これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2020/08/19 安楽死 (4)

さて、安楽死の合法化については賛否が分かれるようだが、私自身は、合法化に賛成である。自身の人生の終わり方を自分で決める自由を制限すべき理由がみあたらないからである。

安楽死の実施にあたっては、本人の意志に基づく決断であることを厳重に確認する必要があるし、この確認は容易ではない。たとえば癌患者が、癌の随伴症状としての抑鬱状態に陥り、その抑鬱ゆえに希死念慮を抱いて安楽死を希望した場合には、安楽死を認めるべきではない。というのも、その希死念慮は疾患の症状に過ぎず、本人の自由な意志に基づく決断ではないからである。そういう場合は、適切な医療介入によって抑鬱状態が改善されれば、生きたい、と思うようになる可能性がある。その一方で、自身の病状を正しく理解し、抑鬱状態ではない自由な精神状態において、冷静な判断に基づいて安楽死を希望する場合には、その実施を拒むべき理由がない。むろん、臨床的にはこの両者の鑑別は容易ではないから、少なくとも精神科医による診察は必要であろうし、厳格な制度を構築する必要がある。

なお、誤解があるといけないので明記しておくが、私は今回の事案を擁護しているわけではない。安楽死の合法化を強く希望する医師が、確信犯として安楽死を実施したのであれば、私は道義的観点からその医師を擁護する。しかし今回の事例では、犯行に及んだ医師は法外な報酬を患者から受け取っていたらしい。これでは営利目的の嘱託殺人に過ぎない。今回の嘱託殺人事件も、以前の相模原における殺人事件も、我々が議論しているような安楽死には該当しない、単なる犯罪である。

安楽死の合法化に反対の姿勢を示している人の多くは、障害者等の生きる権利が阻害される、ということを問題視しているようである。しかし、それは論点がおかしい。前々回に紹介した安藤准教授などは、現在の日本に存在する「患者の将来を本人ではなく家族や医師が決める」という人権軽視の野蛮な慣行を前提に考えている点が、おかしい。また前回に紹介した岡部氏などは、価値観は多様であって、人生の終え方を巡る判断は人それぞれであって構わない、という観点が欠けているようにみえる。ある人が安楽死したからといって、同じような境遇にある別の人は、あたりまえのことであるが、安楽死しなくても構わないのである。

昨今の日本の風潮なのか、それとも昔からの日本の悪しき伝統なのかは知らないが、他人と同じでなければならない、という思い込みが、強すぎるのではないか。生き方や死に方は、人それぞれ、違って良いのである。自分で決めれば良いのである。それを、政府が推奨しているだの、あの人がそうしただの、どうして他人の判断を参考にするのか。自分で好きなようにすれば良いのである。

このように判断を安易に他人に委ねる風潮は、昨今の COVID-19 の騒ぎでも感じられる。たとえば「今年のお盆は、コロナのせいで帰省できなかった」などと言う人もいるが、それは「帰省しなかった」の間違いであろう。諸君が帰省するか否かを決める権利は、他人にはなく、むろん、政府に決められるいわれもない。企業等の中には、従業員の他県への移動を禁止したところもあるらしいが、仕事での出張禁止ならともかく、私的な旅行まで禁止するのは違法であり人権侵害である。雇用主から違法で人権を無視した命令を受けた場合、従う必要はない。黙って帰省すれば良く、むろん、報告の必要もない。また政府が移動自粛を要請したとしても、最終的な決定権は諸君自身にある。それなのに「自粛要請されたから」などと、判断の責任を政府に転嫁するような発言をするのは、一人の自由で独立した人間として、恥ずかしいことではないのか。

8 月 20 日付の時事通信の記事によれば、フランス政府が公共の場所におけるマスク着用を義務化したところ、反発した市民がデモを行ったという。マスクを着用するか否かは個人の自由であって、政府には義務化する権限がない、というのである。同様のデモは、ドイツや英国でも行われたらしい。

一方、日本では、政府による自粛要請に従わなかった者が周囲の人々から非難される例が少なくないようである。


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