2016/06/29 毎日が休日

北陸医大 (仮) の某若手教員が、以前、「我々の仕事は、毎日が休日のようなものだ」などと冗談半分に言っていた。 誤解のないよう補足すれば、その教員は、毎日、朝から晩まで熱心に仕事をしている人である。

私は未だ研修医の身分であるが、確かに、毎日が休日のようなものである。 だいたい朝から晩まで病院にいて、月 31 万円もの大金を受領しているわけであるが、何か病院の業務を支えているのか、 患者の利益に貢献しているのかというと、あまり仕事をしている実感はない。 もちろん、いわゆる病棟業務などを遂行しているには違いないのだが、業務という意味では私は指導医の足を引っぱっているだけで、役には立っていない。 指導医の監督下で私がやるより、指導医自身がやった方が、どう考えてもスムーズである。 つまり、私は主として自分の学識と技能を磨くために日々を過ごし、しかも給料までもらっているのだから、いわゆる給料泥棒である。「毎日が日曜日」状態ともいえる。

もちろん私は、こうした自身の日常に、何らの引け目も感じていない。 確かに、我々研修医は現在、北陸医大から一方的に扶養されているだけの状態である。 しかし、やがて立場は逆転し、我々こそが北陸医大を支え、北陸の医療を担うことになる。 細かいことをいえば、北陸から出ていく人も、逆に他所から北陸に来る人もいるだろうが、トータルでみれば、そうした人の出入りは無視できる。

何が言いたいかというと、焦る必要はない、ということである。 研修医に、労働力としての存在価値など、期待する方がおかしい。 我々は、五年後、十年後を見据えて、その時に世間に利益を還元できれば、それで充分なのである。 逆に、今、労働力として「貢献」していたとしても、十年後にマトモな医者になっていないようでは、それこそ世間に対する背信行為にあたる。


2016/06/28 菓子折

北陸医大 (仮) に就職して、私が驚き、閉口したのが、患者からの贈答品である。 患者の中には、受診時や退院時などに、医療スタッフに対して菓子折などを渡そうとする者がいる。 それを受け取ることを、北陸医大では、禁止していないのである。

あたりまえであるが、患者から物品を受けとることは倫理的によろしくない。 これについては 2 年前に書いた。 名古屋大学の場合、患者からの物品の受け取りは院内規則で明確に禁止されていたので、良識的な医師であれば 「規則で禁止されているので、お気持ちだけいただきます」と断れるから、問題は少なかった。 しかし北陸医大の場合、禁じられてはいないらしいので、礼法にのっとるならば、断りにくい。 特に研修医の場合、他の医師らとの関係上、受け取らざるを得ない状況が生じる。

どうにかならないか、と、いずれ機会をみつけて副病院長に話してみようとは思う。 しかし現実的には、患者からの物品受け取りを禁止することは難しかろう。 そういうことについては、北陸医大は、いささか時代遅れであると言わざるを得ない。

2016.06.28 誤字修正、わかりにくい点を修正
2016.06.28 少々、言葉が過ぎた点を自粛

2016/06/27 Area Under the Curve

薬理学の分野には、Area Under the concentration-time Curve, あるいは単に Area Under the Curve と呼ばれる概念がある。普通、AUC と略される。 これは、薬物を投与した後の血中濃度を縦軸、経過時間を横軸にとったグラフにおける、曲線の下の部分の面積、という意味である。 数学的にいえば、血中濃度の時間積分である。 薬物によっては、効果や副作用の出現頻度が AUC と強く相関することが知られている。 特に、腫瘍薬学や感染症学の分野では、AUC を強く意識して薬物の投与量を決定することが多い。 ただし、ふしぎなことに、臨床薬理学の名著である D. E. Golan et al., Principles of Pharmacology, 4th Ed. では、AUC の概念が紹介されていない。 一方、感染症学の聖典である J. E. Bennett et al., Mandell, Douglas, and Bennett's Principles and Practice of Infectious Diseases, 8th Ed. には キチンと記載されているので、「実は AUC というものを、よく知らない」という学生は、後でコッソリと読むと良い。

過日、日本婦人科腫瘍学会の「卵巣がん治療ガイドライン 2015 年版」の第 2 章を読んでいた際、 怒りが湧き起こった。 パクリタキセルとカルボプラチンを併用する TC 療法について、カルボプラチンの投与量として「AUC 5 〜 6」などと書かれていたのである。 単位は、どこに行ったのか。 さらに、無視できない有害事象が生じた場合の減量基準の表には、あたかも「AUC」という単位が存在するかのような記載がなされている。

最大限、好意的に考えれば「カルボプラチンの AUC は `min mg / mL' の単位で表現するのが常識である」という理由に基づき、 私的で一時的な文書において単位を省略するのは、著しく不適当であるものの、理解できないわけではない。 しかし、ガイドラインにおいて単位を省略するというのは、一体、どういう了見なのか。

AUC に基づいてカルボプラチンの投与量を調整するべきである、ということを唱えたのは、英国の A. H. Calvert (J. Clin. Oncol., 7, 1748-1756 (1989).) のようである。もちろん、Calvert は立派な人物であるし、J. Clin. Oncol. もキチンとした論文誌であるから、彼の報告には単位が完備されている。

薬理学を識っているなら、AUC の単位を省略するということが、どれだけ異常で、臨床的に危険なことが、容易に想像できるはずである。 こうしたガイドラインがまかり通っているのは、日本の多くの医師が薬理学を修めていないことの証左である。 と、思ったのだが、調べてみると、実は日本薬学会の和文論文誌にも AUC の単位を省略した不適切な論文が掲載されていた。 どうやら、この国では、医師だけでなく薬剤師も、薬理学を修めていないらしい。

Calvert は、周到な研究の成果として、それまで患者の体表面積に応じて慣習的に用いられていた 400 mg/m2 という投与量は不適切であり、 むしろ腎糸球体瀘過量に応じて投与量を決定すべきである、と主張した。 彼の意見は現在では広く認められているし、臨床的にも、そのようにされている。 しかし、いまだにカルボプラチンの添付文書には、通常は 1 回あたり 300-400 mg/m2、などと記載されている。 理由は知らぬ。

ところで、Calvert の報告は画期的であったが、問題がないわけではない。 彼の提案した式は

カルボプラチン投与量 = AUC x (糸球体瀘過量 + 25 mL/min)

というものである。これは、カルボプラチンの薬物動態を単一コンパートメントモデルで近似し、 腎外クリアランスが 25 mL/min で一定である、とするものである。 投与後 6-8 時間の間は単一コンパートメントモデルが良い近似を与える、ということは既に確認されているようなので、その点は妥当だといえよう。

問題は、「腎外クリアランス」の正体が未だに明らかにされていないことである。 もし、これが主に胆汁中への排泄であるならば、肝機能障害のある患者では 25 mL/min よりも小さな値を使わなければならない。 また、もし肺代謝の寄与が大きいのならば、間質性肺炎の患者では少し補正が必要になるだろう。 人種差や個人差が大きいかもしれない、という懸念もある。 現状として一律に Calvert の式を用いること自体はやむを得ないとしても、こうした危うさを含んだ近似であることを、我々は忘れてはならぬ。


2016/06/26 シリンジを用いた採血

海外の事情はよく知らぬが、少なくとも日本では、採血を行う際に、一度シリンジに血液を抜き取って、 それを採血管に分注する、という方法がとられることが稀ではないらしい。 この手法は、臨床病理, 63, 1397-1404 (2015). によれば、日本検査血液学会のコンセンサスとして認められているものらしい。

気になるのは、特に凝固系の測定を行う際には、シリンジ内で凝固因子が活性化してしまうために、測定結果に大きな誤差が生じるのではないか、という点である。 真空採血管を用いる採血法であれば、採血管内に抗凝固剤が添加されているために、そのような問題は生じにくい。 この点については、一応、速やかにシリンジから採血管に移せばよろしい、ということになっているらしい。 しかし「速やかに」とは、どの程度なのか。また、シリンジを使うことによって生じる誤差は、どの程度なのか。

どうやら、日本検査血液学会のコンセンサスについては 日本検査血液学会雑誌, 16(学術集会号), S144 (2015). に抄録が掲載されている。 これによると、どうやら、シリンジを使うことを認める根拠は「現に、そうやっている医療機関が多いから」ということのようである。

私が調べた限りでは、採血にシリンジを用いることによって生じる誤差について、キチンと評価した報告は存在しない。 理論的には、シリンジの使用は重大な誤差要因となる。 実際、臨床的には、同一患者の臨床経過において、プロトロンビン時間や活性化部分トロンボプラスチン時間などの測定値が説明不能な変動を示す例が存在する。 これが測定誤差によるものなのか、実際の凝固系の変動なのかは、わからない。 つまり、採血法の問題により、検査結果の適切な解釈が困難になっているのである。

最低限、シリンジ採血を行った場合には、その旨を確実にカルテ上に残し、結果の解釈にあたっては、それを参考にするべきである。 それが現実にはほとんど行われていない理由は、多くの医師が「測定誤差」という概念をよく理解していないためであろう。

なお、実は採血に使う機材の材質が測定結果に及ぼす影響はかなり大きいことが知られており、臨床検査医学界では、 より適切な材料の開発が進められてきた。この問題もなかなか面白いので、機会があれば、いずれ、この日記でも紹介することにしよう。


2016/06/25 子宮頸部扁平上皮癌の組織型について

たまには、すごくマニアックな医学の話を書くのも、良いのではないかと思う。 子宮頸癌の組織型についてである。

J. Rosai, Rosai and Ackerman's Surgical Pathology, 10th Ed. (2011). によれば、 子宮頸癌の多くは扁平上皮癌 (Squamous Cell Carcinoma; SCC) であって、だいたい 5-15 % ぐらいが腺癌 Adenocarcinoma であるという。 しかし、この扁平上皮癌というのがクセモノであって、これには幾種類かの variant が存在することが知られている。 そのうち、歴史的に大きな混乱が続いているのが Basaloid carcinoma などと呼ばれる組織型である。 このあたりの事情についてのレビューとしては、W. Grayson らによる Advances in Anatomic Pathology, 9, 290-300 (2002). が、よくまとまっている。

子宮頸部の basaloid carcinoma という概念については Johns Hopkins Hosp. Bull., 34, 141-149 (1923). で 基底細胞の癌化が理論上は存在する、と指摘したものが初出であるとされている。 なお、この文献は残念ながら北陸医大 (仮) の図書館には所蔵されていないようなので、現在、取り寄せを依頼中である。

Basaloid carcinoma という語が誕生した後に、子宮頸癌の比較的稀な組織型として Adenoid Basal Carcinoma (ABC) や Adenoid Cystic Carcinoma (ACC) が広く認められるようになった。 ABC というのは、皮膚の基底細胞癌に類似した組織学的パターンを示すものであって、腫瘍細胞は、辺縁に柵状配列を伴う小さな巣状の増生を示し、 典型的には間質の繊維化などの反応性変化が乏しい。 これに対し ACC というのは、基底細胞様の腫瘍細胞が増生する点は ABC に似るが、典型的には篩状構造の形成を特徴とする。 ただし、腺管構造があまり明瞭ではない亜型もあるため、中には ABC と ACC の区別が明瞭ではない例もある。 とはいえ、ABC は比較的予後が良いのに対し、ACC は予後不良であることが知られているので、両者の鑑別は臨床的に重要であるとされる。 ABC と ACC の本質的な違いは明らかではなく、ABC を ACC の前駆病変とみなす意見もあるらしい。

世間では、Basaloid Squamous Cell Carcinoma (BSCC) という分類も用いられるようであり、これは ACC と同様に予後不良な組織型であるとされている。 BSCC の症例として最初に報告されたのは Am. J. Surg. Pathol., 4, 235-239 (1980) であるが、 これは ABC を BSCC と呼び換えただけのものであったようである。 その後も、BSCC という分類だけは用いられ続けているが、その詳細な概念、特に ABC や ACC との異同については、明確な定義が確立されていないらしい。 そのため、Grayton のレビューでは、BSCC の予後が良いのか悪いのか、という問題については言及を避けている。

私が調べた限りでは、少なからぬ者が BSCC と ABC あるいは ACC との鑑別を議論しているものの、その概念上の本質的な差異について明言している者はいない。 結局、BSCC というのは、名前の通り「基底細胞様の扁平上皮癌」という程度のものでしかなく、分類上の独立した区分としては扱わないのが適切なのではないかと思われる。


2016/06/24 分類するということ

医師の中には「分類する」ということの重要性、あるいは本質を、よく理解しない者が多いようである。 私は、膠原病の分類を確立することをライフワークとしたい、と考えているのだが、その意味するところは、なかなか、伝わらないのである。

疾患を適切に分類する、ということは、その疾患の本質を捉える、ということと同義である。 たとえば、なぜ、肺扁平上皮癌と肺腺癌は別疾患として分類されるのか、を考えよう。 病理組織学の立場からいえば、扁平上皮細胞と腺細胞とは形態的にも機能的にも大きく異なるのだから、主として前者から成る癌を、主として後者から成る癌から区別する、 というのは自明な発想である。 また呼吸器内科学的観点からすれば、放射線感受性や抗癌化学療法感受性などの観点からいって、扁平上皮癌と腺癌とでは治療戦略が大きく異なるから、 やはり、これらは別疾患とみなした方が都合が良い。 しかし、こうした病理組織学的観点も、呼吸器内科学的観点も、いずれも、扁平上皮癌と腺癌とを別疾患とみなす根拠としては不充分である。

たとえば、胃の非腫瘍性ポリープのうち、いわゆる過形成性ポリープと胃底腺ポリープについて考えると、 これらは病理組織学的には異なる疾患として分類されるが、臨床的には、治療方針にも予後にも特に大きな違いは生じない。 これを、もし病理医が「組織学的に違うから」というだけの理由で別疾患に分類しようとするならば、「病理医は臨床を知らない」と馬鹿にされても仕方がない。 一方で、消化器内科医が「どうせ治療には変わりないのだから」という理由で両者の違いを無視するならば、「医学を知らない臨床医」と揶揄されても仕方あるまい。

「組織学的な形が違う」という所見は、「その背景にある疾患の成り立ちが違う」という事実を意味している。 それならば、両者に対する理想的な治療内容は、本当は異なっていると考えるのが自然である。 たとえば、ポリープを内視鏡的に切除するにしても、それが過形成性ポリープなのか胃底腺ポリープなのかで、理想的には、切除するべき範囲が異なるであろう。 もちろん、現代医学ではその「理想的な治療内容」は未知なのであるが、それは我々の研究が足りないだけのことであり、要するに、医者の怠慢に過ぎぬ。 本当に、患者に対して最高の医療を提供したい、理想的な治療をしたい、と思うならば、 どうして、過形成性ポリープと胃底腺ポリープの違いに無頓着でいられようか。 そうした理想を求める精神、疾患の本質を追究する野心こそが、両者を別疾患として分類する原動力なのである。 この事実を、名古屋大学の某病理学教授は「臨床が病理に追いついていない」と形容した。 これは、病理学の探求こそが明日の臨床医学の発展を導くのだ、という気概と誇りの込められた言葉である。

私が「膠原病を分類したい」と言っているのは、そういう意味である。


2016/06/23 大学で初期臨床研修を受けること

来る 7 月某日に、北陸医大 (仮) の 5 年生に対して、北陸医大附属病院における初期臨床研修についての説明会が行われる。 私は、光栄にも、そこで数分間ではあるが、話をするという任務を与えられた。 予定では、大学病院で研修を受けることの利点と、大学の中でも特に北陸医大が優れている点とを、述べるつもりである。 もちろん、どこかで聞いたような通り一遍のことを話してもつまらないから、少し普通とは違った切り口で攻めるつもりである。

大学病院の長所としては、文献が豊富であることや、学識豊かな教授陣が揃っていることも大きいのだが、 それが何如に恵まれたことであるかは、多くの学生には容易に理解できまい。 一般的な学生にも通じるであろう表現をするならば、大学病院における研修の長所は「もう一歩、深く」ということである。 臨床的な鑑別診断の行い方や、治療方針の決め方などを身につけるだけならば、確かに、市中病院の方が経験をたくさん積めて、良いかもしれぬ。 しかし、医師としてのキャリアの始まりだからこそ、性急に経験量を求める前に、しっかりとした基礎を、正確な医学的理解に基づいた学識を、修得するべきである。

問題は、これまで自然科学を学んでこなかった人々、基礎の重要性を知らない人々に対して、いかにして、それを伝えるか、ということである。 本当のことをいえば、理路整然とした論法で、懇々と語り合いたいのであるが、正直にいって、それが北陸医大の学生に通じるとは思えぬ。 とはいえ、虎の威を仮りたり、話術で煙に巻くのは、私のプライドが許さぬ。 いったい、どうしたものか。


2016/06/21 プロポフォール (2)

プロポフォールには、面白い話が、他にもたくさんある。 たとえば、プロポフォールが循環に与える影響についてである。

プロポフォールは、基本的には GABA 受容体刺激薬であるとされる。 これは、受容体の GABA に対する感受性を高めるだけでなく、受容体を直接刺激する作用をも持っているようなので、 ベンゾジアゼピン系薬剤よりも、むしろバルビツール酸に近いものであると考えてよかろう。 ただし、バルビツール酸とは異なり、NMDA 型グルタミン酸受容体の阻害や、イノシトール三リン酸を介するシグナル伝達を阻害など、 他の機序による鎮静効果も持っているらしい。

Miller によれば、プロポフォールは、動脈血圧、特に心室収縮期の動脈血圧を低下させるらしい。 昨年末に書いたように、この「血圧を低下させる」という表現は、生理学的観点からいって著しく不適切である。 なぜ、Miller ほどの名著が、このような曖昧で不正確な表現を用いているのかは、わからない。 とにかく、この「血圧低下」の正体について、Miller には次のように記されている。

The decrease in arterial blood pressure is associated with a decrease in cardiac output and cardiac index (± 15 %), stroke volume index (± 20 %), and systemic vascular resistance (15 % to 25 %).

心拍出量が「15 % 減る」というのなら理解できるが、「± 15 %」とは、いったい、どういう意味なのか。完全に気の抜けた記述であると、言わざるを得ない。 とにかく、何らかの機序により、プロポフォールは心臓や全身血管に対する、主として交感神経性の調節を低下させるようであり、 臨床所見としては血圧低下が認められる一方、心拍数は大きく変わらないらしい。

さて、問題は、プロポフォールの循環動態に対する作用が発現するまでの時間である。Miller は、次のように述べている。

The effect-site equilibration half-life of propofol is on the order of 2 to 3 minutes for the hypnotic effect and approximately 7 minutes for teh hemodynamic depressant effect. This implies that hemodynamic depression increases the few minutes after a patient has lost consciousness from an induction of anesthesia.

非常に語弊のある文章であるように思われる。 まず第一に、後半の文は `This implies that hemodynamic depression continues increasing until the few minutes after a patient has lost consciousness from an induction of anesthesia.' などとするべきであろう。 第二に、この Miller の記述の根拠は浜松医科大学の T. Kazama らの報告 (Anesthesiology, 90, 1517-1527 (1999).) であるが、 残念ながら、この報告は effect-site equilibration half life の測定としては信用できない。

Effect-site equilibrium というのは、主に麻酔科学で用いられる語である。 これは、薬物濃度が血中と標的臓器中との間で平衡に達することをいう。 一般の薬理学では、この平衡は瞬時に達成されるかのように近似されることが多いのだが、麻酔科学では、その時間差が臨床的に重要なのである。

Kazama らの報告では、プロポフォール投与後の血圧変化を測定し、「血圧と作用標的臓器内の濃度とが一対一に対応する」という仮定の下に、 グラフの傾きから the effect-site equilibration half-life を計算した。 しかし実際には血圧はプロポフォール濃度だけで決定されるわけではなく、代償性の神経性またはホルモン依存的な調節が存在すると考えられるから、 この Kazama らの仮定は、かなり怪しい。 だいたい、理論的観点からいって、プロポフォールは神経系の分布容積が非常に大きいため、現実には平衡が達成されない。 もちろん、Kazama らが調べたような「作用発現までの時間」は臨床的に重要なのではあるが、それを effect-site equilibirum と呼ぶのは不適切なのである。


2016/06/20 プロポフォール (1)

麻酔科学の話をしよう。 この日記では、3 年前の記事を除いては麻酔科学についてほとんど言及してこなかったが、これは私が麻酔に無関心だからではない。 単に、麻酔科学が非常に難解で、私の手が届かなかったからに過ぎない。 もちろん、今でも私は麻酔科学を理解したとはとても言えない素人なのだが、過日、プロポフォールについて勉強した際に面白い議論をみつけたので、紹介しておこう。

手術を見学したことのある医学科生であれば、プロポフォールの外観を、よく知っているであろう。 白濁した液体で、たぶん、シリンジポンプにセットされていたのではないかと思う。 学生は好奇心旺盛であるから、なぜプロポフォールは白濁しているのか、と疑問に思ったであろう。 ちょっとばかりデキる学生であれば、南山堂『TEXT 麻酔・蘇生学』改訂 4 版などをひもといて、プロポフォールについて調べたかもしれぬ。 この書物には、次のように記されている。

プロポフォールの原末は, 脂溶性が高く血液と混じらないため, 大豆オイルと卵リン脂質を原料とする水溶性の基剤で表面を覆い (ミセル化), 油性乳化剤 (エマルジョン) として静注できるように調剤されている.

つまり、乳化されているから、白いのである。 ここで勘の良い人は、もし、脂質に富むプロポフォール製剤内に細菌が混入すると、恐ろしいことになるのではないか、と考えるであろう。 この点について、薬理学の名著である D. E. Golan et al. `Principles of Pharmacology; The Pathophysiologic Basis of Drug Therapy, 4th Ed.' には

The intralipid preparation of propofol can rarely be a source of infection

とのみ簡潔に記されていて、理由には言及がない。 そこで麻酔科学の聖典ともいうべき R. D. Miller et al., `Miller's Anesthesia, 8th Ed.' をみると、 プロポフォール製剤には通常、EDTA が添加されているため、細菌が生存できないのだという。

ところで、Miller によれば、『TEXT 麻酔・蘇生学』にある「プロポフォールの原末は血液に混じらない」という記述は、事実に反するらしい。 プロポフォールは当初、1977 年にミセル化されていない状態で臨床的に使用され始めたのだが、アナフィラキシーを来す頻度が高いために、一時は使われなくなったという。 その後、ミセル化すればアナフィラキシーを回避できることが発見され、1986 年に再び、臨床の舞台に登場したらしい。 混じるか混じらないかということだけでいえば、原末も、血液に混じるのである。

ついでにいえば、『TEXT 麻酔・蘇生学』には「(プロポフォールの)大部分は肝臓で速やかにグルクロン酸抱合や硫酸抱合を受け(て代謝される)」と書かれているが、 Miller によれば、この記述も怪しい。 肝臓の血流は、J. E. Hall `Guyton and Hall Textbook of Medical Physiology, 13th Ed.' によれば 1350 mL/min 程度である。 これに対しプロポフォールのクリアランスは 1500 mL/min 程度であり、肝血流より多いのである。 仮に肝臓に流れ込んだプロポフォールが全て余さず代謝されるとしても、足りない、ということになる。 実際、Miller によれば、プロポフォールの少なからぬ部分は、腎臓や肺で代謝されると推定されている。

さて、プロポフォールは、第一には麻酔薬として使われるのだが、脳虚血に際して、いわゆる脳保護薬として使われることもある。 つまり、中枢神経系の活動を抑えることで酸素需要を低下させ、細胞傷害を軽減する、というのである。 ただし、これについては異論もある。岐阜薬科大学の Y. Kotani らの報告 (J. Cerebral Blood Flow and Metabolism, 28, 354-366 (2008).) では、いわゆる脳保護作用はプロポフォールよりも、むしろ添加物である EDTA に依るのではないか、と示唆されている。 この報告を Miller は、あまり大きくは取り上げていないのだが、無視はせず「議論がある」とだけ言及している。

このように、我々は、とても身近にあるプロポフォールのことすら、全然、知らないのである。


2016/06/19 病理医の孤独

孤独ということでいえば、病理医も、臨床的には難しい立場にある。

そもそも、なぜ、病理診断が必要なのか。 現在は臨床検査技術の発展により、病理組織学的検索を行わなくても、だいたい 8 割か 9 割ぐらいは、正しい診断を得ることができる、と言われている。 が、高々 9 割なのであって、臨床所見だけでは、どうしても 1 割は誤診するのである。 この 1 割の重みが、多くの学生や研修医といった若手には、なかなか、伝わらないらしい。

「9 割方、正しい」という程度の診断で、手術を行うことができるのか。 心ある臨床医ならば、残りの 1 割を恐れ、取り返しのつかない損害を患者に与えることを恐れ、それ故に確かな診断を求めて、病理診断を要求するのである。

換言すれば、「その 1 割の誤診について、責任を取れるのか」という問題である。 医学を修めていない医師は「誤診は避けられない。だから、その 1 割は私の責任ではない。」などと弁明を試みるようである。 これが、上気道炎を肺炎と誤診して過剰な投薬を行った、という程度の話なら、あるいは許されるかもしれぬ。 しかし、たとえば良性腫瘍を悪性と誤診したために、本来は不必要な膵頭十二指腸切除を受けた、というような話になると、これは許されるものではない。 そうした事態を防ぐために、病理医が存在するのである。 病理診断によって「これは、間違いなく良性である」と断言することは不可能ではないものの容易ではないが、「これは、間違いなく悪性である」という診断は可能である。 「9 割方、悪性である」を「100 %、悪性である」に押し上げる 1 割は、大きい。

問題は、生検に基づく病理診断で「悪性とはいえない」と判断された場合である。 学生や若い医師の中には、臨床所見では悪性だし、生検で検体を採取した部位が不適切であったのだろうから、という考えに基づいて、 病理診断結果を無視して悪性とみなした治療を敢行することを支持する者がいる。 一見、合理的な「臨床的判断」にみえるかもしれないが、診断学を修めた者であれば、そのような判断は、絶対に、しない。

もし臨床所見を根拠に病理診断結果を無視しても良いのであれば、はじめから、生検を行うべきではないのである。 生検をするためには、少しとはいえ患者の体を傷つけ、しかも診断結果が出るまで 1 週間程度、患者を待たせる必要がある。 そうまでして行った生検が、実際には治療方針を左右しないのであれば、そもそも生検を行うことが不適切だということになる。 従って、こういう場合、生検を再度行うか、あるいは、治療を先延ばしすることができないならば、術中迅速診断によって判定を行わねばならない。 いずれも行うことができないのであれば、はじめから、生検してはならないのである。

こうした診断学の基本を理解していない医師ほど、「病理医は患者をみないから」などと言って、病理診断を軽んじるのである。 言うまでもなく、そうした誤った考えを正し、患者の利益を守ることこそが、病理医の使命である。 しかし残念ながら、現在の日本の医療現場では、病理診断の存在意義についてよく理解している医師が少ないために、 病理医は周囲からの理解を得られず、孤独な戦いを強いられている。 また、周囲と争うことを避けるあまりに、本来の使命を放棄してしまった病理医も、遺憾ながら、稀ではないようである。


2016/06/18 教授の孤独

私のような若輩者が教授の苦悩を推し量るなどというのは、礼法の観点からいえば、不遜にあたる。 が、共に医学の未来を憂い、医療の理想を巡り苦悩する同志であることを思えば、僭越とまではいえまい。

何の話かというと、教授という立場の孤独についてである。 名古屋大学にせよ北陸医大 (仮) にせよ、教授になるような人物は、まず例外なく、医学をキチンと修めてきた人々である。 これに対して学生、研修医、あるいは若手医師の多くは、思考停止して、ただ与えられた医療知識を暗記し、実施することが医療であると勘違いしている。 やり方を覚え、手技を身につけることこそが重要であると考え、「なぜ」などと問いを発することは、単なる余興、無用の長物であるとみなされる。 もちろん、大抵の教授は、それではいけない、キチンと医学を修めなければならない、と繰り返し説諭しているのだが、その言葉は、若者には届かない。 学問とは、問うことから始まるのだ、という事実を認識していないのである。

もちろん、世の中には、医学を識る医師も存在する。 たとえば私の名古屋大学時代の同級生でいえば、私以外に少なくとも 4 人は医学を修めた者がいた。 北陸医大の研修医でも、私以外に少なくとも 2 人は医学に関心を持っている。 そのように、存在はするのだが、数が圧倒的に少ない。 多くの医師は、ただ与えられた医療知識を覚え、教えられた手技を実施することこそが医療なのであり、そこに医学は必要ないのだと考えているらしい。

要するに、視野が狭いのである。 与えられたこと、教えられたことの範疇から脱することができず、新しいものを作ろうという意欲がなく、自身が世界の最先端を歩くのだという野心がない。 たかが名古屋大学やら北陸医大やらの教授が発しただけの言葉を、まるで金科玉条のごとく重視して、それに批判を加えるだけの見識も胆力も持たない者も稀ではない。

医学界は、そのような慢性的人材難にあるのだから、当然、医学を修めた医師は各地に散って、それぞれが組織の長として、医学を識らない周囲の医師を牽引していくことになる。 そうした教授の孤独が、近頃、ようやく私にもみえるようになってきた。

私は、自分が理想的な研修医像を体現しているとまでは思わない。 だいたい、臨床手技についていえば全国の研修医で下から 5 % ぐらいには入るだろうから、臨床労働力としては、ほぼ戦力外である。 しかし、使い方によっては、教授陣にとって有益な研修医ではあるだろう。 できれば巧く使ってもらいたいものであるが、その意は、容易には指導医に通じない。

2016.06.20 誤って削除されていた一行を復元した。

2016/06/17 パクリタキセルの謎

きっかけは、パクリタキセル・カルボプラチン併用抗癌化学療法 (TC 療法) を受けている患者に生じた大球性貧血であった。 私は、こうした化学療法による骨髄抑制の結果として大球性貧血が生じるという話を知らなかったのだが、Clin. Epiedmiology, 8, 61-71 (2016). の報告によれば、TC 療法では特に貧血を来す頻度が高く、しかも大球性の傾向を呈することが多いらしい。 そこで私は北陸医大 (仮) の研修医室で同期の某君をつかまえて、興奮しながら「TC 療法の副作用として大球性貧血を来すらしいよ」と話したのだが、それを聞いた別の研修医の某君は「抗癌剤による骨髄抑制で大球性貧血を来すことは、血液内科では常識ですよ」と教えてくれた。 これに対し私は「なに、それは一体、どういう機序なのだ。いや、そもそも、パクリタキセルはどの段階で細胞障害を来すのだろうか。」などと騒ぎ始めた。

パクリタキセルという薬物は、教科書的には、微小管の脱重合阻害薬であるとされている。 `Williams Hematology 9th Ed.' をはじめとして、大抵の教科書では、その抗癌剤としての作用機序を「細胞分裂の M 期において核分裂ができなくなる」というように説明をしている。 しかし、これは、おかしい。 パクリタキセルの副作用としての貧血の原因が、細胞分裂 M 期で停止することであるとは考えにくい。なぜならば、M 期で停止するのならば核分裂だけでなく転写も阻害されるはずであるから、巨赤芽球が生じることもなく、大球性貧血も来さないはずだからである。 そもそも、本当に細胞分裂が停止するなら、分化も止まり、赤血球自体が産生されなくなるはずでもある。 従って、少なくとも貧血については、細胞分裂の停止以外の機序によるはずなのである。

そこで上述の `Williams Hematology 9th Ed.' を調べてみると、「細胞分裂が止まるからアポトーシスする」という説明の根拠として引用されているのは New Eng. J. Med, 332, 1004-1014 (1995). であり、これはパクリタキセルについてのレビューである。 このレビューには、パクリタキセルが細胞を G2 期や M 期で停止させる、とは書かれているが、これが抗癌剤としての作用機序であるとまでは述べられていない。 Williams ほどの名著でさえ、こうしたいい加減な引用をしているということは、実際のところ、パクリタキセルの抗癌活性の由来について キチンと調べた人はいないのではないかと思われる。

パクリタキセルの作用機序について疑問を投げかける面白いレビューとしては Neuropharmacology, 76, 175-183 (2014). が挙げられる。 これは、パクリタキセルの副作用として高頻度に生じる末梢神経障害について、その機序を論じたものである。 このレビューでは、末梢神経障害の機序と抗癌活性の機序とは異なる可能性がある、と指摘し、その違いを詳らかにできれば、有害事象を回避しつつ高用量の抗癌化学療法を実現することが可能になるであろう、と予言されている。 どうやらパクリタキセルの細胞毒性の機序としては、通俗的な教科書に記載されている説以外に、bcl2 を介して、あるいは微小管機能障害を介して、ミトコンドリア機能障害を生じせしめてアポトーシスを誘導するのではないか、とする意見があるらしい。 また、Williams では、パクリタキセルは p53 非依存的な細胞死をもたらす、とされているが、Gynecologic Oncology, 138, 159-164 (2015). では、パクリタキセルの細胞毒性は p53 依存的であることが示唆されている。 このように、パクリタキセルの作用機序については、謎が多い。

私の想像では、パクリタキセルは臨床的な投与量においては、細胞の転写・翻訳は基本的に抑制しないままに、細胞周期の進行だけを遅延させるのではないかと思われる。 それであれば、ビタミン B12 や葉酸欠乏の場合と同様に、巨赤芽球性貧血が生じることを合理的に説明できる。 もちろん、これでは癌細胞にアポトーシスを誘導することはない。 しかし癌細胞の増殖を抑えることはできるから、宿主の免疫に依存する形で、癌細胞を死なせることができるのである。

2016.06.18 語句修正

2016/06/13 北陸医大の未来について

かつて名大時代の同級生で友人の A 君らが指摘したように、北陸医大 (仮) における教育等の水準は、現時点において、名古屋大学より高いとは言い難い。 それは、悔しいが、認めざるを得ない。

初期臨床研修が始まってまだ二ヶ月半にも満たないが、本当のことを言えば、既に、嫌になって、逃げたいという気持ちが少しばかり生じている。 さすがに初期研修の途中で逃亡することはないにせよ、二年間だけを過ごした後に他大学に移る、という考えが脳裏をよぎったのも事実である。 実際、私個人のことだけでいえば、北陸医大に来るより、名古屋に残るか、東京や京都に帰るかした方が、有益であっただろう。

あまり明確に書いたことはなかったかもしれないが、私が北陸医大に来たのは、微力ながら、北陸医大の助けになりたいと思ったからである。 5 年前に北陸医大で受けた厚情を私は忘れていないし、このような大学が世間から評価されずに廃れることがあってはならぬ、と思い、 許されるならば北陸に骨を埋めるつもりで来たのである。 しかし、まだ具体的には書けないが、いくら何でも、あんまりなのではないか、と思う点がないわけではない。 自分の選択を後悔しているわけではないが、こうした現状を初めから知っていたら、たぶん、私は北陸医大には来なかったと思う。

しかし、そうした北陸医大にあっても、理想を抱き、改革を目指して悪戦苦闘している人々、まだ諦めていない人々が、少数ながら存在する。 その人々のことを思えば、やはり、私にふさわしい居場所は、ここなのであろう。


2016/06/12 いわゆる Guillan-Barre 症候群について

私は学生時代、神経内科学は大の苦手であった。教科書を読んでも、疾患概念も、病理学的実体も掴めなかったからである。 たとえば、Guillan-Barre 症候群、と呼ばれる疾病がある。 末梢神経障害による運動麻痺が主体であるとか、C. jejuni への先行感染が高頻度にみられるとか、いくらかの特徴はあるものの、 何だか、よくわからない。

神経内科学の教科書で学生にとって読みやすい教科書といえば、神田隆『医学生・研修医のための神経内科学 改訂 2 版』であろう。 平易な言葉で要点だけをまとめており、ページ数は 614 ページと多いものの行間が広く図が豊富なので、文字数は比較的少なく、スラスラと読める。 体言止めが多いことや、「覚えておくべき」というような記述が多い点には閉口するが、病理学的側面にも多少ながら言及されており、神経内科学の入門書としては悪くない。 とはいえ、あくまで入門書なので、神経内科学に関心のある学生や研修医を満足させるような書物ではない。 なお、神経科学の入門書としては MEDSi 『カンデル神経科学』がお勧めである。 現時点では、これは原書の最新版である第 5 版の日本語訳が、原書と同じくらいの値段 (15,000 円程度) で出版されている。 タイトルから何となく高度に専門的な教科書であると私は思い込んでいたのだが、実はこれは神経科学の入門書なので、医学科低学年向けである。 研修医になってから、神経内科学や神経病理学の成書として、私は `Bradley's Neurology in Clinical Practice 7th Ed.' を購入した。 しかし、この書物の記述は、かなり臨床寄りであり、神経内科医になろうとする者以外にはあまり適さない教科書であるように思われる。 昨年紹介した `Greenfield's Neuropathology 9th Ed.' の方が病理学的記載に富んでいて、 私のような一般の研修医には良いかもしれぬ。

さて、標題の Guillan-Barre 症候群である。 Bradley によれば、これは歴史的経緯から一つの症候群としてまとめられているが、病理学的には、 感染等を契機とする自己免疫性末梢神経障害を来す疾患の総称と考えるべきである。 比較的頻度の高いものだけでも、Guillan-Barre 症候群に分類される Acute Inflammatory Demyelinating Polyradiculoneuropathy (AIDP)、 Acute Motor Axonal Neuropathy (AMAN)、Acute Motor Sensory Axonal Neuropathy (AMSAN)、 Miller Fisher Syndrome (MFS) は別疾患と考えるべきである。

簡潔に述べれば、AIDP は髄鞘抗原に対する自己免疫性の傷害による脱髄を主体とする末梢神経疾患であって、軸索障害を来す場合は、あくまで炎症の波及によると考えられる。 これに対し AMAN は抗 GM1 抗体が関係するらしく、基本的にはランビエ絞輪において軸索傷害を来す。 AMAN は、抗原が軸索に存在する点だけでなく、軸索が非炎症性の変性を来す点において AIDP とは異なるらしい。 Bradley によれば、AMSAN は AMAN と基本的に同一の機序によるが軸索傷害の程度が著しく、感覚神経にも障害が及んでいるものであると考えられる。 ただし、この説明は、いささか疑わしいと私は思う。その障害の程度を決める、何か別の要因が存在すると考えた方が自然であり、あくまで別疾患とみるべきであろう。 MFS は、動眼神経などに存在する GQ1b などのガングリオシドに対する自己免疫性の機序によるものであると考えられており、基本的に予後良好であるが、 稀に MRI で視神経に異常がみられることもあるらしく、病態はいまひとつ、よくわからない。

こうした末梢神経障害に対する理解があまり進んでいない原因の一つは、患者の体内で何が起こっているのかを知る臨床的に有効な手段が乏しい、ということである。 神経学的診察や電気生理学的検査では、あくまで巨視的なことしかわからないし、生検は侵襲が強すぎて実用的ではない。 病理解剖は患者の終末像しか語ってくれないので、疾患の時間的進行について得られる情報が限られる。 従って、放射線等の比較的低侵襲な方法を用いて神経の組織学的変化を可視化する手段を開発する必要がある。


2016/06/11 和することと同すること

「和して同ぜず」という表現がある。これは、一般には『論語』子路篇にある「子曰君子和而不同小人同而不和」という記述に由来するものとされている。 書き下すと「子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」となる。 ここで現代日本人にとってわかりにくいのは「同」と「和」の意味の違いである。 通俗的には、「『和』とは相手とよく調和することであり、『同』とは表面的に同調することである」というような説明がなされるが、これだけでは違いがよくわからない。

この和と同ということについては、宮城谷昌光が小説『晏子』の中で簡明に述べている。 宮城谷氏は古典、たぶん『晏子春秋』か何かに基づいてこれを書いたのであろうが、私は漢文学者ではないから、あまり詳しいことは知らない。 『晏子』の記述によれば、「和する」とは、羹の如きものであるという。羹とは、スープのことである。 スープは、もちろん、水を火にかけることで作られる。水と火とは相反するものであるが、それらが組み合わさることで、美味な羹となる。 これに対し「同ずる」とは、水に水を加えるようなものをいうのであって、確かによく混じり合うが、何ら美味なものを生み出さない。

さて、近頃の世相、特に医学部教育の場においては、和することの重要性が忘れられているように思われる。 ガイドラインや教科書に沿った、決められた手順を覚え、身につけることが、デキる学生、優秀な研修医の証であるかのように言われているのではないか。 また、「調和を尊ぶ」と称して、他人を批判せず、否定せず、同ずることが良いことであるとみなされる風潮があるのではないか。

批判するということは、自己の意見に同調するよう他人に要求することを意味するのではない。 火にかけられた水は、その影響によって温度が高まることはあっても、あくまで、水であり続ける。もし、水が火に転じてしまえば、それは和したのではなく、同じたのである。 私は、この日記で散々に悪口を書き、批判を述べているが、他人が私に同ずることを望んではいない。 もし皆が私のようになれば、医療は間違いなく崩壊するからである。

和するためには、自分で考える能力が必要であって、考えるためには基礎的学識が必要である。 それを身につけるために、いわゆる一般教養や基礎医学の講義があるのだが、残念ながら、多くの大学では、それらが正常に機能していないようである。 本来であれば、そのあたりのカリキュラムや大学入試のあり方を改善することが重要なのであるが、それは現在の私の立場で関与できることではない。

そこで、北陸医大 (仮) の学生や若手医師を対象に、議論をするための自主勉強会の開催を試みている。 また、これとは別件に、生化学、生理学、薬理学、病理学のキチンとした教科書をじっくり読む輪読会も、夏頃から開きたいと考えている。 これらの試みが根付くための土壌が、北陸医大にはあると信じている。


2016/06/04 Maggot Debridement Therapy

Maggot Debridement Therapy (MDT) と呼ばれる治療法がある。日本語では「ウジ虫療法」などと呼ばれるようである。 これは、皮膚潰瘍に対してウジ虫 (maggot) を放つことで治癒を速める、という治療法である。 これだけ聞くと、なんだか医学的でない、インチキ療法のように感じられるかもしれないが、それなりに学術的根拠のある治療法であって、 欧米ではそれなりに支持者がいるらしい。

この治療法についての良いレビューを私は知らないが、J. Antimicrob. Chemother., 65, 1646-1654 (2010). あたりが参考になる。 おおまかにいえば、maggot が壊死組織を食べることで debridement の効果があることに加え、 maggot の分泌物には殺菌作用があるらしく、両者が併さることで創傷治癒が早まるのだ、と考えられている。

ただし、この治療法は、いささか眉唾ものである。 BMJ, 338, b773 (2009). によれば、MDT は創部の湿潤を保つだけの治療に比べると、創部の外観は早くキレイになるが、 創部が完全に治癒するまでの時間は変わらない、という。 また、副作用として創部の痛みを来す頻度は高いらしい。 痛い、ということは、たぶん、maggot が正常組織をも食べているのであろう。 創部が早くキレイになるにもかかわらず治癒が遅い、というのも、maggot によって正常組織が傷つけられているからだと考えられる。 さらに、J. Tissue Viability, 18, 80-87 (2009). によれば、maggot の分泌物には殺菌作用があるものの、 maggot 自体は細菌の増殖を促すのではないか、と考えられる。

このように、現時点では MDT の有効性は、はなはだ疑わしい。 しかし、正常組織をあまり食べないように、あるいは細菌の増殖を促さないように、適切な品種改良を行った上でならば、 MDT は細菌感染症に対する強力な治療法になる可能性を秘めている。 特に、近年は多剤耐性を含めた抗菌薬耐性を持つ細菌が増加していることを考えると、こうした全く新しい治療法を医学の枠組みに取り入れていくことは重要であろう。


2016/06/03 この病院の診療体制は……

学生時代の私の認識では、名古屋大学医学部附属病院の診療の質は、低かった。 この「低い」というのは、「他の病院に比べて低い」とか「標準的な医療に比べて低い」という意味ではなく、「理想的な、あるべき姿の医療に比べて低い」という意味であって、「世間が天下の名古屋大学に期待すべき医療水準に達していない」と言い換えても良い。 そこで私は、カルテ室で「この病院の診療体制は、一体、どうなっているんだ」などと憤慨し、近くにいる学生を捕まえては、カルテの内容に対する医学的見地からの批判を述べて困惑させる、ということを繰り返していた。 そうした指導医に対する悪口を聞かされる学生はたまったものではなかっただろうが、それでも、ニヤニヤしながら私を見守ってくれる同級生は多かったのだから、名古屋大学の学生の質は、なかなかのものであったといえる。

敢えて詳細には記さないが、残念ながら我が北陸医大 (仮) では、いささか時代遅れというか、標準に満たないとまでは言わないものの最適とは言いがたい内容の医療行為が、名大病院よりも少しだけ高い頻度で実施されているように思われる。 もちろん、そうした点は、これから我々が正していくのであるが、どうも私は、あまり同志に恵まれていないように思われる。 「指導医の先生がそうおっしゃっているのだから、良いではないか」とか「(キチンとした理由はないけど) そういうものでしょ」とか、あるいは「別にトラブルになっているわけじゃないんだから、どうでもいいじゃないの」「文句があるならお前がやれよ」というような発想が、学生や研修医の間では蔓延しているように感じられる。 責任意識が希薄であり、医師としての誇りが欠如していると、言わざるを得ない。

無理もないことではある。 彼らは学生時代に、医学的思考や医学的議論を学ぶ機会に恵まれなかったのであろう。 だからこそ、私のような「外様」に存在意義がある。 私は、北陸医大の外どころが、そもそも医学の世界の外からやってきたエイリアンなのであって、北陸医大の偏った常識などには、断じて縛られぬ。 指導医から疎まれることも、怖くない。 最悪、私が憎まれて北陸医大から追放されることになったとしても、それで不利益を蒙るのは北陸医大の方であって、私ではない。 もとより北陸に地縁血縁があるわけでもないのだから、私は、ただ別の大学に逃亡すれば済むだけのことなのである。

偏狭な医学界の中では私が異端であるようにみえたとしても、世間からみれば実は私の方が常識的で多数派であることを、私はよく知っている。


2016/06/02 便潜血

便潜血検査、というものがある。 これは、名前のとおり、便中に潜血があるかどうかを調べるものである。 潜血とは、「肉眼的には明らかではないが、血液が含まれている状態」のことをいう。 潜血検査には化学法と免疫法があり、化学法は食肉などに含まれる血液成分に反応することがあり、特異度が低い。 一方、抗ヒトヘモグロビン抗体などを用いる免疫法は、変性した血液成分には反応しないことがあり、従って上部消化管出血に対しては感度が低いという問題がある。

さて、便潜血検査は、便を採取せねばならぬという心理的負担はあるものの、患者への肉体的負荷は軽い検査である。 臨床的には、消化管出血を疑った場合に実施されることが多いようだが、実際には、使いどころが難しい。 というのも、便潜血検査は、消化管出血に対する感度はあまり高くないし、特異度も低い。 一回だけの検査で陰性でも、もう一度検査したら陽性になった、ということは稀ではない。 また検査で陽性であったが、精査目的で大腸内視鏡検査をやっても出血はみあたらなかった、ということも多い。

以上のことからわかるように、たとえば軽度の貧血患者に対する原因検索目的で安易に便潜血検査を実施することには、慎重にならねばならない。 もし便潜血陽性となったなら、精査として大腸内視鏡検査をやらねばならないからである。 それをやらないなら、便潜血検査を実施する意味がない。 しかし大腸内視鏡検査は、費用や患者の肉体的・精神的苦痛に加えて、検査による腸管穿孔のリスクもあるので、その実施判断には慎重にならざるを得ない。 それらを踏まえた上で「仮に潜血検査陽性でも内視鏡検査はいらないよね」と思うような軽症患者は、便潜血検査の対象にはならないのである。

たとえば、急性胆嚢炎で入院した 33 歳の男性患者において、入院時点では 15.3 g/dL であったヘモグロビン濃度が二日間で 14.0 g/dL まで下がったとする。 ここで「14.0 g/dL なら十分高いし基準範囲内だから、精査は必要ない」などというのは論外であって、医師としての資質を欠くと言わざるを得ない。基準範囲内かどうかは、この場合、問題ではないのである。 「炎症に伴う凝固亢進によって赤血球が失われたとして矛盾はないから、経過観察する」というのなら、まぁ、普通の医師であろう。 これに対して、それなりに勉強した研修医であれば「出血ないし溶血を疑う。精査を要する。」ぐらいのことを言うであろう。問題は、どこまでやるか、ということである。

これは正解のある問題ではないが、私としては、便潜血検査を実施するのは不適当であると思う。 もちろん、患者が高齢者で、大腸癌の可能性を懸念しているのであれば別であるが、この場合、消化管出血を強く疑う根拠はない。この患者に対して大腸内視鏡検査を実施するのはやり過ぎであり、従って便潜血検査の実施も不適当であるように思われる。 このタイミングで行うなら、直接クームス試験とハプトグロビン測定、ぐらいが妥当な線ではないだろうか。網赤血球数の測定は、もう少しだけ遅らせたほうが感度が高まるのではないかと思われる。


2016/05/28 教科書

私は、医学科 5 年生後半ぐらいから、英語の教科書に手を出すようになった。 というより、その頃になって、ようやく、医学の基礎的な学識がある程度整い、英語の教科書を読めるようになってきた、というのが正しいだろう。

残念ながら、日本語で読める医学の教科書には、名著が少ない。 だいたい、試験対策のアンチョコ本や、「臨床で明日から役立つ」と称した軽薄で中身の乏しい書物が多いのである。 中には、清水宏『あたらしい皮膚科学』第 2 版や、切替一郎『新耳鼻咽喉科学』改訂 11 版などといったキチンとした内容の教科書もあるのだが、だいたい学生向けであり、踏み込んだ専門的な内容は記載されていない。 本当に専門的な書物となると、英語しかないのである。

そこで私は、医学の専門的な書物を蒐集し、蓄えている。 その費用は、学生時代にはスポンサーからの資金に頼っていたが、研修医になってからは、給与額面の 20 % 弱を投入することにしている。 すると、だいたい、月に 1 冊か 2 冊の専門書を購入するぐらいのペースになる。 なお、世の中にはUpToDateという有名なオンライン教科書もあるが、これは臨床医療に特化した「立派なアンチョコ本」であって、学術的な内容は乏しい。

言うまでもないことだが、私は、これらの書物を蓄えるばかりで、あまり読んでいない。読めるわけがない。 だいたい、何か疑問が出てきた時に、辞書のように使って調べるだけである。 本当は、最初のページから最後のページまで通して読むべきなのだが、さすがに、時間と気力が足りない。 全部をキチンと読もうと思ったら、一日のうち 12 時間を読書に費やしても足りないであろう。

それでも、こうした書物を買って手の届くところに置いておくことには、意義がある。 わからないことがあった時に、アンチョコ本やインターネットで簡単に調べてわかったフリをするよりは、こうした教科書の関連ページを読んだ方が、より理解は深まるからである。 なお、こうした専門書は多数の著者による共同執筆であることが多く、結果的に、各章の内容が独立し、全体を通したストーリーは乏しい。 これは通読する際には大きな欠点となるが、辞書的に使っても断章取義になる恐れが少ないという安心感にはつながっている。

もちろん、臨床で直ちに役立つ知識を得るには、こうした本は非常に効率が悪い。 しかし、そこで効率を求めた医者が将来、どのようになるのか、私は知らぬ。


2016/05/27 カルバペネム

抗菌薬とは、直接または間接的に細菌を死滅させる薬品をいう。 人類の歴史において最初に発見された抗菌薬はペニシリン G であり、これを巡るフレミングの逸話は有名である。 ペニシリン G の誘導体や類似体を総称してペニシリン系抗菌薬と呼ぶが、これは構造的にはβラクタム環を有することが特徴である。 同じくβラクタム環を持つが、いささか構造の異なる抗菌薬としてはセフェム系やカルバペネム系がある。 特にカルバペネム系抗菌薬は、スペクトラムが広い、つまり多くの種類の細菌に対して有効であるから、原因菌が不明な細菌感染症に対して濫用されやすい。 確かに、とりあえずカルバペネムを使っておけば、その眼前の患者を救命することは、比較的容易である。しかし、濫用によってカルバペネム耐性菌の出現を促せば、将来の別の患者を死なせることになる。 従って、必要最低限の場合に限ってカルバペネム系抗菌薬を使うことが重要であるとされている。

さて、カルバペネム系抗菌薬のうち、最初に開発されたのはイミペネムである。 この抗菌薬の有名な副作用としては、中枢神経毒性や腎毒性がある。 この副作用を軽減することなどを目的に開発されたのがメロペネムであって、今日では、カルバペネム系抗菌薬の代表はメロペネムである、と認識している医師が多いのではないかと思われる。 過日、某製薬会社の MR から「メロペネムは側鎖が弱塩基性であるために、中枢神経系毒性や腎毒性が少ない」という話を聴いた。 私は、側鎖が弱塩基性であることと副作用との関係がわからなかったので、詳しい話を教えてくれるよう、その MR に依頼した。 その MR 氏は、丁寧にも参考文献を教えてくれたので、それを通じて私が理解した範囲のことを、ここに書いておくことにしよう。

イミペネムによる中枢神経系毒性と腎毒性は、機序が全く異なる。 どうやら中枢神経毒性は、βラクタム環の COOH 基と強塩基性側鎖とが組み合わさることによって生じるらしい。 というのも、両者が並存すると GABA 受容体との親和性が高まり、アンタゴニストとして働くらしい。 これによって中枢神経系の興奮性が高まり、症状としては痙攣などを来すというのである。 つまり、この毒性は、基本的には細胞傷害性ではなく、可逆的である。 メロペネムの場合、側鎖が弱塩基なので、 GABA 受容体との親和性が低い。 なお、理論的には、ベンゾジアゼピンやバルビツール酸と併用することによってイミペネムの中枢神経系毒性を抑制することができると考えられるが、臨床的には、あまり現実的ではない。

腎毒性については、機序があまりよくわからない。 私が読んだ文献では、腎の栄養血管から尿細管上皮にイミペネムが移行して蓄積する、と書かれていたが、本当だろうか。尿細管腔から上皮への移行と考えた方が自然であるように思われるが、実際のところどうなのかは、私は知らない。 上皮内のイミペネム濃度が高まると、どうやら反応性の高いβラクタム環が細胞内構造物を破壊するらしく、尿細管上皮傷害を来すらしい。 メロペネムの場合、側鎖が弱塩基であることから、比較的細胞膜を透過しやすいので、細胞内への蓄積が起こりにくいのだと考えられている。

さて、一部の医師や学生は、上述のような知識は臨床では何の役にも立たぬ、などと言うであろう。 確かに、そうかもしれぬ。 しかし、私は、こういう「役に立たない知識」を軽視する大学教授に、いまだかつて出会ったことがない。もちろん「大学教授など、臨床を知らない頭デッカチばかりだ」と考える人もいるかもしれないが、私は、そういう「頭デッカチ」な人々こそが医学の道を開拓してきたのだと認識している。

子供の頃は持っていた飽くなき好奇心を、どこかに忘れて来てしまった医師は、残念ながら、稀ではない。


2016/05/24 名古屋大学時代の同級生

ある日、某製薬会社が主催して、若手医師向けの Web カンファレンスというものが開かれた。 これは、S 医大の某教授が講演する内容を、インターネットで配信するというものである。 カンファレンスとは言っても基本的には一方通行の講演なので、まぁ、オオヨロコビして興奮しながら参加するほど面白いものではない。 が、勉強にはなるので、我が北陸医大 (仮) の某診療科の場合、会議室に若手医師数名が集まって視聴した。

テーマは「敗血症」である。 今年の 2 月、米国の集中治療医学会が「敗血症 sepsis」という語について、従来の定義は医学的に不適当である、として、新しい定義を発表した。 今回の講演は、この「新定義」を説明するような内容であった。

私自身は、この「新定義」は不適当であると考えている。 詳細については後日、詳しく議論しようと思うのだが、要するに、「新定義」では敗血症の病理学的実体が曖昧になっているように思われる。 はたして、その曖昧な概念が、臨床的に本当に役立つのかどうかは疑問である。 これに対し従来の「診断基準」は特異度が低いものの、定義自体は病理学的実体を反映しているという長所があった。これは、病態を的確に理解して対応するために重要なことであり、「新定義」より勝る。 ただし、「新定義」と一緒に提案された「新診断基準」は、学術研究のための「分類基準」としては適切であると思われる。

ところで、この Web カンファレンスの中で、演者である S 医大の某教授は、自大学の学生が臨床実習の一環として発表した内容を紹介していた。 内容は、敗血症の「新定義」を巡る論文を読み、内容を簡略に説明した上で批判的吟味を加える、というものである。 これは、「我が S 医大の学生は、こんなに立派な発表をしているのだぞ」と全国に自慢したい気持ちの表れでもあり、それをみた若手医師らが発奮することを期待したものでもあるのだろう。 確かに、よく勉強した様子の伺える内容ではあった。 だが、「批判的吟味」とは言いつつも、基本的には、その論文の瑣末な点をつつくような批判が述べられているだけで、全力で著者と向き合ってはいないように感じられた。

これに対し、私の名古屋大学時代の同級生でいえば、学士編入組を除外しても、M 君、A 君、I 君、Y 君などといった、安易に権威に迎合しない、確かな医学的精神の持ち主がいた。 彼らであれば、「新定義」そのものを否定する勢いで批判的吟味を展開したであろう。 そうした積極性と学識を併せ持った学生が揃っているという点において、名古屋大学は、確かに名門である。

ただし、上で挙げた M 君、A 君、I 君、Y 君の 4 人は、全員、卒業後は東京に去った。 この事実を、名大医学科の関係者は、厳粛に受け止めるべきである。

2017.01.02 余字削除

2016/05/22 学生との接し方

大学病院の場合、我々のような研修医であっても、臨床実習の学生に対しては指導する立場になることがある。 もちろん、研修医の方が学生より偉いというわけではないし、学識に富んでいるとも限らない。 場合によっては、優秀な学生に教えてもらう立場になるのも、お互いの利益になる。 実際、先月は極めて優秀な五年生が実習に来たものだから、「北陸医大 (仮) の医者のレベルは、この程度か」などと失望されることを恐れ、私も必死に勉強して対応した。 結局、なんとか一枚上手を行くことができたとは思うのだが、二学年と十歳の差があっても「一枚上手」という程度に過ぎないという事実は、彼がいかに優秀であるかを物語っている。

ところで、学生の意識の高さは、多様である。 「世界一の内科医を目指そう」と考えている者もいるだろうし、一方では「医師免許さえ取れれば、それで良い」というような、水準の低い学生も、残念ながら、いるだろう。 前者のような場合であれば何も難しいことはなく、こちらとしても全力であたれば済む。 悩ましいのは、意欲と学識の乏しい学生への対応である。これは、北陸医大の教授陣も共通して頭を痛めている問題である。

純粋に医学者としての誠意のみで対応するならば、相手の知性の程度に関係なく、対等の相手に語るようなつもりで指導するべきであろう。実際、それこそが大学の本来あるべき姿であり、我が母校たる京都大学が旧制第三高等学校時代から受け継いで来た伝統でもある。 もちろん、そうした指導は、まず間違いなく、彼らの頭脳には届かない。 しかし大学の本来の姿からいえば、それは彼らの側の問題なのであって、指導する側の罪ではなく、彼らの知性が水準に達していないならば、単に彼らが学位を授与されるに値しない、というだけのことに過ぎない。 もし私が理学部や工学部の学生を指導するのであるならば、そのように考え、相手の水準に合わせるようなことは、一切、しないであろう。神聖なる学問を、汚すわけにはいかないからである。

しかし我々医学部は、医師養成学校としての任務をも兼ねている。 本来、このこと自体に無理がある。医師の中でも、たとえば、新しい医学や医療を切り拓く責を担う医学者と、いわゆる家庭医のような立場で地域の医療を担う医師とでは、求められるものが違う。 それを一律に大学医学部で教育しようという発想に無理があるのだ。 かつては「医師たる者は、すべからく、医学者たるべし」という高い理念の下に医学教育を大学に一本化したようであるが、その理想は、あまりに現実から乖離している。 医学ではなく医療技能を重点的に訓練する医科専門学校を、復活させるべきである。

需要がないからといって、大学が、学生に学問を伝えることを放棄してしまって良いのか。 それは、学問と学生を侮辱することに、ならないか。 そうして現実に迎合するうちに、学問の理想を掲げる者がいなくなり、ただ医師免許に守られてぬるま湯に浸かる者ばかりになってしまったことが、現在の医学界・医療界の最大の問題ではないのか。 ここで私までが現実を受け入れてしまったら、一体、誰が理想を掲げ続ける役割を担うのか。

現時点では、私は、名古屋大学時代と同様の路線で行こうと考えている。 今は彼らの心には届かず、理解されず、疎まれようとも、五年後、十年後の彼らに、少しばかりの変化をもたらすことに期待している。


2016/05/21 動脈血ガス分析の体温補正

動脈血ガス分析、と呼ばれる臨床検査がある。 これは、動脈から採取した血液について、pH や、酸素分圧、二酸化炭素分圧などを測定するものである。 少なからぬ臨床医は、これを「ケツガス」などと短縮して呼ぶようである。 中には、こういう略称を使うことをカッコイイと感じる者もいるらしいが、私の感覚でいえば、むしろ俗称を連呼している者は頭が悪そうにみえる。 私は基本的に正式名称を使うか、せめて「血液ガス」「ガス分析」などと呼ぶことにしている。

さて、検査手技についてだけいえば、これは、動脈から採取した血液を測定器にセットしてボタンを押すと、結果を印字した紙が出てくる、というだけのものである。 結果の「解釈の仕方」にも決まった作法のようなものがあるので、まぁ、頭を使わなくても、理解したフリをすることはできる。 実際、少なからぬ医師は、この機械がどういう方法で測定を行っているのかは全く知らないままに、決められた手順の操作だけを実施しているものと思われる。

工学部の常識からいえば、これは、トンデモナイことである。 何かを測定しようと思うならば、その装置がいかなる原理で動いているのか予め熟知しておくことは必須である。 そうでなければ、測定結果にどういう誤差が含まれているのか理解できず、正しく解釈することができないからである。 それにもかかわらず、医者は、頭をカラッポにして操作方法だけを習得して、まるで自分が動脈血ガス分析を実施できているかのように錯覚しているのである。

動脈血ガス分析の原理については、金原出版『臨床検査法提要』第 34 版を参照されると良い。 特に注意を要するのは、酸素分圧や二酸化炭素分圧についてであろう。 これは、検査項目上は「分圧」と表記されている上に、大抵の測定器では「計算」ではなく「実測」として扱われているので、本当に分圧を測定していると誤解する者も稀ではあるまい。 しかし「提要」によれば、どうやら、これは実際には分圧ではなく、酸素や二酸化炭素の量を測定しているらしい。 量を測定して、それを分圧に換算して表示しているのである。

中学校か高等学校で学んだ化学の知識によれば、量を分圧に換算するには、溶解度が必要である。ところが溶解度は、温度に依存する。温度とは、この場合、患者の体温である。 大抵の測定器は、デフォルトでは患者の体温が 37 ℃であると仮定して換算するようだが、実際には、本当の患者体温を用いて換算しなければ、正しい分圧を知ることはできない。 この患者体温を用いて換算することを、臨床検査医学用語では「体温補正」などと呼んでいる。

ところで、ある医師がブログで「体温補正は不要」と書いていた。 その根拠として挙げられていた論文は、B. A. Shapiro, Respir. Care. Clin. N. Am., 1, 69-76 (1995). である。 この論文は、あまりにくだらないので私は abstracat しか読んでいないが、著者は

There is no logical or scientific basis for the assumption that temperature-corrected values are better than the values obtained at 37 degrees C.

体温補正した値の方が 37 ℃で得られた値よりも優れているとする論理的、あるいは科学的な根拠は存在しない。

と書いている。 たぶん、この著者は物理学や化学の素養に乏しいのであろう。 上で述べたように、いわゆる体温補正は、本当は「補正」ではなく、量から分圧への「換算」に必須のプロセスなのであって、理論的に、省略不可能である。 もし体温補正を行わないのであれば、そもそも換算をせずに、酸素や二酸化炭素を分圧ではなく量で表示しているのと同じことである。 これが臨床的には不適切であることは、麻酔科学を修めた者であれば容易に理解できるであろう。 つまり、体温補正を行うべきであるとする論理的、科学的根拠は、明確に存在するのである。

何を勘違いしているのか、医師に物理や数学の素養は不要、などと豪語する者が稀ではないので、実に困る。


2016/05/20 北陸の医学の未来

学問をしている人なら、何か感動的なことを学んだ時に、それを誰かと共有したくて、学友や同僚にベラベラと語った経験のある人は多いであろう。 私の場合、学生時代、たとえば心臓外科学を学んでいて「フォンタン手術」と呼ばれる手術法の理論的背景に感動したとき、近くを通りかかった知り合いをつかまえて「心臓外科学が大好きかね?」と問うた。 こういう場合、相手は大抵、心の中で「面倒な奴が来たな」などと思い「いや、あまり興味ないね」などと言うのである。 しかし私は「いや、医者の卵なのだから、興味がないはずがないだろう」と言い、相手の言葉を無視してフォンタン手術について語り始めるのである。 こうした私の「鬱陶しい」医学トークに対し、暖かく見守って、つきあってくれる同級生や下級生は多かった。こういう学生が多いという意味において、確かに、名古屋大学は名門であった。

もちろん、我が北陸医大 (仮) も北陸を代表する名門大学であるから、同期の研修医には優秀な人物が多い。 先日、私がカルバペネム系抗菌薬が中枢神経毒性や腎毒性をもたらす機序や、メロペネムの長所について研修医室で語った際、そこにいた三人の研修医が耳を貸してくれた。 もちろん、彼らも内心では「暑苦しいやつだな」などと思っていたかもしれないが、それでも話は聞いてくれるのだから、ありがたいことである。

もちろん、こういう私の態度を疎ましく思う人も少なからず存在することは、承知している。 私は「我々こそが北陸医大を日本一の大学に引き上げるのだ」と公言しているが、「いや、そういうのイラナイから」とか「そっとしておいてくれ」とかいう声も、もちろん、あるだろう。 彼らの一部が私を危険人物としてマークし、なるべく関わらないようにしていることも、知っている。 しかし、私としては、彼らに対し配慮するつもりはない。 そこを譲歩してしまえば、今度は、私が見捨ててきた名古屋の人々に対して、申し訳が立たないからである。

ところで、過日、病院から自宅に帰るバスの中で、近くの席に座った 20 歳前後の若い女性二人組の会話が耳に入ってきた。 どうやら、二人は北陸医大の学生のようであり、学年はよくわからないが、たぶん三年生以下ぐらいであるように思われた。 そのうちの一人は、どうやら医学研究に強い関心を持っているらしく、次のような発言をした。 「医学部に入ってみると、周りは『なんとかして医師免許を取れれば、それで良い』というような人ばかりで、がっかりした。」

彼女をがっかりさせてしまうような北陸医大の現状は、もちろん、重大な問題である。しかし私は、そうした志の高い学生が北陸医大にも存在することに安堵した。 我々は、彼女のような学生諸君の希望や意欲を支えていかねばならぬ。


2016/05/17 みつかったかもしれぬ

この日記は、一応、匿名で書いている。 みる人がみれば、私の正体などは一目瞭然であろうが、一応、私の本名や現所属については明記しないようにしている。

しかし、確証はないのだが、この日記の存在が、勤務先の某教授にバレたかもしれぬ。 というのも、私が日記でしか書いておらず、勤務先では話していない内容を、教授が知っていたのである。 知られて困るような内容は記載していないとはいえ、ひょっとすると北陸医大にも、この日記を読んで私を憎むような人物が存在するかもしれないので、ある程度の警戒は必要であろう。

私は、京都大学や名古屋大学に続いて、北陸医大からも放逐されるのではないかと、少しばかり恐れている。 私が医学界において活躍する余地があるとすれば、その舞台は、北陸医大をおいて他にはないと考えているからである。 とはいえ、恐れるあまりに口をつぐみ、行動を慎んでは、それこそ、私の存在価値がなくなる。 ギリギリの線を、見極めていかねばならぬ。


2016/05/16 給与明細

世間では、医師は高給取りであると認識されているようである。 一方、少なからぬ医師は「仕事のキツさ、責任の重さに比べれば安い」あるいは「時給換算では安い」などと言う。 一体、どちらが本当なのか。 参考のため、私の給与明細の内容を抜粋して転載しよう。 他の病院でもだいたい同じだと思うが、我が北陸医大 (仮) の研修医の給与額には年齢が考慮されないので、これは 24 歳の新人が受け取る給与額として解釈していただければ良い。

現金支給額338, 174
振込額338, 174
手渡額0
給与期間28. 4. 1- 28. 4. 30
減額0
本給支給額186, 350
住居手当0
時間外労働時間等0
時間外労働手当等0
特殊勤務手当125, 380
通勤手当79, 380
給与支給総額391, 110
控除額合計52, 936

私はバス通勤であるので、交通費は 6 ヶ月定期に相当する額を半年毎に通勤手当として支給されることになっている。 この分を差し引けば、手取り額は約 25 万円である。 なお、これは研修医の中でも最低クラスの給与額であるらしい。 名古屋大学の研修医は、もう少し多めに受け取っているはずだし、市中病院の中には、研修医の月給が 50 万を超える例もあるという。

ところで、北陸医大における時間外労働の扱いについては若干の説明を要するだろう。 北陸医大の場合、指導医の指示によって直接患者の診療にあたった場合などについては「時間外労働」として計算される。 ただし、カンファレンスへの参加や、指導医の指示によらない自発的な診療等は時間外労働には含めない取り決めになっている。 さらに、時間外労働を行った場合であっても、研修医手当 (給与明細上は「特殊勤務手当」) が時間外労働手当に充当されるので、実際の支給額は増えない。 こうした取り決めが適法かどうかについては議論の余地があるだろうが、その問題については、ここでは言及しない。

現実的には、我々は指導医から細かな指示を受けずに自分で判断して行動するのだから、時間外労働は事実上無制限であり、しかも時間外労働手当は支給されない。 こうした実態を考えると、北陸医大における研修医の扱いは、労働基準法上、重大な問題があると言わざるを得ない。

ただし、これは、北陸医大の労働環境が劣悪であることを意味しない。 そもそも私は、自身の学識を磨き、医師としての技を鍛えるために、研修を受けているのである。 病院のために働いているわけでもなければ、眼前の患者を救うために動いているわけでもない。 その患者の利益だけを言うなら、私などが診療するより、他の医者に診てもらった方が良いに決まっているのだ。

つまり、私は、私のやりたいことを、私のやりたいように実行しているに過ぎない。 結果的に病院の診療を少しばかり助けているかもしれないが、病院のために貢献しようという意思は全くない。 労働力を売り渡しているつもりがないのだから、労働者としての権利、対価を声高に主張しようという気にもならない。


2016/05/15 カルテをキチンと書くこと

カルテをキチンと書かない、あるいは書けない医師は、多い。 これは何も北陸医大 (仮) のことを言っているのではなく、名古屋大学や、あるいは学生時代に見学した市中病院でも、だいたい、似たような状態であった。

現代では、カルテはSOAP 形式で 書くのが主流である。 つまり、本来であれば、患者の訴えを <S> に記し、診察や検査の所見を <O> に書く。 そして、何が問題なのかを考察して <A> に記載し、 追加検査や治療の計画を <P> に記載する。 ところが、この <A> の部分をキチンと書かない医師が多い。 その結果、別の医師等がカルテを読んでも、主治医が何を考えて、その検査や治療を 行ったのか、理解できないのである。

しばしばみられるのが、「感染があるかもしれない」とか「感染があるか」とかいうような 曖昧な表現である。 なぜ、わざわざ語末に「か」などとつけてボカすのか。 感染があると思っているのなら「感染があると考えられる」と明記するべきである。 ないと思っているが念のため、というなら「感染を否定できない」などとすれば良い。 「あるかもしれない」では、記載者がどのように考えているのか、わからないのである。

さらに酷いカルテになると、<P> の部分に「CT を撮るか」などと書かれていることがある。 一体、撮るつもりなのか、撮らないつもりなのか、わからない。 こんな記載に、一体、何の意味があるのか。

自信がないからボカしてしまう、という気持ちは、わからないでもない。 しかし、それでは、読んだ人が困るのである。 さらに言えば、こうした曖昧な表現をして「間違ったことは書いていない」などと主張しても、 それで責任を逃れることはできない。 そもそも、自分が不勉強で判断能力が足りないからといって、 言葉を濁して責任を逃れようなどという姿勢自体、医師としての資質を欠くと言わざるを得ない。

しかし、たとえ曖昧であっても、<A> に何らかの記載があるカルテは、いくらかマシである。 中には「発熱があるから抗菌薬を投与する」というような、 考察を完全に省略した謎の論法を展開する医師が存在する。 こうなると、もう、話にならない。 常識的には「発熱がある」という事実から「抗菌薬を投与する」という治療には直結しない。 なぜ、その医師が抗菌薬を投与しようと考えたのか、全くわからないのである。

たぶん、何も考えていないのだろう。 一部の研修医や若手医師は、何も考えずに、診察や検査の所見から、パターン認識と、 予め定められたアルゴリズムに従って、機械的に治療を開始するようである。 そういう医師にとっては、「発熱があるから抗菌薬を投与する」という「論理」が成立するのだろう。


2016/05/13 北陸における医学の芽

私は名古屋大学の出身であるが、北陸医大 (仮) に研修医として赴くにあたり、元同級生からは、さんざんなことを言われた。 「君は北陸医大の学生や研修医の質に過大な期待を抱いているようだが、名古屋大学よりマシなはずがないだろう」とか、「数年後、君は『北陸の連中はカスばかりだ』などと言って東京に移るであろう」とか、「北陸にユートピアがあるとでも思っているのか」などという具合である。 実に、失礼な話である。

私は学生時代、「医学的思考を養うため」として、The New England Journal of Medicineの Case Records of the Massachusetts General Hospital を学生だけで輪読して議論する勉強会を行っていた。 これは、学生だけで行っていたことに重大な意義がある。というのも、対等の立場にある者同士だからこそ忌憚ない議論を行いやすいのであって、もしエラい先生が臨席していようものなら、大抵の学生は萎縮し、ただ受身に教えてもらうだけになってしまう恐れがある。 この勉強会は、2014 年 2 月から 2015 年 7 月にかけて計 51 回、行われた。最盛期には三学年にわたる 7, 8 人の学生が参加したように記憶しているが、やがて漸減し、ついには参加者が私一人となり、自然消滅した。 人が集まらなかった原因として複数の同級生らに指摘されたのは、「何を学べるのかわかりにくい」というものである。つまり、学生は役立つ知識や経験を求めて勉強するのだから、何が得られるのか明確に示さなければ、誰も関心を持たない、というのである。

こうした勉強会の目的は「医学的思考を涵養する」ということであるし、そのことは、私も明言していた。しかし、それでは伝わらなかったようである。 多くの学生は「医学的思考」というものを、「○○の場合には△△を疑う」というような、パターン化された診断方法、あるいは治療アルゴリズムを覚えることである、と認識しているように思われる。 結局、暗記と実践に過ぎないのである。 しかし、「考える」というのは、本当は、そういう行為を指すのではない。 教科書に書かれていること、ガイドラインに書かれていることを実行するだけなら、看護師や技師で十分なのであって、医師など不要である。 あるいは、あと 10 年か 20 年もすれば、医療用コンピューターが進歩し、ガイドライン的な診断は生身の医師よりも正確に行える時代が来るであろう。

では、「考える」とはどういうことなのか、と問われると、困る。 これまで「考える」ということをせずに、ひたすら暗記ばかり行ってきた人々に対して、言葉で理解させることは、私にはできないからである。 これは私の説明能力の問題ではなく、たとえば自転車の乗り方を口で説明して修得させることが困難なのと、同じようなものであろう。 だから私は、名古屋大学時代には「みせる」ということに徹した。 考えるとは、どういうことなのか、学ぶ姿勢とは、どういうものなのか、ということを、私にできる範囲で、実践してみせたのである。 私に同調する者はいなくとも、「同級生に、そういう学生がいた」という記憶は、五年、十年後の彼らに、何らかの良い影響を与えるであろうと期待したわけである。 幸いなことに、これは、一部の学生には正しく伝わったらしい。 一学年下の友人の某君も、私の意図を正しく理解してくれた人物の一人である。彼は、私の卒業が近づいたある日、「名古屋を去ったことを、いずれ後悔させてあげますよ」などと言い放った。つまり、今は崩壊している名古屋の医学を再建してみせる、と宣言したのである。 彼の決意に私がどれだけ影響を及ぼしたのかは知らないが、少なくとも、私が名古屋で過ごした四年間は無駄ではなかったように思う。

さて、北陸の話である。 我が北陸医大には、教育に対する熱意のある教授は少なくないが、学部教育においては、学問に対する姿勢や、医学を修めるとはどういうことか、という根本的な問題について、学生に伝えることに失敗しているようにみえる。 基本的には、北陸医大の学生や研修医の質は、名古屋大学などより劣るものではない。 しかし不幸なことに、北陸医大には、自分達は地方大学に過ぎぬ、などというような卑屈な精神が蔓延しているようである。 この点についてだけは、北陸医大は、名古屋大学より明確に劣る。

まずは、我々こそが明日の医学を切り拓くのだ、という気概を植えつけるところから、始めねばなるまい。


2016/05/11 病理診断

「病理学」という語は、「病の理の学問」という意味であって、つまり疾病を理論的に説明する学問分野である。 この病理学から派生した「病理診断学」というのは、「病理学を基礎とする診断学」を意味する。 一般の内科医らが行うような、身体診察や血液検査所見・画像検査所見などに基づく診断方法は、結局のところ、統計学的、あるいは確率論的な推論である。 これに対し病理診断は、理論的な演繹に拠るのであって、統計に依存しない点が根本的に異なるのである。

何を言いたいのかというと、組織学的診断は、病理診断のための手法の一つに過ぎない、ということである。 両者の違いが特に重要なのは、手術前に行われる生検である。 「もしかすると癌かもしれない」と疑われる病変がある場合などに、その一部に針などを刺して組織を採取し、それを顕微鏡で観察して診断する、という検査のことを生検と呼ぶ。 素人でもわかることだが、もし組織を採取する部位が不適切であると、病変の性質を正しく評価することができず、本当は癌であるのに「癌ではない、良性腫瘍である」などと誤った診断を行ってしまう恐れがある。 そこで「採取された標本からは良性腫瘍であると考えられるが、ひょっとすると採取部位が不適切であって、実際には悪性腫瘍であるかもしれない」などと逃げる者が、いる。

言語道断である。「良性腫瘍だと思うが、悪性かもしれない」などという診断に、一体、何の意味があるのか。 組織学的所見が全てではないことをふまえた上で、緻密な病理学的考察に基づいて、それが良性なのか悪性なのか断定することこそが、病理診断なのである。 もちろん、特別な事情により確定的診断が不可能なことはあり得るが、原則として、組織診の限界を理由にして病理医が逃げることは許されない。

詳細に言及することは支障があるので敢えて曖昧に書くが、私がみた症例で、ある腫瘤性病変について、それが腫瘍なのか非腫瘍なのかが問題になったことがある。 生検の結果、標本上には悪性を示す所見がなく、「腫瘍ではない」と病理診断された。 しかし私は納得がいかず「腫瘍の辺縁部だけが標本化されたために悪性所見がなかった」という可能性があるのではないか、と、病理の某教授に問うた。 並の医者であれば、この問いに対しては「そんなことを言い出したら、キリがないよ」などと逃げるであろう。 しかし、教授の説明は見事であった。 明確な論理的考察を述べ、「腫瘍の辺縁部だけが標本化されたということは考えられない。この病変は、腫瘍ではあり得ない。」と、結論したのである。 疑い深い私でさえ反論できないほどの、完全な論理であった。

これこそが、真の病理診断である。単なる経験の積み重ねで到達できる境地ではない。


2016/05/09 骨格筋傷害

過去にも何度か書いたが、医学、特に臨床医学においては、専門用語の定義を曖昧にしたまま、なんとなくの議論を展開する者が多い。 臨床的に重要であるにもかかわらず定義が曖昧な言葉の筆頭は貧血であろうが、「横紋筋融解」という語も、かなり怪しい。

横紋筋融解とは、英語でいう rhabdomyolysis のことである。 この語の定義としては、米国の A. Patricia らの用いたものがわかりやすい(A. Patricia et al., Medicine, 61, 141-152 (1982).)。

Skeletal muscle injury, reversible or irreversible, that alters the integrity of the cell membrane sufficiently to allow the escape of cell contents into the extracellular fluid.

可逆的または非可逆的な骨格筋傷害により、細胞膜の健全性が損なわれ、結果として細胞内容物が細胞外液に脱出するものをいう。

私自身は、この定義が最も合理的で適切であるように思うのだが、少なからぬ医師は、これよりも狭い意味で「横紋筋融解」という語を使うようである。 たとえば、一部の臨床医が好んで用いるオンライン教科書であるUpToDateでは、次のように述べている。

Rhabdomyolysis is a syndrome characterized by muscle necrosis and the release of intracellular muscle constituents into the circulation.

横紋筋融解とは、筋の壊死と筋細胞内の構成成分の血流への放出とを特徴とする症候群である。

つまり UpToDate の流儀によれば、筋が壊死しておらず可逆的である例や、細胞内容物が組織液に留まり血中にはほとんど出現しないような例は、横紋筋融解ではない、ということになる。 しかし、病理学的観点からいえば、このように限定することに意味があるとは思われない。

なお、医学書院『医学大辞典 第 2 版』では、「横紋筋融解症」を「種々の原因により骨格筋細胞が急激に破壊されて, 筋肉の細胞成分が血液中に流入する病態。」としている。 「血液中に流入」を要件としている点では UpToDate に似るが、「急激に破壊されて」と限定している点において、さらに意味が狭くなっている。

このように「横紋筋融解」という語の定義はよく定まっていないようであるが、たぶん、これは、考え方に様々な派閥があるのではなく、単に、多くの医師がキチンと物事を考えていないというだけのことである。 彼らは「横紋筋融解」という語を、漠然と「筋細胞が壊れて、クレアチンキナーゼなどが血中に放出されるもの」ぐらいにしか認識していないから、たとえば「筋細胞が壊死していないものは横紋筋融解に含めるのか」と問われると、困って、それぞれがバラバラのことを言い始めるのである。

この定義の不統一は、重大な問題である。 たとえば臨床的には、血中クレアチンキナーゼ活性の上昇は、様々な薬剤によって比較的高い頻度で引き起こされる。上述の A. Patricia らの流儀でいえば、これは軽度の rhabdomyolysis であると考えられる。 しかし、少なからぬ医師は UpToDate 流の定義に従って、「これは横紋筋融解ではない」と主張するようである。

こうした定義の食い違いは、実に無駄な論争を引き起こす恐れがある。 そこで私は、基本的に「横紋筋融解」という語を避け、代わりに「骨格筋傷害」などの語を使うことにしている。


2016/05/07 Osmotic BBB disruption

昨日の記事の続きである。 血液脳関門の働きを一過性に妨げる、などというと、私のような素人は、何やら高尚で特別な薬を使わなければならないような気がしてしまう。 しかし、どうやら、実際には高張なマンニトール溶液を椎骨動脈や内頸動脈から投与するだけで十分であるらしい。 すなわち、浸透圧勾配に従って血管や血管周囲の細胞から血管内へと水の移動が起こるため、これらの細胞は萎縮し、結果として血液脳関門が破綻するのである。 もちろん、度が過ぎれば非可逆な細胞死を来すであろうが、適切に行えば、可逆的な変性で済むのである。 こうした、浸透圧差によって血液脳関門を妨害する手法を Osmotic BBB Disruption などと呼ぶ。

Osmotic BBB disruption を用いた化学療法については、Jahnke らの報告が、よくまとまっている (K. Jahnke et al., Neurosurg. Focus, 21, E11 (2016).)。 理屈からいえば、Osmotic BBB disruption に R-CHOP 療法を組み合わせる、という治療法も考えられるのだが、現時点での研究の主流は、諸々の事情から、大量メトトレキサート (MTX) 療法を主軸にすえたもののようである。

Osmotic BBB disruption 自体には、抗癌剤を腫瘍細胞に選択的に届ける効果はない。しかし 葉酸代謝阻害薬である MTX には神経毒性が乏しいので、重篤な中枢神経傷害は起こりにくい。 むしろ MTX の用量制限毒性は、骨髄抑制、肝傷害、腎傷害などであるため、Osmotic BBB disruption により、少ない投与量で腫瘍細胞内の薬物濃度を高めることができ、具合が良い。

この Osmotic BBB disruption を実行するには全身麻酔が必須であるから、それなりに手間と費用がかかる。しかし適切な抗癌剤のレジメンと組み合わせて用いれば、脳腫瘍の予後を劇的に改善できると考えられる。 ただし、脳神経外科学界において、この手法がどれだけ注目されているのか、私は知らぬ。

Osmotic BBB disruption の発案者が何者であるのかは調べていないが、まったく、恐ろしいことを考えたものである。


2016/05/06 原発性中枢神経系リンパ腫

原発性中枢神経系リンパ腫 (Primary Central Nervous System Lymphoma; PCNSL) というのは、名前のとおり、脳などに生じる原発性のリンパ腫のことである。原発性というのは「他の部位によって生じたリンパ腫が転移してきたものではない」という意味である。 脳リンパ腫に対する治療法としては、外科的切除や放射線照射の他、化学療法が用いられる。しかし遺憾ながら、いずれにせよ、予後は極めて不良である。 本日の話題は、この PCNSL に対する化学療法についてである。

PCNSL に対する化学療法にしばしば用いられるのが、高用量メトトレキサート (MTX) 療法である。この治療法は「フォリン酸救援療法」とも呼ばれるのだが、その概略については2014 年 2 月 に書いた。この治療法の基本戦略は、血液脳関門などに阻まれて抗癌剤が届きにくい中枢神経系腫瘍などに対して、大量の MTX 投与により腫瘍細胞内の MTX 濃度を高める一方、フォリン酸の投与により正常細胞を選択的に MTX の細胞毒性から「救援」する、というものである。

北陸医大 (仮) で同期の研修医である友人の某君と脳腫瘍について語り合っていた際、私は、ふと疑問を口にした。 脳のリンパ腫は、典型的には、CT や MRI における造影効果が強い、とされる。 常識的に考えれば、これは、病変部では血液脳関門が破綻しており、造影剤が腫瘍内部に流れ込んでいることを意味する。それならば、フォリン酸救援療法などという強引な手法を用いなくても、中枢神経系以外のリンパ腫と同様に、リツキシマブなどを用いた化学療法が奏効するはずではないか。 しかし医学書院『標準脳神経外科学』第 13 版などをみると、そうした通常の化学療法は無効であるという。 これは、一体、どういうことなのか。

この問題については、25 年前に英国の Ott らが興味深い報告をしている (R. J. Ott et al., Eur. J. Cancer, 27, 1356-1361 (1991).)。 これによると、PCNSL に対して抗癌化学療法を開始すると、腫瘍の造影効果は速やかに失われるが、腫瘍細胞自体は残存する、というのである。 造影効果が失われるということは、血液脳関門が復活しているのだと考えられる。このため、抗癌剤が腫瘍細胞に届かなくなり、治療効果が失われるのである。

抗癌化学療法を開始すると血液脳関門が復活する、という不思議な現象は、次のような機序によるものと考えれば、合理的に説明できる。 `Rosai and Ackerman's Surgical Pathology 10th Ed.' によれば、PCNSL の典型的な組織像では、血管周囲で腫瘍細胞が増殖し、しばしば腫瘍細胞が血管壁を貫いているという。 この血管自体は反応性に形成されたものであって腫瘍ではないから、基本的にはアストロサイトを伴っている。しかし腫瘍細胞の存在ゆえに血液脳関門は不完全になり、高い造影効果を示すのである。 こうした病変に対し抗癌化学療法が行われると、まず血管に近い部分の腫瘍細胞が死滅するであろう。 すると、血管から遠い部分の腫瘍細胞は残存しているにも関わらず、血液脳関門は回復する。 その結果、残存している腫瘍細胞に抗癌剤が届かなくなってしまうのである。

そこで、血液脳関門の働きを一過性に妨害することで腫瘍細胞に抗癌剤を届ける、という治療戦略が提案された。 この革新的治療戦略を紹介したいのだが、いささか記事が長くなってきたので、続きは後日にしよう。


2016/05/04 「強い」病院

たぶん、他の多くの大学病院でも同じだと思うのだが、我が北陸医大 (仮) の初期臨床研修プログラムでも、「たすきがけ」が行われている。 これは、二年間の研修のうち、最大一年間を市中病院で受ける、というものである。 これは、市中病院での研修を特に推奨しているというわけではなく、あくまで、希望すればたすきがけが可能、との位置づけであるらしい。 私自身は、市中病院での研修に魅力を感じていないので、二年間全てを大学で過ごすことを選んだ。

さて、私は、二年間のうち三ヶ月を某診療科での研修に費やす予定になっている。 これを知った某若手医師は、その診療科については北陸医大より隣県の某大学の方が強いから、研修は北陸医大ではなく、たすきがけ先の市中病院で受ける方が一般的である、とのコメントをくれた。 このような「強い」という表現は、学生時代にも、しばしば耳にした。 「○○病院は△△科が強い」といった具合であり、△△科を志望する学生が研修先として○○病院を選ぶ理由として挙げられていたのである。

この「強い」という言葉の意味が、私には、よくわからない。 学生時代に周囲に聞いてみたところ、キチンと把握している人は皆無であった。 おおまかな雰囲気としては、その診療科の症例数が多い、あるいは医師数が多い病院が「強い」と言われるらしい。しかし、その基準で言えば、たとえば大量の医師を抱えて虫垂切除術ばかり一年中行っているような病院も「消化器外科が強い」ということになるが、それで良いのだろうか。

さらにいえば、症例数の多い病院が、研修先として良いかどうかも疑問である。 とにかくたくさん経験を積んで、考えなくても勝手に体が動くようにトレーニングしたいならば、症例数の多さは重要であろう。 しかし、医師の本来の仕事が、そのような知性を必要としない肉体労働であるのかどうかは、私は知らぬ。

私の場合、あくまで病理医の卵として初期臨床研修を受けているのだから、内科や外科の仕事をデキるようになることは必要ない、と考えている。 的確に動脈採血ができるとか、中心静脈カテーテル留置ができるとかいうことは、重要ではない。 むしろ、診断の過程をよく理解し、臨床医が何を考えて、何を期待して病理診断を依頼するのか、そしてその診断結果が診療にどう影響するのか、ということをよく理解することこそが、私にとっての最優先事項である。

外科志望の研修医であっても、いたずらに手技を誇ることは危険であろう。 ただ手術のやり方を修得するだけなら、医学部六年間など必要なく、高卒の若者に直ちに手技の訓練を施した方が良い。 それをしないのは、外科医にも、内科医と同じように、よく理解し、考えることが求められているからである。 一部の研修医は、手技を誇り、時に「考えなくても体が動く」ことを自慢するようであるが、危険な風潮である。

2017.01.02 余字削除

2016/04/28 抗菌薬

日本には、感染症学をキチンと学んだ医師は少ないのではないかと思う。 名古屋大学医学部の場合、三年生の頃に「微生物学」として感染症について素晴らしい講義や実習が行われていたが、臨床的観点からの「感染症学」は、ほとんど教えられていなかった。 たぶん、神戸大学や富山大学などといった一部の例外を除いては、どこの大学でも名古屋大学と似たような状況であろう。 しかし研修医になると、自分が担当した患者が感染症を合併したり、あるいはその疑いが生じたりして、どう対応すれば良いのかわからず、困る。 そこでアンチョコ本をみたり、エラい先生に相談したりして、いきあたりばったりの対応をする者が少なくない。 しかし、大抵、その「エラい先生」も感染症学を勉強していないし、アンチョコ本は、そういう不勉強な医師に合わせた低レベルで不正確な内容を書いているので、結局、デタラメな治療が世にはびこるのである。

若い研修医が犯しやすい典型的な過ちは、「まずは基本的な教科書を買おう」と言って、「抗菌薬の使い方」というような、薄いマニュアル本を購入することである。 そういう本は、ひょっとすると書かれている内容自体は正しいかもしれないが、その背景にある理論や基礎的な事項が省略されているため、いくら読んでも、感染症学の基本を身につけることはできない。

例として、次のような症例を考えよう。 67歳男性が、肺炎と診断された。血液培養や喀痰培養の結果、Pseudomonas aeruginosaが検出された。緑膿菌である。幸い、特別な薬剤耐性はついていないようである。 さて、マニュアルをみると、緑膿菌に対してはペニシリン系のピペラシリンと、βラクタマーゼ阻害薬であるタゾバクタムの合剤が推奨される、と書かれていた。

ここで「そうか、緑膿菌にはタゾバクタム・ピペラシリンを使えば良いのか」と考えるのは、素人である。 そういう発想で診療にあたるぐらいなら、医者などいらぬ。マニュアルを持った看護師が一人いれば、それで十分なのである。 我々は医師なのだから、せめて「なぜピペラシリンなのか」という疑問ぐらいは、呈さねばならぬ。

少し上等なマニュアル本であれば、「緑膿菌は大抵のペニシリン系抗菌薬に耐性だが、ピペラシリンには抗緑膿菌活性がある」というようなことが書かれているかもしれぬ。 この説明で納得するのは、素人に毛が生えた程度の医者である。 「抗緑膿菌活性」という言葉は非常に曖昧であり、平たくいえば「緑膿菌に効く」というぐらいの意味である。何の説明にもなっていない。

そこで、もう少し詳しい専門書を開くと、たぶん次のような説明が書かれているであろう。 「緑膿菌の多くの株では、βラクタム系抗菌薬の存在下で、AmpC が誘導的に発現される。これはペニシリナーゼの一種であり、ピペラシリンを含めほとんどのペニシリン系抗菌薬を分解する。しかしピペラシリンは、この AmpC を誘導する作用が乏しいため、緑膿菌にも有効なのである。 ただし近年は AmpC を構成的に発現する株も増えており、もちろん、そうした株はピペラシリン耐性である。」

「基本」というのは、こうした背景のことをいうのであって、結果の「効く」「効かない」をいうのではない。 こうした基本を理解して、初めて、知識の応用が可能になるのだ。

もし感染症学の基本的な教科書を探している学生や研修医がいるなら、私は J. E. Bennett et al., Principles and Practice of Infectious Disease 8th Ed. をお勧めする。


2016/04/23 製薬会社主催の勉強会

過日、現在研修を受けている診療科の教授の紹介により、某有名製薬会社主催の勉強会に参加した。 内容は、某大学教授と、その関係者による講演であって、座長は別の某大学教授であった。 詳しい内情は知らぬが、たぶん、この教授のどちらかが実質的な主催者であろう。 会場の確保や、運営スタッフの派遣、開催費用などは製薬会社が負担していたものと思われる。 しかし、製薬会社がこうした形で病院関係者に利益供与することには倫理的な問題があるから、「製薬会社が主催して、教授に講演を依頼した」という形式にしているものと思われる。 会の冒頭に製薬会社からの「情報提供」が行われたのは、経理的に宣伝広告費のような扱いにするためであろう。

参加費はもちろん無料であり、軽食として上等なサンドイッチが供された上、交通費としてタクシーチケットも事前に渡されていた。 これらの費用は製薬会社の負担であるが、元をただせば、薬代を払っている患者や国民の金である。 従って、医療倫理からいえば、こうしたタクシーチケットを受け取り、サンドイッチを食べることは、医師として好ましいことではない。 私としては、そんなタクシーチケットを使わずにバスで会場に向かった方が気分は良いのだが、そういうことをすると教授に迷惑がかかるから、いわゆる「大人の対応」として、おとなしくタクシーで病院から会場に向かった。

もし、私を知っている人が上の話を読んだなら、「あいつも、とうとう、信念を曲げたか」などと思い、あるいは私に失望するかもしれない。 実際、京都大学時代の私は、周囲と衝突しようが、准教授の不興を買おうが、構わずに自分の信じる道を進んだ。それを思えば、今の私は、確かに、何かを失ってしまったといわざるを得ない。 しかし、ここで戦って、排斥され、自身の才能を発揮する機会を奪われてしまうことは、私だけでなく、人類社会全体の重大な損失である。 それを回避するためには、不条理で非道徳な社会的慣行に、今は耐えて従うこともやむを得ない、と考えている。

こういうことを書くと、「教授にニラまれるのが恐ろしく、戦う勇気がないだけなのに、見苦しく言い訳しているのだろう」などと解釈する人もいるであろう。 実際、名古屋大学時代に私は、そうやって「戦わない理由」を一生懸命に探して自己弁護する学生を少なからずみてきた。 そうした学生と私は違う、ということを証明することはできないが、私自身は、自分が勇気を欠いているわけではないことを知っているし、それで十分である。

かつて私は、学術研究における姿勢・方針を巡る教授との悶着のために、原子炉物理学界を離れた。 当時は、それなりに周囲から期待されていたのに、それを裏切って、医学に逃げたのである。 その原子炉物理学の人々に対して恥じねばならぬ行いをするぐらいなら、私は、医師を辞める。


2016/04/19 MR

MR、と呼ばれる職種がある。 英語でいう Medical Representative のことである。 これは、製薬会社の社員であって、薬剤情報を医療関係者などに伝える任務に就いている者のことをいう。 平たくいえば製薬会社の営業担当者なのだが、「営業」という言葉を用いないのには、それなりの理由がある。

MR は、しばしば、大学病院の教授などに面会して、薬剤の情報を提供する。 診療科単位で、所属する医師のために情報提供会を開催していることも多い。 以前にも書いたが、こうした情報提供会は夕方 6 時頃から 15 分程度、行われることが多く、製薬会社の負担で高価な弁当が供されることも多い。 もちろん、「製薬会社から弁当が供与され、そこで宣伝された薬剤を病院が採用する」という図式は、倫理的に問題がある。 従って、これは、あくまで情報提供であって、宣伝ではないのだ、ということになっている。 いうまでもないことだが、これは詭弁であって、こうした製薬会社と医師の結びつきは不健全であるから、早急に廃止すべきである。

ところで、ごく稀に、こうした製薬会社と医師の微妙な関係をよく把握していない MR も存在するようである。 情報提供会で「○○教授のような先進的な先生に、ぜひ、我が社の薬剤を使用していただきたい」というような売り文句を口にした MR を、私は、みたことがある。 これは、上述のような「大人の事情」を理解していないだけでなく、その教授が、そうした営業トークや弁当によって行動を左右することはないという事実をも理解していないのである。 結果的に、その教授を侮辱しているに等しい。

さて、過日、ある薬剤の添付文書をみていて、どうにも気になったことがある。 詳しくは書かないが、その薬物の動態について、記されていた数値に合点のいかない部分があったのである。数値が納得いかないだけでなく、そもそも、それをどのようにして測定したのか、想像がつかなかった。 あいにく、その箇所には根拠となる文献も示されていない。たぶん、非公開の社内文書なのだろう。 もし企業秘密であるなら仕方ないが、可能であるならば、根拠となる文献を閲覧したいと思った。そうしなければ、その添付文書に書かれている数値を信用することはできないからである。

そこで、某教授に MR が来訪する機会があるかどうか尋ねてみたところ、呼べばすぐ来てくれるよ、とのことであた。 私は、このような、電話でも済ませられるような案件で来てもらうのは申し訳なく思った。しかし教授は、彼らはそれが仕事なのだから、むしろ喜んで飛んでくる、と言う。 結局、教授の紹介で MR に会い、可能であれば文献をみせてくれるよう、依頼した。

ところで、大学病院の場合、こうした MR の「薬剤情報提供会」には、臨床実習中の学生も出席することが稀ではない。 私も学生時代に何度か出席したことがあるが、MR の説明に疑問を持っても、挙手して質問することが憚られて、結局、黙っている、ということが何度もあった。 なにしろ、他の医師が発する質問は実に臨床的で、仕事に直結するような内容ばかりであって、私が発するような基礎医学的な内容とは大きくかけ離れていたのである。 学内の人だけの集まりならともかく、外部の人が仕事で来ているような状況で、学生が興味本位の質問をしては邪魔なのではないか、などと配慮して、私は沈黙していたのである。 もし、その場にいた教授が「学生から質問はないかね」などの一言でも発してくれていたら、私は喜んで発言したのだが、残念ながら、名古屋大学にはそういう教授が少なかった。

このことを先日、北陸医大の某教授に話したところ、「MR は質問されてこそナンボなのだから、遠慮する必要は全くないよ」とのことであった。 研修医になってから気づいたのだが、こうした説明会で医師が妙に臨床的な質問をするのは、それが仕事に必要だからではない。 彼らにとっては、基礎医学的な内容よりも、実務的な内容の方が質問しやすいから、そういう質問を発しているに過ぎないのだ。 医師も、興味本位で質問しているだけなのである。

だから、学生諸君は、誰憚ることなく、堂々と MR に質問をぶつけるべきである。 諸君自身だけでなく、その場にいる医師にとっても、もちろん MR にとっても、良い勉強になるだろう。


2016/04/15 中毒性ショック症候群

たまには医学の専門的なことも書かなければ、私が北陸に行って馬鹿になってしまったと思われるかもしれぬ。我が北陸医大 (仮) の名誉を守るために、今日は、標題の疾患について書くことにしよう。

中毒性ショック症候群 (Toxic Shock Syndrome; TSS) というのは、症候群と呼ばれているが、実際には単一疾患である。 感染症学の名著である `Principles and Practice of Infectious Disease 8th Ed.' によれば、これは Staphylococcus aureus が産生する toxic shock syndrome toxin 1 (TSST-1) と呼ばれる毒素などにより全身性炎症反応を来たす疾患であって、循環不全を来し、時に致死的となる。 細かいことをいえば、原因毒素は TSST-1 に限られず、エンテロトキシンと呼ばれる毒素であっても TSS に含めるのが一般的である。これらの毒素は、いわゆるスーパー抗原であって、宿主の免疫系を刺激する作用を持つ。 なお、Streptococcus 属菌も TSS と同様の疾患を来すことがあるが、これは Streptococcal TSS として区別するのが一般的なようである。

歴史的には、TSS は月経中にタンポンを使用する女性に生じるとされた。これは、タンポンの適切な交換を怠った場合などに、月経により粘膜を損傷した子宮から S. aureus に感染するものと考えられる。 しかし1980年頃より、TSS は月経とは必ずしも関係なく、S. aureus 感染に伴って生じる疾患であることが報告されてきた。

さて、慢性副鼻腔炎に対する手術後の TSS について、興味深い症例報告があった (麻酔, 45, 994-997 (1996).)。日本語で書かれた短い症例報告なので、読める環境にいる人は、寝る前にサラリと一読されると良い。 要約すると、手術後に一週間以上が経過してから TSS を来した症例なのであるが、鼻汁などからは S. aureus が検出された一方で、血液培養では S. aureus を検出できなかったらしい。 血液培養陰性、ということは、素直に考えれば、原因菌である S. aureus は副鼻腔のあたりに留まり、ほとんど血液中には移行しなかったのだと考えられる。

原因菌の血中への移行なしに循環不全を来して重篤化する、などということが、本当に、あるのだろうか、と疑問に思うのは健全なことである。 この問題については、1994年の Miwa らの報告 (J. Clin. Microbiol. 32, 539-542 (1994).) が、少なくとも部分的には回答を与えている。 この報告によれば、血液培養陰性である患者の血液中に TSST-1 が検出されることはある、というのである。どうやら、この毒素は生体内でも分解されにくいようである。体のどこかに生息している S. aureus が産生した TSST-1 は、たぶんリンパ管から静脈へと入り、全身を巡るのであろう。

以上の議論からわかるように、血液培養陰性であることは、TSS である可能性を否定する根拠にはならない。このことをよく認識していないと、本当は TSS である患者を「不明熱」などと診断してしまう恐れがある。 臨床検査は、「感度」「特異度」などという曖昧な概念だけでなく、キチンと理論的に理解することが重要なのである。


2016/04/14 名大救急科

私は北陸医大 (仮) の某教授から聴いて初めて知ったのだが、名古屋大学医学部附属病院救急科の医師が、今年 3 月で集団退職したらしい。 これは地元新聞の報道によれば、医師 21 人のうち 9 人が離職したという。 この集団退職の詳しい背景は知らないが、報道によれば、退職者の一人は「明らかに理不尽と感じる方針を押しつけられ、他の診療科とあつれきが生まれる場面も何度もあった」と語ったという。

私は、もはや名大病院とは無関係の立場であるから、こうした一般報道によって得られる以上の情報は持っていない。 ただ、確かに、私が名大にいた頃にも、教授と若手との間に温度差がある、という噂は聞いていた。 現在の名大救急科の教授は、救急医学に対する情熱の塊のような人物であり、研究や診療だけでなく、教育、とりわけ救急医の育成に力を入れている。 教授は、研究面では敗血症の病態の解明を専門としていることからわかるように、理論を重視する、正統派の医学者である。 救急医療の現場でも、病態を考えろ、ということを若手医師らに対して強調している、という噂を、私は学生時代に耳にしたことがある。 一方、救急医療に従事しようとする若手医師の中には、理論を軽んじる者が少なくないように思われる。 誰であったか忘れたが、ある救急医志望の学生が「救急医療では、どういうときにはどうすれば良いか、全部決まっているから、頭を使わなくて良い」などと言っているのを、私は聞いたことがある。 私の想像では、このあたりの基本的な姿勢の相違に加えて、教授が、自分と同じ程度の情熱を他のスタッフにも求めたために、一部の医師が「明らかに理不尽と感じる方針」と認識したのであろう。

名大から北陸医大に脱出した私からすれば、この救急科教授は、タダモノではない。 あの保守体質の名古屋大学にわざわざ赴任して、当然に予想される周囲からの反発と戦ってまで改革を遂行しようなどというのは、正気の沙汰とは思われぬ。

私も、いずれ、この教授のようになりたい。


2016/04/13 検査結果の説明

血液検査の結果を、患者本人に説明する機会があった。 こうした説明はたいへん難しいし、私は、あまりうまくできなかった。 他人に説明する以上、自分自身が検査結果について完全に理解していることは最低限、必要である。 マニュアル本の記載や、指導医の説明を受け売りするなどというのは、言語道断である。 私の場合、それについては、まぁ、大丈夫だと思うが、問題は、それをどう伝えるか、ということである。

患者の中には、「難しいことはよくわからないから、概要だけ教えてくれ」というような人もいる。 実際、医学や生物の素人で、しかも 90 歳になろうかという老人に対し、検査結果を正確に伝えるなどということは、まず不可能である。 そういう人に対しては、いささか医学的に不正確であったとしても、「わかりやすく」「かみくだいて」説明するべきであろう。 私は、これが苦手である。 「かみくだく」技術が乏しい、という面もないではないが、それ以上に、かみくだいた結果として生じる医学的不正確さが、気持ち悪いのである。

これは、「患者が納得するなら、それで良い」などという単純な問題ではない。 現代では、治療方針等の決定権は、原則として、患者本人が独占することになっている。 本人とコミュニケーションをとることが不可能であるような場合を除いては、医師にも、家族にも、治療方針を決定する権限はないのである。 もちろん、患者には、決定を専門家である医師に委ねる権利も認められるべきであろう。 ただし、その場合でも、可能な限り患者本人に正確な情報が与えられた上での委任でなければならない。 巧みな話術と不十分なインフォームドコンセントで患者の満足感だけを獲得するやり方は、非倫理的だからである。 従って、検査結果を実現可能な範囲で最大限正確に伝えることは、医療行為を行う上で、必須なのである。

また、かみくだき方の問題もある。 たとえば、しばしば血液検査で測定される AST や ALT といった項目について、中には「肝機能が悪くなると上がる数値です」という説明で満足する人もいるかもしれない。 しかし、たとえば物理学に長けた人であれば「肝機能って何のことだよ」とか「そんな都合の良いものがあるわけないだろう」と考え、こうした説明をする医師に対して不信感を抱くであろう。 実際、その通りなのである。AST や ALT は、本当は、肝臓の機能を反映する指標ではない。 そういう鋭い人には、「肝機能」などと誤魔化すのではなく、「AST や ALT というのは、肝臓の細胞に含まれている高分子のことです」ぐらい言った方が、納得してもらえるに違いない。

このように、検査結果を説明するに際しては、相手の学識や認知能力に応じて、臨機応変な対応をしなければならない。これは極めて高度な、難しい技である。 これに対し、イチイチ患者背景に併せて丁寧な説明などしていたら、手間がかかって臨床が回らなくなる、という意見もあるかもしれぬ。 しかし、そういう言い訳を認めるわけにはいくまい。 それは医療者側の都合であって、患者にとっては関係のない話なのである。


2016/04/09 ある教授のこと

過日、北陸医大 (仮) 附属病院の某診療科で催された花見に参加した。私は現在、この診療科で研修を受けているのだが、ここの教授が、立派な人物なのである。

名古屋大学にせよ北陸医大にせよ、医学教育のあり方を巡る根深い問題を抱えている。学生の大半は、試験に合格し、医師免許を獲得し、既存の枠組みの中で出世することばかりを考えている。 その枠組みを自らが構築しよう、明日の医学を切り開こう、などとは微塵も考えていないのである。 その証拠に、よくわからない問題に遭遇したとき、多くの学生は、すぐに「エラい先生に訊いてみよう」などと言い出す。 皆がこのようであっては、いずれ医学は衰退し、医療は崩壊することが明白である。 それに対する教授陣の問題意識、改革意欲についていえば、私は、名古屋大学より北陸医大の方が先進的であると考えている。 そう見込んだからこそ、「都落ち」などと揶揄されながらも、この北陸の地にやってきたのである。 そして幸運にも、さっそく、見識の高い教授と出会うことができた。

私は名古屋大学時代に一度だけ、学部教育委員会に出席したことがある。これは 10 人程度の教授によって構成される委員会であって、私は「講義の際に学生の出欠を確認し、出席率が 50% に満たない学生には試験の受験資格を認めない」という制度の撤廃を求める学生側の請願について、参考人として参加したのである。 この請願は、平たく言えば「天下の名門、名古屋大学において、講義の際にイチイチ出欠を確認するなどというのは幼稚であり、恥ずかしい」という趣旨のものであった。 当時の医学科二年生から五年生の学生から請願への賛同の署名を募ったのだが、結局、加わってくれた学生は全体の 1 割にも満たなかったように思う。 ただ、私は、数の問題ではない、と考えていた。 これは、多数決ではなく、名古屋大学の誇りの問題なのだ。 学生から「恥ずかしいではないか」という声を発することが重要なのであって、それを聴いてなお教授陣が何も行動しないようであれば、名大医学科に未来はない。

学部教育委員会では、少なからぬ教授が請願の趣旨を理解してくれたものの、昨今の社会情勢にあっては出欠を確認することはやむを得ない、という論調であった。 その中で、ある教授は「署名といっても、学生の 1 割にも満たないのだろう」というような発言をした。問題の本質を全く理解していない暴言である。 何より遺憾であったのは、この暴言に対して「いや、数の問題ではない」という発言をする教授が一人もいなかったことである。 名古屋大学というのは、そういう大学なのである。

さて、冒頭で紹介した教授の話である。 花見の席上で、私は、教授に対して不満を述べた。 学生に対する講義などの際に「国家試験対策」というような言葉を使いすぎではないか、と批判したのである。 私は、国家試験を強く意識した「教育」は教授にとっても不本意であることも、そういう指導をしなければならない事情もわかっている。 こうした指摘をすれば教授が困ることまでも理解した上で批判したのだから、イヤラシイと言えなくもない。

しかし教授の凄まじいところは、「国家試験対策を強調するのは、やむを得ないのだ」というような正当化をしなかった点である。 詳細は敢えてここには記さないが、教授は、学生に対する教育のあり方について悩みに悩みぬいて、ついに、自身が心の底から納得できる結論に至り、実践しているようである。 その信じるところを、率直に、私に語ってくれた。

教育制度を改革しようとするならば、いくらエラい先生だけが頑張っても、無理である。 教育を受ける側の者が、それに呼応して声を上げ、古い体制を揺さぶっていかねばならない。 名古屋大学には、改革しようというエラい先生がいなかった。 北陸医大では、教授陣の思いに応える若者が少なかった。

私は、ここに来て正解であった。


2016/04/06 質問をすること

医学において、学会やカンファレンス等で質問をするとき、その目的は 3 つに大別できよう。

第一は、学術上、あるいは臨床上、重要な意義のある情報を引き出すための質問であって、たとえば、示された実験や統計について、その妥当性を検討するための質問である。 第二は、発表者や他の聴衆に対して何らかのメッセージを発するための質問であって、たとえば、発表者が見落としている問題を指摘するような質問が該当する。 そして第三は、明確な意図はないものの、とにかく何か質問しようとして無理やり発する質問である。

学生の場合、とにかく質問を発するということ自体に重大な意義があるから、上述の「第三」にあたるような内容で構わないから、とにかく、何か発言するべきである。 とはいえ現実には、あまりくだらない質問をしては申し訳ない、あるいは恥ずかしいと考え、萎縮し、なかなか質問できない学生が多いであろう。 本当は、どんなくだらないトンチンカンな質問であったとしても、質問をする者の方が黙っている者よりエラいのだが、それでも、学生は黙りがちである。

私は昨日より、北陸医大附属病院 (仮) の某診療科で実際の研修を受けている。 大学病院であるから、当然、臨床実習の学生もいる。 こういう状況では、私のような研修医がカンファレンス等で質問する場合には多少の気を使うべきであろう。 というのも、学生が理解できないような質問をしてしまうと、学生は「何やら高度な議論をしているようだから、邪魔をしないように黙っておこう」などと勘違いしてしまう恐れがある。 本当は、質問者は出席者全員のことを考えて発言するべきなのだから、学生にも理解できるような言葉で質問をしなければならない。 つまり、もし学生が質問内容を理解できなかったとしたら、それは質問者の罪なのであるが、どうも現実には、そのあたりを理解していない学生が多いのではないか。

理想的な質問というのは、学生に「何を議論しているのか、よくわかるぞ。この程度の議論になら、私も加われそうだ。よし、一つ、質問をしてみよう。」と思わせるような質問である。 残念ながら私は未だ力量不足で、そういう立派な質問を発することは、なかなかできていない。

その代わりに、というわけでもないのだが、私は学生に対しては「カルテやレポートには、自分が何を考えたのか書くべきだ」という点を強調することにしている。どうせ学生なんだから、間違えても当然であるし、トンチンカンなことをカルテに書いても、指導医が修正してくれる。患者に害が及ぶことはないのである。 これは我々研修医にも言えることなのであって、今のうちに、たくさん失敗をしておくべきであろう。 実際、私は、さっそく一つの失敗を犯してしまった。詳しくは書かない。


2016/04/02 患者を満足させることと医師として誠実であること

昨日から、北陸医大 (仮) の初期臨床研修医である。 いずれ我が大学の悪口も書くことになると思うので、大学名は伏せておくことにする。 というのも、大学の就業規則に「故意に大学に対し損害を与えた場合は賠償しなければならない」というような条文があるからである。 名指しでの攻撃は、この条文に抵触する恐れがある。

さて、昨日、新入職員に対する研修の一環として、某有名企業から講師を招いての接遇講座があった。 要するに、患者に対する接し方、基本的な立居振舞についての講習である。 講師は、顧客を満足させるための接し方を丁寧に語ってくれたが、これは、我々医師にとっては、必ずしも適切な内容ではなかったように思われる。

医師にとって、患者に対する理想的な接し方とは、患者を満足させることではない。 たとえば、ある検査を行うことを患者に対して提案する際、もちろん我々は、その検査の目的や必要性などについて説明する。 この時、かみくだいて「わかりやすい」説明を行えば、患者に納得させ、満足感を与えることは、比較的、容易であろう。 しかし、はたして、それは医師として誠実な態度だろうか。

かみくだいて「わかりやすい」説明をするためには、どうしても、少なからず嘘をつかねばならない。 臨床検査というものは、素人が簡単に理解できる性質のものではない。 特に、感度や特異度の概念をよく理解していない素人に対しては、その検査の意義を本当に正しく伝えることは、まず不可能である。 この時点で、既に多少の嘘が避けられないのだが、まぁ、このくらいは、社会通念上、許容されるかもしれぬ。

問題は「乳房に『しこり』がある、という理由で受診した女性に対するマンモグラフィ」のような、医学的に意義がはっきりしない検査の存在である。 こういう状況でのマンモグラフィは、臨床的にはしばしば行われるようだが、これで一体、何がわかるのか、患者にとって、どういう利益があるのか、キチンと認識している医師は極めて稀であろう。 私自身は、これは無駄で不必要どころか単に有害な検査であると思っている。 このあたりの問題については、過去に書いたので、何を言っているのかわからない人は参照されよ。 こういう患者に対してマンモグラフィを行う最大の理由は、医師側の安心のため、であろう。 マンモグラフィを行ったからといって、痛いのも金を払うのも患者であって医師ではない。 むしろ、医師にとっては、あまり診断の役には立たないとはいえ、情報が増えて損はないのである。

もし、こうした事情を正直に患者に伝えた場合、中には「キチンと全部説明してくれる、信頼できる医師だ」と解釈してくれる患者もいるだろうが、「この医者、なんだか頼りないな」と考える患者も稀ではあるまい。 それよりは、「『しこり』の形や性質を調べるため」などと言って「診断のために必要な検査なのだ」と思い込ませてしまう方が、患者満足度は高くなるであろう。

言うまでもないことだが、こうして不正確な情報を与え、医師にとって都合の良い方向に導く手口は、インフォームドコンセントを欠くものであり、ジュネーヴ宣言などの定める医療倫理に反するものである。 患者満足度を高め、病院経営には貢献することができるかもしれないが、医師としては、あるまじき姿である。

昨日の講習において、私は、こうした専門職における葛藤について質問した。 すると講師は、患者に安心感を与えることは重要であり、そのためには、敢えて情報を伏せることも必要ではないか、という意味の回答をした。 たぶん、その講師は、医療倫理についてよく考えたことがなく、ジュネーヴ宣言も知らないから、そういう発言をしたのであろう。

この質疑応答でわかったのは、この講師が所属している某社は、顧客を満足させるためには平然と嘘をつくよう社員を教育しているらしい、ということである。 私は、これまで、この会社をヒイキにしていたのだが、今後は極力、競合他社の方を利用しようと思う。


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