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2013/10/16 リチャードとピエール

10 月 3 日に、リチャードのことを書いた。彼の自伝である『ご冗談でしょう ファインマンさん』は愉快なエピソードに満ちた良書であるが、私の京都大学時代の同級生の一人は、この本を「自慢ばかりで嫌味ったらしい」と評していた。

リチャードは、私生活では奔放であったようだが、科学者としては学問や社会に対して常に誠実であり続けた男である。ただし、彼は若手の科学者として原子爆弾の開発にも関わり、すなわち非戦闘員に対する条約違反の無差別攻撃に加担したわけであるが、そのことに対して彼が反省の言葉を発したという話は、私は把握していない。米国においては原爆投下を批判することがタブーであるような雰囲気もあるらしいが、リチャードほどの男が、そのような空気に黙って従うとも考えられない。彼が実際にどのように考えていたのか、真相は闇の中である。

さて、私はリチャードを科学者の鑑として、歴史上で二番目に敬愛しているわけであるが、一番目は、フランスのピエール・キュリーである。ピエールは、いわゆるキュリー夫妻の夫の方であり、つまりマリー・キュリーの配偶者である。

キュリー夫妻の娘のイーヴ・キュリーが書いた『キュリー夫人伝』を読む限りでは、マリー・キュリーは優秀な科学者であったが、ピエールと出会った頃の彼女は、世紀の天才、というほどではないような印象を受ける。学問が男のものであった当時において、女性にしては優秀である、という程度ではなかったか。マリーが科学者として輝いたのは、ピエールと出会った後のことである。ピエールはマリーと共同でノーベル賞を一度だけ受賞したが、その後にマリーは再びノーベル賞を受賞したことなどもあり、世間ではマリーの方が高く評価されている。しかし科学者としての才覚では、マリーはピエールに及ばなかったのではないかと私は思っている。

『キュリー夫人伝』によれば、マリーはもともとフランスに永住するつもりはなく、祖国ポーランドで教師などをして生きていくつもりであったようである。そのような将来像を描く 8 歳下の女性に対し、ピエールは熱烈なアプローチを行い、結婚に至った。そして、後にピエールはソルボンヌの教授に在職中の交通事故で死亡し、マリーが後任の教授となった。

私は、二つの点においてピエールを敬慕している。

一つは、放っておけばポーランドの一教師で終わりかねなかったマリーの才能を拾い、優れた研究者に育て上げたことである。さらにいえば、キュリー夫妻の娘のイレーヌ・キュリーも、マリーの教育の成果であろう、優れた研究者となったが、間接的には、これもピエールの功績といえる。ピエール自身も立派な科学者であったが、若い世代の優秀な科学者を育んだという事実は、一個人のいかなる科学的業績よりも偉大である。

二つめは、マリーに対して「結婚してくれなくても良いから、一緒に暮らして一緒に研究しよう。何なら、私は職を辞してポーランドに移住しても良い。」などという、ストーカーまがいの猛烈なアプローチをして結婚に持ち込んだ点である。私もピエールを見習いたいのだが、なかなか、うまくゆかぬ。

2013/10/28 語句修正

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