これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2020/01/06 潰瘍性大腸炎と大腸癌

英国の Nature という科学雑誌は有名である。ただし、有名であるからといって、内容が優れているとは限らない。私は京都大学工学部時代、ある教授が「Nature は有名であるが専門誌ではなく、むしろ Newton などの娯楽雑誌に近い。本当に科学的意義のある論文は、Nature のような専門性の低い雑誌には出さない」と述べるのを聴いて、なるほど、と思った。確かに、自分が勉強していて科学的に重要だと思った論文は、Nature ではなく、もっと専門的で、一般大衆には知られていない論文誌に掲載されていることが圧倒的に多い。

さて、昨年 12 月 23 日付の朝日新聞デジタルに「通常の 3 倍の速さで遺伝子が変異 腸の難病と発がん関係」とする記事が掲載された。無料記事なので、少なくとも本日時点では、誰でも読める。この記事は、12 月 18 日付の Nature に掲載された論文を紹介するものであり、論文の著者は京都大学の Nobuyuki Kakiuchi らである。ところが、この朝日の記事は医学の素人が書いたものであるらしく、内容が的外れなのである。

朝日の記事では「難病の潰瘍性大腸炎によって大腸がんのリスクが高まる原因を、京都大などのチームが明らかにした。大腸の粘膜で炎症と再生が繰り返され、がん関連遺伝子を含む多くの遺伝子が変異していた。」と総括しているが、炎症性疾患によって遺伝子変異が蓄積して発癌に至る、という現象自体は、かなり昔から知られている。従って、この朝日の表現を信じるならば、今回の研究は、よく知られた現象を潰瘍性大腸炎の症例についても確認した、というだけの内容であり、あまり新規性がない。

また、朝日は「変異の中に、発がんと関連がある遺伝子が含まれていた。一方、大腸がんの細胞ではみられない、がん化を抑える変異が起きていることもわかった。患者の大腸の粘膜は、がん化しやすい細胞と、逆に通常よりもがん化しにくい細胞が入り交じった状態だとみられる。」とも述べている。これも、よく知られた現象を言っているに過ぎない。炎症に伴う遺伝子変異としては、基本的には、発癌を促すような変異も、発癌を抑制するような変異も、同様に起こっていると推定されている。発癌を促すような変異というのは、癌原遺伝子の機能亢進変異や癌抑制遺伝子の機能喪失変異である。また発癌を抑制するような変異というのは、逆に癌原遺伝子の機能喪失や、癌抑制遺伝子の機能亢進であるが、後者は少ないかもしれない。ともあれ、朝日の表現では、昔から言われている内容を確認したに過ぎないようにみえる。

もし朝日の記事が正確であるならば、この論文では大した内容は述べられておらず、あまり読む価値がなさそうである。しかし私は、朝日の科学記事の品質が高くないことを知っているので、元論文の内容を確認してみることにした。すると、案の定、朝日の記事から受ける印象とは大きく異なる内容が述べられていた。

Kakiuchi らが調べたところによると、潰瘍性大腸炎患者の非癌部の細胞において、NFKBIZ 遺伝子の変異が高率に検出された一方、癌部においては、この変異はほとんどみられなかったという。常識的には、非癌部の細胞に変異が蓄積し、それらの一部が癌化すると考えられる。従って、非癌部にみられる変異は、癌部にも同様に存在するのが自然である。ところが NFKBIZ については、非癌部にのみ変異があったという。このことから Kakiuchi らは、NFKBIZ の変異には癌化を抑制する効果があると推測した。ただし、これは統計的に推定したものに過ぎないから、本当に癌化を抑制するかどうかは、わからない。また、変異型 NFKBIZ の存在が癌化を抑制するのか、それとも野生型 NFKBIZ の存在が癌化に必要なのかも、はっきりしない。

重要なのは、非癌部の細胞で「高率に」NFKBIZ が検出されたことである。もし個々の細胞で偶然に変異するだけであるならば、一部の細胞で NFKBIZ が生じることはあっても、「高率に」変異がみられることは考えにくい。従って、どうやら非癌部においては、変異型 NFKBIZ を有する細胞が選択的に増殖していると考えるのが自然である。これは不思議なことである。細胞増殖を促すような、つまり癌化を促すような変異であれば、変異を有する細胞が選択的に増殖するのは自然であるが、NFKBIZ の変異は逆に癌化を抑制するにもかかわらず、選択的に増殖するのである。ここに、何か我々の知らない重大なヒミツが隠されているように思われる、というのが Kakiuchi らの主張である。

これを素人向けに総括すると、次のようになるであろう。「難病である潰瘍性大腸炎の患者において、癌化を抑制する変化が大腸で生じていることを、京都大などのチームが明らかにした。癌化を抑制する共通の遺伝子変異が、大腸の多くの細胞において生じていた。こうした変化の存在は、これまで知られていなかった。」


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