これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
日付が変わったが、便宜上、7 月 31 日付として記載する。過日、二人の医師が嘱託殺人の疑いで逮捕された件について、何回かに分けて書こう。初回は、安楽死の現状についての概略を述べる。
日本においては安楽死を認める法律がないため、死を希望する患者を医師が故意に死なせた場合、嘱託殺人の罪にあたることは、報道などで述べられている通りである。私は、この事件の報道を最初にみたとき、安楽死を認めない現在の日本の法律に反発した医師が、確信犯として安楽死を行ったものかと思った。が、どうも報道によれば、この事件の容疑者は患者から法外な報酬を受け取っていたようである。それが事実であるならば、彼らは法より道義を優先した確信犯ではなく、単なる金儲けのための嘱託殺人犯に過ぎず、私は擁護しない。
「安楽死」は英語で euthanasia であるが、これと似た言葉に「尊厳死」death with dignity がある。両者の異同について論じている者もいるが、実際のところ、この区別は曖昧である。内科学の名著 J. L. Jameson et al., Harrison's principles of internal medicine, 20th ed (McGraw Hill; 2018) では第 9 章で euthanasia について論じているが、death with dignity については言及していない。Death with dignity という語が曖昧であるがゆえに、使用を避けたものと思われる。この日記でも、「尊厳死」という曖昧な言葉は避けることにしよう。
さて、今回の事件の報道について、気になる点がいくつかある。7 月 23 日付の産経新聞の記事 では、この事件の被害者である筋委縮性側索硬化症患者の状態について
女性は死亡当時、すでに自力でのまばたきも難しくなっていたといい、「安楽死」を希望したとみられている。
と記載しており、この患者の病状が非常に進行していたことを報じている。生存はしており、外部からの情報も知覚はできるが、自分の意思を他人に伝える手段がない、という恐ろしい状態が近づいていたわけである。このことは、生を諦め死を望むことと大いに関係があったであろうが、不思議なことに、産経以外の大半の報道機関は、この事実を大きく報じていない。なお、産経は 7 月 29 日付の記事でも、この点を改めて強調して
女性は数年前からマイトビーと呼ばれる視線入力装置を使い、意思疎通を図ったり、SNSに自身の思いを投稿したりしていた。しかし、昨年1月ごろからまばたきが難しくなり、TLS (註: 完全閉じ込め症候群のこと) の傾向が見られ始め、症状が進行すればコミュニケーションの手段もなくなる状況だったという。
と、書いている。もし本当にそういう状態であったならば、私であれば、安楽死を希望する。安楽死はけしからん、と主張している人々は、人工呼吸と胃瘻で生命を維持し、自分の意思を表明することすらできず、回復の見込みもない「生」を、本当に望むのか。
朝日新聞などは、安楽死は認めるべきではない、という明確な方向で記事を書いており、議論の余地すらない、と言わんばかりである。朝日新聞をはじめとして日本の報道機関は、「無知蒙昧な一般国民に対し、正しいことを教えてやる」という姿勢が基本であり、客観的事実を提供して各々の国民に思案や議論を促す、という態度ではない。私は、そういう報道姿勢が嫌いである。
さて、前述のように日本では安楽死を認める法律がないが、世界的には、安楽死が合法な国は存在する。上で紹介した Harrison では、生命の終わりを故意に迎える医療行為を 4 つに分類している。1) 「同意に基づく能動的安楽死 (voluntary active euthanasia)」は「故意の薬物投与その他の手段によって、インフォームドコンセントの下に、患者を死に至らしめる行為」と定義され、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、カナダ、コロンビアにおいて合法である。2) 「同意に基づかない能動的安楽死 (involuntary active euthanasia)」は、同様の行為を、患者に同意能力があるにもかかわらず、患者の同意なしに行うことをいい、これが合法である国は存在しない。3) 「受動的安楽死」は、「生命維持のための医療的処置を中止することによって、患者を死亡させる行為」であって、これは多くの国で合法とされている。4) 「医師による自殺幇助 (physician-assisted suicide)」は、「医師が薬物その他の医療的介入を提供し、患者が十分に理解した上でそれらを使用して自殺を行うこと」であって、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、カナダ、コロンビア、スイス、オレゴン、ワシントン、モンタナ、ヴァーモント、カリフォルニアで合法である。
日本の場合、上述の 1) から 4) のいずれについても法律で明確に規定されていない。従って、受動的安楽死の場合であっても、これを行った医師が罪に問われる恐れがある。
さて、次回は、これらを前提として、安楽死を巡る議論について考えよう。