これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
現代医学では「がん」といえば cancer, すなわち悪性腫瘍を指し、「癌」といえば carcinoma, すなわち上皮性の悪性腫瘍を指すことが多い。なお、上皮性とは細胞接着性に富んでいることをいい、非上皮性の悪性腫瘍は肉腫, sarcoma と呼ばれる。
この「癌」と「がん」の使い分けは、私には馴染まない。「癌」は、当然、「がん」と発音するのであるし、「がん」を漢字で表現すれば、どう考えても「癌」であり、「雁」ではないだろう。平仮名で書いた場合と漢字で書いた場合に、このように明確に違う意味を持たせる、ということは普通の日本語では行われないように思う。もちろん、同音異義語というものはあるが、それは異なる語がたまたま同じ音を持っているだけであり、「癌」と「がん」のような、もともと同じ語について表記によって意味を分けているものとは異なる。
医学においては普通の日本語とは異なるヘンテコな術語がたくさんあり、それは癌に限ったことではない。だが、このように紛らわしい言葉は、あまりよろしくないように思う。そもそも、平仮名で「がん」と書くと、何だか間抜けな印象を受ける。従って私は、いわゆる「がん」については「悪性腫瘍」と言うことにしている。この場合、英語でいう `cancer' と `malignant tumor' の微妙なニュアンスの違いを訳し分けることができないが、その程度は大した問題ではないと考える。
癌を表現する術語としては「悪性新生物」という言葉もある。「新生物」と「腫瘍」は同義と考えてよい。私は初めて「新生物」という言葉を聴いた時、「新しい生物」という意味に解釈し、なるほど、癌はもはや宿主とは異なる別の生物だと考えられているのか、と理解した。ところが後に、新生物は英語で `neoplasm' であると知り、驚いた。「新生物」とは「新・生物」ではなく「新生・物」なのである。「新しい生物」ではなく「新しくできた物」ぐらいの意味なのだ
この記事を書くにあたって、ハッと気がついたことがある。肺にできる悪性腫瘍に、悪性中皮腫というものがある。アスベスト曝露によって惹起されると考えられている、アレのことである。悪性中皮腫は、アスベスト曝露後の潜伏期間が長いが、ひとたび発症すると極めて予後不良な悪性腫瘍である。これは肺の胸膜を構成する中皮細胞が腫瘍化したものである。中皮細胞は形態的には上皮様であるが、体の内部と外部を隔てるものではないために、定義上は「上皮」とみなされず、「中皮」と呼ばれる。細かいことをいえば、女性の腹膜に関しては中皮が体の内部と外部を隔てている部分があるといえなくもないが、ふつうは、そのようには考えない。なお、血管の管腔側を構成する細胞も、形態的には上皮様であるが「内皮」と呼ばれる。
さて悪性中皮腫は、組織学的には上皮型と肉腫型、および二相型に分類される。上皮型は腫瘍細胞間に強い接着性がみられるものであり、肉腫型は接着性を有さない。二相型は、上皮型の腫瘍細胞と肉腫型の細胞とが混在しているものをいう。中皮細胞は元来、上皮様の細胞間接着を有するのだから、それが腫瘍化したからといって、ただちに肉腫型の組織型を示すはずがない。そこで二つの可能性が考えられる。
一つは、悪性中皮腫は初期においては全て上皮型であるが、一部の細胞において細胞間接着性が失われれば二相型となり、さらに肉腫様の細胞が増殖能において上皮様の細胞を上まわれば肉腫型となる、という可能性である。もう一つは、アスベスト曝露後に、ゲノムが損傷されて腫瘍化する過程で細胞間接着に関係する遺伝子が失われ、はじめから肉腫型の腫瘍が生じる、という可能性である。
理屈としては、一応、両方の可能性があるが、いずれにしても不思議である。第一の可能性について考えれば、普通の癌であれば、それが成長する過程において細胞間接着が減弱して浸潤能や転移能を獲得することはあっても、原発巣において肉腫様の組織型を示すことは稀である。どうして、悪性中皮腫の場合には、肉腫様に変化できるのだろうか。第二の可能性については、二相型を説明することが困難であるし、同様に他の癌との比較で考えれば、どうして悪性中皮腫の場合にのみ肉腫型で発現できるのか、よくわからない。
これは中皮という組織の特殊性なのだろうか。中皮は単層の立方ないし扁平な中皮細胞と、比較的厚い繊維性の結合組織から成る。このような、生理的に多くの結合組織に囲まれている上皮性細胞は他には思いあたらない。表皮でも消化管でも、基底膜に接する細胞は円柱状であるから細胞間の接着面積が大きいが、中皮の場合には細胞間よりもむしろ結合組織との接着面積が大きい。こうした環境の特殊性が、肉腫型という風変りな上皮性細胞由来腫瘍を生んでいるのかもしれぬ。
あるいは、これはアスベストの産物かもしれない。長期にわたりアスベストから癌化シグナルのようなものを受け続けることで、ふつうは容易には失われない細胞間接着性を喪失し、肉腫型となるのだろうか。
悪性中皮腫は、このように不可思議な腫瘍なのであるが、その不思議さに、私は、つい昨日まで気づかなかった。