これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2020/01/07 大腸癌の病理診断学的定義 (1)

「癌」という語の定義は、実は曖昧である。

病理学的には、細胞が外部からの刺激に依存せずに病的に増殖するものを「腫瘍」と呼ぶ。一方、細胞が外部からの刺激に依存して病的に増殖するものは「過形成」である。腫瘍のうち、浸潤または転移するものを「悪性腫瘍」と呼び、浸潤も転移もしないものを「良性腫瘍」と呼ぶ。そして悪性腫瘍のうち、上皮性、つまり細胞間接着が豊富なものを「癌腫」と呼び、細胞間接着が乏しいものを「肉腫」と呼ぶ。というのが通説であるように思う。しかし、たとえば印環細胞癌のように細胞接着が乏しい悪性腫瘍でも慣習的に癌腫に分類されるものがあるので、癌腫と肉腫の区別には曖昧さが残る。なお、医師の中には、癌腫と肉腫を総称して、つまり悪性腫瘍のことを「がん」と平仮名で書き、「癌」という漢字表記は癌腫の意味だとする者もいる。しかし平仮名と漢字で意味を変えるのは不適切であり、「がん」と「癌」は区別せず悪性腫瘍の同義語とすべきであろう。私は、曖昧さを避けるために、基本的には「悪性腫瘍」という表現を用いている。

上述の表現では曖昧さが残るので、教科書の記述も紹介しておこう。病理学の名著である V. Kumar et al., Robbins and Cotran Pathologic Basis of Disease, 9th ed. (Elsevier; 2015) では、p. 266 で

A neoplasm can be defined as a disorder of cell growth that is triggered by a series of acquired mutationsaffecting a single cell and its clonal progeny.

異常な細胞増殖を来す疾患であって、単一の細胞およびその子孫細胞に影響する一連の変異によって引き起こされるものを、腫瘍という。

としているが、私は、変異によって引き起こされていることを要件とすべきではないと考える。変異ではなく、エピジェネティックな変化が原因となって生じた異常な細胞増殖性疾患も、腫瘍と呼ぶべきだからである。また、変異を背景として、外部からの生理的な刺激に応じて過剰な細胞増殖を来す疾患は、「外部からの刺激に依存している」という点において、腫瘍ではなく過形成に分類するべきであると思うが、この Robbins の定義では腫瘍なのか過形成なのか曖昧である。実際、近年では細胞増殖性疾患の多くに特徴的な遺伝子変異が発見されているが、これらを全て、変異があるというだけの理由で腫瘍に分類するのが適切であるとは思われない。

ともあれ、この Robbins の教科書では、良性腫瘍については

A tumor is said to be benign when its gross and microscopic appearances are considered relatively innocent,implying that it will remain localized, will not spread to other sites, and is amenable to local surgical removal;

腫瘍が肉眼的にも顕微鏡的にも比較的穏かな振舞いをしている場合、それを良性であるという。比較的穏かとは、腫瘍が局所に留まり、別の場所に広がることなく、また外科的切除により再発しないことをいう。

としている。冒頭で述べた「浸潤または転移する」というのを詳しく書くと、こうなるのである。これに対し悪性腫瘍は

Malignant tumors can invade and destroy adjacent structures and spread to distant sites (metastasize) to cause death.

悪性腫瘍は、隣接する構造に浸潤して破壊したり、離れた場所に広がる (転移する) ことで死に至らしめる。

と説明されているが、最後の `to cause death' が余計である。たとえば浸潤や転移を来さない、ふつうは良性に分類される腫瘍であっても、生じた場所によっては中枢神経障害や重大な循環障害を来し、死亡することがある。また浸潤する前立腺癌や乳癌であっても、その浸潤が極めて遅く、転移も来さず、生命を脅かさないものもある。こうした「穏かな」前立腺癌や乳癌を良性と呼ぶべきか悪性と呼ぶべきかは難しいが、上述の Robbins の定義では、こうした病変の分類が考慮されていない。

このように、定義の詳細には議論の余地があるものの、一応、腫瘍および良悪性について、病理学的には明確な定義が存在する。ところが、病理学から派生した病理診断学においては、病理学とはだいぶ異なる基準で良悪性が分類されている。長くなってきたので、続きは次回にしよう。


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