これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2020/09/09 疾患の分類 (1)

しばらく間があいたが、再開する。ここ最近は、医学の社会的側面に関する記事が続いたので、今度は高度に学術的で専門的な話をしよう。

World Health Organization というのは国際連合の機関の一つであって、日本語では世界保健機関と訳されるが、英語の略称である WHO の方がよく知られているかもしれぬ。その業務は多岐にわたるが、おおまかにいえば、世界の人々が可能な限り高い水準の健康を得られるようにすることを目的として活動している。本部はスイスのジュネーヴにおかれている。

その WHO の刊行物に World Health Organization Classification of Tumours というシリーズがある。標題の表記が米国式の tumors ではなく英国式の tumours となっているのは、本部がスイスにおかれていることと関係しているのであろう。このシリーズは青い表紙のペーパーバックであり、たぶん、どこの病院の病理部に行っても、このシリーズが本棚に並んでいる。タイトルが示す通り、腫瘍について WHO が分類して整理したマニュアル本である。「教科書」というほど学術的な内容ではない。様々な腫瘍について概念や組織学的特徴、予後などを簡潔にまとめたものであって、分野毎に一冊にまとめられている。たとえば婦人科で扱うような腫瘍は、WHO Classification of Tumours of Female Reproductive Organs として一冊にまとめられており、これの最新版は 2014 年に出版されている。腫瘍の分類について、世界的に最も広く普及しているのが、この WHO 分類である。

さて、我々は、なぜ、疾患を分類するのだろうか。

この種の問いに関連して思い出されるのは、私が名古屋大学医学科の三年生であった時、細菌学の荒川教授が、講義終了時に出題したクイズである。荒川教授は「細菌を分類する意義は何か」という問いを発し、これに対し学生は好きなように回答をメモ用紙に記載して提出することで、講義に出席したとみなされるのである。むろん、このような問いに正解などというものはないのだから、各々が好きなように書いて提出すれば良いのだが、ある学生は「わかりません」とだけ書いて提出していた。私は、名古屋大学の医学科は、この程度か、と呆れた。

話を戻そう。疾患を分類する意義についてである。たとえば悪性腫瘍の場合、様々な遺伝子異常が蓄積した結果として悪性腫瘍になる、というのが現代医学の考え方である。しかしある患者の悪性腫瘍と別の患者の悪性腫瘍では、遺伝子異常の起こり方が完全に一致するということはない。ある程度の共通点はあるかもしれないが、細かな遺伝子異常は人それぞれ異なるのである。その意味では、全く同じ悪性腫瘍、などというものは世の中に二つと存在しないのだから、ある人の悪性腫瘍と別の人の悪性腫瘍を「同じもの」として分類するのは、おかしい、といえなくもない。

そうした問題があるにもかかわらず、WHO などが腫瘍の分類を敢えて行っているのは、医学者や医療者あるいは患者その他一般大衆との間で正確なコミュニケーションをとるために必要だからである。全く同じ悪性腫瘍、というのは二つと存在しないであろうが、他の人の悪性腫瘍とは全く異なる悪性腫瘍、というのもまた、滅多に存在しないのである。頻度の高低はともかく、似たような性質を有する悪性腫瘍の患者というのは、どこかに存在する。似たような腫瘍であるならば、同じ治療に似たような反応を示すことが期待されるし、あるいは患者の予後もある程度似たようなことになると推定できる。こうした「似たような病態」をまとめて表現するのが「疾患」という概念である。

ただし、何をもって「似たような性質」と判断するかは曖昧である。つまり、疾患概念というものは、分類者の主観によって決められるのであって、自然の摂理や天の声で客観的に決まるものではない。だから分類に「正しい」とか「誤っている」とかいうことは、ない。

従って、諸君が諸君の好きなように新しい分類法を唱えても構わないし、むしろ合理的で便利な新しい分類法を提唱することは医学の発展のためにたいへん重要なことである。一方で、分類法が乱立して、世界中の人々が各々異なる分類法を採用してしまったら、疾患概念を共有できず、コミュニケーションに不便を生じる。そこで、正しいか誤っているかはともかく、世界中の多くの人が一応は受け入れられるであろう分類法を、WHO が提唱しているのである。諸君が医学や医療を論じる際に、この WHO 分類を採用するか否かは諸君の裁量であるが、しかし、WHO がどう分類しているかはある程度認識しておかないと、他の医学者との対話に支障を生じることになる。


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