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甲状腺機能低下症において、バソプレシンの分泌は亢進するのかどうか、という話である。私が学生時代に調べた教科書には「亢進する」と断言されていたのだが、J. L. Jameson et al., `Endocrinology Adult and Pediatric', 7th Ed. では、そのあたりは曖昧にされている。
バソプレシンの分泌が亢進する、と述べた報告の中で有名なものは W. R. Skowsky らの報告 (Am. J. Med., 64, 613-621 (1978).) のようである。ところが、この論文には、不可解な点がある。導入部において
This condition ... may present with measureable increases in total body water and exchangeable body sodium [7-9] and, therefore,suggests a dilutional causation [10-12].
と述べられているが、これは論理が破綻しているのである。まず参考文献 [9] (Postgrad. Med. J, 45, 659-663 (1969).) では、確かに甲状腺機能低下症患者では健常者に比して水とナトリウムが貯留している旨が述べられている。しかし、この報告では、患者と健常者の間でナトリウム濃度に有意な差はない、とされている。それならば、この水とナトリウムの貯留はバソプレシンなどが介在するものより、まずナトリウムの貯留し、その結果として水も貯留した、とみる方が自然である。そう考えると、Skowsky の論法は、おかしい。なお、Skowsky が挙げた参考文献 [7-8][10-12] については、北陸医大 (仮) には所蔵されていなかったり、閉架書庫にあったりで、すぐには入手できないため、確認していない。
一方、M. Sahun らの報告 (J. Endocrinol., 168, 435-445 (2001).) では、甲状腺機能低下症の患者では血清バソプレシン濃度はむしろ低下する、としている。
なぜ、このような食い違いが生じるのか。Skowsky や Sahun の論文をみると、これらはいずれも、症例対照研究であり、症例の選択バイアスが強く加わっているものと考えられる。どういうことかというと、Skowsky や Sahun らは、なるべく中立的に研究を進めようとしたであろうし、そのために「典型的な」甲状腺機能低下症の患者を集めたであろう。しかし、何をもって「典型的」とするかが問題なのである。特に、バソプレシンの分泌のように非常に複雑な機序で調節されている事象については、症例対照研究で信頼できる結果を得ることは難しい。たとえば Skowsky の報告においては、血清バソプレシン濃度の個人差が非常に大きい。これは、実際にそのような個人差の大きい集団で調査を行ったのか、それとも測定系の問題なのかはわからないが、いずれにせよ、統計としての信頼性は低いと言わざるを得ない。
さて、C. H. Yeum らは、動物実験により、甲状腺機能低下症ではバソプレシン非依存的にアクアポリンの発現を促すらしい、と報告した(Pharmacol. Res., 46, 85-88 (2002).)。私が調べた限りでは、これが最も信頼できる報告のように思われる。たぶん、このアクアポリン発現亢進に加えて、ヒトならではの生活様式などに起因する複雑な修飾が加わった結果が、Skowsky や Sahun らの報告でみられたような混乱なのであろう。