これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2020/08/10 安楽死 (3)

今回の事例を巡って、「当事者」である筋委縮性側索硬化症患者の意見も大きく取り上げられている。7 月 23 日付の朝日新聞の記事では、「特定非営利活動法人 境を越えて」の岡部宏生理事長や、舩後靖彦参議院議員の主張が紹介されている。二人とも筋萎縮性側索硬化症の患者である。なお、この境を越えてという団体は、ウェブサイト上の紹介によれば「重度に障害を持ち在宅で生活する当事者のほとんどが、様々な理由から既存の制度の活用が難しく、かつ慢性的な介護者不足によって日々の生活もままならない現状がある中、この法人は広く一般市民を対象として、誰もが当事者やその家族になったとしても、自分らしく生きられる社会、安全に安心して生活できる社会に寄与することを目的とする。」として重度障害者に対する様々な支援を提供する団体らしい。

岡部氏は「『安楽死』には明確に反対だ。『安楽死』と同じように社会で使われている言葉に『尊厳死』があるが、自分でご飯を食べることや排泄(はいせつ)ができなくなるのは尊厳を失うことなどとされる。そうなのか。もしそうなら私は尊厳を失って生きている。」「尊厳死を選ぶということは、自分はこういう状態なら生きていたくないということ、つまり自殺そのものだ。これから社会の中で安楽死が議論されるなら、自殺をどう考えるのかを明確にしてほしい。」と述べている。

舩後参議院議員は少なくとも記事に掲載されている範囲では、安楽死の合法化に対する賛否を明確に述べずにただ「『死ぬ権利』よりも、『生きる権利』を守る社会にしていくことが、何よりも大切です。どんなに障害が重くても、重篤な病でも、自らの人生を生きたいと思える社会をつくることが、ALSの国会議員としての私の使命と確信しています。」とするに留めている。

これら「当事者」の意見について考える際に注意すべき点がある。昨日の記事で紹介した竹田医師もそうであるが、これらの「当事者」はいずれも他人とのコミュニケーションや社会的活動が可能な患者である。これに対して今回の事例の患者は、前々回の記事で述べたように、コミュニケーション能力が失われつつある、閉じ込め症候群に近い、特に重症の患者であったらしい。同一疾患ではあるが、状況は全然違うということを忘れてはならない。

岡部氏は「尊厳」を述べているが、そもそも尊厳や死生観というのは、個人の主観であって、万人に共通するものではない。自力での食事や排泄ができない状況について、岡部氏が「尊厳を保っている」と考えるからといって、他の人も同様に考えるとは限らず、どちらが正しいというわけでもない。岡部氏が「私は安楽死したくない」と主張するのは自由であるが、氏の主張は、他人が安楽死することを止める理由にはなっていない。

舩後参議院議員は、立場が立場であるだけに、この時点で明確な意見を表明することを避けたのであろうが、どちらかといえば安楽死の合法化に反対であるような言い方にみえる。しかし、そもそも「死ぬ権利」と「生きる権利」とは相反するものではない。「死ぬ権利」を認めるよう求めている人々も、「生きる権利」を否定しているわけではない。それなのに両者を対比してコメントした舩後参議院議員の意見は、意味がよくわからない。


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