これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2014/06/15 Primary Care

近年、若い医師、特に初期臨床研修医の間で、プライマリケアなるものが流行しているようである。多くの病院では、初期臨床研修プログラムの紹介の中で「プライマリケアを重視し」というようなことを述べているし、研修医の体験談には「初期臨床研修ではプライマリケアの修得が重要である」というような意見が多い。しかしながら、こうした研修医をはじめとして、多くの医師や学生は「プライマリケア」という言葉の意味をよく理解せずに使っているようである。意味をよく理解しないままに「プライマリケア」という言葉を濫用しているという事実は、こうした医師や学生が、物事を雰囲気だけで判断し、しっかりと考えずに行動していることを示唆している。

プライマリケアとは、どういう意味か。まず、医学書院『医学大辞典』第 2 版をみると、プライマリ・ケアとは「患者の抱える問題のほとんどに対して総合的な視点から対処でき, 信頼感が醸成される人間関係を築くことで患者が受診しやすい状況を作り出し,かつ家族や地域という枠組みのなかで責任ある診療を行う医師によって提供されるヘルス・ケア・サービスのこと。」とある。次に、日本プライマリ・ケア連合学会による医療関係者向けの「プライマリ・ケアとは?」という文書をみると「プライマリ・ケアの定義や意味合いは幅広く、用いられる場面や状況によって若干ニュアンスが異なる場合があります。簡潔にすべてを包含できる解釈は難しいのですが、その一つに1996 年の米国国立科学アカデミー(National Academy of Sciences, NAS) が定義したものがあります。」とある。そこで NAS が 1996 年に出した報告書であるPrimary Care: America's Health in a New Eraをみると、primary care は次のように定義されている。

Primary care is the provision of integrated, accessible health care services by clinicianswho are accountable for addressing a large majority of personal health care needs,developing a sustained partnership with patients, and practicing in the context of family and community.

これを私が訳すと、次のようになる。

プライマリ・ケアとは、臨床医による総合的で受診しやすいヘルス・ケア・サービスの提供であって、その臨床医が、患者が必要とする健康上の諸問題の大半への対処、患者との持続的な信頼関係の醸成、および家庭や地域に根差した診療について、責任を負うものをいう。

日本プライマリ・ケア連合学会がいうように、プライマリ・ケアという語の定義は必ずしも一定していないが、基本的にはこの NAS の定義が広く用いられているようであるから、以下、この定義に基づいて議論する。

まず定義からただちにいえることとして、研修医がいくら救急外来で診療経験を積んでも、プライマリ・ケアを修得することは不可能だということがわかる。救急外来では、患者が強く訴える症状およびその背景にある疾患の治療が中心となるのであって、日頃の生活における健康上の不安などには対応しない。従って「患者が必要とする健康上の諸問題の大半への対処」は行われない。また、長期にわたり救急外来に通院する患者はいないから、「持続的な信頼関係」も醸成されない。もちろん、「家庭や地域に根差した診療」を行うわけではない。従って、救急外来では、全く、プライマリ・ケアは行われないのである。それにもかかわらず、救急外来でプライマリケアの経験を積む、などと言っている医師や学生があまりに多いのは、いったい、どういうことなのか。

では、プライマリ・ケアは、どこで行われているのか。私はよく知らないのだが、たぶん、都市部では、プライマリ・ケアを行っている医師は極めて稀であると思う。もし日本でプライマリ・ケアを行っている医師がいるとすれば、たぶん、農村や過疎地の医院に勤める医師であろう。村でただ一人の医師、となれば、否応なしに、プライマリ・ケアを行わなければならなくなる。ただし、そうした地域では、独特のしがらみによって、医師と患者が「持続的な信頼関係」を築けない例も少なくないというから、実際にプライマリ・ケアを行っている医師がどれだけいるかは、よくわからない。

海外の例は知らないが、少なくとも日本ではプライマリ・ケアはほとんど行われていないにもかかわらず、あたかもプライマリ・ケアが重要であるかのように言われているのは、なぜだろうか。先のNAS の報告書の冒頭では、primary care の定義に続いて、次のように書かれている。

To bring this vision of the future of primary care closer to reality,the Institute of Medicine (IOM) appointed an expert committee to carry out a two-year studyintended to address the opportunities for and challenges of reorienting health care in the United States.

このようなプライマリ・ケアの将来の見通しをより実現に近づけるために、米国医学研究所は専門委員会を設けて、二年間かけて合衆国におけるヘルス・ケアの再構築の展望について検討を行った。

つまり、崩壊しつつある米国の医療制度を再構築するにあたり、目指すべき理想像を「primary care」と呼んでいるのであり、その具体的内容が先に述べた primary care の定義とされているものなのである。そう考えると、実は primary care の定義は「地域における理想的な医療体制のこと」などとするのが正しく、世間でプライマリ・ケアの定義とされているものは、実は「定義」ではなく「目標」と考えるべきである。

さて、以上の議論から、次のようなことがみえてくる。プライマリ・ケアは、市民がまず最初に受診する診療所の医師が提供するべき医療サービスの理想像である。これは高度に専門的な技能であり、安易に「全ての医師はプライマリ・ケアを修得するべきである」などと言えるものではない。

2014/06/19 語句修正

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