2024/03/25 減俸 10% for ever

3 日前に給与の話を書いたが、今日は、その続きを書こう。

私の北陸医大 (仮) における給与は月 27 万円ないし 28 万円程度、賞与なし、住宅手当なし、通勤手当なしで、2020 年実績では年 326 万円であった。 2018 年度、つまり私の病理医一年目の年には、私は県内の某民間病院と、隣県の県立病院とに、月 2 回ずつ非常勤医として出向いていた。 いずれも常勤の病理指導医がいる病院であり、私は業務を少し手伝いながら、指導を受けていた。 これらの病院からは、いずれも日当 7 万円を受け取っており、業務内容に比して非常に高給であった。過剰であった、といってもよい。 結果として、私は月収 55 万円程度となり、市中病院の常勤病理医よりは低収入であるが、世間一般の大卒 3 年目よりはかなりの高給取りであったと思う。

私が病理医二年目となる 2019 年度に、我々の病理学教室に新しい医師が着任した。 それに伴い、いわゆる外勤として勤務する病院の調整が教室内で行われた。 その結果、隣県の県立病院にはその新任医師が行くことになり、私は代わりに、県内の県立病院へ赴くことになった。 ところが、この県内の県立病院の給与は日当 4 万円である。 すなわち、月 6 万円、年間 72 万円の減収となった。率にすれば 10% 以上の減給である。

いうまでもなく、労働基準法上、正当な理由なく労働者の給与を削減することはできない。ところが私の場合、大学からの給与は何も変わっていないので、労働基準法の適用外である。 そもそも外勤は、私と市中病院との間で労働契約しているのであって、大学による人材派遣ではない。 すなわち、契約上は単に私が転職して収入を減らしたに過ぎない、ということになる。 しかし実態としては、教授の思惑一つで、こうした大幅な減俸が行われたのである。

なお世間では「大学が市中病院に医師を派遣して云々」と表現されることもあるが、実際には医師が個人的に市中病院と契約しているのだから、「派遣」という表現は不適切である。 とはいえ、その労働契約の成立は教授の意向によってなされるのだから、実際のところ派遣に近い。 そのような歪な雇用関係が、医師の世界では、広くまかり通っているものと思われる。


2024/03/24 北陸医大教授との思い出 (5)

病理解剖のやり方には完全に定まったものはない。臓器の取り出し方について大きく分けると、まず遺体から諸臓器を一塊にして取り出す方法と、一つ一つの臓器を切除しながら分離して取り出す方法とがあるが、いずれも一長一短である。 取り出した臓器は、必要に応じて写真撮影を行ったり、小さく切ったりした後に、ホルマリンに漬ける。 それまでの間、臓器が乾燥しないように水に漬ける人もいるが、低張な水に漬けると組織や細胞が破壊されるので、これも一長一短である。生理食塩水に漬けるのが理想的ではあるが、それは経済的に難しいことが多いであろう。

私は病理医になってから、かの教授に病理解剖の技術指導を受けた、ことになっている。 ただし、かの教授から具体的な手技の指導や理論的な解説は少なく、いわゆる「みて盗め」方式が中心であったので、良質な教育とはいえない。 とりわけ、臓器を遺体から取り出した後の対応は、ひどかった。 教授は、諸臓器の写真撮影などを私に命じ、その間に、主たる病変の剖出や観察を学生・研修医・臨床医らとともに行うことが多かった。 すなわち、もっとも重要な病変部の観察を教授が行っている間、私は、別の臓器の写真撮影をせねばならなかったのである。 私は、その主病巣剖出現場をみることができず、彼らの話す内容を聞きながら他臓器の写真撮影を行っていた。 それが終わってから、教授が剖出した病巣を確認し、必要に応じて学生らから状況を聴取したのである。 つまり、教授には、私を教育する意思がなかった、ということであろう。

ついでにいえば、教授は感染防護意識も低かった。 通常、解剖を行う際には、外科手術と同様のガウンやフェイスシールド等を着用する。これは、遺体がいかなる病原体を有しているかわからないので、我々の身を守るために必要な措置である。 ところが教授は、通常の白衣を着るだけで、特に感染予防策を講じないまま、解剖を行っていた。 ある時は、患者の血液が飛散し、教授の眼鏡に付着したことがある。 数十年前であれば、そういう光景もありふれていたかもしれないが、時代錯誤といえよう。

さらにいえば、危険な行為を強要する事案もあった。 強く印象に残っているのは、腎臓への処置である。 摘出した腎臓には、通常、割を入れて、断面を観察する。 このとき、教授は、腎臓を左手に持ち、右手にナイフを持って、手に持たれた状態の腎臓を切ることを私に要求した。 安全を考えるならば、ナイフが進んでいく方向に自分の手があることは望ましくない。 腎臓を俎板に置き、その上で切ることが望ましい。 そこで私は「これは怖いので、俎板の上で切っても良いでしょうか」などと尋ねたが、教授は「それではキレイに切れないから、手に持って切りなさい」と強く要求した。 怖いので俎板を使いたい旨を何度か申し上げたが、ついに容れられなかった。 そこで私は、証人も多数いることだし、もし手を切ってしまったら損害賠償を求めて訴訟しよう、と腹を括り、手で持ったままの腎臓を切った。

なお、最初の何例かの解剖を経験した後は、教授は最初と最後 (あるいは中間に少し) だけ解剖室に顔を出すのみとなった。 そのため、私は、教授がいない隙に、俎板を使って腎臓を切るようになった。


2024/03/23 北陸医大教授との思い出 (4)

教授を含め、大学医学部教員の仕事は、教育、研究、臨床の 3 つの分野にわたる。 従って、仮に研究者としての能力が高くないとしても、教育や臨床において優れた人物であるならば、大学教授としてふさわしい可能性はある。 臨床というのは、病理の場合、病理診断のことである。かの教授が、病理診断医として優秀であったか否かは、よくわからない。 ただし、私が他病院の技師や他大学の病理学教授から聞いた話では、かの教授は診断が「異様に速い」ということで有名であったらしい。 それが、かの教授が極めて優秀であるがゆえに診断が速かったのか、それともキチンと診ていないから速かったのかは、知らぬ。

かの教授は、少なくとも教育者としては、優秀ではなかったと思う。 それを象徴する事例をいくつか挙げていこう。 一つは「バカモン事件」である。 一時期私は、同じ病理学教室の先輩医師一名および複数の学生と共に、病理診断学の勉強会として J. R. Goldblum et al., Rosai & Ackerman's Surgical Pathology, 11th ed., Elsevier (2018). の輪読会を行っていた。 毎週であったか隔週であったか覚えていないが、土曜日午後に図書館のセミナー室で開催していた。 その日は学生の参加が少なく、私と先輩医師と学生一名の三名だけであったように思う。 また休日であるため、病理学教室には私と先輩医師の二人しかいなかった。 教授室の電灯はついていたが、教授は外出中のようであった。 我々の居室は廊下に直結されていたが、一方、廊下と教授室の間には前室があった。この前室には秘書の机があり、また我々の居室ともつながっていた。 私と先輩医師は、勉強会の会場である図書館に向かう際、我々の居室の扉だけでなく、廊下から前室に入る扉も施錠した。 なにしろ、我々の部屋がある建物の入口は休日でも無施錠であるため、容易に部外者が侵入できたのである。 教授室にも我々の居室にも、非常にデリケートな物品があるため、たとえ休日といえども、部屋を無人にして出かけるのは問題があると考えたのである。 ところが、どうやら教授は、自室の鍵を持たずに外出していたらしい。我々が扉を施錠したために、教授室から締め出されてしまったのである。 付近を探しても我々の姿を発見できず、しばらく時間が経って、ようやく図書館セミナー室にいる我々を発見した。 そして教授はセミナー室に入るなり「バカモン!」と我々を怒鳴りつけた。

振り返ってみても、我々に落ち度があったとは思えない。 「教授室の電灯がついている時は扉に施錠しない」というようなルールは存在しなかったし、むしろ防犯上、施錠するのは当然である。 部屋から締め出されてしまったのは、鍵や電話を持たずに外出した教授の過失である。 通常であれば、その過失を反省し、我々に対し「すまないが、鍵を開けに来てもらえないだろうか」と依頼するべき状況ではなかったか。 それを「バカモン!」とは、一体、いかなる了見であるか。

おそらく、あの人物は、教授を大学研究室における絶対権力者、至高の存在と考えており、教室員を教授様にお仕えする従僕のようなものとみなしていたのではないか。 そういう傲慢な精神を持っている時点で、教育者として不適格である。

2024.03.24 一部修正

2024/03/22-2 北陸医大における給与

今日はカネの話をする。

私が北陸医大 (仮) の研修医であった時の給与は、2016 年の記事によると、通勤手当を除いて月 31 万円 (総支給額) であった。 住宅手当などは存在しなかった。手取り額は評価が難しいので、以下、総支給額のみを論じる。 現在では、北陸医大の研修医は手当が増えて、総支給額 40 万円程度であるらしい。 初期研修を終えた 3 年目の給与は、2018 年の記事によると、月 27 万円 (総支給額) であった。 むろん住宅手当はない。大学院生の身分を兼ねていたため、通勤手当は支給されなかった。 フルタイムで勤務した上での大学院生なのだから、学生の身分を理由に通勤手当がないのは不条理だと思うのだが、規定ではそうなっていた。 今年 1 月の給与明細をみると、給与は 29 万円 (総支給額) であった。 3 年目以降は、非常勤医として市中病院でも働いており、1 月時点では月 22 万円を受け取っているから、月収 51 万円ということになる。 なお、研修医時代も 3 年目以降も、賞与は存在しない。

3 年目になると、研修医時代に比べて、大学病院からの給与が減ったのである。 研修医の給与には月 40 時間の、いわゆる「みなし残業代」が入っているが、我々が月 40 時間の時間外労働を行っても、研修医より少しばかり給与は少ないのである。 これは、暗黙の了解として、いわゆる「外勤」を行うことが前提になっていたためである。 すなわち、契約上は週 5 日労働であるが、そのうち 1 日程度は「外勤」として市中病院での非常勤労働にあててよい、という慣習があった。 ところが昨年か一昨年あたりから、IC カードを用いた出退勤管理が導入されたのに伴い、あたりまえのように「週に 38 時間 45 分は大学で労働すること」が求められるようになった。 もともと「一日は外勤してよし」という慣習は明文化されていないのだから、何かが明示的に変わったわけではない。 しかし、週に 40 時間働くことが前提なら、なぜ、我々は研修医より給与が低いのだろうか。 どうして我々は、研修医以下の扱いを受けなければならないのか。

市中病院における病理医の給与相場は、よくわからない。 一時期、転職斡旋業者に依頼して情報を取り寄せていたのだが、だいたい週 4 日勤務や 4.5 日勤務で、年収 800 万〜、ぐらいが相場のようである。 地方にいけば、年収 1000 万もざらである。 それに対して北陸医大では、週 5 日勤務で年収 326 万 (2020 年実績) である。どうして、周辺相場の半額や 3 分の 1 の給与で、我々は働かねばならないのか。 外勤を含めて、つまり週 6 日労働で考えても年収 590 万円であるから市中病院には遠く及ばない。

我々は、北陸医大に頭を下げて「働かせていただく」ような立場ではない。 私は、北陸医大で博士の学位と病理専門医の認定を取るつもりであったから、我慢してここに勤めていた。 その縛りさえなければ、北陸医大で働こうと考える理由は何一つ存在しない。 病院長や学長は、どうして、これでまともな医者が集まると考えているのか。 北陸医大付属病院の医者は、どうして、こんな条件で働いているのか。


2024/03/22 北陸医大教授との思い出 (3)

溜め込んでしまっていた残務も片付きつつあり、ようやく、心にゆとりがでてきたように思う。 ここ数年、とくに最近の二年ほどは、はなはだ精神的に余裕のない状況が続いており、これまでの人生の中で最も実りの少ない二年間だったように思う。 私が北陸医大を離れる、という話は、北陸医大 (仮) の他の診療科の人々にも伝わっているらしい。 教授陣を含めた幾人かの方々から、惜別のお言葉をいただいた。ありがたいことである。

臨床医学分野においては、学術的意義の乏しい論文が量産されている。 実験をするにしても、市販されている実験キットを使って、既に誰かが開発した手法をまねして、測定対象を少し変えて実験をすれば「新規性がある」として論文発表される。 基本的には、実験の手法は他人の真似をするだけなのだから、あまり頭を使わないし、難しくもない。ただ時間を割いて努力すれば、誰でもできる。

たとえば、ある臓器の癌について、浸潤能の高低を決める因子を模索することを考えたとしよう。 スクリーニング目的に、細胞内で発現している mRNA についてマイクロアレイで測定したとする。 ほんとうは、マイクロアレイの測定結果の評価に定まった方法というものは存在せず、たとえば規格化 (正規化) の方法一つとっても、「これが適切である」と一概にいえるものは存在しない。 個々の実験系に応じて、また研究者の個性によって、様々な解析方法が用いられるはずである。 ところが頭をカラッポにして研究する人々は、先行報告と同じように解析すればよい、と考え、その解析方法の理論的根拠などは考えない。 さらにいえば、実際には解析用ソフトウェアにデータを投入するだけなので、具体的に自分がどういう解析を行っているのかを理解していない。 論文には「このソフトウェアを使いました」と書けば済むので、解析内容を理解する必要はない、と考えているのである。 そうして「解析」した結果、候補となる遺伝子のリストが得られる。 その遺伝子リストを眺めつつ、各々の遺伝子についての先行報告を調べ、たとえば「他の臓器において浸潤能との相関が報告されている遺伝子」があったならば、 その遺伝子に注目するのである。 自分の実験結果から理論的評価によって遺伝子を選ぶのではなく、先行報告を基準として選ぶのだから、この時点で二番煎じであり、新規性は乏しいのだが、そう考えない人が多いらしい。

他人の真似をすることでしか論文を書けない教授というのは、残念ながら、稀ではないようである。 科学的議論も理論的考察もなしに、ただ真似をしているだけなのだから、議論ができない。 「そのやりかたは、おかしくありませんか」と、理由を述べて学生が意見を表明しても、「いや、これでいいのだ、皆がこうしているのだから、君もそうしなさい」などと、 実に科学的でない指導をすることしかできない。 それで、教授になれるのだ。 一体、北陸医大は、どういう基準で教授を選んでいるのか。北陸医大の医学教育が崩壊・腐敗しているのは、あなた方の責任である。

このように、先行報告に沿って、既存の手法を真似して実験するのだから、あまり難しい議論をすることなく、また難しい学問を修めていない学生や医師であっても、一応、論文を書ける。 研究とは、そういうものだ、と思っている医学部教員は少なくないようであるから、医学科の学生も、研究とはそういうものだ、と考えるようになる。 結果として「基本的には臨床医になるつもりだが、臨床だけでなく、ちょっと研究もしてみたい」などと、本職の基礎医学研究者が聞けば「研究をなめているのか」と激怒しそうなことを平然という学生も少なくない。

私が入った北陸医大の病理学教室は、そういう教授が、そういう学生を「指導」する場であった。 そうとわかっていれば、北陸医大になど、来なかった。


2024/02/21 北陸医大教授との思い出 (2)

教授との思い出といっても、キチンと時系列に沿っているわけもないし、整然と整理されているわけでもない。 思い出すままに、雑然と、しばらくは記載していくことにしよう。

細胞株、という言葉には明確な定義は存在しないようであるが、大抵「形質やゲノムが概ね均一な細胞集団」というような意味で使われることが多いように思われる。 同様に「細胞株を樹立する」という語も意味は曖昧であるが、「長期間にわたり形質を維持したまま培養可能な細胞株を得る」というような意味で使われることが多いのではないか。

私は北陸医大時代、ある癌細胞由来の細胞株に対して、詳細は伏せるが、ある種の浸潤アッセイのような操作を行うことによって「浸潤能が高い細胞株」を選び出し、 これと元の細胞株との間で遺伝子発現にどのような差があるかを調べる、という研究を行おうとしていた。 この「選び出された細胞株」を、以後、便宜上、「高浸潤株」と呼ぶことにしよう。 なお、これは我々の研究室で以前から同様の研究を継続していたものであって、いわば教授から与えられたテーマである。 教授から与えられたテーマで実験・研究するだけでは、世間一般の基準でいえば、博士を称するには値しない。 私は細胞を使った生物学実験については素人であったから、教授から与えられたテーマで研究を開始し、途中から独自性を発揮することで博士相当の研究に到達する目論見であった。

そもそも、形質が一様である (と思われている) 癌細胞株 (以下、親株と呼ぼう) に対して簡単なアッセイ操作を行うだけで、元の細胞株とは形質の異なる「高浸潤株」を選び出すことができる、ということ自体、興味深い話である。 これは、親株も実は形質が一様ではなく、浸潤能の高い細胞と低い細胞とが混在している、ということであろう。 この混在が、遺伝子の相違によるものであるのか、エピゲノム的な問題なのか、あるいは環境的な問題なのか、など、イロイロと議論の余地がある。 ここを巡ってもイロイロと思うところはあるのだが、デリケートな話になるので、これ以上は触れない。

「浸潤能」という語も曖昧であり、評価方法も定まっているとはいえない。 「浸潤アッセイ」と呼ばれる実験系は多数存在するが、大抵、細胞の浸潤と増殖とを明確に分離できていないため、評価には慎重を期す必要がある。 我々の研究室で従来採用していた「浸潤能の評価法」は、不思議なものであった。 一応、市販の実験キットを使っているのだが、販売元の推奨する方法とは異なるやり方で「浸潤能」を評価していたのである。 詳細はデリケートな話になるので省くが、その方法では浸潤よりも増殖の影響を強く反映してしまうのではないか、と思われた。 これについて、研究検討会で指摘したことがあるのだが、教授は「従来、これでやってきているのだから、これでよい」として、私の主張を気にも留めなかった。 ある学生は、このおかしな方法で「浸潤能」を評価したために、「細胞の浸潤能が分単位、時間単位で刻々と変化する」というような実験結果になってしまった。 常識的には、細胞の浸潤能がそのような短時間で変化するとは考えにくいのだが、そのような奇妙な実験結果でも、論文誌の査読を通過した。

私も、そのように、難しいことを考えずに査読を通すことだけ考えていれば容易に博士学位を取得できたであろう。 実際、そうしようかと思ったことも何度もあるのだが、結局、できなかった。 今から思えば、それができるぐらいなら、私は京都大学を辞めなかったであろう。

2024.02.01 追記

2024/02/10 北陸医大教授との思い出 (1)

現代では、大学等における研究成果は、査読つきの論文誌に投稿し発表することが一般的である。 質の高い論文誌は質の高い研究を厳選して掲載しているので、そうした質の高い論文誌に自分の書いたものが載ることは、たいへん名誉なことである。 また、そのような有名論文誌に何報の論文が掲載されたのか、といった指標を使うことで、研究者としての実績・業績を客観的に評価することができる。 論文誌の質の高低は、impact factor によって客観的に評価することができる。 すなわち、高い impact factor を与えられている Nature, Science, Cell、あるいは臨床医学でいえば The New England Journal of Medicine などは、質の高い論文誌であるといえる。

と、いうようなことを言う人が、特に医学の分野においては少なくないが、全く的外れである。 Impact factor を科学者の業績評価で使うべきではない、さらにいえば論文の価値を被引用数で評価すべきではない、 という点については 2017 年に述べたので、ここでは繰り返さない。 しかし現時点では、少なくとも北陸医大においては、impact factor などを指標とした業績評価が広く行われているようである。 教授選考の過程で具体的にどのような議論がなされているのかは知らぬ。しかし、 科学的・医学的な妥当性はともかく査読さえ通ればそれでよい、という程度の低水準な論文をたくさん書いた者が高く評価され、北陸医大では教授になることもできるのではないか。

北陸医大の大学院生として、私は、癌細胞の細胞株を用いて、浸潤能を規定する遺伝子を探索する、という研究をやりかけた。 やりかけはしたのだが、結局、私は学術研究と呼べる水準のことをできなかった。 私の側にも問題がなかったとまではいわぬが、教員側の指導能力、さらにいえば科学者としての研究遂行能力に、大いに問題があったと考えている。 当初私は、ある細胞株を元にして「浸潤性の高い細胞株」を作成し、元の細胞株との間でどのように遺伝子発現の差異があるのかを、RNA マイクロアレイを用いて検討する、という実験を行った。 この「浸潤性の高い細胞株」という表現にも問題があるのだが、それについては別の機会に述べよう。 RNA マイクロアレイというのは、RNA を含む検体に対し、どのような配列の塩基配列がどの程度含まれているのか、 おおまかにいえば、どの遺伝子の転写産物 (mRNA) がどの程度含まれているのかを、網羅的に測定する実験手法である。 これにより、元の細胞株に比して、高浸潤株で RNA 量が増加しているような遺伝子がみつかれば、その遺伝子が浸潤性を司っているのではないか、と推定できる、というわけである。 しかし RNA マイクロアレイというのは実験誤差が小さくない手法なので、一回の測定を行っただけでは、本当に意味のある結果を得ることは難しい。 何回かの測定を繰り返し、統計的に評価することで、はじめて「本当に発現増加していそうな遺伝子」を推定することができる。 この統計的な処理には、単に誤差を評価するということだけでなく、正規化 (あるいは規格化) と呼ばれるデータ処理も含まれるが、 具体的に「こうすれば良い」という画一的、一般的な手法が存在せず、どうするのがマシであるかという議論が何十年も続けられている。

医学研究者と称する者の中には、統計学や数学はもちろん、生物学もろくに修めていない者が少なくない。 そういう人々は、誤差の評価だとか、マイクロアレイのデータ解析だとかの重要性を、理解できない。 私は、誤差評価のために同一条件で何度か測定する必要があるのではないか、と教授に述べたのだが、 「我々の研究室では、これまで一回の測定で実験を進めてきたのだから、何回も同じ条件で測定する必要はない。皆と同じようにやりなさい。」と指示されるのみであった。 なぜ誤差評価が不要なのか、という説明が簡単にでもあるならば、納得するなり反論するなり対応できたが、「これまでそうだったのだから、同じようにやれ」では、どうしようもない。 せめて、学生の主張に耳を貸すだけの度量があればよかったのだが、一方的に指示するだけでは、議論もできない。 なお、そういう学術的な問題について相談できる相手は、少なくとも研究室内には一人もいなかった。 実験を始めてすぐに、私は頭を抱えた。

2024.02.10 誤記修正 (tRNA -> mRNA)

2024/02/09 日記再開

昨日、陸奥大学 (仮) 大学院博士課程入試の合格発表があった。 無事に合格したので、4 月からは陸奥大の大学院生となる。 週 1 回程度、非常勤で勤務する予定であるが、基本的には大学院生として 4 年間を過ごすことになる。 京都大学で 3 年間、北陸医大で 8 年間を博士課程学生として過ごしたが、結局、学位は取らずに現在に至る。 陸奥大で 4 年間の大学院生活を送る予定なので、結局、学位取得に 15 年間をかけることになる。 この部分だけみると、とんでもなく無能な学生のようにみえるかもしれないが、私は、そうは思わない。 むしろ、科学者としての誇りを守ったからこそ、学位を取得できなかったのである。 問題があるのは私の能力ではなく、現在の日本の教育システムである。

なぜ、大学院を二度も辞めることになったのか。そのあたりの事情を、明日から書いていくことにしよう。


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