これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
前回の続きである。機械弁への心臓弁置換を受けた患者にはワルファリンなどの抗凝固薬の投与が必須である、というのは、医師や医学科高学年生にとっては常識である。しかし、その学術的根拠をキチンと理解している者は稀であり、単に教科書やガイドラインの記述を鵜呑みにしている者が大半なのではないか。その点に疑問を呈した学生の某君は、優秀な人物であり、本当に医学を修めている数少ない学生の一人であるといえる。
私が調べた限り、機械弁に対して抗凝固療法が必須であることを示す医学的根拠は存在しない。確かに、何らかの抗血栓療法を行わなければ血栓症が頻発するようではあるのだが、そこで抗血小板療法ではなく抗凝固療法でなければならぬ、とする根拠がないのである。
たとえば、手元にある心臓病学の教科書として D. P. Zipes et al., Braunwald's Heart Disease, 11th ed., p. 1458 (Elsevier; 2019). をみると、米国心臓学会/米国心臓協会 (AHA/ACC) のガイドラインを引用して
All patients with mechanical heart valves require lifelong anticoagulation with a VKA
などと述べるに留まっている。臨床医療におけるガイドラインというのは、単なる目安であって、医療行為としての適不適を定めるものではなく、遵守すべきルールというわけでもない。従って、ガイドラインにはこう書かれている、などというのは、医学的な観点からは何の意味もない。また、VKA というのは vitamin K antagonist のことであって、ワルファリンなどの抗凝固薬が、これに該当する。しかしワルファリンはビタミン K の活性化を阻害する薬剤であって、ビタミン K のアンタゴニストではないのだから、VKA という表現は不適切である。つまり Braunwald は、薬理学を理解せず、ガイドラインを丸写しするだけの、非学術的な書物であると言わざるをえない。
では日本のガイドラインはどうなっているかというと、「弁膜疾患の非薬物治療に関するガイドライン (2012 年改訂版)」には「機械弁植込み患者では全例にワーファリン投与による抗凝固療法が必要となる」と記載されている。ただし「ワーファリン」は商品名であって、一般名は「ワルファリン」であるから、ここではガイドラインが特定の商品を推奨するという異常事態が生じている。また、ここで「抗凝固療法が必要」としている記載には個別の根拠文献が示されておらず、包括的に「『循環器疾患における抗凝固・抗血小板療法に関するガイドライン』に基づき」と述べられているのみである。
そこで「循環器疾患における抗凝固・抗血小板療法に関するガイドライン (2009 年改訂版)」をみるとワルファリン投与を class I として、つまり強く推奨しているのだが、やはり根拠文献については19 ページで「ACC/AHA のガイドラインをもとに」と記されているに過ぎない。なお、ここで参考文献番号が 124 とされているのだが、122 の誤りと思われる。
で、ACC/AHA のガイドラインとして引用されている J. Am. Coll. Cardiol. 48(3), e1-e148, (2006). をみると、端的に
All patients with mechanical valves require warfarin therapy
と述べられており、その根拠文献はR. W. Alexander et al., Hurst's the Heart, 9th ed. pp.1867-1874 (McGraw-Hill; 1998).となっている。この教科書は、我が大学の図書館に所蔵されていたので閲覧してみると、該当箇所には次のように書かれている。
All patients with mechanical valves require warfarin therapy.
この記載には、根拠文献は記されていない。そもそも、抗血栓療法あるいは抗凝固療法が必要な可能性はあっても、「ワルファリン投与が必要」ということは、ありえない。他の薬剤ではダメで、ワルファリンでなければならない、などということは、薬理学的に、考えられないからである。そうしてみると、この Hurst の記載は軽率で不正確であると言わざるをえない。
以上のことから、次のように結論される。現在では、機械弁に対しては抗凝固療法が必須であるとされているが、そこに充分な医学的根拠は存在しない。必須とされているから必須なのだ、という、非学術的論法に過ぎぬ。臨床的な対応として抗凝固療法を行うことが不適切とは思わぬが、そこに医学的根拠があるかのように錯覚しては、ならぬ。