これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2020/07/26 アンサングシンデレラ (2)

前回の続きである。アンサングシンデレラ第 4 巻の症例における 2 つの問題についてである。

患者の病状について、医療従事者から説明を受ける権利を有しているのは、患者本人のみである。患者の家族は、患者本人が許可した場合を除き、病状説明に同席する権利はない。現実には、病状説明には患者本人だけでなく家族も同席することが多いが、これはあくまで本人が許可したからである。病院側としては、退院後の生活のことなどを考えれば家族にも病状を知っておいて欲しいと思うかもしれないが、家族に知らせるかどうかは専ら患者本人が決めることである。

患者本人を抜きにして家族に対して病状説明を行うのも、基本的には患者本人が許可した場合に限られる。患者本人との意思疎通が困難な場合には、本人の意思を推定することができる立場の者として家族が参考意見を述べるために病状説明を受けることがあるが、この場合も、家族には説明を受けたり治療方針を決定する権利があるわけではないことを忘れてはならない。

むろん、世の中には「自分が癌だ」ということを知りたくない人もいる。そういう人の場合、自分には知らせずに家族にだけ告知してくれ、と病院側に要望するのは自然なことである。とはいえ、検査結果が出てから「告知を希望しますか?」などと尋ねるわけにはいかないので、検査を行う前や、あるいは入院時にルーチンの問診項目として、告知に関する希望を訊いておくべきである。

さて、このアンサングシンデレラ第 4 巻の症例の場合、患者の認知能力には全く問題なく、本人も自分の状態を知りたがっているのに、本人ではなく家族にのみ告知が行われた。経緯については明確に描かれていないものの、本人の希望とは無関係に、息子に対してのみ告知したのであろう。これは、医師の守秘義務違反である。具体的には刑法第百三十四条

医師、薬剤師、医薬品販売業者、助産師、弁護士、弁護人、公証人又はこららの職にあった者が、正当な理由がないのに、その業務上取り扱ったことについて知り得た人の秘密を漏らしたときは、六月以下の懲役又は十万円以下の罰金に処する。

に違反している。いうまでもなく、こうした違法行為は医療現場において「やむを得ない」とされているわけではなく、不正である。私が名古屋大学医学科の学生であったときも、本人の許可なく家族に病状説明を行えば守秘義務違反になるから、告知の方法について患者本人と事前に話し合っておく必要がある、と教えられた。現実には、おそらく少なくない病院で、こうした守秘義務違反が少なからず行われているために、アンサングシンデレラでも深く考えずに描いてしまったのであろう。しかし、これでは、こうした告知が正常な医療行為であるかのように読者に誤解を与えかねず、よろしくない。

もう一つの問題は、患者本人の同意なし抗癌剤による治療を開始しようとした点である。これは、上述の告知の問題と似ているようで異なる問題である。抗癌剤投与は、正常組織にも重大な障害を及ぼす行為であって、形式的には刑法第二百四条

人の身体を傷害した者は、十五年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。

に違反している、法学用語でいえば犯罪構成要件を満足している、と考えるのが通説である。ただし、医療行為は傷害罪の犯罪構成要件を満足しない、という主張も一部にはあり、このあたりの事情については田坂晶の論文「刑法における治療行為の正当化」(同志社法学 五八巻七号 二六三-四〇〇; 2007) が読みやすいのだが、詳しくはまた別の機会に書こう。なお、医師の中には「治療行為なんだから構わないだろ」とシンプルに考える者もいるようだが、治療行為であっても違法である例はたくさんあるので、注意を要する。上述の田坂の論文でも、二七七ページで

癌患者への不告知による手術などがすべて傷害罪を構成するとの判断は、刑法上妥当な評価とはいい難いであろう。

と述べているが、この箇所では 2001 年に出版された文献を引用していることに注意されたい。すなわち、かつて、これらの論文が書かれた時代には癌患者に告知することなく手術することも稀でなかったらしいが、今日では、よほど特殊な事情がない限り、告知なしでの手術は行われない。基本的には、告知なしでの手術は傷害罪を構成すると考えるべきである。

このように、形式的には傷害罪にあたる (恐れがある) 医療行為が容認されるのは、これが違法ではない、法学用語でいえば違法性が阻却されている、からである。なぜ違法でないのか、という理論については議論があり、これも別の機会に紹介したい。少なくとも、違法性が阻却されるためには原則として患者の同意が必要である、という点については、異論はなかろう。ただし「同意とは何か」という問題も重大であり、患者が何もわかっていない状態で同意書に署名しただけでは、通常、同意したとはみなされない。

ともあれ、このアンサングシンデレラのような場合、本人への説明や同意がない以上は違法であるが、その点については作中で指摘がない。患者の治療方針を、本人の意思に関係なく、医師や患者家族だけで決定できるかのような誤解を与える恐れがあるのではないか。


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