これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
方言の話である。年配の患者の中には、かなり強い方言を話す人もいるため、何を言っているのかなかなか理解できず苦労することもないではないが、今日の話題は、そういう方言ではなく、医療用語の方言、俗語についてである。
北陸医大 (仮) に来て初めて聞いた俗語の一つに「キョウシャ」というものがある。たぶん、漢字では「胸写」なのだと思うが、要するに胸部 X 線画像のことである。名古屋大学時代には一度も聞いたことのない表現であるが、長崎出身の某医師によると、どうやら西日本方言であるらしい。私は、こうした俗語が嫌いである。しかし、イチイチ「胸部 X 線画像」とか「胸部 X 線写真」とか口で言うのは面倒だ、というのは事実であり、短縮して「胸写」と表現したくなる気持ちは、理解できなくもない。
問題は、学生や若い研修医が「胸写」という語を使う理由である。これが方言であり正式な略称ではないことを認識した上で、公の場での使用は避けているならば、問題は少ない。しかし、中には、これが方言であることを認識していなかったり、あるいは何か高尚な専門用語と勘違いしている者も、いるのではないか。あるいは、俗語を「使いこなす」ことをカッコイイと思っている者も、いるのではないか。もし、そうであるならば、実に浅薄なことである。
「胸写」よりも大きな問題は、血圧の「実測」である。臨床的には、血圧を測定する方法は 2 つに大別される。一つは、マンシェットを腕に巻いて締めつけ、コロトコフ音を聴取するなどの方法を用いる、いわゆる非侵襲的測定法である。もう一つは、血管内にカテーテルを刺し込んで、カテーテル位置の圧力を測定する、いわゆる侵襲的測定法である。詳しい歴史的経緯は知らないが、北陸医大では、非侵襲的測定法のことを「実測」と呼んでいるらしい。もちろん私は、名古屋大学時代に、そのような言葉を聞いたことはない。
生理学を学んだ者であれば、この「実測」という慣用表現について、「それは、おかしい」と即座に指摘するであろう。生理学や物理学の観点からいえば、血圧を本当に実測しているのは侵襲的測定法である。非侵襲的測定法は、いくつかの近似や仮定の元に、血圧を間接的に測定、あるいは推定しているに過ぎない。しかし、医学を知らない素人の中には、「血圧というのは、マンシェットを腕に巻いて測るものだ」などと思い込んでいる者も少なくないだろう。たぶん、そうした勘違いに基づいて、非侵襲的測定法を「実測」などと呼ぶようになってしまったのだと思われる。遺憾なことであるが、この慣習は、北陸医大の医療従事者の多くが生理学を識らないという事実を示唆している。
「胸写」はまだしも、「実測」は無知丸出しで恥ずかしいので、やめた方が良い。