これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
先日書いた臍帯のいわゆる扁平上皮化生の記事において、英国から Benirschke K et al., Pathology of the Human Placenta, 6th ed. (Springer; 2012). を取り寄せた旨を書いた。先日、これが無事に私の手元に届いたので内容を確認してみると、いわゆる扁平上皮化生については、2000 年の第 4 版から記載内容が更新されていないようである。
この書物は、第 4 版では写真が全て白黒であった。HE 染色の組織像も白黒印刷なのだから、たいへん、みにくい。昔は、教科書も論文も、それが普通であったらしい。第 6 版では、一部にカラー写真が追加されたため、少しはみやすくなった。それでも、大部分は古い白黒写真であり、大幅な差し替えは行われていないようである。従って、アトラスのように使うには、この教科書は不適である。あくまで学術的考察のための資料とみるべきであろう。なお、この教科書は、私が購入した際には 25,000 円程度であった。医学の成書としては安い部類であり、私のような若輩の医師であっても躊躇なく購入できる程度である。
さて、私の知る限り、胎盤についてキチンと学術的に論じている日本語の成書は存在しない。基本的な形態的特徴などは組織学の教科書などに記載されているが、そこでは「何か不可思議なもの」とでもいわんばかりに、ただ観察事実だけが述べられている。たとえば、なぜ栄養膜細胞 (trophoblast) は cytotrophoblast と syncytiotrophoblast の二層から成っているのか、とか、syncytial knot とは何なのか、とかいう点について、大抵の病理医は考えたこともないであろう。そういう基本的な疑問について、可能な限りの解説を試みているのが、上述の Benirschke の教科書である。
たとえば、胎盤病理学で時に混乱を招く用語の一つに syncytial sprout と syncytial knot がある。歴史的には両者が同一視されていた時期もあるが、現代では、これらは全く別個の構造と考えられている。
Benirschke によると、syncytial sprout は、trophoblast の盛んな増殖の結果として生じる構造物である。Trophoblast が増殖し、絨毛表面から、細い索状にニョキニョキと絨毛間腔へと伸びていくのである。むろん、絨毛間腔は母体血液で満たされている。Syncytial sprout は、やがて破断し母体血流に乗る。Trophoblast は胎児由来の細胞であるから、母体血に胎児細胞が混ざることになる。これが、母親の末梢血を調べることで胎児の染色体異常を調べることができる、という例の検査の背景である。
一方、syncytial knot は、trophoblast が集まったものであり、基本的には厚い板状の構造を成し、syncytial sprout のような索状構造は形成しない。個々の細胞核は濃縮し、密に凝集している。なぜ、このような構造物が形成されるのかは難しい議論があるので、別の機会に紹介しよう。一応、慢性虚血などに対する反応性変化として syncytial knot が増加することがある、と考えられている。
病理診断の観点からは、syncytial knot と、いわゆる false knot とを区別することが重要である。すなわち、組織標本において、trophoblast の層が接面方向に切断されている部分は、単なる trophoblast の層が、あたかも syncytial knot のようにみえることがある。しかし、よく観察すると、核は濃縮しておらず、核小体もみえるので、鑑別することは可能である、と教科書には記載されている。が、むろん、これは容易なことではなく、同じ標本、同じ画像をみても、病理医によって判断が分かれることは稀ではないと思われる。