これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
COVID-19 の話は中断して、今日は性別の話をしよう。
性別という概念は人類の歴史において古くから存在するであろうが、医学的定義は曖昧である。定型的な分化・発生を遂げた人に限れば、精巣や陰茎を有するか、あるいは卵巣や子宮を有するかのいずれかである。前者は男性、後者は女性と呼ばれることが多い。性愛に関していえば、男性は女性を、女性は男性を、それぞれ対象とする例が多いであろう。しかし人の発生様式は非常に多様であって、非定型的な経過をたどる人も少なくない。言うまでもなく、多数派が正常なわけではないし、少数派が病気だというわけでもない。たとえば赤血球の D 抗原が陰性の人は稀であるが、それは異常でも疾患でもなく、その人が稀な形質を有しているというだけのことである。また、かつてのヨーロッパでは、ある特定の民族が劣等とみなされ、多数派の人々がその民族を迫害したことがあった。この時、この多数派の人々は、正常な感性と判断力を失った、一種の精神異常の状態にあったといえよう。多数派が病気だったのである。
非定型的な性分化・性成熟を遂げることは稀ではない。結果として、定型的な男性でもなく、定型的な女性でもない人は、少なくない。すなわち、性別というのは、定型的な男性と定型的な女性を両端とする一連のスペクトラムを形成するのである。便宜上、これを男性と女性の二群、あるいは中間的な性を含めた三群に区分することは不可能ではないが、あくまで、それは便宜上の分類に過ぎない。これは、病理診断学において腫瘍を良性と悪性に便宜上分類しようとする試みと同様であるように思われるが、その話は別の機会にしよう。
臨床医療において性別が最も問題になるのは、人の出生においてである。日本においては、医師や助産師が発行する出生証明書には性別の記載欄があり、その記載内容に基づいて戸籍が作成される。基本的には、性別の診断は外性器の形状、すなわち陰茎や陰唇を視診することによって行われる。だから、何らかの事情で外性器の形状が曖昧であり、性別の判断に苦慮する場合には、敢えて性別診断を行わず、性別未確定として出生証明書を作成するのが普通である。こうした性別判定を巡る法律上の諸問題については、家永登『性別未確定で出生した子の性別決定』(専修法学論集 131, 1-54 (2017-11-30).) が読みやすい。この家永氏は法学者であって、医師でも医学者でもないが、この論文に書かれている医学的内容に重大な誤りはない。敢えて挙げるならば、男性がヒトパピローマウイルスワクチンを接種することの意義について考察が甘いように思われるが、論の本筋には無関係である。
さて、ここで問題にしたいのは性同一性障害である。性別違和、という表現を用いる人もいるが、「障害」という語を敢えて忌避することが適切であるとは思われない。性同一性障害を厳格に定義することは困難であるが、「身体的な表現型としての性が、本人の自認する性と一致していない状態」とするのが簡便であろう。「身体的な表現型」や「本人の自認」という語が曖昧であるため実務に用いる定義としては不足であるが、総論を述べるには充分である。
性同一性障害の病理学的本質が何であるかは、わかっていない。しかし、胎生期のアンドロゲンないしテストステロンへの曝露が脳の性分化に影響するらしい、ということが近年では指摘されている。すなわち、この脳の性分化が非定型的な過程を辿った場合に、身体的な表現型とは異なる性に脳が分化することがあり、性同一性障害を来すものと推定される。このように考えると、性同一性障害は性分化障害の一種である。性分化障害というのは、詳細は割愛するが、ホルモン代謝の異常などによって性分化に異常を来す疾患の総称であって、たとえば、陰茎が病的に小さく生まれた男性とか、陰核が腫大し陰茎様になって生まれた女性などが存在する。
現代の医学では、出生時点において性同一性障害を診断することは不可能である。しかし、もし将来、新生児の血液検査によって「性同一性障害疑い」の診断が可能になったとしたら、どうであろう。多くの医師や助産師は、性同一性障害疑いの新生児について性別診断を保留し、性別未確定として出生証明書を交付するのではないか。
そのように考えると、現在、性同一性障害の人々が身体的表現型の性で戸籍を作成されているのは、医師や助産師の誤診に基づくものであるといえる。むろん、これは現代医学の限界なのだから、医師や助産師に過失はない。それでも、誤診は誤診である。医学的には「身体的表現型が女性である性同一性障害患者について、戸籍上の性を男性に変更すること」は 「高度の矮小陰茎ゆえに医師が誤診し女性として戸籍を作成されてしまった人について、戸籍上の性を男性に訂正すること」と本質的には同一である。いずれも、出生時点での誤診により不正に記載されてしまった戸籍上の性別を、正しい性別に訂正しているに過ぎない。家永登『性別未確定で出生した子の性別決定』(専修法学論集 131, 1-54 (2017-11-30).) によれば、身体的表現型が曖昧であるがゆえに出生時に性を誤診された事例については、以前から、柔軟に戸籍の訂正が行われてきたらしい。一方で現行法の下では、性同一性障害については、いわゆる性別適合手術などが行われない限り戸籍上の性の変更が認められておらず、医学的合理性を欠いている。