2019/08/23 機械弁に対する抗凝固薬 (3)

中途半端に勉強した医者の中には「機械弁に抗凝固療法が必須であることは自明であり、当然すぎるから、イチイチ根拠文献など記載しないのだ」と抵抗する者がいるかもしれぬ。 しかし、機械弁に抗凝固療法が必須というのは、彼らが思っているほど当然のことではない。

American College of Chest Physicians (ACCP) のガイドラインである Chest 141(2), e576S-e600S (2012). では

There is currently no evidence to support the replacement of VKA therapy by APA for either mechanical aortic or mitral valve prostheses.

大動脈弁や僧帽弁の機械弁への置換を受けた患者について、現在のところ、抗凝固療法を抗血小板療法で代替できるという証拠はない。

と、控えめな表現になっている。ここで VKA とはワルファリンなどの、いわゆる vitamin K antagonist のことであり、 APA とはアスピリンなどの antiplatelet agent のことである。 ACCP は、一般的事実として抗凝固療法が必須かどうかはわからないが、「現在のところ」抗血小板療法で代替できるという証拠はない、としか述べていないのである。

ACCP は、この記載を補足する臨床試験の報告として Ann. Thorac. Surg. 43, 285-287 (1987). や J. Cardiovasc. Surg. (Torino) 28, 588-591 (1987). を挙げているが、これらは 30 年前の報告である。 当時と現在とでは、機械弁の機構も材質も異なるのであって、当時の臨床試験結果が現在にも当てはまるかどうかは、わからない。

これが、臨床試験を偏重することの問題点である。 何らかの理論的考察に基づき物事を判断し、その理論の妥当性を検証すべく試験を行ったのであれば、その結果には普遍性がある。 その理論の範囲において、30 年前だろうが 50 年後だろうが、同じ結果が期待できるのである。 ところが、理論抜きに単に臨床試験を行った場合、機材や患者が変われば、同じ結果が再現されるかどうかは、わからない。 その試験に参加した患者と、今、我々の眼前にいる患者とは、違うのである。 だから、理論を抜きにして闇雲に臨床試験を行うのは、時間と労力と資金の無駄であって、学術的ではなく、臨床的にも意義が乏しい。

さて、比較的最近の臨床試験としては Thromb. Res. 109, 131-135 (2003). がある。 これは、過去の動物実験などの結果から、抗凝固療法は必須ではなく、抗血小板療法で代替可能なのではないかと考え、それを実証すべく臨床試験を行ったものである。 大動脈弁の機械弁への置換を受けた患者について、抗凝固療法と抗血小板療法を比較した非盲検のランダム化比較対照試験である。 非盲検にした理由は、わからぬ。ワルファリンによる抗凝固療法にはプロトロンビン時間のモニタリングが必要なので、盲検化しにくかったのかもしれぬ。

この臨床試験では、抗血小板療法を受けた患者の一人に大動脈弁血栓が生じたため、試験は中止された。 臨床的に、抗凝固療法を行っても、健常者に比べると血栓症は生じやすいことが知られている。 従って、抗血小板療法を受けた患者の一人に血栓ができたというだけでは、それが偶然なのか、抗血小板療法の問題点なのかは、はっきりしない。

結局、機械弁に対して抗凝固療法が必須であるかどうかは、よくわからない、というのが正しい。 臨床医療における常識や、ガイドライン、あるいは権威あるとされる教科書は「抗凝固療法が必須である」と述べているが、これは医学的根拠を欠いているのである。

我々は、自身の頭脳に依って物事の適否正邪を判断せねばならず、世界中が何と言おうと、正しいものは正しい、正しくないものは正しくない、と言わねばならぬ。 そのために、医学を修めてきたのである。


2019/08/21 機械弁に対する抗凝固薬 (2)

前回の続きである。 機械弁への心臓弁置換を受けた患者にはワルファリンなどの抗凝固薬の投与が必須である、というのは、医師や医学科高学年生にとっては常識である。 しかし、その学術的根拠をキチンと理解している者は稀であり、単に教科書やガイドラインの記述を鵜呑みにしている者が大半なのではないか。 その点に疑問を呈した学生の某君は、優秀な人物であり、本当に医学を修めている数少ない学生の一人であるといえる。

私が調べた限り、機械弁に対して抗凝固療法が必須であることを示す医学的根拠は存在しない。 確かに、何らかの抗血栓療法を行わなければ血栓症が頻発するようではあるのだが、そこで抗血小板療法ではなく抗凝固療法でなければならぬ、とする根拠がないのである。

たとえば、手元にある心臓病学の教科書として D. P. Zipes et al., Braunwald's Heart Disease, 11th ed., p. 1458 (Elsevier; 2019). をみると、 米国心臓学会/米国心臓協会 (AHA/ACC) のガイドラインを引用して

All patients with mechanical heart valves require lifelong anticoagulation with a VKA

などと述べるに留まっている。 臨床医療におけるガイドラインというのは、単なる目安であって、医療行為としての適不適を定めるものではなく、遵守すべきルールというわけでもない。 従って、ガイドラインにはこう書かれている、などというのは、医学的な観点からは何の意味もない。 また、VKA というのは vitamin K antagonist のことであって、ワルファリンなどの抗凝固薬が、これに該当する。 しかしワルファリンはビタミン K の活性化を阻害する薬剤であって、ビタミン K のアンタゴニストではないのだから、VKA という表現は不適切である。 つまり Braunwald は、薬理学を理解せず、ガイドラインを丸写しするだけの、非学術的な書物であると言わざるをえない。

では日本のガイドラインはどうなっているかというと、「弁膜疾患の非薬物治療に関するガイドライン (2012 年改訂版)」には 「機械弁植込み患者では全例にワーファリン投与による抗凝固療法が必要となる」と記載されている。 ただし「ワーファリン」は商品名であって、一般名は「ワルファリン」であるから、ここではガイドラインが特定の商品を推奨するという異常事態が生じている。 また、ここで「抗凝固療法が必要」としている記載には個別の根拠文献が示されておらず、包括的に 「『循環器疾患における抗凝固・抗血小板療法に関するガイドライン』に基づき」と述べられているのみである。

そこで「循環器疾患における抗凝固・抗血小板療法に関するガイドライン (2009 年改訂版)」をみると ワルファリン投与を class I として、つまり強く推奨しているのだが、やはり根拠文献については 19 ページで「ACC/AHA のガイドラインをもとに」と記されているに過ぎない。 なお、ここで参考文献番号が 124 とされているのだが、122 の誤りと思われる。

で、ACC/AHA のガイドラインとして引用されている J. Am. Coll. Cardiol. 48(3), e1-e148, (2006). をみると、端的に

All patients with mechanical valves require warfarin therapy

と述べられており、その根拠文献は R. W. Alexander et al., Hurst's the Heart, 9th ed. pp.1867-1874 (McGraw-Hill; 1998). となっている。 この教科書は、我が大学の図書館に所蔵されていたので閲覧してみると、該当箇所には次のように書かれている。

All patients with mechanical valves require warfarin therapy.

この記載には、根拠文献は記されていない。 そもそも、抗血栓療法あるいは抗凝固療法が必要な可能性はあっても、「ワルファリン投与が必要」ということは、ありえない。 他の薬剤ではダメで、ワルファリンでなければならない、などということは、薬理学的に、考えられないからである。 そうしてみると、この Hurst の記載は軽率で不正確であると言わざるをえない。

以上のことから、次のように結論される。 現在では、機械弁に対しては抗凝固療法が必須であるとされているが、そこに充分な医学的根拠は存在しない。 必須とされているから必須なのだ、という、非学術的論法に過ぎぬ。 臨床的な対応として抗凝固療法を行うことが不適切とは思わぬが、そこに医学的根拠があるかのように錯覚しては、ならぬ。


2019/08/20 機械弁に対する抗凝固薬 (1)

前回前々回で、医師の多くが統計学を知らぬことについて述べた。 一般的で漠然とした話だけでは面白くないだろうから、今回から何回かにわけて、具体的な話を書くことにしよう。 まず今回は統計以前の話として、機械弁に対する抗凝固薬の話をする。

ここでいう機械弁とは、僧帽弁閉鎖不全症などの、心臓の弁の異常に対して行われることのある弁置換術で用いられる人工弁の一種である。 人工弁には生体弁と機械弁とがあり、生体弁とはブタやウシなどから採取して加工した心臓弁であるのに対し、機械弁とは金属などを用いて作ったものをいう。 心臓弁を機械弁に置換した場合、弁の表面で異常な血液凝固が起こりやすく、血栓症を来しやすいため、ワルファリンなどを用いた抗血栓療法を一生、続ける必要があるとされる。 抗血栓療法は、血小板機能を抑制する抗血小板療法と、凝固因子活性を抑制する抗凝固療法とに大別される。 機械弁に対しては、抗血小板療法ではなく抗凝固療法が必須であるとされている。

さて、先日、学生と一緒に薬理学の勉強会を行っているとき、医学科 6 年生の某君は、どうして機械弁に対して抗凝固療法が必要なんですかね、と述べた。 我々の間では、この一言で全てが通じたのであるが、初心者にはわかりにくいであろうから、補足説明をしよう。

血液凝固は、基本的には、まず血小板が活性化し、次いで凝固因子が活性化する。 J. E. Hall, Guyton and Hall Textbook of Medical Physiolosy, 13th ed., pp.487-488 (Elsevier; 2016) などの古典的な教科書では、 凝固因子の活性化には外因系 (extrinsic pathway) と内因系 (intrinsic pathway) とがあるとされている。 しかし近年では、これは実験室における、みかけ上の現象に過ぎず、実際の生体内では、そうした両者の区別は存在しない、とする考えが支持されている (V. J. Marder et al., Hemostasis and Thrombosis, 6th ed., pp.103-104 (Wolters Kluwer; 2013).)。 凝固因子の活性化が、そもそも何によって始まるのかは、よくわかっていない。 古典的なモデルでは、血液が試験管壁や繊維性結合組織など血管以外の構造物と接触すると、第 XII 因子、いわゆる Hageman 因子の活性化が起こる、とされてきた。 しかし、第 XII 因子欠損症の患者においては、血液凝固能の検査指標の一つである活性化部分トロンボプラスチン時間 (activated partial thromboplastin time; APTT) の延長がみられるものの、表現型としては出血傾向などの異常を来さないようである (Hemostasis and Thrombosis, pp.157-158)。 このことから、第 XII 因子が本当に血液凝固において重要な役割を担っているのかどうかは、疑わしい。

これらをふまえ、上述の学生の某君は、 機械弁への心臓弁置換手術を受けた患者において異常な血液凝固が起こりやすいとすれば、それは血小板が関与する機序によるのではないか、と暗に述べたのである。

前置きが長くなってしまったので、本題は次回にしよう。


2019/08/17 呪術師と製薬会社

前回の記事で、医師の多くが統計学を知らぬことについて書いた。 今回は、それについて少しばかりの補足を行おう。

医師の中には、「確かに横断研究やコホート研究では因果関係の証明にはならないが、厳密に因果関係を示すのは容易ではない。 相関関係がある以上、実臨床としては、因果関係の存在を推定ないし仮定して対応するのは現実的である。」 などと抵抗する者もいるかもしれぬ。 が、そのように弁明する者は、医学を武器とする医師としてよりも、呪術師として働いた方が適任である。

というのも、患者の家族が熱心に神に祈り、心を尽くして祈祷するような場合、そういう看護者を持たぬ孤独な患者に比べて、たぶん、予後は良好である。 これは、熱心な看護者がいる方が予後良好、というだけのことであり、祈るか祈らないかということ自体は予後に影響しないであろう。 しかし、コホート研究であれば祈祷と予後の相関を示すことができるので、上述の「現実的」な論法を認めるならば、「祈祷は患者の予後を改善する」ということができる。 呪術や祈祷には統計的エビデンスがある、というわけである。

歴史的には、このような誤った論法がなんとなく、経験的に受け入れられてきたがために、呪術や祈祷、あるいは魔術や錬金術が、長らく幅を効かせてきたものと思われる。 それらを排除し、論理的な妥当性のある検証に基づいて物事を判断すべく発展したのが科学であり、我々の現代社会である。 医学は科学の一分野であり、上述のような呪術的論法を用いる者は、医者とはいえぬ。

このような呪術的論法を積極的に用いるのが、製薬会社の営業担当者、いわゆる MR (Medical Representative) である。 彼らは、我々に対し、このような臨床試験のデータがある、と、学術風のデータを示して、自社製品の素晴らしさを説くのである。 従来薬より効果が高い一方で有害事象には有意差がなかった、とか、 従来薬と比較したコホート研究で優秀な治療成績が認められた、とかいう具合である。

製薬会社の人々は、医科の連中に比べると、ずっと詳しく統計学を修めている。 一般の MR はともかく、研究部門の人々であれば、統計学の表も裏も知り尽くしているであろう。 さらにいえば、「望ましい結果」を得るための小技を熟知しており、それらを駆使して、試験データの蒐集を行っているようである。 たとえば、新薬による有害事象をみるためには、統計誤差が大きくなるように試験を設計することで「有意差なし」という方向に持っていくし、 薬物動態解析にあたっては、実測値とうまく合致するようなシミュレーションモデルを構築し、そのモデルの非現実的な点を無視するのは常套手段である。

製薬会社の研究員が、昨今の厳しい競争社会を生き抜くために、苦渋の決断として、かかる呪術的論法や魔術的解析を用いることは理解できなくもない。 しかし、もし医師が無知ゆえに、その呪術や魔術を看破できず、不適切な治療を患者に施した場合、その責任は誰に帰するのか。 諸君は、製薬会社がそう言ったのだから私の責任ではない、と言えるのか。


2019/08/16 統計学教育

諸外国の実情は知らぬが、少なくとも日本において、医師や医科学生に対する統計学教育は貧弱である。 臨床医療において、是非はともかく、統計に基づく「エビデンス」が重視されているのに、医師は、その統計を学問的に修得していないのである。

ところで Medical Tribune というのは、無料の医療業界紙である。会員制だがオンラインでも無料で読めるようであるし、 紙媒体も広く無料配布しているようである。 私は特に申し込んだわけでもないのに、なぜか私宛で病院にも送られてくる。 なぜ無料なのか、どういうビジネスモデルなのかは、知らぬ。

この業界紙の記事は、あまり高尚でも学術的でもない。 以前にも紹介したが、いささかセンセーショナルにみえる学術論文を、充分な吟味も批判もなしに、ただ紹介するような記事が少なくない。 その Medical Tribune の 2019 年 8 月 1 日号の一面に「大気汚染 長期曝露で冠動脈石灰化増」とする記事が掲載されていた。 私は普段、この業界紙を読まないし、この記事にも興味はないのだが、世の医師連中が統計学を知ったかぶっていることを示す好例であるので、敢えて取り上げよう。

この Medical Tribune の記事が話題にしているのは JAMA Netw Open (2019; 2: e196553) であるらしいが、私は、原本を確認していない。 記事によれば、これは中国において、患者の居住地における PM2.5 などの大気汚染物質濃度と冠動脈石灰化との関係を調べた横断研究の報告であるらしい。 この時点で、さして読む価値のある論文とは思われないことがわかる。

横断研究というのは、時間経過を考えずに、ある時点において、二つの事柄の関係を調べる、という研究方法のことである。 これは、その二つの事柄の間に「何らかの相関」があるかどうかを調べるものであって、因果関係の有無は、当然ながら、わからない。 たとえば今回の例でいえば、大気汚染の結果として冠動脈石灰化が起こっているのかもしれないが、そうとは限らない。 大気汚染のひどい所に住むような人は経済的に貧しい傾向にあり、食生活が不健康になりがちであり、その結果として冠動脈が石灰化するのかもしれない。 あるいは、冠動脈石灰化が起こると脳血流障害を来し、精神に異常が生じ、大気汚染のひどい場所に住みたくなる、という可能性も、否定はできない。

横断研究と同様にコホート研究も、物事の因果関係を考える根拠としては薄弱である。 大気汚染の激しい場所に住んでいる人と、空気が清浄な場所に住んでいる人について、数年ないし十数年の後に冠動脈石灰化の程度を比較しても、 大気汚染と冠動脈石灰化の相関はわかるかもしれないが、因果関係を示すことはできない。

それなのに、Medical Tribune は、横断研究を根拠に「大気汚染に曝露されると冠動脈が石灰化する」かのような書き方をしている。 医師の中には、他にも、コホート研究を根拠に物事の因果関係を論じる者が、非常に多い。

諸君は医学科の学生時代に、疫学だか社会医学だかの授業で、横断研究やコホート研究の弱点について学んだはずである。 その時に、交絡因子の影響云々だとか、相関関係と因果関係の違いだとかも、一応は勉強したはずであるが、結局、それは試験で点を取るための勉強でしかなかったのである。 教科書の記載を咀嚼し吟味し批判しつくして、肚の底で理解することを、怠ったのである。 その結果、実際の横断研究やコホート研究をみた時に、それを自身の頭脳で評価し解釈することはできず、権威ある (とされる) 人の発言を鵜呑みにするか、 他者が書いた文章を丸呑みするかしか、できないのである。

諸君は一体、6 年間の時間を費して、何を学んだのか。


2019/08/08 インフォームドコンセント

だいぶ間隔があいてしまったが、本日から復帰する。

インフォームドコンセント、という言葉は、近年では、広く知られていると思う。 しかし、この言葉の意味を、キチンと説明できる医師や患者は、少ないのではないか。 新聞などでは、この言葉を「十分な説明と同意」などと表現しているようだが、「同意」はともかく、「十分な説明」とは何なのか、わかりにくい。

患者に病状や治療方針などの「説明を行うこと」を「インフォームドコンセント」あるいは略して「IC」と呼ぶ医者は少なくない。 用例としては「今日の 16 時から山田さんに IC する」といった具合であるが、これは完全に誤りである。 インフォームドコンセントというのは、英語で書けば informed concent であって、患者が行うことであり、医者が「IC する」のは、おかしい。

キチンと説明の時間を設けて患者に説明を行い、その上で患者が治療方針について同意することをインフォームドコンセントという、と考える者もいるようだが、これも正しくない。 時間をかけて、患者や家族に対して病状説明をし、診断を述べ、治療方針を提案し、同意を得て、同意書に署名させたとする。 これをもって「インフォームドコンセントを得た」と考えては、いけない。 たとえば、その「インフォームドコンセント」の後に研修医が患者と話してみると 「先生方はいろいろ説明してくれたけど、難しくてよくわからなかった」「難しいことは全部、先生にお任せします」などと言われることは少なくないのである。 つまり、患者は理解せぬままに、言われた通りに同意書に署名したに過ぎない。これはインフォームドコンセントを欠いている典型例である。

インフォームドコンセントとは、患者が、自分の病状、診断および治療方針について、その判断根拠も含めて理解した上で、診療の方針に同意することをいう。 患者自身が理解している、ということが重要なのであって、説明されたかどうかは問題ではない。 医療従事者の中には、「しっかり説明しているのに、わかってくれない」と不満を述べる者もいるが、それは説明の仕方が悪いのである。 むろん、素人である患者に対して理解できるように説明するのは容易なことではないが、それを行うのが、諸君の職責である。

また、医師の中には、同意書の効力を過信している者が少なくないようである。 同意書というのは、患者が同意したことを示す書類に過ぎず、理解した上で同意したことまでは示していない。 だから、たとえば同意書に署名して手術を受けた後で 「同意はしたが、キチンとした説明は受けていなかったのだから、その同意は無効である。 インフォームドコンセントなしに手術された。自己決定権を侵害された。慰謝料を払え。」と訴えるのは適切である。 特に、患者が「全部お任せします」と発言した旨がカルテに記載されている場合などは、インフォームドコンセントを欠いている証拠になるので、病院側の敗訴は間違いない。

では、真のインフォームドコンセントを得るためには、どうすれば良いのか。 比較的簡単な方法は、患者に質問させることである。 自分の体のことに無関心な患者というのは非常に稀であるから、自分は一体どのような病気なのか、どういう状態なのか、その治療をすればどうなるのか、 あるいは治療しなければどうなるのか、といった疑問は、いくらでも抱えているはずである。 そうした質問をたくさんさせて、それにしっかりと答え、それを記録に残すのである。 そうすれば、患者にしっかりと説明した証拠になるし、仮に訴訟になっても、患者が理解していたと推定する根拠になる。 逆に「患者からの質問はなかった」という記録が残っている場合、患者はキチンと理解していなかったのではないかと推定することができる。

では、質問はありませんか、と問うても「特にありません。大丈夫です。」などと言われる場合はどうすれば良いのか。 それは、そもそも諸君の説明態度が悪い。 質問したいことが一つもないなどということは、通常の判断能力を有している人間であれば、あり得ない。 「全部わかりました。質問はありません。大丈夫です。」などと言っているのは、単に遠慮しているか、あるいは 変な質問をして医師の機嫌を損ねることを恐れているに過ぎないのである。 「質問しにくいセンセイ」と認識されてしまっているのである。

病状説明の場で患者に質問させることができていない医師は、医療面接の技術に問題がある。学生に戻った気分で練習し直す必要があるだろう。 その場面をビデオに撮って、自分でみてみることも有用と思われる。

2021.02.13 脱字修正

2019/07/17 遺伝子診断

流行の話を続ける。 最近の臨床医学や臨床医療の世界における流行分野の一つが、遺伝子診断である。 遺伝子診断というのは漠然とした言葉ではあるが、ここでは主として悪性腫瘍について、そこで生じている遺伝子変異を検査し、 それに基づいて診断し、治療方針を決定するこという。

たとえば臨床医療でいえば、最近は「がんゲノム医療」なる診療体制が構築され、悪性腫瘍の遺伝子変異の同定およびそれに基づく治療が始まっている。 実はこの「がんゲノム」という言葉は非常に曖昧で重大な問題を含んでいるように思われるのだが、それは別の機会に述べることにしよう。

こうした遺伝子診断の普及は、病理診断のあり方にも大きく影響を与えている。 たとえば肺癌についていえば、組織学的には腺癌や扁平上皮癌、小細胞癌などに分類されるのであるが、 腺癌の場合、EGFR 遺伝子に特定の変異があれば、ゲフィチニブなどのチロシンキナーゼ受容体阻害薬が有効であるとされている。 従って、病理診断においては「腺癌であるかどうか」は非常に重要であると考えられている一方、 腺癌の中で「どの組織型に亜分類されるか」は、臨床的にはあまり重要視されていない。

問題なのは、呼吸器内科医だけでなく、少なからぬ病理医も、腺癌の組織学的亜分類は現代では重要ではない、などと考えているらしいことである。 どの亜分類に属する病変であっても、結局は治療方針を左右しないのだから、臨床的意義が乏しい、というのである。 「今はもう遺伝子の時代だから」などと言う者もいるが、はたして、そうだろうか。それを病理医が言うのは、自身の存在意義を否定することにはならないか。

先日、ある講演において、東京大学の某教員が遺伝子診断について話すのを聴いた。 この教員が教授であったか助教であったか、肩書はよく覚えていないのだが、そうした職位は科学者や医師としての優劣賢愚を規定するものではないから、さして重要ではない。 講演後の質疑応答の時間に、私は、次のように質問した。 「昨今では、遺伝子変異によって治療方針が決定されるのだから、たとえば肺腺癌の組織学的亜分類のようなものは重要でないとする意見も聞かれる。 しかし、形態的に明らかに違う病変について、同じ変異を有するからというだけの理由で同じ治療を行うことが、はたして最適なのか。 その点について、いかがお考えか。」

すると教員氏からは、思わぬ答えが返ってきた。 「ご指摘の通りである。現在は『そういう治療法』しかないから、そのようになっているのであって、 現在のような変異の種類だけに基づいて治療薬を選択することが本当に最適であるかどうかは疑問である。 そういう意味において、従来の病理形態学に基づく探究は重要である。」

なかなかの見識である。


2019/07/16 プラスチック

医学とは関係の乏しい話である。 昨日は流行語として人工知能の話を書いたが、本日は、最近の流行であるプラスチックごみ問題について書く。

プラスチックの廃棄物による海洋汚染が深刻であることが、近年、注目されている。 また、プラスチックの微小粒子を特に「マイクロプラスチック」などと呼び、これが環境中に広く分布していることも問題とされている。 この、いわゆるマイクロプラスチックが海水中や水道水にたくさん存在する、ということが指摘された後、 ヒトの便中からプラスチックが検出されたとして、「消化管に到達している証拠を得た」という報告が報道された。 しかし、海水や水道水にプラスチックが含まれているならば、ヒトの消化管の中をプラスチックが通過していることは明白であって、わざわざ調べるまでもない。 脳や肝臓の中からプラスチックが検出された、というのならともかく、消化管の中からプラスチックが検出されたことをもって、 まるで汚染の程度がより深刻であるかのように報道することは、無思慮な人々を扇動するだけのものであって、社会的意義は乏しい。

プラスチック廃棄物による環境汚染は深刻な問題であるが、そこで意識の高い人の一部に「プラスチックを使うのをやめよう」という意見があることが、理解に苦しむ。 確かにプラスチックを使わなければプラスチック廃棄物は生じないが、しかしプラスチックを使っても、適切に廃棄すれば、環境汚染は極めて僅かなのである。 たとえばスーパーでレジ袋をもらったとする。これを海岸や山中に不法投棄すれば、プラスチックによる環境汚染を引き起こす。 しかし、たとえばゴミ袋として使うなどして、最終的に可燃ゴミとして燃やせば、二酸化炭素と水を生じるのみであって、 地球温暖化を引き起こす恐れはあるが、プラスチックによる環境汚染は生じない。

厳密にいえば、可燃ゴミとして処理した場合でも、分子レベルでのプラスチックの破片は環境中に放出される。 しかし、それはプラスチックの代わりに紙や金属を使っても紙片や金属片が放出されるのであって、どちらがより重大な問題であるかは、はっきりしない。 また、プラスチックの代わりに紙を使えば森林を破壊するし、金属を使えば鉱山開発や金属加工に伴なう土壌汚染を引き起こす。 どちらがマシであるかは、一概にはいえない。

一部の自治体では、プラスチックを不燃ゴミとして扱っているらしい。これは問題である。 プラスチックというのは、化学的には炭化水素重合体の総称であり、昔は塩化ビニルなどが多かった。 これは安易に焼却すると、いわゆるダイオッキシンなど有害物質が放出されるので、私が幼い頃は、プラスチックは不燃ゴミ、というのが基本であった。 しかし現在ではプラスチックの大半はポリエチレンやポリプロピレンであって、これは焼却しても水と二酸化炭素にしかならない。 燃やさない理由がないのである。 これを不燃ゴミとして扱えば、処分場の汚染防止策が不充分であった場合には、環境中にプラスチックが漏出する。 日本では処分場からの廃棄物の漏出は少ないと思われるが、世界的には、そうした防止策の不充分な処分場は少なくないようである。

ついでに書くが、プラスチックの「リサイクル」は、あまりキチンとしたリサイクルではない。 信頼できる情報源が乏しいのだが、リサイクル推進派のウェブサイトなどによれば、プラスチックの「リサイクル」は、 製造業の材料として再利用する分もあるものの、いわゆる「サーマルリサイクル」が少なくないらしい。 これは、プラスチックを燃料として再利用するものである。つまり、リサイクルのために回収したプラスチックを、燃やしているわけである。 それならば、はじめから可燃ゴミとして回収すれば良いではないか。 わざわざ分別することで、回収車を余計に走らせねばならず、かえって環境負荷が増大している疑いがある。

プラスチックによる環境汚染が深刻だ、というのは、知性を有する大半の人が同意するであろう。 しかし、その対策として「プラスチックを使わない」というのは、安易に過ぎ、有効性も不明瞭である。 プラスチックを削減した結果として地球が沙漠化したのでは、何をしているのか、わからぬ。


2019/07/15 人工知能について

近年の流行語の一つに AI というものがある。Artificial Intelligence のことであって、日本語では人工知能と訳される。 たとえば、AI が囲碁や将棋でトップクラスの棋士に勝った、というニュースは、しばらく前にだいぶ盛り上がった。 医療分野においても、治療方針の決定や、あるいは病理診断や放射線診断において、AI が人間よりも正確で適切な判断のできる時代が近いであろう。

ここで問題は、AI, あるいは人工知能という語の定義の曖昧さである。 世間での AI という語の使われ方をみると、どうやらコンピューターを使って何らかの判断をする場合に、そのコンピューター技術のことを AI と言っているようにみえる。 そのコンピューターが、知能と呼べるような機能や働きを有しているかどうかには関係がない。

これは病理診断の場合において顕著である。 現在 AI と呼ばれる技術は、大抵、組織像をパターン認識によって分類し、疾患を推定する、というものであるが、 これは人間が病理診断する場合の態度とは、少しばかり異なる。 人間の場合、パターン認識で疾患を推定する部分も少なくはないのだが、臨床所見と併せて、たとえば 「この子宮内膜の変化はホルモン剤投与によるものである可能性を否定できない」であるとか、 「内視鏡所見を考慮すると、サンプリングエラーを疑う」とかいう判断をすることもある。 組織標本だけで診断しているわけでは、ないのである。

いわゆる AI による病理診断の技術開発の主流は、既に「正解」がわかっている症例のデータを大量に蓄積し、 それに基づいて、新しい症例について診断を行うというものである。 つまり、教師データなどと呼ばれる「正解」のデータベースが重要なのであって、いわば、先人と同様の診断する、ということを目標としている。 病理診断学をキチンと修めていなくても、熟練の病理医と同様の診断ができる、というわけである。 また、人間の目では気づきにくい微細な形態的変化を捉えることで、 たとえば免疫染色を行わなくてもヘマトキシリン・エオジン染色で蛋白質の発現変化を推定できる、という利点もある。 これが確立すれば、病理医は不要になり、臨床医と技師とコンピューターだけで正確な診断を行えるようになるであろう。

これらは、たいへん有用な技術であるが、コンピューターが知能を有しているわけではないし、何か知性的な思考をして診断をしているわけではない。 これを AI などと呼ぶ医者は、科学を理解していないか、あるいは言語に無頓着であるかの、どちらかである。

病理医の中には、この、いわゆる AI 技術が発展すると、自分達の仕事が楽になるかのように期待している者も少なくないようである。 しかし実際には、むしろ病理医が駆逐され、失業すると考えた方が良い。 「AI を管理し責任を負う人間が必要だ」と言う者もいるが、それは技師で十分である。 あるいは、医師がやるとしても、年収 500 万円か 600 万円程度の仕事であって、現在の病理医が享受しているような高給を期待すべきではない。

そうした時代にあって、現在の若い病理医は、どのような道を選ぶか。 コンピューターの管理人に甘んじるのか。 それとも、病変そのものを観察する、という病理診断の特性を活かし、疾患の本質に迫り、新たな疾患概念を確立する、医学研究者としての道を選ぶのか。

2019.08.08 脱字修正

2019/07/10 増殖中期の子宮内膜における浮腫について (2)

前回の続きである。

1980 年に出版された M. R. Hendrickson と R. L. Kempson による Surgical Pathology of the Uterine Corpus の 62 ページでは、 ページの半分程度を使って増殖期について述べているが、その第 2 段落には次のように記載されている。

... During the first third of the proliferative phase (early proliferative), the rate of growth of all three of these elements is coordinated, and as a consequence both vessels and glands are noncoiled (Fig. 5-23). After a few days the growth of both glands and vessels outstrips that of the stroma, and as a result these tubular structures becom coiled (mid- and late proliferative) (Figs. 5-24 and 5-25).

これに対し、2019 年出版の S. E. Mills ed., Histology for Pathologists 5th ed., Wolters Kluwer (Philadelphia; 2020). では、次のように記載されている。

... During the first third of the proliferative phase (early proliferative), the rate of growth of all three of these elements is coordinated, and as a consequence both vessels and glands are noncoiled. After a few days the growth of both glands and vessels outstrips that of the stroma; as a result, these tubular structures become coiled (mid- and late proliferative) (Fig. 40.31).

ほとんど同じ文章である。 Histology for Pathologists の初版は 1992 年であるから、Surgical Pathology of the Uterine Corpus よりも後である。 つまり、 Surgical Pathology of the Uterine Corpus の記載を Histology for Pathologists が借用したものと思われるのだが、該当箇所には引用元が明記されていない。 良く言っても不適切な引用であり、悪く言えば剽窃である。 高名な教科書であっても、こういうことがあるから、注意しなければならない。

話を元に戻す。 「病理と臨床」が根拠として挙げている Surgical Pathology of the Uterine Corpus も、Mills と同様、本文中では浮腫に言及していない。 ただし増殖中期の組織像を示した Figure 5-24 の説明では

The endometrium is populated by proliferative glands exhibiting gentle coiling and set within an edematous, spindled, mitotically active stroma.

とあり、増殖中期に浮腫がみられるとしている。 つまり Mills と同様の、そして「病理と臨床」とは逆の見解を示しているのである。 「病理の臨床」の記載は根拠を欠いていることになり、おそらくは誤りである。 Mills の記載が正しいのであろう。

ここで注意すべき点は、分泌期内膜、特に分泌中期内膜でも著明な浮腫がみられる、ということである。 すなわち、上述の見解からすれば、増殖中期に浮腫を来した後に、一旦は浮腫が消失し、分泌期に再び浮腫を来すことになる。 この現象について Mills は特別の説明を加えてはいないが、他の文献ではどうなのか。 それは、また次の機会に述べることにしよう。


2019/07/09 増殖中期の子宮内膜における浮腫について (1)

この日記は「医学日記」と題しているが、いままでのところ、あまり医学的なことを書いていない。 これでは著者の医学的水準が低いと判断されてしまう恐れがあるので、今日は少しばかり専門的なことを書く。 かなりマニアックな内容なので、タイトルを読んで、面白そうだな、と思った人だけ、読み進められると良い。

病理医という人種は、子宮内膜の組織像をみただけで、その女性が月経後排卵前なのか、排卵後月経前なのかを見抜くことができる。 そして排卵後月経前であれば、あと何日で月経なのか、かなり正確に言い当てられる。 かなり正確に、というのは、だいたい 2 日程度の幅である。 その術は病理診断学の教科書に記載されており、たとえば S. E. Mills ed., Histology for Pathologists 5th ed., Wolters Kluwer (Philadelphia; 2020). の pp. 1082-1092 である。 なお、この教科書はたぶん世界で最も有名な組織学の教科書であって、つい最近、第 5 版が出たので、ぜひ買われると良い。

さて、子宮内膜は、月経後排卵前は増殖期、排卵後月経前は分泌期にあるとされる。 これは名前の通りで、内膜組織が増殖した後に排卵し、排卵後は内膜腺が盛んに分泌活動を行った後に月経に至る。 問題は、この増殖中期の子宮内膜の組織像である。

Mills の教科書を読むのが億劫な病理医の中には、月刊「病理と臨床」臨時増刊号 Vol. 35 (2017) 「病理診断に直結した組織学」を読んでいる者もいるだろう。 これの 330 ページをみると、増殖中期について次のように記載されており、図 6 のフローチャートや図 9 の組織像も、この本文と合致している。

増殖中期〜後期には核が偽重層化し, 腺管は次第に屈曲してらせん状になり、後期には間質がやや浮腫状になる.

これを読んで、Mills の愛読者は「おや」と思ったであろう。 というのも、Mills では増殖期を述べた本文において浮腫について言及していないものの、Table 40.2 において 「浮腫があるなら増殖中期、ないなら後期または interval」という旨が記載されているし、組織像の変化を示した Figure 40.30 も同様なのである。

要するに「病理と臨床」は「浮腫がなければ中期、あれば後期」としており、Mills は逆に「浮腫があれば中期、なければ後期」としているのである。 一体、どちらが正しいのか。

「病理と臨床」は、この記載の根拠文献として M. R. Hendrickson et al., Surgical Pathology of the Uterine Corpus, W. B. Saunders (Philadelphia; 1980) を挙げている。幸い、この文献は我が大学の図書館に所蔵されているので、閲覧してみた。

(次回に続く)

2019/07/08 いわゆるイランの核問題と「政府広報」

原子力の問題については、日本では、非常に偏った報道が為されることが多い。 私は医師になる前、原子力の分野にいたことがあり、その立場から、いくつかの指摘をしておきたい。

イランは 2015 年に、米国や欧州諸国との間に、ウランの 3.67% を超える濃縮を行わない旨の「核合意」を締結した。 ウランは、天然では平均 0.72% 程度がウラン 235、つまり質量数 235 の同位体であり、残りのほとんど全てがウラン 238 である。 中性子がウランと核反応した場合、ウラン 235 は核分裂しやすいが、ウラン 238 は核分裂しにくい。 従って天然ウランだけでは核分裂がおこりにくく、臨界に達することができないので、核燃料として使うにはウラン 235 の比率を高める必要がある。これが「濃縮」である。 細かいことは省略するが、核兵器に使う場合には速発臨界を要するため、原子力発電の場合に比べ、ウラン 235 の比率をさらに高める必要がある。

日本やイラン、米国をはじめとする世界中の多くの国家は、核不拡散条約を締結している。 これは、米国、ロシア、英国、フランス、中国を核兵器保有国として認め、それ以外の国家が新たに核兵器を保有することを禁じる条約である。 インドやパキスタンは、これを不平等条約であると批判し、加盟せず、独自に核兵器を開発・保有している。 北朝鮮も、条約から脱退し、核兵器を保有したと考えられている。条約加盟中に核兵器を開発したならば違法であるが、脱退後の開発なら合法である。

核兵器非保有国にとって、この条約に加盟する意義は乏しいのだから、インドやパキスタンのように非加盟の立場を選んだり、 北朝鮮のように脱退する国家が現れるのは当然である。 私は、この条約を改正し、たとえば核兵器保有国は非保有国に対し相応の経済的支援を行う義務を有する、などの形にするべきであると考える。

なお、イスラエルは条約に加盟しているが、核兵器を独自に開発したか、あるいは米国から持ち込むことにより、保有していると考えられている。 実際、イスラエルは核兵器の保有を否定していないし、過去にはイスラエルの閣僚が、核兵器を保有している旨を公式に発言したことがある。これが事実であれば、条約違反である。

さて、イランは核不拡散条約に加盟しており、かつ核兵器保有国として認められていないため、核兵器を開発することは条約違反である。 しかしこの条約は、原子力発電のための核技術開発は全ての国に対して認めている。 ウランの濃縮は原子力発電のための基礎的技術であり、その技術開発も、実際に濃縮を行うことも、条約上、全ての国に認められている。 ここでは濃縮の程度に規制はなく、90% 以上の、いわゆる兵器級高濃縮ウランを製造することも、それ自体は禁止されていない。 むろん、イランが 5% を超えるウラン濃縮を行うことも、条約上は正当な権利である。

米国や欧州は、イランが核兵器を開発しようとしているのではないかと疑いをかけている。 イスラエルの核兵器を放置してイランに噛みつくのだからおかしな話である。 しかしイランは、その米欧に対し、自由な貿易を認めることと引き換えに、ウラン濃縮を行う権利を自主的に放棄することを約束した。 これが 2015 年の「核合意」である。 あくまでイランが、条約上は認められているウラン濃縮の権利を自主的に放棄したものである、という点に注意を要する。

ところが米国は、この合意を反故にし、イランに対する経済制裁を再開した。 欧州は形式的には合意を維持しているが、実際には米国による経済制裁に同調しており、事実上、合意は失われた。 米欧の側が、一方的に合意を破棄したのである。 なお、条約違反の核兵器保有国であるイスラエルとは密な貿易関係にありながら、イランに対して核開発を理由に経済制裁を行うのは、筋が通っていない。

この状況において、イランがウラン濃縮を自粛すべき理由は何もない。 条約で認められた正当な権利の行使として、エネルギー自給のために、ウランを濃縮し原子力技術開発を行うことは、当然の権利である。

それにもかかわらず、たとえば朝日新聞がイランの核合意破り、狙いは? と題する記事を掲載するなど、まるでイラン側が合意を破棄したかのように書き立てている。 一体、諸君は、どこの政府の広報紙なのか。


2019/07/04 無給医問題

文部科学省から 「大学病院で診療に従事する教員等以外の医師・歯科医師に対する処遇に関する調査」の公表について が発表された。 これは、一部の大学病院で診療に従事している医師の中に、給与を支払われていない者が存在する、という話であって、昨年 10 月頃の報道に端を発するらしい。 文部科学省は、これに対して自主的な改善を求める趣旨で、各大学に対する調査を行った。 私の所にも、この問題についてのアンケートが来た。 私の場合は給与自体は支払われているので、その旨を回答した。

以前に書いたように、私は大学から月 27 万円の給与を受け取っている。 そして週に一度非常勤医として診療に従事している市中病院から、一回あたり 7 万円を受領しているので、かなりの高収入である。 この市中病院からの給与が、業務内容からすれば不相応に高額であり、私はこれを奨学金と理解していることは過去に書いた。

我が母校の場合、事情が違うらしい。 母校で病理医をやっている某君から一年ほど前に聴いたところによると、かの大学では大学院生には基本的に給与が出ないという。 ここで注意すべきは、この場合の「大学院生」というのは、工科や理科の大学院生とは立場が異なる、という点である。

工科や理科の場合、大学院生は一週間に少なくとも 5 日、多ければ 7 日ぐらいは研究に従事するのが当然である。 欧州などでは奨学金制度が充実しており、大学院生に対しては国や大学から充分な経済的支援が与えられているため、生活費には困窮しない例が多い。 国や社会の将来を担う人材を育成するために必要な投資、という考えが普及しているのである。 そうでなければ、学問も人材も育たぬ。 ところが日本の場合、大学や大学院で学問をするのは利己のため、という認識が強いようであり、社会的な支援は非常に乏しい。 奨学金と称する制度の多くも、実態は学生ローンに過ぎない。 英語でいう Scholarship は無償で供与されるものであり、当然、返済不要であるのとは、事情が大きく異なる。

そういった事情により、日本では少なからぬ大学院生は経済的に困窮しており、多額の借金を抱えている者も多い。 ところが医科の大学院生の場合、週に 1 日か 2 日、非常勤医として診療に従事することで、少なからぬ収入を得ている。 あるいは私の場合、大学院生でありながら週に 5 日は診療に従事し、上述のように多額の給与を得ている。 形式的には社会人大学院生、ということであるが、大学院生としての研究を行っている時間は、工科や理科の大学院生の足元にも及ばぬ。

さて、我が母校の病理の大学院生も、私と同様に、かなりの程度、診療に従事しているらしいのだが、給与は支払われていないという。 大学院生は自己研鑽のために診療しているのだから、という名目なのであろうが、むろん、それは社会通念上、認められない。 その論法が許されるなら、世の中一般に、新入社員に対しては戦力になるまでの研修期間中は給与を払わなくて良いということになる。 そもそも、大学院生というのは医学研究をする立場であって、診療技術を習得する期間ではない。 だから、大学院生に対して「自己研鑽」のために診療させるということ自体、おかしい。

では、その無給医たる某君はどのようにして生活の糧を得ているのかというと、週 2 回、市中病院で勤務し、そちらから給与を受け取っているらしい。 母校は大都会にあるので、たぶん、私の場合よりも非常勤医としての給与は安いであろうが、それでも週 2 回であれば、月給が 30 万円を下回ることはないであろう。

この問題のややこしいのは、形式的には無給であるが、実態としては、市中病院での業務を斡旋されることで、実際には少なからぬ給与を受け取っている、という点である。 無給は問題だから、ということでキチンと給与を払ってしまうと、今度は「払い過ぎ」なのである。

大学病院と市中病院と勤務医の三者が、相互に曖昧な依存関係にあることが問題なのであって、それを是正すべきである。 そのためには、一般の市中病院と、大学病院などの専門病院とを明確に区分し、両者で診療報酬の計算方法を分けるべきである。


2019/07/03 目的論 (3)

さて、「異性に対する迷惑行為」の話に戻ろう。 ヒトであれば、配偶者が他の異性と性行為するのではないかと懸念し、つきまとったり、拘束したりする者もいる。 しかし、はたしてトンボは、自分が交尾した相手の雌が「浮気」しないか心配しているのだろうか。 マメゾウムシは、自分の子を残したいと思って、精液に毒を持たせたのだろうか。

ひょっとすると、トンボにも独占欲や嫉妬心があって、配偶者の浮気を心配しているのかもしれぬが、それを証明した者はいないと思う。 キチンとした科学的検証もなしに、ヒトと同じような感情をトンボやツバメが持っていると仮定して議論するのは、適切な態度ではない。

ただ単に、交尾した相手の雌を拘束し、あるいは精液に毒を含ませるような遺伝的形質は、進化の選択圧が高く、その形質が子孫に受け継がれやすい、というだけのことではないのか。 たまたま、そういう変異を獲得した個体が、進化の仮定で選択されてきた、と考えるのが自然である。 朝日の記者の「対立の構図が、生き物たちの体の形や、雌雄の行動のちがいを進化させてきた」という言葉が、いかなる根拠に基づくのか、理解しかねる。 対立しているから進化する、などという生物学的機構が存在するようには、思われない。

なお、選択圧の高低正負と、種や個体の存続における有利不利とは、一般には一致していないという点に注意を要する。 特に、朝日の記事で挙げられたような「迷惑行為」は、選択圧の高い形質ではあるが、種の存続にとっては不利である。 朝日の記事では、これを個体としての性的欲求によるものであるかのように書いているが、たぶん、トンボは何も考えていないし、欲求も持っていない。

こうした目的論による説明は、素人を「わかったような気分」にさせやすいが、生物学や医学を議論する上では、不適切である。

たとえば、古い免疫学の教科書では、白血球が「異物を認識して排除する」というような表現をされていることがある。 しかし、白血球に、自己と異物を区別する能力があるとは思われない。一体、何をもって「異物」とするのか。 実際、現在の免疫学では、異物を認識しているわけではなく、いわゆるパターン認識受容体により、構造パターンを認識しているのだと考えられている。 だから異物であっても、パターン認識受容体が反応しない材料を使えば、人工血管やインプラントなどを作成できるのである。

また、我々は「低血糖になると困るから」という理由でグルカゴンを分泌しているわけではないし、 「糖が余っているから」という理由でインスリンを分泌するわけではない。 困る云々とは関係なしに、そのように膵島の細胞ができているから、それらのホルモンを分泌しているのである。 それを目的論で理解しようとすると、糖尿病や、機能性腺腫などの病態を理解できなくなる。

むろん、科学や医学に疎い患者に対し、わかったような気分にさせて満足させる目的で、そうした比喩を多用して説明することは、一概に悪いとはいえない。 しかし、専門家として病態を理解するにあたり、そのような不正確な考えを採用するべきではない。 また、科学的素養のある患者に対して目的論に基づく説明をすれば、この医者は何も分かっていないな、と、著しい不信感を抱かれるであろう。


2019/07/01 目的論 (2)

進化における選択圧、という言葉がある。

生物は、長い歴史の中で進化してきた、という考えが、世界的には多数派である。 一部の宗教勢力の中には「進化」というものの存在を否定する者もいるが、聖書には、進化の存在を否定する明確な記載はない。 確かに、創世記には、現在と同じような動物種が最初から神の手で作られたかのような記載はある。 しかし聖書は、神の教えを無知無学な民衆にもわかりやすく伝えたものであって、寓話としての要素は含まれていると考えるべきである。 聖書に比喩が含まれていると考えることは、聖書の無謬性を疑うことにはならず、キリストの教えとは矛盾しない。

進化は、基本的には、ゲノムの変異やエピゲノムの変化が蓄積することで生じると考えられている。 こうした変異や変化は、ほぼランダムに生じると考えられている。 その結果として生じる表現型の変化もランダムであるが、大抵は既に有している生物機能に障害を来すものであって、生存には不利である。 たとえば、p53 遺伝子に点変異が入ると、癌が多発するようになる。医学でいうところの Li Fraumeni 症候群である。 こういう変異は生存に不利なので、その個体は早逝しやすく、そのゲノムは子孫に受け継がれにくい。

一方、稀に、生存に有利な変異が生じることがある。 たとえば 4 本足の草食動物の中に、たまたま、首が少し長くなるような変異体が生じたとする。 すると、この個体は、他の個体よりも高い所に生えている草を食べることができる。 だから、動物数に比して植物が少ないような環境では、この個体は生存に有利である。 結果的に、生殖年齢まで生存しやすく、子を生みやすくなる。

このように、生存や生殖に有利な遺伝形質が次代に受け継がれやすい、そういう遺伝形質が「選択」されやすい、という意味で「選択圧」という語が使われる。 あくまで結果的にそうなる、というだけのことであって、個々の生物が積極的に形質を「選択」しているわけではない。 「首を伸ばそうかな」と思ったから首が長くなるように進化した、というわけではない。 高い所にある草を食べようとして首を伸ばし続けたから首が長くなった、というわけでもない。

葉が高い所にあったから首が長くなったわけでもない。 葉がどこにあろうと、首の長い個体が変異によって生じる頻度は変わらないのである。 葉が高い所にあったから、首の長い個体が生存に有利であった、というだけのことである。 もし高い所に草がなければ、無駄に長い首は邪魔になって、逆に負の選択圧になったかもしれぬ。

(次回に続く)

2019/06/28 目的論 (1)

生物学や生理学を修めるにあたり「合目的的」という言葉聞いた人は少なくないであろう。 目的に適っている、という意味である。 たとえば、高血糖時には膵島 β 細胞からのインスリン分泌が亢進し、低血糖時には α 細胞からのグルカゴン分泌が増えるのは、 血糖を一定範囲に保つという「目的」を達するのに具合の良いしくみであって、「合目的的」である、という具合である。

しかし、このような考え方は、科学的ではない。 我々は「血糖を一定範囲に保つ」という目的を持って、それを達成するために膵臓を進化させ、α 細胞や β 細胞の機能を構成したわけではない。 我々が意図したわけではなく、目的を持っていたわけでもなく、ただ、結果として、このように進化してきたのである。

ところで私は、朝日新聞が嫌いではない。この新聞社の、特に政治的社会的主張に関しては同意しかねる部分も多いし、浅薄で低俗な記事も多い。 報道の質では英国 BBC に遠く及ばないが、しかし、社会の中における報道機関のあり方を模索する姿勢は、高く評価している。 その朝日新聞に、6 月 24 日付で 自己中な生き物、迷惑な子作り行動 精液に毒 … 競争過激という記事が掲載された。

さまざまな動物にみられる、異性に対する「迷惑行為」を例示した娯楽記事である。 たとえばトンボが交尾後にも異性とつながったままで飛んだり、ツバメの雄が交尾後も雌につきまとったりすることで、他の雄と交尾するのを妨げる、といった具合である。 あるいはショウジョウバエの精液には毒物が入っており、他の雄の精子を傷害する一方、雌の体にもダメージを与えてしまう、といった話も紹介されている。

ここで問題にしたいのは、朝日の記者の書き方である。たとえば次のように表現されている。

交尾を終えたメスのトンボは、もうオスに用はない。一方でオスは、メスが別のオスとも交尾しないか心配だ。だからメスの首根っこを尾の先で押さえつけて束縛する。

オスの生殖器のトゲが大きな種類のマメゾウムシほど、メスの生殖管の内壁が分厚いことも見つかった。 トゲに傷つけられにくいため、メスは複数のオスと何度も交尾ができる。確実に自分の子を残したいオスはさらに対抗し、精液に毒を持つようになった……とみられている。

そして、これらを総括して

オスの迷惑行為と、はねのけようとするメスの戦略。対立の構図が、生き物たちの体の形や、雌雄の行動のちがいを進化させてきた。

と述べている。

こうした表現が、具体的にどのように誤りであるのか、次回から何回かにわけて、述べよう。


2019/06/26 「統計的に有意」を巡る朝日新聞の記事

6 月 20 日付で、朝日新聞が 「統計的に有意」誤解の温床で有害 ネイチャー論文波紋という記事を掲載していた。 「統計的に有意」かどうかを問題にするのはやめるべきだ、という Nature 誌の記事 (Nature 567, 305-307 (2019).) を紹介するものである。 元となる Nature 誌の記事内容はまっとうなので、この問題に関心のある方は、ぜひ読まれると良い。 著者はスイス University of Basel の動物学教授 V. Amrhein らである。

朝日の記事には書かれていないが、Amrhein らは、解析方法を「適切」に設定することで「有意差」を操作する不正行為について、次のような表現で批判している。

On top of this, the rigid focus on statistical significance encourages researchers to choose data and methods that yield statistial significance for some desired (or simply publishable) result, or that yield statistical non-significance for an undesired result, such as potential side effects of drugs --- thereby invalidating conclusions.

このように統計的有意差にばかりが注目されるようになった結果、少なからぬ研究者は、データや解析方法を巧妙に選択するようになった。 論文になるような望ましい結果については有意差が出るように、また、薬剤の副作用など望ましくない結果については有意差が出ないように、という具合である。 こうして、研究結果が歪められるのである。

朝日の記事には、国立がん研究センターの後藤氏や、大阪市立大の新谷教授のコメントが掲載されている。 この記事が、彼らのコメントの全体を適切に反映する形で載せているのかどうかは知らぬが、 「有意差だけで価値判断するのは危険」とか「総合的に判断すべき」とかいう、漠然として曖昧な内容のコメントである。 どうして、もっと踏み込んだコメントをしないのか。

Amrhein らは、有意差の有無で議論すべきではない、と主張し、いわゆる confidence interval で議論すべき、と主張している。 なお、彼らは confidence interval という名称は誤解を招くとして compatibility interval と呼ぶべき、とも述べている。

p 値よりも confidence interval で議論すべき、というのは、だいぶ昔から言われていることであるが、 それが近年になってまた強く言われるようになったのは、それだけ、この「『有意差』についての誤解」を悪用する論文が多くなっているからであろう。 なにしろ、臨床医学において最も権威ある論文誌とされる The New England Journal of Medicine でさえ、あの程度なのである。 なお、ここでいう「権威」とは、いわゆる impact factor のことであって、掲載されている記事の学術的水準や価値が高いという意味ではない。

ところで、Amrhein らの批判も、実は照準が少しずれている。 彼らは「有意差なし」を「同等」と誤認してはならぬ、という点にばかり注目しているが、 6 月 14 日に書いたように、実は「有意差あり」という結果も、実用上は意味がない。

そもそもの問題は、「両者は同等である」という帰無仮説を棄却する、という方法で検定しようという発想自体にある。 この検定法は、たとえば基礎物理学においてニュートリノの質量が非零であることを証明したい、という場合には有効であろう。 質量が厳密に 0 なのか、ほんの少しの正値なのか、という違いを問題にしているからである。 しかし、この帰無仮説は、臨床医学や生物学実験では意味がない。 我々が知りたいのは「プラセボと新薬の間に、ほんの僅かでも差があるのかどうか」ではなく、 「経済性や有害事象のリスクを充分に超越する程度の効果があるかどうか」だからである。 この観点からは、同等性の検定ではなく、非劣性試験や優越性試験を採用すべきである。

なぜ、このような不適切な帰無仮説を用いた検定がはびこっているのか。 そのあたりの事情は、知らぬ。


2019/06/25 前川孫二郎

昭和二十二年、京都帝国大学内科学教授の前川孫二郎が書いた「生物電気の理論」と題する論文が、雑誌「医学」に 3 回に分けて掲載された。 前川は当時、心電図理論について世界最先端の研究を行っており、この論文において、心電図理論の基礎が確立したといえる。 この連載は京都帝国大学教授にふさわしく、格調高い文章の中に、率直な批判と科学への誠実さおよび野心、そして軽妙なユーモアが交えられており、名文である。 名古屋大学や東京大学、慶應義塾大学をはじめとして多くの大学医学部の図書館には収められているので、ぜひ読まれると良い。 以下に、昭和二十二年一月号に掲載された文章の一部を紹介しよう。一部の漢字は、新字体に改めてある。

前川博士は、実験結果を深く批判的に吟味することなく安直に解釈してきた過去の科学者に対し

然し理論と言ふものは實驗室で拾つた事實を糊と鋏とで綴り合せただけで決して生れるものではない。 何となれば事實は現實にその活々とした色彩を以つて吾々の感官を刺戟し、それだけに素撲な直觀にとつては 往々絶對的な存在として錯覺せられるが、然し吾々が事實としてそこに見てゐるものは、 それ程絶對的な存在でも又客觀的な存在でもなく、却つて感覺的色彩に僞装された 主觀的觀念的な存在に過ぎないものである。

と批判し

眞に科學的醫學を建設しようと思ふものは、實驗室で拾つた事實が何如に簡明直截なものであつても、 それを必ず數學的精密な論理に従つて吟味し、それに附随する不純な觀念を 清除するやうに心掛けねばならない。

と主張した。 とにかく実験を行って論文を書きさえすれば良いと思っている昨今の一部の自称科学者は、 この文章を朝に夕に音読すべきである。 前川博士はさらに、理論よりも実験を重視すべしと説いた Bernard の方針には

勿論生物學は自然科學であるから理論と云つても數學のやうに全く事實を無視して純粹な規約の上に これを發展せしめることは出來ない。然し又 Bernard が信じたやうに 事實をその悉くの條件に於いて理解したのでなければ、理論を構成することが出來ないと言ふならば 自然科學は終に理論を持つことは出來ないであらう。 然るに物理學は量子理論を持つ以前に場の理論を持ち、 場の理論を持つ以前に既に運動學的理論を持つてゐた。 勿論生命現象はあらゆる自然現象のうちでも最も複雑なそして神秘でさへあり得る現象に違ひない。 恐らく現今の自然科學がその理論の根柢として持つ物質の概念のみを以つてしては遂に 解決し得ない問題であるかも知れない。 然しそれは生命現象に於いて抽象せられた二つの互に相反する概念 --- 精心と物質とを 粗雑に混同するからに外ならない。

なる批判と見解を述べた。 ここでいう「精心」とは、精神のことであろうが、 常識とか直観とかいうものを精神的現象と解釈したようである。 前川博士はさらに、従来の常識に拘泥して新説を拒絶する頭の硬い科学者を揶揄して

自然に飛躍がない如く、自然科學者の思想の發展にも矢張り飛躍は望まれず 歴史は迂遠な路を歩むのである。

と、述べた。


2019/06/23 ディオバン事件

ディオバン事件というのは、アンギオテンシン II 受容体拮抗薬であるバルサルタンについて、 ノバルティス社などが臨床試験において不正を行った一連の事件のことである。 不正というのは、一つにはデータ改竄、つまり捏造の問題であり、もう一つは、ノバルティス社の社員が身分を偽って研究に加わった、利益相反の問題である。

ここで利益相反について重要なのは、ノバルティスの社員が身分を明示していなかった、ということが問題にされている点である。 製薬会社あるいは社員が研究に加わること自体は、倫理的には問題ではない、とされている。 それを公表しないことが問題なのだ、というのである。 だから、薬剤の添付文書やインタビューフォームをみて、その根拠論文を読んでみると、多くの場合、製薬会社や社員が関与した旨が明記されている。

近年では、学会発表などに際しても、利益相反の開示が義務づけられていることが多い。 「開示すべき利益相反はありません」としている発表者が多いが、 中には製薬会社などから多額の講演料などを受け取っており、多数の利益相反を列挙する者もいる。 そして、大抵、発表の際は「利益相反はこんな感じで」などと言いつつ、そのスライドを 1 秒だけ表示して次に移る。 聴衆は、具体的にどういう利益相反を抱えている人物なのか、わからないまま発表を聴くのである。

以前に書いたように、統計には様々な魔術があり、解析結果は、かなりの程度、恣意的に誘導することができる。 だから本当は、臨床試験というものは、関係者を排除し、利害関係のない者だけで実施するべきなのである。 しかし現実には、それは難しい。そもそも本当に利害関係のない者は稀であるし、そういう者は、わざわざ主体的に臨床試験を行おうとはしない。 そこで、科学者の良心を信じて、利益相反を開示した上でなら関係者が臨床試験を行っても良い、ということにせざるをえないのである。

その結果、何が起こるか。 資金や便宜を供与してくれた製薬会社の「顔を立てて」配慮したくなるのが人情ではないか。


2019/06/21 医師と製薬会社

医師と製薬会社が仲良しであることは、よく知られている。

病院内で医師向けに開催される一部のカンファレンスなどでは、製薬会社が高価な弁当を供与し、 カンファレンス冒頭に 10 分程度の時間で自社製品の「情報提供」を行うことがある。 情報提供というのは、わかりやすい言葉でいえば宣伝である。

また、製薬会社主催で「勉強会」が開催されることもある。 私が経験した中では、隣県まで新幹線で行き、駅から会場までタクシーで移動し、大きな会場で何件かの講演や発表を聴き、 終了後には「情報交換会」という豪華な立食パーティーが開かれる、というものがあった。新幹線代もタクシー代も主催者負担で、参加費は 1,000 円であった。

先月に参加した某学会では、ランチョンセミナーが開催されていた。 これも、製薬会社がスポンサーとして高価な弁当を提供し、それを食べながら講演を聴く、という趣旨のものである。 ついでにいえば、この学会の参加証を首にかけるためのストラップも、某製薬会社が提供したものらしく、その会社のロゴが入っている。

真面目な病院の中には、業者からの物品供与を一切禁じているところもある。 ボールペン一本でも受け取ってはならぬ、というのである。 しかし少なからぬ病院では、そうした規制は乏しく、医師のポケットや机上には、製薬会社のロゴが入った物品があふれている。

念のため、懇意にしている助産師に訊ねてみたところ、助産学会では、そのような便宜供与はないという。 つまり、彼らは医療界に貢献しようとして利益供与しているのではなく、あくまで医師に対して、そうしているのである。

なぜ製薬会社は、このように、我々に対して便宜を図ってくれるのか。 むろん、医師がエラいからではないし、製薬会社が我々を大好きだから貢いでくれているわけでもない。 それが、会社の利益になると考えているから、やっているのである。

なぜ、こうした医師への便宜供与が、製薬会社の利益になるのか。

一つには、医療機関における薬剤の採用や、患者への処方において、医師の裁量が大きいからであろう。 実際、私は MR (Medical Representative; 営業担当者) 氏が「情報提供」の場において、自社製品をどんどん使って欲しい旨を発言するのを何度も聞いたことがある。 製薬会社が医師に便宜を供与し、医師は臨床現場で製薬会社に便宜を図る、という関係はマズいから敢えて「情報提供」という体裁にしているのに、台無しである。

もう一つが、2013 年頃に話題になった、いわゆる「ディオバン事件」にみられるような、学術の皮をかぶった営利活動である。

(次回に続く)
2021.02.13 語句修正

2019/06/19 医師の給与の仕組みからみた大学病院と市中病院 (2)

なぜ、市中病院では、こうした破格の待遇で非常勤医を雇用しているのか。

いうまでもなく、これは、我々が非常勤医として提供している労務への純粋な対価ではない。 我々のようなヒヨコは、それほど高等な診療を提供しているわけではなく、基本的には、指導医の監督下で診療を補助しているに過ぎない。 日当 7 万円相当の仕事は、できていないのである。

この関係を理解するには、大学病院と市中病院との、事実上の役割分担について考える必要がある。 なんとなく、市中病院は比較的軽症の患者に対し、比較的ありふれた診療を提供する病院、というように思われているだろう。 これに対し大学病院は、比較的重症の患者に対し、高水準な診療を提供する病院、というわけである。 その認識は、だいたい、合っているように思われる。 急性虫垂炎の患者はあまり大学病院には来ないし、前述の尾鷲総合病院では急性大動脈解離に対する手術はやらないであろう。 また、血液検査などをみても、大学病院では様々な項目を高頻度に検査するのに対し、市中病院では必要最低限の項目に限って検査することが多い。

この大学病院と市中病院の診療内容の差は、現行の保険制度で明確に定められたものではない。 保険点数は、診療行為毎に定められているのであって、たとえば急性虫垂炎を大学病院で手術しようが尾鷲総合病院で手術しようが、 厳密にいえば細かな加算の点で違ってはいるものの、基本的には同じ点数である。 たとえば虫垂切除術の場合、どの病院でも同じであって 6,740 点 (虫垂周囲膿瘍を伴わない場合) である。 一方、大学病院ではふんだんに行っている血液検査については、かなりの部分は保険診療上は切り捨てられている。 たくさん検査しても、その分の料金を患者や保険者に請求することができず、病院が負担しているのである。

このように、大学病院では「経済性の悪い」診療が行われている。では、その費用はどこから出ているのか。 経営母体である大学が負担している例もあるかもしれないが、大抵は、病院は単独で黒字か、あるいはごく僅かの赤字に抑えられていることが多いようである。

不経済な診療を行っても黒字になる理由の一つが、医師の人件費であろう。 前述の例でいえば、私に対し、我が大学では久美愛厚生病院に比して、年 600 万円近くも安い給与しか払っていない。 ここで「浮いた」600 万円を、診療に当てているわけである。 そして私は、大学からは比較的安い給与しか受け取らない代わりに、市中病院から高額の給与を受け取る。 市中病院からすれば、私に対しては不相応に高い賃金を払う代わりに、大学との結びつきを強めているわけである。 が、実際には、そのような「結びつき」が有する実効性は乏しいようには思われるので、市中病院が本当に経営改善に取り組んだら、こうした高額報酬は失われるであろう。

むろん、こうした関係は、不健全である。

私は、市中病院からの高額の「給与」を、奨学金と思って受け取っている。 とはいえ形式的には、私の拙い診療行為に対して不当に高い賃金が支払われているわけであって、あまり気分の良いものではない。 本来は、私は大学に所属している医師なのだから、賃金は専ら大学から支払われるべきである。

形式的には、私個人が市中病院と労働契約をして、非常勤医として働いていることになっているが、実際には大学から派遣されているのである。 それならば、本当は、私は大学病院における業務の一環として市中病院に赴き、市中病院は報酬を大学に支払い、 そして大学は、その分を含めた給与を私に支給するべきである。 しかし現状では、大学は人材派遣業を行っていないことになっているので、そのような契約関係を成立させることができない。


2019/06/18 医師の給与の仕組みからみた大学病院と市中病院 (1)

私が医学科の学生であった頃にはよく理解できていなかったのだが、医師四年目になって、そろそろ、このあたりの経済的事情がわかってきた。 学生や非医師にはわかりにくい世界であろうから、ここで説明しておこう。

まず客観的事実として、大学病院に勤務している医師の給与は、市中病院の医師に比して、大抵、安い。 たとえば私は地方大学の大学病院の勤務医であるが、2019 年 5 月に大学から支給されたのは 270,150 円である。 常勤しているが、契約上は非常勤扱いで、賞与の類はなく、年給にして 325 万円程度になる。 時間外勤務手当などは受け取っていない。また、大学院生としての身分があるから、という理由で、交通費も支給されない。 しかし大卒四年目の給与としてみれば、世間の基準からいって、特別に安くはない。 ところが世の中には「大学からの給与だけでは生活できない」などと言う医師は少なくないのである。世間知らずであると言わざるを得ない。 それとも、大学受験戦争の勝者でありエリートである医師は特権階級であり、莫大な経済的恩恵を受けて当然であると思っているのだろうか。

とはいえ、私の給与が、市中病院の医師に比して安いのは事実である。 たとえば、極端な例を挙げれば、三重県の南の方にある尾鷲総合病院医師募集要項 をみると、私と同じ「後期研修医 4 年目」で総支給額が年 1750 万円程度、となっている。

むろん、尾鷲総合病院は僻地で医師不足の顕著な病院であるから、高い給与で医師を呼ぼうとしているのであって、都市部の市中病院では、ここまでの破格の待遇はない。 それでも、たとえば岐阜県の高山にある久美愛厚生病院の場合では 後期研修医で年給 900 万円程度 (諸手当を含まない) と、かなりの厚遇である。 京都や名古屋などの都会では、もう少し安くなるのであろうが、詳しく調べてはいない。

では大学病院勤務の我々が、実際に年 325 万円で生活しているのかというと、そうではない。 私の場合であれば週に一度、非常勤医として、市中病院の診療を兼業している。 この非常勤医の給与相場には地域差があるようだが、だいたい、一日で 4 万円から 7 万円程度のようである。 外科医や内科医の当直の場合、10 万円を越えることもあるらしい。 週に一日の勤務で、本業たる大学病院からの給与と同程度の給与を受け取っているわけである。

(次回に続く)

2019/06/17 ホルムズ海峡

数日前から、ホルムズ海峡が嫌な意味で盛り上がっている。 この日記は学問、特に医学について記すものであるが、多少は時事社会政治問題も取り扱う。 学問と政治は切り離すべき、というのが原則ではある。 しかし、現在の日本社会において、時事社会問題について自由に発言できる立場にある者は少ない。 一般の会社勤めや自営業であれば、本業への影響を恐れ、こうした問題については発信を控えざるをえない者が大半であろう。 その点、我々医師は、良し悪しはともかく医師免許に守られ、社会的にも経済的にも自由で安全な立場にある。 こうした、社会のしがらみから少しばかり遠い位置にいる我々には、政治や社会について率直に述べる道義的責任がある。

ホルムズ海峡の問題というのは、むろん、6 月 13 日に 2 隻の民間船舶が何者かの攻撃を受けた件である。 日本では、このうち一方の、パナマ船籍で日本企業が有する船舶のことばかりが注目されているようだが、 BBC によれば、もう一方はノルウェー所属である。

米英やイスラエルなどは、この攻撃についてイランが関与している、あるいはイランによるものだ、と主張しているが、証拠は提示していない。 不発だった爆発物をイラン革命防衛隊が除去する様子、とされる映像は公表されたが、これが本当にイラン革命防衛隊だという証拠はないし、 そもそも、爆発物を除去したことが、どうしてイラン軍による攻撃だという根拠になるのか。

日本の大手新聞社や通信社も、日本や諸外国の政府発表をそのまま流すだけである。 政府の主張の裏付け取材もなしに、イランによる攻撃だとする米英イスラエル政府の広報活動に協力し続けている。 たとえば時事通信は 「日本のタンカー、イランが攻撃=イスラエル」という見出しをつけて、イスラエルの主張をそのまま流している。 また 朝日新聞 は、 「イラン、タンカー攻撃前にミサイル発射か CNNが報道」と、まるでイランがタンカーを攻撃したかのような見出しで、 米国 CNN の放送内容を無批判に伝えている。 が、この CNN の放送というのは、米国政府の発表内容を、充分な検証なしに伝えているものに過ぎない。 むろん、これらの記事は「イスラエルがこう言った」「CNN がこう放送した」と述べているだけの内容であり、時事通信や朝日の記者は、 実際にイランが攻撃した、と主張しているわけではない。 しかし、こういう記事の書き方は、イランが攻撃したかのような印象を読者に与えるだけのものであって、何ら真実を追求するものではない。

一体、彼らはアフガニスタンやイラクの件から、何を学んだのか。

18 年前、米国は証拠も示さずに、ニューヨークへの攻撃はアフガニスタンによるものだ、と主張した。 そしてアフガニスタンに侵攻し、同国政府を壊滅させ、自国に友好的な新政府を樹立させた。 むろんアフガン人は米軍に屈服せず、今なお強力な反米・反政府軍事活動が展開されている。

また、イラクにおいては、1990 年の湾岸戦争後に米英は「飛行禁止区域」を設定し、イラク国内の工場などに対する空爆を継続していた。 むろん、これには何の法的根拠もない。 16 年前には、米国は「イラクに大量破壊兵器が存在するという証拠がある」と主張し、核不拡散条約違反の疑いで IAEA による査察が行われていた。 IAEA が査察のために偵察機を飛ばしたい、とイラク政府に申し入れた際には、イラクは、空爆をやめさせるか、そうでなければ偵察機の飛行計画を事前に提出されたし、と返答した。 飛行計画がわからなければ、IAEA の偵察機を米英軍機と誤認して撃墜する恐れがあるからである。 しかし日本のマスコミは、まるでイラクが査察に非協力的であるかのように報道した。 そして査察実行中に米軍はイラクへの陸上侵攻を開始し、結果として IAEA は査察を中断して撤退した。 イラク政府は崩壊したが、結局、大量破壊兵器は、みつからなかった。

朝日新聞をはじめとする日本のマスコミは、第二次世界大戦中に政府広報に不適切に加担したことに対する反省を口にしている。 しかし、アフガンやイラクの時に米政府に協力したことについては、私の知る限り、謝罪していない。 なお、イラクの時の話については、映画「記者たち」が面白い。


2019/06/15 統計の魔術 (4)

最後に、統計というものが、いかに恣意的で信用できないものか、述べておこう。

仮に、ステロイド吸入は無意味だ、という主張をしたい者がいたとする。 その者が、ステロイドの無意味さを主張するために、「有意差なし」という結果を得たいと考えたとしよう。 これは簡単で、たとえば、故意に検出力を過大評価して症例数を少なくして試験すれば良い。 あるいは、効果判定の際に、敢えて曖昧な評価をすることで、結果をぼやけさせることも有効である。 とにかく、誤差を大きくすれば「有意差なし」になるのだから、いいかげんな試験をやれば、全て「有意差なし」にできるのである。

逆に、ステロイド吸入は有効だ、という主張をしたい者が、それに適した試験結果を得たいと考えたとしよう。 実はこれも簡単である。 ステロイド (正確にはグルココルチコイド) が炎症を抑える作用を有していることは既知だからである。 何か炎症の目安、たとえば好酸球数だとか C 反応性蛋白質だとかを判定の指標にして、充分に多数の症例を集めて統計をとれば、まず間違いなく、優越性試験を通過できる。 どれほど多くの症例を集めれば良いのか、事前に推定することにはいささかの困難があるが、症例数さえ多ければ、有意差は必ず生じるのである。

つまり、時間と資金の制約さえなければ、期待した通りの結果を統計的に得ることは、ほとんど常に可能なのである。 「統計的エビデンス」などというのは、その程度のものに過ぎない。

少しだけ勉強した人は、「ではメタ解析はどうなのか」と言うかもしれぬ。 メタ解析というのは、臨床試験結果をたくさん集めて、それら全体を一つの臨床試験であるかのようにまとめて解析する手法のことである。 教科書的には、これは、臨床試験の中では最も信頼性が高い手法である、ということになっている。

当然のことながら、メタ解析の結果は、個々の臨床試験の質に大きく依存する。 いいかげんな臨床試験をたくさん集めてメタ解析しても、ろくでもない結果にしか、ならない。 ただし、症例数が少ないために「有意差なし」になる、という事例は、メタ解析では、起こりにくい。 メタ解析全体では、かなりの症例数が集まるからである。

だから、メタ解析で「有意差なし」という結果を故意に誘導するためには、多少の工夫がいる。 たとえば治療効果判定に際して「効果が乏しい」という判定を多くするのは有効である。 あるいは、交絡因子をうまく使って、メタ解析に組み込む臨床試験を「うまく」選別するのも有効である。

純真な若い医師は「そんな悪意で論文を書く研究者は、いたとしても稀であろう」と言うかもしれぬ。 はたして、そうだろうか。 先に 6 月 11 日に紹介した The New England Journal of Medicine に掲載された論文の著者は、 ほんとうに、単に統計学に無知だったのだろうか。 諸君のまわりに、「望ましい結果」を得るために、実験や試験で四苦八苦する人々は、いないだろうか。 彼らの「工夫」は、ほんとうに、科学的に妥当なものなのだろうか。

(「統計の魔術」おわり)
2021.02.13 誤字修正

2019/06/14 統計の魔術 (3)

では、どのように統計処理をすれば良かったのか。 解析方法を決めるには、まず、臨床試験の本当の目的は何なのかを、厳密に考える必要がある。

考えの浅い人は「ステロイド吸入とプラセボで差があるかどうかを調べたいのだ」などと言うだろう。 では、ほんの少しの差でもあれば良いのだろうか。 患者 100 万人あたり 1 人に、ほんの僅かな呼吸機能の改善がみられる、というものでも「差がある」とみて良いのだろうか。

何をもって「差がある」とするのかは、数学や生物学で決められるものではない。 社会的要請や経済的事情から、総合的に判断せねばならない。 医学というのは、純粋な自然科学ではなく、多分に人文科学的要素を含むのである。

医療経済を考慮して、たとえば 5% の患者で症候の改善がみられた場合に「差がある」と判定することにしよう。 そうすると、あとは数学の問題である。 プラセボのステロイド吸入に対する非劣性試験に通過すれば「プラセボは、ステロイド吸入に対して、劣っているとしても症候の改善率にして 5% である」と言うことができる。 つまり、プラセボはステロイド吸入に対して、有意に大きく劣ってはいない、ということになる。 この場合、医療経済をふまえて「ステロイド吸入は効果が乏しいから、やめた方が良い」と主張することができる。 今回の臨床試験では、著者らはステロイド吸入の効果が乏しいことを示したかったのだから、こうした非劣性試験を行うべきであった。

あるいは逆に、ステロイド吸入のプラセボに対する優越性試験に通過すれば「ステロイド吸入は、プラセボに対して、5% 以上の症候改善が見込める」と言える。 この場合は、ステロイド吸入を推奨する統計学的な根拠となる。 どちらの試験も通過しなかった場合は「有意差なし」あるいは「有意差はあるが、差は不明瞭である」としか言えず、意味がない。 なお、両者が本当に同等であることを統計的に示すことは、原理的に不可能である。

ここで述べた、非劣性試験とか優越性試験というのは、製薬に関係している人々にとっては常識であろうが、医師の中にはよく理解していない者も多いであろう。 インターネット上にはこれらを解説した文書も少なくないが、いいかげんな説明も多いので、注意されたい。 いずれ、この日記でも説明するかもしれない。

(次回に続く)

2019/06/13 統計の魔術 (2)

統計学に疎い人々の中には、こうした臨床試験について「試験設計の段階で適切な検出力を持つよう設定されているのだから、 有意差なしということは、つまり、本当に差がないということなのだ」などと言う者がいる。 医学科の教授の中にも、平気でこういう発言をする者が少なくないから、困る。 こういう人々は、具体的にどうやって検出力の推定や試験設計を行うのか理解していないのに、「キチンとやれば、できるらしい」と信じているのだろう。 科学者としての基本的な姿勢が、なっていない。

検出力を推定するには、6 月 11 日の記事の例でいえば、プラセボ群とステロイド吸入群との間の differential treatment response が どの程度であるかを予測し、どの程度の統計誤差が生じるかを推定する必要がある。 基本的には、症例数が多くなるほど検出力は増す。そこで、望ましい検出力を得るために必要な症例数を計算し、試験を設計するのである。

当然ながら、臨床試験を行う前の段階で「differential treatment response がどの程度であるか」を正確に予測できるはずがない。 Differential treatment response を知ることが臨床試験の目的なのだから、それを正しく予測できるぐらいなら、臨床試験を実施する必要がないのである。 そこで小規模の先行研究を行って、おおまかに differential treatment response を推定し、それに基づいて試験計画を立てることが多い。 むろん、この先行研究は統計誤差が大きいので、推定された differential treatment response は著しく不正確であり、 結果として、検出力の推定も、あまり信頼できないものになる。

さらにいえば、そもそも、充分に高い検出力があったとしても、「有意差なし」という結果を「本当に差がない」と読み換えることはできない。 このあたりの問題については実験結果の再現性を論じたレビューである Biochem. Pharmacol. 151, 226-233 (2018). が読みやすい。

先に述べた吸入ステロイドの話でいえば、ステロイド吸入群の方がプラセボ群よりも、いくらか経過良好な傾向がみられた。 単に p = 0.025 の基準を満足できなかった、というだけのことなのである。 これは、試験計画の段階で検出力を過大に推定してしまい、結果として、症例数が不足したのであろう。 もっと症例数を増やして再試験すれば、有意差が認められるはずである。 それを、安易に「吸入ステロイドの効果はプラセボと同程度」などと解釈しては、ならぬ。

(次回に続く)

2019/06/11 統計の魔術 (1)

医師をはじめとする医療従事者の中には、「統計」というものに対し、苦手意識の強い者が多いように思われる。 何か大事なものであって、医学においても重要な手段ではあるのだが、たいへん難しく、よくわからない、という認識の持ち主が多いのではないか。 そして「統計的に示された」「統計的エビデンスがある」と言われると、それが正しいこと、医学的に明らかなことであるかのように感じられる。 たとえ自分の印象や考えと違っていても、それ以上の反論をできなくなるのである。

The New England Journal of Medicine というオタク向けの娯楽雑誌がある。 この雑誌の 5 月 23 日号に `Mometasone or Tiotropium in Mild Asthma with a Low Sputum Eosinophil Level' という、臨床試験の結果報告が掲載された (N. Engl. J. Med. 380, 2009-2019 (2019).)。 喘息患者のうち、喀痰中の好酸球数が少ない患者についてプラセボ対照二重盲検で試験したところ、いわゆる吸入ステロイド薬とプラセボとの間で 治療効果に有意な差がみられなかった、という内容である。 プラセボ対照二重盲検といえば、教科書的には、かなり強力な試験方法であって、実施するのは大変であるが、その結果はかなり信用できる、と思っている者が多いであろう。 たとえば、業界紙である Medical Tribune は、 5 月 22 日付の記事で 「吸入ステロイドはプラセボと有意差なし」と題した記事の冒頭で、次のように述べている。

長年気管支喘息治療のゴールドスタンダードと考えられてきた吸入ステロイド薬が、 喀痰中の好酸球数が低値の軽症持続型患者ではプラセボと同等の効果しか認められないことがわかった。

この論文の結論としては、吸入ステロイドとプラセボの比較では、吸入ステロイドの differential treatment response (詳細な説明は省くが、奏効率のようなものと思って良い) は 57% (95% 信頼区間 48-66%) であったのに対し プラセボの differential treatment response は 43% (95% 信頼区間 51-68%) で、p = 0.14 であった。 論文ではムスカリン受容体アンタゴニストとプラセボの比較なども行っているが、これについては省略する。 この論文では p = 0.025 を有意水準として設定しているので、p = 0.14 は有意な差ではない、ということになる。

統計学の初歩を修めた者であれば、統計学でいう「有意差なし」というのは「差があるのかないのか、わからない」と述べているに過ぎず、 「両者は同程度である」という意味ではない、ということを知っているだろう。 つまり、上述の Medical Tribune のいう「プラセボと同等の効果しか認められない」という表現は、誤りなのである。 おそらく、記者は科学、特に統計学に、あまり詳しくないのであろう。

上述の論文では、結論として「有意差がなかった」(原文では no significant difference in their response to either mometasone or tiotropium as compared with placebo.) としているのであり、つまり「よくわからなかった」と述べているに過ぎない。 解析が甘く、意味のある結論に至っていないのである。基礎科学の人々からすれば、実に程度の低い論文だということになるだろう。 The New England Journal of Medicine というのは、この程度の水準の論文を掲載するような雑誌なのであるが、娯楽雑誌なのだから、まぁ、妥当な線であろう。

(次回に続く)

2019/06/10 学会でのこと

過日、東京で開催された某医学系学会に参加した。 この学会では、この分野の重鎮研究者が講演する「宿題報告」というセッションがある。 この宿題報告に際しては、演者に対し、表彰状と楯が贈られる。 学界に対する長年の功績を称える、というわけである。 私は、こうした授賞セレモニーの類が嫌いなので、昨年は、宿題報告の講演が終わるとすぐに、セレモニーは見ずに席を立った。 聴衆の中には、私と同様にすぐに席を離れる者も多かったが、セレモニーが終わるまで着席している者も少なくはなかった。

今年は、私の両脇に座っていた参加者がいずれもセレモニーを見る主義の人であったらしく、私は通路に出にくかったので、 あまり関心はなかったものの、セレモニー終了まで見届けた。 そこで私が気になったのは、表彰状の文言である。 表彰状の写真がスクリーンに映されていたのだが、そこには「棋界」という文字が書かれていたように思われる。

こうした表彰状では、しばしば、「斯界」という、もったいぶった言葉が使われる。読みは「しかい」であり、直訳すれば「この世界」という意味である。 たとえば消化器学会であれば消化器医学を、病理学会であれば病理学を、それぞれ意味することになる。 用法は「長年にわたる斯界への貢献を称え」云々、といった具合である。

おそらく、日本語にあまり通じていない人が「斯界」を「きかい」と誤読し、そして表彰状の文言を記載する際に「きかい」から「棋界」と誤変換したのではないか。 言うまでもなく、「棋界」とは碁界や将棋界を指す言葉であって、ひょっとするとチェス界を表すこともあるかもしれないが、少なくとも、学界を意味することはない。


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