これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2021/04/23 人権 (7) --- 身体拘束 [1]

医療現場において行われている人権侵害のうち頻度が高いものを二つ挙げると、インフォームドコンセントの欠如による自己決定権の侵害と、身体拘束である。このうちインフォームドコンセントについては過去に何度も書いているし、今後も書くであろうから、ここでは述べない。本日の話題は身体拘束であるが、長くなるので何回かに分割して議論する。

身体拘束というのは、平たくいえば、患者が動けないように縛りつけることである。体幹部や四肢をベッドに縛りつけたり、手にミトンをはめて指を使えないようにしたりする。これは、何らかの理由で正常な判断をできなくなっている患者が、たとえば静脈カテーテルを無理矢理引き抜いてしまったり、あるいは暴れて自身や他人を傷つけたりする恐れがある場合に、それを予防する目的で実施されることが多い。

医療現場で身体拘束を行う理由についてキチンとした統計があるのかどうかは知らないが、たぶん、頻度が高いのは譫妄である。

譫妄とは何か、ということについて、私が以前に別の場所で書いた二つの文章を一部改変して転載しておこう。

---------- 以下 一部改変して引用 (諸般の事情により引用元は示さないが、私が著作権を有する文章である) ----------

2016/12/11 譫妄

過日、同期研修医の某君と話していて、そういえば、そうだ、と思った話である。「譫妄」という語についてである。この言葉の意味について、金原出版『現代臨床精神医学』改訂第 12 版 (2011). には「せん妄は, 1) 意識混濁, 2) 錯覚・幻覚, 3) 精神運動興奮・不安などが加わった特殊な意識障害である。」「せん妄の特徴は, 意識混濁が存在するが意識の清明度が著しく変化, 動揺し, 活発な感情の動きや運動不安があり, 錯視, 幻視などの知覚異状を伴うことである。」と記載されているが、定義については明確に述べられていない。ひょっとすると、この「特徴」として述べられている内容は「定義」のつもりであったのかもしれないが、精神医学においては術語の定義が非常に重要であることを思えば、曖昧な記載をするべきではない。「定義」であるならば、ここに挙げられた要件を全て満足していなければ「譫妄」と呼ぶことはできず、また、要件を満足していれば全て「譫妄」に該当する。一方、「特徴」であるならば、一部を欠いていても「譫妄」と呼んで構わないし、要件を全て満足していても「譫妄」に該当しない例が存在し得るのである。

この点において、医学書院『標準精神医学』第 6 版 (2015). では「軽度ないし中等度の意識混濁に活発な精神運動興奮が加わるものをせん妄という」と明確に定義されている。医学書院の「標準」シリーズは、基本的には医師国家試験対策書であり、低俗なのだが、『標準精神医学』『標準脳神経外科学』『標準整形外科学』については、医師国家試験の枠にあまり捉われず、学術的な記載が比較的豊富であり、たいへん、よろしい。なお、この『標準精神医学』の編者には、第 6 版から名古屋大学の尾崎紀夫教授が加わっている。尾崎教授は、精神疾患に対する薬物治療に積極的であるために、臨床的には一部の患者等からひどく嫌われているが、少なくとも精神医学研究・教育においては傑出した人物である。「疾患」とは何か、といった点も含め、言葉を正確に使うことの重要性を我々に教えてくれたのは、尾崎教授であった。名大医学科で私が講義を受けた中では、尾崎教授は、病理の中村教授と並び、最も素晴らしいメッセージを我々に与えた人物である。

なお、Kasper DL et al., Harrison's Principles of Internal Medicine, 19th Ed., (2015). では、譫妄 delirium について`a relatively acute decline in cognition that fluctuates over hours or days.' としている。すなわち、精神運動興奮を要件とせず、hyperactive なものと hypoactive なものの、2 つのサブタイプに分類される、とするのである。ただし、臨床的には両者は必ずしも明確に区分されるものではない、としている。この Harrison などの流儀に対し、日本の教科書では、hyperactive なもののみを「譫妄」と呼ぶことが多いようである。

さて、精神医学的には、「譫妄」とは上述のように定義されている。これは、症状のみによる定義であって、原因は限定しておらず、器質的な異常によるものも、そうでないものも含む。しかし臨床的には、この語を少し違った意味合いで用いる医師が稀ではない。すなわち、入院等により以前とは生活環境が一変することによって来す一過性の精神運動興奮発作に限定して「譫妄」と呼ぶのである。私の知る限り、「譫妄」という語を、そうした限定的な意味で用いている精神医学書は存在しない。おそらく、精神医学をキチンと修めていない医師の一群が、深く考えずに、曖昧な感覚だけで言葉を用いているのだろう。

---------- 以下 一部改変して引用 (諸般の事情により引用元は示さないが、私が著作権を有する文章である) ----------

2017/07/23 譫妄

Kaplan & Sadock's Comprehensive Textbook of Psychiatry, 10th Ed. (Wolters Kluwer; 2017). の内容を紹介しよう。

日本においても米国においても、譫妄の患者に対して、いわゆる抗精神病薬が用いられることがある。しかし、抗精神病薬の添付文書には用途として「譫妄」は挙げられていないし、米国でも FDA は認可しておらず、あくまで off-label で使用されている。抗精神病薬が譫妄そのものを改善するとは思われないが、暴れる患者をおとなしくさせる役には立つので、便利な薬として臨床的には用いられているのであろう。Kaplan は、譫妄に対し薬物で対応することについて、次のように述べている。

Strong evidence to support the pharmacologic management of delirium is lacking.Thus, the use of psychoactive medications should be reserved for the management of behaviors associated with deliriumthat pose a safety risk for the patient and others...

譫妄に対する薬物療法を支持する根拠は存在しない。従って、抗精神病薬の使用は、譫妄による暴力的行動のために患者自身や周囲の人々の安全が脅かされる場合に限定されるべきである。

しかし現実には、病院によっては「患者が不穏状態になったら、抗精神病薬で対応せよ」と医師が看護師に事前に指示しておくことがある。不穏状態とは、医学書院『標準精神医学』第 6 版によれば、「イライラして怒りやすく不快感情が亢進した状態 ... が外的 (表情や行動などの運動面) に表現されたもの」をいう。このように「不穏」というのは非常に曖昧に定義された言葉である。それにもかかわらず、医師からの事前の指示に基づいて、患者が不穏状態であると看護師が判断したならば、医師の直接の診察なしに、抗精神病薬が投与されるのである。Kaplan が述べるような「患者自身や周囲の人々の安全が脅かされる場合」に該当するかどうかは、考慮されていないことに注意を要する。

普段、ガイドラインだとか診断基準だとかを金科玉条の如くありがたがっている人々が、なぜ、譫妄に対してだけは安易な抗精神病薬投与を抵抗なく行っているのか、私には理解できない。


戻る
Copyright (c) Francesco
Valid HTML 4.01 Transitional