これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
前回と前々回で、医師の多くが統計学を知らぬことについて述べた。一般的で漠然とした話だけでは面白くないだろうから、今回から何回かにわけて、具体的な話を書くことにしよう。まず今回は統計以前の話として、機械弁に対する抗凝固薬の話をする。
ここでいう機械弁とは、僧帽弁閉鎖不全症などの、心臓の弁の異常に対して行われることのある弁置換術で用いられる人工弁の一種である。人工弁には生体弁と機械弁とがあり、生体弁とはブタやウシなどから採取して加工した心臓弁であるのに対し、機械弁とは金属などを用いて作ったものをいう。心臓弁を機械弁に置換した場合、弁の表面で異常な血液凝固が起こりやすく、血栓症を来しやすいため、ワルファリンなどを用いた抗血栓療法を一生、続ける必要があるとされる。抗血栓療法は、血小板機能を抑制する抗血小板療法と、凝固因子活性を抑制する抗凝固療法とに大別される。機械弁に対しては、抗血小板療法ではなく抗凝固療法が必須であるとされている。
さて、先日、学生と一緒に薬理学の勉強会を行っているとき、医学科 6 年生の某君は、どうして機械弁に対して抗凝固療法が必要なんですかね、と述べた。我々の間では、この一言で全てが通じたのであるが、初心者にはわかりにくいであろうから、補足説明をしよう。
血液凝固は、基本的には、まず血小板が活性化し、次いで凝固因子が活性化する。J. E. Hall, Guyton and Hall Textbook of Medical Physiolosy, 13th ed., pp.487-488 (Elsevier; 2016) などの古典的な教科書では、凝固因子の活性化には外因系 (extrinsic pathway) と内因系 (intrinsic pathway) とがあるとされている。しかし近年では、これは実験室における、みかけ上の現象に過ぎず、実際の生体内では、そうした両者の区別は存在しない、とする考えが支持されている(V. J. Marder et al., Hemostasis and Thrombosis, 6th ed., pp.103-104 (Wolters Kluwer; 2013).)。凝固因子の活性化が、そもそも何によって始まるのかは、よくわかっていない。古典的なモデルでは、血液が試験管壁や繊維性結合組織など血管以外の構造物と接触すると、第 XII 因子、いわゆる Hageman 因子の活性化が起こる、とされてきた。しかし、第 XII 因子欠損症の患者においては、血液凝固能の検査指標の一つである活性化部分トロンボプラスチン時間 (activated partial thromboplastin time; APTT)の延長がみられるものの、表現型としては出血傾向などの異常を来さないようである (Hemostasis and Thrombosis, pp.157-158)。このことから、第 XII 因子が本当に血液凝固において重要な役割を担っているのかどうかは、疑わしい。
これらをふまえ、上述の学生の某君は、機械弁への心臓弁置換手術を受けた患者において異常な血液凝固が起こりやすいとすれば、それは血小板が関与する機序によるのではないか、と暗に述べたのである。
前置きが長くなってしまったので、本題は次回にしよう。