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2013/10/03 権威に従わない

名古屋大学医学部医学科の講義では、何度か、公然と「先生の言うことには素直に従うものである」などと発言する教員に出会った。私は、中学高校時代にも京都大学時代にも、一貫して「教員の言うことを素直に信じてはいけない」という教育を受けてきたし、それが科学者として正しい姿であると確信している。

あれは高校一年生の頃であったと思う。地学の授業で、年周視差とかパーセクとかいう天文学用語の話題を扱った時のことであっただろうか。具体的な内容は忘れたが、何か教師の説明に納得できない箇所があった。その時、同級生の豊岳(ほうがく)君という人物も同様の疑問を抱いたようで、授業後に、一緒に質問した。質問はしたものの、やはり教師の説明が理解できない。だが、その教師は確信に満ちた態度で堂々と説明してくれたので、やがて私の中では、よくわからないが教師の言うことが正しいのだろう、という考えが浮かんできた。そして、実際にはよくわかっていないにもかかわらず、なるほど、などと言い、わかったような顔をして引き下がったのである。しかし豊岳君は違った。彼は諦めずに食い下がり、教師の説明の納得できない点を指摘し続けたのである。そしてついに、教師は自らの勘違いを悟り、誤りを認め、説明を訂正したのである。教師が教員室に引き揚げた後、豊岳君はニヤニヤしながら私を小突き「なんで引き下がるんだよ」などと言った。このとき私は、わかったふりをすれば後に恥ずかしい思いをする、ということを豊岳君から教えられたのである。蛇足ではあるが、根気良く説明を試み、また自らの誤りを躊躇なく認めた教師も、見事な教育者であったと思う。

そして時は流れ、京都大学工学部四年生の時のことである。私は量子力学に関心を持っていたが、不確定性原理というものがどうにも納得できなかった。たとえば基底状態にある水素原子は、一個の陽子と一個の電子から成っている。不確定性原理によれば、電子は陽子の周囲のどこか一点に存在するわけではなく、「電子雲」と呼ばれる、陽子周囲に確率分布として存在しているという。意味がよくわからない。これに対し、「隠れた変数理論」とか「beable の理論」とか呼ばれる学説によれば、電子は陽子の周囲のどこか一点に存在している。後者の理論は極少数の科学者にしか支持されていないが、私には魅力的に思われた。そこで、この理論に関する論文を調べ、レビューとしてまとめることを卒業論文のテーマとしたのである。

卒業論文をまとめる過程で、私はたいへん面白いことを学んだ。20 世紀の物理学者には、ニールス・ボーアとか、フォン・ノイマンとか、ヴォルフガング・パウリとか、偉大な人物がたくさんいたが、彼らの多くは、コペンハーゲン派と呼ばれる量子力学の支持者であった。量子力学には、物理哲学としての強力な側面がある。ボーアらの考えによれば、不確定性原理は宇宙の真理であり、電子の位置と運動量を同時かつ正確に測定することは不可能なのである。しかもこれは技術的制約ではなく宇宙の法則なのであるから、将来いかに科学や技術が進歩しようとも、電子の位置と運動量の同時かつ正確な測定は永久に不可能だ、というのである。

これに対して異論を唱えたのがデイヴィッド・ボームである。彼も初めはコペンハーゲン派の考えを持っていたが、やがてその理論に欠陥を見出し、後に「隠れた変数理論」とか「beable の理論」とか呼ばれる主張を展開し、「不確定性原理はあくまで近似の結果であり、宇宙の真理とはいえない」と唱えたのである。彼の理論によれば、将来的に技術が進歩すれば、電子の位置と運動量を同時かつ正確に測定することができるかもしれない、というのである。厳密にはボームより先に同様の理論を展開した物理学者もおり、その代表は、ドブロイ波などで知られるルイ・ドブロイである。しかし彼は、コペンハーゲン派による批判に対して反論することができず、自説を取り下げてしまった。ただし後にボームの理論に勇気付けられて、ドブロイも反量子力学派に戻ったようである。

整理すると、この「隠れた変数」あるいは「beable」を巡る議論は、不確定性原理を宇宙の真理だと主張するコペンハーゲン派と、それは根拠のない決めつけであると批判する beable 派の論争であるといえる。

彼らの主張をよく調べた上での私の結論は、論理としては beable 派が正しい、というものであった。パウリやノイマンといったコペンハーゲン派の重鎮は、不確定性原理が正しいことを証明した、と称する論文を幾度が発表していたが、その論理の不備をことごとく beable 派に指摘されたのである。

あのボーアやパウリが、論理の破綻した論文を世界に向けて発表していたのである。私は、この事実を知って歓喜した。少なくとも、不確定性原理を徹頭徹尾疑い、信じなかったという一点においては、私はパウリよりも優れていたといえる。権威というものは信用ならないということを、私は、ここで確信したのだ。

不確定性原理を巡る立場において、アルベルト・アインシュタインは慎重であった。私が調べた限りでは、彼は理論的、実験的に証明可能な事実にしか言及せず、宇宙の真理などの哲学的側面には踏み込まなかった。彼は beable 派の主張が相対性理論と矛盾することは指摘したが、どちらが正しいかは判断しなかった。物理学者としては彼の姿勢は冷静で中立的であったと言えるが、哲学に言及し、宇宙の真理に思いを馳せたボーアやボームらの方が、私は好きである。

また、かつて米国にリチャード・ファインマンという男がいた。彼は女性関係にだらしなく、人格的には低俗であったが、科学に対する誠実さにおいては高潔な人物であったらしい。彼は、歴史上、私が二番目に敬愛する物理学者である。彼の人生最大の過ちはノーベル物理学賞を受賞したことであり、彼自身、受賞したことを後悔したという。リチャードが書いた物理学の教科書は、数式を多用することを避け、物理学の本質を端的に捉えた名著である。しかし、彼の鋭い洞察も不確定性原理を巡る問題については鈍さをみせ、過去の実験事実から考えて不確定性原理は宇宙の真理であるらしい、というような説明をしてしまった。これは、彼の人生で二番目に大きな過ちであったと思う。


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