これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2020/05/20 臨床検査 (2)

COVID-19 に対する PCR 検査というのは、概ね次のようなものである。まず患者の鼻に綿棒を挿入し、鼻咽頭をぬぐう。この「ぬぐい液」について、COVID-19 のゲノム RNA に特異的な配列を有するプライマーを用いて PCR を試行し、核酸が増幅されれば「陽性」と判定する。つまり、この検査で「陽性」という結果になるのは、基本的に
1) その患者が COVID-19 に感染していて
2) しかも鼻咽頭に充分量のウイルスがいて
3) それをしっかりと綿棒でぬぐうことができて
4) ゲノム RNA が壊れないままに測定が開始されて
5) 適切な試薬や装置および手技によって測定が行われる
という条件の全てが満足される場合に限られる。むろん、検査中に COVID-19 が混入したり、あるいは不適切なプライマーを使って PCR を行った場合などは、これらの条件を満足していないにもかかわらず「陽性」の結果が出てしまうこともあり、これがいわゆる偽陽性なのであるが、それについては今回は議論しない。

重要なのは、上述の 5 条件が全て満足されなければ「陽性」の結果にはならない、という点である。素人は、条件 1) さえ満足されれば 2) 以降も自動的に満足されるかのように錯覚するかもしれないが、実際には、そんなことはない。

たとえば感染初期や、あるいは治癒しかけの状態であれば、鼻咽頭のウイルス量が少ないかもしれない。あるいは、稀な状況かもしれないが、鼻咽頭には感染せずに肺にだけ感染しているような状況も、あるかもしれぬ。これらの場合、条件 2) が満足されないので、実際には感染していても検査上は「陰性」となる。

条件 3) は、おそらく、しばしば満足されていない。鼻咽頭ぬぐい液の採取というのは、それなりに難しい手技である。不慣れな医師や看護師が採取した場合、採取に失敗することがありえるが、「失敗した」という事実には普通は気づかないので、ほんとうは感染している患者が検査上は「陰性」ということになってしまう。いつであったか、日本の某大企業が、医療機関ではない一般法人向けに COVID-19 用の PCR 検査キットを販売しようとしたらしいが、素人が自分で、あるいは家族に依頼して検体を採取しようとしても、まぁ、キチンと採ることはできないであろう。

条件 4) も、おそらく、しばしば満足されていない。RNA は DNA に比べて生化学的に不安定であり、壊れやすい。特に、鼻咽頭ぬぐい液の中には RNA 分解酵素が混ざっていることも充分に考えられ、短時間のうちに RNA 鎖が切断されてしまうおそれがある。従って、たとえば鼻咽頭ぬぐい液を採取してから一晩あるいは二晩経った後に測定開始した場合、その間に RNA が壊れてしまい、検査結果は「陰性」になるかもしれない。検体採取後すぐに測定開始できる環境が整っている医療機関であれば良いが、検体を採取してから検査施設まで長距離輸送しなけれなならないような環境では、これが問題になる。

条件 5) も、実は重要である。PCR は臨床医療というより、生物学研究の手段として幅広く使われている。こうした研究目的の場合、測定結果に誤差が生じても、適切に統計解析すれば問題ない。しかし臨床医療における診断目的の場合、ふつうは統計解析などせず、一度の測定で結果を判定する。そのため、設備にせよ試薬にせよ、精度管理を厳重に行っている。だから研究用試薬に比べて、診断用試薬は、非常に高価である。それを「同じ PCR だから」と、研究用の試薬や設備を使って PCR を実施した場合、検査結果に重大な誤差が生じる恐れがある。

COVID-19 や PCR に限らず、臨床検査の結果を解釈するには、こうした諸問題を常に念頭に置いておく必要がある。しばらく前に、COVID-19 の PCR 陰性の患者に対して、病歴や症状から COVID-19 感染症と診断した医師がいる、というニュースがあった。素人は「検査陰性なのにトンデモナイ診断だ」と思うかもしれないが、医学的には、必ずしも不適切な診断であるとはいえない。「検査結果がこうだから診断はこうだ」などと単純に対応させることは、できないのである。もっとも、病歴や症状で診断できるなら PCR 検査など必要なかったではないか、との批判は妥当である。その症例では、純粋に医学の立場からすれば検査を実施すべきではなかったのだが、社会的事情から、医学的には不要な検査を行ってしまったのだろう。


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