これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
流行の話を続ける。最近の臨床医学や臨床医療の世界における流行分野の一つが、遺伝子診断である。遺伝子診断というのは漠然とした言葉ではあるが、ここでは主として悪性腫瘍について、そこで生じている遺伝子変異を検査し、それに基づいて診断し、治療方針を決定するこという。
たとえば臨床医療でいえば、最近は「がんゲノム医療」なる診療体制が構築され、悪性腫瘍の遺伝子変異の同定およびそれに基づく治療が始まっている。実はこの「がんゲノム」という言葉は非常に曖昧で重大な問題を含んでいるように思われるのだが、それは別の機会に述べることにしよう。
こうした遺伝子診断の普及は、病理診断のあり方にも大きく影響を与えている。たとえば肺癌についていえば、組織学的には腺癌や扁平上皮癌、小細胞癌などに分類されるのであるが、腺癌の場合、EGFR 遺伝子に特定の変異があれば、ゲフィチニブなどのチロシンキナーゼ受容体阻害薬が有効であるとされている。従って、病理診断においては「腺癌であるかどうか」は非常に重要であると考えられている一方、腺癌の中で「どの組織型に亜分類されるか」は、臨床的にはあまり重要視されていない。
問題なのは、呼吸器内科医だけでなく、少なからぬ病理医も、腺癌の組織学的亜分類は現代では重要ではない、などと考えているらしいことである。どの亜分類に属する病変であっても、結局は治療方針を左右しないのだから、臨床的意義が乏しい、というのである。「今はもう遺伝子の時代だから」などと言う者もいるが、はたして、そうだろうか。それを病理医が言うのは、自身の存在意義を否定することにはならないか。
先日、ある講演において、東京大学の某教員が遺伝子診断について話すのを聴いた。この教員が教授であったか助教であったか、肩書はよく覚えていないのだが、そうした職位は科学者や医師としての優劣賢愚を規定するものではないから、さして重要ではない。講演後の質疑応答の時間に、私は、次のように質問した。「昨今では、遺伝子変異によって治療方針が決定されるのだから、たとえば肺腺癌の組織学的亜分類のようなものは重要でないとする意見も聞かれる。しかし、形態的に明らかに違う病変について、同じ変異を有するからというだけの理由で同じ治療を行うことが、はたして最適なのか。その点について、いかがお考えか。」
すると教員氏からは、思わぬ答えが返ってきた。「ご指摘の通りである。現在は『そういう治療法』しかないから、そのようになっているのであって、現在のような変異の種類だけに基づいて治療薬を選択することが本当に最適であるかどうかは疑問である。そういう意味において、従来の病理形態学に基づく探究は重要である。」
なかなかの見識である。