これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
さて、「異性に対する迷惑行為」の話に戻ろう。ヒトであれば、配偶者が他の異性と性行為するのではないかと懸念し、つきまとったり、拘束したりする者もいる。しかし、はたしてトンボは、自分が交尾した相手の雌が「浮気」しないか心配しているのだろうか。マメゾウムシは、自分の子を残したいと思って、精液に毒を持たせたのだろうか。
ひょっとすると、トンボにも独占欲や嫉妬心があって、配偶者の浮気を心配しているのかもしれぬが、それを証明した者はいないと思う。キチンとした科学的検証もなしに、ヒトと同じような感情をトンボやツバメが持っていると仮定して議論するのは、適切な態度ではない。
ただ単に、交尾した相手の雌を拘束し、あるいは精液に毒を含ませるような遺伝的形質は、進化の選択圧が高く、その形質が子孫に受け継がれやすい、というだけのことではないのか。たまたま、そういう変異を獲得した個体が、進化の仮定で選択されてきた、と考えるのが自然である。朝日の記者の「対立の構図が、生き物たちの体の形や、雌雄の行動のちがいを進化させてきた」という言葉が、いかなる根拠に基づくのか、理解しかねる。対立しているから進化する、などという生物学的機構が存在するようには、思われない。
なお、選択圧の高低正負と、種や個体の存続における有利不利とは、一般には一致していないという点に注意を要する。特に、朝日の記事で挙げられたような「迷惑行為」は、選択圧の高い形質ではあるが、種の存続にとっては不利である。朝日の記事では、これを個体としての性的欲求によるものであるかのように書いているが、たぶん、トンボは何も考えていないし、欲求も持っていない。
こうした目的論による説明は、素人を「わかったような気分」にさせやすいが、生物学や医学を議論する上では、不適切である。
たとえば、古い免疫学の教科書では、白血球が「異物を認識して排除する」というような表現をされていることがある。しかし、白血球に、自己と異物を区別する能力があるとは思われない。一体、何をもって「異物」とするのか。実際、現在の免疫学では、異物を認識しているわけではなく、いわゆるパターン認識受容体により、構造パターンを認識しているのだと考えられている。だから異物であっても、パターン認識受容体が反応しない材料を使えば、人工血管やインプラントなどを作成できるのである。
また、我々は「低血糖になると困るから」という理由でグルカゴンを分泌しているわけではないし、「糖が余っているから」という理由でインスリンを分泌するわけではない。困る云々とは関係なしに、そのように膵島の細胞ができているから、それらのホルモンを分泌しているのである。それを目的論で理解しようとすると、糖尿病や、機能性腺腫などの病態を理解できなくなる。
むろん、科学や医学に疎い患者に対し、わかったような気分にさせて満足させる目的で、そうした比喩を多用して説明することは、一概に悪いとはいえない。しかし、専門家として病態を理解するにあたり、そのような不正確な考えを採用するべきではない。また、科学的素養のある患者に対して目的論に基づく説明をすれば、この医者は何も分かっていないな、と、著しい不信感を抱かれるであろう。