもよいかと思い始めている。

さて、放射線医学の入門的教科書である ``Squire's Fundamentals of Radiology sixth edition'' は名著として知られており、日本語訳も羊土社から出版されている。 基本的には良い訳本なのだが、言葉遣いについて極めて残念な点がある。 すなわち、`pleural' という形容詞に、しばしば「胸腔の」というような訳語を当てているのである。 解剖学的に、`pleural' は「胸膜腔の」とするべきであり、「胸腔の」に当たる英語は `thoracic' である。

胸腔と胸膜腔の区別は重要である。胸腔とは、胸郭に包まれた空間を指す語であり、そこには肺や血管や気管など、多様な構造物が存在する。 これに対し胸膜腔とは、胸膜に包まれた空間を指し、そこには通常、少量の胸水と少量の気体のみが存在する。 念のために確認するが、胸膜の一部は胸郭に密着しており、この部分を特に壁側胸膜と呼ぶ。 残りの大部分は肺の表面などに密着しており、こちらは臓側胸膜などと呼ばれる。 壁側胸膜と臓側胸膜はつながっており、境界は不明瞭である。 胸膜腔は全体として嚢状であり、開口部は存在しないため、胸膜腔は通常は外部と連絡していない。

さて、Squire's の原書では `pleural fluid' と記されている箇所が、日本語版 p.155 などでは「胸腔の液体」などと訳されている。 Pleural fluid という場合には、胸水の意味であると考えるのがふつうであろう。 素人は胸水という言葉を「胸腔に貯留した液体」という意味に考えるかもしれないが、正しい定義は「胸膜腔に貯留した液体」である。 「胸腔に貯留した液体」としては、胸水の他にも、肺水腫、すなわち「肺胞に貯留した液体」や、肺間質の浮腫なども考えられる。 従って、両者を区別することは重要である。

誤解を招くといけないので補足するが、日本語版の「スクワイヤ 放射線診断学」は、良書である。 細かな言葉遣いに不満は残るが、これは読者が各自で訂正しながら読めば済むことであり、同書のすばらしさを何ら損なうものではない。 ぜひ、ご一読されたい。ただし、この本は、少し古い。

2014/07/16 語句修正

2014/07/08 考えを押しつけることについて

しばしば、他人に意見を押しつけてはいけない、などと言われる。 特に、私は好戦的な少数意見の持ち主のようであるから、多数派から煙たがられ、そのように言われる。 この場合、私はやむなく、ハハハ、と笑って、その場を去ることにしている。

しかしながら、はたして、彼らは自分の考えを我々に押しつけてはいないのか。 ここでいう「彼ら」とは、「学問への姿勢や学び方は個人の問題であって、他人にとやかく言われる筋合いはない」などと考える人々のことである。 彼らによれば、他人の学習姿勢に口を挟む私のような人間は、他人に意見を押しつける野蛮人だ、とのことである。 彼らの主張をきくと、大抵、「他人に迷惑をかけているわけではないのだから、勉強の仕方は各自の勝手である」というような発言が聞かれる。 ここで私が問題にしたいのは、はたして、彼らは他人に迷惑をかけていないのか、という点である。

まず第一に、私は、彼らによって多大な迷惑を被っている。 たとえば、大学の講義とは、本来、講師が一方的に話すような場ではなく、講師と学生の間で活発に議論を行う場である。 しかし彼らは、講義中に私語をすることはあっても、公的な発言をすることは滅多になく、結果として講義の成立を妨害している。 こうした講義への積極性を欠く姿勢によって、どれだけ私が迷惑し、苦痛を感じているか、彼らは考えたことがあるのか。 自分達が授業妨害しているという認識を、持っているのか。 また、講義以外の場で、学生同士が学問的な議論をすることは、試験対策を別にすれば、稀である。 このようにして、学問の話をしない風潮を作り出すことで、我々に迷惑をかけるばかりではなく、 大学全体の学術水準を低下させ、ひいては日本および世界全体における科学の発展を阻害しているわけである。 これをもってして、なお、「他人に迷惑をかけているわけではない」と言うのか。

第二に、これは医学科に限ったことであるが、彼らが試験特化型の勉強をすることによって、医師国家試験のあり方を歪めている。 医師国家試験は、単純知識を問う問題が大半であり、高度な思考を要求するものではないらしい。 従って、頭をカラッポにして、ひたすら暗記した方が、効率的に合格できるという。 しかも、医師国家試験は相対評価される部分があるので、他の受験生の動向を無視することができないのだ。 馬鹿じゃないのか、と思うのだが、残念ながら医師国家試験とは、そういう馬鹿な試験であるらしい。 それというのも、学生連中が、かかる腐敗した国家試験のあり様に迎合し、丸暗記勉強法を実施するせいである。

第三に、これが最も重要であるのだが、彼らのそうした勉強法により低水準の医師が量産され、現に、患者その他の国民が不利益を受けている。 幸か不幸か、患者の多くは医学の素人であるから、自分が何をされているのか、よくわかっていないので、それを迷惑とは感じないことが多いようである。 また、医療保険の無駄遣いについても、国民の多くは無関心であるから、それを迷惑とは思っていないようである。 しかも、だいたい藪医者は感覚が麻痺しているから、自分が他人に迷惑をかけているという自覚がない。 なお、具体例を挙げると角が立つので、それは控える。

彼らの反論は、概ね、次の二点である。 一つは「我々は、君の口出しによって直接的に迷惑を受けているが、君のいう『迷惑』は全て間接的なものばかりだ。」というものであり、 もう一つは「我々の言動によって君が迷惑しているというならば、それを迷惑に感じる君の方がおかしい。我々の方が多数派なのだ。」というものである。 しかし、前者は勘違いであり、彼らが暗黙の了解により結託することで、私に対し、あくまで直接的に迷惑をかけているのである。極めて陰湿である。 後者は民主主義を否定するかのような暴論であり、多数派であることは、彼らの言動を正当化する根拠にはならない。

何が言いたいかというと、主義主張の異なる人々が共に生きていく以上、互いに迷惑をかけるのは当然であり、 意見が対立するのも自然なことであるから、結果として意見を押しつけることになるのは、あたりまえだ、ということである。 彼らは、たぶん無意識なのだろうが、彼らの考えを「当然のもの」として振る舞い、彼らの言動を容認するよう我々に強要し、すなわち意見を押しつけている。 一方で、我々は彼らの言動を批判することによって彼らを不快にさせ、すなわち我々の意見を彼らに押しつけている。 そこで「意見を押しつけるな」と言って批判を封じ、無言の圧力によって付和雷同を促すのは、協調的であるとは言わない。 衝突を繰り返しながら、妥当な点、いわゆる落とし所を探すのが「和」というものではないか。

2015.03.30 語句修正

2014/07/09 恥ずかしい話

この日記は、私の医学生活を赤裸々に記録することが目的であるから、私の恥ずかしい話も、やはり、隠すわけにはいかない。 私は、少なくとも今のところ、病理医になるつもりである。 病理医とは、基本的には、病理診断を業務として行う医師のことをいう。 病理診断とは、患者の病巣から採取した標本を顕微鏡で観察し、そこで何が起こっているのか調べ、いかなる疾患であるか断定する行為をいう。 ここで重要なのは「断定」という点である。 一般には、診断とは「たぶん、この病気であろう」と推論することを言うのであって、 そこには「ひょっとしたら、違うかもしれないけれど」という意味合いが含まれている。 しかし病理診断は唯一の例外であり、「この疾患である。間違いない。」と、断言するのである。

さて、問題は、ある肝癌の症例についてである。 カルテによれば、エコーや CT, 血液検査、特に腫瘍マーカーの所見から、その患者は肝細胞癌と診断されていた。 初心者のために補足すれば、肝癌の多くは転移性癌、すなわち他臓器で生じた癌が転移したものであり、 それ以外の肝癌の大半は肝細胞癌、すなわち肝臓の細胞が癌化したものである。 転移性癌と肝細胞癌では治療の方針が大きく異なるから、両者を鑑別することは重要である。

その医師は、私に対し「肝細胞癌だっけ?」と言った。 私は、自信を持って「はい」と答えた。 すると医師は、病理診断の結果をみようとした。 そこで私は「病理診断は行っていません」と補足した。 医師は「(肝細胞癌で)間違いないのか」と述べた。 私は、しまった、と思いつつ「画像所見などからの診断です」と答えた。

おわかりか。 病理診断を行っていない以上、それは「たぶん肝細胞癌である」という状態なのであって、 「肝細胞癌で間違いない」と断言できる状態ではない。 臨床的には、諸般の事情から、必ずしも病理診断が行われるわけではないから、そういう状況も、おかしなことではない。 臨床医の中には病理診断を軽視する人もいるようだが、病理医を志望する学生が、病理診断もなしに肝細胞癌と断定するかのような発言をするのは、言語道断である。 先の医師からの「肝細胞癌だっけ?」という問いに対しては、「画像や腫瘍マーカーからは肝細胞癌が疑われます」などと答えるべきであった。 その医師は特に言葉を続けなかったが、「君は不勉強である」という暗黙のメッセージを、私は読み取った。

以後、発言には気をつける所存である。


2014/07/10 臨床検査

我々のような医学科生は、カルテや症例報告において、様々な臨床検査の結果を目にする。 しかしながら、それぞれの検査値に一体、いかなる意味があるのか、正しく理解している学生は稀であろう。 初等的な教科書であれば、これこれの検査値はこれこれの疾患で高値を示す、などと書かれており、これを丸暗記する者が多いように思われる。 学生として健全な心を持っていれば、こうした勉強法に疑問を持つであろう。 なぜ、その疾患でその検査値が高値になるのか。感度や特異度はどうか。 その検査値はどのようにして測定されるのか。 そうした疑問を抱くことは、医学教育においては軽視されがちであり、実によろしくない習慣である。

臨床検査の各項目の意義を調べるには、医学書院『臨床検査データブック 2013-2014』がお勧めである。 これは、各検査項目について、異常値を来す機序や臨床的意義について記した上で、「推奨する総説」として文献を紹介している。

各項目の測定方法については、金原出版『臨床検査法提要』改訂第 33 版がお勧めである。 これは医師よりは臨床検査技師向けの書物かもしれないが、各検査項目についての測定方法を詳細に述べている。 測定方法を知らなければ、その検査項目にどのような長所や短所があるのか、正しく理解することはできまい。 また、臨床検査技師と適切に議論するためには、これらの検査方法について、医師の側も一定の見識を保つ必要があるだろう。


2014/07/11 質問をするということ

私は、教員に対し質問を発するときは、なるべく、クローズド・クエスチョンの形で問うようにしている。 すなわち、「○○なのは何故ですか」などと問うのではなく、 「○○なのは△△だからでしょうか」というような形で質問するのである。 前者のような、いわゆるオープン・クエスチョンで質問するのは簡単であり、比較的、頭を使わない。 しかし後者の形式で問うには、まず自らの頭で仮説を立てなければならず、そのためには、質問の前に、その問題についてよく考える必要がある。 このように、質問をする前に自分の頭で考える、ということ自体が、「質問をする」という行為の目的の半分を占めているのであって、 相手からの回答を取得することは、残りの半分でしかない。

このようなことを書くと、一部の学生からは「なんと自分勝手な奴だ」などという批判を頂戴するかもしれない。 しかしながら、たぶん、教員や研究者の大半は、私の考えを「あたりまえだ」と言って支持するだろう。 少なからぬ教員が、学生 CPC 等の場で「質問をせよ」と我々に教えているのは、上述のように、 質問を発するために思考すること自体が、勉強になるからである。

時には、相手からの回答を全く期待せず、単に疑問を提示することのみを目的として質問することもある。 以前、病理学の某教授に対し、次のような質問を投げかけたことがある。 「現在の病理診断は、基本的には形態学の上に立脚している。 しかし原理的には、形態学的異常を伴わない悪性腫瘍というものも、存在するはずである。 そう考えると、形態学に基づく病理診断には限界があるのではないか。」

私は、教授から何か有益な回答が得られると期待していたわけではなく、日頃の疑問を口にしてみただけのことであった。 しかし、教授は次のように即答した。 「我々の目に形態学的異常が映らなかったとしても、それは、観察の方法が正しくないからであろう。 適切な方法で調べれば、必ず、形態の異常が存在するものと考える。 まぁ、その問題については、いろいろな人に質問してみると良い。」

私は、「負けた」と思った。


2014/07/13 先生に訊いてみる

学生同士で医学的な話をしていると、大抵、どこかで「先生に訊いてみると良い」あるいは「訊いてみなければわからない」という結論に至る。 ここにはいくつかの問題がある。

もっとも重要なのは、はたして、先生に訊くべきかどうか、という問題である。 臨床的な問題について、先人に教えてもらうことは容易であるが、はたして、それで身につくのか。 日頃、講義よりも実習を充実させて欲しい、などと言っている学生が、こうした医学的議論については 自らの頭を使った考察よりも先生の講義を切望するのは、いったい、どういうことなのか。 率直にいえば、多くの学生は、医療とは先生に教わったことを記憶してそのままマシーンのように施行することだ、などと誤解しているのではないかとの疑念を、私は抱いている。

これを、とある友人に言ってみたところ、学生だけの議論で、あらぬ方向に結論が向かってしまっては良くないから、先生にみてもらうことは重要である、 というようなことを言われた。 この意見はわからなくもないし、同様の意見は多いのだろうが、たぶん、そのようなことを言う学生の大半は、半ば無意識に嘘をついている。 本当は、先生に頼らずに、自分達だけで自分達だけの結論を出すことが、怖いのであろう。

自分の頭で考えて、そこで得た結論を他人に対して主張するのは、勇気のいることである。 ましてや、その結論が世間の常識や通例に反していたり、主張する相手が目上の人間であれば、なおさらである。 周囲の学生をみまわした時、そうした非常識な意見を「先生」に対して公然と主張できる勇者は、数えるほどしかいないように思われる。 そこで、「先生の言うことを信じておけば、とりあえず臨床的に大きな誤りはないだろう」と保守的に考える者が多いのではないか。 その結果、根拠のない伝統がはびこり、医学の発展が阻害されるのである。

これは無理もないことであって、学生の大半は、中学高校時代も、大学入学後も、先生のおっしゃることを疑うべし、という教育を受けていない。 それに対し、世の中には自分の頭脳以上に信頼できるものはないのだ、ということを知っていることは、我々のような理工系出身者の最大の強みである。


2014/07/14 細部の指摘

7 月 15 日の記事も参照されたい

以前、とある友人から、学生 CPC における私の質問が細かすぎる、という指摘を頂戴したことがある。 枝葉末節をつつきすぎる、というのである。 そこで最近では、なるべく細かな点を指摘しないよう心掛けているのだが、この方針転換が妥当であるかどうかは、今なお悩んでいる。

私が気にするような「細かな点」、たとえば単位だとか、薬剤の名称と薬理機序だとか、検査所見の解釈だとか、 そういった点は、発表をする上では当然のこととして、よく調べておくべきである。 それをせずに「まぁ、大体のことは伝わるでしょ」と思ってプレゼンテーションをするのは、怠慢である。 そこで、杜撰ではないか、という批判の気持ちを含めて質問をすることは、聴衆としての誠実さである。

その一方で、率直にいえば、「そういう水準」の学識に達していない学生が存在するのは、事実である。 そういう者に対して、あくまで対等の立場とみなして批判を加える誠実さをとるべきか、 それとも、彼らを自分より格下とみなしてヤンワリと指導的に接するべきであるか。 私としては、同級生を格下とみなすことは非礼であると考えるが、いかがであろうか。


2014/07/15 補足

よく考えると昨日の記事は言葉足らずであったように思うので、補足する。 検査値を表示する際には単位をつけるとか、薬剤の名称を書き写すだけでなく作用機序等を調べるとか、 薬剤の名称について一般名と商品名を適切に使いわけるとか、そういったことは、ごく初歩的な発表技術である。 従って、優秀な学生であれば、単位を省略したり、薬剤名や検査所見を漫然と書き写すことは、決してしない。

残念なことに、現在の名大医学科における教育では、単位を気にしない教員も少なからず存在し、 「先生、単位は何ですか」と問うた際に「えーと、何だったかな」などという回答を頂戴したこともある。 また、検査値についても、どうにも理解しかねて質問した際に「その値は気にしなくて良い」という、ありがたい指導をいただいたこともある。 野心溢れる学生であれば、こうした教員に対して心の中である種のレッテルを貼り、 自らの頭脳が下した判断に従うことであろう。 しかしながら、これまで先生の指導に忠実に生きてきた学生にとっては、 そうした独自の判断に基づいて行動することは難しいかもしれない。 このことを、私は「『そういう水準』の学識に達していない」と表現したのである。


2014/07/16 初期臨床研修病院選び

医学科生の多くは、卒業して医師免許を取得すると、まず二年間の初期臨床研修を受ける。 これを修了しなければ、医師免許を要する業務に従事することができないからである。 多くの場合、初期臨床研修を受ける病院は、厚生労働省による医師臨床研修マッチング制度で決定される。 この場合、学生が予め希望する病院で試験等を受けた上で、学生と病院の双方の希望に沿うように研修病院が決定される。 制度上は、事前の病院見学などは必須ではないのだが、実際には事前に病院見学を行う学生が大半であり、これは世間一般の就職活動と同様である。 病院側にしてみても、会ったこともない学生を一回の面接だけで医師として採用するのは勇気のいることであるから、これは合理的である。

さて、私は現在五年生であるが、つい二日ほど前に、はじめて、病院見学の申し込みを行った。 そこで、本日の話題は研修病院選びである。 研修を行っている病院は、大学病院と、それ以外の市中病院に大別するのが一般的である。 噂では、大学病院は指導医の数が多く、高度に専門的な症例が多いのに対し、 市中病院は給与などの待遇が良く、common disease の症例が多く、そして primary care の修得に向くといわれている。

名大医学科の場合、卒業生の大半は市中病院、特に、いわゆる名大関連病院の市中病院で研修する。なぜだろうか。 多くの人が市中病院の利点として挙げる common disease とは、「よくある病気」というような意味であるが、具体的には何なのか、よくわからない。 たぶん、外傷だとか急性虫垂炎だとかを言っているのだろうが、そういった疾患は大学病院では比較的少ないから、 こうした症例を数多くみたいのであれば、確かに、市中病院で研修した方がよさそうである。 では、なぜ、高度に専門的な症例ではなく、外傷や感冒や急性虫垂炎などをたくさんみたいと考えるのだろうか。 なるべく早く開業したいと考えている、だとか、外傷専門の整形外科をやりたい、だとか、そういう理由があるのならば、 卒後早期に専門特化することに是非はあるにせよ、市中病院を選ぶことは理解できなくもない。 しかし多くの学生は、将来像をそこまで明確には描いていないにもかかわらず、市中病院を選ぶらしい。

実際のところは、給与等の待遇が良い、知り合いが多い、なんとなく良さそうだと感じる、 という程度の理由で病院を選んでいるのではないか。 それであれば、common disease だの primary care だのと、よくわからない言い訳をせずに、 「待遇が良いし、知り合いもいるし、評判も良いから」と正直に言えば良いと思う。 あまり重大な理由なしに病院を選ぶことに恥ずかしさがあるのかもしれないが、だいたい、皆、同じようなものであろう。

私だって、特別な根拠に基づいて研修先を選んでいるわけではない。 大学病院を選んだ理由も、「大学が好きだから」という程度のことでしかない。 候補に挙げている大学についても、「思い入れがあるから」「以前から漠然とした憧憬があるから」という程度の理由である。 我が愛する京都大学の附属病院を候補から外したのも、「京都大学では既に九年の歳月を過ごしたから」というだけのことである。 なお、とある友人にこれを言ったところ 「大学を好きだというのは嘘だろう。本当に大学が好きな人は、大学 (院) を辞めて予備校に通うような真似はしない。」 と言われてしまった。

2014/07/17 誤字修正

2014/07/17 医師国家試験との信頼関係

いまのところ、私は、医師国家試験に対して特別な対策勉強を講じずに臨むつもりである。 具体的には、予備校や、「クエスチョン・バンク」や、その他の国家試験対策参考書の類を用いた勉強をしないつもりである。 しかし、正直なところ、不安はある。

私は名古屋大学に来てから、単位認定試験に対して過去問などを用いた対策勉強を一切、してこなかった。 私がこのように振る舞った理由の一つは、不合格になったら再試験を受ければ良い、と腹をくくっていたからであるが、 もう一つには、私が大学の先生方を信頼しているからである。 大学によっては、特別な試験対策勉強をしていなければ到底解答不能であるようなマニアックな出題をする先生もいらっしゃるようだが、 名古屋大学の先生は、そのようなつまらない試験はしないだろう、と、私は信じている。 実際、これまで寄生虫学の試験以外は、本試験で合格した。 まぁ、寄生虫学については、イロイロ事情があったのであるが、ここでは述べない。

昨年度に行なわれた CBT についても同様で、出題範囲はもちろん、出題形式についてもよく理解しないまま本試験に臨んだ。 ただ、これについては私は特に出題者を信頼していたわけではなく、むしろ、くだらない出題をする試験であると認識していた。 本試験で合格すればもうけもの、不合格になったら、それから対策勉強をして再試験を受けよう、と思っていた。 結果として、本試験で割と余裕を持って合格できたのは、予想外であった。

では、国家試験はどうするか。 私は国家試験の問題の質を全く信頼していない。 しかしながら、国家試験には再試験がなく、不合格になれば、一年間、待たなければならない。

どうであろう。医師国家試験は、まともに勉強さえしていれば特に対策せずとも合格できるような出題を、してくれるのだろうか。 それとも、試験対策勉強をすることこそが、学生の本分だと考えているのだろうか。

要は、私が出題者を信じきれるかどうか、の問題である。


2014/07/20 確率論

診断学の教科書や『ハリソン内科学』などを読むと、鑑別疾患を絞り込む過程において、 検査の事前確率が云々とか、ベイズ推定が云々とかいうことが書かれていることが多い。 私は診断学の教科書はよく読んでいないが、『ハリソン内科学』の内容と、昨年、私が講義で聴いた内容はほぼ同様だったので、たぶん、どの教科書も似たような内容なのだと思う。 これらの説明は、実は完全に間違っているのだが、なぜか訂正されない。 これは、たぶん、医学教育者の中に確率論をわかっている人がほとんどいないためであると思われる。

まず第一に、根本的な問題として、診断を確率論で議論することは無意味である。 なぜならば、診断は確率事象ではないからである。 確率論で議論しようとすれば、結局は「いかなる確率モデルを用いるか」という問題に帰着するのであるが、現実には、合理的な確率モデルの構築は不可能である。

具体例として、咳嗽を主訴に来院した患者の診断について考える。 まず問診票に「咳が出る」とだけ書いてあるのをみて、肺炎や感冒、肺癌の「事前確率」を、どのように見積もるか。 医師 K が「肺炎、感冒、肺癌、それ以外、の四つに一つだから、全て 25 % である」と言い、 医師 S が「当院における有病率から考えて、肺炎 10 %, 感冒 70 %, 肺癌 5 %, それ以外 15 % である」と言ったとする。 多くの人は、K 氏を藪医者認定し、S 氏を信頼するのではないか。 しかし確率論の立場からいえば、そもそもこれは確率事象ではないのだから「事前確率」は定義できない。 確率事象に近似して考えることはできるが、その場合、どのような確率モデルを使用するかは任意であるから、 K 氏のモデルも S 氏のモデルも、共に正当である。詳しくは「Bertrand の逆理」を調べられよ。

それでも、多くの人は S 氏のモデルを、なんとなく実用的と考えるだろう。 なぜならば、ありふれた「感冒」を、迅速に正しく「感冒」と診断できそうだからである。 しかし S 氏のモデルには、稀な疾患については高い頻度で誤診する、という欠点がある。 逆に K 氏のモデルでは、ありふれた感冒についても診断に手間を要するという弱点はあるが、稀な疾患でも正診に至りやすいという特徴がある。 どちらの立場を取るかは、各々の医師の個性の問題であろう。 結局、診断学で用いる確率には、何らの客観性もない。

第二に、診断過程ではベイズ推定は適用できないという問題がある。 複数の検査を行う際にベイズの定理を用いるには、各々の検査結果が独立であることが前提である。 しかし、たとえば咳嗽患者に対し「発熱はあるか」「痰は出るか」という二つの検査を行うことを考えれば、これらは独立ではない。 なぜならば、痰が出るということは細菌が増殖して炎症が活発に起こっていると考えられ、従って発熱することが多そうだからである。 それにもかかわらずベイズ推定を行えば、「事後確率」を適切に計算することができず、誤診につながる。

もちろん、診断を医師の感性のみに任せず、論理的に詰めることは重要である。 しかし、その際の方法論として「確率」とか「ベイズ推定」とかいう、知りもしない専門用語を用いることを、私は批判しているのである。 医学、医療の世界には、このように、よく理解していない言葉を知ったかぶって用いている場面が少なくないように思われる。

なお、「確率」という語は、医学に限らず広く世間で出鱈目な使い方をされており、 それをみる度に、私はハラワタの煮えくりかえる思いをしている。

7 月 28 日に続く
2015.03.02 誤字修正

2014/07/24 医学連と医ゼミ (1)

全国医学生ゼミナール、通称「医ゼミ」という催しがある。 公式ウェブサイトによれば、「『患者さん中心の医療』を考え、『よりよい医療従事者像』を追求するなかで、 仲間と共に学び成長し、明日の医療を切り開いていく、それが医ゼミです。」とのことである。 要するに、毎年一回開催される、全国の医療系学生が集まって行なう交流会、勉強会である。 医ゼミ公式サイトには主催者が誰であるか明記されていないように思われるが、 全日本医学生自治会連合会、通称「医学連」のウェブサイトには 「医学連は、医学生の学び交流する場『全国医学生ゼミナール (医ゼミ)』の主催団体の一つとして 年間を通じての運営や過去の医ゼミの蓄積を責任持って行っています。」とのことである。 私は昨年、山梨で開催された医ゼミに参加し、医学連や医ゼミに対する不信感を抱えて名古屋に戻ってきた。 その不信感の内容は、感想文として提出してきたのであるが、その感想文の骨子を、必要な補足を加えて、ここに連載する。

初回の主題は、医学連とはいかなる団体であり、医ゼミとは何なのか、ということである。 医学連のウェブサイトには沿革についての記載が皆無であり、また信頼できる情報源が乏しいため、私の認識するところを記す。 事実関係の確認目的でこちらのウェブサイトを参考にしたが、情報の正確性については保障できない。 他に信頼できる情報源をご存じの方は、ぜひ、教えていただきたい。

全日本医学生自治会連合会が結成されたのは、1984 年 5 月 28 日であるという。出典 これは、既に存在していた「全日本医学生連合 (旧医学連)」から日本共産党に近い自治会が分離独立したものであったらしい。 また、旧医学連は 1954 年に全国医大連合が発展的解消して結成されたものであるという。 全国医大連合は、インターン制度の改善を求めて 1952 年から開催されていた連絡会議のようなものであったらしい。

この経歴からわかるように、旧医学連は医療問題を巡って政治闘争を展開する学生団体であった。 現医学連も、当時の旧医学連執行部の姿勢に対する反発から分離したものである、という趣旨の記述が、 昨年の医ゼミで配布された資料に一応は記載されていたように思うが、遺憾ながら、私はその資料を紛失してしまった。 結局のところ、現医学連も、本来は政治闘争のための学生団体なのである。

現医学連は 1984 年に発足した団体であり、旧医学連とは関係ない、ということになっているが、 医ゼミは今年で第 57 回であるとしており、その第 1 回は 1955 年であるとしている。 出典 医ゼミの第 1 回は 1955 年 10 月 に京都府立医大で行われたらしい。 そこでは放射線障害について、教授らによる物理学、病理学、内科学の立場からの発表など、学術的な討論が行われた他、 現行医療制度に対する批判などが展開されたらしい。 また、第 2 回は 1956 年 10 月に慈恵医大で行われ、医学教育制度や医療制度などについての討論が行われたらしい。 出典 これらの議題からは、時代背景も含めて考えると、当初の医ゼミは政治闘争を念頭においた理論武装のための集会という側面があったのではないかと想像される。

しかしながら時代は流れ、学生の意識も変容し、現代では「学生運動」というと、 「野蛮な学生達が体制に反発して暴れまわった」というような認識を持たれることもある。 そうした中で、上述のような医学連や医ゼミの沿革を公表すれば、少なからぬ学生は医学連や医ゼミを「アブナイ団体」と認識し、 敬遠するであろうことは想像に難くない。 たぶん、医学連や医ゼミが公式ウェブサイトで沿革を伏せているのは、そうした事態を憂慮しているためではないか。

私は、かつての医学連や全学連による闘争は、一部に違法で不当に暴力的、反社会的な活動が行われた点については反省すべきであるとしても、 大筋では適正であり、学生としての健全な問題意識の発露と、変革のための努力であったと認識している。 しかし、一体、医ゼミや医学連の人々は、自分達の歴史をどのように認識しているのか。 先人の活動に対し敬意と誇りを抱いているのであれば、包み隠さず、歴史を明らかにするべきではないか。 あるいは、もし先人の活動を過ちと考え、社会的に許容されぬと思うのであれば、一度組織を解体し、新たに「第 1 回医ゼミ」として 医学連からは分離して開催するべきではないか。

昨年の医ゼミにおいては、こうした医学連や医ゼミの歴史については一切触れることなく、 「楽しく勉強し、よりよい医療者になるための集まりである」というような宣伝がなされていた。 私は幾人かの参加者に対し、こうした医ゼミの過去を隠蔽するあり方を批判する見解を述べたが、 これらの参加者の大半は、医ゼミや医学連の歴史についてはよく知らないままに参加してしまったらしい。 このような、自分達の歴史を隠して無知な学生を誘い込むやり方は、卑怯である。

2014/07/25 語句修正

2014/07/24-2 医学連と医ゼミ (2)

私が昨年の医ゼミに参加して、医学連や医ゼミに対して抱いた不信感の第一は、前述のような、自分達の歴史を隠蔽するやり方についてである。 そして第二は、医ゼミの内容が、あまりに稚拙であったことである。

過去の記録からは、もともと医ゼミは、実際に行動し闘う組織である旧医学連が、 その理論武装のために開催した勉強会としての側面が強かったのではないかと推定される。 しかし現在の医ゼミは、医療制度の問題点を話題にはするものの、「難しい問題ですね、皆で考えていく必要がありますね」という程度の議論しか行わず、 むしろ学生同士で集まってワイワイ楽しく交流しましょう、という懇親会の側面が強くなっているように感じられた。

また、学生の発表では技術的な問題が目立った。 たとえば、口頭発表をする際には原稿を読まずに聴衆の方をみて話す、ということは、基本中の基本である。 しかしながら、それをできていない発表者が、あまりにも多かった。 また、発表の場において医ゼミの中心メンバー同士にしかわからない内輪ネタで盛り上がったり、 分科会では特に親しい参加者をあだ名で指名して発言を促すなど、公の場であるという認識を欠いた言動がみられた。 五十余年の伝統だ何だと言いながら、この程度の基本的な発表技術さえも先輩から後輩に受け継ぐことができていない、というのが現在の医ゼミである。

(以下は、感想文には記載しなかった内容である。)

参加者に対する会計報告が行われていないことは不適切である。 会場は甲府の大きなホールを借りて盛大に行われており、それなりの大きな金額が動いていたはずであるが、 収支はどうなのか、過不足分は誰が補填しているのか、というようなことは、一般参加者には、一切、知らされていない。 学生が自分達で作っているのだ、という謳い文句ではあるが、この情報の不透明さは、納得できない。

そして最後に、未成年者飲酒である。 最終日の懇親会において、未成年者が多数、参加しているにもかかわらず、酒類が提供された。 しかも、私の知る限りでは、未成年者は飲酒しないようにという注意も、ほとんど行われなかった。 実際に飲酒した未成年者も、いたようである。

2014/07/25 語句修正

2014/07/25 医学連と医ゼミ (3)

医ゼミは、本当に「より良い医療者」を育てているのだろうか。 より良い医療者になるには、医学科生なら医学を、看護学科生なら看護学を、というように、 自分達の専門たる学問をしっかりと修得することは必須である。 いかに社会問題に関心があろうとも、医ゼミで勉強しようとも、医学を知らずに国家試験に合格しただけの医師は、良い医師ではあり得ない。 そうした医師が、いかなる提言を社会に対して発しようとも、「あの人は医学をわかっていない」とみなされれば、誰も、その言葉に耳を貸さないであろう。 しかし、医ゼミ中心メンバーの中には、医ゼミに全力を尽くすあまりに学業をおろそかにし、留年する者も少なくないという話を、昨年、複数の参加者から聴いた。

実際のところ、参加者の多くは、医学を嫌いなのではないか。 勉強は、あまり面白くない、試験に合格できればそれで良い。しかし、それでは、まともな医療者になれないことは明白である。 そこで医ゼミ等の催しで「勉強」すれば、より良い医療者になれるのではないか。 医学は楽しくないが、医ゼミは皆で盛り上がれて楽しい。そうだ、私は意識の高い学生なのだ。 医ゼミは、いつのまにか、そういう錯覚を与えてくれる催しになってしまったのではないか。

私は昨年の医ゼミで「基礎心電図学」と題した分科会を行った。 これは、心電図が臨床現場では非常に重要な検査方法である一方で、その理論は難解で、多くの学生や医師が 心電図理論を学ばぬままに、パターン認識だけで心電図を「読んで」いる現状を憂いたからである。 もちろん、パターン認識だけで国家試験は合格できるし、臨床現場でも、一応は通用する。 そして、ひとたび臨床現場に送り出されれば、大抵の者は日々の業務に忙殺され、 深淵な心電図学を系統的に修めるだけの時間と心のゆとりを失うであろうことは、明白である。 しかし、そのような、理論抜きにパズルのように心電図を「読む」医師や看護師が「良い医療者」であるとは、私は思わない。

分科会には、途中で人の出入りはあったが、10 名ほどの方が参加してくれた。 医ゼミ全体では 1000 人近い参加者があり、並行する分科会は 15 程度であったように思うから、10 名というのは、少ない方である。 人を集めることができなかったのは、分科会の紹介文を書いた私の文章力が稚拙であったためか、 それとも彼らが心電図に興味を持っていないためであるかは、よくわからない。

私は、医学が嫌いな学生に対して、我慢して、努力して勉強せよ、と言うつもりはない。 私自身、我慢も努力もしていないし、怠けたい時には大いに怠けているからである。 学問というものは、元来、我慢して、努力して行うような性質のものではなく、 「学問をしたい」という自発的欲求に応じて為されるべきものである。 しかし残念ながら私は、医学を嫌いな学生に対して医学の面白さを伝える術には、長けていない。 私にできることは、学生のあり方について一つの例を提示し、疑問を投げかけることまでである。


2014/07/26 骨髄増殖性疾患

先日、『ハリソン内科学』を読んでいてホホゥと思ったので、記録しておく。 慢性骨髄増殖性疾患は、骨髄における腫瘍であり、一系統以上の、機能を有する成熟骨髄系細胞の産生が増加した病態である。 これに対し、急性白血病は機能のない血球が産生されるものであり、また骨髄異形成症候群は無効造血を特徴とする。 慢性骨髄増殖性疾患は、具体的には、慢性骨髄性白血病, 真性多血症, 本態性血小板増加症, 原発性骨髄繊維症, などである。 このうち後三者においては高頻度で JAK2 の V617F 変異がみられるため、何らかの関連があると考えられている。 念のために補足すれば、JAK2 は JAK-STAT 系の JAK の一つであり、細胞増殖因子受容体の下流シグナルを担う。 また、V617F とは、617 番目のアミノ酸が V (バリン) から F (フェニルアラニン) に変化する変異、という意味である。

さて、『ハリソン内科学』第 4 版 108 章によれば、真性多血症の自然経過において骨髄繊維症を来すことがあるが、 これは反応性で可逆的な過程であり、これのみでは造血を妨げることもなく、予後に関係しない (p.786) という。 これに対し『ハーバード大学テキスト 血液疾患の病態生理』第 20 章では、真性多血症が骨髄繊維症に移行すると、 高度の貧血と脾腫を来し、治療は極めてむずかしくなる (p.194) という。

次に、「ハリソン」では、原発性血小板増加症について、血症板数の増加が 血流の停滞や血栓症を引き起こすという証拠はなく、無症候性であれば治療の必要はないとしている。 また、後天性 von Willebrand 病を来すことがあり、その場合には抗血小板薬は出血を促進する可能性があるという。 これに対し「ハーバード大学テキスト」では、治療の基本原則は血栓症の合併を防ぐことであるため、 すべての患者は抗血小板療法を受けるべきであるとしている。

このように、両者は相反する主張をしており、真相は、よくわからぬ。 なお、「ハリソン」のこの章の著者は Johns Hopkins University School of Medicine の Professor J. L. Spivak であり、 「ハーバード」は Harvard Medical School の Professor H. F. Bunn と Professor J. C. Aster の共著である。


2014/07/27 NSAID 腎症

次のような架空の症例を考えよう。 患者は 31 歳男性、名古屋在住の大学生である。 IgA 腎症とみられる糸球体腎炎の既往があるが、最近では eGFR が 110 mL/min 程度であることから、 糸球体瀘過量は正常化したと考えられている。 患者は、先日、転倒して左尺骨を骨折し、治療中である。 鎮痛剤としてアセトアミノフェンを投与されていたが、疼痛コントロールが不良であるため、 主治医は NSAID であるロキソプロフェンの投与を検討している。 さて、この患者に対し、NSAID の投与を躊躇すべき理由は、あるだろうか?

まず、悪い解答例から示す。 「患者には腎疾患の既往があるが、ロキソプロフェンは腎排泄が主であり、軽度とはいえ腎毒性もあることから、慎重になるべきである。」 なるほど、言っていることは、間違ってはいない。しかし、次のような追加質問に対しては、どう答えるのか。 「腎毒性とは、具体的には、どういうことか。また、腎疾患の既往がある患者に対しては、常に NSAID の投与を控えるべきなのか。」 学生の中には、次のように答える者がいるかもしれない。 「腎毒性とは、腎機能障害を誘発する可能性をいう。NSAID を常に控えるのは難しいから、慎重に投与するのならば可であろう。」 要するに「腎毒性」という言葉の意味をわかっていないのであって、「腎機能障害」という、これまた曖昧な言い換えをして逃げているのである。 また、よくわからないから慎重に、というのでは素人同然であると言わざるを得ない。

私は、この問題を考案した当初、次のように考えた。 今から思えば稚拙な発想なのであるが、その点はご容赦願いたい。 腎毒性というのは、具体的には、尿細管障害である。 高用量の NSAID が投与された場合などにおいては、詳細な機序は不明であるが、おそらくは尿細管細胞に薬剤が蓄積し、 尿細管壊死から急性腎不全を来す恐れがある。 しかし当該患者の既往は、尿細管障害ではなく糸球体腎炎であるし、eGFR から考えれば現在は腎機能に問題がないと推定される。 eGFR はあまり信頼できる指標ではないが、この患者は若く合併症もないことから、真の GFR も充分に高いものと考えられる。 従って、NSAID の腎毒性を特に警戒する必要はなく、躊躇なくロキソプロフェンを投与して構わない。

この私の意見に対し、同級生の某君は「君は、NSAID 腎症のことを忘れているのではないか。」という趣旨の指摘を行った。 すなわち、NSAID によりプロスタサイクリンやプロスタグランジン E2 などの産生が阻害され、 腎局所における血管収縮を来し、結果として腎不全を来す恐れがある、というのである。 私は不勉強で NSAID 腎症というものを知らなかったので、それから慌てて教科書を調べ、次のような反論を行った。 「当該患者においては、特に腎血流の異常もみられないことから、NSAID 投与による血管収縮が腎機能障害を来すことは考えにくい。」

ここまでに述べた私の見解は、完全に誤りである。 腎臓をよく勉強した人であれば、私の主張を叩き潰すことができるはずであって、むしろ、それができない人は、少しばかり勉強し直した方が良い。

糸球体の機能は、ひとたび損傷すると、なかなか回復しないものである。 当該患者において、IgA 腎症が軽快したとはいっても、糸球体の機能は以前と比べて低下しているものと推定される。 それでも eGFR が回復したのは、腎臓はもともと予備能が大きいからに過ぎない。 この「予備能」の由来は、概ね二つある。 一つは、そもそも腎臓には充分すぎるほどの数の糸球体があり、ある程度の糸球体が機能を失ってもなお充分な瀘過量を保つことができる。 もう一つは、腎機能が低下した際に、フィードバック機構によって糸球体の血圧を上昇せしめ、それによって糸球体あたりの瀘過量を高めるものである。 この後者は複数の機序によって支えられているが、そのうち一つがレニン-アンギオテンシン-アルドステロン系の亢進であって、 これにより全身の血管が収縮する一方、輸入細動脈ではプロスタサイクリンやプロスタグランジン E2 などの作用により 血管抵抗が低下し、結果として腎への血流は増加するのである。

すなわち、当該患者においては、糸球体障害がレニン-アンギオテンシン-アルドステロン系によって代償されている可能性があり、 その場合には、ロキソプロフェンの投与により NSAID 腎症を来す恐れがある。

理論上、レニン-アンギオテンシン-アルドステロン系が亢進していなければ NSAID 腎症は来さないので、 事前にレニン活性を検査することで、そのリスクを評価することができるだろう。 ただし医学書院『臨床検査データブック 2013-2014』によれば、現行の保険制度では、こうした目的でのレニン活性やレニン濃度の検査は、保険適応外であるらしい。


2014/07/28 診断学と確率論

7 月 20 日に、診断は確率事象ではないが、 適当な確率モデルを用いれば、主観的ではあるが確率事象に近似して考えることができる、と述べた。 しかし、そのように確率事象に近似して考えることが、臨床医学として妥当かどうかは別の話である。

咳嗽を主訴とする患者に対し、ある確率モデルに基づいて、検査所見を含めて、原因疾患として 感冒 80 %, 肺炎 18 %, 肺癌 2 % の確率であると計算されたとしよう。 この状況で「たぶん風邪だから、暖かくして、よくお休みなさい。薬はいらないよ。」とだけ言って患者を帰す医者は、あまりいないと思う。 念のために確認しておくが、感冒に対しては、抗生物質は有効ではないことが多いし、解熱剤には回復を早める効果はない。 また、肺炎の可能性を否定できないから、少なくとも「もし 2, 3 日して治らなければ、またいらっしゃい。」ぐらいは言うだろうし、 場合によっては抗生物質も処方するかもしれない。 あるいは、肺癌の可能性を否定はできない旨を伝え、症状が軽快しても定期検診を受けるよう勧めるかもしれない。

では、感冒 98 %, 肺炎 1.5 %, 肺癌 0.5 % であれば、どうか。 この状況で抗生物質を処方するのは、適切ではあるまい。 また、肺癌の可能性を否定できないなどと患者に伝える医者は、あまり多くないのではないか。 しかしながら、こうした患者のうち 200 人に 1 人程度は、実は肺癌なのに見逃されてしまうことになる。 すなわち、200 人に 1 人程度であれば、見落としは仕方ない、それで治療が遅れて致死的になっても医師の責任ではない。 そう主張していることになる。

では、肺癌である確率が何 % 以下であれば、見落しはやむを得ないのか。 確率論を診断に用いるというのであれば、明確な閾値が存在するはずである。 もし、それが存在しないのであれば、実際には診断に確率論を用いてはおらず、何となくの漠然とした感覚で診断していることになってしまう。

こう考えると、確率論を診断に用いるのは適切ではなく、実際、多くの医師は確率論を用いてはいないのではないかと思われる。 胸部 X 線写真や、場合によっては胸部 CT 画像をみて、腫瘍を疑う所見がなければ、確率云々ではなく肺癌の可能性を除外して考えるのではないか。

私自身、この問題はよくわからないので、今は未解決課題として保留しておく。

2014/09/10 語句修正

2014/08/01 膠質液と漿質液

近頃、よく怠けている。怠慢学生である。そろそろ医学の世界に復帰しようと思うのだが、その一方で、久しぶりに囲碁に興じている。 中学、高校時代には囲碁部に所属していたが、ここ十年余り、まともに打っていなかった。 日本における囲碁の総本山である日本棋院が運営しているネット対局サービス 幽玄の間において、とりあえずリハビリ目的で 5 級として打ち始めた。 30 局余り打って順調に勝ち越し、2 級まで上がった。もうすぐ初段に手が届きそうである。 忘れていた手筋、定石、感覚も戻りつつある。一方で、小目一間高ガカリ上ツケに対してツケカエシを打たれることの多さに驚いた。 最近の流行なのかもしれない。以前、私は「上ツケは意外と地に辛い」と思って多用していたので、残念である。

さて、医学の話である。 輸液にはいくつかの種類があるが、名大医学科の学部教育では、輸液学のような講義はなかったように思われる。 たぶん、各自勉強せよ、との趣旨なのだろう。 ところが、私は輸液学の良い教科書を未だみつけておらず、南山堂『麻酔・蘇生学』改訂 4 版で少しかじった程度である。 輸液学について理論を重視した書をご存じの方は、ぜひ、教えていただきたい。 同級生に一人、麻酔マニアがいることは知っているが、彼とは教科書の趣味が合わないのが遺憾である。

輸液の目的はイロイロあり得るが、ここでは例として、手術中に喪失する有効循環体液量を補正するための輸液について考える。 名古屋大学病院の手術室では、こうした目的で頻用されているのは乳酸リンゲル液や重炭酸リンゲル液である。 前者は商品名ラクテック、後者は商品名ビカネイトが使われることが多いが、ビカーボンを使っている場面も、みたことがある。 乳酸リンゲル液と重炭酸リンゲル液の使いわけについて、若い麻酔科医に質問してみたことがあるが、あまり意識していない、とのことであった。 一方、日本医科大学麻酔科の小川教授の解説によれば、 歴史的には緩衝剤として炭酸水素イオンが用いられていたが、重炭酸マグネシウムや重炭酸カルシウムが沈殿することを嫌って 乳酸あるいは酢酸を用いるようになったらしい。 もっとも、ふつうは重炭酸マグネシウムや重炭酸カルシウムが大量に沈殿することはないから、大抵、重炭酸でも問題はない。 結局は輸液する人の好みの問題であるが、第一級の真のプロフェッショナルは、患者の状態に応じて重炭酸と乳酸を細かく使い分けているかもしれない。

さて、教科書的には、リンゲル液を輸液すると、水分は血管内に留まらず、組織液として細胞間質にも移行してしまうため、浮腫を来しやすく、 有効循環体液量を効果的に増やすことができない、とされる。 そこで、分子量の大きなコロイドを含む膠質液を輸液すると、溶質が血管内に留まり、有効循環体液量を効果的に増やせるとする意見がある。 一方、リンゲル液などの晶質液に比べて膠質液が優れているという客觀的証拠はなく、両者の優劣を巡っては長い長い論争が続いているようである。

名古屋大学病院でも膠質液が使われることがある。商品名は忘れたが、あるとき私がみたのは、生理食塩水に 6 % デンプンを加えたものであった。 このデンプンの分子量は 30,000 程度であっただろうか、とにかく分子量が大きいため、6 % の質量割合であっても浸透圧には殆ど寄与していない。 たぶん、デンプンが血中アミラーゼにより切断されることで、時間をかけて血漿浸透圧が上昇することを期待しているのだろう。 なお、注意深い学生は気づいたであろうが、輸液をリンゲル液から膠質液に切り換えた直後には、 点滴ルートのチャンバー内で屈折率の違いによるモヤモヤを観察することができる。

さて、私は輸液学の素人であるので、純粋に生理学の立場から考える。 「大量出血に対して輸血が間に合わないから、とりあえず手近なものを輸液して有効循環血液量を確保する」という緊急手段であるとか、 「敗血症などの全身性炎症に対して大量輸液と利尿により不必要なサイトカインの排泄を促す」という思想に基づく輸液を別にすれば、 膠質液の晶質液に対する優位性は疑問である。

通常、手術中の輸液は、手術中に失われる体液を補うものである。この場合、間質液、血液の相互の平衡は保たれているはずであるから、 体液の補正を行う際には、基本的には間質液と血液の両方を補うのが自然であろう。 細胞内液は特に失われていないと考えられるので、補う必要はない。 従って、そもそも膠質液を使おうという発想の根底にある「間質への移行を防ぎたい」という発想に、あまり意味がないように思われる。

このあたりの問題については、臨床データを統計的に比較した報告は多いが、理論的検討は比較的、少ないようである。 理論的な説明については慈恵 ICU 勉強会の資料が面白く、 そもそも細胞内液、間質液、血液、いわゆるサードスペース、という compartment model がおかしい、とのことである。 浸透圧についてのスターリングの法則で考えることがダメだ、というのである。 こういう理論的な議論をレビューとしてまとめた文献は、ないだろうか。


2014/08/02 インテリゲンチャ

初段に到達した。しかし、まだまだ、つまらないミスで大損してから挽回するパターンが多い。

さて、高等教育を受けた我々は、知的エリートである。 もっとも、医学部は高等教育といっても職業訓練の色彩が強いから、いささか知性が偏狭になりがちであるかもしれないが、 それでも、我々がインテリゲンチャであることは間違いない。 私がここでいいたいのは、我々には知性に相応の報酬を受け取る権利がある、などという妄言ではなく、 我々は知性に相応の社会的責任を負っている、ということである。 「私は、エリートなんて、そんな大層なものではないんですぅ」などと不適切に謙遜することは、この社会的責任からの逃避に過ぎない。 ここでいう社会的責任とは、法令と倫理を遵守して患者と社会のために職務を遂行する義務、ではない。 そのようなものは、インテリジェンス云々関係なしに存在するあたりまえの義務である。

たまたま、YouTube真のユダヤ教徒はイスラエル国家を認めない という動画をみた。 イスラエル占領地に在住する正統派ユダヤ教徒による、反シオニズム運動を伝える動画である。 私は、正統派ユダヤ教徒には反シオニズムを唱える者が多いことは知っていたが、 イスラエル占領地にも、そのような運動をする人々がいるとは知らなかった。

このパレスチナ問題については、日本の報道や教育では、かなり米国寄りの、すなわちシオニストに同情的な視点から説明されることが多く、 若い学生の中には、こうした偏った立場のみで理解している者が多いのではないかと危惧される。 そこで、本記事では我々、反シオニストの立場から、この問題を簡略化して述べる。

第二次世界大戦後に、英国等の主導により、国際連合決議に基づいて、パレスチナにおいてイスラエルと称する国家の建国が宣言されたことは周知の通りである。 ここでまず忘れてはならないのは、国際連合には、新国家の樹立を決定する権限は存在しない、ということである。 これは要するに、国際連合、というより連合国が、中東諸国に対し領土の割譲を要求したものであり、不当な決議である。 いわば、国連が日本国に対し、北海道をアイヌ国家として独立させ、現住する非アイヌ民族の立ちのきを要求するようなものである。 もともとパレスチナには、イスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒らが共存していたのであるが、 イスラエルと称する国家はユダヤ人のためのユダヤ教国であるとされ、さらに世界中からユダヤ人が「帰還」したことで、問題が生じた。 この「帰還」した人々は、もともとパレスチナに住んでいたユダヤ人の末裔ではなく、 ヨーロッパ人などのうちユダヤ教に改宗した人が、パレスチナを「心の故郷」として移住してきたものである。 その後、第一次から第四次にわたる中東戦争が行われたが、欧米から武器や技術の支援を受けたイスラエル軍が圧勝した。 この過程で、イスラエル軍は、国連決議がイスラエル領として認定した範囲を大幅に越える土地を占領した。

なぜか日本で発行される地図では、イスラエル軍による占領地をイスラエル領として記載し、また首都をエルサレムと誤記している例が多い。 しかし占領地は領土として認めないのが国際慣行であり、エルサレムは占領地に過ぎず、国連決議が認めたイスラエルの首都はテルアビブである。 イスラエル軍が占領地において、明らかに非武装の女性や子供を含む一般市民を虐殺し、家屋を破壊し、 その他、非人道的行為を繰り返していることは、周知の事実である。 近頃では、ようやく、イスラエル兵によるこうした非人道的行為の告白がなされるようになったらしい。 このように、イスラエルと称する人々の蛮行はとても容認できるものではないが、欧米は「歴史的配慮」からイスラエルを支持しているため、 反イスラエルを掲げるアラブ諸国も、具体的な行動を起こせていないのが現状である。 なお、この歴史的配慮とは、当然ナチスのことであるが、そこで欧米の領土を割譲するのではなく、 無関係なアラブの土地をシオニストに与えた点は、さすが植民地主義者というべきであろう。

こうした中で、レバノンのヒズボッラーや、パレスチナのハマース、 またペルシアのアフマディネジャド前大統領らは、ユダヤ教国としてのイスラエルの存在を認めないと明言している。 この「イスラエルを消滅させる」といった文言だけが日本のマスコミでは取り挙げられるため、 まるで彼らが暴力的で野蛮な連中であるかのように誤解されるが、そもそもイスラエルと称する国家の誕生に何らの正統性もないのだから、 イスラエルを消滅させて原状回復することは、アラブにとって当然の権利である。 また、正統派ユダヤ教徒の多くは、こうしたイスラエルと称する人々、すなわちシオニストのあり方を否定している。 イスラエルはユダヤ人のために神から約束された土地ではあるが、それを武力によって、人為的に獲得することは神の意思ではない、ということらしい。 彼らによれば、イスラエル建国は真のユダヤ教徒に対する迫害を招くのみであり、厄災である、とのことである。

日本はパレスチナ問題に直接は関係していないと思っている人がいるが、とんでもない勘違いである。 日本国は、イスラエルを国家として承認しているのである。 このことは、シオニストを支援する姿勢を表明することに他ならない。 「国交はあるが、あくまで中立である」などと詭弁を弄する人もあるが、それでは、台湾を国家承認していない現実を、どう説明するのか。

そういった問題を理解した上で、我々は、どうするべきか。 彼らの問題であって我々には関係ない、として何もしないことが適切なのか。 それとも、ビラを配り、デモや集会に参加することが責任ある態度なのか。 あるいは、武器を持って戦闘に加わることこそが正義なのか。


2014/08/05 言葉遣いを巡る思い出

今ではどうだか知らないが、私が在籍していた頃の京都大学工学部物理工学科原子核工学サブコースでは、四年生が卒業論文の内容をポスター発表する催しがあった。 私は、量子力学を否定する beable の理論のレビューと、二重スリットの実験について beable の理論に基づく電子の軌跡のシミュレーションを行った。

ポスター発表会には、教員だけでなく大学院生も訪れ、様々な質問や議論が行われた。 当時、修士課程一年生であった某氏は、私のポスターをじっと眺めた後に、文章の一部を指して 「ここに『自己矛盾が生じる』と書いてありますが、これは、どういう意味ですか?」と問うた。 質問の意図がよくわからずに私が戸惑うのをみて、彼は、続けた。 「これは、単に『矛盾する』という意味ですか?」

要するに彼は、私が深く考えもせずに「自己矛盾」という冗長な表現を用いたことを咎めたのである。 特に文学的に深淵な意味があるならともかく、同じ意味であるなら、「自己矛盾」ではなく単に「矛盾」とするのが、学術的な文章としては適切である。

この一件以来、なるべく言葉遣いに気をつけるようにしている。 学生時代に、彼のような的確な指摘のできる人物と出会えたことは、私にとって幸運であった。


2014/08/11 マンモグラフィの必要性

8 月の 9 日と 10 日に石川県で開催された、日本病理学会中部支部の夏の学校に参加した。 現在は所用で富山に来ており、この日記は、富山駅前の某ホテルで書いている。 夏の学校は、病理学に関心のある学生や若手医師を対象にした催しであるが、講義中心の形式なのが残念であった。 しかし 10 日に講演した京都大学大学院の某教授からのメッセージは、たいへん、気に入った。 名前を出して良いのかどうかわからないので、一応、伏せるが、その教授からのメッセージの一部を、夏の学校の配布資料より引用する。

最近の学生は、なんでもやりますから教えてくださいといいます。 優秀な学生ほど、教育システムが充実している研修病院に競っていきたがります。 効率よく教えてもらうことが本当に自分のためなのでしょうか。 自分で考えること、失敗から学ぶということをもっと学ぶべきだと思います。

これと同様の趣旨の説諭は、名古屋大学医学部医学科においても、何度となく私は耳にしたのであるが、遺憾ながら、多くの学生の心には届いていないものと推定される。 だいたい、よくわからないことがあれば、すぐ先生に訊こうとする学生が多すぎる。 「わからないから教えてもらう」という発想が、そもそも、誤りなのである。

たとえば私は、一年ほど前から、乳癌の診断について、ある疑問を抱いている。これは、次のような事例である。 「30 代の女性が、乳房のしこりを自覚して来院した。 触診上、腫瘤を認めたためマンモグラフィおよび超音波検査を行ったところ、悪性腫瘍を疑う所見があった。 そこで超音波ガイド下に穿刺吸引細胞診を行った。」 これは割とよくある事例であるが、はたして、マンモグラフィは必要であったか。

専門外の人のために、若干の補足説明が必要だろう。 私が問題視したのは、次のようなことである。 マンモグラフィによって診断が確定することは極めて稀であるから、 マンモグラフィの所見がどうであろうと、結局、細胞診を行うことになる。 また、若い女性では乳腺組織が発達しているため、マンモグラフィは診断上の有用性に乏しい。 以上のことから、マンモグラフィは実際の診断にほとんど役立たないのではないか、と疑われる。

昨年度、この問題について一部の同級生と議論したところ、マンモグラフィは省略可能である、 さらに言えば、患者の身体的、経済的な負担を考えて「省略すべき」とする意見が、私の他にも一定数みられた。 その一方で、自分の意見は表明せずに「先生に訊いてみると良い」とする学生も、少なくなかった。 上述の教授が言っているのは、この後者のような学生はダメだ、ということであろう。 自分で判断できず、決断できず、責任を権威に委ねるような学生は、将来、ろくな医者にならん、ということである。

なお、この乳癌の診断の問題については、マンモグラフィを積極的に支持する学生は、いなかった。 一方で、何人かの医師に問いかけてみたところでは「確かに省略可能かもしれぬ」という意見がある一方で、 マンモグラフィの必要性を強く主張する医師もいた。ただし、後者については、その医学的根拠は私には理解できなかった。

一応補足すると、診断学においては「侵襲性の低い検査から順に行うべきである」という法則のようなものがあるらしい。 その法則に基づいて「マンモグラフィは細胞診より侵襲性が低いのだから、先にマンモグラフィをやるべきだ。」とする意見もあった。 しかし、それは「マンモグラフィは不要ではないか」という問いへの返答にはなっていないし、そもそも、この法則は、あまり絶対的なものではない。 私は「その後の診断や治療に全く影響を与えない検査は行ってはいけない」という鉄則に基づいて、 既にしこりを触知できる若い患者に対しマンモグラフィを施行することの理論的根拠を問うているのである。 全く無症状の患者に対するマンモグラフィとは事情が違うことに留意が必要である。

なお、マンモグラフィは侵襲があまり強くないので、とりあえずやっておけ、という乱暴な意見も、少数ながらみられた。 しかし、必要性をキチンと説明できない検査によって患者を痛めつけ、低線量とはいえ放射線を照射し、 しかも費用を請求するなどということは、まっとうな医者のやることではない。

2014/08/12 誤字修正

2014/08/12 質問して笑われる

夏の学校では、残念なこともあった。 初日に行われた、乳癌における癌幹細胞に関する講演の際のことである。 この講演におけるスライドは、医師や医学部生よりは、もう少し素人に近い人を対象にしたものであるように感じられ、 発表資料の使いまわしなのではないかと感じられたことが、まず残念であった。

しかし、より重大な問題は、質疑応答の際に起こった。 私は、質疑応答の最初に挙手し、名古屋大学五年生という肩書と氏名を名乗った上で、「癌幹細胞の定義は何でしょうか」と質問した。 その際、なぜか会場から、笑いが湧き起ったのである。 私には、なぜ笑いが生じたのか全く理解できなかったが、とにかく質問の意図が伝わらなかったのだろうと考え、 「つまり、何をもって癌幹細胞というのでしょうか」と、言い直した。

以前に書いた「貧血」という語の定義を巡る混乱などからわかるように、 医学の世界では、しばしば、言葉の定義が軽視されている。 しかしながら、これも以前に紹介した前川孫次郎が主張したような理論的考察を行おうとすれば、 言葉の定義を曖昧に済ませるわけにはいかないことは当然である。 そこで「癌幹細胞」という言葉を考えると、これは定義が全く定まっていない用語である上に、 今回の講演でも明確な定義が述べられていなかったのだから、私の質問は、全く正当なものであったと思われる。 それにもかかわらず会場から笑いが起こったのは、一体、どういうことなのか、さっぱり理解できない。

何より大きな問題は、私は自分が学生である旨を明言してから質問したのにも関わらず、笑いが生じた、という点である。 ふつう、学生は「自分の質問は的を外していないだろうか、笑われないだろうか」と心配しながら、勇気を振り絞って質問するものである。 仮に質問内容が荒唐無稽であったとしても、それを笑うということは、学生の勇気をくじき、若芽を摘み取る行為である。 もちろん私自身は、あのような笑いを受けたからといって何ら萎縮することはないが、あの笑いをみた他の学生は、どう感じたであろうか。 遺憾なことに、中部地方の病理医には、教育に対する意識が決定的に欠如していると、言わざるを得ない。

私が質問をして笑われたのは、今回が初めてではない。 特に印象に残っているのは、高知で開催された原子力学会であったように思うから、「2008 年 秋の大会」であったのだろうか。 そうであれば、当時、私は大学院博士課程一年生であったことになる。 詳しい内容は忘れたが、原子炉の新しい燃料配置についての安全性の評価だか何だかを行った結果を報告する発表であり、 学術的というよりは、業務内容の報告というべき発表であった。 私は原子力発電所の管理業務についてはよく知らなかったので、原子炉物理学の観点から、 「その検査では、これこれの点についての安全性は評価できていないように思われるが、どうなのでしょうか」というような質問をした。 このとき、会場が爆笑したのである。 すると、私の後ろに座っていた重鎮と思われる人物が起立して、 「その点については、別に検査を行っているので、大丈夫である」という趣旨の発言をした。

なぜ爆笑が起こったのか、真相はわからない。 もし、無知な学生の的外れな質問を嘲笑したのであれば、極めて悪質である。 そうやって学生を辱め萎縮させることで、次代を担う人材を失い、それが学界や業界の衰退につながるのである。 しかし、たぶん、あれは、そういう笑いではなかったのだと思う。 業務として原子炉の管理を行っている人々は、決められた検査を決められた通りに行っているだけであり、 その検査の限界だとか、安全性だとかについて、自分たちで検討しているわけではない。 従って、検査自体の弱点を指摘する私の質問をそもそも理解できず、まるで言葉の通じない外国人がいきなり登場したかのように感じられ、笑ってしまったのだと思う。 上述の重鎮の人物は、そのあたりの事情を察し、ただちに私を助けに入ってくれたのであろう。

たぶん、同様の経験をした学生は、私だけではないと思う。 しかし、これらの事例は、笑った者が自らの不見識を露呈しただけのことであり、 笑われた側には何の落ち度もないのだから、諸君は、自信を持って質問するべきである。


2014/08/13 献血

先日、とても久しぶりに、献血を行った。以前に行ったのがいつであったか記憶が不確かであるが、たぶん、十年以上前のことである。 どちらかといえば、私は献血については消極的なのであるが、絶対に嫌、とまでいうほどのものではない。 そこで、いずれ輸血を行うであろう立場として、見学のつもりで献血を行ったのである。

昨年 10 月に書いた通り、私は、臓器移植には反対である。 輸血も臓器移植の一種であるが、ドナー側の負担が比較的軽いという点では、他の移植とはいささか異なる。 もし、自分が大量出血が予想されるような手術を受けることになった場合に輸血を拒むかどうか、未だ結論は出ていない。

私が行ったのは、富山駅前の献血ルームである。 待合室には、献血で救える命がある、献血はすばらしいことだ、というようなメッセージを含むポスターが掲示されていた。 臓器移植の件と同様で、こういうポスターは、 私のように献血に消極的な者にとっては「君は優しくない」などと咎められているように感じられ、居心地が悪い。

少なくとも日本では、宗教的理由で輸血を受けたくない、という人は、大抵、「変な宗教の人」というような扱いを受ける。 医療者の中には「面倒くさい患者」などと捉える者もおり、実際、医師がそのように表現しているのを聴いたことがある。 一部には、日本には八百万の神がいて一神教よりも寛容なのだ、などと言う人がいるようだが、 実際には、思想や宗教を異にする人に対して、日本社会は極めて不寛容、無理解である。 価値観や思想を強力に、無言で押し付けているのに、当人たちにはその自覚がない。

もし、思想や宗教上の少数者に配慮をするのであれば、ポスター等では「献血に協力して下さい」などの表現に留め、 献血や輸血の是非についての価値判断を含むような表現は、控えるべきである。


2013/08/14 西日本医科学生総合体育大会

現在、金沢周辺で西日本医科学生総合体育大会、いわゆる西医体が開催されているらしい。 正確には把握していないのだが、たぶん西医体は、西日本の医学科学生による体育大会である。 なぜ医学科に限定した体育大会を行うのかは、私にはよくわからない。

富山の街中では、西医体参加者と思われる学生に多数、遭遇した。 なぜ私が西医体参加者をそれと識別できたかというと、 彼らの中には「○○大学医学部」と背中に大書されたシャツを着ている者が一定数、存在したからである。 西医体には、そういうシャツを着用すべしという規則か何かがあるのかもしれないが、私が確認しただけでも、 九州大学医学部, 長崎大学医学部, 愛知医科大学, 三重大学医学部, 佐賀大学医学部, 宮崎大学医学部, 関西医科大学, 京都府立医科大学, 大阪医科大学, 広島大学医学部 (時系列順) のシャツを着ている者がいた。

これは意見の分かれるところであろうが、私は、あのようなシャツを着て街中に繰り出すのはよろしくないと思う。 一応、世間では医学部学生はエリートであり、社会の勝者だということになっている。 そこで、特に必要もないのに「○○大学医学部」などと書かれたシャツを誇示して街頭を練り歩くのは、 俺達は医学部なのだ、勝ち組なのだ、と喧伝しているかのように誤解されかねない。 実際、アレを着ている者の頭の片隅には、そのように医学部学生であることを鼻にかける気持ちが、ほんの僅かとはいえ、存在するのではないか。

そんなのは、単なる僻み、妬みではないか、という反論があるだろう。 全くその通りであって、医学部学生であることを鼻にかけること自体には何の非もない。 しかし我々は医師免許に守られて社会的、経済的恩恵を享受する立場にある。 この恩恵は過剰にして不当であり、我々は近い将来、これを放棄するべきであるように思われる。 従って、そのような不適切な利潤を得る立場にある以上、我々が妬まれるのは、当然のことである。

ここまで書いて気が付いたが、私も、どうやら医学部的な歪んだ思考に染まりつつあるようで、注意せねばならない。 上述のような理屈を述べなくても、端的に、「○○大学医学部などと大書されたシャツを着て出歩くのは、イヤラシイ」とだけ書けば、世間では十分に通用するであろう。 それを理解できないのは、医学部の中の人間だけである。

2014/08/15 広島大学医学部追加

2014/08/15 北陸地方の某大学

敗戦記念日である。 過度に自虐的な歴史観は不適切であると思うが、近年、一部で偏狭なナショナリズムが高揚しているらしいことが懸念される。

さて、私は、北陸地方の某大学病院を初期臨床研修の候補と考え、見学に訪れたことがある。どこの大学であるかは、書かない。 放射線部門と病理部門を見学したのだが、いずれも教授が対応に当たられたため、私はたいへん恐縮し、萎縮してしまった。 両科とも、丁寧で親切な対応をしていただき、デリケートな話題も含め、ためになる話を聴くことができた。 特に病理部では、臨床実習の中で芽生えた、病理診断に対する一種の疑念について、その内容をここには記さないが、率直に問うことができた。 教授の回答も、完全に納得のいくものであった。 要するに、病理医は単に組織切片を眺めて組織学的診断をしていれば良いというものではない、ということである。

名古屋大学は、先端的医療設備や、優れた指導者に恵まれており、初期臨床研修の環境としては確かに優れている。 しかしながら「寧ろ鶏口となるも牛後となるなかれ」という言葉がある。 名古屋大学という巨牛の中にあっては、我々は、その尾に生えた体毛の一本に過ぎないのではないか。 一方で、地方のいわゆる新設医大では、比較的設備に乏しく、人も少ない。 それは一見、環境として劣っているかのように思われるが、しかし理解のある教授の下であれば、 我々には鶏嘴として、医学の terra incognita を開拓する自由が保証されるであろう。 フロンティア精神あふれる学生であれば、こうした地方大学病院で研修を受けるのも、よろしかろうと思う。

なお、この記事には一か所だけ、嘘が含まれている。それがどこであるかは、ご想像にお任せする。


2014/08/16 定義と診断基準

8 月 12 日に、癌幹細胞の定義について質問して笑われた件を書いたが、 臨床医学においては、しばしば定義と診断基準が混同されるという問題もある。 Wikipedia は論外として、医学書院『医学大辞典』などでも、定義や診断基準、あるいは典型的な症候を明確に区別していないことがあるが、 時に、これは大混乱を招く。 そこで、本記事では、定義と診断基準を区別して認識することの重要性を概説しようと思う。

たとえば、全身性炎症反応症候群 (Systemic Inflammatory Response Syndrome; SIRS) という概念がある。 これは、何らかの事情により「全身性に急性炎症反応が起こることによって生ずる一連の症候」をいう。これが定義である。 多くの場合、定義というものは定性的に述べられるものであって、具体的な検査値などを規定するものではない。 従って、定義から直接診断しようとすると、主観の入る余地が多いため、医療者間でのコミュニケーションに支障を来す恐れがある。 それゆえに、検査所見について一応の基準を設けることが有益であると考えられて設定されたのが診断基準である。 SIRS の場合であれば、「体温が 36 度以下または 38 度以上」「脈拍数が毎分 90 回以上」「呼吸数が毎分 20 回以上または PaCO2 が 32 mmHg 以下」 「白血球数が 1,2000 mm-1 以上または 4000 mm-1 以下、あるいは未熟顆粒球が 10 % 以上」の四項目のうち、 二項目以上を満足する場合に SIRS と診断するのが一般的である。 しかし、これは定義と一致しないことは明白である。 たとえば急性骨髄性白血病患者では、全身性の炎症がなくとも白血球数が減少し、発熱することもある。 あるいはインフルエンザでも、発熱して脈拍数が増加するのは自然なことであるが、特に全身で炎症が起こっているわけではない。 さらにいえば、全身性の炎症があるならば白血球数は増加または減少するはずであって、 白血球数がいつも通りであるならば、その時点で SIRS は否定できそうである。

すなわち、診断基準は臨床上の便宜を考えて定められているのであり、その疾患の必要条件でもなければ十分条件でもない。 膠原病、たとえば全身性紅斑性狼瘡 (Systemic Lupus Erythematosus; SLE) に至っては、疾患概念も曖昧な上に臨床上の診断基準も存在しない。 一応、米国リウマチ学会が診断基準を提示してはいるが、これは主に学術研究のための客観的基準であって、 臨床的な診断には必ずしも有用ではないとされる。 これらの事情により、診断基準は必ずしも疾患の本態を反映するものではなく、 また、疾患概念を適切に表現しているとも限らない。

先日、三年生と CBT の話をしていた時、というよりも CBT の悪口を言っていた時、手近にあった「クエスチョン・バンク」を開いたところ、おかしな問題があった。 「急性骨髄性白血病においてみられないものを選べ」というような問題で、選択肢に 「発熱」とか「組織の腫脹」とかに混ざって「t(9;22) の転座」というようなものが混ざっていたのである。 もちろん、t(9;22) で有名なのは BCR-ABL であり、これは慢性骨髄性白血病や急性リンパ性白血病でしばしばみられるが、 急性骨髄性白血病では典型的ではないから、これが正解である。 BCR-ABL は定義上、慢性骨髄性白血病の必要条件ではあるが、十分条件ではなく、健常人でも BCR-ABL が認められることがある。 従って、典型的ではないが、急性骨髄性白血病でも t(9;22) の転座がみられることはあるはずであって、「みられない」と断言することはできない。 これは、定義と診断基準を混同した出題であろう。

このように、「○○の疾患において、△△はみられない」といえる例は、比較的、少ない。 例えば、胃癌において胃底腺が嚢胞状の拡張を示しながら増生することは特に典型的ではないが、しかし、そのような組織学的所見がみられても不自然ではなく、 胃底腺ポリープから癌が生じたものと推定できる。 従って、「胃癌において、胃底腺の嚢胞状の拡張はみられない」という表現は誤りである。 これに対し「胃の過形成性ポリープでは、胃底腺の嚢胞状の拡張はみられない」というのは正しく、 なぜならば胃底腺の嚢胞状の拡張があれば、それは胃底腺ポリープであり、過形成性ポリープとは区別されるからである。 このような、(少なくとも学生にとっては)マニアックな鑑別を議論するのでなければ、「△△はみられない」という条文が正しいと言える例は、稀である。

なお、私は基本的に診断基準等については、ガイドラインや教科書を参照することにしているが、 現在は旅行中のため、この記事を書くにあたり、診断基準の具体的数値は Wikipedia を参考にした。情報の正確性については不明である。

2014/08/17 「急性リンパ性白血病」を「急性骨髄性白血病」に、「瀘胞性リンパ腫」を「急性リンパ性白血病」に修正した。 とんでもなく恥ずかしい間違いであるが、瀘胞性リンパ腫で BCR-ABL がみられることは稀である。 また、急性リンパ性白血病では、しばしば BCR-ABL 陽性であり、慢性骨髄性白血病の急性転化との鑑別が問題となる。


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