注意

この旅行記には、有名な観光地に行ってキレイだったとか感動したとか、そういうことは、書かない。 どうせ、そんなことは Wikipedia やら Google やらで調べれば、いやというほどたくさんの記録が既にあるのだから、そこに私が何かを追加する必要はないと考えるからである。 北杜夫は『どくとるマンボウ航海記』で「書いても書かなくてもどちらでも良いが、書かない方がいくぶんマシなことだけを書く」というような宣言をしていたように思うが、 私も、彼に倣うことにする。

また、写真も、基本的には載せないことにする。私の写真の腕は劣悪なので、私が言いたいことを画像で表現するよりは、 文章にした方が、いくらか正確に表現できると思われるからである。

記事は、下の方が古く、上の方が新しい。


2016/03/12 帰国

マルセイユからイスタンブールを経て帰国する過程については、特に書くようなこともない。 強いてあげれば、マルセイユを発つ飛行機が「技術的トラブル」のために 2 時間ほど遅れ、イスタンブールでの乗り継ぎに間に合わないのではないかとヒヤヒヤしたぐらいである。

旅行全体を通して、あまり観光名所も訪れず、秘境を探検したわけでもなく、都市部をブラブラしただけであって、費やした時間と金に見合う収穫があったかどうかは、私にもわからぬ。 しかし、観光旅行というのは、もともと、そういうものであろう。 世の中には、「たくさん海外旅行して自分磨きをする」などとよくわからないことを言う人もいるようだが、観光というのはあくまで遊びであって、それで何かを磨いたり獲得したりするものでもあるまい。

この旅行記も、正直なところ、後半は力尽きて、だいぶ手抜きになってしまった。 振り返ってみれば、旅程のうちイスタンブールからフィンランド、ストックホルム、コペンハーゲンあたりは良かったが、どうもハンブルク以降は余計であったような気がする。 もともと鉄道でブラブラすることが目的の旅行であったが、途中からは、半ば義務感で動いていたようにも思われる。

ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、フランスは、少なくとも都市部についていえば、キタナイ、というのが私の感想である。 歴史の中では輝いている都市も、現代においては、くたびれてみえる。 もし将来、ヨーロッパに移住する機会があるならば、私はフィンランドに住みたい。


2016/03/10 マルセイユ散策

この記事は、帰国後の 3 月 12 日、19 時 46 分関西空港発、20 時 35 分新大阪着の特急「はるか」の車中で書いている。

私がマルセイユを訪れたのは、単にフランスが誇る高速列車 TGV に、また乗りたいと思ったからに過ぎない。パリを出る TGV を降りたら、そこがマルセイユであった、というだけのことである。

ホテルにチェックインして、少し休憩してから、私は Saint Victor 教会に向かった。 これはもともとは 5 世紀頃に建てられたものであるらしい。 一応、カトリックの教会ということになるのだろうが、華美な装飾はなく、たいへん落ち着く教会である。 訪れる観光客はそれほど多くないようであるが、マルセイユの有名スポットの一つではあるらしく、街中に「Saint Victor はコチラ」という標識がたくさんあるので、迷うことはない。

マルセイユの教会として最も有名なのは、たぶん、Notre Dam de la Garde であろう。 これは、やや高い丘の上に建てられた教会である。 屋根の上には聖母子像があり、航海の安全を見守っているわけである。 Notre Dam de la Garde から眺める夕陽は、美しい。

マルセイユの市街地からは、Notre Dam de la Garde 行きの路線バスも走っているので、足の悪い人や、体力の著しく低下した高齢者などは、これを使うと良いだろう。 しかし、可能であるならば、ここは徒歩で向かう方が、この教会の美しさとありがたさを実感することができるであろう。 街中には Notre Dam de la Garde へと案内する標識がたくさんあるが、要するに丘の頂を目指せば良いのであるから、特に迷うこともない。 ただし、経路の選択によっては、スラム街、あるいはそれに準ずるような地区を抜けることになるので、安全への配慮を要する立場にある人は、事前に十分な検討をするべきである。

前回、マルセイユを訪れた時には、この二つの教会の他にも、いくらかマルセイユを歩き回ったように思うのだが、今回はあまり時間がないので、この二か所を訪れただけである。 マルセイユは、路上の煙草の吸殻、落書き共に、パリに匹敵するように思われる。 乞食も少なくないが、前回訪問時は大通りにズラリと並んでいたのに対し、今回は数えるほどしかいなかった。 これは社会情勢の変化なのかもしれないが、観光客が比較的少ない時期であるためかもしれぬ。


2016/03/10 マルセイユへ

この記事も、マルセイユに向かい、田園地帯を走る TGV の中で書いている。 パリ発の Thalys では X 線による荷物検査が行われていたことから考えて、TGV も同様の検査体制であろう、と予想していたのだが、一切、検査は行われなかった。 パリ中心部では、ノートルダム大聖堂に入る際や、メトロの駅に入る際にも大きなカバンは開けて中を確認されたのだが、TGV に乗る際には、それもナシである。 当局の警備体制の基準が、よくわからない。

マルセイユも、7 年前に訪れた街である。 前回は、丘の上にある、名前は忘れたが有名であるらしい教会と、7 世紀頃に建てられた古い修道院などを見学した。今回、どうするかは、まだ決めていない。 今晩はマルセイユに泊まり、明日の夕方にマルセイユを発つ飛行機で、イスタンブールを経由して日本に帰る。


2016/03/09 ソー

この記事は、マルセイユに向かう列車の中で書いている。 3 月 10 日 10 時 37 分パリ Lyon 駅発、13 時 59 分マルセイユ着の高速列車、TGV である。 この車両の座席は、Thalys に勝るとも劣らぬ、実に余裕のある造りになっている。 なお、インターネット接続サービスがないことを含め、車内サービス全般でいえば Thalys の方が快適である。 フランス人の意地なのか知らぬが、英語の車内放送はない。 なお、携帯電話で通話するな、という趣旨の車内表示はあるものの、あまり遵守されていないようである。

さて、話をパリ近郊に戻そう。 3 月 9 日は、当初より、パリの南方にあるソー Sceaux の街に行く予定であった。

ソーは、ピエール・キュリー、つまり、いわゆるキュリー夫妻の夫の方の出身地である。 言うまでもないが、妻のマリーの方はポーランド出身である。 キュリー夫妻は、死後、このソーの街の共同墓地に埋葬された。 1995 年 4 月に、夫妻は、フランスの英雄を祀るパンテオンに改葬されたが、墓標はソーの街に残されている。 私は、7 年前に一度、ピエールの墓参りを行った。 今回のソー行きは、この 7 年分の近況報告が目的であ。 なお、パンテオン行きを夫妻が望んだかどうかは疑問だが、こうした科学者を国家的英雄扱いするあたり、科学というものに対する理解の程度が、東アジアのどこぞの国とは大きく異なる。

パリからソーへは、RER B2 線で行ける。2.75 ユーロである。 メトロで Chatelet まで行き、そこから RER に乗り換えた。 私は Chatelet に着いたタイミングが悪く、プラットフォームで 20 分ほど待つことになった。 RER の治安がよろしくない、という噂は、あながちデタラメではないようで、手荷物や貴重品に注意せよ、とのアナウンスが何回も繰り返されていた。 このアナウンスは、フランス語、日本語、英語、何語かわからない言葉、中国語の順に行われていた。 日本語の順位が高いのは、たぶん、油断した日本人が被害に遭う例が多いのだろう。

ソーに着いたのは、パリを出てから、だいたい 20 分程度が過ぎた頃である。 あいにく、小雨が降ってきた。 私は、ソーの街の地図は持っていなかったし、墓地への行き方も覚えていなかったので、とりあえず Sceaux centre という標識のある方へ向かった。 この街は、パリに比べると路上の吸殻も少ないし、落書きも少ないのだが、ないわけではない。 これをみると、近年の日本の公衆道徳は、ずいぶんと向上したものであると実感される。 ソーの駅の近くには、桜の一種とみられる並木があった。花は、少しだけ咲いていた。 私は植物学に疎いとので、これがいかなる品種なのかは、わからなかった。

当初は、ソーの街を歩いていれば墓地の場所も思い出すだろう、などと思っていたのだが、どうも、記憶の蘇る気配はない。 まぁ、そのうちピエールが導いてくれるだろう、などと思ってブラブラしているうちに、バス停には簡略な地図が備え付けられていることを思い出した。 地図をよくみると、十字架のマークがたくさん並べられている区画がある。 これが共同墓地であろう。 私は、難なく墓地にたどり着くことができた。

ところで、ソーの街には大きな公園があり、それなりに有名な観光地のようである。 ウェブ上には、日本語での紹介記事も少なくない。 私が前回訪れたのは夏であり、地元民や観光客で賑わっていた。 中には、公園の木立の陰で、何やらミダラな行為に耽っている男女もいたが、さすがに、あれは違法であろう。

今回は、まだ寒い三月であることに加え、昼頃には止んだとはいえ朝から雨が降っていたことから、人はかなり少なかった。ランニングする人は少数いるものの、ノンビリ散歩する者は、数えるほどしかいない。 しかし、雨上がりのソーの公園というのも、なかなかに風流なものであるし、人が少ないのも、それはそれで趣がある。 なお、この公園の「トイレはこちら」の案内標識には、「WC」だとか「Toilettes」などという直接的な表現ではなく「Orangerie」と書かれている。 トイレの現場に着いても、トイレマークはなく、単に「Sanitaires」とのみ書かれている。 たいへん、上品である。

さて、ソーの公園を満喫した私は、パリに帰ることにした。 ソーの周辺には、いくつかの RER 駅がある。 地図をみると、どうやら共同墓地から最も近いのは、Robbinson 駅、つまり RER B2 線の終着駅のようである。 私は、試しに、この Robbinson 駅から帰ることにした。 着いてみると、Robbinson 駅は Sceaux 駅に比べるとやや大きく、駅前にはバスターミナルや、複数のレストランがある。 もし、ソーの街や公園には興味がなく、単にキュリーさんの墓参りだけしたい人がいるならば、この駅で降りるのが便利だろう。

パリに戻ってからは、1 時間で 14 ユーロの、セーヌ川クルージングツアーに参加した。 私は、あまり、こういうツアーには参加しない流儀なのだが、この時ばかりは、ふと気が向いたのである。 普段は、Pont Neuf から下流に行ってエッフェル塔を眺め、今度は上流に行ってノートルダム大聖堂を眺めるらしいのだが、どうやらセーヌが増水していることとセキュリティ上の理由により、今日は上流には行かない、とのことであった。 セキュリティ上、というのが具体的にどういうことなのかは、わからぬ。安全上、ぐらいの意味なのかもしれぬ。 代わりに、普段は行かない下流の方に少しばかり足を伸ばすという。

セーヌを行く船の上は少しばかり寒かったが、景色は悪くない。意外と、揺れもしない。 有名な橋やらルーブルやら自由の女神やらを眺めた。 フランス語と英語のガイド付きであり、本人は、フランス訛りの英語でゴメンね、などと言っていたが、たいへん、聞き取りやすかった。


2016/03/08 パリへ

この記事は、3 月 9 日の晩にパリのホテルで書いている。

3 月 9 日 10 時 33 分アントウェルペン発、パリ行の Thalys 9328 号は、1st class も満席に近い乗車率であった。アムステルダムから乗ってきたとみられるビジネスマン風の乗客が多い。 この乗客の大半はブリュッセルで下車した。ブリュッセルで新たに乗車した客は、比較的、少ない。 どうやら、ベネルクス間はビジネスマンの往来が盛んなようである。 アムステルダムからアントウェルペンに向かった時のようなトラブルはなく、予定通り、12 時 35 分にパリに到着した。

降りるときになってから気がついたのだが、車内には、「携帯電話を使う際は乗車口近くの通路で」という意味の注意書きがなされていた。 フィンランド国鉄や日本と同様のスタイルである。

Thalys が到着したのは、Gare du Nord、つまりパリ北駅である。 プラットフォームには、空港でみかけるのと同様の、荷物検査用の X 線撮影装置が臨時に設置されていた。 どうやら、パリを発つ Thalys では乗客の荷物検査を実施しているらしい。 詳しい事情はわからないが、パリでだけ実施してもアントウェルペンやアムステルダムで実施しないのでは、犯罪防止という観点では効果が乏しいのではないかと思われる。 たぶん、パリに向かう列車で事件が起こるのはともかく、パリを出発した列車で事件が起こっては困る、ということなのだろう。

私のホテルは、パリの Lyon 駅の近くである。 路線図をみると、北駅から Lyon 駅には RER の D 線で行けるようである。 後で知ったのだが、RER というのはメトロとは別のサービスで、パリとパリ近郊とを結ぶ近郊列車であるらしい。 また、少なくともウェブ上では、RER はメトロより治安が悪い、と書いている日本語のサイトが少なくないようである。 しかし私は、そういう情報を知らなかったので、何も考えずに RER に乗った。 なお、このように「治安が悪い」と言われる場所であっても、十中八九は、何も起こらない。 しかし、旅行先での犯罪などのトラブルは、万に一つか、多くても千に一つ程度でなければならず、百に一つでも多すぎる。 従って、十中八九、などというのは安全性としては低すぎるし、「危険なことは何もなかったよ」などという個人の体験談にはほとんど情報価値がない。

Lyon 駅はセーヌ川の近くにあるのだが、私は道路に沿ってホテルに向かったので、この時点ではセーヌはみえなかった。 なお、この時は、特に道には迷わなかった。 途中で道の分岐を一つ、見落としたようだが、結果的に、正しい道を歩いていたので問題ない。

パリの街中では、基本的に英語での案内表示は期待できない。 路上の吸殻や街中の落書きは非常に多く、北イタリアの方がマシである。 この国は、自由と人権の問題にしては世界の最先端を走っており、それ故に、これまで人類が経験したことのない種類の社会問題に直面している。 パリの社会の乱れは、そうした現状と無関係ではあるまい。

異様なのは、乞食の数が少ないことである。 街を歩けば、確かに、乞食は存在する。 しかし人の数や街の規模を考えると、ストックホルムやコペンハーゲンに比べて、少なすぎるのである。 フランスやパリの社会保障が、それほど優れているとは思われない。 街を巡回している警察官の多さから考えると、たぶん、乞食は市の中心部からは排除され、我々の目に映らないところにいるのだと思われる。

さて、ホテルで一息ついた私は、パリ中心部に繰り出すことにした。 特に行きたい所もなかったので、とりあえずノートルダム大聖堂を訪ねることにした。 7 年前にパリに来た時にはノートルダムやエッフェル塔、ルーブル美術館や凱旋門などといった観光名所は全くみなかったのだが、今回は、大聖堂がどんなにつまらない場所なのか確認してやろう、という気になったのである。

ホテルから Lyon 駅に向かう途中に、メトロの Bercy という駅があったので、ここから地下鉄に乗ることにした。 パリでは、自動券売機で購入した切符を自動改札に通すことで入場する仕組みになっている。 市内であれば 1.8 ユーロ均一で、前述の RER やメトロなどは特に区別なく乗り継ぐことができる。 Bercy 駅で切符を買った後、隣の紳士から excuse moi と声をかけられたが、フランス語がわからぬ旨を述べて、話は終わった。 何かに困っているようにはみえなかったから、たぶん、私が持っていた、イスタンブールで入手したトートバッグをみて声をかけただけなのだろう。

メトロ 14 番線に乗って二駅、Chatelet で降りた。 地上への出口はたくさんあるようだが、地図をみると、どうやら Pont Neuf 方面に出るのが便利そうである。 Pont というのは、ラテン語でいう Pons、つまり橋の意味であろう。 医学関係者以外のために説明しておくと、Pons というのは医学的には脳幹の一部の「橋」を意味する言葉なので、医者なら誰でも知っているのである。 Neuf というのは、英語でいう new の意味であったように思う。

昼食がまだだったので、地下鉄構内で、ツナサンドを買った。 サンドといっても、フランス流に、バゲットで挟んだものである。 食べるのに適した場所がみあたらなかったので、Pons Neuf の上でセーヌを眺めながら食べようかと思い、そのまま地上を目指した。 その過程で、日本語を話す大学生ぐらいの男性三人組に遭遇した。 まぁ、パリなら、日本人ぐらいいてもおかしくはない。

セーヌは、日本人が抱きがちな幻想に比べて、それほど美しくない、などと言われる。 しかも、今はどうやらセーヌの水量は増加し、濁流となっている。 が、橋の上から下流方向を眺める景色は、十分に美しかった。 少しばかり風は冷たかったが、バルト海に比べれば、十分に暖かい。 ところで、この Pont Neuf には、欄干が金網になっている部分がある。 ここに、多数の南京錠が取り付けられていた。 どうも、恋人達が、その永遠の愛を願って取り付けたものであるらしい。 同様のものは日本を含め、世界中でみられるし、チューリッヒにも、あった。 これが、法的にどういう扱いになっているのかは、知らぬ。

Pont Neuf からノートルダム大聖堂までは、セーヌの中州を少しばかり歩いた。 案の定、大聖堂の周囲には観光客が集っている。 どうやら、入場料は徴収していないらしい。 アントウェルペンのノートルダムよりも良識があるとみえる。 大きな荷物の持ち込み禁止などはヴェネツィアのサンマルコ聖堂と同じであるが、写真撮影は禁止されていなかった。理由は、わからない。

この大聖堂の中では、フランス語や英語だけでなく、日本語の注意書きもあった。 しかし、低質な機械翻訳を用いたものとみえて、日本語として成立していないものもあった。 英語で `Access reserved for prayer' とあるのは、正しく訳すと「礼拝以外の方はご遠慮ください」という意味である。しかし、これが「アクセスの祈りのために予約」と書かれていたのである。 こんな表示なら、つけない方がマシというものだ。

この聖堂で気になったのは、ステンドグラスや絵画、彫像に、武装した人の姿が目立ったことである。 わかりやすいところでいえば、聖人としてジャンヌ・ダルクの像も安置されていた。 これが、カトリックの理解できないところである。 ジャンヌが、カトリックからいえば異端であるイングランドとの戦争で活躍した、フランスの英雄であることは間違いあるまい。 しかし、武器を持って敵と戦った者が、なぜ、聖人として祀られるのか。 聖書のどこに、そういう教えが記されているのか。 イングランド兵が異端で蛮人であるならば、それを裁くのは神のなさることであり、人が行うべきことではない。 たぶん、後から「ジャンヌは聖人であった」ということにして辻褄を合わせたのであろう。 しかし、政治は必ずしも宗教から独立している必要はないが、宗教が政治の都合に左右されてはならぬ。 このあたりの問題について、ルターやカルヴァンらがどのように考えたのか、興味はあるが、私自身はキチンと調べてはいない。


2016/03/07 アントウェルペンの聖堂

7 年前にアントウェルペンに来たときには、街の中心通りを歩いていたらノートルダム大聖堂に出くわしたので、そのまま中を見学した。 この大聖堂は、なかなか立派な造りになっており、アントウェルペンの象徴的な存在でもあることから、今回、また訪問しようと思っていた。

ホテルで朝食を済ませてから、中央駅を経由して、大聖堂に向かった。 一応、事前に地図で位置を確認してはいたのだが、実際には道なりに歩くだけなので、迷う余地はない。前回は、通りに沿ってたくさんのワッフル屋があったように思うのだが、今回は、あまりみかけない。 あれは観光シーズンの臨時の屋台であったのかもしれない。 なお、中央駅の構内には、今回も複数のワッフル屋台があった。だいたいヨーロッパの他の国ではホットドッグか何かを売っているような屋台が、ベルギーではワッフルに置き換わっていると考えてよい。

大聖堂前の広場には、フランダースの犬についての日本語の説明文があり、中高年の日本人団体観光客が集まっていた。

さて、この大聖堂では、入場料として 6 ユーロを徴収している。 係員からは、フラッシュを使用しなければ、写真撮影も構わないと説明された。 この「聖堂への入場に料金を課す」という制度が、神学的にどう解釈されているのかは、知らぬ。 この方式を発明したのが誰なのかも、知らぬ。 しかし、本来、こうした場所は貧富貴賤に関係なく万人に開かれているべきものであって、入場料を課すというのは、キリスト教的発想ではないように思われる。 また、撮影して良い旨をわざわざ明言することも、いかがなものかと思われる。

この大聖堂には、多数の彫像や宗教画が飾られているが、私は、芸術鑑賞の素養が乏しい。この種の絵画彫像をみて美しい、と思うことはあっても、そこまでである。 医学等の文献を読み、著者の力強い、魂の込められた一文に出会って激しく心を揺さぶられたことは幾度かあるが、絵画をみて感動のあまり流涙した、という経験は、ない。 従って、こうした芸術品をみても、フーム、という以上の感想は出てこないし、「フランダースの犬」に登場する例の絵画をみても、特に、何とも思わなかった。

率直にいえば、私は、この大聖堂が嫌いである。 ヴェネツィアのサンマルコ聖堂の方が、いくぶん、マシなぐらいである。 しかし、この聖堂内に設けられている物販店は、良い。 ここでは、一般的な冊子やキーホルダーのみでなく、聖母子像などの彫像も販売されているのである。 私の自宅の玄関には、7 年前にここで入手した聖母子像が安置されている。 今回も、美しい彫像を一体、購入した。 こうした品を私のような非カトリック教徒が持ち帰ることには批判もあるかもしれぬが、少なくとも、大聖堂内でパシャパシャと写真撮影するような自称キリスト教徒よりは、私の方が彫像の持ち主としてふさわしいだろう。

大聖堂の近くには、聖チャールズ・ボロメウス教会がある。 こちらは、比較的、訪れる観光客も少ないようではあるが、内部には立派な絵画や彫刻が多い。 公式ガイドの声がいささかうるさいが、全体としては落ち着いた教会である。 もっとも、落ち着いているといってもカトリックであるから、コペンハーゲンの The Marble Church などに比べれば、かなり派手である。 これからアントウェルペンを訪れる人がいるなら、あの大聖堂などより、こちらの方の見学に時間を割かれることをお勧めする。

アントウェルペンの街中には、要所要所に地図や案内標識があるので、道に迷うことはない。 私はアントウェルペンの中心部を一日中、歩き回ったのだが、他にはあまり、これといって面白いものはなかった。 街中には、たぶん入居者募集、あるいは買い手募集、の意味だと思うのだが、te koop とか te huur とか書かれた看板の出ている建物が多かった。 また、アントウェルペン大学、Universiteit Antwerpen というものもあったが、これは美術関係を専門あるいは中心とする大学のようで、付近には画材などを扱う店が充実していた。

Wijk Eilandje と呼ばれる港湾地区がある。よくわからないのだが、Eilandje というのは英語でいう island にあたるのだろうか。 ここには Museum aan de Stroom という博物館があるのだが、あいにく、月曜日は休館とのことである。 他に Pirateneiland、たぶん海賊島、というものもあるのだが、どうやら、これは歴史的に海賊が根城としていた島、ということではないらしい。 閉まっていたし、オランダ語の掲示しかなかったのだが、何らかの娯楽施設のようである。

Geisha massages という、よくわからない店もあった。 いかなるサービスを提供するのか、全く説明がない。 ゲイシャがマッサージをする、という状況が理解できない。

夕食は、中央駅からホテルに向かう途中のインド料理店に入ろうかと思っていたのだが、今日は休みのようである。 よくみると、他にも月曜休業と書かれているレストランがいくつかあった。 仕方がないので、駅前に戻り、Taj Mahal というインド料理店に入った。 インド料理にこだわったのは、この土地でのビリヤーニに興味があったからである。 なお、インド料理店が Taj Mahal と名乗るのは、日本料理店が Mt Fuji と名乗るようなものであって、ひねりがなく、私は、あまり好きではない。

メニューをみると、サモサやチキンティッカは日本とあまり値段が変わらぬが、ビリヤーニが 15 ユーロ程度と、高い。 日本であれば、普通、1000 円は超えない。 私は、野菜サモサと羊肉のビリヤーニを注文した。 なお、ビリヤーニというのは、インド風ピラフのようなものである。

サモサというのは、餃子の皮のようなものでジャガイモのペーストなどを包み、揚げたものである。 インド式では、正四面体様の形に作るのが一般的であったと思う。 しかし、この店では、比較的薄い皮を使い、春巻きのような、直方体に近い形のものが供された。 具は野菜が豊富で、おいしいのだが、この形態にしたのは、ベルギー風のアレンジなのか、それともこの店の独自スタイルなのだろうか。

ビリヤーニが運ばれてきた時、私は、しまった、と思った。 非常に多いのである。しかも、何やら野菜のシチューのようなものまでつけられている。 値段が高かったのは、そういうわけなのだろう。 どうやらこの店は、私のような、一人で訪れる客を想定していないものとみえる。 結局、完食はできなかったのだが、味は良かった。 むしろ、あれより美味なビリヤーニを、私は、過去に食べたことがない。 全く辛くないのも、良い。何しろ私は、カレーやビリヤーニは好きだが、辛いものは苦手なのだ。


2016/03/06-3 アントウェルペン中央駅

この記事は、3 月 7 日の晩にホテルで書いている。

ホテルにチェックインして一息ついてから、私はアントウェルペン中央駅の付近を散策した。 この駅は構内禁煙であるため、駅舎から一歩出たところで喫煙している者が多い。 街の中には、落書きこそあまり多くはないが、投棄された吸殻は多い。 キレイな街とは、とてもいえぬ。

中央駅の近くには、「安市華埠」と書かれた中華風の門が設けられている。 安市とはアントワープ市のことであって、華埠とは中華街のことであろう。 甚だ、無粋である。 文化や言語の異なる土地で生きていくために、同郷の者が集って小さな社会を作ること自体は、やむを得ない。 しかし、現地の文化との融和を図らず、あたかも入植地であるかのように振る舞うことは、あまり平和的な姿勢であるとはいえない。 これは、中央駅とホテルとの間にあるインド料理店が、少なくとも外観は古風なベルギー風の建物に `Indian Tandoori Restaurant' という看板を掲げているのとは、対照的である。

駅の近くには映画館があるのだが、この建物の一回には Wagamama という日本料理レストランが入っている。この Wagamama という店はアムステルダムでもみかけたことから、ベネルクスあたりに展開しているチェーン店と思われる。 店内には平仮名で「かいせきりょうり」などと書かれているが、たぶん、これは雰囲気を出すためのものであろう。漢字で書かない理由はわからぬ。 メニューの内容をみるとは、寿司、刺身などに加えて、鉄板焼きや丼などを扱っているようである。 また、この Wagamama の一部なのか別の店なのかはわからないが、回転寿司の店もあった。 海外にも回転寿司があるという噂は聞いていたが、実際にみたのは初めてだと思う。 どんなものなのか、入ってみたい気持ちもあったのだが、一番安い皿でも 2.25 ユーロと、いささか高い。 値段相応の味であるとも思われないので、やめておいた。

この映画館の隣には、世界各国の料理店が集まった区画がある。 日本やインド、イタリアの他、マレーシア、メキシコ、エジプト、アルゼンチンといった、日本ではあまりみないものもある。 私は、モロッコ料理店に入った。 この店のスタッフは、私の風貌と Hello. という言葉の発音だけで、私が日本人であることを見抜いた。 ヴェネツィアでの似たような経験も併せて考えると、もしかすると私の外見は、とても日本人的なのかもしれぬ。

モロッコといえば、タジンやクスクスが有名である。 タジンというのは、円錐型の蓋を持つモロッコ風の鍋のことである。 日本でも、一時期、流行ったことがあるらしい。 日本の土鍋と違い、具材から出る水によって蒸し焼きのように調理することができる。 クスクスは、小麦粉から作った顆粒状の食物であって、様々な料理に使われる。 私は、モロッコ風スープと鶏のクスクス料理を食べた。


2016/03/06-2 アントウェルペンにて

私がアントウェルペンに来るのは、これが 2 回目である。 前回は 2009 年の夏頃であったと思う。 たぶん、パリから日帰りで足を伸ばして来たのだと思うが、いまひとつ、記憶が定かではない。 脚の赴くままに歩き、たまたま遭遇したノートルダム大聖堂を見学したように思う。 大聖堂前の広場に「フランダースの犬」に関する説明文があったのだが、それを読むまで、私は、ここがその舞台であるとは知らなかった。 というより、「フランダースの犬」の話自体、よく知らぬ。

さて、アントウェルペン中央駅は、地上 2 階、地下 2 階の構造になっているようであり、私の Thalys は一番下の階に到着した。 当初は、来たことがあるはずだが、見覚えがないな、などと思っていた。 しかし、この駅はたいへん雅な造りになっており、エスカレーターで地上に出る過程で、正面に厳かな装飾の施された壁が現れるようになっている。 この美しい壁面をみて、私は、あぁ、確かに、来たことがあるぞ、と思い出した。

駅で 50 セントを払ってトイレを済ませ、ワッフルを食べた。 なお、南ベルギーはフランス語圏であるが、アントウェルペンのある北ベルギーはオランダ語圏である。 オランダ語ではワッフルのことを wafel と表記するようなので、私は英語ではなくオランダ語風に言ってやろう、と思った。 しかし、私はオランダ語の読み方を知らぬ。 エイヤッと、勢いに任せて「ヴァッフェル」というように発音したが、後から思えば、「w」を英語の「v」で発音するのは、ドイツ語のうち、スイスやオーストリアなど南方の方言であったように思う。 オランダ語では、たぶん、「ワッフェル」という感じの発音で良いのだろう。

さて、私の宿泊先である Van der Valk ホテルは、駅から南東の方にある。 私は、地図をみながら、徒歩で向かった。 今日が日曜だからか、それともいつものことなのか知らぬが、立派な髭をはやして、パリッとした黒服と帽子のベルギースタイルで街を行く紳士が多い。

15 分程歩いてみたが、どうも、おかしい。何だか、少し間違っているように思われる。 少し道を引き返したところで、自転車で犬を散歩させていた男性に声をかけられた。 彼の教えてくれた情報からすると、どうやら、私は現在位置を大きく勘違いしていたらしい。 実は私は、地図上で中央駅を探す際、「たくさんの線路が入っている場所」という探し方をしてしまったために、中央駅より東の方にある車庫か何かを、中央駅と勘違いして歩き始めてしまったのである。 よくよく考えれば、中央駅に入る線路のうち大半は地下なのだから、地上の地図には、それほどたくさんの線路が描かれているはずがないのである。 しかも、私が勘違いした場所とは別のところに、キチンと Antwerpen Centraal という駅が書かれていた。 私も、おかしいとは思っていたのである。 自分で Google map を印刷したのだが、なぜか、中央駅 (と勘違いした場所) もホテルも地図の右の方にあるので、なぜ、そんな印刷の仕方をしたのだろうか、と疑問には思っていたのだ。

現在位置さえ正しく把握できれば、どうということはない。 ホテルは、中央駅から 30 分そこそこで到着できる位置であった。 なお、アントウェルペンの観光名所は中央駅から西の方に分布しているので、このあたりには観光客がほとんど来ない。 普通の街中をみながら歩きたい人には、このホテルの立地は、なかなか、よろしい。

ところで、このホテルのテレビは Philips 社製であった。 そういえば、コペンハーゲンのテレビも同社製であったように思う。 Philips といえば、日本の医療業界では CT 撮影装置のメーカーとして有名であるが、どうやら北海沿岸地域では、普通の家電メーカーとして勢力を保っているようである。

2016.03.07 日付修正

2016/03/06 アントウェルペンへ

ホテルを 9 時に出発するシャトルバスに乗って、Schiphol 空港に向かった。 この時、バスの運転手からは `Departure?' と訊かれたのだが、彼が何を意味しているのか、すぐには理解できず、鉄道でアムステルダムから出発しようとしているのは確かだから `Yes?' と答えた。 実は、彼は「出発ロビーに行くのか?それとも鉄道への連絡口がある到着ロビーの方か?」という意味で訊いていたらしい。 だから、本当は私は `No, to the Centraal station.' とでも言うべきであったのだ。

空港の鉄道駅では、何やら技術的なトラブルのために InterCity、つまり長距離列車の一部を運休する、という内容のアナウンスが繰り返されていた。 私は、9 時 29 分発の Sprinter で中央駅に移動した。 中央駅では、今度は信号トラブルのために運休するだとか、9 時 52 分発の InterCity が遅延するだとかの放送が行われていた。

私が乗るのは、アムステルダムとパリの間を結んでいる Thalys という高速列車である。 この列車では、余裕のある座席配置や、行き届いた車内サービスのために、たいへん快適である。 1st class の料金も、日本の新幹線のグリーン車のような馬鹿げた設定ではないから、特に富裕層向けというわけでもない。 アムステルダムからアントウェルペンのあたりを走っている間、車内放送は、オランダ語、フランス語、英語の順で行われる。

発車予定は 10 時 17 分であったが、プラットフォームの案内板では 30 分遅延、と表示されていた。 私は、なぁんだ、と思い、一旦、改札を出た。 なお、アムステルダム中央駅には改札があり、チケットをスキャンせよ、という表示があるが、実際にはスキャンしなくても通れる。 これは、自動券売機などで買った乗車券のためのものであって、私のように Eurail Pass を使っている旅客などは、スキャンの必要はないものと思われる。 話は逸れるが、改札内にも軽食などを供する店がたくさんあるが、その中の一つに、店名は忘れたがハンバーガー屋もある。 この店には、ハンバーガー等の自動販売機もあり、列車の発車が迫っている場合には迅速に購入することができるようになっている。 なお、この店でもハンバーガーセットのことを hamburgermenu と表記していた。 よく知らないのだが、海外では `menu' という言い方が一般的なのだろうか。

さて、改札を出てから、ふと列車の発車予定一覧をみると、私の乗る Thalys が遅延扱いになっていなかった。 はてな、と思いつつも、念のため、プラットフォームに上ってみると、今度は「運転取り消し」になっている。 が、線路上にはキチンと Thalys が停車しており、車両の行先表示もパリとなっている。 どうやら、大混乱に陥っているようである。 私は、車両にパリ行きと書いてあるのだし、他の乗客も中にいるようなので、乗車して待つことにした。

結局のところ、予定より遅れて 10 時 40 分頃に出発した。 どうやらトラブルは深刻なようで、詳細はわからぬが、本来の経路を変更し、空港やロッテルダムは通らず、ユトレヒトを経由してパリに向かうことになったらしい。 しかも、どうやらインターネット接続サービスも機器不調のため使えないらしい。 途中、何度も徐行したり停車したりしつつ、アントウェルペンには予定より 90 分遅れで 13 時頃に到着した。

2016.03.07 日付修正

2016/03/05-2 アムステルダム追記

この記事は、ベルギーのアントウェルペンに向かう列車、Thalys 9334 号の中で書いている。 この列車については後の記事で述べることにして、ここでは、昨日のアムステルダム近郊散策で気づいたことを、いくつか書いておこう。

アムステルダムでは、自転車の交通量が多い。 歩道、自転車道、自動車道が分離されている区域が諸外国に比べて、かなり多いように思われる。 駐輪場もかなり整備されてはいるのだが、道端の不正駐輪や、駐輪場に長年放置されているようにみえる自転車も少なくない。

街中には英語の表示は極端に少なく、バスやトラムでも、英語の車内放送は行われないようである。 街中の商店などでは英語が通じることから考えて、これは、自分達の文化を守ろうとする彼らなりの美学なのであろう。

ところで、ヨーロッパには半自動ドアが多い。 ここでいう半自動とは、センサー式ではなく、スイッチを入れることで開閉するタイプのことである。 鉄道の乗降扉も、半自動式であることが多い。 開け方は、ボタンを押すものや、レバーを動かすタイプ、ハンドルを操作するタイプ、手動で開こうとすると勝手に動き始めるタイプなど、多様である。 ヨーロッパ人は、これらの開け方を一目で理解するのかというと、そうではない。 扉の開け方がわからずに旅行者らしき人物がオタオタし、地元民らしき人が横から手を出す、という場面には何度も遭遇した。

いささか特殊なのがフィンランドである。 手動で押したり引いたりする扉であるかのようにみせかけて、実は半自動式である、というタイプの扉が稀ではない。 私は、それが半自動ドアであることに当初気づかなかったので自分で閉めようとしたのだが、閉まらない。 開けたドアを閉じずに去るのは、野蛮人である。 私は少々困ったが、もしや、と思ってしばらく様子をみると、勝手に閉まった。 たぶん、これはフィンランドの気候と関係していて、扉を閉め忘れて暖気が外に漏れることを防ぐための工夫なのであろう。

ところで、アムステルダムでは、遠方の都市に向かう InterCity や国際列車の他に、Sprinter という区分の列車が走っている。 私は、当初、Sprinter という語から何だか速そうな印象を受けたので、特急列車の一種かと思ったのだが、よくみると、停車駅がやたらと多い。 実は、これは近郊を走る各駅停車のことである。 他の都市では Commuter Train とか Regional Train とか呼ばれるものである。 このように、各駅停車の呼び方は、国や都市によって異なる。

日本の場合、各駅停車のことを英語表記では local train とすることが多いのではないかと思う。 しかしヨーロッパ方式とは異なり、日本では、各駅停車と快速列車とで、停車駅こそ違えど、走っている区間は同じであることも多い。この場合、local train という訳語は不適であろう。 どうせ「各駅停車」あるいは「普通列車」にあたる統一された英訳は存在しないのだから、いっそのこと normal とか Stop-by-Stop とでも訳してしまえば良いのではないかと思う。

ところで、ヨーロッパには、日本の感覚では信じられないような、とんでもない野蛮人も住んでいる。 私は、幸か不幸か、そうした蛮族の一家に、アムステルダムの Schiphol 空港で遭遇した。

私は、空港内のオランダ風の料理を食べさせるレストランで食事をしていた。 すると、乳児と、その両親および祖父母とみられる白人 5 人組が入店してきた。 話し言葉はよく聞こえなかったのだが、ヨーロッパ系言語に聞こえた。 服装に野卑なところはなく、立ち居振る舞いも、一般的なヨーロッパ人にみえた。 しかし彼らは、入店してすぐに、乳児を食卓の上に寝かせたのである。 この時点で既に粗暴であるといえるが、まぁ、そのくらいは、日本でもみかけることが全くないわけではない。

恐ろしいのは、そこからである。 彼らは、乳児の下半身の覆いを取り、陰部を露出させ、何らかのケアを行いたる後に、新しい覆いを着用させたのである。要するに、オムツ交換である。食卓の上で。私が食事をしている傍で。 さらに、用済みとなった古いオムツを丸め、厨房に一歩踏み込み、そこに置かれていたゴミ箱に投げ入れたのである。

あまりの蛮行に、スタッフも、どう対応したものか困惑したらしい。 顔を見合わせ、ヒソヒソと少しばかり相談した末に、ソッとゴミ袋の口を縛って、新しいものと交換していた。


2016/03/05 アムステルダム

長い分裂と混乱の時代を乗り越え、スペインから独立したネーデルランドの歴史は見事なものだが、彼らは、その後の東南アジアでの素行が悪かった。 しかも、20 世紀の終わりごろであったと思うが、王族の一人が、過去の蛮行を詫びるどころか、暴言によりインドネシアを激怒させるという事件まで起こした。 そうした経緯から、私は、オランダという国が、あまり好きではない。

車窓からみたオランダは、イタリアやハンブルクほどではないにせよ、街中の落書きが目立つ国であった。 アムステルダム中央駅周辺の路上にも、煙草の吸殻や、その他のゴミが多かった。

さて、私のホテルは、中央駅ではなく空港の近くである。 中央駅付近にとらなかったのは、単に高かったからである。 中央駅の案内所で調べると、どうやら空港には国鉄で行くのが便利なようである。 メトロでは行けないらしい、という点が、イスタンブールやヘルシンキなどとは大きく異なる。 私は、特にアムステルダムで行きたいところがあったわけでもないので、トラムとバスを乗り継いで空港に向かうことにした。 案内所で配布されていた資料によれば、アムステルダムのメトロ、トラム、バスに 24 時間乗り放題で 13.5 ユーロ、というチケットがあるとのことなので、これを購入した。

結論としては、中央駅と空港の移動にバスやトラムを使うことは、おすすめできない。 鉄道なら 20 分程度で済むところが、1 時間ぐらいはかかる。 しかも直通の路線はないし、乗り換えも多少、わかりにくい。 さらに、私の感性からいえば、バスやトラムから眺める街中の風景は、それほど面白いものでもない。

空港の中をブラブラと見物してから、私はシャトルバスでホテルに向かった。 チェックインして少しだけ休憩してから、今度はホテル近くのバス停から、路線バスに乗った。 乗った時点では、今度はバスとメトロで中央駅に行こうかと思っていたのだが、バスが空港に到着した時に気が変わり、そこから国鉄で中央駅に移動した。

ところで、アムステルダム近郊の地図をみたとき、私は首をかしげた。 私の知っている地図とは、海岸線の形が大きく違ったのである。 後で調べたところによると、私が知っていたのは 200 年前、ネーデルランド独立戦争の頃の地形であった。 私の認識では、アムステルダムというのは北海とつながった大きな湾に面した街であったのだが、20 世紀に行われた大規模な干拓や堤防建設のために、この湾は北海から分離し、湖になっているらしい。 そんなことも知らずにアムステルダムに行ったのか、と嗤う人もいるかもしれないが、まぁ、その通りである。

私は、アムステルダムの美術館だの何だのには関心がなかったから、少し北の方に足を伸ばし、海越しにアムステルダムの街を眺めようかと考えた。 繰り返すが、これは、本当は海ではなく湖である。 しかも、地図をよくみればわかるように、北の方から湖越しにアムステルダムをみることはできないのだが、この時点では私はそれを認識していなかった。 要するに、私のアムステルダムに対する情熱は、その程度なのである。 今回の旅行で訪れた、あるいは訪れる街の中では、最も関心が低いといえる。

私は、地図を眺めて Edam という街に行先を定めた。 鉄道で行くことも考えたが、どうやらバスの方が早いらしい。 さっそく、中央駅から 314 系統の Edam 方面行きバスに乗ったのだが、直後に後悔した。 どうも、Edam よりも、海に浮かぶ島にある Marken という街の方が面白そうに思えてきたのである。 が、すぐにバスを降りて行先を変更するのもどうかと思ったので、そのまま Edam に行くことにした。

Edam の街の中心部は、古い街並みの保存された場所である。 ホテルもいくつかあるようだが、基本的には閑静な住宅街のようにみえる。 私は海のある東へむかって歩いた。 しばらく歩くと、住宅の様子が少し変わったことに気が付いた。 一見、古風にみせかけたデザインではあるのだが、全く同じ外観の一軒家が多数並んでいるなど、近年になって量産されたとみられる住宅が増えてきたのである。 どうやら、Edam の東側は新興住宅地として開発されているようで、多数の住宅を建設中とみられる区域もあった。

Edam 東の海岸沿い、正確にいえば湖岸沿いは、散歩に適している。 道中には羊がいたり、薪割りをしている地元民の姿もあった。 「すべったり、運河に落ちたりするかもしれないから、注意せよ」という意味だと思われる注意の書かれた水門の上を歩いたのは、ドキドキした。 が、特にこれという事件もなかったし、アムステルダムに対する思い入れもないから、この旅行記には詳しく書かない。

まぁ、アムステルダムで余暇を過ごす予定のある人は、気が向いたら、行ってみると良い。


2016/03/04 ミュンヘン

この記事は、アムステルダムに向かう列車の中で書いている。 22 時 50 分ミュンヘン発、翌 10 時前にアムステルダム着の夜行列車、CityNightLine 418 号である。

今朝、パドヴァからミュンヘンに向かうまでのことは、既に昨日のヴェネツィアの記事に紛れる形で書いてしまった。 いささか、読者には時系列がわかりにくかったかもしれないが、編集してまとめると臨場感が失われるかもしれないので、敢えて、このままにしておこう。 ミュンヘンに向かう列車は、結局、チケットに記載されていた 19 時 1 分ではなく、ヴェローナの時刻表に書かれていた 18 時 21 分に、数分遅れてミュンヘンに着いた。

ミュンヘンでは、4 時間半の時間がある。 既に日没後で真っ暗であり、街の外を散策するには不適であろう。駅で時間を費やさねばならぬ。 私は、ゆっくりと歩きながらミュンヘン中央駅を探検したが、1 時間ほどで、みるものがなくなってしまった。 そこで、ドイツらしくヴルストを食べることにした。 ヴルスト屋で注文をすると、店員はバゲットを示して「これ、つける?」などと訊いてくる。 ソーセージとバゲットの関係がよくわからなかったが、試しに yes, please. と言うと、彼女は私のヴルストをバゲットに挟んで私に渡してくれた。 どうやらゲルマン人は、ソーセージをパンに挟んで食べる、という習慣をもっているようである。 誤解のないよう強調しておくが、これは、いわゆるホットドッグではない。 バゲットにソーセージを挟んだだけのものである。 食べてみると、別段、うまくない。 ヴルストはたいへん美味なのだが、バゲットのせいで台無しになっているように思われる。 ゲルマンの味覚は理解できぬ、などと思いながら私がモソモソと食べていると、ドイツ語を話すビジネスマン風の男がやってきて、私と同じようにバゲットつきで 3.9 ユーロのものを注文した。 彼は、このヴルストを挟んだバゲットをモリモリと食べて、去って行った。

ヴルストだけでは夕食として物足りないので、Asian 何とかというインドシナ料理店にも入った。 メニューには Nippon 何とかというものもあったが、どうみてもニッポン的ではない。 他のインドシナ料理も、たぶん、原型からは大きく変化しているのであろう。 それで良い。 本格的なインドシナ料理など、実際にインドシナに行くか、あるいは名古屋や東京で食べれば良いのであって、わざわざミュンヘン駅で食べるようなものではない。 ここはドイツなのだから、ドイツ風インドシナ料理で良いのだ。

ミュンヘン中央駅には、何やら歌を斉唱したり、気勢を上げたりと、騒いでいる連中がいた。 当初、危険な連中なのかと思って私は警戒していたのだが、付近の警察官や駅のセキュリティスタッフは、あまり気にしていないようである。 そこで彼らの姿をよく観察すると、TSV Muenchen 1860 などと書かれたタオルを首に下げている。地元のサッカーチームであろう。 憤っているようではないことから考えて、チームが今夜のゲームで勝ったので盛り上がっているのだろう。ひょっとすると、ミュンヘンダービーだったのかもしれない。

ここミュンヘン駅では、分煙が徹底されている。 駅構内は原則禁煙であり、プラットフォーム上の限られた喫煙スペースでのみ、喫煙が許可されている。 私は、禁煙区域で煙草をふかしていた男が、通りがかったセキュリティスタッフに注意されている場面をみた。 男が「へへぇ、すみません」とばかりに煙草の火を消すと、セキュリティスタッフは「それで、よろしい」というように頷いて、去って行った。 すると、男は、また煙草に火をつけた。

ミュンヘン駅は清掃が行き届いていることもあり、あまり煙草の吸殻などのゴミは落ちていない。 線路上には多少の吸殻があるのだが、これまでにみた諸都市に比べれば、はるかに少ない。 どうやらミュンヘンは、ハンブルクとは違い、喫煙マナーがたいへんよろしいようである。 もっとも、喫煙スペースが、何の壁もなしにプラットフォームの中央に線引きされているだけである、など、日本に比べると分煙の程度は低い。 とはいえ、これは日本がヨーロッパよりも二十年か三十年、先を行っているだけであり、ミュンヘン駅の喫煙マナーがヨーロッパにしては極めて優秀であることは間違いない。

ところで、ミュンヘン駅には DB lounge というものがある。DB というのはドイツ国鉄の略称である。 このラウンジは、ドイツ国鉄の長距離 1st class チケットを持っている旅客は無料で使えるらしいが、Eurail pass 保持者は対象外であるという。残念である。 このラウンジを使えない旅客は、いささか貧相な、椅子があるだけの待合室を使うことができる。 この待合室の入り口には「チケット無き者、立ち入り禁止」の旨が掲示されている。 実際、私がこの待合室でノンビリしていると、四人ほどのセキュリティスタッフが入ってきて、チケットの確認を始めた。 待合室にいた男のうち一人は、チケットを持っていなかったらしく、つまみ出されていた。 駅構内には、荷物も持たず、何の用事なのかわからない若者も少なからずいたが、セキュリティスタッフや警察官が常駐しているので、治安が特に悪いということはないようである。

私がドイツ国鉄のチケットカウンターの近くをブラブラしているとき、一人の太った男が、いきなりカウンターを強く叩き、近くにあったフリーペーパー配布用のスタンドなどを蹴り倒し、ノシノシと立ち去った。 スタッフの一人は、直ちに電話を取り、男の行く先を目で追いながら、何かを話していた。 私は、一瞬、倒されたスタンドを戻すのを手伝おうかとも思ったのだが、思うところあって、男を追跡した。男は、あるプラットフォームのベンチに座り、モシャモシャとサンドイッチを食べ始めた。 男が暴れてから 2 分ほど経ってからだと思うが、案の定、二人組のセキュリティスタッフがやってきて、男のいるプラットフォームの方に歩いて行った。 私は、知らん顔をして、このセキュリティスタッフの動きを目で追った。 誤解のないよう明記しておくが、私は野次馬をしたかったのではなく、必要とあらば情報提供しようと思って、両者の動きを確認していたのである。 二人組は、件の男の傍を通り過ぎ、プラットフォームの端の方まで行ってから、戻ってきた。 たぶん、男がプラットフォーム上で暴れるかもしれない、との通報を受けて、確認に来たのであろう。 私は、男が、この二人組の後ろ姿に向かって中指を突き立てる仕草をしたのを、見逃さなかった。

さて、私の乗る列車が入構してきたのは、発車の約 30 分前、22 時 20 分頃であったと思う。 私の寝台は 188 号客車の 11 番、とのことである。 なお、この CityNightLine には Sleeping Car と 2nd class 寝台があり、前者が 1st class 相当のようである。 過日、私がハンブルクからチューリッヒまで乗ったのは 2nd class であったが、今回は sleeping car とのことである。 いずれも同じように RailEurope.com から予約したのだが、先のチューリッヒ行きでは満席のために sleeping car が取れなかったのであろう。

さて、188 号客車に乗りこんでベッドを探したが、11 番がみあたらない。 プラットフォームに戻り鉄道スタッフを探していると、同じようにキョロキョロしているオレンジ色のジャケットを着た男から声をかけられた。どうやら、彼も同じような事情であるらしい。 プラットフォームに掲示されていた列車編成表には、なぜか 188 号客車が 2 つあるのだが、実際の列車では 188 号車と 189 号車、と表示されている。 189 号車の方には 11 番ベッドがあるようなので、それが私のものなのかと思い、行ってみることにした。

189 号車に入ると、先ほどのオレンジ色ジャケットの男が、鉄道スタッフと一緒にいる。シメタ、と思った。一旦、プラットフォームに戻り事情を説明すると、どうやら sleeping car は故障中なので代替車両を使っているらしい。 結局、私は 22-26 と書かれている部屋のベッドを指定された。

私は、過日に乗った夜行列車の経験から、ベッド上にミネラルウォーターの一本でも置かれているものと想定していたのだが、今回の寝台はやたらと質素で、ミネラルウォーターもない。 一応、手元に未開封の 500 mL があるが、場合によっては不足するかもしれぬ。 発車までは、まだ 10 分ほどある。私は、急いでプラットフォーム上の自動販売機まで水を買いに行った。

部屋に戻ると、オレンジ色ジャケットの男から「ベッドをみつけたのか」と声をかけられた。 どうやらベッドの番号が変わったらしい旨を伝えると、彼は鉄道スタッフを探しに行った。 結局、彼は私と同室のベッドだということになった。

話してみると、彼は私と歳の近い 31 歳のフィンランド人学生である。 なお、実はこの時、私は自分を 32 歳と言ってしまったが、後から考えると、本当は 33 歳であった。サバを読んだのではなく、本当に間違えたのである。 彼は英語を話す、なかなかの好青年であり、互いの身の上話などで少しばかり盛り上がった。 こういう相手と同室であれば、夜行列車も苦にならぬ。

私は、先日フィンランドに行った旨を述べ、寒いが、実によい所だ。 もしヨーロッパに住むなら、私はフィンランドが良い、などと言った。 彼はフィンランド北方の出身であるらしいから、0 度やら -2 度やらのヘルシンキや Mikkeli など、彼にとっては暖かい部類であろう。

ところで、常にミネラルウォーターを確保しておくことは、重要である。 私は、ベッド探しの混乱の中で右第 1 指の MP 関節付近を負傷し出血してしまった。 とりあえず止血し、列車内の水道で洗ったのだが、冷静に考えると、この水道には「飲むな」というような絵が描かれている。 飲んではいけない理由がはっきりしないが、ひょっとすると、大腸菌など、多少の微生物が混入している可能性があるのかもしれぬ。 もしそうであれば、傷口の洗浄には危険である。 これが原因で敗血症になって死んではたまらない。 実際、そういうちょっとした傷で敗血症になることは、あるのだ。 むしろ、敗血症の症例のうち 40 % 程度であっただろうか、少なからぬ症例は、感染経路がわからないような、些細な傷から感染しているらしいのである。 そこで私は、手持ちのミネラルウォーターを用いて傷口を洗っておいた。


2016/03/03-6 ムラーノ島

この原稿も、やはり 3 月 4 日にミュンヘンに向かう列車の中で書いている。 私の向かいに座っていた婦人は Innsbruck で降りた。 列車は、まだ山々の間を走ってはいるものの、だいぶ低い所まで降りてきたようで、気が付けば、水の入ったペットボトルが著しく凹んでいる。

かつて、ヴェネツィア共和国は地中海貿易で栄えたが、ヴェネツィア本国の主要輸出品といえばガラス製品であった。 ヴェネツィアのガラス工房はムラーノ島にあり、現在では、観光客相手のガラス工芸体験なども行っているらしい。 私は、せっかくだからムラーノにも寄っていくか、などと考えたのだが、これが大失敗であった。 サンマルコ広場でトイレを済ませ、ムラーノ行きの船に乗ったのが 17 時 41 分であったと思う。 ついでにいうと、このトイレは 1.5 ユーロであり、サンマルコ広場にしては、安い。

ムラーノ島は意外と遠く、到着したのは 18 時 35 分であった。 この時間帯では、当然、ガラス工房は閉まっているが、それ自体は想定していたことなので、驚かない。 しかし、日没後のムラーノ島が、あのような、僅かな街灯が道を照らすだけの、暗く、人通りもない街であるとは、私は知らなかった。 どう考えても、地理に昏い旅行者がウカウカと立ち入って良い区域ではない。 私は、船を降りたことを後悔した。 実は、サンマルコ広場から船に乗った時点で、他の乗客が少ないことを不審に思っていたし、ムラーノ島が近づいてから、島全体があまりに暗いので、このまま降りずに St Lucia 駅に戻ろうかとも考えたのである。 しかし、島にいくつかある駅の一つで、少なからぬ乗客が降りるそぶりをみせたものだから、つい、その流れに乗って、降りてしまったのである。 他の乗客は、そそくさと、暗い街の中へ消えていく。たぶん、島にあるホテルに戻っていったのであろう。 私は、さすがに暗いムラーノ島の街路を歩く気にはなれず、船着場に留まった。 古来、ヴェネツィアというのは、それほど安全な街ではない。 大運河から脇に逸れた、暗い小路でひっそりと人が死に、その遺体が翌朝の Canal Grande に浮かぶ、などという事件は、それほど稀ではなかったという。

日没後のヴェネツィアを歩くときは、せめて、Canal Grande 沿いの明るい通りに限るべきである。 ゆめゆめ、ムラーノに行こうなどと、おかしなことを考えてはならぬ。

私は、怯えながら船着場で 20 分を過ごし、次の船に乗った。 無事に St Lucia 駅に着いたのは、19 時半頃であったと思う。 私は、駅でムラーノ産の小さなガラス細工を購入した。 ほんとうはヴェネツィアで夕食も済ませておきたかったのだが、パドヴァまで列車で 1 時間近くかかることを考えると、これ以上、ヴェネツィアでブラブラするわけにはいかぬ。 私は、20 時 5 分発の Regional Train に乗った。

列車に乗ってしまえば安全だろう、というのは日本的な考えである。 イタリアの国家警察が警告しているように、かの国の鉄道では、スリや置き引き、強盗などが珍しくないようである。 ましてや、こんな夜遅くの各駅停車では乗客も少なく、危険の程度は、かなり高いとみなければならない。 私は、他に複数の乗客がいる客車を選んで乗った。 ところが、パドヴァまであと 15 分程、というところであったと思うのだが、他の乗客は皆、降りてしまった。客車の中に自分一人だけ、という状況は、極めて、まずい。 私は座席から離れ、乗降口の前に立つことにした。 ここには、乗務員に通報するための非常用ハンドルが設けられている。 私は、いつでも、このハンドルを操作できるよう、その直下に立ったわけである。

この話を読むと、人によっては「警戒しすぎだろう」と笑うかもしれない。 しかし、イタリアで夜遅くの各駅停車、ともなれば、そもそも乗車していること自体が間違いである、と言えるほど、外国人にとっては危険な状況なのである。 私の対応は、決して過剰ではなかったと思う。

結局、この日の夕食は、ハンブルクの両替屋でもらった飴玉一個だけであった。


2016/03/03-5 Santa Maria Della Salute

この原稿も、3 月 4 日にミュンヘンに向かう列車の中で書いている。 列車は、雪の積もった山の中を走り、Brenner の街に到着した。 これはドイツ語表記であって、イタリア語では Brennero というようである。 どうやら、ここはオーストリアとの国境の街のようである。 プラットフォームと反対側の車窓から、「ここからイタリア・ここからオーストリア」という表示がみえる。 ここから北上すると、オーストリア西部の交通の要衝、Innsbruck に出るようである。 列車のスタッフも、ここでオーストリア側と交代するのであろう。停車時間は、やや長い。

私の向かいに座っている若い婦人は、ヴェローナを出発した直後に弁当を取り出してムシャムシャとやっていた。実に準備がよろしい。 私は、さきほど、食堂車に行ってきた。 確かに食堂車というものは、そのためのスペースと人員を確保し、食料を積載せねばならぬ手間の関係上、どうしても高くなるし、味も市中のレストランには及ぶまい。 日本の新幹線にも当初は食堂車があったと思うが、現代では失われてしまったのも、やむを得ないことではある。 しかし、ヨーロッパの多くの鉄道に、今でも Restaurant Car がついているのは、彼らが鉄道を単なる移動の手段としてはみていないことを表しているのだろう。 列車での移動の過程そのものを楽しむことを重視しているのであって、そのためには、たとえ不効率であっても、長距離列車から食堂車を外すわけにはいくまい。

私は、「ウィーン風の伝統的なスープ」と、ヴルストを食べた。何という名のヴルストであったかは、記憶しておらぬ。 付け合わせのペースト状のジャガイモと、煮込んだキャベツも、たいへん、美味である。 確か、これらはドイツ風の料理であって、ドイツ語の名前があったはずであるが、思い出せぬ。 オレンジジュースと合わせて 16.5 ユーロであり、値段もまぁ、妥当な線である。 この食堂車は、チューリッヒからミラノに向かった列車のものと同様の、高級感のあるレストラン様式であった。 イタリア訛りの強いスタッフの英語は、不慣れな私にはいささか聞き取りにくかったが、特に困るほどではない。

さて、話をヴェネツィアに戻そう。 私が Santa Maria Della Salute の扉をくぐったのは、16 時過ぎであったと思う。 入り口には `No Flash' という注意書きがあった。 他に、たいへん素晴らしい注意書きがあったので、私が書き写したものを転載しておこう。

You are welcome to the Basilica of the salute, to the Church of Christian Health! The respect for the sacred place, you are about to visit, requires christianly suitable attitude, behaviour, and dressing. Silence has to be comply with spiritual concentration and prayer for everyone.

要するに、細かいことをグチグチとは言わないが、ふさわしく振る舞いたまえ、と言っているのである。 私は、ますます、この聖堂が好きになった。

私がこの聖堂を訪れた時には、ちょうど、祭礼が行われていた。 私はカトリック教徒ではないので、やや離れた場所に立って参列した。 まことに理解できないのは、その祭礼の様子を写真撮影する観光客が多かったことである。 誤解があるといけないので明記しておくが、その中には日本の男子大学生らしき集団もいたが、ヨーロッパ人観光客らしき者が多かった。 確かに、禁止されてはいない。しかし、それが christianly suitable behaviour なのか。

なお、この聖堂はサンマルコ聖堂に比べると、訪れる人がはるかに少ないのも、良い点である。 しかし、偶然なのか、あるいは日本では有名なのか知らないが、私が訪れた時には、上述の男子大学生らしき集団の他にも、日本語を話す大学生ぐらいの女性が一組か二組、あるいは三組いた。顔や服装はよくみていないので、同一人かどうかは、わからぬ。 彼女らが寄付箱の近くにいたので、私は、本来はそこに入れるべきものを、代わりに、少し離れた場所にある蝋燭代のための箱に入れようとした。 どちらの箱に入れても、結局は同じことだろう、と考えたのである。 しかし蝋燭代は 1 ユーロであるから、元々、硬貨を入れることしか想定していない構造になっているようである。 私は折りたたんだ紙幣を投入しようとしたのだが、途中で詰まってしまった。 私は、慌てて 2 ユーロ硬貨を取り出し、詰まった紙幣を押し込むようにして投入し、事なきを得た。 なお、この種の蝋燭を献ずる習慣は、主にカトリックの教会でみられるのではないかと思うが、詳しいことは知らぬ。

ところで、Brenner を発車してすぐ、`The best outlet in the alps' という看板を掲げたやや大きなアウトレットモールがみえた。確かに、山奥に似つかわしくない、大規模な店舗であった。

スイスでもそうであったが、このあたりの民家には、やたらと煙突が多い。 軒先に薪が積まれている。どうやら、昔ながらの暖炉が、今なお使われているものとみえる。 線路はクネクネと曲がりながら、アルプスの谷間を駆けていく。


2016/03/03-4 続・サンマルコ広場

この原稿は 3 月 4 日の昼、ミュンヘンに向かう列車の中で書いている。 13 時 4 分ヴェローナ発の EuroCity 84 号であり、オーストリアを経てドイツに向かう。 列車の到着時刻は、チケットには 19 時 1 分と書かれているのだが、ヴェローナ駅の時刻表では 18 時 21 分となっていた。40 分の時差の正体については、知らぬ。 私の座席がある客車は、通路が客車の中央ではなく片側に寄っており、反対側は 4 席一室の小部屋になっている形式である。 ヨーロッパの昔の映画などでみかける形式の、スペースにゆとりのある客車であり、ドイツ国鉄の所属であるらしい。 他の 1st class の客車は普通の 1 行あたり 3 列のようである。長距離を移動する客のみが、この広い座席を割り当てられるのかもしれぬ。 発車前の車内放送で、イタリア語、ドイツ語、イタリア訛りの英語の順で、プラットフォーム側の扉しか開けてはならぬ旨のアナウンスが行われた。 反対側の扉を開けることが可能なのかどうかは、知らぬ。

イタリア訛り、正確に言えば北部イタリア訛り、あるいはヴェネト訛りなのかもしれないが、とにかく、パドヴァやヴェネツィアで聞く英語は、なかなか特徴がある。 語末の母音が強調されることの他、water の発音も日本訛りに近い。 英米人は、この t を、舌が硬口蓋につくかつかぬか、という程度に軽くしか発音しないから「ウォーラー」という感じになるのに対し、日本訛りでは、しっかりと舌を接触させて「ウォーター」と言う。 この違いは、例えば食後に「Tea or coffee?」などと訊かれた際、「(コーヒーも紅茶も好きではないから) water please.」などと言う場合に重要である。 なにしろ相手は「water」などという答えを想定していないから、日本訛りで「ウォーター」と言ってしまうと聞き取れない。「よくわからなかったが、tea と言ったようには聞こえなかったし、音節の数からいって coffee だろう」と勝手な解釈をされ、飲みたくもないコーヒーを飲まされることになる。 私は、覚えているだけでも、この失敗を飛行機の中で 2 回、経験したことがある。 この点について、北部イタリアの連中も「ウォーター」に近い発音をしていたから、イタリア航空に乗る場合は「ウォーター」と言ってもコーヒーを飲まされる恐れはないだろう。

さて、サンマルコ聖堂の話である。 この聖堂の中は、いささか騒がしかったのだが、特に腹立たしかったのが日本人ツアー客である。 聖堂内には静粛を求める立て札も多く、聖堂に関する explanation も外でやれ、などと指示されている。 しかし、特別に許可されたツアーなのか無許可なのかは知らないが、ある団体は、ガイドが日本語でベラベラと説明を行っていた。 声はそれほど大きくなく、小型マイクと、無線イヤホンを使っているようではあったが、あの場所で、そういう解説を繰り広げること自体が不敬であり、日本の恥である。 これが、どんなに野蛮なことであるかは、たとえばイタリア人観光客が京都の銀閣を訪れて、禁煙区域であるのにモクモクと煙草をふかし、その灰をまき散らしている場面を想像すれば良い。

ただし、この聖堂に限っていえば、聖堂側も、どうかしている。 この種の宗教施設では、宗派にもよるが、だいたい聖像か聖画を備えた祭壇の前に椅子を並べた礼拝用のスペースが特に設けられている。 観光地であれば `Only for prayers' などと明記されていることが多い。 サンマルコ聖堂では、この祭壇の傍で何か工事をしていたのだが、その作業員が、祭壇と椅子の間を何度か横切っていた。 常識的に考えて、そこは、通ってはイカンだろう。

時間があったので、サンマルコ広場ではドージェ、つまりヴェネツィア共和国元首の宮殿もみようかとも思ったが、20 ユーロ近い入場料を払ってまでみたいものではないので、中に入るのはやめた。 私は、ヴェネツィア本国のそうした豪奢な遺産には、あまり興味がない。むしろ、コルフ島とか、クレタやキプロスといった、ヴェネツィアの海外領土の方が面白そうである。

時刻は、15 時前であった。Santa Maria Della Salute が開くには、まだ少し時間がある。 私は、サンマルコ広場から小路を少しだけ入ったところにある Kori というレストランに入った。 正確に言えば、入り口前で入ろうかどうか迷っているところに声をかけられ、まぁ、値段もサンマルコの近くにしては妥当かと思われたので、ホイホイと入っていったのである。 さすが観光地であって、日本語のメニューまで用意されていたのには驚いた。 ほんとうは、イタリア語のメニューでアレコレ想像しながら、よくわからない料理を注文するのが楽しいのだが、出された以上は日本語のメニューをみることにした。 もっとも、連中は、私の風貌と言葉の訛りだけで、中国人ではなく日本人だと見抜いたのだから、大したものである。

野菜のミネストローネと、立派なビーフステーキ、水で 35 ユーロ、味も満足ではあったが、ステーキの付け合わせがフライドポテトなのには閉口した。 もう少し、何か、あるだろう。

私の記憶では、この列車が走るヴェローナからオーストリアに向かう道は、険しい山の合間を抜けていくものであったと思う。

山間に、小さな古城がみえた。なかなか、面白そうである。 道路標識からすると、ここは Ala-Avio という田舎町であるらしい。 オーストリア方面から Modena に向かう道の途上である。 もし北イタリアで余暇を過ごす予定のある人がいるなら、ここを訪れてみると良いかもしれぬ。


2016/03/03-3 サンマルコ広場

この記事は 3 月 4 日の昼、ヴェローナに向かう列車の中で書いている。 11 時 48 分パドヴァ発、12 時 30 分ヴェローナ着の FrecciaBianca 9716 号である。 正確に言えば、私が降りる駅の名は Verona Porta Nuova である。Porta Nuova というのは、英語で言えば New Port であろうが、ヴェローナは海に面した街ではない。河に設けられた港を意味しているのだろうか。 列車はパドヴァ近郊の農村を過ぎ、ヴィチェンツァに停車した。 車窓からみる限りでは、ここはパドヴァよりも落ち着いた、静かな街のようである。 もし、また北イタリアに来る機会があれば、この街をブラブラしてみるのも良いだろう。

さて、ヴェネツィアの Santa Maria Della Salute に着いたとき、またしても扉は閉じられていた。 みると、Orario Aperutura 9.00-12.00 / 15.00-17.30 と掲示されている。 Apertura というのは、Open の意味であったはずである。 このとき、時刻は 13 時過ぎであったから、2 時間あまり、待たなければならない。 私は、Canal Grande の対岸にあるサンマルコ広場で時間をつぶすことにした。 みたところ、サンマルコ広場はやはり観光客で溢れかえっているものの、8 年前の夏に来た時に比べると、だいぶ少ないようである。

船でサンマルコ広場側に渡った後、近くの売店でマフラーを購入した。 私は、日本から持ってきたマフラーをホテルに忘れてきてしまったのだが、この日のヴェネツィアは普段より寒かったようで、いくらヘルシンキやストックホルムより暖かいとはいえ、マフラーなしでは体調の悪化が心配だったのである。 Venezia などと書かれた中国製のマフラーが 10 ユーロであった。 土産物としての価値は皆無だが、本日限りの防寒具としては妥当な線であろう。 隣の売店では、イタリア製のハンカチを 3 枚 10 ユーロで購入した。安物ではあるが、私は、ちょうど普段使いのハンカチの追加が欲しいと思っていたところなので、この機会に買ってしまうことにしたのだ。

サンマルコ広場には、8 年前と変わらず、鳩が群れていた。餌をやっている者もいる。この鳩への餌やりは禁止されているし、その旨の表示もあるのだが、無思慮な観光客が絶えないのである。付近にいる警察官も、取り締まる気がないようである。

正直に書くが、この時のヴェネツィアで、私の財布のヒモは、緩みに緩んだ。普段、私は旅先であまり高価な買い物はしないし、食事も、あまり高いレストランには入らない。 しかし、この時は、なんだか気分が高揚していたこともあり、予定されていた予算を大幅に超える買い物をした。詳細は書かぬが、まぁ、イタリアといえば、織物が有名である。

サンマルコ広場には、有名な聖堂がある。世間ではサンマルコ寺院、などと呼ばれることが多いように思うが、私はキリスト教の宗教建築に「寺」の字を用いることに、いささか、抵抗をおぼえるので「聖堂」と呼ぶことにしている。 よく知らぬが、この聖堂はヴェネツィア最大の観光名所の一つであるらしい。無数の観光客が、ここを訪れる。 私は、この聖堂が大嫌いである。 この聖堂の入り口の上には、四頭の馬の像が飾られている。 これは、第四次十字軍が、政治的事情により、同じキリスト教国であるはずのビザンツ帝国の首都コンスタンティノポリスを攻略した際の戦利品であったと記憶している。 ビザンツ帝国と戦争をすること自体の是非はともかく、そういうものを、キリスト教の聖堂に飾るのか。 ヴェネツィア人の品性の卑しさを表している。

サンマルコ聖堂は観光地になってしまっているが、それでも、聖堂側は宗教的な意義が損なわれないよう、尽力している。 聖堂内は写真撮影禁止であり、静粛を求める掲示をしているだけでなく、大きな荷物を持って入ることも禁止している。 リュックサックなどは、近くの手荷物預かり所に置いてこなければならないのである。

ヴェネツィアでは、いやというほどたくさんの日本人、正確にいえば日本語話者に遭遇した。 これまでの諸都市に比べると、男性同士のグループが多かったように思われる。 この街には、日本の男を惹きつける何かがあるのだろうか。 ツアー客もいた。

2016.03.06 誤字修正

2016/03/03-2 ヴェネツィア再訪

ヴェネツィアにはいくつか鉄道駅があり、Mestre 駅はヨーロッパ本土側、St Lucia 駅はヴェネツィア本島にある。 St Lucia 駅の駅舎はキレイであったし、プラットフォームも特に汚い様子はなかったが、線路上には吸殻やペットボトルなどのゴミが溢れていた。 その様は、これまでにみた、いかなる鉄道駅よりも酷かった。 停車している機関車の側面にも落書きがなされていた。

駅から出ると、目の前に Canal Grande が流れていた。 しかし私は、ヴェネツィアの地図をみたのは 8 年前が最後であるから、目的地である Santa Maria Della Salute はもちろん、サンマルコ広場の場所すら、わからない。 駅前の売店でガイドマップを買った。 この地図は、イタリア語版はもちろん、英語版やロシア語版など、様々な言語の版があり、日本語版もあった。 しかし、日本語で「ヴェネツィア」などと書かれた地図を広げるのは馬鹿らしい。また、私は英語で `Venice' と表記されるのが嫌いである。 「東京」という文字を読み書きできない英米人が `Tokyo' と表現するのは理解できるが、なぜ、わざわざ `Venezia' を `Venice' などと書き換える必要があるのか。 いくらイタリア語がわからない私であっても、地名ぐらいなら、なんとかなる。 私はイタリア語版の地図を買った。3 ユーロである。

ほんとうは、ヴェネツィアの街は船で移動するより歩いた方が楽しいのだが、あいにくの雨に加えて、体調も万全とはいえぬ。 私は、水上バスなどの一日乗り放題券を 20 ユーロで購入し、Canal Grande を往くことにした。

船上から両側の建物を眺めると、イタリア国旗、EU 旗に並べて、かつてのヴェネツィア共和国旗を掲げているものが珍しくない。 これは、観光客を喜ばせるための演出という面もあるのだろうが、我々はヴェネツィア人だ、という郷土愛の表明でもあるのだろう。

Canal Grande に架けられた橋はいくつかあるが、特に Rialto 橋は有名である。 ただし、何で有名なのかは、忘れた。 この橋は、現在、メンテナンスか何かで工事中のようである。 観光シーズンを避けて、この時期に作業しているのだろう。 運河の岸辺には、モーターボートが多数、繋留されている。 どうやら、Yamaha や Honda の発動機を使用しているものが少なくないらしい。 鉄道駅のある Ferrovia 駅から 30 分余りで、目的の Salute 駅に到着した。 時刻は、13 時過ぎであった。


2016/03/03 ヴェネツィアへ

(この記事は、3 月 4 日の朝に書いた。)

今朝は、昨晩からの体調不良もあり、朝はゴロゴロとホテルで休養していた。 朝食はホテルで摂ったが、今回の旅行で経験したホテルの朝食の中では、最も残念であった。 野菜がなく、肉も少なかった。パンだけは、おいしかった。

予定ではパドヴァ大学などを見学に行こうと思っていたのだが、よくよく考えてみると、パドヴァ大学には、今後、何かの折に訪れる機会がありそうな気がする。 そもそも、今回の旅行では、イタリアは目的地に入っていなかった。 私は、ただ、アルプスを鉄道で越えたかっただけであり、アルプスの南にある国が、たまたまイタリアであったに過ぎない。 その意味ではミラノに宿泊しても良かったのだが、私はミラノという街にあまり関心がなく、一方でパドヴァには多少の憧れがあったから、パドヴァを宿泊地としただけのことである。

一方で、ヴェネツィアには、行きたい気持ちが、少しだけあった。 2008 年の夏であったと思うのだが、以前にヴェネツィアを訪れた時、その観光客の多さにはウンザリした。 私は、200 年前にナポレオンに征服されて滅亡したヴェネツィア共和国にはいささかの関心があったのだが、今のヴェネツィアは、当時の建築物が多少は残っているとはいえ、あまり、風情のある都市には思われなかった。 ただ一箇所、Santa Maria Della Salute にだけは、行きたかったのである。

前回のヴェネツィアでは、私は水路を一切使わず、ヴェネツィア本島を、ひたすら歩いた。 ヴェネツィア本島には、有名な大運河、Canal Grande が、大きく曲がりながら流れている。 北を上にした地図でいえば、「2」の形に近い。 この「2」の左上に位置するのが Piazzale Roma であり、ヨーロッパ本土から来た旅客は、ここでヴェネツィア本島に上陸する。 一方、ドージェと呼ばれたヴェネツィア共和国の元首の宮殿などがあるサンマルコ広場は、この「2」の字の右下の方にある。 私は、大運河沿いに歩くのは遠回りだと思い、直線経路で Piazzale Roma からサンマルコ広場を目指した。 その日は晴れており、方向を見失うはずはなかったのだが、なぜか道に迷い、ヴェネツィア本島の南側海岸に出てしまった。 その海岸からサンマルコ広場を目指そうと、また迷走した末に、なんとか大運河に出たのが、たまたま、Santa Maria Della Salute の目の前であった。 私は聖母信仰は持っていないが、これはマリアさんの導きに違いない、と思った。 ただ、その時、この聖堂の扉は閉ざされていたので、マリアさんに礼を述べることができなかったのである。

そこで今回、ヴェネツィアまで足を伸ばし、マリアさんに礼だけでも述べておこうと思った。 パドヴァからヴェネツィアは、特急列車なら 30 分、Regional Train、各駅停車でも 1 時間はかからない。 私は、11 時 5 分パドヴァ発、ヴェネツィア サンタ・ルチア行きの列車に乗った。

2016.03.04 語句修正

2016/03/02-5 パドヴァ

この記事は、3 月 3 日の晩にパドヴァのホテルで書いている。 昨晩は、いささか上気道炎様症状が強く、元気もなかったので、記録をつけることを怠ったのである。

イタリア国鉄の特急列車は Freccia の名を冠している。 私が乗った FrecciaBianca も、その一つである。 客車の窓は、基本的には開かないようになっており、非常の際には窓を破壊して脱出するためのハンマーが車両の端に備え付けられている。

車内には、Polizia di Stato、つまり国家警察が作成した Security Warning のステッカーが貼られている。 絵柄には何種類かあるようであり、たとえば「スリ注意」「置き引き注意」というような意味であるらしい。 しかし理解できなかったのは、何か凶器のようなものを持った人物と、両手を高く挙げている人物が描かれたステッカーである。 そういう事態があり得る旨を警告しているのだとは思うが、こちらとしては、具体的に何をどう注意すれば良いのか、わからぬ。

さて、正直に書くと、マルモの時と同じように、私はパドヴァのことを小さな田舎町だと思い込んでいた。 しかしパドヴァ駅が近づくと、やたら多くの乗客が身支度を整え始めた。 列車から降りると、何やらプラットフォームがたくさんあり、列車の到着を待つ乗客の姿も多い。 どうやらパドヴァというのは、なかなか大した街のようである。

私の宿泊する Hotel Grand'Italia というホテルは、駅の南、すぐのところにある。 ホテルに向かおうと、地下道で線路の下をくぐった。 行き交う人々は、二十代ぐらいの若者が多い。 その瞳は、学問に対する意欲と、我こそは次代のガリレオたらん、とする野心に燃えている。 パドヴァ大学の英才達に違いない。

パドヴァに着いた時点で既に日没後であったが、ホテルは駅の目の前であるので、問題は起こらなかった。 ただし、駅前では、何やら得体の知れぬ男達がブラブラしていた。 明らかな目的を持った人々の往来するのは賑やかで結構だが、無目的な人々が夜間に屯するのは、あまり健全とはいえぬ。

ホテルにチェックインして、少しだけ休憩してから、食事をしようとパドヴァ駅に向かったのは午後 7 時過ぎである。 閉店直前の店でピザの一切れを食べたが、いささか足りぬ。 ホテルの隣のケバブ屋で、さらに食べた。 ピザの方は一切れが 4.2 ユーロであったのに対し、ケバブは野菜と共にパンに挟んだボリュームたっぷりのものが 3.5 ユーロであった。 私がケバブ屋を出たのは、ちょうど 8 時頃で、閉店と同時である。 いずれの店も「監視カメラあります」という旨の表示がなされていた。


2016/03/02-4 ヴェローナへ

列車はブレシアを過ぎ、ヴェローナに向かっている。 ヴェローナといえば、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の舞台であったように思う。 この街は交通の要衝であり、現在でも、鉄道にせよ自動車道にせよ、ミラノやチューリッヒに向かう道と、オーストリアを経てミュンヘンに向かう道との分岐点にあたる。

このあたりには、工場もないではないが、多いのは田園風景である。 こういう地方では、さすがにイタリアといえども、街中や鉄道敷地内の落書きも少ない。

列車は Desenzano という駅に停まった。私は、この街を知らぬ。


2016/03/02-3 ロンバルディア

この原稿は、パドヴァに向かう列車の中で書いている。 16 時 05 分ミラノ発、18 時 12 分パドヴァ着の FrecciaBianca 9733 号ヴェネツィア行き、イタリアの国内線である。 1st class の客車がほぼ満席である。ビジネスマン風の、フォーマルスーツを着た男が多い。 私はファッションには疎いのでよくわからないが、たぶん、ミラノ風の上等なジャケットなのであろう。 彼らからすれば、私など、服を着ているうちにも入らないに違いない。 心なしか、中年ビジネスマンも、これまでの各国でみたよりハンサムに思える。 まぁ、気のせいかもしれない。

ミラノでの乗り継ぎは、もともと 30 分しか余裕がなかったところに、先のミラノ行き列車が 15 分ほど遅れたのでヒヤヒヤしたが、結局、何も問題は起こらなかった。 こういう時に、イタリアでは遅延を詫びるアナウンスを入れないのが普通のようである。理由は知らぬ。

車窓からみる限り、イタリアに入ってからは街中の落書きが目立つ。 コペンハーゲンよりも酷いのではないか。 イタリアでは長く続いている政治的、社会的な混乱のために、人心の荒廃が著しいのかもしれぬ。

パドヴァといえば、世界的に有名な学術都市である。 あのガリレオも、長くパドヴァ大学教授を務めていたように思う。 医学関係でも、私はパドヴァ発の面白い論文を読んだことがあるような気がするのだが、正直にいうと、ストックホルムほど強い印象は残っていない。

政治的には、パドヴァは長くヴェネツィア共和国の影響下にあった。 現在でも、鉄道で 30 分程度、目と鼻の先である。 ヴェネツィアのホテルが高いからという理由で、ヴェネツィアに向かう観光客がパドヴァに宿泊することも多いらしい。

今回の旅行では、いまのところ、ヴェネツィアには行かない予定である。 過去に一度、かの地を訪れたことがあり、観光客ばかりであることに嫌気がさしたのである。 ヴェネツィアといえば、運河を行き交うゴンドラ、つまり手漕ぎのボートが有名である。 しかし今日では、運河の水運はモーターボートを使うのが当たり前であり、ゴンドラは、単に観光客を喜ばせるだけの代物に過ぎない。 ああいうものは、実用に供されてこそ趣がある。 単なる観光資源としてのゴンドラには、本音を言えば少しだけ興味を惹かれたのではあるが、敢えて乗らなかった。

  列車は、ロンバルディアの平野を走っている。 この地は、かつては手工業が盛んであり、ミラノ公国といえば北イタリア随一の軍事大国であった。私は、地理学にそれほど詳しくないので、現代のロンバルディアの主要産業が何であるのかは、知らぬ。 しかし車窓から眺める限りでは、辺りは田園ではなく、工場が多く、貨物コンテナも目立つ。 たぶん、北イタリア有数の工業地帯なのだろう。


2016/03/02-2 アルプスを抜けて

列車は、イタリアとの国境に近づいている。 スイスでは、一般家庭でも国旗を掲揚している例が多いので、スイス国内なのかどうかは、わかりやすい。 イタリアに近づくにつれ、街中の落書きが増えてきたように思われる。

1 時半頃、食堂車でラザニア・ボロネーゼを食べた。 食堂車といっても、私が乗っている 3 号車は前半分が食堂、あと半分が客車なので、前半部に移動するだけのことである。 この列車の食堂車は、ちょっとしたリストランテと呼んでよかろう。 テーブルにはクロスがかけられ、客は着席してオーダーして料理が運ばれるのを待つ形式であり、これまでみた中では、最も高級感のある食堂車である。 料理自体の味も良かったが、窓からアルプスを眺めながら食べるのが、たいへん、良い。 ラザニアとオレンジジュース、サービス料で 25 フランである。支払いは、スイスフランとユーロのいずれでもできる。

例のチューリッヒ中央駅でみた蛮族の女であるが、どうやらチューリッヒを発って以来、ずっと食堂車に籠っているようである。 といっても、ムシャムシャと食べ続けているわけではなく、どうやら、くつろいでいるだけのようである。 食堂車は、椅子の配置に余裕があるので確かに快適ではあるのだが、あまり行儀が良いとも思われぬ。

列車は国境の街、キアッソ Chiasso に停車した。


2016/03/02 チューリッヒ

この原稿は、ミラノに向かう列車の中で書いている。 11 時 32 分チューリッヒ発、15 時 35 分ミラノ着の EuroCity 17 号である。

昨晩の夜行列車で同室になったのは、やたらと顔面にピアスをつけた、威圧的な風貌の男であった。 似たような顔面ピアスをハンブルクの街でしばしばみかけたことから考えて、たぶん、ゲルマンの風習なのだろう。 彼は、英語は話さなかったが、見た目ほど粗野な男ではなかった。 朝になると、Breakfast が出されたが、中身はパン 2 個とオレンジジュースのみであった。

チューリッヒ駅には、3 時間余りの滞在である。 駅のトイレには入り口が二つあり、一方は個室のない男性専用であり 1.5 フラン、もう一方は男女共用の個室で 2 フランである。両替機も設置されている。 私は、最初、入る方を間違えて 1.5 フランを無駄にした。 なお、フランとユーロは、だいたい同じぐらいの価値である。 機能は十分で、清掃も行き届いたトイレであったが、デザインには特に注目するような点はなかった。

駅舎を出ると、川があった。 この川に沿って歩くと、左右に教会らしき建築物が二つ、みえた。 帰りがけに寄って行こう、と思いつつ先に進むと、川と湖が合流していた。 この川は、高低差がほとんどないために流れが極めて緩やかであり、どちらが上流で、どちらが下流なのか、にわかにはわかりにくい。 よくよく観察したうえで、私は、湖から流れ出しているのだろう、と結論した。

湖を眺めているうちに、雨が降り始めた。 日本を出てから、雪は経験していたが、雨は初めてである。 私は、ぬかりなく晴雨兼用の折り畳み傘を持ち歩いているので、問題ない。

先ほどみかけた教会のうち、大きい方に行ってみた。これは Grossmuenster というらしい。 教会は 10 時から開いているという。時刻はまだ 9 時 20 分である。 もう少しブラブラしてから、また来るとしよう。 もう一方の教会に行ってみると、こちらは Fraumuenster であるという。 こちらも 10 時から、と書かれている。 私は、周囲をブラブラしながら、10 時ちょうどを狙って Grossmuenster に向かった。

スイスは、かつてキリスト教の宗教改革の中心地であった。 当然、チューリッヒの教会も改革派 Reformed のものが多いし、この Grossmuenster や Fraumuenster も、改革派の教会のようである。 Grossmuenster の入り口には、撮影禁止、の表示がなされていた。 中は、少しばかり騒がしかった。 ずいぶんと質素な造りであるが、ステンドグラスにはこだわりを持っているものと思われた。 後で説明パンフレットをみたところによると、かつては装飾や彫像も多かったのだが、そうした豪奢な装飾が聖堂にあるのはよろしくない、として、過去に撤去されたらしい。一時は音楽も禁止されたという。 私の個人的意見としては、確かに不必要に贅沢なのはいけないが、神、あるいは何かそうした聖なるものを想起させるための材料として彫像や絵画などを用いることは、特に悪くないのではないかと思う。

Grossmuenster には、日本語を話す大学生らしき女性二人組がいた。 「日本語を話していた」というところが問題である。 確かに、入り口には撮影禁止、静粛に、というサインがあるだけであって、コペンハーゲンの The Marble Church とは異なり、一切話すな、とは書かれていなかった。 しかし、ここが礼拝のための場であることを知らずして訪れたわけでは、あるまい。 そこで、たとえ小声であったとしても不必要なことを話すのが適切な行為であるかどうか、判断できなかったのか。 信仰を持つか持たぬかは個人の自由であるが、他人の信仰を尊重しないのは、蛮人である。

Grossmuenster を出てから向かったのは Fraumuenster である。 ここでも入り口に、撮影禁止、と明記されていた。 そういうことを明記しなければならないというのは、残念なことである。 こちらも、Grossmuenster と似たような、質素な造りである。 後でパンフレットをみて知ったのだが、この教会は、宗教改革後のチューリッヒで初めてオルガンを復活させた教会であったらしい。 手の込んだステンドグラスは、何百年かの歴史があるのかと思って眺めていたのだが、どうやら 1967 年に作られたらしい。

街中を歩いているとき、白地に黒刺繍の Kufiya を首に巻いた人物を二人みかけた。 Kufiya は、スイスでも浸透しつつあるものと思われる。 なお、書き忘れていたが、ストックホルムでは、黒地に白刺繍という変わった Kufiya を首に巻いた婦人をみたこともある。

中央駅に戻ったのは 11 時前である。 中央駅には屋台スペースが設けられており、ここでチベット風モモを食べた。 モモというのは、水餃子のようなものであって、ネパールの名物料理である。ネパール人が運営しているインド料理店でも、よくみかける。 私は、チベットでもモモを食べるとは知らなかったので、これを試してみることにしたのである。 野菜の付け合わせ込みで 12 フラン、たいへん、よろしい。 なお、この屋台スペースの近くには椅子とテーブルが設けられているのだが、実はここは無料ではなく、1 ドリンクを別途注文せねばならぬ。 500 mL のミネラルウォータが 4.5 フランと、かなり高い。

ところで、チューリッヒの街中や中央駅には、喫煙者が多い。コペンハーゲンと同程度であろう。 私は煙草のケムリがたいへん苦手で、すぐに気分が悪くなり、上気道の具合が悪くなるタチであるので、実に不愉快である。 しかし、不思議なことに、街中には投げ棄てられた吸殻が、比較的、少ない。 どうやらスイス人は、歩行喫煙はするが、吸殻は然るべき場所に捨てる分別を備えているらしい。 ただし、外国人は、そうした思慮を必ずしも備えていない。 ある蛮族の女が、吸殻を列車とプラットフォームの隙間から線路上に捨てる場面を、私は見逃さなかった。 投げ棄てるにしても、なぜ、プラットフォーム上ではなく、線路に捨てるのか。掃除の便を考えれば、前者の方が、いくぶんマシである。 そう思って線路の上を覗くと、そこには、既にたくさんの吸殻が堆積していた。 つまり、あの女は、吸殻の投げ棄てが不道徳であるという認識を持っている一方で、他人がやっているなら自分も構うまい、という幼稚な思考の持ち主なのだと思われる。

列車は、アルプスの合間を走っている。 もちろん山の上の方は真っ白なのだが、どうやら、いささか標高の高い所まで登ってきたらしく、線路脇にも積雪がみられるようになってきた。 カルタゴのハンニバルやローマのカエサル、フランスのナポレオンといった連中は、この険しい山々を軍勢を率いて通り抜けていったのかと、改めて感嘆する。


2016/03/01-4 ハンブルク

この記事は、チューリッヒに向かう列車の中で書いている。 20 時 29 分ハンブルク発、翌 8 時 5 分チューリッヒ着の夜行列車、City Night Line 429 号である。 乗車してまだ一時間も経たぬが、さっそく、後悔している。 ヘルシンキからストックホルムに渡った Symphony 号とは違い、狭くて窮屈で相部屋で、よく揺れる上に、インターネット接続サービスもない。 何より、Eurail Pass を使っても高い。 今、チケットをみて確認すると JPY 130 などと書いてある。これだと 130 円という意味になるが、たぶん記載ミスで、本当は 130 ユーロであったと思う。 何となく夜行列車は楽しそうだと思って乗ることにしたが、今回の旅行が終わったら、もう二度と乗らぬ。

だいたい、ハンブルク中央駅からして不快であった。 私は、列車を降りてから駅の公衆トイレに入った。 利用料は 50 セントで、ヘルシンキの相場である 1 ユーロよりも安い。 しかし中に入ってみると、個室の方は二つとも defekt と書いた貼り紙がされている。 英語でいう defect、故障中の意味であろう。 私は個室の方には用がなかったので、それは、まぁ、許すとしても、洗面台で水が出ないのには憤慨した。 センサー式である旨の案内はあったが、センサーらしき部位でいくら手を動かしても、反応がない。 もしかすると単に反応が鈍かっただけかもしれないが、洗面台二つ合わせて 2, 3 分はがんばったにもかかわらず、一向に、水が出ない。 しかも、誰かに尋ねようにも、あいにく、誰も入ってこない。 結局私は、手を丹念にトイレットペーパーで拭くだけで洗わずにトイレを出るという蛮行に及ばざるを得なかった。 かかる非文明的な振る舞いをしたことは、少なくともこの二十年間、一度も経験がなかった。 屈辱的である。 私の、ドイツ連邦共和国と自由ハンザ都市ハンブルクに対する好感度は、この一件で著しく低下した。

ハンブルクでは、列車の乗り継ぎに四時間ほどの時間がある。 少し、駅のまわりを散策することにした。 駅前には、コペンハーゲン駅前と同じようなトイレボックスがあった。 中には男性用便器が入っており、無料で使えるようである。ただし、洗面台はない。 しかも、チラリと中を覗いたところでは、何者かが便器を詰まらせたものらしく、尿が溢れ、地面に滴っている。 実にフケツである。

少し歩くと、街角に HSV の City Store があった。 HSV というのは、ドイツのプロサッカーリーグ一部のチームであったはずだが、私はサッカー事情にあまり明るくないので、これがハンブルクを本拠とするチームであったかどうかまでは、記憶にない。

近くにあった教会に行ってみると、塔に登れるのは 16 時半までである、との英語の掲示があった。 時刻は、あいにく 17 時を過ぎていた。 教会自体には入れるような気配でもあったのだが、それについては英語の表示がない。 国際都市ハンブルクにおいて英語がないということは、つまり、旅行者の立ち入りを歓迎しない、という意味であろう。私は、聖ペテロの名を冠するその教会を外側から眺めただけで、立ち去った。

次の目的地は、教会の近くにある、何やら荘厳な建築物である。 入り口にはセキュリティスタッフが立っており、案内表示をみると、どうやらハンブルク市庁舎のようである。 市庁舎にも多少の興味はあったが、大きな荷物を抱えていることと、少しく遅い時間帯であることから、外観だけを眺めて立ち去った。

ハンブルクに至るまでの列車から眺めた限りでは、ドイツにおいても鉄道敷地内ではデンマークに負けないほど落書きだらけであったが、街中は、それほどでもない。 ある運河沿いの壁などには酷いイタズラ書きもあったが、全体としては、コペンハーゲンよりは遥かにマシであった。

たまたまみかけたショッピングモールに入ってみた。 名前を記録し忘れたが、European Passenger というようなものであったと思う。 特に面白い店があったわけではないがトイレには驚嘆した。 利用料は 50 セントと、駅の壊れたトイレと同じであったが、デザインが優れていた。 白を基調とした清潔感のある設計になっており、洗面台もスタイリッシュであった。 というのも、五個ぐらいの洗面台が並んでいたと思うのだが、それぞれが独立したボウルになっていない。ある洗面台は、右手前が高く左奥が低い、という傾斜になっており、排水口は左奥にある。 当然、左端は壁になっていなければならないが、この壁は、左隣の洗面台の始まり部分でもある。 こうしてジグザグの面を作ることで、洗面台と洗面台の間の部分を、なくしてしまっているのである。 私は、中央駅のトイレの惨状から、てっきり、ゲルマン人のトイレはローマの頃からほとんど進化していないのではないかと思ってしまったが、そんなことはなかった。 どうやら、ドイツは日本に匹敵するトイレ先進国のようである。

ところで、デンマーククローネは、もう不要であるので、街中の両替屋でユーロに交換した。 1 ユーロが 7.7 クローネぐらいのレートであった。 トルコリラは既にヘルシンキに向かう際に空港で、硬貨も含めてユーロに替えてある。 従って、手元に残っている不要な通貨は、スウェーデンクローナと、デンマーククローネの硬貨のみである。 ところで、こちらに来てから思ったのだが、トルコリラだけでなく、スウェーデンクローナとかデンマーククローネとかいう比較的マイナーな通貨は、日本で両替するとレートが悪い。 日本円のまま持ち込むか、あるいはユーロにして持ち込む方が、手数料分を考慮しても得なようである。 なお、手数料と言えば、少なからぬ両替屋は売りの交換レートと買いの交換レートに差をつけたうえで、4 % 程度の手数料を取るようであるが、意味が分からない。 手数料を取るか、交換レートに差をつけるかの、どちらか一方だけにするべきであろう。

さて、空も暗くなりつつあったので、私は中央駅に戻ることにした。 途中でみかけたマンホールの蓋には `Freie und Hansestadt Hamburg' と書かれていた。 ドイツ語はわからぬが、自由ハンザ都市ハンブルク、の意味であろう。 道中で、署名活動を行っている人物から声をかけられた。 彼は英語を話さず、署名簿にも Handicap International というロゴはあったが、肝心の請願文はドイツ語である。障害者に対する社会保障の改善を求めるような署名なのではあろうが、内容もわからないのに署名するわけにはいかぬ。 I'm sorry. と言って去らざるを得なかったが、あまり気持ちの良い体験ではなかった。

駅に着いたのは、午後 6 時頃であった。 発車まで、まだ 2 時間以上もある。 せっかくなので、何かドイツらしいものを食べておくことにしよう。 ドイツといえばビール、という人もいるかもしれないが、私は酒を一切、飲まぬ。 その場合、ドイツの象徴はヴルスト、英語で言うソーセージであろう。 私は、駅内の立ち食いソーセージ屋に入った。 ソーセージのつけあわせにポテトを選んだのは、もちろん、何かドイツ的なジャガイモ料理を期待したからであるが、実際に出てきたのはフライドポテトであった。 初めからわかっていれば、2.9 ユーロも払ってポテトなど頼まなかったのだが、これはメニューをよくみない私が悪い。 この店はソースも別料金であり、しっかり 30 セント取られた。 訊かれるままにソースを選んだだけなのであるが、本当は私はソーセージにソースなどつけない流儀なので、これは全くの無駄であった。 ヴルスト自体は、たいへん美味であった。 なお、この店は Wurst & Durst という名であるが、Durst というのは Thirst の意味であるらしい。

しばらく駅をブラブラしていたのだが、列車の編成表をみると、どうやら食堂車はないらしいことが判明した。 食事は乗車前に済ませておけ、ということなのだろう。 先ほどのヴルストだけでは、夕食には少し物足りない。 そこで Nordsee、つまり北海という名の持ち帰り専門店で Fish & Chips を買った。 Fish & Chips といえばイングランド、という気もするが、ロンドンとハンブルクは北海を挟んで隣同士であるから、まぁ、同じようなものだろう。 何を思ったか、ここでラージサイズ、Gross を注文したのだが、味は悪くないとはいえ、少し、多すぎた。 後から思えば、プラットフォームにある待合室で食べれば良かったのだが、実は私はこの時点では待合室の存在に気づいていなかったので、プラットフォームのベンチで食べた。寒かった。 しかも、私が座ったのは階段の風上側、つまり風が直接、吹き付ける位置であった。 階段の反対側のベンチに座っていれば、いくらかマシであっただろう。

このプラットフォームで印象的だったのは、連邦警察、Bundes Polizei のポスターである。 アラビア語、英語、フランス語、そしてドイツ語の順で、線路に入るなとか、ホームの端に近寄るなとかいうことが書かれている。アラビア語が先頭なのは、昨今の社会情勢を反映しているのだろう。

ハンブルクの街にも乞食は少なくなかった。僅かな時間、街を歩いただけであったが、5, 6 人はみたと思う。 中央駅でも、二十代とみられる男がドイツ語で話しかけてくるので、ドイツ語がわからぬ旨を伝えると、彼は、食料を買う金がないのだ、と英語で述べた。要するに金の無心である。 I'm sorry. とのみ述べて断ると、彼はドイツ語で何かを言いながら去っていた。 May God bless you. という意味のことを言ったに違いない。

街中の喫煙者は、ハンブルクと同じくらい、多かった。 路上の吸殻は比較的少なかったが、これはハンブルク人の道徳によるものではなく、単に清掃スタッフが多いのだと思われる。

中央駅には、もちろんアーチ型の屋根があるのだが、どうやら少しばかり隙間が空いているらしい。 雪が、チラチラと、降りてきた。

2016.03.03 誤字修正

2016/03/01-3 列車での船旅

先ほどの記事をヨーロッパの鉄道事情に詳しい人が読んだなら、きっとニヤリとしたであろう。 デンマークの島とドイツの島との間は、なかなか距離があるので、さすがのドイツ人も、ここに橋を架けようとは考えなかったらしい。 実はトラックなどと一緒に、列車ごとフェリーに乗り込んで海を渡るのである。 約一時間の船旅であるが、その間、乗客は下車して船の方に移る。 たぶん、車内放送でも英語の案内があったのだろうが、私が「デンマーク語はわからんな」などと思っているうちに聞き逃したのだろう。 ある乗客の婦人が、親切にも「小一時間、列車から降りないといけませんのよ」と教えてくれたので助かった。

船の中には、ちょっとしたスーパーマーケットのような店と、軽食屋と、高級感のあるビュッフェ形式のレストランがあった。 どうやら、ハンブルクまで飢えを我慢する必要はないようである。 ビュッフェの方にも惹かれたが、あまり時間がないようなので、軽食屋の方に入った。 他の乗客も同じようなことを考えているのだろう、ビュッフェに入る客は少なかった。

船は Scandlines という会社のようである。 船内での支払いには、スウェーデンクローナ、デンマーククローネ、およびドイツの通貨であるユーロが使えるようである。 私はフライドポテトとドイツ風トンカツのディッシュにオレンジジュースをつけて 104.95 デンマーククローネであった。 私は 105 クローネを出したのだが、こういう時、5 セントの釣りは返ってこない。 レシートにも、しっかりと Rounding 0,05 と書かれている。 そもそも 5 セントクローネという通貨単位が存在するのかどうかは知らぬが、丸めるぐらいなら初めから 105 クローネにしておけば良いのではないかと思う。 このあたりのヨーロッパ人の考えは、理解できない。

なお、ヨーロッパ事情に詳しい人にとっては常識なのだろうが、こちらでは . と , の使い方が日本や米国とは逆である。 つまり小数点は , であり、3 桁ごとの区切りが . である。 21 世紀になっても、こうした数の記法などという基本的な事柄すら国際的な標準化がなされていないとは、人類の文化というものは、まこと奇怪である。

列車は海峡を越え、ヨーロッパ本土に入った。じきにリューベックであろう。


2016/03/01-2 ドイツへ

列車はデンマークの島々を南下し、ドイツへと近づいている。 どうやらこの列車はデンマークの島々を橋で渡り、ユトランド半島の東側の根元にあるリューベックを通り、西側の根元にあたるハンブルクに至るようである。 今、停車しているのは Rodby であり、どうやらデンマーク領の島の中では南端のようである。 つまり、ここから海を渡れば、ドイツである。 手元の Eurail Map ではデンマークの島とドイツの島の間は鉄道では結ばれていないようにみえるが、たぶん、実際には橋があるのだろう。 私は、ハンザ同盟の中心都市であるリューベックの街を、車窓からだけでも眺めたいと思っていたので、この経路は実に嬉しい。


2016/03/01 コペンハーゲン追記

この原稿は、ハンブルクに向かう列車の中で書いている。 11 時 37 分コペンハーゲン発、16 時 22 分ハンブルク着の ICE 34 号である。 どうやら、これまでに乗った列車とは異なり、インターネット接続サービスはないらしい。 この列車は、機関車と客車三両のみの編成であり、食堂車は存在しないようである。 ウカツであった。私は、コペンハーゲン中央駅で Laks をバゲットに挟んだサンドイッチを遅い朝食として食べただけであるから、どうもハンブルクに着くまで、飢えと戦わなければならないようである。 なお、Laks というのは、デンマーク語で Salmon の意味である。

この客車には、一行あたり 3 列の座席がある。 一方の窓側には一席、残り二席は反対側の窓側である。 二席の方は、二行セットで、つまり四席一組で、小部屋を形成する形になっている。

先日、一等客車では静粛に過ごすのがマナーである、というようなことを書いたが、これは国によって文化が大きく異なるようである。 フィンランドでは携帯電話の通話は下品なこととして扱われるようであったが、スウェーデン国鉄では携帯電話で通話する乗客も少なくなかった。 このデンマーク国鉄に至っては、客車内に「携帯電話可」の意味と思われる表示がある。 たぶん、通話不可の座席もあるのだと思うが、つまり日本でいう分煙と同じように、携帯電話も分離しているのだろう。

コペンハーゲンを発った直後は、壁という壁に落書きがあったために、なんと下品な街か、と思った。 ゲンメツである。 しかし 30 分ほども経つと、列車は都市から離れた田園地帯に入った。 曇天の下ではあるが、のどかで、たいへん結構な風景である。 いま、ちょうど Ringsted という駅を通過した。これは、コペンハーゲンがある島 (名前は失念した) の中央付近にある街のようである。

コペンハーゲンについて、書き忘れたことを追記しておこう。 まず乞食についてであるが、昨日の散策の際、中央駅付近で 3 人、東側の教会近くの路上で 2 人の乞食をみた。 だいたい、スタイルはヘルシンキやストックホルムと同じであって、毛布などの防寒具で厳重に身をくるみ、紙コップを前に置いて金銭を無心するのである。 こうした乞食に対し、政府や教会が、どういう対応をしているのかは、知らぬ。

前に、ヨーロッパでは炭酸水が人気である旨を書いたが、どうやら、コペンハーゲンでは事情が異なるようである。 Pasta du Nord やケバブ屋では、単に水といえば still のものが出てきたし、セブンイレブンでワゴンに山積みされていた水も CO2-Neutral と書かれた still のものであった。 この国では、むしろ炭酸水は不人気なのではないか。

コペンハーゲンに日本人は多いようである。 昨日の散策の際には、日本語を話す若い女の集団を二組、ホテルではチェックインしようとしている四人組の男をみた。 私のような一人旅の者もいるのだろうが、そういう人々は日本語を話さないので、それと認識できない。 今朝の中央駅では、若い男が壮年の二人の男と日本語で話しており、ダブルデグリーで今度○○大学から博士号が云々などと言っていることから、コペンハーゲンで行われた学会か何かの帰りと推定された。

中央駅で会った自称スウェーデン人についても書いておこう。 私が駅舎内を歩いていると、一人の若い男が声をかけてきた。 彼が言うには、スウェーデンから来たのだが、金を失くしてしまって困っているという。 こういうのは、十中八九、詐欺の類であるので、無視してしまうのが安全である。 私は `Oh, I'm sorry.' とだけ言って去ろうとしたが、彼は追いすがってくる。 日本語で `I love you' を何と言うのか、などと言い、なんとか私の足を止めようとしているようである。 なお、このとき私は右側にバッグを抱えており、彼は私の左側にいたのだが、こういう時、バッグを持っている側の警戒を緩めてはならぬ。 私は「日本人は I love you などと言わぬ」と答えてやった。 この緊張感のなさからして、まぁ、彼が金を失くしたというのは嘘であろう。 もし本当なら、すぐソコにあるスウェーデン大使館に救援を求めに行くべきである。 もちろん、実は彼は無実の罪で指名手配されており、しかも明日は妹の結婚式に出なければならない、などという特殊事情のために大使館に行くことができない可能性もなくはないが、それなら、もっと緊迫感が生じるはずである。


2016/02/29 コペンハーゲン散策

2016.03.01 聖書に関して、この記録で神学論争には言及したくないので削除した。

細かいことだが、昨日 Tivoli の営業再開を 4 月 1 日と書いてしまったが、4 月 6 日の誤りであったので、修正した。

さて、今日はコペンハーゲンで一日を過ごすわけであるが、特に行きたい場所もないことや、連日の活動で少し疲れていたことから、午前中はホテルでゴロゴロしていた。 2016/02/28-3 の記事を書いたのも、この時である。 11 時半頃になって、ようやく元気が湧いてきたことと、朝食も摂ってなかったので空腹になってきたこともあり、街に繰り出すことにした。 ホテルでもらった地図を眺めて、せっかくだからキリスト教会に行って礼拝でもすることにした。

どうやらコペンハーゲンにはいくつかの大きな教会があるようだが、私は、中央駅から北東の方にある Churchill Park という場所を目指すことにした。 Churchill という言葉の意味はわからなかったし、もしかすると単に人名なのかもしれないが、何だか「教会がある丘」というような意味にみえるし、その近くにある Kastellet という場所も、何だか面白そうにみえたからである。 急ぐわけではないので、バスやメトロではなく、歩くことにした。

ところで、昨日はコペンハーゲンのことを「何だか薄汚い街だ」とのみ書いたが、その正体に、今日、気が付いた。 路上のゴミや吸殻が多い、ということもあるが、何より、落書きが多いのである。 ヘルシンキやストックホルムにも、街中や鉄道敷地内の落書きがないではなかったが、コペンハーゲンのそれは、多すぎる。 そうした落書きをする者の心理はよくわからぬが、たぶん、犬が電柱とみれば放尿するのと同じようなものであろう。いわゆるマーキングであって、つまり、連中は、獣と同じである。 人間は、適切な教育を受けなければ、かくも哀れな姿になり果てる。 遺憾ながらデンマークは、国民に遍く適切な教育を施すことに失敗したようであり、結果として、コペンハーゲンの街は、このように無残にも破壊されてしまったのである。

さて、中央駅の北東側には、何やら荘厳な建築物がある。 私は昨日、これを教会か何かかと思ったのだが、実はコペンハーゲン市庁舎であった。 確かに、よくみると、建物には十字架が掲げられていなかった。 この市庁舎は観光スポットでもあるらしく、旅行者風の人々が平気で入っていく。 私も、それに倣った。 もちろん、通常の行政業務が行われており、昼食時ということもあって、なにやらサンドイッチのようなものが載った皿を持つ職員らしき人々が廊下を歩いている姿もみられた。 私は、彼らの邪魔をしないよう気をつけながら、市庁舎をみてまわったのである。 中庭も、ちょっとした庭園になっており、よく手入れされていて美しかった。

市庁舎のトイレは、個室こそ男女別であったが、洗面台は男女共用であった。 用を済ませた後に女性と並んで手を洗うのは、たいへん妙な気分である。 実は、今はなくなってしまったが、名古屋大学鶴舞キャンパスの旧西病棟のトイレも、これと似た構造であった。 私は、あのトイレの非常に古くて汚い感じのすることと、女性用が近すぎることが嫌で、敢えて使わなかった。 ある時、同級生のある女性があのトイレに入るところをみた時などは、たいへんに驚愕したものである。

ところで、このコペンハーゲン市庁舎のトイレの個室の扉には `Please put toilet paper in the toilet and not on the floor. Thank you.' という掲示がなされていた。 たぶん、以前に書いたような、トイレットペーパーを流してはいけない文化の国から来た人が、困り果てた末に床の上に置いて去る、という事例が過去に多発したのであろう。 また、扉と反対側の壁には、洋式便器の使い方が図示されており、「こういう風に使ってくれ」という内容が英語とデンマーク語で記され、さらに手書きで中国語が書き足されていた。

市庁舎を出て、北東に向かった。この辺りは、昨夕にも通った道である。 空腹でもあったので、手近なケバブ屋に入った。 この辺りには何店かのケバブ屋があり、いずれも看板には Shawarma という語が書かれている。これは「トルコ風」あるいは「焼肉」というような意味を持つ言葉なのだろうか。なお、デンマーク語で Chicken のことは Kylling というらしいので、覚えておくと、メニューの理解に役立って良い。 私は、Iskandar Ret というメニューを頼んだ。Ret というのは、英語でいう Dish のような意味だと思われる。征服王アレキサンダーの名を冠しているだけあって、値段も 109 クローネと、やや高い。 オレンジジュースをつけると 143 クローネになった。 ジュース代が高いな、と思ったが、どうやら、その場でオレンジを絞って作るジュースであるらしい。それなら納得である。

運ばれてきた品は、こんもりと盛られた肉と、サラダと、何やら粘性の高いソースのようなものが皿の上に載っており、さらにパンがつけられていた。 ケバブには違いないが、トルコというよりはヨーロッパ料理にみえる。 デンマーク風ケバブというのが適切であろう。

ケバブ屋を出てから北東に歩いていくと聖霊教会という教会があったのだが、残念ながら扉は閉じられていた。 さらに進むと、The Marble Church という巨大なドーム状の聖堂があった。 こちらは扉が開かれていたので、入ることにした。 入り口には、静粛にされたし、という、至極あたりまえの注意書きがなされていた。 撮影禁止、という表示はなく、実際に写真を撮っている観光客風の人々も少なくなかったが、ああいう場所で撮影しようという精神を、私は理解できない。 中にはフラッシュを使用して撮影している連中もいたが、彼らは「静粛 silence」という言葉の意味を理解していないのではないか。

礼拝を済ませて帰る際、私は、いくらかの寄付をしておきたかったのだが、寄付箱がみあたらなかった。ひょっとすると、デンマークでは教会を訪れた人が喜捨をする習慣がないのかもしれない。 しかし絵葉書を 5 クローネで無人販売していたので、その料金箱に、規定より少し多めの金額を入れておいた。 正確に言えば、寄付箱と思われる箱は確かにあったのだが、そこに書かれているデンマーク語が理解できなかったために、使用を控えたのである。 もし、それが実は違う箱であったなら、そこに現金を入れるなどというのは、極めて無礼にあたるのではないかと恐れたのである。

The Marble Church を出て少し進むと、また別の教会があった。 The Marble Church はプロテスタントのようであったが、こちらはカトリックであるらしい。 私は宗派を問わない類キリスト教徒であるから、こちらでも礼拝を行った。 なお、こちらでも絵葉書の無人販売は行われていたが、他に、それとわかる寄付箱もあった。 やはり、The Marble Church のあの箱は、寄付箱であったのだろう。

さらに進むと、今度は Medicinsk Museion なる建物があった。Medical Museum、医学博物館であろう。 私は、たいへん興味が湧いたのだが、週に水木金日の四日間しか開いていないらしい。 残念なことに、今日は月曜日である。

さらに進んで、ようやく Churchillparken、英語で言う Churchill park に着いた。 どうやら Churchill park は、Katellet の一部、という位置づけであるらしく、入り口に Kastellet 全体の案内図が掲示されていた。 この案内図には、Our Fallen という場所があり、`Memorial to Danes who died during World War II' という説明が加えられていた。 第二次世界大戦で犠牲になったデンマーク人の追悼、というわけである。 これに類似の慰霊碑の類は、日本を含め世界各国にあるから、特にデンマークがどうというわけではないが、私自身は、こういう慰霊のあり方を好まない。 戦争の犠牲者に、デンマーク人もドイツ人もあるものか。 人類全体に対する博愛の精神を欠いた、偏狭なナショナリズムである。 慰霊というのであれば、先の大戦で犠牲になった全ての人々を対象にするか、あるいは、国籍に関係なくデンマークの地で犠牲になた人々を対象にするべきではないか。

この Katellet というのは、現存する中ではヨーロッパ最古の要塞であるらしい。 敷地内には人魚姫の像などもあったが、あいにく、私はあの種の童話に特別な思い入れはない。 ただ、像の説明がデンマーク語、英語に加えて簡体字中国語の三か国語であることだけが印象的であった。

Katellet 自体は、眺めても、それほど面白いものではなかった。 ここには無料の公衆トイレがあった。 入り口からして男女別であり、個室はかなり広く、しかも個室の中に洗面台がついていることが印象的であった。清掃も、行き届いていた。

時刻は午後 3 時である。 どうやら東の方にも教会があるようなので、そちらに向かうことにしよう。 来た道を少し戻ったつもりだが、見覚えのない場所に出てしまった。 Sankt Pauls Kirke という教会があったが、扉は閉まっている。 聖ポールの Kirke であるが、Kirke というのは、どうやら Church の意味であるらしい。英語の Ch は、デンマーク語では K に化けるのであろう。 地図と見比べると、たぶん私は南進するつもりで西に進んでしまったものと思われた。 なお、この Sankt Pauls Kirke のあたりは、観光地ではなく、静かな住宅街のようである。

東の教会に行く前に、私は先ほどの The Marble Church に再度、立ち寄った。 今度は簡略に礼拝したうえで、多少の喜捨をしてから東を目指した。 途中、スウェーデン大使館があった。EU の旗とスウェーデンの旗が掲げられており、入り口には大使館の歴史について簡略な説明文が掲示されていた。 建物の外観は周囲の住宅と特に変わらないが、1921 年から、大使館はここにあるらしい。

道端の消火栓に、船に備え付けられているような浮輪が立てかけられていた。 その浮輪には `Nagoya Bay Panama' と書かれていた。 この Nagoya が「名古屋」を意味するのかどうかは、知らぬ。

地図によれば、Inderhavnsbroen という所に、運河に架かった橋があるはずである。 ところが、現地に行ってみても、橋は建設中の様子である。 地図をみると Summer 2015 と小さく書かれている。 工事現場にも Sommer 2015 というような表示がある。 常識的に考えれば 2015 年夏に完成予定、という意味なのだと思われるが、今はもう 2016 年である。工事が遅れているのか、何か別の意味なのかは、知らぬ。

仕方がないので、私は運河沿いに南下し、迂回路をとることにした。 地図には、この東側の地区に二つの教会があると示されている。 そのうち南側にあるのが Christians Kirke であるが、残念ながら扉は閉じていた。 北側にあるのは、英語でいう Our Saviors Church である。 私は、午後 4 時 20 分頃に到着したのであるが、残念ながら教会は 3 時半、展望台も 4 時までのようである。少し、遅かった。 この Our Saviors Church では、「ルターとバッハ」というような展示を行っているようである。 デンマーク語の掲示しかないのでよくわからないのだが、どうやら昨年のクリスマス前の時期から、今年のクリスマス前までのようである。 ぜひみたかったのだが、残念なことである。

この Our Saviors Church から中央駅に戻るには、まず南進し、次いで西に進むことで運河を渡る。 少し進んだところで、私は、何かがおかしい、と感じた。 念のため教会まで戻り、地形と地図をよく照らし合わせると、どうやら私は南進するつもりで西に歩いていたらしい。 この時期の北欧は曇天ばかりで太陽がみえないから、こういう間違いが起こる。 方位磁針を用意しておくべきであった。

街には煙草の吸殻があふれ、運河の底には空缶が堆積しているコペンハーゲンの街であるが、人は親切である。 私が、念のために道を確認しようと路傍で地図を広げただけで、`Can I help you?' という声がかかった。私は、とっさに `No.' と言い、なんとか `It's OK. Thank you.' と続けたが、あまり礼儀正しい対応ではなかった。 文言としては、Can I help you? 「何かお手伝いできることはありますか?」という問いに対し、No 「いや、あなたが手伝えることはありませんよ」という意味になってしまう。 ここは No を省いて `It's OK. Thank you for your kindness.' とでもいえば、実に polite な対応になったと思われる。

夕食は、昨日の Pasta du Nord がたいへん気に入っていたので、ここで Menu の Large を注文した。 飲み物はレモネード限定ではなく、選べるようである。私は、水にした。 スパゲッティはボロネーゼにしたのだが、ピリ辛である。 ストックホルムの Sushi Rullen もそうであったが、北欧では、こうしたピリ辛を好む風潮があるのだろうか。

ところで、コペンハーゲン中央駅構内のトイレは、5 クローネであるが、なぜか、駅舎外には無料の男性用公衆トイレがある。 単に Pissoir とだけ表示されているので最初はわからなかったが、これは「男性」の意味であって、中はトイレなのである。 どうして、こんなところに無料トイレがあるのかは、知らぬ。


2016/02/28-3 コペンハーゲンへ

本当のことを言うと、私は、マルモというのはスウェーデンの端の、小さなつまらない田舎町だろうと思っていた。 だから、マルモ中央駅に降りた時、それがヘルシンキ中央駅、ストックホルム中央駅や、他のヨーロッパの中央駅と同じぐらい立派な駅舎であることに、私は驚いた。

列車の発車予定時刻を示す電光掲示板はスウェーデン語のみであり、定期的に英語と切り替えて表示する、というような気の利いたサービスはない。 どうやら、英語が嫌いなのはストックホルムだけでなく、マルモも同じであるらしい。 リストをみると、Triangeln Cph Airport Kopenhamn という行先の列車がある。 Cph というのはコペンハーゲンの略称であろう。そして Kopenhamn (o の上にはウムラウト記号) というのは、コペンハーゲンのスウェーデン語表記なのだろう、とは思ったが、念のため確認することにした。 というのも、私は既に、スウェーデン語でいう Helsingborg という街は、なんだかヘルシンキのスウェーデン語表記のようにみえるが、実は全然関係ない別の都市であることを知っていた。ヘルシンキのスウェーデン語表記は Helsingfors なのである。このように、外国人にとっては紛らわしい地名があるのだから、ひょっとすると Kopenhamn も、コペンハーゲンとは関係のない都市であるかもしれない。 そこでインフォメーションカウンターに行き、ちょっとスウェーデン語はわからないんですがね、と尋ねてみたところ、どうやら Kopenhamn はコペンハーゲンのことで合っているらしかった。

事前の計画では、マルモは単に乗換駅であって、そのままコペンハーゲンに向かう予定であったが、これだけ立派な街を素通りしてはもったいない。 一応、列車内で Swedish Bolognese を食べてはいたが、まずは駅でまた食事をすることにした。 ストックホルムとは違い、マルモでは駅構内にレストラン街がある。 何やらタイ風料理をプレートに自分で盛って一皿いくら、という形式の店もあるようだ。 私は、Lilla Husman という店で Baked Potato, Chickin and Curry を注文した。メニューがデフォルトでスウェーデン語と英語の併記なので、助かる。 飲み物メニューはスウェーデン語だけであったが、Apelsin Juice というのがあるのをみて、それにした。 素人は Apelsin という単語をみて「リンゴかな?」と思うかもしれないが、これはオレンジである。私は、ヘルシンキでそのことを学んでいたから、キチンと理解したうえでオレンジジュースを頼んだのである。 また、ここでいう Baked Potato とは、大きなジャガイモに割を入れ、バターを挟み込み、アルミホイルで包んで焼いたものであった。つまり、じゃがバターである。これにサラダとチキンカレーがついて 79 クローナ、オレンジジュース込みで 99 クローナであった。 これは、たぶんマルモ料理ではないと思うのだが、別に、旅行に行ったからといって、必ずしも現地の郷土料理を食べなければならないという決まりはない。たいへん満足であった。

食事を終えてから、駅のまわりを散策することにした。 大きな荷物があるし、コペンハーゲンに着くのが遅くなってはいけないから、あまり遠出をする予定はない。 駅舎から外に出ると、海があり、何やら大きな貨物船がコペンハーゲンに入港しようとしている様子である。 近くには、小さな運河に架けられた橋があり、私は、ここから海の眺めを楽しんだ。 あまり人通りは多くなく、どうやらストックホルムとは違い、マルモの海岸沿いは有名な観光地ではないようである。 少し歩いただけであるが、私は、この街がいたく気に入り、コペンハーゲンに宿をとってしまったことを後悔した。せめて一泊だけでも、マルモに泊まるべきであった。 橋の近くには Malmo Kebab というケバブ屋があった。どうやら、ケバブは北欧にはかなり浸透しているらしい。この店も Sedau 1980 と書かれており、たぶん 1980 年創業なのだろう。なかなか歴史のある店と思われる。

さて、マルモとコペンハーゲンの間を、スウェーデン国鉄は走っていない。 3 月 1 日からは運転再開するらしいが、今は鉄道は Skanetrafiken という鉄道会社の列車のみのようである。 チケットの自動販売機は英語対応であったので、問題なく購入することができた。110 クローナである。 プラットフォームは地下であるらしい。 列車待ちの客を退屈させないための工夫であろう、壁には、まるで列車の車窓から眺めたかのような風景の動画が投影されている。 はじめは森林の風景であったのだが、いつのまにか、街の風景に切り替わっていた。 なんだか日本に似た雰囲気の街だな、と思ってみていると、看板は日本語で、道路にも「止まれ」などと書かれており、本当に日本であったらしい。 横断歩道に向かって小走りに急いだが、結局赤信号に阻まれて止まらざるをえなかった女性の姿が、印象的であった。

この Skanetrafiken の列車は 20 分に一本の割合で運行されているようで、マルモからコペンハーゲン空港に向かう乗客が多いようである。 乗車するまでの間には改札がなかったが、ちょうど国境を超えるあたりで検札が来た。 マルモとコペンハーゲンの間には、もちろん海があるのだが、ここには大きな橋が架けられており、鉄道で渡ることができる。この橋を渡っているとき、一部、列車が大きく揺れる区間があったのだが、一体、あれは何だったのだろうか。

コペンハーゲンの第一印象は、なんだか薄汚い街であるな、というものであった。 具体的に何がどう汚いのか、と言われると困るのだが、街に活気がない。 イスタンブールほどではないにせよ、ヘルシンキやストックホルムに比べると、喫煙者が多いように思われる。 これまでに訪れた諸都市と同様に、路上に投棄された吸殻も多い。 こうなってくると、ひょっとすると、ヨーロッパでは煙草の吸殻を投げ棄てることは普通のことなのではないか、と思えてくる。 しかし、よくよく考えれば、ヨーロッパ人とて人間であって、猿ではないのだから、ゴミを路上に捨てるのが悪いことである、という認識ぐらいは、あるはずである。 要するに、日本に比べると、教養の乏しい人間が多いというだけのことなのだろう。

私が泊まったのは Copenhagen Star というホテルであるが、もし、これからコペンハーゲンに行こうとする人がいるなら、このホテルはお勧めしない。 立地は中央駅の目の前で便利であるものの、何やらこの周辺は路上のゴミも多く、どうも治安のあまりよろしくない区画なのではないかと思われる。 あまり夜遅くに出歩かない方がよろしかろう。 しかも、このホテルの部屋に飾られている絵画は、著しく趣味がわるい。 二人の人間を模したと思われる像が描かれているのだが、上方から下方に赤や橙の絵の具を垂らした様が、まるで血の滴っている様子を想起させる。 不気味である。 現代アートだか何だか知らぬが、客をリラックスさせようという意思が感じられない。

ホテルにチェックインしてから、夕食と散策のために街へ繰り出した。 この時に気づいたのだが、どうやら、この時期はコペンハーゲンの観光シーズンから外れているらしい。 Copenhagen Visitor Service という観光案内所のような施設も、9 月から 4 月は営業時間が短い。この期間の日曜日に至っては、休業のようである。 駅前には Tivoli という広い敷地を持つ何かがあり、入り口には「4 月 6 日以降に、また来てね」というようなことが英語で書かれていた。私は、てっきり、かつての王宮か何かなのかと思ったのだが、後で調べると、これは遊園地であるらしい。4 月から 9 月の間しか営業していないという。

小一時間、街を歩き回ったが、薄汚い街だ、という私の印象は、変わらなかった。 ある広場では、アラブかアフリカ風に訛った英語で演説をしている若い男達がおり、周囲には群衆が形成されていた。 黒人や、イスラム教徒らしき女性が多かった。 あまりしっかりとは聞いていないのだが、どうやら社会に対する不満を訴え、我々が行動しなければならぬ、というようなことを主張しているようであった。

道中に魅力的なレストランもなかったので、私は駅に戻った。 なお、この駅の公衆トイレは 5 クローネである。 私は、関西空港でだいたい 1 クローネあたり 20 円ぐらいのレートで両替していた。 この時、私の財布には 100 クローネ札しか入っていなかったので、クレジットカードでトイレ代を払うという経験をした。

コペンハーゲン中央駅には Pasta du Nord というスパゲッティ屋がある。 パスタというのは小麦の練り物の総称でありマカロニ等も含むはずだが、どうやら、スパゲッティのことを気取ってパスタと呼ぶのは、日本だけの風習ではないらしい。 この du Nord という言葉の意味はよくわからないが、店員のシャツに「56°N」という、コペンハーゲンの緯度と思われる記載があったことから、「コペンハーゲンのパスタ」という気持ちが込められているのだろう。

なお、このパスタ屋は、いわゆる「オシャレなパスタ屋」に近い位置づけであるようなので、ここでディナーを済ませようと思う人は Large サイズを注文するべきである。 私は普通サイズの Creamy Salmon と水に 87 クローネを払ったが、いささか物足りなかった。 この店では、セットのことを Menu というらしく、パンとレモネードがついて 89 クローネ、Large サイズでも 99 クローネなので、これがオススメである。

スパゲッティだけでは空腹が満たされなかったので、同じく駅構内にある YamYam という店にも入った。 食べ過ぎのようにも思わないでもないが、寒さのためにエネルギー消費が亢進しているから許容範囲内である、と言い訳をすることにした。 この店は、どうやらアジアも含めた世界各国に展開しているようだが、たぶん、日本にはないと思う。 ライスまたはヌードルの上に、カレー様のトッピングをつけた、いわば東アジア風のファーストフードである。 私が店に入ると、日本訛りとみられる英語を話すビジネスマン風の、東アジア系らしき男性がいた。 実は、先ほどホテルに向かう途中でも、日本語を話す二十代とみられるアベックがいた。 どうも、コペンハーゲンにも日本人は多いようである。

さて、店内には注文方法がデンマーク語で記されているようだが、もちろん、私には読めない。 少々戸惑ったが、店員は英語で親切に説明してくれたので、助かった。 この店では、箸とフォークが備えられていた。 そういえば、ヘルシンキからストックホルムに向かう船上でも、Sushi Roll を箸で食べている現地人を少なからずみかけた。 昨今では、もはや箸も World Wide な食器として普及しつつあるようである。


2016/02/28-2 フィンランドとスウェーデン

列車は、針葉樹林の間を走っている。 少しばかり、雪が降ってきたようである。

この列車では、昼食サービスがあるように思っていたのだが、どうやら気のせいであったらしいので、先ほど食堂車へ行ってきた。 私が乗っているのは 1st class の車両であるが、食堂車に行く途中には 2nd class を通らねばならない。 1st class は一人掛けと二人掛けの一行あたり計 3 座席であるのに対し、2nd class は両側が二人掛けの、計 4 座席のようである。 1st class にあるような、水やコーヒー、紅茶のサービスは、2nd class にはないらしい。 こうしてみると、1st class と 2nd class では、料金の違いも小さいが、サービス面でもあまり大きな差がないようである。 なお、日本の JR は、新幹線を海外に売り込む際に「輸送力が高い」と、定員の多いことを売りの一つにしているという話があったように思うが、実はこれは単に座席が狭いだけのことなのである。

食堂車は、先日、フィンランドで経験したものに比べると質素であって、冷蔵されたパックの食品が売られているだけであった。 私が商品を眺めていると、スタッフが Hi と声をかけてくる。 この声掛けは、スウェーデンではほとんどどんな店でも経験した。 スタッフは、私が旅慣れぬ異邦人であることを見抜き、英語で「Hungry かい?みているだけかい?」と問うた。 私がハングリーである旨を述べると、彼女は商品説明をしてくれた。 私は、彼女が Swedish Bolognese と説明したパスタに惹かれたので、これとオレンジジュースを買った。パスタをマイクロウェーブで温めている間に、94 クローナを支払った。 ボロネーゼというのは、もちろん、日本でいうところのミートソースであるが、原義は「ボローニャ風」という意味である。 ボローニャとは、北イタリアの都市であって、ヴェネツィアよりも少し南にあたる。 それを思えば Swedish Bolognese というのは、なんだか奇妙な響きではある。

このパスタは、スパゲッティの類ではなく、日本でいえば「きしめん」のような、平らな麺である。 正直に言えば、所詮は冷蔵パック麺であって、弾力性を欠き、まぁ、おいしいとまではいえない。 とはいえ、車窓からスウェーデンの田園風景を眺めながら食べるのは、悪くない経験であった。

この食堂車では、フィンランド国鉄とは異なり使い捨てのプラスチック製食器であり、食事が済んだら自分で片づけるスタイルであることは、みればわかった。 なお、正確に言えばプラスチック製品はリサイクルするらしいので、「使い捨て」という表現は正しくないかもしれない。 ついでに言えば、こうしたプラスチック製品をリサイクルすることが、エネルギー収支の観点からいって本当に「地球に優しい」ことなのかどうかは、知らぬ。

ところで、この列車の職員は、どうやら暇なときにスマートフォンをいじっているようである。 チラリとみえたところでは、友人らとメッセージをやりとりしていたり、何やらパズルゲームのようなものをやっていたりするようである。 これが日本であれば「不謹慎である、けしからん」と、鉄道会社に苦情が入るところであろうが、どうやらスウェーデンでは、暇な時間に何をしようと勝手である、という考えのようである。

マルモに着く前に、フィンランドやスウェーデンについて、いくつか思い出したことを書き留めておこう。

まずフィンランド語とスウェーデン語についてである。 詳しい言語学的な事情は知らぬが、この二つの言語は、単語レベルでは、ずいぶんと異なる。 スウェーデン語で Stockholm と呼ばれる土地をフィンランド人が Tokholma と呼ぶのは、まぁ、わかる。 しかしフィンランド語の Pasila という地名が、スウェーデン語で Bole (o にはウムラウト記号がつく) になるのは、もはや理解できない。 両言語が文法的に似ているのかどうかは、知らない。 たぶん、日本語と朝鮮語のような関係なのだろう。

バルト海を渡った Symphony 号は、豪華客船らしく、真水もふんだんに積載していたようである。 私が乗った船底の C-class の客室でさえシャワーが備えられており、普通のホテルと同じような暮らしができた。

ところで先ほど、私は X 線の説明について「色」というのはおかしい、と書いたが、ひょっとすると、おかしくないかもしれない。 最近では、CT を撮る際に波長の異なる二種類の X 線を使い、両者の吸収率の違いから組成の違いを見抜く、という技が実用化されている。 この意味でいえば、「吸収率の違い」のことを「色」と表現するのは、間違いではない。


2016/02/28 ストックホルム追記

この記事は、ストックホルムからマルモに向かう列車の中で書いている。 9 時 21 分ストックホルム発、13 時 47 分マルモ着のスウェーデン国鉄である。 マルモというのは、スカンディナヴィア半島の南端に近い街であって、デンマークのコペンハーゲンとは目と鼻の先である。ハンザ同盟の中心都市リューベックや、ロストックとも、バルト海の西端の部分を挟んで、すぐである。 マルモは、スウェーデン語では Malmo と書く。「o」の上には、点々、ドイツ語で言うウムラウト記号がついている。 従って、ドイツ語風に発音すると「マルメ」という感じになるし、実際、片仮名では「マルメ」と表現されることも多い。 しかし、どうもスウェーデン人の発音を聞いていると、「メ」より「モ」という発音の方が近いように思われるので、私はマルモと書くことにする。

昨年までは、ストックホルムからコペンハーゲンまで、スウェーデン国鉄の直通列車が走っていた。 しかし、スウェーデンの法改正で入国審査が厳格化されたらしく、審査に時間を要すると列車運行に支障を来すので、国境手前のマルモ止まりに変更されたらしい。 マルモからコペンハーゲンは、別の鉄道が運行されているらしいので、まぁ、行けば何とかなるだろう。

昨晩、Tekniska Museet から戻ってからは、特記するようなことはなかった。 夕食は、ストックホルム中央駅で食べようと思ったら、キチンとしたレストランがなかったので、バーガーキングで済ませた。 ヨーロッパ人には、鉄道駅にレストランを用意するという発想がないのだろうか。キチンとした食事をするなら、駅から出て街に出ろ、ということなのかもしれぬ。 私が注文したのはシカゴステーキというやつのセットで、82 クローナである。高い。 日本のバーガーキングはどうだか知らぬが、この国のバーガーキングでは「セット」のことを meal と言うらしい。

いくつか、これまでに書き忘れたことを追記しておこう。まずはフィンランドでの食事であるが、しばしばメニューに `gluten free' という表記がみられた。 グルテンというのは、小麦などに含まれる蛋白質であるが、わざわざ、これが含まれていないことを明記するということは、たぶんセリアック病の関係だろう。 これはグルテンを消化する酵素の先天的機能低下ないし欠失による疾患であって、グルテンを含む食事を摂ることで下痢などを来す。 日本人には稀な疾患であるが、欧米では頻度が比較的高いので、慢性下痢症の患者をみたら、可能性として考慮する必要がある。 北欧で特に多かったかどうかは、記憶にない。

Tekniska Museet に向かう散歩道でみかけた若い女性の装束が、印象的であった。 アラブ人、特にペルシア湾岸地方の国民は、白のシャツとズボンに、大きなスカーフを被り、黒い輪を頭の上に乗せている。このスカーフは、地方によって呼び名が違うが、Kufiya といえば、だいたい通じる。 この Kufiya は、ペルシア湾岸地方では白地に赤刺繍のものが好まれるのに対し、パレスチナやレバノンあたりでは、白地に黒刺繍が多い。 最近の若者は、青とか緑とかのものを使用することもある。 で、件の道行く女性は、このペルシア湾岸風の Kufiya を首のまわりに巻いていたのである。 実は、現在、私の左前方に座っている老婦人も、パレスチナ・レバノン風の Kufiya を首に巻いている。 私は、かつてスイスで、若い非アラブ系の男が Kufiya を首に巻いているのをみたことがあるが、どうやらスウェーデンでも、Kufiya がファッションとして取り入れられているようである。 この文化の融和は、実に、結構なことである。

この点、日本はひどく遅れているように思われる。 十年以上前の話ではあるが、ある夏の日、私は京都の街中を、河原町三条の近くであったと思うのだが、Kufiya を頭に被ったアラビックスタイルで歩いていた。 すると、若い男の二人組が私の方を指差してゲラゲラと笑い、「きっとインドが好きなんだよ」などと言っていた。 これはインドではない。アラブである。無知にも程があるというものだ。 かつて 2001 年にニューヨークで例の事件があった時、米国ではなぜかインド系アメリカ人が襲撃されて殺されるという、いろいろな意味で理解できない事件があったが、どうも、それと同レベルである。

Tekniska Museet の素晴らしさについては昨日書いたが、実は、この博物館については、残念な点もあった。 一つは、入場料が高いのである。 6 歳までは無料であるが、7 歳以上の小児は 100 クローナ、大人は 150 クローナである。 博物館の維持に金がかかることは理解できるが、この博物館には、スウェーデンの将来を担う、未来の科学者たちを育てるという崇高な使命があるのだから、無料か、せめて、もっと格安の料金設定にするべきであろう。 とはいえ、それだけの料金を払ってでも、少なからぬ人々が博物館を訪れるのだから、たいへんなことである。 ベビーカーに乗った嬰児の姿も多かった。 もちろん、あのような若年者では展示の内容などほとんど理解できないであろうが、幼少の頃より科学技術に慣れ親しむということ自体に意義がある。

Tekniska Museet の展示の中には、技術的な意味で関心したものもあったが、いささか首をかしげるものもあった。 一つは Virtual Autopsy というものであって、どうやら CT 等を駆使することで、実際に解剖することなく、筋肉や骨などを 3D 画像で再現する、というものである。 要するに臨床的に用いられる 3D CT なのだろう。 スウェーデンでは、人が死んだ場合、非常に高い割合で解剖が行われるという。 警察庁の資料によると、警察に届け出られた死体のうち 9 割近くが解剖されるという。 しかし、できることなら解剖などされたくない、と感じる人が多いのは日本と同じのようであって、「実際に解剖しなくても、わかる」というのが Virtual Autopsy の利点として説明されていた。 この説明は、間違いというわけではないが、あまり正しくない。 骨折のような、解剖学的な構造の異常に関しては、確かに 3D CT などで十分に調べることができる。しかし細胞レベルの形態的異常や、臓器の機能障害については、画像ではどうにもわからないのである。 解剖して、必要に応じて顕微鏡で調べなければ、どうしようもない。 最近、ようやく日本でも行われるようになってきた Autopsy Imaging は、確かに有用ではあるが、Virtual Autopsy とまで言える代物ではない。

もう一つ、これはさすがに容認できぬ、と頭にきたのが X 線写真についてである。 以下に、説明文の一部を転載しよう。

The X-ray
X-rays are created when small particles travel at the speed of light and hit something that makes them slow down. The image that appears ○○ different colours depending on which tissue the particle hit.

「○○」の部分は、私が書き写した文字が汚くて、解読できない。`has' だと思うが、自信がない。 この文章が、X 線写真について、素人にもわかるように「易しく」説明しようとしていることは、理解できる。 しかし、その結果として物理学的におかしな説明になってしまっては、本末転倒であろう。 一体、`small particles' とは、何のことを言っているのか。 X 線そのもののことであるならば、光子を指していることになるが、それならば何かに衝突しても `slow down' することはない。 では `small particles' とは電子か何かのことで、制動放射線として X 線が生じることを言っているのかと考えると、今度は `travel at the speed of light' の部分が事実に反する。電子が光速に達することはないからである。 後半の `colours' というのも意味がわからない。 X 線写真はモノクロームであって、色はついていないからである。 物理学的には、X 線の波長の違いを「色」と表現することもあり得るが、そうした「色」の違いを画像として再現することは、あまり一般的ではない。 むしろ tissue の違いは、X 線の吸収率の違いでみるのが普通であって、それならば「色」ではなく「濃淡」である。 たぶん、ストックホルム大学かどこかの学者が監修についているのだとは思うが、一体、何を考えて、こんなインチキの説明を書いたのか。

さて、列車の中をみわたすと、なかなか面白い光景がみられる。 通路を挟んで私の反対側に座っている二十代ぐらいの婦人は、靴を脱ぎ、足を座席の上に乗せ、ムシャムシャとミカンを食べている。 まぁ、行儀が悪いといえば、悪い。

そのもう一つ前の席の三十代ぐらいの婦人は、科学者のようである。 何かの学会の proceedings のようなものをみながら、何かの原稿を書いているようである。 ときどきスライドの修正を行っていることから考えて、これからマルモの方で行われる学会での発表準備をしているのだろう。こんな直前に、そんなことで、大丈夫なのか。 スライドに乗せられている写真から想像すると、どうやら考古学か何かが専門のようである。 キーボードを、主に人差し指だけでタイプする流儀の人であるらしい。 指が痛くはならないのだろうか。

列車はストックホルムの南西、森と湖の豊かな地域を走っている。 この列車は WiFi サービスはもちろん、現在位置をリアルタイムで Google マップに重ねて表示するサービスも提供している。 これをみて喜ぶのは、小さな子供と、私のような外国人だけであろうが、たいへん、楽しい。


2016/02/27-2 ストックホルム

ストックホルムの港は、現在、拡張工事中であるらしい。 完成するまでは、船着場から旅客ターミナルまで、そこそこ長い距離を移動しなければならぬ。 フィンランドとスウェーデンはシェンゲン協定加盟国であるので、旅客ターミナルでは特に入国審査の類もなく、そのまま市中に出ることができる。 私は、ターミナルで無料配布されている地図をもらったが、開いてみても、現在位置がわからない。

周囲を観察すると、「Metro」「City」と書かれた表示がある。 よくわからないが、たぶん、アレに乗れば中央駅に行けるであろう。 私は、その標識の示す出口に向かった。 ところが、ターミナルを出ると、ごく普通の街中である。 地下鉄駅らしきものも、みあたらない。 それにもかかわらず、他の旅客は、ゾロゾロと同じ方向に進んでいく。 私は、きっと皆は地下鉄駅の場所を知っていて、そちらに向かっているのだろう、と考え、ついていくことにした。

後からわかったことであるが、道中にあった「Tunnelbana はコチラ」というような標識は、地下鉄駅の場所を示しているものであった。 Tunnel はトンネルであり、bana はドイツ語で言う bahn、つまり鉄道にあたるのだろう。 トンネル鉄道といえば、地下鉄に決まっている。

さて、案の定、なかなかわかりにくい場所に地下鉄駅はあった。 構内を進むと、チケット売場と改札がある。 ヨーロッパでは、長距離を移動する国鉄には改札のないのが普通であるが、近距離鉄道や地下鉄では、日本と同じように改札がある。 このあたりの違いが何によるのかは、知らぬ。

さて、地下鉄路線図をみると、恐るべきことに、英語表記がないだけでなく、現在位置が示されていない。 困り果てた私は、同じく路線図の前に立っていた、家族連れの紳士に「ここがどこだか、わかりますか?」と尋ねてみた。 すると彼は「いや、我々も同じ問題で悩んでいるんだがね」という。 しかし彼は私とは違いスウェーデン語を理解するらしく、地図と見比べた上で、ある駅を指して「これが yard だ。我々はここにいるらしい。」と言った。 つまり、ここを走っているのは T13 の路線であって、これに乗って Norsborg 方面に 3 駅進むと、そこがストックホルム中央駅であるらしい。 私は彼に礼を言ってチケットの自動販売機に向かったが、どうやら、この機械では支払い方法がクレジットカード限定であるらしい。 まぁ、一応、クレジットカードも持ってはいるのだが、これは非常用であって、基本的には現金で払いたかったので、私は窓口の方に向かった。

窓口の職員は英語を話したので、問題なくチケットを買うことができた。50 クローナである。 私は、関西空港で 1500 クローナを 25000 円近くで入手していたので、だいたい 1 クローナが 16 円程度である。 地下鉄 3 駅で 50 クローナというのは、あまりにも高いように思ったが、私の聞き間違いではなかった。 プラットフォームに降りて、Norsborg 方面行きの列車を待った。 ここでもまた恐るべきことに、列車が到着する際には何らのアナウンスもなかった。 黙って入ってきて、黙って扉が開き、そして黙って扉は閉じて、そのまま発車した。 実に硬派な地下鉄である。 もちろん、英語の車内放送などはない。 私は 3 駅数えて、さらにプラットフォームに T-Centralen と表示されているのを確認して、降りた。 T は Tunnelbana の T であって、つまり「地下鉄中央駅」という駅名なのだろう。

スウェーデンの首都たる国際都市ストックホルムの地下鉄にしては、外国人に対して不親切過ぎはしないか。 現在のストックホルムは世界有数の観光都市であるし、それに、ハンザ同盟の頃から、西方より訪れる旅客は珍しくなかったであろう。 今の時代に、英語の表示すら設けないというのは、一体、どういう了見なのか。 もちろん、スウェーデンの伝統を尊重する立場から敢えて英語を使わない、という選択は、あり得る。 日本でいえば、京都に英語の表示があることを「雰囲気を壊す」と疎ましく思う人も、いないではないだろう。 しかし後でわかるように、ストックホルムの王立公園ではスウェーデン語と英語の併記が当然に行われているのだから、そういう理由での英語忌避ではないように思われる。 単なる怠慢であろう。

さて、T-Centralen の地上にであると、そこは高層ビルに囲まれた大都会であった。 地面をみると、煙草の吸殻が道端に散乱している。 不道徳な未開人が少なからず存在するものと思われる。 私は、まず国鉄中央駅に向かおうとした。 あるビルディングには、Kulturhuset という表示があった。 私は、なんとなく、この単語に見覚えがあるような気がした。フィンランドでみた「駅」を意味する単語であるように思ったのである。 そこで、この建物に入ってみたのだが、どうやら映画館のようである。 後で気が付いたのだが、この Kultur というのは英語でいう Culture であろう。

このあたりで私は尿意を催したので、しかるべき設備を探した。 すると、利用料は 5 クローナだという。 私はスウェーデンに到着したばかりで、財布には紙幣しかなく、最も安いものでも 50 クローナ札である。 そこで、私はこれを崩すために日用品店を探し、水を買った。 500 mL のペットボトルで 22 クローナである。 スウェーデンには 1 クローナ、5 クローナ、10 クローナの硬貨と 20 クローナ札が存在するらしい。 私は、無事 5 クローナ硬貨を入手することに成功した。

ところで、この水を買ったのは失敗であった。 ヨーロッパでは炭酸水が人気である。 後に訪れた科学博物館における説明によれば、炭酸水は病気を治す効果があると、歴史的に信じられてきたという。 しかし私は、炭酸水が嫌いである。 従って、ヨーロッパで水を買う際には「炭酸ではない」という意味の still の水を買うことにしている。 この時買った水には、still という表示もみあたらなかったが、炭酸、という表示もみあたらない。 一方で naturell とは書かれていたので、自然のままの水なのだろう、と判断して買ったのである。 が、飲んでみると、これは炭酸水であった。 どうやらスウェーデンでは、`stilla' と書かれていないものは炭酸水である、と思った方がよろしいようである。

さて、先ほどとは別の、近くのトイレに入ろうとすると、今度は 10 クローナだという。 どうやら、低級トイレは 5 クローナ、高級トイレは 10 クローナと、場所によって料金が異なるものと思われる。 私の財布には、5 クローナ硬貨と 20 クローナ札はあるが、10 クローナ硬貨は入っていない。 そろそろ私の膀胱容量は上限に達しようとしていたので、そこに居合わせたトイレスタッフに話しかけると、彼は、当たり前のような顔をして、20 クローナ札を 10 クローナ硬貨に両替してくれた。 後でわかったことであるが、大規模な公衆トイレには大抵、スタッフが常駐しており、両替にも応じてくれるようである。

トイレといえば、ストックホルムの公衆トイレは、基本的に男女共用のようである。 どうせ全部個室なのだから構うまい、という理屈なのだろう。 あるいは、トイレを男女で分けるのは不当な性差別だ、ぐらいのことを考えているのかもしれぬ。 一理はあるのだが、どうも私は、落ち着かない。

さて、用を済ませた私は、ホテルに向かった。 どうやらストックホルムには、古風な建物と歴史的な街並みが保存されているようである。 中世風の洒落た建物に `Kebab House' という看板の出ている様などは、なかなか風流である。 ストックホルムには、Burger King と Seven Eleven が多いようである。 ホテルに着いたのは、だいたい正午頃であったが、問題なくチェックインできた。 イスタンブールでもそうであったが、こういう早めの時間帯であっても問題なくチェックインできるのは、助かる。

ホテルといえば、ヨーロッパ等の旅行経験者には常識なのであろうが、階の数え方は、国によって異なる。 日本では、入り口を入った階が 1 階であるが、これは米国式である。 英国式では、入り口があるのは Ground Floor であって、そこから一つ上がった場所が 1 階である。 イスタンブールでも、ここストックホルムでも、少なくとも私が泊まったホテルは英国式であった。 それに対し、ヘルシンキの Helka ホテルは米国式であった。

ここで、ストックホルムの乞食について言及しておこう。 私がみた限りで、船着場から地下鉄駅までの途中に一人、地下鉄駅構内で一人、地下鉄車内で一人、T-Centralen 周辺で三人の乞食がいた。このうち二人が男性で、四人が女性である。 スウェーデンは社会保障の充実した国であると聞いていたが、これは、どういうことなのだろうか。 特に、女性の乞食が少なくないようである、という点が気になった。 スウェーデンの社会保障は、本当に、機能しているのだろうか。 なお、日本でいう The Big Issue だと思うのだが、何やら冊子を販売しているホームレス風の人物もみかけた。これはヘルシンキでもみたのだが、彼らは乞食ではないので、上述の人数に含めていない。

ホテルで一休みした後、先ほどの Kulturhuset に入っている Tourist Information を訪れてみた。 掲示されている英語の地図をみると、どうやら海岸沿い東方に、科学技術博物館があるらしい。 手元の地図と見比べてみると、だいたい距離は 2, 3 km であろう。徒歩圏である。 私は、この博物館を訪ねることにした。 なお、近くの路上で羊毛の可愛らしいミトンの手袋を売っていた。 女性用のようであったが、自分用に120 クローナで購入した。

既に 14 時近かったが、昼食がまだであった。 近くにコレというレストランもみあたらなかったので、Sushi Rullen を買って食べた。寿司ロールである。 この店は持ち帰り専門であり、1 本で 30 クローナ、4 本で 100 クローナであった。 店頭には背の高いテーブルも置かれており、ここで立ち食いすることもできるようであったが、私は近くの広場のベンチで食べることにした。 スウェーデンの社会常識に照らして、広場のベンチで軽食を摂ることが不適切でないかどうか、気にはなった。実際のところ、どうであるのかは、知らぬ。 この Sushi Rullen は、全体としては日本の寿司ロールとよく似ていたが、具材にピリ辛ツナなど、日本ではあまりみかけないものが使われていた。

この広場では、何やらイラン政府の非道を批判するパネルを掲げ、音楽を流して何事かをアピールしている人々がいた。 あいにくスウェーデン語でしか書かれていなかったのでよくわからなかったが、いわゆる核開発疑惑云々ではなく、人道的な観点からのイラン政府批判であるらしかった。 イランの国内問題をスウェーデンで訴えてどうしようというのかは、よくわからなかった。 特に、スウェーデンは歴史的に中立を旨とし、他国の問題への介入を嫌ってきた。 第二次世界大戦の時も、対ソ連戦線で苦境に立ったフィンランドに対する援助を拒み、結果としてフィンランドのドイツへの接近を促した。 何が「人道」であるかは、たいへんに主観的な問題である。 某超大国などは、「人道」の名の下に、自国の利益のために他国への侵攻を繰り返しているが、スウェーデンは、それとは一線を画している。 それを思えば、ストックホルムでイラン政府の非道を訴えても仕方あるまい、と、私は思った。

さて、中央駅から東に向かって歩き始めたのだが、私と同じように、無料配布されていたストックホルムの地図を広げている観光客の多いことに気が付いた。 よくわからないのだが、このあたりは古い街並みが保存されており、ストックホルムの有名な観光地なのであろう。 海面に氷の張っている様も、趣がある。

さらに東に進むと、The Royal National City Park に至った。 この公園内は、散歩やランニングをする人の姿が多い。 ストックホルムの市内にはほとんど雪がなかったが、この公園の地面は雪解け水でぬかるんでいた。 どうやら、Tekniska Museet は、この公園内にあるらしい。 おわかりだとは思うが、Tekniska は Technique、Museet は Museum を意味するようである。 公園内には、他にもストックホルム大学などがあるらしい。 ストックホルムは、歴史的な学術都市でもある。 私は、大学院時代に、ストックホルムの連中が書いた面白い論文を何度か読んだことがある。 医学分野でも、特に臨床検査に関して、ときどきストックホルム発の風変りで興味深い論文が発表されるようである。 流行に乗るのではなく、キチンと地に足のついた、独自の研究を行う文化が、ストックホルムには根付いているものと思われる。 もし、あと一日、ストックホルムで過ごす時間があるなら、この公園や大学をブラブラと見学したかったのだが、残念ながら時間がないので、私は Tekniska Museet だけを訪れることにした。

道中には Nordiska Museet という、古風な建物の美術館もあったが、残念ながら、時間がないので立ち寄らなかった。Nordiska というのは、Nord の、という意味である。フランス語で Nord は、北、という意味であるが、どうやらスウェーデンでは Swedish という意味であるらしい。よく知らないが、たぶん、こちらが原義であって、フランス語に外来語として入った際に意味が変わったのであろう。

Tekniska Museet は、すばらしかった。 展示室には、ボート、とか、文字、とかいう、極めて基本的な「技術」から、集積回路や宇宙ロケットのような先端的技術まで、簡略な説明と共に展示品が陳列されていた。 そして体験室には、そうした技術や機械を体験するためのプレイコーナーが設けられていた。 これは、どちらかといえば子供に主眼を置いたコーナーのようである。 たとえば、接着剤を使わずにアーチ型の橋や門を作るためには石材をどう積めば良いか、ということを、クッションを実際に積み重ねることで経験できるようになっている。 印象的であったのは、女性の訪問者が多いことである。大人もそうであるが、小児も、女性が多い。 「女は機械に興味を持つものではない」などという歪んだ偏見は、この国には存在しない。

スウェーデンの人口は、1000 万人にも満たないという。 その小国が、日本と同等か、それ以上の科学技術水準を誇っているという事実を、我々は重く受け止めなければならない。 スウェーデン人には、幼児のうちから技術というものに親しむことで、科学に対する親しみと深い理解が育まれているのであろう。 日本では、極めて少数の、幸運にも恵まれた環境で教育を受けた人々だけが、学問を牽引している。 国民の平均水準でいえば、日本人の科学技術に対する理解は、スウェーデン人に遠く及ぶまい。 たとえば、日本で屈指の知能集団であるはずの医学科の学生のうち、コンピューターのプログラムを書くことができる者が、いったい、どれだけ存在するだろうか。


2016/02/27 バルトの風雪

私が乗った Symphony 号は、なかなかの豪華客船のようであるが、実際には、あまりサービスの行き届いた客船ではない。 12 階の Sun Deck のあたりには、ノブの取れてしまったドアだとか、ヒビの入った窓ガラスなどが、そのままに運用されているのである。

さて、朝食は 7 時からであるので、私は 6 時 30 分に目覚まし時計をセットして、昨晩は就寝した。 5 時頃に一度、目が覚めてしまったが、また寝て、目覚ましによって起きた。 身支度を整えて 7 時ちょうどに食堂に行くと、閉まっている。 ここで私は、時差のことを忘れていたことに気が付いた。

朝食は「local time で 7 時から」ということになっていたが、私はこれを深く考えずに、フィンランド時間に合わせて行動していたのである。 しかしスウェーデンとフィンランドの間には、一時間の時差がある。 どうやら、夕食の時の「local time」はフィンランド時間であったが、朝食の「local time」はスウェーデン時間であるらしい。 私は、一体、どの時点で「local time」が切り替わったのか、ということも気になったし、紛らわしいからどちらかに統一してくれ、とも思ったが、どうやら彼らは、そういう細かいことは気にしないらしい。 なお、時差に翻弄されたのは私だけではなく、他にも、フィンランド時間 7 時ちょうどに食堂に訪れた紳士がいた。

せっかく早起きしたので、Sun Deck に上ってみた。 もちろん、ミトンと毛皮の帽子で守りを固めていたのだが、それでも寒い。 積雪が少ないのは、たぶん、夜間にクルーが除雪したのだろう。 空はうっすらと明るい。 船は、大小の島々の間を、縫うように進んでいるようである。 これらの島は、無人のものが多いようではあるが、時々、街の灯らしきものもみえた。 私は、バルトの未明を満喫してから、船室に戻った。

しかし船室に戻っても暇なので、スウェーデン時間の 6 時 30 頃に、また Sun Deck に上った。 空は少しずつ明るくなっている。 まだ陽は昇っていないが、空の様子から、船は西に向かって進んでいるものと思われた。

ここで、私は、不本意ながらフィンランドまたはスウェーデンの汚点を示さなければならない。 船の中は禁煙であるが、甲板上では一部の場所を除き喫煙して良いことになっている。 ただし Moonlight Promenade は船内扱いなので禁煙である。 つまり、喫煙する場合は、外に出て、冷たい風に吹かれながら喫煙しなければならない。 なお、欧州の大半の国では、煙草の箱には `Smoking kills you.' とか `Somkers die younger' といった文言を大きく表示しなければならないことになっている。 そこには would とか might とかいった単語はなく、「喫煙により、あなたは死ぬ」「喫煙者は早死にする」と断定しているわけである。 日本のような「あなたの健康を害する恐れがあります。」などという、生ぬるい表現ではない。 これだけ厳しく喫煙は迫害されているのだから、「どうしても喫いたいなら、外に行け」と追いやられるのも、自然なことである。

しかし、禁煙区域である Moonlight Promenade の床の上に、吸い殻が落ちていた。 また、喫煙自体は許されている Sun Deck でも、吸い殻入れではなく、そのすぐ傍の甲板上に、多数の吸い殻が散乱していた。 ほんの 2 m 先に正規の吸い殻入れがあるのに、なぜ、床の上に捨てるのか。 行儀よく吸い殻入れに捨てるより、ポイと投げ棄てる方が格好良いとでも思っているのか。 もし、そうであるならば、連中の文明の程度は著しく低いと、言わざるを得ない。

さて、事前に予約しておいた朝食は 13 ユーロのビュッフェ形式である。 昨晩と同じような気取った料理がたくさんあるので、なかなか、お得である。 もちろんパンやミルク粥もあるが、肉も豊富である。 ヨーグルトに、ドライフルーツやベリー類を入れて食べるのも良い。 私もムシャムシャと食べたが、他の人も、三皿ぐらいは平気で食べている。 どうやら、フィンランド人は朝食をたらふく食べる民族であるらしい。

朝食の後は、また Sun Deck に上った。スウェーデン時間で 8 時半頃である。 せっかくのバルト海クルージングなのだから、この寒さと風景を存分に楽しまねば損である。 ちょうど、船尾方向に日が昇っていた。 いつの間にか雲も去っており、陽光が海面に反射している。これがバルト海の美しさであろう。 左舷前方から、Viking Line の客船がやってきた。どこに行くのかは、知らぬ。

後部甲板で、恐ろしい光景をみた。 二十代ぐらいの若い男が、手袋もつけず帽子も被らず、半袖のシャツで、歩き回っているのである。 フィンランド人は氷点下でも半袖で生活する、などというジョークがあるが、どうやら、それは本当であったらしい。

この頃になると、ストックホルムに近づいているせいか、左右の島々にも建物が目立つようになってきた。 もっとも、定住するための家ではなく、別荘の類かと思われる。

やがて、左舷前方に高層ビルの並ぶ大都市がみえてきた。 あれがストックホルムであろう。 この街は、かつてはニシンの塩漬けが主要な輸出品目であったが、近年では重工業が発展しているという。 確かに、高い煙突からモクモクと煙が吐き出されている。

これまで気づかなかったが、海面をみると、波立っている部分と、そうでない部分がある。 どういうことなのかと、よく観察しみてると、どうやら波のない部分は、表面に薄い氷が張っているようであった。 所によっては、その氷の上に小鳥が屯している。 我が船は、どうやら、この氷を粉砕しながら進んでいるようであった。

ストックホルム到着は 9 時 45 分である。 私は、降り遅れてはならぬ、と思い、身支度を完全に整えて 9 時 40 分頃には promenade で待機した。 しかし、どうやら、この考えは間違いであったらしい。 こうした豪華客船では、船が港に着いたからといって、ただちに下船を促されるわけではないようである。 もうすぐ停船する、という時になってから、悠然とレストランに入り、食事を開始する客も珍しくなかった。 確かに、レストランの営業時間も 11 時まで、などとなっている。 そんなことなら、慌てず騒がず、ゆっくりと甲板上から入港の様子を眺めていればよかった。


2016/02/26-3 バルト海

この原稿も、やはりバルト海上で書いている。

乗船開始時刻の 15 時 30 分が近くなると、Olympia Terminal には多数の人が集まっていた。 もちろん、特に急がねば乗船できない、ということもないので、私は列が短くなるのを待ってから、悠々と乗船手続きを行った。

乗船口では、フィンランドで最も有名な妖精、ムーミンが出迎えを行っていた。 船に入ると、左右に Promenade が伸びている。これは、7 階から 12 階までの吹き抜けになっており、通路の両側には飲食店や雑貨屋、服屋などが並んでおり、要するにショッピングモールである。 私は、客船といえば渥美半島と志摩半島とを一時間で結ぶ伊勢湾フェリーぐらいしか乗ったことがなかったので、なるほど、世の中には、こういう豪華客船もあるのか、と感心した。

8 階から 11 階までは、高級客室である。6 階は免税スーパーマーケットや食堂などであり、5 階が中級客室、4 階と 3 階が車両格納庫である。 私が乗る下級客室は、車両格納庫のさらに下、2 階である。 12 階には露天の Sun Deck がある他、窓越しに暖かい室内から外を眺めることのできる Moonlight Promenade もある。 船内の商店では、フィンランドの通貨であるユーロと、スウェーデンのクローナの、両方で値段が表示されている。

船の構造上、仕方のないことではあるのだろうが、Promenade に近い 8 基の中央エレベーターでは、我々の客室がある 2 階まで降りることができない。 我々は、船の前方外側にある 2 基のいずれかを使わねばならぬ。 差別的な取り扱いを受けているようで、あまり気分の良いものではない。 さらにいえば、どうも、この下級客室は乗客の質も低いらしく、深夜まで廊下で騒ぎ、ゴミを散らかす若者が少なくないようである。 実際、5 階の客室の通路には `Silence, please.' という注意書きがあるが、2 階には、それがない。暗に、船底で騒ぐ分には、やむをえない、と言っているのだろう。 次回、もしこの船に乗る機会があるならば、Eurail Pass による割引はなくなるが、せめて 5 階の中級客室に乗ることにしよう。

この船には、四人組の大学生ぐらいの、日本語を話す女性集団が乗っているようである。 たぶん、これとは別に、同じく日本語を話す大学生ぐらいの女性二人組もいると思われる。 一体、どうして、日本人は、こんな所にまで進出するのだろうか。

外の空気を吸いたい場合は、12 階の Sun Deck の他に、7 階でも左右および前部の甲板に出ることができる。 しかし外は寒いので、現実には、喫煙者以外は、ほとんど甲板に出る者はいない。

私は、甲板で外を眺めながら出航を迎えたかったのだが、あまりの寒さに防寒具を取りに船室へ戻っている最中に、船は動き始めてしまった。 出航直後は、私の他にも Sun Deck で景色を眺める乗客が幾人かいたが、やがて陸地がみえなくなると、私ともう一人を除いては室内に戻ってしまった。 私は、海しかみえない景色とフィンランド湾の寒さをしばらく楽しんだ後に、船室に戻った。

夕食は、事前に 19 時半から予約しておいたビュッフェ形式のものを摂った。 42 ユーロと、いささか高額であるが、相応に気取った料理を、気軽なビュッフェ形式で食べることができるので、悪くない。 フィンランドでは Sushi bar が人気であるらしく、ヘルシンキや Mikkeli の街中でもみかけたが、このビュッフェでも Salmon Sashimi だとか、Sushi roll などがあった。 試しに食べてみたところ、Sashimi にはオリーブ油か何かで味付けがされており、Sushi roll は何かクリーム様のものと一緒に鮭が巻かれていた。オリジナルの刺身や寿司とは違う何物かであるが、これはこれで、美味である。 これは、日本発祥の北欧料理と考えて差し支えないだろう。こうして異文化が混ざり合い、新しいものを作り出すことで、人類の文化は形成されていくのである。 ただし、Gyoza だけは、皮ばかり厚くて餡が少なく、イマイチであった。 あれが北欧人の好みに合致しているのだろうか。 なお、このビュッフェを予約していなくても Promenade には、かしこまった飲食店だけでなく Mundo という名の easy & quick を売りにする大衆的なレストランもある。

食事を終えた後、21 時頃に、また Sun Deck に上ってみた。 あたりは、真っ暗である。 左舷方向、たぶん南方だと思うのだが、何やら灯がみえた。 陸地というよりは、船のようにみえる。 ヘルシンキからストックホルムに向かう定期船は、この Silja Line の他に Viking Line もある。Viking Line は、我々が出航する際に、ちょうど車両を積み込んでいるところであった。 ひょっとすると、あの灯は、その Viking Line の船なのかもしれぬ。 右舷前方、1 時 30 分ぐらいの方向には、陸地と思われる灯があった。 まだスウェーデンの灯がみえるには早いであろうから、たぶん、フィンランドの南西端あたりであろう。

甲板を歩くと、風が強い。 出航時点では甲板に積雪はみられなかったが、この時点で、Sun Deck のテーブルの上には 10 cm 近くの積雪がみられた。足元にも、もちろん雪が厚い。 帽子が風に飛ばされないよう抑えながら、また、風に吹かれて転倒しないよう腰を落として、ゆっくりと歩かねばならなかった。 空には星一つみえない。 気温は、もちろん氷点下であろう。 なるほど、バルト海というのは、こういう所であったか。 この 1991 年に建造された Symphony 号は、全長 203 m、幅 31.5 m の巨大な客船であるが、それでも、バルト海の荒波により、なかなか揺れる。 かつて、ヴァイキングや、スウェーデンの商人、海賊は、こんな海を、GPS もレーダーもなしに、盛んに往来していたわけである。

先ほどから、ときどき、ゴーン、ゴーン、と、鈍い音が船底に響いている。 氷か何かがぶつかっているのだろうか。 あまり気持ちの良いものではない。

2016.03.01 誤字修正
2016.03.07 語句修正

2016/02/26-2 さらばヘルシンキ

この記事は、バルト海を往く船の中で書いている。

ホテル Helka をチェックアウトしたのは 10 時過ぎである。 最低限 16 時半までに Olympa Terminal に着けば良いのだから、時間は十分にある。 私は、GPS 機能を備えた携帯電話などはもちろん、Olympia Terminal に行くための地図すらも持っておらず、「ヘルシンキ駅から東に向かうと海に出る。そこから海岸沿いに南に行けば、Olympia Terminal に至る。」という知識だけを頼りに出発した。 ヘルシンキ駅に向かう途中、何やら古風な建物がみえた。 ひょっとするとキリスト教の礼拝堂か何かだろうか、と思って近づいてみると、どうやら国立音楽堂のようである。Sibelius. と書かれた横断幕か掲げられている。演奏会の宣伝か何かであろう。 しかし残念ながら、私は音楽を解するほどの教養を備えていないので、そのままヘルシンキ駅に向かった。

この段階で、どうもキャリーバッグの具合が悪いことに気が付いた。 引っ張っても、押しても、まっすぐに進まず、勝手に曲がろうとするのである。 それを無理矢理直進させようとすれば、変に力を加えねばならず、疲れる。 車輪自体はキチンと回っているようである。 私のキャリーバッグは、車輪が 360 度、回転する方式なのだが、どうやら、この回転機構に障害を来しているものと思われた。 たぶん、一昨日、ヘルシンキに着いてから雪と砂利の荒道を放浪した際、車輪のデリケートな部分に塵埃が入り込んでしまったのだろう。

せっかくだから、このキャリーバッグについて失敗したことを書いておこう。 私は、スウェーデンの Innovator というブランドのものを、今回の旅行のために購入した。 これはスウェーデンの国旗をデザインしたものであって、つまり、青地に黄色の十字が描かれた意匠となっている。 私は何も考えずに、これをイスタンブールに持って行ったのだが、これは軽率であったと言わざるを得ない。 この十字は、単にスウェーデンの国旗であって、それ以上の何らの意味も持たないのではあるが、はたして、トルコのイスラム教徒がこれをみて、どう感じたであろうか。

トルコを含めアラブや北アフリカのイスラム諸国からすれば、歴史上、十字軍は侵略者に他ならない。 実際、パレスチナの地は元々キリスト教徒の土地でも何でもないのだから、「聖地奪還」という十字軍の主張には無理がある。 そもそも、仮に、その土地がイスラム教徒に奪われたものであったとしても、それを武力によって奪還することは、聖書の教えに反する。 要するに、アレは単に政治的意図による侵略に、キリスト教という名分を掲げただけのものに過ぎなかった。 その十字軍に苦しめられた歴史を、アラブやトルコの側は、忘れてはいない。 あの、デカデカと十字を描いたキャリーバッグでイスタンブールに降りたのは、いささか、配慮を欠く行為であった。

閑話休題、私は、ヘルシンキ駅から東に向かって出発した。 とはいえ、曇天のために太陽はみえず、方位磁針も持っておらず、しかも道がまっすぐではないものだから、本当に自分が東に進んでいるかどうか、途中で自信をなくしてしまった。

途中で、一人の乞食に会った。これで三人目である。 ヨーロッパには乞食が多いということは既に知っていたし、過去に悩んだ末に乞食は原則無視、と決めていたから、ここでは迷わず無視した。 乞食の存在はフィンランドの国内問題であって、我々のような外国人が、安易に介入するべきではあるまい。 もちろん、かつてのヴェネツィアで会ったような、聖人と思われる乞食に対しては敬意を持って接するつもりであったが、結局フィンランドでは、そういう乞食には出会わなかった。

しばらく進むと、幅の広い川のような所に架けられた橋に至った。 私は、困った。 もし、これが川であるならば、これを渡ってさらに東に進めば、海に出るであろう。 一方、もし、これが海であるならば、橋を渡らずに、この海を左にみる形で進まねばならぬ。 しばしの逡巡の末、私は、「これは海だ」と決めつけた。 ヘルシンキの近くに、このような大きな川が流れているというなどという話を、私は知らなかったからである。 たぶん、予定していた方向からズレて歩いてしまったために、本来よりも北側の地点で海に出てしまったに違いない。橋の対岸は、たぶん、ヘルシンキより北の方にある小島なのだろう、と、私は考えた。

海に沿って、私は歩いた。もちろん、不安を抱えながら、である。 雲の切れ間に対する陽光の当たり方から考えると、たぶん自分は南に進んでいるのだろう、たぶん、この道は Olympia Terminal に続いているだろう、と思いながら、私は進んだ。 もちろん、意地を張らずに地元の人に道を尋ねれば話は簡単なのであるが、こうして未知の土地を迷いながら歩くこと、その過程で地元民の生活の様を眺めることこそが、旅の醍醐味なのである。 地元民に助けを求めるのは、本格的に困ってからで良い。

しばらく進むと `Katajanokka' `Skatudden' と書かれた道路標識があった。 フィンランド語とスウェーデン語なのだと思うが、もちろん、私には読めない。 しかし、その横には、船の絵が描かれていた。 港、を意味する標識なのであろう。 私は、安堵した。 ただし、油断はならぬ。なにしろヘルシンキは港町であって、私が乗る Tallink Silja Line だけでも二つの埠頭を使用している。 この標識が指している場所が、私の目指している Olympia Terminal だという保証はない。 もし、これが別の埠頭であったなら、さすがに諦めて地元民に救援を頼もう、と決めた。

さらに進むと、港に停泊している大きな客船がみえた。 船体には Silja Line と書かれている。やはり、そうか。 Silja Line が使用している別のターミナルである可能性も否定はできないが、十中八九、Olympia Terminal であろう。 船の停泊している場所に向かって、私は歩いた。 すると、雲の切れ間から、太陽が顔をのぞかせた。 フィンランドに来てから、太陽をみたのは、これが初めてであった。 苦労して Olympia Terminal にたどり着いた、このタイミングでの陽光である。感動的な瞬間であった。

さらに進むと、Salmon Soup などを売っている屋台があった。7 ユーロである。 テントが張られていて、その中で飲食できるらしい。 この時、時刻は 12 時半頃であった。 飲食の他にも、手作りの工芸品や防寒具の屋台もあった。 私は、そこでトナカイの角の首飾りを買った。 フィンランドの伝承で、トナカイの角には魔除けの効果がある、という話があったような気がする。 別の屋台では、毛皮の帽子を買った。本当は Mikkeli に行く前に入手できていれば良かったのだが、まだこれからも活用の機会はあるだろう。 本来は 125 ユーロのところを、50 % 引きのセール中とのことで、60 ユーロであった。 端数の 2.5 ユーロはどこにいってしまったのか、とも思ったが、どうやらフィンランド式算術では、そうなるらしい。

Olympia Terminal の前に掲げられていた地図をみて、私は、アッと驚いた。 それまで私は認識していなかったのだが、ヘルシンキの東南東には小さな島があり、南北の二つの橋で結ばれているのである。 先ほど、私が「川か、海か」と迷ったのは、この南側の橋の場所であったものと思われる。 私は「予定より北側で海に出た」と思っていたが、実際には、予定より南側で海に出ていたことになる。 ここに島がある、などという重大な情報を見落としていたとは、一体、私は、どういう地図の読み方をしていたのだろうか。

出航は夕方なので、私はターミナルで荷物を預けて、先ほどの屋台に向かった。 どうやら Salmon Soup 以外にもメニューはあるらしい。 私は、昨日の Mikkeli からの帰途で既にサーモンスープは経験済みであったから、Mixed Fish というものを注文した。15 ユーロである。 出されたのは、鮭や、カタクチイワシのような小魚や、タコのフライ、野菜などを盛ったプレートであった。 この料理はたいへんに美味しかったのだが、閉口したのは、この屋台で日本語を話す二十代か三十代ぐらいの女性二人組に遭遇したことである。 どうして、たった二日間のヘルシンキ滞在で、三度も日本人に会うのだろうか。 最近、日本ではフィンランド旅行が流行しているのだろうか。

ところで、誤解があるといけないので明記しておくが、こうした屋台で食事をするのは、フィンランド的習慣でも何でもない。 まっとうなフィンランド人は、わざわざ、こんな寒いところで食事をしない。 当たり前のことだが、暖房の効いた暖かい部屋で、食べる。 もちろん、Olympia Terminal の近くには、そういう当たり前の形で食事をできる場所もあった。 私がわざわざ屋台を選んだのは、ただ、面白そうだったからである。 日本でいえば、東京の晴海埠頭で、焼き鳥か蕎麦の屋台に入るようなものであろう。

食事を済ませてターミナルに戻ったのは、14 時頃である。 乗船開始は 15 時半からなので、まだ一時間以上、暇である。 そこで私は、海岸沿いに南方を探検することにした。

港の近くでは、海面に、少しの氷が浮いている場所があった。 私は、これをみて、オヤ、と思った。海面に顔を出している部分が、少なすぎるように思ったのである。 氷の比重は、普通、0.9 ぐらいであるから、真水に氷が浮いている場合、全体の 1 割程が水面より上に出る。 海水は真水より重いから、海では、もっとたくさんの部分が水面より上に出なければならない。 しかし、私がみたした氷は、全体の 95 % ぐらいが、水面下にあるようにみえたのである。

よくよく観察した結果、私は、この氷は海水が凍ったものではなく、雪が海面に積もったものである、と結論した。 もともとが雪であれば、ミッチリと固まった氷とは違い、内部にはたくさんの隙間があるスポンジ様の構造であろう。 その隙間に海水が入り込めば、その「穴」の周囲の氷から融けていくので、穴はさらに拡大する。 結果として、みための大きさの割に、実際は穴だらけで、実際の氷の体積は小さくなるのである。 海面より上にある部分は、こうした海水との接触による穴の拡大がないから、比較的、氷の体積が大きい。 その結果として、全体の 95 % 程度が海面下に存在するかのようにみえる、不思議な氷が出来上がるのである。

そこまで納得してから、私は、さらに先へと進んだ。 途中には、土日のみ営業しているというカフェの看板があった。

ヘルシンキの南の海岸は、公園として整備されているらしい。 海を望むベンチなどもあり、夏場には格好のデートスポットになるに違いない。 しかし、季節は冬、積雪の時期である。 公園を歩く人は少なく、入江には氷が浮かんでいた。 赤子を乗せたベビーカーを押す女性の姿もあった。 なるほど、フィンランド人は、嬰児の頃より、ああして寒さに耐える訓練を積んでいるらしい。 これこそが、冬将軍を味方につけ、東方の熊を撃退する秘訣なのであろう。

私は、もし散歩の途中で Hesburger があれば体験しておこうと思っていたのだが、あいにく、店はなかった。Olympia Terminal には、フィンランドでは最大手と思われる Robert's Coffee というコーヒーチェーン店があったが、あいにく、私はコーヒーも紅茶も嗜まないので、こういう店は好きではない。


2016/02/26 ヘルシンキの朝

私が泊まった Helka というホテルは、道に迷いさえしなければヘルシンキ駅からのアクセスも良く、部屋は小洒落た内装で、それになにより、朝食が充実している。 野菜は少なめだが、フィンランド風のパンや卵焼き、ミルク粥、ミートボールやソーセージなどが豊富に揃えられている。 どうやら、フィンランドではミートボールが人気のようである。 私のような、朝っぱらからモリモリと肉を食べたい、それも、できればハムやソーセジなどではなくステーキを食べたい、と思うような肉食人種であっても、ここのソーセージやミートボールには満足できる。 ヘルシンキ滞在を考えている人には、ぜひ、このホテルをお勧めする。 もちろん、Mikkeli に遊びに行く人は、昨日書いた Angela に立ち寄られると良い。

フィンランドの街中では、公衆トイレをみつけることは難しくない。 駅やショッピングモール等には必ずトイレがあるし、街中にも、信号機の傍に「WCはこちら」というような表示がつけられていることもある。 利用料金は 1 ユーロで、駅のトイレも有料である。 ヘルシンキのショッピングモールにはトイレが無料のところもあったが、これは例外であって、普通は有料である。 ドアノブに硬貨投入口がついており、ここに 1 ユーロを入れるスタイルである。 従って、常に 1 ユーロ硬貨を持っておくことが重要である。

今日は、夕方にヘルシンキを出る便で、海路をストックホルムに向かう。 ヘルシンキからストックホルムに向かう場合、一応、スカンディナヴィアの北側から、鉄道とバスで行くこともできるらしい。 しかし、ストックホルムもヘルシンキも、かつてハンザ同盟の頃に、バルト海貿易で栄えた街である。 それを思えば、ここで敢えて陸路を選ぶのは、かえって無粋というものであろう。

私が乗るのは、Tallink Silja Line の定期便であり、ヘルシンキを 17 時に出て、ストックホルムには明朝 10 時前に着くらしい。 Eurail Pass 保持者料金の C class cabin にディナーと朝食をつけて 189 ユーロである。 Eurail Pass による割引は cabin の料金にのみ適用されるが、その割引率は日によって違うらしく、今日は金曜日、週末なので、あまり安くならなかった。 ディナーは 19 時 30 分からであるが、15 分遅刻するとキャンセル扱いになるらしいので、注意しなければならぬ。

船は、ヘルシンキ駅の東にある Olympia Terminal から出港する。 それまで、ヘルシンキの街をブラブラすることにしよう。


2016/02/25-3 フィンランド追記

先ほど、フィンランドで大人がアーケードゲームに興じているのは賭博要素がない分だけ健全だ、と書いたが、これは、とんでもない事実誤認であったので、撤回せねばならない。 ヘルシンキ駅で彼らが遊んでいるゲームの画面をみると、カジノで扱われるようなルーレットや、絵合わせのスロットであった。 よくよくみると「K18」という表示もあり、これは 18 歳未満禁止、の意味であると思われる。 はっきりと確認したわけではないが、たぶん、これはギャンブルであろう。 賭博の遊戯台がヘルシンキ駅に設置されている、という私の理解が正しいならば、これは、不健全どころの騒ぎではない。フィンランド社会は堕落している。

ヘルシンキにせよ Mikkeli にせよ、マクドナルドやバーガーキングといったハンバーガー屋は多いが、最大勢力は Hesburger というブランドのようである。 たぶん、フィンランドの地元チェーンなのであろう。 明日、機会があれば、この Hesburger を試してみようと思う。

今朝、ヘルシンキ駅周辺を歩いているとき、二人の乞食をみた。 いずれも女性であり、硬貨が入っているとみられる紙コップを上下にゆすっていた。 たぶん、これがフィンランドにおける無心のスタイルなのだと思われる。 念のために書いておくが、ホームレスと乞食は、大きく異なる。 日本では、乞食をすることは軽犯罪法違反であるが、ホームレスになること自体は罪ではない。 フィンランドでどうなのかは、知らぬ。 私はかつてヴェネツィアで聖者のような乞食をみたことがあるが、このヘルシンキの二人は、いずれも、ただの乞食であるようにみえた。 ヴェネツィアの乞食については、三年ほど前に日記で書いたことがあるし、長くなるので、再掲しない。

トルコにもフィンランドにも、日本と同じような、押しボタン式の横断歩道は存在する。 イスタンブールの場合、ボタンの色は赤や緑など、場所によって違った。 ボタンの傍には、何やらイラスト付きのトルコ語で説明がなされているのだが、 私はトルコ語が読めないうえ、イラストだけでは何を言っているのかわからなかった。 たぶん横断歩道の押しボタンだろう、ぐらいには思ったが、確信が持てない。 現地人は、ボタンなど押さずに、黙って信号無視して横断している。 こういう時に、妙に遵法意識を発揮してボタンを押すとトラブルの元になりかねないので、私は、現地人のマネをすることにした。 どうやらイスタンブールでは、押しボタンを使うのは、速く歩くことのできない女性や高齢者、大きな荷物を持った者ぐらいのようである。

これに対し、フィンランドの押しボタンは優秀である。 銀の大きなボタンの上に、イラストで「押して、渡れ」という意味の表示がなされている。 文字による説明はなく、私のように言語を理解しない者であっても、理解できるようになっている。 これに比べると、日本の押しボタンは、まずい。 「おしてください」という日本語の表示が読めない者は、あれを押して良いものかどうか、判断できまい。 しかも、ボタンの色が赤である。 あれは、何かの非常ボタンのようにみえないこともない。

2016.02.26 過去の日記へのリンク追加

2016/02/25-2 Mikkeli

この原稿を書いているのは、Mikkeli からの帰りの列車内である。 Mikkeli 駅は、スウェーデン語では S:t Michel と表記されていた。つまり聖ミカエルである。 この街では、いささかロシアに近いこともあり、街中にフィンランド語、スウェーデン語と並んでロシア語の表記もしばしばみられる。

14 時頃に着いた Mikkeli 駅は、雪に包まれていた。一応、通路は除雪されているのだが、積雪量としては 20 cm 近いのではないかと思われる。寒い。かすかに雪も降っている。 駅の隣にはバスターミナルがあり、どうやらヘルシンキ行きの長距離バスが走っているようである。 列車は日に 8 本しか止まらないが、公共交通の主流はバスなのかもしれぬ。

駅から街の中心の方をみると、彼方にキリスト教の聖堂らしき建築物がみえる。 聖堂は後で訪れることにして、まずは駅周辺を探索することにしよう。 住民は皆、しっかりと防寒して雪靴を履いているが、私は特別な雪対策などしていないから、普通の革靴である。転ばないように気を付けて、慎重に歩かねばならぬ。 幸い、自動車の運転マナーはたいへんによろしく、信号のない横断歩道で車の通過を待とうとすると、「いえ、そちらがどうぞ」とばかりに、徹底的に、こちらに道を譲ってくれた。

Mikkeli は、それほど大きな街ではないようだが、駅前には多数のショッピングモールがある。 そのうちの一つで、ミトン型の手袋を 30 ユーロで購入した。 私が着用していた革の手袋も悪くはないのだが、せっかくだし、現地の防寒具というものを試してみたかったのである。 フィンランド規格なので私には少し大きかったが、特に不便はなく、暖かい。 帽子の類も欲しかったが、気に入る物がなかったので、諦めた。

小一時間、街を散策してから、15 時過ぎに Angela という、大衆的な外観のレストランに入った。 フィンランドでは、通常のメニューはフィンランド語やスウェーデン語であり、英語のメニューは別途、用意されていることが多いようである。 店員は、私が言語を解さぬとみるや、英語のメニューを出してくれた。 ただし、英語のメニューがあるからといって、店員が英語を話すかどうかは、別の話である。 このとき店頭に立っていたのは、店のオーナーの息子であろうか、十代とみられる少年であった。 彼はフィンランド語と英語の混じった言葉を話し、「えへへ、英語わかんないよ、困ったな、へへへ」と言わんばかりの雰囲気を醸し出していた。たいへん、可愛らしい。 もっとも、私の方も「うーむ、フィンランド語はわからんぞ、困ったな」と思っていたのだから、お互い様である。

昨日のインド料理店でもそうであったが、どうやら、まず店の入り口付近のカウンターで注文し、その後に奥の座席に座る、というのが作法であるらしい。 サラダバーのようなものもあり、これを食べながら待つのが普通のようである。 この店は、ケバブやらピザやらステーキやらを食べさせる店のようであったので、私はビーフステーキを注文した。日本では、しばしば「パンかライスか」の選択を求められるが、ここでは「ライスかポテトか」と問われた。 どういうライスが出るのか興味もあったが、ポテトを選んだ。 この時、私は日本でいう、じゃがバターか、こふきいものようなものを想像していたのだが、実際に出てきたのはフライドポテトであった。 ステーキの肉はいささか硬かったが、ソースが美味であり、付け合わせの野菜ともども、おいしく食べることができた。

私の隣のテーブルについた男は、とても大きなピザを注文していた。メニューによれば、ピザは normal と family size とがあるらしかったが、たぶん、あれは family size であろう。 あの巨大なピザを、一人で食べるのか。フィンランド人の食欲は旺盛であるな、と思いつつ、私は、窓の外を眺めるフリをしながら横目で彼を観察していた。 すると彼は、ピザを半分ばかり食べたところで、店員からアルミホイルを受け取り、残りを包んでし まった。たぶん、残りは今日の夕食にするつもりなのであろう。

Angela を出たのは、16 時過ぎである。 駅の正面の丘の上にある聖堂に向かった。 簡略に礼拝をして少しの寄付でもしておこう、と思ったのである。 しかし、いざ着いてみると、聖堂は閉ざされている。 扉には「聖堂は月曜日から金曜日の午前 10 時から 11 時の間、開かれている」との掲示があった。

ヘルシンキに帰る列車は 18 時過ぎであるから、まだ時間がある。 ふと立ち寄ったショッピングモールの入り口で、Mikkeli の地図が無料配布されていた。 それによると、どうやら駅の反対側は湖であるらしい。 Mikkeli に至る車中から観察したところによれば、この時期、湖面は凍結し、その上に積雪する結果、湖は一見、単なる雪原のようにみえるようである。 時間もあることだし、と、湖を眺めに行くことにした。

湖と思われる雪原には、自動車の車輪の跡と思われる痕跡がいくつか、残されていた。 自動車が安全に通行できるほど、厚く丈夫な氷が形成されているようである。 また湖岸と思われる場所には、二隻の船が停泊しているようにみえた。 こうして湖畔で越冬しているのか、それとも単に船の格好をしただけの建築物であるのかまでは、知らぬ。 自動車が湖上を通行可能なら、当然、人間が歩いても大丈夫なはずだが、私は試そうとは思わなかった。万が一、氷の薄い場所を踏み抜いて湖に沈没してはたまらないし、そもそも私は雪靴を履いていないので、深く積もった雪の中を歩くのが困難でもあったのだ。

駅に戻ると、時刻は 17 時である。まだ、列車の到着まで一時間ある。 駅舎は暖房が効いていて過ごしやすいが、特にすることもない。 そういえば、先ほど、聖堂前のショッピングモールでサブウェイをみかけた。 あの、細かなカスタマイズができる一方、何やら呪文のような注文を唱えなければならないことで初心者に敬遠されてしまう、あのサンドイッチ屋である。 実はあの呪文については、メインの具だけ述べて、後は全部「おすすめで」で済ませてしまうことができるので、何も難しいことはないのだが、初めての人は戸惑うのが当然である。 私は、サンドイッチそのものより、フィンランドのサブウェイにおける注文方法に興味があったので、列車待ちの時間に、これを試してみることにした。

サンドイッチの具材としては、Kana Teriyaki というものもあった。Kana とは、英語で言う Chicken の意味のようだから、つまり、これは照り焼きチキンである。 私は、せっかくなので日本ではみないものにしようと思い、Steak & Cheese というものにした。 カウンターには、フィンランド語などで注文方法が説明されているが、英語は書かれていない。 日本におけるサブウェイの注文方法を念頭に、絵から情報を読み取ると、まずパンの種類を選ぶらしい。私は Vaalea というものを選んだ。 たぶん日本でいう「ウィート」であろうが、何しろ私はフィンランド語の読み方を知らぬ。 わからぬままに英語風に「ヴァーリア?」と言ってみたら、通じた。 次に、サイズを選ぶらしい。15 cm と 30 cm の二種類がある。 日本では、黙っていれば 15 cm になるのだが、フィンランドでは 30 cm を食べる者も多いのであろう、明示的に大きさを宣言する必要があるらしい。

ここまで言ったところで、店員はサンドイッチを作り始めた。 トッピングはつけるか、と問われたので、いらぬ、と答えた。 日本であれば、次は「野菜は全部入れても良いか」と問われるのであろうが、ここで、店員は「入れる野菜を選べ」と言った。 後から思えば、「全部」とでも言えばよかったのだろうが、「選べ」と言われて「全部」と答えるのは、なんだか強欲な感じがして、はばかられる。 そこで私は default とか normal とか言ったが、通じない。「選べ」と繰り返される。結局、私はトマトとオリーブとタマネギを選んだ。 なお、サンドイッチの具材は Steak & Cheese であったが、この Steak というのは、牛肉か何かの細かいものを、少しのピーマンか何かと共に炒めたようなものである。日本語で言うステーキではない。 値段は、このサンドイッチ単品で 6 ユーロであった。現在、1 ユーロは概ね 124 円ぐらいであるから、つまり 744 円である。日本のサブウェイなら、サンドイッチ単品は高くても 600 円程度である。ヨーロッパに比べると日本では、食品は安いことが、ここからも読み取れる。

さて、列車は 18 時 07 分の予定であったが、少しだけ遅れて 18 時 10 分に Mikkeli 駅を出発した。私は、19 時過ぎに食堂車に行き、 Creamy Salmon Soup を注文した。11.5 ユーロである。席について少し待つと、たいへん立派なスープが運ばれてきた。 鮭やジャガイモやタマネギなどの具がたっぷりと入ったスープであって、街中のレストランで供されるものと比較しても遜色なかった。 一つ誤算であったのは、既に日は没し、外は暗闇であり、列車は森林湖沼の間を走り続けているために、窓からの景色が全く美しくないことである。 これでは、わざわざ列車の食堂車で食事をする喜びも半減である。 もっとも、これから帰国するまでの間に、食堂車を利用する機会は何度もあるだろうから、楽しみは後にとっておくことにしよう。

こういう場所で食事をするとき、気になるのは「食べ終わった食器は、どうすれば良いのか?」 ということである。 スタッフに尋ねれば問題ないのだが、そういう基本的な作法について問うのは、なんだか田舎者丸出しのようで、コシャクである。 本来は自分で片づけるべきところを放置して去ってしまえば野蛮人に思われるし、逆に、本来は放置すべきところをカウンターに持っていくのも、余計なお世話である。 そこで他の客の振る舞いを観察したところ、どうやら、放置して去ればスタッフが片づけに来るという方式であるらしかった。 こういうことは、どこかにわかりやすく書いておいてくれると助かるのだが、それをやると下品になるから、敢えて書いていないのだろう。

食事を終えた頃、列車は Kouvola 駅に停車した。 すると、迷彩服を着たフィンランド兵と思われる軍人の集団が乗り込んできた。 日本では、なかなかみられない光景である。 日本では自衛隊を嫌う国民も少なくないから、自衛隊の方も、そのあたりは気を使っているものと思われる。 一方、フィンランドでは兵役の義務があったように思うが、たぶんそのことも関係して、軍に対し悪感情を抱いている国民は少ないのであろう。

ところでフィンランドでは、ヘルシンキにせよ Mikkeli にせよ、駅舎の中やショッピングモールなど、至るところにアーケードゲーム機のようなものが設置されている。 そして日本と違うのは、このゲーム機で遊んでいるのは子供ばかりでなく、むしろ白髪の老人の姿をみることも珍しくない。 考えてみれば、日本でもパチンコなどという、合法だか違法だかわからぬゲームに少なからぬ大人が興じているのであって、そういう意味では、賭博の要素がない分、フィンランドの方が健全である。

時刻は現在 20 時 18 分である。列車は、あと三十分ほどでヘルシンキに到着する。

2016.02.26 脱字修正

2016/02/25 フィンランド国鉄

この原稿は、フィンランド国鉄の列車内で書いている。 ヘルシンキには、明日の夕方まで滞在する予定になっている。 そこで昨晩、フィンランド政府観光局のウェブサイトをみて考えたのだが、ヘルシンキより北東に広がる湖水地方を訪れることにした。 観光局が紹介していた中では、Savonlinna という街にある古城に惹かれた。 しかしヘルシンキからはいささか離れていること、城の公開は 15 時までであること、そしてヘルシンキから Savonlinna まで行く列車は数が少ないことから、8 時過ぎには出発しなければならぬ。早すぎる。 ここであまり頑張って疲労が蓄積してもいけないので、もう少し近場を訪れることにした。

そこで候補に挙がったのが、ヘルシンキから直通の InterCity で三時間足らずの Mikkeli である。 何やら風光明媚な土地であるらしい。 もっとも、私はインドア派なので、せいぜい散歩して食事して帰ってくるぐらいのことしかしないであろうが、片道 3 時間かけて Mikkeli まで食事をしに行くというのも、なかなか贅沢なことである。 しかも私は 15 日間有効な Eurail Global Pass を持っているので、フィンランド国鉄は無料、ないし指定席料金のみで乗車できる。 一応、国鉄のウェブサイトによれば「必須ではないが、座席予約を推奨する」とのことである。

朝 8 時過ぎの列車は早すぎるので、次の 11 時 12 分の列車に乗ることにした。 ホテルでゆっくりと朝食を摂った。食堂の先客には、またしても、日本語を話す、夫婦とみられる二人組の中年男女がいたが、言葉は交わさなかった。 ビュッフェ形式の朝食で、米ではない何らかの穀物のミルク粥のようなものと、少しの野菜と、ベーコンやソーセージを食べた。 9 時半頃にヘルシンキ駅に向かい、Ticket Office で Eurail Global Pass の Activation を行った。これにより今日から 15 日間、3 月 10 日まで有効になる。 Mikkeli に行く列車の座席も予約しようと思ったのだが、窓口のマダムは、どうやら Eurail Pass 所持者の座席予約のやり方がわからなかったらしい。 「席はガラガラだから、予約なしで大丈夫だよ」とのことであった。

列車の出発まで 1 時間ほど余裕があったので、駅近くの百貨店に行ってみた。 フィンランドは思いのほか寒く、しかも昨日調べたところでは、Mekkeli の今日の最高気温は 0 度、最低気温は -2 度、などという話であったから、暖かい帽子か何かを調達しようと思ったのである。 しかし、あまり気に入る物がなかったので、結局、現地調達することにした。

11 時少し前からヘルシンキ駅で列車を待ったのだが、一向に来る気配がない。 発車予定の 11 時 12 分になって、ようやく列車遅延のアナウンスが行われ、到着予定時刻は 11 時 17 分であるという。 もう少し早くアナウンスして欲しかったが、まぁ、彼らには彼らの事情があるのだろう。

ヨーロッパの長距離列車では、たいてい 1st class と 2nd class に客車がわかれているが、料金の差は、それほど大きくない。また、大人用の Eurail Pass は 1st class 用のものしか存在しないようである。 従って、私は 1st class の客車に乗って発車を待った。 客車内には、PC や携帯電話のための電源や、セルフサービスのコーヒーやミネラルウォーターも備えられている。 食堂車もあるはずなので、後でみにいくことにしよう。 なお、列車内で携帯電話の通話を行うべきではない、という通念は、日本独自のものではない。 欧州の列車でも、1st class では静粛に過ごすのが当然とされている。 この列車でも、通話するための隔離された個室が、わざわざ車両の端に設けられている。

車内放送で途中駅をアナウンスしていたが、Mikkeli の名は挙がらなかった。 しかし発車時刻や行先、路線図から考えて、Mikkeli に行くのは、この列車に違いないはずである。 たぶん、主要な経由地しか言わなかったのだろう、と判断した。

やがて出発した列車は、ヘルシンキから北に向かう。 車窓からみえる景色は、雪、雪、雪、である。 森林も多い。私は植物学には詳しくないのだが、どうやら白樺の類が多いようである。

列車は、まもなく Kouvola に着く。 いよいよ、ここから湖水地方に入っていくことになる。

2016.03.09 誤字修正

2016/02/24-3 はじめてのヘルシンキ

飛行機がフィンランド湾の南岸、たぶんエストニアあたりの上空に至った時、雲の切れ間から、雪に覆われた大地がみえた。 実は私は日本を出た時では、この時期のフィンランドが雪に覆われているとは思っていなかった。まぁ、名古屋よりは寒いだろう、ぐらいに考えていたのである。 イスタンブールでトルコ人や韓国人から、今の時期のフィンランドは寒いでしょうね、などと言われた時も、まぁ、イスタンブールよりは寒いだろう、ぐらいにしか思わなかった。 しかし、そうか、二月末というのは、フィンランドでは、まだ雪の季節であったかもしれない、と、この時、初めて認識した。 フィンランド湾北岸、つまりフィンランド側の上空に至ると、海岸に氷が満ちている様子がみえた。冬の北欧では港が凍結する、という噂は聞いていたが、なるほど、それは事実であったらしい。 陸上も、雪で真っ白であった。

飛行機から外に出ると、吐息が白い。空港の滑走路は除雪されているが、それ以外の部分には、10 cm 程であろうか、積雪がみられる。 ワクワクしながら、トイレを済ませて入国カウンターに向かった。 フィンランドの入国審査は、マジメであった。 「ヘルシンキに滞在するのか」「ヘルシンキの後はどこに行くのか」「その後はどこに行くのか」「帰りのチケットをみせてくれ」「旅費はどのくらい用意しているのか」などと、細かく問われた。 怪しい外国人の不法侵入を防ぐために入国審査をキッチリ行うのは、たいへん、よろしい。

私のホテルはヘルシンキ中央駅の近くなので、そこまで鉄道で移動しなければならない。 空港には、もちろん英語の案内もあるので、迷わず鉄道駅に向かうことができた。 駅に向かう途中に鉄道路線図やチケットの自動販売機もあった。 この自動販売機を、私は英語表示モードで使用したのだが、発券中に `Wait' と表示するなど、なかなか不愛想であった。せめて `Wait a moment, please.' ぐらい言えないものかと思うのだが、こういうところが、フィンランドの可愛らしさともいえる。

トルコを含め他のヨーロッパ諸国の国鉄でもだいたい同じであったように思うのだが、改札というものは存在せず、駅の外からプラットフォームまで、誰でも自由に立ち入ることができる。 運賃を払う、という当たり前のことを、実際に行ったかどうかイチイチ確認するのは、人間の尊厳に対する冒涜である、というような欧州的人権意識の表れであると思われる。

ヘルシンキ中央駅に向かう列車では、奇遇にも大学生ぐらいの日本人男女二人組と遭遇したが、あまり話はしなかった。 わざわざフィンランドにまで来て、日本人と話をしたくはなかったのである。 この近郊列車の車内表示は、フィンランド語とスウェーデン語と思われる二か国語の併記であって、英語はなかった。ただし車内放送は英語も含めた三か国語であったので、特に困りはしない。

ヘルシンキ中央駅に降りると、寒い。雪も少し積もっており、気分が著しく高揚する。 駅舎の中を少しだけ眺めた後、すぐにホテルに向かうことにした。なにしろ、既に時刻は 17 時 40 分である。まだ空は明るいが、あまり暗くなってから、大きな荷物を持って街を歩きたくはない。

地図をみながらホテルの方向へ歩き始めたが、どうも、何かが間違っているような気がした。 やむなく、通りがかりの紳士に道を尋ねた。 彼の説明によれば、どうやら、私は現在位置を少し勘違いしていたらしい。 礼を述べ、教えられた道順に沿ってホテルを目指した。

ところが、地図によればホテルがあるはずの場所に到着しても、あたりには、それらしい建物がない。 よく地図をみると、どうやら途中で交叉点を一つ間違えて、あらぬ方向に進んでしまったらしい。 少し道を引き返して、ようやく、ホテルにたどり着くことができた。時刻は 18 時半であった。

夕食に出かけようと思ったが、既にあたりは真っ暗である。 あまり見知らぬ場所で夜間に行動したくはなかったので、駅周辺を探索した。 しかし、至るところに大衆的な屋台やケバブ屋があったイスタンブールとは違い、バーガーキングやマクドナルドを除けば、駅の周囲には洒落たレストランしかみあたらない。 私は、あまり高貴な出自ではないので、その種のレストランは好きではないし、落ち着かない。 どうしたものかと思いつつ、駅舎の中をくまなく調べてみると、たいへん大衆的なインド料理店を発見した。

ヘルシンキまで来てインド料理でもあるまい、と思う人もいるかもしれないが、それは違う。 インド料理と称しても、本当にインド風の料理を出す店は稀であり、大抵、その土地に合わせたカスタマイズが行われている。 顕著に差が出るのは米である。 たとえば日本のインド料理店では、インディカ米ではなくジャポニカ米が用いられることが多い。 これは、入手が容易、という理由もあるのかもしれないが、日本人の好みに合わせている面もあるだろう。 また、米の調理方法としても、日本風の炊飯器を用いたとみられる例が少なくない。 それに対し名古屋市鶴舞駅近くの某インド料理店ではインディカ米を使ったビリヤーニが特徴的である。

私は、ヘルシンキ駅でバターチキンカレーとナンおよびマンゴーラッシーのセットを食べた。 このカレーにはライスがついていたのだが、これが鶴舞で食べるものよりも、さらに細長い形態をした米であり、その味わいも、大きく異なっていた。 さらにいえば辛さも実に控えめであって、まず間違いなく、インドのレシピに対して大幅な改変が加えられている。

このように、ヘルシンキのインド料理と名古屋のインド料理は全然、違うものなのであるから、「わざわざヘルシンキでインド料理なんて」という考えは、誤りである。


2016/02/24-2 イスタンブール追記

この原稿は、ヘルシンキに向かう飛行機の中で書いている。 イスタンブールのアタテュルク国際空港では、搭乗手続きも、出国手続きも、滞りなく行われた。出国ゲートが長蛇の列、ということもなかった。 ただ、搭乗手続きについて、セルフチェックイン機でパスポートをスキャンする際、どのページを開けばよいのか分からず試行錯誤したが、どうやら、写真が載っているページをスキャンすれば良かったらしい。てっきり、IC チップから読み取るのかと思っていたので、手間取った。

出国手続きを済ませてから、空港内のフードコートで Baklava を食べた。 値段表示をみると、80 リラとか 96 リラとか書いてある。 もしかすると、あの、一辺 2 cm 程度の立方体に過ぎない Baklava の一個が、96 リラもするのだろうか。 なにしろ「デザートのスルタン」と称される Baklava なのだから、それだけ高価であったとしても、私は驚かない。 が、さすがに高すぎるように思われたので店員に訊いてみると、値段表示はキロあたりであるらしい。 欧州では果物や魚の値段をキロあたりで表示することは知っていたが、まさか菓子までキロあたりの表示だとは思わなかった。

その店では何種類かの Baklava を並べていた。この Baklava を 100 g ください、といえば、100 g だと 2 個しかないよ、と言う。結局、Baklava 6 個とオレンジジュースで 40 リラ弱になった。だいたい空港内では物価が市中の 1.5 倍から 2 倍ぐらいのようなので、街中であれば、これだけのデザートで 25 リラ程度であろう。

そういえば、トルコ人が話す英語について、書くのを忘れていた。 日本人の中には、やたら「ネイティブ、ネイティブ」と、英米人の話す英語を貴ぶ宗教の人もいるようだが、世界的には、ノンネイティブな英語が主流であって、各地の人は、それぞれに訛った英語を話すのが当然である。

たぶん、一般的な日本人にとって最も聞き取りやすいのは、日本訛りの英語であろう。次いで韓国訛りがわかりやすいと思われる。それに比べると、英国流の英語はいささか難解で、その他の欧州訛りや米国訛りは、かなり聞き取りにくい。 それでもロシア訛りやアラブ訛りよりはマシであって、私はかつてアラブ首長国連邦で、`Where is your father?' という簡単な表現すら聞き取ることに難渋した。 というのも、彼らは father を「ファーダル」というように発音するので、一体、私の何について問うているのか、わからなかったのである。 それでも、ロシアやアラブは、インド訛りよりはわかりやすい。 インド人の英語は、もはや、「彼らは英語を話しているはずだ」という強い信念を持って聞かねば、それが英語であることすら認識できない。

ではトルコ人の英語はどこに位置するのか、というと、私の印象では、韓国訛りと同じぐらい、わかりやすかった。 最初は、私が日本人だということで、日本人にわかりやすいような英語を話してくれているのかもしれぬとも思ったのだが、街を行くトルコ人が話す英語も同じようにわかりやすかった。 たぶん、トルコ訛りの英語は、欧州訛りよりも、東アジア訛りに近いのだろう。 そう考えると、やはりトルコは、ヨーロッパというよりアジアの一員である。

ひょっとすると、これからイスタンブールに向かう旅人がこの記事を読むかもしれないので、一応、ホテル情報も提供しておこう。ガラタ橋の北側にある Hettie というホテルは、悪くない。メトロの駅からは少し距離があるが、料金は手頃であり、スタッフはよく英語を話し、朝食も悪くない。 そして食事をするならば、ガラタ橋北端の広場の北東に位置する「イスタンブール・ビュッフェ」というケバブ屋が良い。気さくなおじさんが、素敵なケバブを用意してくれる。

さて、我が機は既に黒海やキエフを過ぎ、ミンスク近郊を通過中である。 あと一時間でヘルシンキに着く。

実は私は、フィンランドという国を、よく知らない。 知っているフィンランド人といえば、サンタクロースとムーミンの他には、 Linux の生みの親であるリーナスと、第二次世界大戦の対ソ連戦線で活躍した伝説的スナイパーのシモ・ヘイヘぐらいである。 しかし、東のロシア、西のスウェーデンやデンマークといった大国に挟まれつつも独立を勝ち取り、力強く生きてきたフィンランドという国に対して、私はある種の尊敬を抱いている。 それに、日本とフィンランドは、かつては枢軸側として一緒に戦争をした仲でもある。 二日間、精一杯、フィンランドをブラブラすることにしよう。


2016/02/24 イスタンブールまとめ

イスタンブールの空港で、チェックインを済ませて待機中である。 ここまでに書き漏らしたいくつかの事項を、追記しておこう。

一つ目はトイレについてである。 空港には、無料で使えるトイレがある。 街中にも公衆トイレがあり、だいたい、人が集まるような場所で探せば「WC」などと書かれた表示があるので、まぁ、迷うことはない。利用料は 1 リラが相場のようである。 ゲートにコインを投入して入る方式が多いので、常に 1 リラ硬貨を持っておくことが重要である。 空港やホテルのトイレは洋式であったが、街中の公衆トイレにはトルコ式もあった。 具体的にどこであったかは忘れたが、ある公衆トイレでは、3 つある個室のうち 1 つが洋式で、残り 2 つがトルコ式であった。このことから考えると、日本における和式トイレと同様に、伝統的なトルコ式トイレは最近では不人気で、減少傾向にあるのではないかと思われる。

もう一つは Baklava である。残念ながら、私の行動範囲では、良質の Baklava を食べさせる店がなかった。「デザートのスルタン」というだけあって、たぶん、もう少し洒落た場所に行かねば Baklava には会えないのだろう。 正確に言えば、Egyptian Bazaar では Baklava を売っているところもあり、試食したことはある。 しかし、特に美味いということもない。正直に言えば、自分で焼いた方が、いくらかマシなのではないかとさえ思った。 たぶん、あれは観光客相手の手抜き Baklava であって、キチンとした Baklava Master が焼いたものではないのだろう。 わざわざ高級 Baklava 店を探してまで食べようとは思っていなかったので、結局、まともな Baklava には出会わないままであった。

また、メトロについては、ひょっとすると「利用はお勧めしない」というようなことを述べる人もいるかもしれないが、私は、積極的に利用すれば良いと思う。危険や不安を感じる場面はなかったし、駅にはセキュリティスタッフがいるので、特に安全面の問題はないと思われる。 朝の通勤時間帯は混雑するようだが、東京メトロよりはマシであろう。

ところで、ここまで読んでくれた方は、私がアヤソフィアだとか、トプカプ宮殿だとか、グランドバザールだとかいう、有名な観光スポットについて書いていないことにお気づきかと思う。 これは単に、私がそういう場所に興味を持っておらず、行っていないだけのことである。 だいたい「ここが名所だ、ここに行け」などと言われると、かえって、行きたくなくなる性分である。それに、私はスルタンの宮殿などより、ジェノヴァ人やヴェネツィア人らがオスマン帝国のイェニチェリ相手に死闘を繰り広げた三重の城壁の方に、よほど魅力を感じる。

念のために書いておくと、イェニチェリというのはオスマン帝国軍の中核を担う精鋭部隊である。 サムライが、一種の日本の象徴であるのと同じように、イェニチェリはトルコ人の歴史において燦然と輝く存在のようである。

2016.03.03 傭兵ではなかったような気もするので修正した。

2016/02/24 追記

昨日の記事で書き忘れたことを、追記しておこう。

まず犬に襲われた件であるが、連中が私の方に向かってきたとき、まず頭に浮かんだのは狂犬病の恐怖であった。しかし連中は、私に向かって吠え、威嚇はしたが、飛びかかったり噛みついたりは、しなかった。その意味では、よく訓練されていたようである。 もちろん、その時点では私はそんなことは知らなかったから `Sorry! Sorry!' と叫びつつ逃げたのであるが、後から思えば、イスタンブールの犬がトルコ語を理解する可能性はあっても、英語を解するはずはなかった。

城壁北端からガラタ橋までのタクシーでは、運転手は英語を話さなかった。単語レベルの片言のやり取りになったが、特にトラブルはなかった。 一部、渋滞する区間があったので、少し脇道に入ってショートカットしようとしてくれたのだが、あいにく、この細道で対向車とすれ違うことができなかったために、いささか回り道をすることになってしまった。 走行距離にして 7, 8 km であったのだろうか。料金は 16 リラであった。

詳しい言語学的なことは知らないが、単語レベルでは、トルコ語はフランス語に似ている部分が少なくないようである。たぶん、外来語なのだろう。 例えば駅のことを Gar と呼ぶようだが、これはフランス語の Gare から来ているものと思われる。 フランス語に似ているということは、英語にも、多少は似ている。 例えば駐車場のことは、綴りは忘れたが「オートパーク」というような表現になるようである。 従って、たとえ私がトルコ語を理解せず、相手が英語を話さないとしても、単語レベルでは、多少の意思疎通が可能なのである。

夕食を摂ったケバブ屋では、日本語を話す韓国人の男と出会った。 休暇でバルセロナを訪れた帰りであり、イスタンブールでの乗り継ぎに 14 時間かかることから、市内観光に来たのだという。 彼は、なかなか細かい男のようであり、釣銭の額が合っているかどうか確認し、不明な点を店員に確認していた。 私などは、その点、細かな金額は確認しない主義である。 もちろん、騙される可能性があることは知っているが、それでも構わない、と思っている。 旅人を欺いて金を騙し取るなどというのは、イスラム教においても、たいへん良くないこととされている。 はたして、アッラーがお許しになるかどうか。 それにも関わらず釣銭をごまかす者がいるとすれば、よほど金に困っているのであろう。 それならば、多少なりとも経済的に余裕のある我々としては、多少の金銭は与えてやるのがよろしかろう。 何を言っているのかよくわからない、という人は、Les Miserables に出てくる、銀の燭台の話を想起されると良い。

2016.02.24 脱字修正

2016/02/23 三重の城壁

ホテルで朝食を済ませてから、さっそく、コンスタンティノポリスの西側の城壁に向かった。 ガラタ橋の南側から、さらに少しだけ東に行った所は Sirkeci と呼ばれる地区である。 ここに、西欧風に言えばイスタンブール中央駅とでもいうべき、大きな鉄道駅がある。 この Sirkeci には、Marmaray という地下鉄も通っている。マルマラ海というのは、コンスタンティノポリスの南と東に位置する海のことであるが、この東の部分の海底を通り、アジア側に至る鉄道が Marmaray である。 Marmaray の西側の終点は、現存する城壁南端のすぐ近くであるらしい。 そこで私は、Sirkeci まで歩き、Marmaray で城壁南端に行き、城壁に沿って徒歩で北上することにした。 素直に歩けば 2 時間程度で現存する城壁北端まで到達できそうであったから、午後はバスでルメーリ・ヒサーリに向かう予定にした。 ルメーリ・ヒサーリというのは、オスマン帝国のメフメト二世スルタンが、コンスタンティノポリス攻略のための拠点として建設した要塞である。 私は塩野七生の影響を強く受けていることから、どちらかといえばオスマン帝国よりはヴェネツィア共和国寄りの人間である。従って、ルメーリ・ヒサーリについても、メフメト二世の偉業をみるというよりは、敵情視察という意味で関心があった。

まず、私はホテルを出て、ガラタ橋を渡った。 ここで、遺憾なことであるが、またトルコの恥部を紹介しなければならない。 ガラタ橋の上に、焚火の跡と思われる灰や炭の山が残されていたのである。 ガラタ橋は有名な釣りスポットであるらしく、一日中、多数の釣り人で賑わっている。 たぶん昨夜、釣り上げた魚をここで焼いて食べたのであろう。 橋上で焚火をすること自体が合法なのか違法なのかは知らないが、少なくとも、灰や炭を放置して去ることは、文明人の振る舞いではない。

Sirkeci に向かう途中に、船着き場がある。 ここでは、行先はよく知らぬが、水上バスが定期運航されているようである。 たまたま接岸していた船の名前をみて、私は感激した。 「Prof. Dr. Aykut Barka」という船名だったのである。 私は Aykut Barka という人物を知らなかったが、Prof. Dr. という敬称は、博士号を持った教授であることを意味している。つまり、科学者である。 日本でいえば、船の名前に「湯川秀樹博士号」とか「朝永振一郎博士号」とかつけるようなものであろう。 トルコ人はガラタ橋で焚火をするような野蛮人ではあるが、科学、学問を大事にする姿勢についていえば、我々の方こそ未開人であると言わざるを得ない。

Marmaray の乗り方は、メトロと同じであった。 4 リラでトークンを購入して自動改札を通ると、そこには金属探知機を持った二人組のセキュリティスタッフが立っていた。 似たような光景には、昨日のメトロでも遭遇した。その時、私は大きなキャリーバッグを持っていたので、スタッフはすかさず私の荷物をスキャンした。 そういえば、空港の地下鉄駅では、小銃を携えた警官が警備にあたっていた。 また、昨日訪れた Egyptian Bazaar でも、入り口で警備員が金属探知機で全員の身体検査を行っていた。 物騒といえば物騒な話であるが、彼らのおかげで街の治安が守られているのだから、我々としては、積極的に彼らの任務に協力するべきであろう。

今日の私はトートバッグを抱えていた。 怪しい異邦人が不審な鞄を持っているのだから、普通であれば当然に検査をする所であろうが、特に呼び止められもしなかった。 たぶん、彼らが特に警戒しているのはクルドとかシリアとかの連中なのであって、我々のような東アジア人は、彼らにとって脅威ではないのだろう。

Marmaray も、メトロと同じくトルコ語と英語の案内が併記されており、車内放送も両言語であった。信号待ちのため停車する、というアナウンスも、トルコ語だけでなく英語でも行われていた。実に親切である。

さて、Marmaray を降りて少し東に歩くと、巨大な城壁がみえた。 なるほど、あれがコンスタンティノポリスか。 しかし近づいてみると、壁は一つしかない。有名な三重の城壁のうち、残り二つは、なくなってしまったのだろうか。 ともあれ、私は城壁に沿って北上することにした。 城壁の外側は公園を整備中であるらしく、あまり近づけない様子だったので、城壁の内側を歩くことにした。

城壁に沿う道の入り口に、何やら車両の進入を制限するような意味の表示があるように思われたが、歩行者の進入を禁止している様子はなかったので、そのまま進んだ。

少し進むと、犬の吠える声が聞こえてきた。 さらに進むと、前方に、犬の姿がみえた。こちらに走ってくる。 これはいけない。どう考えても、標的は私である。 走って犬から逃げられるとは思わないので、敵意のないことを示すためにも、歩いて立ち去ろうとした。 しかし連中は走る速度を緩めない。全部で三匹である。 15 m 程度の距離であっただろうか、かなりの接近を許した段階で、私はたまらず走り出した。 当然、連中は私を逃がさない。前に回り込まれる。 手に持っていたトートバッグを盾にしつつ、走る。 しかし、下り坂であったこともあり、すぐに足がもつれて転倒した。

幸いにも、私が転倒したことで、連中は外敵を撃退する任務を全うしたものと判断したらしい。悠然と引き揚げていった。 私は、城壁の内側を進むことを諦め、一旦、Marmaray の駅前まで戻った。手を少しだけ擦りむいたので、洗いたかったのである。 こんなことで Clostridium tetani などに感染しては、たまらない。 ところが、なぜか駅前の公衆トイレは閉まっている。 やむなく私は、そのまま城壁の外側を北上することにした。 それにしても、現代に至ってもコンスタンティノポリスの城壁の守りは堅固である。 あれほど勇猛な衛兵が待ち構えているとは、あの先には軍事施設か何かがあったのかもしれぬ、と思った。 この時点で、だいたい 10 時過ぎである。

なお、後にホテルに戻ってから Google のストリートビューで確認したところでは、私が進もうとした道は軍事施設でも何でもないらしい。 ストリートビューにも多数の犬が写っているが、近隣住民の飼い犬であるようにみえる。 つまり、躾のなっていない、愚鈍な犬と飼い主であったものと思われる。

少し北に進んだところで、城壁の内側に入ることができた。 道は舗装されておらず、城壁も崩れてしまっている部分が多い。 しかし、さらに北上すると、城壁はよく補修され、一定間隔ごとに建てられている守備塔に登るための階段にも手すりが設けられている箇所があった。 どうやら、これは Belgrade 門と呼ばれる城門の部分であるらしく、トルコ語や英語などでの案内文も掲示されていた。 私は高い所が苦手ではあるのだが、それでも、恐る恐る、城壁に登った。 なお、門の内側には、イスタンブールの至るところでみかけるパンの屋台があった。私は、ここでミネラルウォーターを買い、城壁の上で、さきほど転倒した際の擦り傷を洗った。

ところで、ここで、またトルコの恥を示さなければならないことは、極めて遺憾である。 城壁の上にはガラスの破片や煙草の吸殻、その他のゴミが散乱しており、焚火の跡もあり、守備塔の内部には落書きがなされていた。

城壁の外側をみると、さらに二つの、比較的低い城壁があった。 つまり、この辺りは三重の城壁が完全に近い形で保存されており、私が登ったのは内壁にあたる。 なお、外壁と中壁の間、および中壁と内壁の間は、いずれも畑になっていた。

さらに北に進むと、外壁に小さな門が設けられており、畑の間をぬって中壁、外壁を抜けて城外へと出る道があった。もっとも、外壁の外の堀にかけられた橋が鉄筋コンクリートであったことから考えて、この道は、少なくとも部分的には近年になってから造られたものであろう。

三重の城壁を外から眺めつつ、さらに北上すると Silivri 門があった。 ここで、再び城壁の内側に入った。 この辺りは、通常は観光客が訪れるような場所ではなく、完全に地元民の生活空間のようである。城壁に沿って少し歩くと、地元民の市が開かれている場所に遭遇した。 この市では、野菜や果物、チーズなどの食品はもちろん、衣類や食器、玩具など、あらゆる生活用品が扱われているようであった。 驚いたのは、女性用下着も、他の生活用品と並びの露店で売られていたことである。どうやら、髪や肌をみせることはフシダラだと考える女性であっても、これから着用する下着を男共にみられることは、さして重大な問題ではないらしい。このあたりの感覚は、イマイチよくわからない。

さらに北上すると、また城門があった。 ここには、Belgrade 門や Silivri 門のような説明文の表示がない。 ただ、城門外の道路標識には Mevlanakapi という表記があった。 Kapi という接尾辞は「門」を意味するようであるから、ここは Mevlana 門とでも言うのかもしれぬ。 このあたりは、外壁と中壁がほとんど完全な形で保存されており、美しい。 この光景を眺めるため、私は城壁外を北上することにした。

さらに進むと、城壁外に何やら公園が整備されており、また外壁と中壁の間、および中壁と内壁の間に照明器具が設置されていた。城壁には大きな門が設けられており、また近くに路面電車の駅もあった。門の名前は、どうやら Topkapi というらしい。なお、kapi は「カプ」というような発音になるらしいので、Topkapi は「トプカプ」となる。 私は、もうすぐ金角湾に着くかな、などと思っていたのだが、近くに掲示されていた地図から考えると、まだ全行程の 6 割程度しか進んでいないようである。 時刻は既に午を過ぎている。 このペースでは、ルメーリ・ヒサーリは諦めねばならないかもしれぬ、と思い始めた。

Topkapi の外にあった屋台でパンを一つ、買って食べ、さらに北上した。 途中、城壁が大きな道路によって分断されていたために、大きく迂回せねばならない部分もあったが、とにかく、進んだ。

途中、バスターミナルのような場所の屋台で、「豆を混ぜた米の上にピクルスとチキンケバブを乗せたもの」を買って食べた。5 リラである。ヨーグルトもつけてくれた。Topkapi の屋台もそうであったが、このあたりでは英語が全く通じない。もちろん彼らのトルコ語も私には通じない。完全に身振り手振りのやり取りである。 しかし、住民は親切な人が多く、特に困ったことは起こらなかった。

ここから先は、歩いた距離の割には、特に面白いこともなかった。 観光客が少ない場所のようなので、私を好奇の目でみる者も多かったようだが、こちらからアッサラームアライクムと挨拶すれば、大抵、アライクムッサラームと返ってくる。 これは本来はアラビア語の挨拶であるが、イスラム教徒の多いトルコでも使われるらしい。

城壁の北端と思われる場所に到達した時、ちょうど、地元の十代と思われる学生集団の下校する姿に遭遇した。せっかくなので声をかけ、ここが城壁の北端なのか、と問おうとしたのだが、ほとんど英語が通じない。身振り手振りや単語だけのコミュニケーションで、とりあえず記念写真などを撮るうちに、英語を話す人物が通りかかった。彼が言うには、ここが城壁の北端であるという。

彼らと別れたのち、さらに北上すると金角湾がみえた。 ここまで、緩やかな登り坂が続いていたが、ここから金角湾までは逆に下り坂が続く。 湾の畔は公園になっており、若いアベックや、ペルシア湾岸地方から来たと思われる老夫婦、二十代ぐらいの女性二人組など、少なからぬ人々が休憩していた。 はるか東方にはガラタ塔がみえる。 時刻はだいたい 14 時半であった。

その後は、タクシーでガラタ地区に戻り、水上バスでアジア側に渡った。 正確に言えば、この水上バスの行先である Haydarpasha という場所がどこなのかわからないまま、「どこか陸地には着くだろう」ぐらいの認識で乗船したのである。運賃は 4 リラであった。 アジア側を小一時間、散歩して、また水上バスでガラタに戻った。 マルマラ海に沈む夕陽は、美しかった。 ガラタの船着き場には、一人の乞食がいた。 乞食をみたのは、イスタンブールに着いてから、これが初めてであった。

昨晩は、ホテルの隣にある小洒落たレストランで夕食を摂ったが、今日はガラタ橋の近くの大衆的なケバブ屋で Mixed Kebap を食べた。こちらの方が、安くて美味であった。 なお、先ほどの乞食は、私が料理を待っている間に、この店にも現れた。

夕食の後、ガラタ橋の下にあるレストランの前を散歩していると、客引きの店員が盛んに声をかけてきた。そのうちの一人は、何を勘違いしたか、私の耳元に口を近づけて、別の店員を指差しながら「あの男はゲイだぞ」などと教えてくれた。 たぶん、「髭のない若い男が日没後に一人で歩いている」という状況から、何か淫靡な妄想を働かせたのだろう。 イスタンブールの、しかもガラタ橋などという観光名所であれば、髭のない日本人など珍しくもないであろうに、一体、なぜ、そのような発想に至ったのか、理解できぬ。

2016.02.24 語句修正

2016/02/22-3 Egyptian Bazaar とガラタ地区

今ではイスタンブールと呼ばれる都市は、かつて東ローマ帝国の首都であり、ラテン語でコンスタンティノポリス、英語でコンスタンティノープルなどと呼ばれていた。 しかし 1953 年にオスマン帝国に征服され、以後はトルコ領の重要都市として栄えてきた。 現代におけるイスタンブールの範囲を私はよく理解していないのだが、歴史的に再狭義のコンスタンティノポリスというのは、北を金角湾、南をマルマラ海で囲まれた部分だけを指すものと思われる。この地域は、三重の城壁に囲まれた難攻不落の城塞都市として有名であった。それを瞬く間に攻略したオスマン帝国のメフメト二世スルタンは、The Conquerer として、スレイマン大帝と並びオスマン帝国最高の名君とされる。

この再狭義のコンスタンティノポリスの北側に位置するのがガラタ地区であり、ここにはイタリアのジェノヴァ共和国の商人達が、黒海貿易のための拠点として居留地を築いていた。このガラタ地区を再狭義のコンスタンティノポリスから隔てているのが金角湾である。ガラタの山の上からみると、夕日を映して湾が黄金色に輝くこと、湾全体が弯曲した角のような形であることから、この名がつけられたという。

さて、ホテルで一休みした私は、正午頃から、再狭義のコンスタンティノポリスの探検に出発した。特に何か目的地があったわけではないく、ブラブラと、ガラタ橋を渡った。どうやら、このガラタ橋という金角湾にかけられた橋は有名な観光スポットであるらしいのだが、私の知っているコンスタンティノポリスの地図には、そのような橋は存在しない。たぶん、オスマン帝国に征服された後に建造されたのであろう。

空港で無料配布されていたイスタンブール案内パンフレットによれば、ガラタ橋の南西に Spice Bazaar というものがあるという。あまり正確な地図が掲載されていないので位置がよくわからなかったが、それらしい方向に歩いてみた。すると、いかにもそれらしい、香辛料やドライフルーツなどを扱う店などの並ぶ小路がある。ホウホウ、これは面白い、と関心してウィンドウショッピングをしていると、店員が積極的に声をかけてくる。ある店では、若い男の店員から、盛んに菓子やハーブティーなどの試食・試飲を勧められた。それは結構なのだが、困ったのは、何やらイカガワシイ蜂蜜製品である。店員は、様々な香辛料やハーブ等を混ぜて作ったものであり、陰茎海綿体の充血が亢進する、という意味のことを述べた。彼は喜々としてこの効能を私に説明して、人気商品である旨を教えてくれたのだが、率直に申し上げて、私は、そういう話があまり好きではない。たいへん、困惑した。ただ、人気商品というのは事実であるらしく、他の店でも、同じ商品を何度かみかけた。

そうこうするうちに、別のスタッフがやってきた。彼は一般的な日本人と比較して遜色ない程度に日本語が達者であった。いわく、妻は日本人で東京在住であり、しばしばトルコと日本などを往来しているという。 その店では、結局、私はトルコ風の蜂蜜菓子を買った。 彼らは、別に買わなくても良いよ、試食だけ、などと言っていたのだが、それでも買わなければ申し訳ない気分になってしまうこちらの心情を突いた作戦なのかもしれぬ。

日本語の達者な彼は、これから Egyptian Bazaar の別の店に用事があるが、一緒に来るか、と言った。私は Egyptian Bazaar というのが何なのかわからなかったが、行ってみることにした。なお、後で調べたところによると Spice Bazaar と Egyptian Bazaar は同じものであるらしい。つまり、私が最初に訪れた商店街は、Spice Bazaar ではなく、地元民向けの商店街であったようである。

彼に連れられて訪れた店は、陶磁器や装身具、スカーフなどを扱う店であった。ここの店員にも、先の彼ほどではないにせよ、日本語の達者な人物がいた。 私は、本当は日本を出た後は日本語を聞いたり話したりしたくなかったのだが、先方が日本語を話す以上、こちらが無理に英語で通すわけにもいかず、やむなく日本語を話した。 この店では、私はスカーフを購入した。

その店を出た後も、Egyptian Bazaar を歩いていると、盛んに店員が声をかけてくる。日本語で話しかけてくる者も多い。 なかなか強引に試食を勧められることも多い。 私は小心者なので、ひとたび店内に連れ込まれてしまうと、なんとなく、そのまま出てくるのが心苦しくなってしまう。 しかし、やがて私は「今は荷物を増やしたくないけれど、また二、三週間にイスタンブールに来るから、できたら、その時にまた寄るよ。」と言って逃げるという高等テクニックを修得した。 なお、またイスタンブールに来るのは事実であるが、今度は乗り継ぎの時間が短いため、再び来店することは、まず不可能である。

その後はガラタ地区に戻り、ケバブ屋で軽食を摂った。 トルコ航空の機内でみたビデオから学んだところによると、ケバブとは本来英語でいう roast という程度の、広い意味を持つらしい。 私が食べたのは、ドネルケバブをライスに乗せたものである。 ドネルケバブというのは、最近日本でも増えつつある、回転させながら肉を焼き、それを削ぎ落としたものをパンに挟むなどして食べるものをいう。

軽食を済ませた後は、ガラタ塔に登った。これはガラタの丘の上に建てられた塔であって、当初は灯台であったが、後に軍事拠点として再建されたものであるらしい。 なお、現代ではイスタンブール屈指のデートスポットであるらしく、夕日を映した金角湾を眺めつつ、多数のアベックがラブシーンを展開していた。 この塔から眺める夕暮れの金角湾は確かに美しく、25 リラの入場料を払うだけの価値はあるように思わた。しかし、いかんせん、私は高い場所が苦手なので、景色をゆっくり堪能することもなしに、ソソクサと塔を降りてしまった。

その後はボスポラス海峡越しにアジア側を眺め、ホテルへの帰路についた。 途中、丘の上に何やら古い石垣のようなものがみえた。 一体、何であろうかと、その丘を登る道に足を踏み入れたのだが、すぐに断念した。 というのも、人通りが極端に少なく、何やらスラム街のような雰囲気も感じられ、さらに日没も近づいていたからである。

ガラタ橋の近くを歩いていると、魚を焼く美味しそうな香りが漂ってきた。 その源らしき所に行くと、海岸に設置した携帯コンロで魚を焼いている人がいて、フィッシュケバブが 8 リラであるという。ここでいうフィッシュケバブとは、鯖のような魚を焼いて、レタスやトマトなどと一緒にパンに挟んだものである。 せっかくなので、これを買って金角湾のほとりで食べた。味は、それなりであった。 近くには小さな魚市場があり、様々な魚がキロあたり 5 から 20 リラ程度で売られていた。

さて、今日、街中でみかけた案内表示によれば、西の方には The Land Wall Preservation Area なるものがあるという。かつてのコンスタンティノポリスの三重城壁が、部分的に残されているのだろう。 明日は、それを眺めに行こうと思う。

2016.02.23 語句修正

2016/02/22-2 イスタンブール

午前 5 時頃イスタンブールに到着し、午前 10 時頃にホテルにチェックインした。 空港では日本円からトルコリラへの両替を、関西空港より格段に安いレートで行うことができた。 関西空港では念のため 100 リラを 5600 円程度で入手しておいたのだが、イスタンブールではさらに 30000 円を 741 リラに替えた。

海外旅行で注意を要するのは、トイレである。 日本国内であれば、どういうということもないが、異国で意を催した場合、我々には、どこに行けばソレがあるのか、よくわからないからである。 そういうわけで、空港でまず私が探したのは、トイレである。 トルコでは、日本でいう和式トイレに似た、トルコ式のトイレが主流であると聞いていたから、ワクワクしながら個室に入った。 しかし何のことはない、そこにあったのは、普通の洋式トイレであった。

次に考えたのは、紙のことである。日本であれば、トイレで使用した紙は便器に流すのが当然であるが、世の中には、それが禁忌となっている国もあるらしい。 水に溶けない紙が使用されているために、排水管が詰まる、というのである。 たとえば、かつて私がロシアを訪ねた際には、使用済みの紙を入れるための巨大なゴミ箱が便器の横に設置されていた。 では、ここトルコのトイレは、どちらなのか。 トイレットペーパーホルダーの下にはゴミ箱のようなものが設置されており、「使用済みのモノはここに入れろ」という意味のようにもみえた。 しかしトイレットペーパー自体には、キレイな模様が描かれており、紙質も含めて、日本のものによく似ている。 結局、私は、念のために日本から持参したトイレットペーパーを使用して、便器に流した。

さて空港から市街地への移動には地下鉄 (メトロ) を利用した。 料金は一路線あたり 4 リラの定額である。二つの路線を乗り継ぐ場合は、それぞれで 4 リラを要する。自動販売機でプラスチック製のトークンを購入して、自動改札から入る。 改札内には、トイレがないようである。 駅構内の表示や案内板は、トルコ語だけでなく英語も付されているので、私のような、現地語を理解しない野蛮人でも問題なく利用できた。 ただし治安の良し悪しについては、よくわからない。

駅構内で案内表示をみていると、現地人らしき男性から日本語で話しかけられた。どうやら、かつて日本で働いていたことがあるらしい。 特に予定もなかったので、彼に誘われるままに、途中駅で降り、彼のおすすめのカフェで朝食をご馳走になってしまった。 チーズの入った焼き立てパンが、美味であった。 その後、彼とは駅で別れ、私は、かつてジェノヴァ人が居留地を築いていたガラタ地区まで地下鉄で移動した。 地下鉄駅からホテルまで移動する途中、公衆トイレがあった。利用料は 1 リラである。 入ろうと思ったのだが、私のキャリーバッグは大きすぎて、これを持ったまま入ることが不可能であった。 荷物を外に置いたまま入るのは、トラブルが怖い。やむなく私は、そのトイレの利用を諦めてホテルに向かった。

さて、私はトルコを悪く言いたくはないのだが、公正を期する科学者の端くれとして、やはり、悪いものは悪いと、指摘しなければならない。 具体的には、喫煙マナーの悪さである。空港内は全面禁煙であり、空港の建物外にも `No Smoking' の表示がなされている。しかし、その表示の目の前で、多くの人々が、喫煙しているのである。遵法意識の低い野蛮人であると、言わざるを得ない。 また、地下鉄の乗換駅でふと地上に出てみたのだが、道端に多量の吸い殻が投棄されていた。さらに、私の前を歩いていた壮年男性は、そのゴミの山に一つの吸い殻を追加していた。また、陸橋から下に投げ棄てられたとみられる廃棄物の山もみられた。まぁ、日本も、ほんの二、三十年前までは、そのような社会であったから、トルコ人が特別に野蛮だというわけではないのだが、この点に関しては日本の方が先進的である。

2016.02.22 語句修正

2016/02/22 トルコ航空

この記事の原稿は、トルコ航空 (ターキッシュエアラインズ) の機中で書いている。関空発の便であるから、乗客には日本人が多く、客室乗務員にも日本語を話す者が二名、いる。私の後ろに座っている二人組の大学生らしき女性も日本語で会話しており、日本を出た気がしない。なお、私の隣は幸いにも空席になっており、エコノミークラスながらも、いささか脚を伸ばしてくつろぐことができる。

気になったのは、離陸前に行われる安全ガイダンスである。どこの航空会社でも、非常時の避難経路の案内や、ライフベストの着用方法、酸素マスクの使用方法を説明する。全日空などのマジメな会社であれば、ビデオの上映と同時に乗務員が実演していたように思う。しかしトルコ航空の場合、ビデオを流すのみで実演はなく、しかもビデオの音量が小さいために、よく聞こえなかった。もちろん、乗客のほとんどは、そのビデオに関心を払っていなかった。こういう油断が、いざという時に被害を増大させるのである。

トルコの航空会社であるから、乗客にはイスラム教徒が多いのであろう。機内食には豚肉は含まれておらず、またメッカのカーバ神殿の方角を、常に画面で確認できるようになっている。一応、イスラム的には、飛行機の中などでは必ずしもメッカの方を向いて礼拝する必要はなく、また手順も略式で構わないことになっている。それでも、できればメッカに向かって礼拝したい、というのが人情であり、それに対する配慮なのであろう。

機中の退屈しのぎのために映画などを視聴できる。その中に Baklava: `The Unique Taste of the Ottomans' と題する baklava の紹介ビデオがあった。Baklava というのはトルコ発祥の菓子であり、アラブにも広く普及している。このビデオの紹介文は、次のようなものであった。

A dessert that transforms wheat into a feast. A tradition where flame meets golden brown. Out of the earth, handmade by man. The dessert of palaces and emperors, the Sultan of all desserts.

私の乏しい言語能力では、この詩的な文章を適切に翻訳することは難しいが、敢えて訳せば次のようになるだろう。

小麦、転じて馳走となる。その伝統は、炎と黄金の巡り合わせ。地より出で、人が作る。 宮廷と皇帝の菓子にして、全ての菓子のスルタン。

この場合、「皇帝」と「スルタン」は同じ意味であろう。 歴史的には、baklava のレシピはオスマン帝国時代に成立したようである。 透けるほど薄く延ばした小麦の記事を 40 層に重ね、ピスタチオを砕いたものを挟み込む菓子である。 私は工学部時代、ときどき、自宅でこの baklava を焼いていたが、通常のレシピで作ると甘すぎるので、砂糖を控えめにしていた。 せっかく本場のトルコに来たのだから、ぜひ、baklava を食べて帰ることにしよう。

2016.02.22 語句修正

2016/02/21 旅の予定

本日から来月 12 日まで、中央ヨーロッパ等の鉄道旅行に行く。 おおまかな旅程は決めてあるが、具体的に現地で、どこを訪れて何をみるかは、あまり考えていない。行ってから、決める。 ただ、フランス、パリの南のソーという町にある、キュリー夫妻の墓だけは参拝してくる予定である。

最初の目的地は、トルコのイスタンブールである。 本日 23 時関西空港発、トルコ航空の直行便である。 イスラム圏を訪れるのは、工学部二年生の夏にアラブ首長国連邦 (United Arab Emirates; UAE) に行って以来であるから、12 年半ぶりということになる。 もっとも、トルコ共和国の住民はイスラム教徒が多いとはいえ政教分離が徹底されているから、「イスラム圏」という表現は、あまり適切ではないかもしれない。

以前の UAE 旅行では、想定外の事件もあった。 私は髭をたくわえていないのだが、アラブの伝統的な価値観によれば、髭のない男は男色の対象であるという。 当時の私も、一応、そういう知識はあったが、まさか外国人観光客までもが対象であるとは思っていなかった。 そういう油断もあって、幾度か男性からナンパされたし、いささか猥褻な行為も受けた。

たとえば、アブダビであったかドバイであったか忘れたが、夕方の街を散歩していると、自称インド人の男から声をかけられ、少しだけ一緒に歩いた。 この時、なぜか彼は私の手を握り、夜景のキレイな所に案内してくれたのである。 「手を握り」というのも、いわゆる恋人つなぎであったが、当時は、やたらスキンシップの濃密な男であるな、ぐらいにしか思わなかった。 後から考えると、あれは、私を性的な対象とみていたのであろう。 また、「街を案内してやろう」などと言って近づいてきた男が、自身の股間を指さして `Do you want to see?' などと発言したこともあった。 私は驚いて `No.' と言ったのだが、すると彼は `Do you like girls?' などと言い出した。 ここで私が事情を察して `Yes, I like girls!' と言うと、彼は「なぁんだ」とでもいうような顔をして去っていった。 他にも、詳しい経緯は省略するが、自称スーダン人の男から陰部をこすりつけられたこともあった。 ずいぶんと、アグレッシブな連中であった。

帰国直前には、ドバイで犯罪組織との接触もあった。 最終日ということで、私は大いに油断していた。 夕方の街で、「おいで、おいで」などと手招きする怪しい男に、ノコノコとついていってしまったのである。 知らない男についていくなど、日本でさえ危険な行為であるのに、ましてや異国の地で、なぜ、そのような行為に及んでしまったのか、私自身、理解できない。 たぶん、旅程がつつがなく終わり過ぎたために、警戒心というものを完全に失っていたのであろう。

男は、路地裏の方に入って行った。ふと振り返ると、いつのまにか私を挟むようにして、後方にも別の男が現れていた。 このあたりで引き返せば良いものを、私は、未だ事態を把握しておらず、なお、先を行く男についていったのである。 たどり着いたのは、マンションの一室であった。 さすがの私も「これは、おかしい」と思って帰ろうとしたが、男達は「入れ、入れ」と言うばかりで、離してくれない。 やむなくドアの内側に入ると、今度は 20 ディルハム払え、という。 ディルハムというのは UAE の通貨単位で、当時は 1 ディルハムが 25 円程度であったと思う。 これは一体、どういうことなのか、と私は尋ねたが、彼らは「20 ディルハム払え」と繰り返すばかりである。 あまり抵抗すると身に危険が及ぶかもしれぬ、と判断した私は、大した金額ではないし、と観念して 20 ディルハムを渡した。

金を払うと、別室に続く扉が開かれた。ここで、私は全ての事情を理解した。 その別室には、美しく着飾った女性が 7, 8 人であっただろうか、並んで座っていたのである。 つまり、ここは、何らかの性的なサービスを提供する店なのであった。

UAE では、イスラム的な価値観が法律にも強く影響を及ぼしており、猥褻行為に関しても、取り締まりが厳しい。 たとえば映画の 007 シリーズでは、主人公のジェイムズ・ボンドと女性との「親密なシーン」が、大抵、含まれている。 今日の日本や欧米の価値観からすれば、まぁ「ロマンチックなシーン」ぐらいの扱いであろう。 しかし UAE では、これは猥褻で不適切なシーン、ということになるらしく、ドバイでは、こうしたシーンを削除した上でテレビ放映されていた。 そのような国であるから、当然、対価を払って女性と仲良く時間を過ごす、などというサービスは、違法であろう。 ひょっとすると、そういう事業を行っている男共は、発覚すれば死刑になるかもしれぬ。

私は、これはイカン、と思い「友人が待っているから、ちょっと行かねばならない。後でまた来るよ。」などと言って、その場を逃げだすことに成功した。 彼らは、今度は存外、簡単に解放してくれた。 これは想像であるが、私は既に 20 ディルハムを支払っていることから、UAE の法律では猥褻行為の既遂ということになり、 警察に通報すれば私自身が逮捕されたのではないだろうか。 今から思えば、よく生きて帰ってきたものである。 一歩間違えば、証拠隠滅のためにアラビア海に捨てられていたかもしれぬ。

今回は、そうした危険なことのないよう、充分に警戒しながら旅をする所存である。

2016.02.22 語句修正

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