これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
ウクライナでは、侵攻するロシア軍と戦うため、18 歳から 60 歳までの成人男性の出国が禁止されているという。換言すれば、子供や老人、および女性は、国外に逃げることを認める、というわけである。このウクライナ政府の措置に憤りを感じない人は、差別主義者である。
戦争に際して、子供を疎開させることに私は賛成である。参政権のない子供には、法的にも道義的にも、国家の現在の危難に対する責任はない。むしろ、戦後社会の復興を担うという重大な道義的使命があるのだから、嵐が過ぎるのを国外で待つのは合理的である。
しかし、なぜ女性の出国も認めるのか。銃をとって戦う能力について、女性が男性よりも劣るということはない。たとえば、日頃デスクワークに従事して運動もしない男性である私などよりは、日々スポーツで体を鍛えている女性の方が、戦闘能力は高いであろう。また、直接的な戦闘以外にも、国土防衛のためにできる仕事は、いくらでもあるのではないか。
女性は守られるべき存在である、というような決めつけがあるのだろう。これを「女性が大事にされている」と感じる人は、男女差別について無頓着に過ぎる。
女性は守られるべき、という発想は、女が前に出てくるな、という発想と表裏一体である。女のくせに生意気だ、女なんだからおとなしくしていろ、というわけである。「女・子供」という表現にみられるように、女は一人前の人間ではない、男よりも下の立場である、という考えがあればこそ、女性は子供と同様に出国を許されるのである。
これはウクライナ戦争に限ったことではないが、攻撃で犠牲となった民間人について、いまだに「女性や子供を含む○人が死亡」などと報道されることがある。子供はともかく、なぜ女性を特に強調するのか。男性が死亡するのに比べて、なぜ、女性が死亡することが重大であるかのように表現するのか。
ところで、私は、さきほど参政権のない子供には道義的責任がない、と述べた。これは暗に、参政権のある大人には道義的責任がある、と述べている。現在のロシア連邦は、おそらく選挙の際に不正が横行しているが、一応、形式的には国民主権の民主主義国家である。大人のロシア人は、ごく稀な例外を除いて、参政権を有している。プーチンを大統領に据えたのは、そうしたロシア人達である。
プーチンが大統領に就任したことを苦々しく思ったロシア人も少なくないであろう。しかし、そのプーチンを止められなかったことについては、参政権を有する全てのロシア人に道義的責任がある。「私はプーチンを支持していない」という人もいるだろうが、そのような言い訳は成立しない。選挙はあくまで手続きに過ぎない。ロシア政府は、ロシア人全体を代表する政府である。プーチンはロシア人全体を統べているのであって、プーチン支持者だけを代表しているわけではない。
なお、日本では国会議員が地元の支持者に利益誘導することが多いようである。地元に高速道路を建設したり、支持母体たる業界団体に都合の良い制度を作ろうとするわけである。国民全体に奉仕するのではなく、自分に票を入れてくれる人々に奉仕しているのである。それを疑問に思わない人々は「プーチンを支持していない一般ロシア人には道義的責任はない」と考えるのかもしれぬ。
話は変わるが、昨日の記事に少し補足をしておきたい。ウクライナを出国してイスラエルに避難した女性が、母国の情勢について関心を高めるためとして出場したエルサレムマラソンで優勝したらしい。ロシアの侵攻を受けてイスラエルに逃げた時点で皮肉であるが、さらにエルサレムを走るというのは、いったい、いかなる了見であろうか。