これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2019/10/15 表現の自由

医学とは直結しないが、無関係ではない問題として、表現の自由について書こう。日本国においては、表現の自由は憲法第 21 条で保障されており、その条文は

集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

というものである。

法学上、憲法は国家や法を規制するものであって、個々の国民の言動を制約するものではない、とされている。ただし、これは「個々の国民は他者の表現の自由を尊重しなくて構わない」という意味ではない。たとえば会社の上司が、部下のプライベートにおける創作活動が気に食わない、という理由で当該部下を左遷や解雇した場合、正当な理由なく処分したことになり、不法である。実際に左遷や解雇しなくても、職務上の上下関係を背景に、その創作活動を止めるよう圧力をかけるのも不法である。一方で、部下が会社の悪口を随筆に書いて公開していた場合などは、それを止めるように求めるのは正当である。以前、インターネット上で際どい内容の執筆活動を行っていた医師が上司からの命令を受けてサイト閉鎖した、という事例があった。この事例も、遺憾ではあるが、明らかに不当とまではいえない。

さて、世間で「表現の自由」を巡って議論が盛り上がっているのは、「あいちトリエンナーレ 2019」、とりわけ企画展の「表現の不自由展・その後」である。この企画展に出典された、大韓民国のいわゆる「慰安婦像」や、昭和天皇を題材にした作品などが批判の的となり、中止要求や脅迫が相次いだらしい。主催者側の判断で企画展は中止されたが、その後、再開された。これを巡り、名古屋市長が企画展を批判したり、補助金交付が取り消されたりと、問題が続いている。

これらの問題について適切に批評した文書はないものかと思っていたのだが、朝日新聞の憲法学者が考える不自由展中止 自由を制約したのは誰かという記事が、公正である。どうせ朝日新聞は韓国寄りの内容だろう、と思う人もいるであろうが、驚くべきことに、この記事は中立的で法学的な観点から論じられている。ただし、これは有料会員限定記事である。なぜ朝日は、こういう記事を無料公開しないのか。

この記事の骨子を述べると、概ね次のような内容である。「表現の自由」というのは、表現をしたことで社会的に迫害されるようなことは、あってはならぬ、という意味であって、表現の場が保障されるという意味ではない。だから、企画展が中止されること自体は、表現の自由の侵害にはあたらない。むしろ問題は、表現の場を守るべき立場にある主催者が、自主的に、中止を決めてしまったことである。「安全確保のため」で中止されるのならば、事実上、反対派が開催拒否権を握ることになってしまう。また、政治家は具体的な展示内容にまでは口を出すべきではない、というのが、世界的にも日本においても基本である。ただし展示会の趣旨については、ある程度知らされた上で助成を決めるのは合理的である。従って、芸術的な意義を基準に出展作品を選ぶかのように装いつつ、実際には政治的メッセージを考慮して偏った作品を展示するのは不当である。

いわゆる慰安婦像や昭和天皇を巡って問題視された大浦信行氏の作品について、表現の自由の侵害といえる事例が過去にあったのかどうかは、私は知らぬ。展示拒否されたことはあるようだが、これは「表現の不自由」というようなものではない。たとえば、私は肝臓や肺など各種臓器の組織像をスケッチした絵画集を学生時代に作成した。これは人体の神秘を表現したゲージュツ作品であるが、この作品の展示を美術館に断られたとしても、私の表現の自由が侵害されたことにはならない。「その作品を世に公開するな」などと政府当局から脅されたなら別だが、幸い、そういう経験はない。いわゆる慰安婦像や大浦氏の事例と、私のゲージュツの事例との間に、何か本質的な違いがあるようには思われない。特に、いわゆる慰安婦像は、大韓民国のプロパガンダとして作成・設置されているものである。そのプロパガンダを巡る論争はあるが、表現の自由が問題になる事案ではあるまい。

私は「表現の不自由展」をみてはいないが、報道をみる限りでは、表現の自由ではなく政治的メッセージが前面に出された展示会であるように思われる。


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