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博士崩れの医学日記 (2019 年度 1)

2019/08/23 機械弁に対する抗凝固薬 (3)

中途半端に勉強した医者の中には「機械弁に抗凝固療法が必須であることは自明であり、当然すぎるから、イチイチ根拠文献など記載しないのだ」と抵抗する者がいるかもしれぬ。しかし、機械弁に抗凝固療法が必須というのは、彼らが思っているほど当然のことではない。

American College of Chest Physicians (ACCP) のガイドラインである Chest 141(2), e576S-e600S (2012). では

There is currently no evidence to support the replacement of VKA therapy by APA for either mechanical aortic or mitral valve prostheses.

大動脈弁や僧帽弁の機械弁への置換を受けた患者について、現在のところ、抗凝固療法を抗血小板療法で代替できるという証拠はない。

と、控えめな表現になっている。ここで VKA とはワルファリンなどの、いわゆる vitamin K antagonist のことであり、APA とはアスピリンなどの antiplatelet agent のことである。ACCP は、一般的事実として抗凝固療法が必須かどうかはわからないが、「現在のところ」抗血小板療法で代替できるという証拠はない、としか述べていないのである。

ACCP は、この記載を補足する臨床試験の報告として Ann. Thorac. Surg. 43, 285-287 (1987). やJ. Cardiovasc. Surg. (Torino) 28, 588-591 (1987). を挙げているが、これらは 30 年前の報告である。当時と現在とでは、機械弁の機構も材質も異なるのであって、当時の臨床試験結果が現在にも当てはまるかどうかは、わからない。

これが、臨床試験を偏重することの問題点である。何らかの理論的考察に基づき物事を判断し、その理論の妥当性を検証すべく試験を行ったのであれば、その結果には普遍性がある。その理論の範囲において、30 年前だろうが 50 年後だろうが、同じ結果が期待できるのである。ところが、理論抜きに単に臨床試験を行った場合、機材や患者が変われば、同じ結果が再現されるかどうかは、わからない。その試験に参加した患者と、今、我々の眼前にいる患者とは、違うのである。だから、理論を抜きにして闇雲に臨床試験を行うのは、時間と労力と資金の無駄であって、学術的ではなく、臨床的にも意義が乏しい。

さて、比較的最近の臨床試験としては Thromb. Res. 109, 131-135 (2003). がある。これは、過去の動物実験などの結果から、抗凝固療法は必須ではなく、抗血小板療法で代替可能なのではないかと考え、それを実証すべく臨床試験を行ったものである。大動脈弁の機械弁への置換を受けた患者について、抗凝固療法と抗血小板療法を比較した非盲検のランダム化比較対照試験である。非盲検にした理由は、わからぬ。ワルファリンによる抗凝固療法にはプロトロンビン時間のモニタリングが必要なので、盲検化しにくかったのかもしれぬ。

この臨床試験では、抗血小板療法を受けた患者の一人に大動脈弁血栓が生じたため、試験は中止された。臨床的に、抗凝固療法を行っても、健常者に比べると血栓症は生じやすいことが知られている。従って、抗血小板療法を受けた患者の一人に血栓ができたというだけでは、それが偶然なのか、抗血小板療法の問題点なのかは、はっきりしない。

結局、機械弁に対して抗凝固療法が必須であるかどうかは、よくわからない、というのが正しい。臨床医療における常識や、ガイドライン、あるいは権威あるとされる教科書は「抗凝固療法が必須である」と述べているが、これは医学的根拠を欠いているのである。

我々は、自身の頭脳に依って物事の適否正邪を判断せねばならず、世界中が何と言おうと、正しいものは正しい、正しくないものは正しくない、と言わねばならぬ。そのために、医学を修めてきたのである。


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