これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2017/10/13 努力について

私は、麻布中学・高等学校を卒業し、京都大学に進み、大学院を中退して名古屋大学医学部に編入した。まぁ、学校名だけをみれば、いずれも名門である。大学院中退・医学転向という時点で、学問の世界でいえばドロップアウト組なのだが、それでも世間の平均からすれば、いわゆるエリートコースである。なので、社交辞令として、優秀なのですね、とか、努力したのですね、などと言われることは多い。

社交辞令に対してどうこう言うのも無粋ではあるが、この「努力」という表現が、非常に気になる。まず根本的な問題として、私は何も努力していない。世の中の多くの人は学問が嫌いであるらしいから、勉強というのは「がんばって、やる」ものだと思っている。だから「たくさん勉強しました」という人に対して「努力したのですね」という言葉が、自然に出てくる。

しかし私は、何も、がんばって、歯をくいしばって勉強してきたわけではない。面白かったから、やりたかったから、やっただけである。実際、古文は好きになれなかったから、あまり勉強せず、試験の成績は悲惨なものであった。好きでないことは、やらなかったのである。これを「努力」などと称するのは誤りであろう。このあたりの事情は、プロのスポーツ選手も同様であろうと思う。

そして何より、周囲に恵まれた幸運が大きい。私は、たまたま富裕な両親の下に生まれたから、大学院を中退してからも、全面的に学費と生活費を親に依存して医学を修めることができた。借金もアルバイトもせずに、教科書類をふんだんに買い揃えることができた。どう考えても、これは私自身の能力や努力によるものではない。

努力ではないのである。サッカーというスポーツは、そもそも面白いから、だから子供達が熱中し、やがてプロになり、本田や香川になるのである。同様に科学というものは、そもそも面白いから、子供も大人も熱中し、そして技術が進歩するのである。親や教師は、子供にがんばって勉強することを教えるのではなく、学問の面白さを伝えなければならない。

名古屋大学時代にせよ、北陸医大 (仮) に来てからにせよ、「私は、医学が好きである」と宣言する人に、ほとんど出会わない。これは、ゆゆしきことである。


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