これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
WHO 分類は、一応は広く受け入れられている分類法である。この分類は、その分野のエラいセンセイが集まった委員会で決定されているのだから、まぁ、その内容は現時点で適切であるに違いない。と、思うのは間違いである。WHO 分類の記載が医学的に誤っている例も、存在するのである。
子宮頸癌の多くは、組織学的には扁平上皮癌と呼ばれる腫瘍である。しかし、それ以外にも比較的頻度の低い組織型が少なからず存在する。その一つが腺様基底細胞癌である。WHO 分類では adenoid basal carcinoma と呼ばれている。女性生殖器の WHO 分類である WHO Classification of Tumours of Female Reproductive Organs の 2014 年版では、この腫瘍の定義を
An epithelial tumour composed of small, well differentiated, rounded nests of basaloid cells.
上皮性腫瘍であって、小型のよく分化した基底細胞様の細胞がまるい胞巣を形成するものをいう。
としている。注意すべき点は、ここでは「腫瘍 tumour」としか述べておらず、「悪性腫瘍 malignant tumour」や「癌腫 carcinoma」といった言葉は使われていない。つまり WHO 分類は、これが良性腫瘍なのか悪性腫瘍なのかという点には言及していないのである。実際、腺様基底細胞癌 adenoid basal carcinoma の同義語として「腺様基底細胞上皮腫 adenoid basal epithelioma」という語が挙げられている。世の中には、この腫瘍は良性であると考える人々もいて、そういう人は「癌 carcinoma」ではなく「上皮腫 epithelioma」と呼ぶべきだ、と主張しているのである。後述するように、私も、この腫瘍は良性であると考えている。
さて、この WHO 分類では、腺様基底細胞癌の予後 prognosis について
Pure ABC (註: adenoid basal carcinoma の略) is a low-grade tumour with an excellent prognosis and rarely metastasize.
他の組織型を伴わない純粋な腺様基底細胞癌は低異型度の腫瘍であって、予後は極めて良好であり、滅多に転移しない。
と、述べている。ここで問題なのが「滅多に転移しない (rarely metastasize)」という表現である。科学的な文脈においては、「滅多にしない」ということは、「稀にする」ということを意味する。すなわち、この WHO 分類の記載によれば、腺様基底細胞癌が転移した事例が過去に存在する、ということになる。
WHO 分類がこの記述の箇所で引用しているのは、米国の J. A. Brainard らによる症例報告 (Am. J. SUrg. Pathol. 22, 965-975 (1998).) である。この報告では 12 名の腺様基底細胞癌患者について述べられているが、その中には一例も転移や再発した症例はなかったらしい。この報告では過去の症例報告も調べられており、その中で転移したとされる症例は一例のみであったという。その一例も、組織像が他の腺様基底細胞癌とは異なっており、別の種類の腫瘍と考えるべきである、と、著者は主張している。私も文献検索してみたが、腺様基底細胞癌が転移した症例の報告はみあたらなかった。
すなわち、過去に腺様基底細胞癌が転移した事例は存在せず、「滅多に転移しない」とした WHO 分類の記載は誤りである。もしかすると私が知らないだけで転移した症例が存在するのかもしれないが、それならば、その事例を引用していない WHO 分類の記載が不適切であることには変わりがない。
長くなってきたので、続きは次回にしよう。