これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
医師をはじめとする医療従事者の中には、「統計」というものに対し、苦手意識の強い者が多いように思われる。何か大事なものであって、医学においても重要な手段ではあるのだが、たいへん難しく、よくわからない、という認識の持ち主が多いのではないか。そして「統計的に示された」「統計的エビデンスがある」と言われると、それが正しいこと、医学的に明らかなことであるかのように感じられる。たとえ自分の印象や考えと違っていても、それ以上の反論をできなくなるのである。
The New England Journal of Medicine というオタク向けの娯楽雑誌がある。この雑誌の 5 月 23 日号に `Mometasone or Tiotropium in Mild Asthma with a Low Sputum Eosinophil Level' という、臨床試験の結果報告が掲載された(N. Engl. J. Med. 380, 2009-2019 (2019).)。喘息患者のうち、喀痰中の好酸球数が少ない患者についてプラセボ対照二重盲検で試験したところ、いわゆる吸入ステロイド薬とプラセボとの間で治療効果に有意な差がみられなかった、という内容である。プラセボ対照二重盲検といえば、教科書的には、かなり強力な試験方法であって、実施するのは大変であるが、その結果はかなり信用できる、と思っている者が多いであろう。たとえば、業界紙である Medical Tribune は、5 月 22 日付の記事で「吸入ステロイドはプラセボと有意差なし」と題した記事の冒頭で、次のように述べている。
長年気管支喘息治療のゴールドスタンダードと考えられてきた吸入ステロイド薬が、喀痰中の好酸球数が低値の軽症持続型患者ではプラセボと同等の効果しか認められないことがわかった。
この論文の結論としては、吸入ステロイドとプラセボの比較では、吸入ステロイドの differential treatment response (詳細な説明は省くが、奏効率のようなものと思って良い) は57% (95% 信頼区間 48-66%) であったのに対し プラセボの differential treatment response は 43% (95% 信頼区間 51-68%) で、p = 0.14 であった。論文ではムスカリン受容体アンタゴニストとプラセボの比較なども行っているが、これについては省略する。この論文では p = 0.025 を有意水準として設定しているので、p = 0.14 は有意な差ではない、ということになる。
統計学の初歩を修めた者であれば、統計学でいう「有意差なし」というのは「差があるのかないのか、わからない」と述べているに過ぎず、「両者は同程度である」という意味ではない、ということを知っているだろう。つまり、上述の Medical Tribune のいう「プラセボと同等の効果しか認められない」という表現は、誤りなのである。おそらく、記者は科学、特に統計学に、あまり詳しくないのであろう。
上述の論文では、結論として「有意差がなかった」(原文では no significant difference in their response to either mometasone or tiotropium as compared with placebo.)としているのであり、つまり「よくわからなかった」と述べているに過ぎない。解析が甘く、意味のある結論に至っていないのである。基礎科学の人々からすれば、実に程度の低い論文だということになるだろう。The New England Journal of Medicine というのは、この程度の水準の論文を掲載するような雑誌なのであるが、娯楽雑誌なのだから、まぁ、妥当な線であろう。