2020/03/03 コロナウイルス

近頃世界中で流行している新型コロナウイルスの件で、よくわからないことがある。 そもそも、これが新型のウイルス性肺炎であることに最初に気づいた医師が、なぜ、それと気づいたのか、私は、よく知らぬ。 原因不明の肺炎など、世の中にいくらでもあるのに、なぜ、それがウイルス性であると気づいたのか。 最初から「新種のウイルス性肺炎の可能性がある」と知っていたならともかく、通常の診療をしていては、新型コロナウイルスの可能性など、普通は考えもしない。 細菌ならともかく、ウイルスは通常は培養困難なので、新型ウイルスである可能性を疑わなければ、気づかないはずなのである。 最初に気づいた医者は、なぜ、気づいたのか。 そのあたりの事情は、どこかに記載されているのだろうか。

ところで日本災害医学会が、2 月 22 日付で「 新型コロナウイルス感染症対応に従事する医療従事者への不当な批判に対する声明」 という声明を発表した。 今回の新型コロナウイルス感染症への対応にあたった医療従事者の中に、職場などで「バイ菌」扱いされたり、 子供の保育園・幼稚園から登園自粛を求められるなどの不当な処遇を受けた事例が少なからず存在するらしく、 それに対する批判の声明文である。 災害対応にあたった医療従事者が不当な批判や差別を受けることは、社会的に容認できぬ。 この学会の声明の主旨に対しては、私も全面的に賛同する。

ただし、この声明文には、一カ所だけ、不適切な表現があるように思われる。 「現場で人命を救うために自分の身を危険にさらして活動した医療者」 という部分である。 おそらく、この声明文の起草者は、文章に勢いをつけるために、あまり深く考えずに、この表現を用いたのであろう。 しかし「自分の身を危険にさらして活動」という表現は、まずい。

救命救急の場において、救助する側の安全を確保することは、何よりも優先されなければならない。 山や海における遭難事故に際しては、天候不順など安全を確保できない場合には、救助活動は控えるべきであって、結果として遭難者が死亡しても、やむを得ない。 救急医療においては、感染などから医療者を守ることは最優先されるべきであって、たとえば、 いかなる緊急事態であっても、手袋をせずに出血している患者に触れてはならない。 手袋やフェイスシールドの装着に十数秒の時間を要し、その結果として患者が死亡しても、それは医療者の過失ではない。 すなわち、医療従事者が「自分の身を危険にさらして活動」することは、たとえば軍医として戦場に赴くなどの、よほど特殊な場合に限られる。

もし、今回の医療従事者が本当に「自分の身を危険にさらして活動」したのであれば、どうであろう。 この場合の「身を危険に」というのは、医療活動の際に感染したかもしれぬ、という意味になろう。 感染した恐れがあるならば、その後充分な隔離経過観察期間が過ぎるまでは、職場復帰の自粛や、子供の登園自粛を求められることは、やむを得ないのではないか。

実際には、今回の医療従事者諸兄姉は、当然、自分の身の安全を充分に確保した上で活動していたのだと思う。 「自分の身を危険にさらして活動」したわけでは、ないのである。

2020.04.08 日付の誤記を修正した
2020.04.24 誤字修正

2020/03/02 大腸癌の病理診断学的定義 (3)

2 箇月近くも間隔があいてしまった。 ひょっとすると心配してくださった方もいるかもしれないが、この日記が問題視されて叱責や懲戒を受けたというようなことではなく、 単に私の気力が足らなかっただけのことである。 ここ一年ほど、諸般の事情で、活動性が低下しているように思う。 原因はよくわかっているのだが、なかなか、解決は難しい。 もうしばらく、こうした状態が続くかもしれぬ。

前回の記事への補足を書いておこう。

「浸潤」という語が、厳密に、どういう現象を指すのかは曖昧であり、それ故に、良性腫瘍と悪性腫瘍の区別も曖昧になっている。 おおまかにいえば、腫瘍が正常組織の中に入っていくような現象を浸潤と呼ぶのであるが、具体的にどういう現象や形態が観察されれば、浸潤といえるのだろうか。

たとえば、どこかに腫瘍の原発巣が大きな腫瘤として存在し、その辺縁部で腫瘍細胞がバラバラと孤在性に、正常組織の中にも分布しているならば、これは浸潤といえよう。 腫瘍細胞が、原発巣から周囲組織の中に、侵入しているのだと想像されるからである。 一方、たとえば大腸粘膜内に境界明瞭な腫瘤があり、周囲の正常粘膜を押しのけて増大しているようなものは、普通、浸潤とは呼ばず、「圧排」であると考える。 腫瘍は正常組織を押しているだけであって、侵入も破壊もしていない、と、みるのである。

これだけなら話は簡単なのだが、世の中には「圧排性浸潤」という、よくわからない語も存在する。 たとえば金原出版『卵巣腫瘍・卵管癌・腹膜癌取扱い規約 病理編 第 1 版』(2016 年) の「粘液性癌」の項には 「浸潤様式には, 癒合 / 圧排性浸潤 confluent/expansile invasive pattern と侵入性浸潤 infiltrative invasive pattern がある。」 と記載されている。前者は、文光堂『腫瘍病理鑑別診断アトラス 卵巣腫瘍』(2012 年) では「拡大性浸潤」と表現されている現象である。 その他の腫瘍でも「圧排性浸潤」という語が用いられることがあるが、つまり、 形態的には圧排しているようにみえるが、周囲組織を破壊しつつ進展しており、浸潤とみなす、という意味である。

この「圧排性浸潤」と呼ばれる現象が、真の浸潤であって悪性腫瘍に分類すべきものであるのか、あるいは単なる圧排であって良性腫瘍に分類すべきであるのかは、難しい。 たとえば表皮の基底細胞癌は、この圧排性浸潤を呈するのが典型的である。 基底細胞癌は通常、切除すれば再発することはなく、転移もしない。 ごく稀に転移する例もあるとされるが、それは基底扁平上皮癌など、別の組織型に分類すべきものであったのだと考えられる (J. R. Goldblum et al., Rosai and Ackerman's Surgical Pathology, 11th ed., p.53 (Elsevier; 2018))。 圧排性に増生し、局所に限局し、転移もせず、切除後に再発しないならば、先に述べた Robbins の定義によれば、これは良性腫瘍である。 実際、これを良性と考える立場から、基底細胞癌 basal cell carcinoma ではなく基底細胞上皮腫 basal cell epithelioma と呼ぶ意見もある。 私も、いわゆる圧排性浸潤は浸潤ではないと考える。

このように浸潤の定義が曖昧であるから、特に「粘膜固有層への浸潤」の有無は判定が難しい。 たとえば食道癌の場合、腫瘍最深部に粘膜固有層への圧排性浸潤があれば「粘膜固有層への浸潤あり」と判断するのが通常であるが、 これを浸潤ではないと考える立場からは、粘膜上皮内に限局する非浸潤性腫瘍と判断することになる。 また大腸腫瘍においても、強い異型を呈し主として上皮内に存在する腫瘍の場合、いわゆる圧排性浸潤はあるといえるだろうが、これを真の浸潤とみるかどうかが難しい。 先に述べた欧米式の考え方を厳格に適用すると、高異型度腺腫と呼ぶべきか腺癌と呼ぶべきか、電子顕微鏡観察による基底膜の観察でもしない限りは判定困難になる。

こうした問題をふまえ、臨床的な便宜から病理診断学では、いわゆる圧排性浸潤を浸潤とみなしてしまうことがあるのだと思われる。 同様に、粘膜固有層への浸潤は厳格な判定が困難であるから、欧米では便宜上「粘膜固有層への浸潤は悪性を示す所見とみなさない」としているのであろうが、 理論的な辻褄は合っていない。

なお、上皮内に限局する腫瘍と粘膜固有層に浸潤する腫瘍では予後に差がないとされている、という臨床的な理由から、両者を区別する必要はない、と考える者もいる。 しかし、理屈としては両者が全く同種の病変であるとは考えられない以上、本当に適切な治療方法が全く同一であるとは思われない。 病理学的に異なる疾患に対して臨床的に同一の治療が行われているのならば、それは名古屋大学の某病理学教授の言葉を借りれば 「臨床が病理に追いついていない」状態なのであって、病理側が臨床側に迎合してはならぬ。


2020/01/08 13:00 イラン情勢

医学とは直接関係ないが、イラン情勢について書いておこう。 過去にも書いたが、イラン政府は、いわゆる核開発問題について、何ら国際法や道義に反する行為はしていない。 朝日新聞の記事などでは、イランが、いわゆる核合意の制限を破った、と主張しているが、 そもそもウラン濃縮を含む核開発自体は、核不拡散条約でも認められた正当な権利である。 核兵器の開発には制限があるものの、原子力発電技術の開発は、全ての条約加盟国に認められているのである。 イランの場合、その権利の一部を米欧の要求に従って放棄をする代償として、自由貿易などを保証するのが、いわゆる核合意であった。 ところが米国がこの合意を反故にし、欧州もこれに準じて自由貿易を制限し始めたのだから、イランが従来の権利を主張するのは当然のことである。 繰り返すが、ウラン濃縮の技術開発や実施自体は、条約において禁止されていない。

いうまでもなく、米国がイラクにおいて、イラク政府の合意なしにイラン軍人を殺害したことは、国際法上も道義上も、認められない。 あるいは、それが「自衛のため」として認められるならば、イラク内の米軍施設に対してイランが「自衛のため」に攻撃することも、当然、許される。

日本には、なぜかイランを無法者扱いする意見が少なくないようであるが、一体、イランがいかなる無法を行ったというのか。 また、米国がいかなる合法的行動をとったというのか。


2020/01/08 大腸癌の病理診断学的定義 (2)

病理診断は、患者から採取した細胞や組織を顕微鏡で観察し、それがいかなる病変であるのか診断するものであって、臨床検査の一分野である。 必要に応じて、免疫染色をはじめとする様々な染色などを行う。 臨床検査の中で、病変を直接観察する唯一の検査である点が特徴である。 近年、遺伝子検査の台頭に伴い、組織学的観察を軽視する風潮があるが、遺伝子検査は、過去の統計データを根拠として、病変を間接的に観察しているに過ぎない。 はたして、そうした間接検査だけで、どれだけ正確な診断が可能であるのか、注意する必要がある。

さて、病理診断においては、昨日述べた定義に従って腫瘍を診断することは困難である。 細胞の増殖が外部からの刺激に依存しているかどうかは顕微鏡でみても不明瞭であるから、腫瘍と過形成の鑑別が困難なのである。 そこで病理医は、細胞や組織の形態に注目する手法を編み出した。 腫瘍では、過形成に比べて、細胞の形態や組織の構造に乱れが生じるのが普通である。この形態や構造の乱れを、病理医は「異型」と呼んでいる。 つまり病理診断学的には、一部に例外はあるものの、異型が強いものを腫瘍とみなし、異型が弱いものを過形成と判断することが多い。病理学的な定義とは異なるのである。

大腸腫瘍の場合、病理診断学的な良悪性の区別も、病理学的な定義とは異なる。 悪性腫瘍では、通常、強い細胞異型や構造異型がみられる。 そこで日本の病理診断では、組織学的に明らかな浸潤や転移がみられなくても、強い異型がある場合には「腺癌」と呼ぶのが普通である。 一方、文光堂の『腫瘍病理鑑別診断アトラス 大腸癌』によれば、欧米では、組織学的に浸潤が明らかでなければ良性腫瘍とみなし、「腺腫」と呼ぶらしい。 つまり、強い異型を呈するが浸潤が明らかでない病変は、日本では腺癌、欧米では腺腫、と呼ばれ、良悪性の判断が分かれてしまうのである。 なお、こうした病変は欧米では「高異型度腺腫」として、「上皮内癌 carcinoma in situ」と同義であるとされる。 上皮内癌とは「上皮内に限局し、基底膜を越えて浸潤しない癌」のことであるが、そもそも癌の定義が「浸潤するもの」なのだから、この上皮内癌という語は、おかしい。 日本では、こうした病変は腺腫に分類するのが一般的であるから、大腸の場合は上皮内癌という診断名はあまり用いられない。

このように、腺癌と腺腫の区別には議論があるが、病理学的原則からすれば、欧米のように、浸潤の有無で区別するのが合理的である。 日本の方式では、癌という言葉の意味が不明瞭な上、低異型度腺腫と高異型度腺腫の区別が非常に曖昧である。 また、異型は弱いが粘膜下層への浸潤を呈する大腸癌が稀ながら存在するため、異型の強弱を定義にするのは、臨床的にもよろしくないように思われる。

ただし、欧米式に浸潤の有無で良悪性を区別する方法には、実務上の問題がある。 基底膜を越えて粘膜固有層に浸潤するが、粘膜下層には達していないような病変の取り扱いが曖昧なのである。 昨日述べた病理学的な原則からは、粘膜固有層に浸潤していれば、悪性とみるべきである。 しかし実際の病理診断において、上皮内に限局する病変と、粘膜固有層への浸潤を有する病変とを区別するのは容易ではない。 また臨床的にも、浸潤が粘膜固有層に留まる病変が転移することはない、もしくは極めて稀であると考えられている。 こうした事情からであろう、Union for International Cancer Control の TNM Classification of Malignant TUmours eigth edition では、 浸潤が粘膜固有層までに留まる病変は Carcinoma in situ に分類し、非浸潤性病変として扱うことにしている。 この Carcinoma in situ という語は、日本語では「上皮内癌」と訳されることが多い、粘膜固有層は上皮ではないのだから、むしろ「粘膜内癌」とする方が正しい。

このように、腫瘍と非腫瘍、また良性腫瘍と悪性腫瘍の区別について、病理学的な定義と、臨床医学としての病理診断学的な定義とは、いささか乖離しているのが現状である。


2020/01/07 大腸癌の病理診断学的定義 (1)

「癌」という語の定義は、実は曖昧である。

病理学的には、細胞が外部からの刺激に依存せずに病的に増殖するものを「腫瘍」と呼ぶ。 一方、細胞が外部からの刺激に依存して病的に増殖するものは「過形成」である。 腫瘍のうち、浸潤または転移するものを「悪性腫瘍」と呼び、浸潤も転移もしないものを「良性腫瘍」と呼ぶ。 そして悪性腫瘍のうち、上皮性、つまり細胞間接着が豊富なものを「癌腫」と呼び、細胞間接着が乏しいものを「肉腫」と呼ぶ。 というのが通説であるように思う。 しかし、たとえば印環細胞癌のように細胞接着が乏しい悪性腫瘍でも慣習的に癌腫に分類されるものがあるので、癌腫と肉腫の区別には曖昧さが残る。 なお、医師の中には、癌腫と肉腫を総称して、つまり悪性腫瘍のことを「がん」と平仮名で書き、「癌」という漢字表記は癌腫の意味だとする者もいる。 しかし平仮名と漢字で意味を変えるのは不適切であり、「がん」と「癌」は区別せず悪性腫瘍の同義語とすべきであろう。 私は、曖昧さを避けるために、基本的には「悪性腫瘍」という表現を用いている。

上述の表現では曖昧さが残るので、教科書の記述も紹介しておこう。 病理学の名著である V. Kumar et al., Robbins and Cotran Pathologic Basis of Disease, 9th ed. (Elsevier; 2015) では、 p. 266 で

A neoplasm can be defined as a disorder of cell growth that is triggered by a series of acquired mutations affecting a single cell and its clonal progeny.

異常な細胞増殖を来す疾患であって、単一の細胞およびその子孫細胞に影響する一連の変異によって引き起こされるものを、腫瘍という。

としているが、私は、変異によって引き起こされていることを要件とすべきではないと考える。 変異ではなく、エピジェネティックな変化が原因となって生じた異常な細胞増殖性疾患も、腫瘍と呼ぶべきだからである。 また、変異を背景として、外部からの生理的な刺激に応じて過剰な細胞増殖を来す疾患は、「外部からの刺激に依存している」という点において、 腫瘍ではなく過形成に分類するべきであると思うが、この Robbins の定義では腫瘍なのか過形成なのか曖昧である。 実際、近年では細胞増殖性疾患の多くに特徴的な遺伝子変異が発見されているが、これらを全て、変異があるというだけの理由で腫瘍に分類するのが適切であるとは思われない。

ともあれ、この Robbins の教科書では、良性腫瘍については

A tumor is said to be benign when its gross and microscopic appearances are considered relatively innocent, implying that it will remain localized, will not spread to other sites, and is amenable to local surgical removal;

腫瘍が肉眼的にも顕微鏡的にも比較的穏かな振舞いをしている場合、それを良性であるという。 比較的穏かとは、腫瘍が局所に留まり、別の場所に広がることなく、また外科的切除により再発しないことをいう。

としている。冒頭で述べた「浸潤または転移する」というのを詳しく書くと、こうなるのである。 これに対し悪性腫瘍は

Malignant tumors can invade and destroy adjacent structures and spread to distant sites (metastasize) to cause death.

悪性腫瘍は、隣接する構造に浸潤して破壊したり、離れた場所に広がる (転移する) ことで死に至らしめる。

と説明されているが、最後の `to cause death' が余計である。 たとえば浸潤や転移を来さない、ふつうは良性に分類される腫瘍であっても、生じた場所によっては中枢神経障害や重大な循環障害を来し、死亡することがある。 また浸潤する前立腺癌や乳癌であっても、その浸潤が極めて遅く、転移も来さず、生命を脅かさないものもある。 こうした「穏かな」前立腺癌や乳癌を良性と呼ぶべきか悪性と呼ぶべきかは難しいが、上述の Robbins の定義では、こうした病変の分類が考慮されていない。

このように、定義の詳細には議論の余地があるものの、一応、腫瘍および良悪性について、病理学的には明確な定義が存在する。 ところが、病理学から派生した病理診断学においては、病理学とはだいぶ異なる基準で良悪性が分類されている。 長くなってきたので、続きは次回にしよう。


2020/01/06 潰瘍性大腸炎と大腸癌

英国の Nature という科学雑誌は有名である。ただし、有名であるからといって、内容が優れているとは限らない。 私は京都大学工学部時代、 ある教授が「Nature は有名であるが専門誌ではなく、むしろ Newton などの娯楽雑誌に近い。本当に科学的意義のある論文は、Nature のような専門性の低い雑誌には出さない」 と述べるのを聴いて、なるほど、と思った。 確かに、自分が勉強していて科学的に重要だと思った論文は、Nature ではなく、もっと専門的で、一般大衆には知られていない論文誌に掲載されていることが圧倒的に多い。

さて、昨年 12 月 23 日付の朝日新聞デジタルに 「通常の 3 倍の速さで遺伝子が変異 腸の難病と発がん関係」とする記事が掲載された。 無料記事なので、少なくとも本日時点では、誰でも読める。 この記事は、12 月 18 日付の Nature に掲載された論文を紹介するものであり、 論文の著者は京都大学の Nobuyuki Kakiuchi らである。 ところが、この朝日の記事は医学の素人が書いたものであるらしく、内容が的外れなのである。

朝日の記事では「難病の潰瘍性大腸炎によって大腸がんのリスクが高まる原因を、京都大などのチームが明らかにした。 大腸の粘膜で炎症と再生が繰り返され、がん関連遺伝子を含む多くの遺伝子が変異していた。」と総括しているが、 炎症性疾患によって遺伝子変異が蓄積して発癌に至る、という現象自体は、かなり昔から知られている。 従って、この朝日の表現を信じるならば、今回の研究は、よく知られた現象を潰瘍性大腸炎の症例についても確認した、というだけの内容であり、あまり新規性がない。

また、朝日は「変異の中に、発がんと関連がある遺伝子が含まれていた。 一方、大腸がんの細胞ではみられない、がん化を抑える変異が起きていることもわかった。 患者の大腸の粘膜は、がん化しやすい細胞と、逆に通常よりもがん化しにくい細胞が入り交じった状態だとみられる。」とも述べている。 これも、よく知られた現象を言っているに過ぎない。 炎症に伴う遺伝子変異としては、基本的には、発癌を促すような変異も、発癌を抑制するような変異も、同様に起こっていると推定されている。 発癌を促すような変異というのは、癌原遺伝子の機能亢進変異や癌抑制遺伝子の機能喪失変異である。 また発癌を抑制するような変異というのは、逆に癌原遺伝子の機能喪失や、癌抑制遺伝子の機能亢進であるが、後者は少ないかもしれない。 ともあれ、朝日の表現では、昔から言われている内容を確認したに過ぎないようにみえる。

もし朝日の記事が正確であるならば、この論文では大した内容は述べられておらず、あまり読む価値がなさそうである。 しかし私は、朝日の科学記事の品質が高くないことを知っているので、元論文の内容を確認してみることにした。 すると、案の定、朝日の記事から受ける印象とは大きく異なる内容が述べられていた。

Kakiuchi らが調べたところによると、潰瘍性大腸炎患者の非癌部の細胞において、NFKBIZ 遺伝子の変異が高率に検出された一方、 癌部においては、この変異はほとんどみられなかったという。 常識的には、非癌部の細胞に変異が蓄積し、それらの一部が癌化すると考えられる。従って、非癌部にみられる変異は、癌部にも同様に存在するのが自然である。 ところが NFKBIZ については、非癌部にのみ変異があったという。 このことから Kakiuchi らは、NFKBIZ の変異には癌化を抑制する効果があると推測した。 ただし、これは統計的に推定したものに過ぎないから、本当に癌化を抑制するかどうかは、わからない。 また、変異型 NFKBIZ の存在が癌化を抑制するのか、それとも野生型 NFKBIZ の存在が癌化に必要なのかも、はっきりしない。

重要なのは、非癌部の細胞で「高率に」NFKBIZ が検出されたことである。 もし個々の細胞で偶然に変異するだけであるならば、一部の細胞で NFKBIZ が生じることはあっても、「高率に」変異がみられることは考えにくい。 従って、どうやら非癌部においては、変異型 NFKBIZ を有する細胞が選択的に増殖していると考えるのが自然である。 これは不思議なことである。 細胞増殖を促すような、つまり癌化を促すような変異であれば、変異を有する細胞が選択的に増殖するのは自然であるが、 NFKBIZ の変異は逆に癌化を抑制するにもかかわらず、選択的に増殖するのである。 ここに、何か我々の知らない重大なヒミツが隠されているように思われる、というのが Kakiuchi らの主張である。

これを素人向けに総括すると、次のようになるであろう。 「難病である潰瘍性大腸炎の患者において、癌化を抑制する変化が大腸で生じていることを、京都大などのチームが明らかにした。 癌化を抑制する共通の遺伝子変異が、大腸の多くの細胞において生じていた。こうした変化の存在は、これまで知られていなかった。」


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