2015/12/25 降誕祭

本日は降誕祭であるが、私はキリスト教徒ではなく類キリスト教徒であるから、特別なことは、しない。

さて、過日、我が名古屋大学医学部附属病院における原発性肺癌見逃しの事例が公表された。 本件について厳しい批判があるのは当然のことであるが、インターネット上では、事実誤認に基づく的外れな意見も多い。 批判しようとする者は、曖昧な伝聞だけを根拠とせず、まず 調査報告書の概要 を読むべきである。

概略だけを簡略に述べると、腎癌に対し根治的腎摘除術を受けた 40 歳代の男性について、転移の有無を検索する目的の CT を複数回施行したが、 原発性肺癌の存在を 2012 年 6 月まで見落としていた、ということである。 結果として肺癌に対する対処が遅れ、当該男性は 2014 年 3 月に死亡した。 腎摘除を受けたのは 2007 年 5 月であり、報告書によれば、遅くとも 2009 年 5 月の時点で原発性肺癌に気づくべきであった、とのことである。

この報告書を読んだ感想を二点、述べよう。

まず第一は「2009 年 5 月の時点で気づくべきであった」という点についてである。 報告書概要には、2008 年 10 月と 2009 年 5 月の CT が掲載されている。 その画像をみて、私は「これをみて肺癌を疑えるのか」と、舌を巻いた。 当たりまえのことではあるが、プロフェッショナルに比べれば、私の目などはフシアナである。

この病変があるのは、横隔膜に近い S8 と呼ばれる領域である。 CT を撮影する度に、横隔膜の位置は多少はずれてしまうし、また、心臓の動きも止めることはできない。 そのため、このあたりの領域は、撮影毎に肺の位置や形が少しずつ異なってしまう。 従って、どうということはない陳旧性病変と肺癌とを鑑別することが難しいのである。

第二は、主治医たる泌尿器科医が読影に関与しなかったことについて「画像検査の最終確認は依頼者の責任であり」としている点である。 少なくとも名大病院の場合、放射線科医は画像を読影して「レポート」は書くが、これは診断書ではない。 診断するのはあくまで臨床医であり、責任は臨床医が負う、ということになっている。 この体制は、はたして、本当に適切なのだろうか。

たとえば、乳癌患者に対しセンチネルリンパ節生検を施行して転移陰性と病理診断したにもかかわらずリンパ節郭清を強行した、となれば、病理医は激怒するであろう。 もちろん、リンパ節転移が認められなくても念のため郭清する、という発想はあり得るが、それならばリンパ節生検自体を省略するべきである。 従って、病理診断が誤りであると考える充分に合理的な理由を示せない限り、そのリンパ節郭清は不適切な医療行為であり、傷害罪の疑いがある。 仮に合理的理由があったとしても、診断にあたった病理医との協議なしに郭清することは、倫理的な問題が大きい。

これに対して放射線診断の場合、そもそも放射線科医は「所見」と「印象」を述べているだけであり、「診断」しているのは臨床医だ、という建前になっている。 つまり法令上のことだけでいえば、この読影レポートを書くのに医師免許は不要であり、技師でも良いことになる。 従って、臨床医がレポートの内容に納得しなかった場合に、黙ってそれを無視したとしても、 医師同士の信頼関係を損ねる恐れはあるが、病理診断の場合ほど重大な問題にはならない。

かつての、放射線検査といえば単純なレントゲン画像と同義であった時代ならいざ知らず、CT や MRI の普及により放射線診断が進歩した現代において、 放射線科医が診断責任を負わないことは合理的であろうか。


2015/12/24 卒業式

あと 3 箇月ほどで卒業式である。 10 年ほど前の話になるが、私は、京都大学の卒業式は欠席した。それは、次のような理由からであった。

2002 年 4 月の入学式には出席した。当時の総長である長尾さんは、国立大学の法人化が議論されていた時期に、国立大学協会の会長を務めていたように思う。 現実的には法人化は避けられぬという事情と、学問の自由を守らねばならぬという責務との間で、最善を尽くして奮闘されているように、私にはみえた。 その長尾さんが総長であるから、何か面白い話が聴けるかもしれぬ、と思い、ノコノコと入学式に出かけたのである。 しかし、実際には、あまりコレという話もなかったように思う。何も印象に残っていない。

卒業の時には、総長は尾池さんに代わっていた。 人が代わったのだから、今度は面白い話があるかもしれぬ、と思い、出席するつもりであった。 しかし当日、本部キャンパスから会場である体育館に移動する際に「やっぱり、やめた」と思いなおした。 周囲の学生をみて、嫌気がさしたのである。 理由は知らぬし、現在がどうなのかも存ぜぬが、当時の京都大学の卒業式には仮装して出席する者が稀ではなく、半ば、お祭り騒ぎのようなものであった。

私は、権威とか格式とかいうものが嫌いであるから、そういう式典を茶化すような行為には、むしろ好感をおぼえる。 ただし、茶化すのは、キチンと学生生活を送った上でのことでなければならぬ。 当時の京都大学の学生の間には、学問をやろう、という気概は乏しく、ウマいこと過去問やカンニングを駆使して試験で点数を稼ぎ、 単位を掠めとることを良しとする風潮があった。 カンニングの現場を私自身は確認したことがないが、試験直前に、ノートや参考書の類を異常に小さくコピーした紙片をみかけることはあった。 また、カンニングが発覚したので単位取り消しに処す、という掲示をみたこともある。

さらに、講義の際も、教室に存在する学生は多いが、ただ教員の話を聴いてノートに記述するばかりであった。 講義中に質問や意見表明をする者は稀であり、本当に講義に参加している者は、物理工学科二百余名のうち 10 人にも満たなかったであろう。 一応、名大医学科の学生諸君を擁護しておくが、京大物理工学科にくらべると名大医学科は、 教員自身が、講義中に学生が発言することを歓迎しない雰囲気を作ってしまっている。 従って、名大医学科で講義中に学生が発言しないことは、必ずしも学生ばかりが責められるべき性質のものではない。

話を元に戻すが、そういう、ただ単位だけを獲得して「京大卒」の肩書を世間に対して振りかざそうとする連中を、私は認めなかったし、 彼らと並んで卒業式に出席することを、拒んだのである。

さて、名古屋大学の方であるが、私は、つい先日まで、卒業式の類は全て欠席する方針であった。 現状の医学科教育に対して含む所があるので、「欠席理由書」のようなものを提出してボイコットしようと思っていたのである。 本当は講義や実習をボイコットしたかったのだが、学生間の連帯が期待できぬ現状では、私が留年するだけに終わるであろうから、それは避けた。 なお、謝恩会については全く別の理由による欠席なのだが、それは、全てが終わってから書くことにしよう。

以上のようなことを考えていたのだが、過日、北陸医大の病理学教授から「始めと終わりは、キチンとした方が良い」と諭された。 従って、学位記授与式には出席する所存である。


2015/12/23 血圧 (4) 循環器生理学

循環器生理学を学ぶ際には、これまでに述べたベルヌーイの定理を念頭に置いて教科書を読むと、わかりやすい。 正確にいえば、「教科書の、この記述は、おかしい」ということを、自信を持って指摘しながら読み進めることができる。 この日記で循環器生理学の全体を復習することは避けるが、いくつかの、しばしば学生や医師に誤解されている点だけを指摘しておこう。

まず、「血液は圧力の高い方から低い方に流れる」という決まりは、ない。 12 月 21 日に行ったのと同様の実験において、筒の両端は断面積が 1 cm2 であるのに対し、 中央付近の断面積は 2 cm2 であるような場合について考えよう。 この場合、両端付近に比べると中央付近では水の流れが緩やかなはずであり、従って運動エネルギーも小さい。 エネルギー保存の観点から、あるいはベルヌーイの定理から、中央付近は圧力が少し大きいことになる。 つまり、左端と中央付近で比べると、水は、圧力の低い方から高い方へと流れているのである。 先日述べたように、圧力というのは単なるポテンシャルエネルギーの一種であり、「流体を動かそうとする力」のようなものではない。

人体についていえば、血圧は、心臓から血液を送り出す駆出力を表しているわけではない。 「ガイトン」によれば、心室収縮期においては、太い動脈の血圧は大動脈の血圧より少しだけ高いらしい。 これは、こうした太い動脈の断面積の総和が大動脈の断面積より大きいためであろう。 もちろん、これは太い動脈から大動脈へと血液が逆流しているのではなく、上述の水の例と同じことである。 さらに極端な例としては、心停止した人に対してたくさん輸液を行えば、「血圧は高いが、血液は流れていない」という状況を作ることもできる。 ただし脈拍はないから、聴診法や、通常の非侵襲式自動血圧計では血圧を測定できず、カテーテルによる血管内血圧計を用いる必要はある。

では圧勾配はどうか。ふつう、動脈血圧は静脈血圧よりも高く、一見、「圧勾配に従って、血液は動脈から静脈の方向に流れている」というように、みえる。 これは、当たっていると言えなくもないが、あまり正確ではない。 流れに沿って圧力が下がるのは、摩擦や振動によりエネルギーが血管壁へ移り、血液からは失われた結果に過ぎない。 従って、もし摩擦が充分に小さく、また振動も起こらないならば、動脈血圧と静脈血圧の差は、ずっと小さくなるであろう。 精巧な物理学的実験下においては、たとえ圧較差がなくても、液体は、流れるのである。 そう考えると、「圧勾配と流れの向きは一致する」という観察事実は概ね正しいといえるが、「圧勾配があるから流れる」という因果関係は存在しない。

カリキュラムの形式上はどうだか知らぬが、現実には、こうした基礎的な力学を修めずに医師になる者が多いようである。 循環器内科や心臓外科を志望する学生ですら、このあたりは怪しい。 医科物理学の重要性は、かつて京都帝国大学教授の前川孫二郎が格調高く指摘したのだが、 それから 70 年経った今日においても「物理など、臨床の役に立たぬ」などと放言する医師や学生が稀ではなくて、困る。


2015/12/22 血圧 (3) ベルヌーイの「定理」

我々の「ベルヌーイの法則」に理論的説明を加える。 理論的、といっても、何も、流体力学の詳細な議論をしようというわけではなく、あくまで定性的な議論に徹する。 数学的な細かな部分、つまり「ベルヌーイの法則」の式において係数は何か、というようなことも、ほんとうは、重要である。 しかし率直に申しあげて、物理学的素養を欠く医学科生の手には余るであろうし、単に数式の変形だけを追いかけることになっては本質を失うから、ここでは省略するのである。

前回の実験において、我々は筒を締めつけているわけではないので、筒が中の水を押しているわけではない。 それにもかかわらず、筒の左側、つまり入口部分において、なぜ血圧は 0 より大きかったのだろうか。 実は、これは、ポンプか何かが水を押しているからである。

水道管を、蛇口から上流方向にたどっていくと、どこかにポンプか何かがある。 このポンプが働いているおかげで、我々は蛇口の栓をヒネるだけで、電源スイッチも何も押さずに、水を取り出すことができるのである。 あるいは集合住宅の場合、屋上あたりに貯水槽があって、そこから各家庭の蛇口まで単純な配管でつながっているかもしれない。 この場合、貯水槽に水を汲み上げるにはポンプを使うが、貯水槽から蛇口までは、単純に高低差で水は流れる。 とにかく、こういう何らかの仕掛けがない限り、水は動かないし、蛇口から出てくることもない。

ポンプが絡むと話がややこしくなるから、我々が実験に使った水道は、貯水槽から蛇口まで水が高低差に従って流れ落ちてくるタイプであることにしよう。 この場合、摩擦などで失われるエネルギーは 0 であると近似すれば、筒の右端から出てくる水の運動エネルギーは、 貯水槽から蛇口までの重力の位置エネルギー差に等しいはずである。

一方、筒の左端では、運動エネルギーは小さく、重力の位置エネルギーも 0 である。 エネルギーの保存を信じる立場からいえば、ここでは、第三の、新しいポテンシャルエネルギーのようなものとして蓄えられている、とみるしかあるまい。 実は、これが「圧力のエネルギー」なのであるが、これをキチンと示すには、どうしても微積分法か分子運動論のどちらかを使わなければならない。 しかし、いずれにしても読者は著しく興味を失う分野であろう。 ある種のテクニックを使って読者を「わかった気分」にさせることはできるかもしれないが、 そういう態度は、ゴットフリート・ライプニッツやダニエル・ベルヌーイらに対する敬意を欠くものであろう。 むしろ「何か小難しい議論が存在するらしい」で済ませて立ち入らない方が、いくぶん有益であるように思われる。

さて、正確な議論はよくわからないままであるが、力学の難しい理論によれば、 我々が臨床的に測定している「血圧」は、この「圧力のエネルギー」に相当するらしい。 そのことを踏まえて循環器生理学をみなおすと、世俗的なアンチョコ本が、いかにデタラメを書き連ねているかが、よくわかる。 そして残念なことに「ガイトン」のような名著でさえ、循環器まわりについては、不可解な記述が少なくないのである。

たとえば、いわゆる右心不全について「右心系から血液を送り出す力は弱まっている一方、静脈系からは心臓に血液が戻ってくるので、右心系の圧が高くなる」 というような説明を、どこかでみたことがある人は多いのではないか。 たぶん、この説明に納得した人は皆無であり、「そういうものなのだ」と無理矢理に納得しているのが多数派ではないか。 だいたい、右心系から出る量が減っているのだから、右心系に還ってくる量も減っているはずであり、一体、この説明は何を言っているのか理解できない。 我々の「ベルヌーイの法則」から考えても、この説明は、おかしい。 圧の大小が運動エネルギー、すなわち流れの速さ、さらには流れる量を決めるのであって、「還ってくるから圧が上がる」などという論理はない。

心不全で右心系の圧が上がるのは、単に、代償性に体液が貯留しているからに過ぎない。 むしろ左心系が比較的低圧なのであって、これは左室収縮能が相対的に高いからである。 この代償性の体液貯留については、スターリングの法則と関連して11 月 10 日に書いた。


2015/12/21 血圧 (2) ベルヌーイの法則

次のような実験を (頭の中で) 行おう。

中空の筒を、水平に、我々からみて左右方向に置く。 左側の端はやや太く、断面積が 2 cm2 であるが、右側の端はやや細く、断面積は 1 cm2 でしかない。 左側の端を、ホースで水道の蛇口につないで、毎秒 2 cm3 の勢いで、水を流し込むのである。 何が起こるだろうか。

当たり前のことであるが、筒の右側から、水が流れ出してくる。その量は、どれだけだろうか。

もちろん、毎秒 2 cm3 である。誰でもわかる。では、筒の右端から水が流れ出す時の「速さ」は、どのくらいだろうか。

ちょっと算術のできる小学生なら、2 cm/s と答えるであろう。その通りである。

さて、筒の中を通る間に、我々は水に対して何の仕事もしていないし、また、水から何の仕事もされていない。 だから、エネルギー保存の法則というものが正しいと考えるなら、「左端に入る時に水が持っている全エネルギー」と、 「右端から出る時に水が持っている全エネルギー」は、等しいはずである。もし、そうでないなら、我々は永久機関を作れてしまう。

余談であるが、私は、永久機関を作ることは不可能である、とは思わない。 永久機関が不可能であると考える「物理学的な」根拠というのは、熱力学の法則に反するから、というものであるが、 その法則を正しいと実験的に、あるいは理論的に証明した人は、いまだかつて存在しないのである。 では、具体的にどういう方法をとればいいかということについては、ここには書けない。 何しろ、私は将来、それを実現して世界中から喝采を受ける予定なので、ここでネタバラシをして誰かに先を越されては困るのである。

閑話休題、筒の左端から水は 1 cm/s の速さで入っていることに注意して、この時の「単位体積あたりの水の運動エネルギー」を計算する。 運動エネルギーは、質量を m、速さを v とすれば (m v2) / 2 である。 水の密度を 1 g/cm3 とすれば、この場合 0.5 g / (cm s2) となる。 なんだかみなれない単位であるが、エネルギーを「単位体積あたり」で表現すると、こうなる。ちょうど、圧力と同じ次元になっている。 一方、水が右端から出る時の運動エネルギーは 2.0 g / (cm s2) である。

つまり、水の運動エネルギーは、「入る時」より「出る時」の方が、大きいわけである。 エネルギー保存の法則を信じるならば、これは、何らかの「位置エネルギー」のようなものが運動エネルギーに変換されたとみるしかない。 しかし筒は水平に置かれているのだから、重力の位置エネルギーのようなものは、関係ないはずである。 一体、エネルギーは、どこから出てきたのだろう。

思案していると、とある学生が、何を思ったか先日作った血圧計を持ってきて、この筒の左端と右端の「血圧」を測り始めた。 たぶん、この学生には何か深い考えがあったわけではなく、単に、血圧計で遊びたかっただけであろう。そういう遊び心が、大事である。 ところが、測り終えた学生君は、驚いた。 左端では「血圧」が 0.15 Pa であり、右端の「血圧」は 0.00 Pa だったのである。 学生君は算術が得意なので、単位の違いに注意して換算してみたところ、ふしぎにも

単位体積あたりの運動エネルギー + 圧力 = 一定

という関係が成立していたのである。これが、世にいう「ベルヌーイの定理」である。

ここまでの我々の議論は、理屈抜きの単なる観察事実である。 従って、このままでは「ベルヌーイの定理」ではなく「ベルヌーイの法則」と呼ばねばならない。 そこで次回は、この「ベルヌーイの法則」に理論的な説明を加えて、「定理」の名にふさわしいものにしよう。

2015.12.23 語句修正

2015/12/18 血圧 (1) なんとか血圧を定義する

たぶん、ほとんどの学生は、血圧というものを理解していない。 物理学、特に力学をキチンと修めていないのだから、仕方のないことではある。 これは、どうやら日本の医科学生に限ったことではないらしい。 米国の著名な教科書である `Guyton and Hall Textbook of Medical Physiolosy 13th Ed.' をみても、「学生にどうやって血圧の概念を教えるか」で苦労している様子がうかがえる。 そして残念なことに、キチンと理解できる説明には、なっていない。 「ガイトン」ですら、こうなのだから、たぶん世の中に、血圧を適切に教えている生理学の教科書は存在しないのではないかと思う。 そこで私がガイトン先生の代わりに、何回かに分けて、血圧という概念を解説することにしよう。 もちろん、我々は医者であって物理学者ではないから、物理学的に本当に厳密な議論は、しない。 相対性理論だの素粒子だのといったムズカシイことは省略して、しかも微分積分の細かな議論はゴマカシてしまおう。

まず「力」とは何か、ということは、議論しない。マジメに議論すると、ものすごく難しい話になるからである。 だいたい日常生活における「力」のイメージのままで、構わない。 力の大きさは、ふつう、「ニュートン」の単位で表す。ニュートンを表す記号は N であって、1 N とは 「質量 1 kg の物体に対し、毎秒 1 m/s の加速度を与える力の大きさ」である。 従って「N」という単位は、「(kg m) / s2」という単位と全く同じである。 たとえば、体重 60 kg の学生が毎秒 3 m/s の勢いで加速しているとすると、この学生には 180 N の力が加わっているはずだ、ということになる。 余談であるが、私は中学生だか高校生だかの頃に、この「毎秒 1 m/s」という表現を用いたところ、教師から「m/s2」とする方が良い、と指導された。 まぁ、物理の世界では確かにそうなのだが、加速度という概念を簡明に、素人にもわかりやすく伝えるには、「毎秒 1 m/s」の方が良いと、今でも思っている。

次に「圧力」である。圧力とは「単位面積あたりに加わる力」のことをいう。 圧力の大きさは、ふつう、「パスカル」の単位である。記号では Pa であって、1 Pa とは 「1 m2 あたり 1 N の力が加わっているときの圧力」のことである。 たとえば、3 m2 の板の上に 12 N の力が加わっている場合、板にかかる平均の圧力は 4 Pa である。

まぁ、ここまでは問題あるまい。ヤヤコシイのは次からである。

「血圧」というのは、「血管内を流れる血液の圧力」である、と、いいたいところであるが、上述の圧力の定義からは、「液体の圧力」というのは意味がわからない。 血管内に微小な領域、たとえば小さな架空のガラス板が存在すると考えて、そのガラス板を押す力、とでもいいところだが、 直観的には、そのガラス板を置く向きによって「押す力」も変わりそうな気もする。 いや、それ以前に、ガラス板を置くことによって流れが変わってしまい、何をみているのか、わからなくなってしまうではないか。 どうやら、血圧というものを定義する前に、我々は「圧力」の概念を拡張して、もっと広い意味で定義し直す必要がありそうだ。

いきなり「液体の圧力」を考えるのは難しいから、まずは「気体の圧力」を定義することにしよう。 それも、一般論だとワケがワカラナクなるから、「密閉された容器に入っている気体の圧力」に限ることにしよう。 しかも都合の良いことに、この容器の蓋はピストンになっていて、我々が自由に押したり引いたりできる仕掛けになっていることにする。 もちろん、このピストンはすごく軽くて、質量は 0 と近似できるものとする。

まず、我々がピストンに触れていないとき、容器内の気体の圧力は、場所によらず一定であり、0 Pa である、と定義してしまおう。 「場所によらず一定」として問題ないのか、という疑問もあるだろうが、とりあえずは、そう決めてしまう。 もし後で問題が生じたら、その時に定義を修正すれば良い。 また、物理を少し勉強した人なら「0 Pa ではなくて 1 気圧じゃないの?」と思うかもしれない。 それは完全に正しい指摘なのだが、医学では、大気圧を基準とした相対圧力を使うのが普通である。 後でわかることだが、その方が臨床的には便利なのだ。

さて、我々がピストンを押したり引いたりしている時、我々はピストンに圧力をかけていることになる。 この「ピストンにかかっている圧力」のことを、「中の気体の圧力」と呼ぶことにしよう。 これにより、かなり特殊な状況に限られるが、気体の圧力を定義することができた。

次に、血圧計を作ろう。 我々の (架空の) 血圧計は、中に空気を容れた小さな袋である。この空気は、ふつうの環境では 1 nL の体積を持っている。 もちろん、nL というのは μL の 1000 分の 1 を表す単位である。 この袋を、さきほどのピストン付き密閉箱に入れ、温度は 37 ℃に保ったままで圧力を様々に変えてみよう。 イロイロ実験してみたところ、どうやら、「箱の中の圧力」と「袋の体積」とは、一対一に対応するらしいことがわかった。 「なんで、そうなるのか」というのは、たいへん適切な疑問なのであるが、その議論をここで始めると読者がいなくなってしまうから、後回しにしよう。 とりあえず一対一対応であることが「経験的に」わかったから、我々は、圧力を様々に変えて血圧計の体積を測ることで、両者の関係を一覧表なりグラフなりにすることができる。

血圧を測定する際には、この血圧計をカテーテルの先端にとりつけて、患者の血管内に挿入する。 そして任意の部位に血圧計が届いたら、超高分解能の CT で血圧計の体積を測定するのである。 すると、さっき作った一覧表を使って体積を圧力に換算することで「血液の圧力」がわかる、という寸法である。

以上により、我々は「血圧」を「(架空の) 血圧計で測定できる値」として定義することができた。 定義はできたが、こんな強引な定義であるから、一体、血圧というものにどんな意味があるのかは、まだわからない。

ところで、なぜ、飛行機は空を飛ぶことができるのか。誰しも、子供の頃は不思議に思ったであろう。 そして周囲の大人は、誰一人、納得できる説明をしてくれなかったに違いない。 中学生か高校生の頃に、ふと疑問に思って調べてみた人もいるであろう。 すると「ベルヌーイの定理が云々」と書いてあって、たぶん、大半の人は理解できずに、やはり諦めたのではないだろうか。

実の所、血圧も飛行機も、同じような話なのである。ベルヌーイの定理抜きには、どちらも理解できない。

ベルヌーイの定理というのは、要するに流体に関するエネルギー保存の法則である。高校時代に習った、アレである。 ただ、流体ならではの項が入ってくるから、少しだけ複雑にみえるに過ぎない。 そこで次回は、ベルヌーイの定理の話をする。

2015.12.21 日付修正

2015/12/17 夫婦別姓

たまには医学と何の関係のない話を書いても良いだろう。 最高裁判所で、夫婦別姓を認めない現行制度は違憲とはいえない、という判決が出た、という件についてである。 同時に、離婚後に女性が再婚できない期間を 6 ヶ月とする民法の規定については違憲との判断が出たらしいが、 これは医学的観点からいって当然に過ぎ、議論の余地がないので、触れない。

夫婦の姓について、現行民法では第 750 条に「夫又は妻の氏を称する」とあり、どちらかの姓に統一せねばならない、ということになっている。 これについて「夫の姓に統一せねばならない」などと誤解している人が稀にいるらしく、よろしくない。 どちらに統一するかは、夫婦間で協議して決めることであって、制度上は自由なのである。 なお、姓と氏は、本来は別のものであるが、現代日本においては区別されない。

しかし実際のところは、夫の姓に統一する例が多いようである。キチンとした統計は知らないが、だいたい 9 割方は夫の姓にするらしい。 そこで、結婚したからといって改姓を強要されるのは人権侵害だ、というような主張がでてくるのである。 これに対する今回の判決を読んだわけではないが、新聞などの報道をみる限りでは、制度上は男女平等であり、明らかな憲法違反とはいえない、という主旨のようである。

これは、不当判決である。 確かに、制度上は男女平等である。 しかし実際の社会的関係において、事実上、女性が一方的に改姓を強要されていることは明白である。 そうした現実がある以上、国は、これを是正する法制度を設けねばならない。 それを怠り、形式的な平等だけを定めている民法第 750 条は、憲法第 14 条に違反していると言わざるを得ない。 実際、最高裁でも 15 人の裁判官のうち女性裁判官 3 人全員を含む 5 人が違憲との判断を下したらしい。

ただし、これについて「アイデンティティが云々」「人格を否定されているようで云々」などと主張している一部女性の意見には、全く賛同できない。 戸籍上の姓名と、個人の人格に、一体、何の関係があるのか。

そもそも、人が、ただ一つの氏名しか持ってはいけないという決まりはない。 たとえば明治維新の頃に活躍した木戸某という男をみると、姓も和田だの桂だのとよくわからないし、 名も孝允だの小五郎だの準一郎だの、コロコロと変えている。 ナントカ金之助とかいう作家は、なにやら格好つけて「漱石」などと称していたし、 現代でも、鈴木某という野球選手は「イチロー」という名前で選手登録していた。 名前などというのは、その程度のものなのであって、戸籍に何か書いてあるとしても、それは行政上の便宜のために過ぎない。 我々の人格や社会生活には、関係のない話なのである。

変名を使うのは、何も有名人に限ったことではない。 工学部時代、私の所属していた物理工学科原子核工学サブコースには、Alex というミドルネームのようなものを使っている日本人の教員がいた。 他の教員からも「アレックス」と呼ばれ、浸透していたようである。 これを特に意識したわけではないが、私も、あるイタリア風の名前を、あちこちで使っている。 この変名を試験の答案用紙に書こうとしたこともあったが、さすがに学籍と一致しないために不正行為を疑われては困るから、学籍名の方を書いた。

私の同級生にも、在学中に結婚して戸籍名が変わった女性がいる。 彼女自身は、新しい戸籍名の方を学生生活全般で使っているようだが、私は、相変わらず昔の姓で呼んでいる。 これが失礼なことだとは思わないし、以前、本人に確認したところ「どちらでも良い」という返答であったので、馴染みのある方の姓で呼ぶことにしたのである。

最後に、まったくどうでも良い話であるが、私は独身であるけれども、もし結婚する機会があるなら、ぜひ相手側の姓に変えたい。 この、今の姓は、どうにも好かぬ。


2015/12/16 泌尿器科学

私が泌尿器科学の再試験にで合格したことは以前、述べたが、再試験には、なかなか印象深い出題がなされた。

一つはロボット支援手術に関する出題である。 医学書院『標準外科学』第 13 版によれば、2001 年に術者が米国本土、患者がフランスにいる状況での `Trans-Atlantic Surgery' により 腹腔鏡下胆嚢摘出術に成功した、とのことである。 これを読んだ時、私は、通信ラグの問題をどう解消したのか気になったが、たぶん、 術者にラグを感じさせないハイパーテクノロジーが開発されたのだろう、と想像した。 ところが泌尿器科学再試験では「ロボット支援による遠隔手術は現時点では不可能である」という主旨の出題がなされた。 どういうことなのかと不思議に思っていたが、試験を担当した Y 講師によれば、「通信ラグがあるので、遠隔手術では使いものにならん」とのことである。 これを聴いて、ナァンダ、と、合点がいった。

上述の点は単なる笑い話なのだが、もう一つ、確かにそうだ、と感銘を受けた出題があった。 具体的な内容は忘れたが、ある疾患に対する二つの治療法について「○○は△△より QOL が高い」とする記述は誤りだ、というものであった。 QOL というのは Quality of Life のことであって、生活の質、などと訳される概念である。 これについて、Y 講師は「QOL は患者それぞれの感性等によって決まるのであって、一律にどうとはいえない」と述べた。 確かに、その通りなのである。私は、いつの間にか「医学」と称する教えに少しばかり毒されていたようだと、反省した。

この Y 講師については、四年生の講義の時、実に印象深いできごとがあった。 泌尿器科学の講義は、今から二年前の、たぶん年末の頃にあったのだと思う。 年明けには CBT なる試験があり、これに合格せねば進級できないことから、その頃は割と必死に勉強している学生が多かったようである。 ただし、勉強といっても「クエスチョン・バンク」やら「病気がみえる」やらの俗書を開いて試験対策する、というものであって、医学の勉強ではない。 医学科生の間では「すぐに役立つもの」を尊び、「十年後に役立つもの」を軽んじる風潮があるから、 大学の講義などよりも「クエスチョン・バンク」の方がありがたいのである。 そこで、この頃の学生の大半は、出席点を稼ぐためだけに教室内に存在するものの、講義には参加せず、ひたすら、いわゆる内職を行っていたのである。 大半の教員が、それを黙認していたのだが、Y 講師は、ただ一人、優しく、しかし明確に、苦言を呈したのである。

名大医学科の臨床科目の教員に限っていえば、Y 講師以上に教育を真剣に考えている人物はいない。


2015/12/15 表皮嚢胞か感染症か

私自身の話である。4, 5 日前から、よくわからない急性皮膚病を患っている。 もともと、私の右下顎には母斑細胞母斑があるのだが、その部位が発赤、腫脹してきたのである。 母斑自体は、少なくとも 20 年ほど前からあるものなので、悪性黒色腫とか有棘細胞癌とかいうことは、たぶん、ない。

急性の変化であること、表皮には明らかな異常がないこと、5 mm から 10 mm 程度の小結節であることから、私は、表皮嚢胞の破裂であろう、と自己診断した。 表皮嚢胞というのは、何らかの事情で表皮が真皮に陥入し、角化層を内向きにした嚢胞を形成するものであって、中には角化物を溜める。 平たくいえば、表皮の表裏がひっくり返って、本来の表面を内側にした袋状になっているものであり、その袋の内容物は垢のようなものである。 これが破裂すると炎症を来したり、異物肉芽腫を形成したりする。 私は、外科的摘出が必要になるだろう、などと思いつつ、以前から通院している皮膚科開業医を受診した。 なお、昨晩までは発赤を伴う小結節のみであったのだが、本日朝になると、化膿がみられた。感染が合併した可能性もある。

その医師は、視診し、簡単な問診で圧痛があることを確認し、「黴菌が入ったのだ」と診断した。 え、本当かよ、と思いつつ、処方された薬を受けとり、私は帰途についた。 医師の指示によれば、病変が自壊したら排膿せよ、とのことである。 なお、処方内容はアミノグリコシド系抗菌薬であるゲンタマイシン軟膏、ニューキノロン系抗菌薬であるレボフロキサシン錠、 いわゆる粘膜保護薬であるレバミピド錠である。 ニューキノロンに胃薬を併用するのが一般的であるかどうかは、知らぬ。 感染であるならたぶん StaphylococcusStreptococcus あたりであろうが、なぜセフェムではなくニューキノロンなのかも、わからぬ。 添付文書の指示に反して 感受性検査なしにニューキノロンを使うのが一般的なのかどうかも、知らぬ。 腎臓病などの既往歴は確認されていないし、副作用に関する説明もない院内処方であったが、これで事故が起こらないのかどうかも、存ぜぬ。 なお、この医院では、継続通院している患者に対し、医師が対面しての診察を省略して「薬だけ出す」ということも行っているようだが、 これが医師法違反にあたらないのかどうかは、言及しないことにしよう。

さて、鶴舞に帰った私は、いささか迷ったが、医師の指示に反して「用手的に」皮膚を切開し、 排膿した。 鏡を使ってよく観察すると、化膿していたのは小結節の辺縁のみであって、病変の中心部には明らかな膿瘍はみられない。 今後どうなるのか、慎重な経過観察を要する。

皮膚感染症といえば、以前、大学院時代に、右であったか左であったか忘れたが、足背の感染症を患ったことがある。 夜から急に痛みだし、朝になってから近くの整形外科を受診した。 その医師は、ここから入った黴菌が全身にまわって、敗血症になって死ぬこともあるのだ、などと私を脅した。 看護師は「先生、脅かしすぎ」などと笑っていたが、医師は、あくまでまじめに「黴菌は怖いのだぞ」と言っていた。 今から思えば、あの医師の発言は、完全に正しい。 ちょっとした傷から壊死性筋膜炎を来し、敗血症の診断が遅れて救命できない、という事例は、遺憾ながら、現代の日本においてそれほど珍しくはない。 それ故に、日本集中治療医学会の日本版敗血症診療ガイドラインでは、 敗血症の診断基準をかなり緩く設定し、敗血症と「誤診」する可能性を高めてでも、早期診断することが重要であるとしている。


2015/12/14 `Ocular Pathology' と `Histology for Pathologists'

先日 `Ocular Pathology 7th Ed.' という書物を購入した。 これは、名称の通り、様々な眼疾患の病理を語る書物である。 ただし、内容は基本的に箇条書きであり、通読する読み物というよりは、必要に応じて調べるための辞書の類であるように思われる。

海外の事情は知らぬが、日本における学生向けの「教科書」というものは、たいてい知識を羅列しているだけであって、ろくな説明がない。 眼科学についていえば、南山堂『TEXT 眼科学』改訂 3 版は名著であるが、それでも疾患概念についての説明は乏しく、 徴候や診断方法、治療方法の記載が中心になっている。 こうした知識を偏重する日本の医学科教育は、医療労働者養成のための職業訓練には適していても、医学教育としては不適である。 そもそも、読んでいて面白くないし、ちっとも興奮しない。

その点、`Ocular Pathology' には、病理組織学的所見のみでなく、疾患概念や臨床所見やまで含めて詳細かつ明瞭に記されており、たいへん、よろしい。 この書物を個人で所有するというのは、なかなかゼイタクなことであるが、常に手が届く所に置いてあるということに意義がある。

ところで、病理医の間で有名な組織学の教科書に Stacy E. Mills の `Histology for Pathologists 4th Ed.' というものがある。 私は、組織学については南山堂『組織学』改訂 19 版で勉強しただけなので、素人に毛が生えた程度である。 これではイカンと思い、先日より、チョコチョコと Mills を読んでいる。 この書物は、前文の書き出しが面白い。

The third edition of Histology for Pathologists was published in 2007 and it is reasonable to ask if ``normal'' has changed enough in the ensuing 5 years to justify a new edition. The answer, of course, is that normal has not changed at all (evolution is indeed a slow process!) but our perception of normal continues to expand and improve.

本書の第三版が 2007 年に出版されてから 5 年が経つ。 この間に、新しい版を出す必要があるほどに正常像が変化したのだろうか、との疑問を持つのは、自然なことである。 答えは、もちろん、正常像は全く変化していない。(進化のプロセスは、実に遅い!) しかし、正常像に対する我々の理解は、常に拡張し、深まっている。

いずれの書物も `Pathology' と題してはいるが、内容は、病理診断と直接には関係がないので、一般の医師や学生でも楽しめるであろう。 もちろん、こんな本を読んでも、臨床の役には立たないであろうし、言うまでもなく、試験にも出ない。 しかし、そういう「役に立たない」引き出しの多寡が、十年後、二十年後に大きな差となって現れるであろう。


2015/12/13 アミロイドーシス

アミロイドーシスと呼ばれる疾患群がある。これは、アミロイドと呼ばれる異常な蛋白質が様々な臓器に沈着することで機能障害を来すものである。 しかし「アミロイド」とは何か、ということをキチンと説明できる学生は稀であろう。

アミロイドの正体は、いまひとつ定かではないのだが、蛋白質が異常な三次元構造をとって細胞外に蓄積したものであるらしい。 元の姿は様々であり、免疫グロブリン軽鎖であるとか、ミクログロブリンであるとか、 `Robbins and Cotran Pathologic Basis of Disease 9th Ed.' によれば 23 種類が知られているという。 これらの異常な構造を持つ蛋白質が、どういうわけか「アミロイド P」と呼ばれる蛋白質と結合して繊維状になり、専ら細胞外に沈着するらしいのである。

`Robbins' は、通常ならばプロテアソームで処理されるはずの異常蛋白質が処理能を超えて蓄積する、という機序を述べているが、 たぶん、これは単なる誘引であって、疾患の最も本質的な部分ではあるまい。 蛋白質は、しばしば folding に失敗する。 `Molecular Biology of the CELL 6th Ed.' によれば、中には 80 % もの高率で misfolding する蛋白質もあるらしい。 従って、プロテアソームの処理能を超えた、というだけのことであるならば、もっと雑多な蛋白質が沈着するはずである。 さらにいえば、アミロイドが専ら細胞外に蓄積することや、コンゴレッドで染色できるような繊維構造を共通して持っていることも説明できない。 何か極めて重要なこと、たぶんアミロイド P の働きに関係するような何かを、我々は、未だ知らないのである。

アミロイド P といえば、`Robbins' には興味深い検査のことが書かれている。 この蛋白質には、既に沈着しているアミロイドに対しても結合する、という性質があるらしい。 そこで、アミロイド P を放射性同位元素で標識して静脈内投与することで、アミロイドを描出するシンチグラフィが可能である、という。 もっとも、こうした検査は金原出版『核医学ノート』第 5 版などの教科書にも記載されていない。 たぶん、現状ではアミロイドの沈着を検出したところで有効な治療法が存在しないので、費用がかかる割に、検査することの臨床的意義が乏しい、と考えられているのだろう。

たとえば甲状腺髄様癌は、カルシトニン産生細胞、いわゆる C 細胞が癌化するものであるが、しばしばカルシトニン由来のアミロイドが局所的に沈着する。 このアミロイド形成、沈着の過程が詳らかになれば、神秘のヴェールに包まれたアミロイドーシスの本質に対する理解は、大きく前進するであろう。


2015/12/11 志望動機

医師や医学科生に対して「なぜ、医者になろうと思ったのですか?」と安易に質問するのは、避けた方が良い。 なぜならば、十中八九、「親や教師に勧められたから」「高校時代に成績が良かったから」「なんとなく」「親が医者だから」などと、ろくな理由がないからである。 医者の中には、「親が医者だから」というのが立派な理由だと思っている者がいるようだが、意味がわからない。 このあたりは過去に何度か書いたし、今さら、繰り返して批判することは避ける。

中には「子供の頃に祖父が癌で亡くなって云々」などという者もいるらしいが、よく考えると、これは理由になっていない。 祖父が孫より早く死ぬのはあたりまえであるし、日本人の 3 人に 1 人は癌で死ぬのである。 祖父の癌が理由になるなら、日本人はほとんど全員、医者になってしまう。

私は、ろくでもない理由で医学科に入ること自体は、やむを得ないと思う。 18 歳の若者に、キチンとした理由で進路を選べ、と要求する方が無茶なのである。 問題は、大学に入ってからである。 「考える」ということを軽視し、ひたすら覚えることばかりを要求する教育が、少なくとも名大医学科では、なされている。

同級生の話を聞く限りでは、これは高校までの教育の問題であるように思われる。 とにかく覚えるのが試験に合格するための近道であるし、試験の点数、偏差値で頭の良し悪しは評価されるのである。 しかも、その試験の点数争いも、首都圏に比べると地方はヌルい。 そうした環境で育って、18 歳になって初めて学問に触れるのだから、遅すぎる。

入学した後、三年生以下ぐらいの頃には「早く臨床のことを学びたい」などと言う者が少なくない。 基礎、基本を学ばずに、臨床のことがわかるはずはないのだが、そんなことは考えないようである。 また、基礎科学、基礎医学にも、感動すべき点、興奮すべき点はいくらでもあるのに、そうしたものは目に入らぬようである。

四年生になると、「早く臨床実習をやりたい」と言い始める。 医学を全く修めていない者が、病院に行って何を勉強するのかよくわからないのだが、とにかく、もう机上の勉強は嫌なのである。 病院での実習はきっと楽しいに違いない、とにかくやれば身につく、と思っているのだろう。

そして臨床実習が始まって半年ほど経つと、だいたい、飽きてくる。 もう実習はいい、国家試験対策の勉強をする時間が欲しい、などと言い始める。 まだ見てはいないが、たぶん、医者になって三、四年もすれば、彼らは「早く開業したい」と言い始めるに違いない。

いったい、どこで道を間違えたのだろうか。 大学入試と、一年次のカリキュラムの罪が重いように思われる。


2015/12/10 神秘主義

「オーソモレキュラー」を称する勢力がいる。 Orthomolecular medicine というのは、もともと精神疾患、特に統合失調症に対するビタミン大量投与療法を支持する勢力から発展したものである。 あまり明確な定義をしている学術文献がみあたらないのだが、適切な栄養摂取の重要性を説く目的で 20 世紀後半に作られた用語であるらしい。

現在の精神医学は、基本的に「明確な器質的異常によらない異常」を扱っている。 しかし、精神の異常は根本的には脳の異常であると考えられるから、よくよく調べれば、どこかに器質的異常が存在するはずである。 具体的に何がどうおかしいのかは、現時点では明らかにされていないが、ビタミンあるいはそれに類する何らかの栄養欠乏が原因となって 統合失調症などを来している可能性はあるから、Orthomolecular medicine の人々の主張は、荒唐無稽とはいえない。 ただし、ビタミン欠乏と精神障害との関連を説明する理論も、明確な統計的根拠も欠いているから、合理的であるともいえない。

日本においてオーソモレキュラーを称する医師の中には、この本来の Orthomolecular medicine を独自に改変した、独自の「医療」を実施している者がいる。 何やら詳細な血液検査に基づいて、どんな栄養が欠乏しているのかを明らかにし、不足しているものを補う、というようなものであるらしい。 もちろん、保険の効かない自由診療であるから、なかなか高額な費用がかかるらしい。 この「高額」というのがポイントであって、無知な患者は「こんなにお金をかけているのだから、効くに違いない」という心理が働き、 プラセボ効果により体調は良くなると思われる。

彼らが、どのように血液検査所見を解釈しているのかは、知らない。それらしい内容を説明した文献も、みあたらない。 臨床検査医学の立場からいえば、血液検査で、細かな栄養バランスを見抜くことは、まず不可能であるように思われる。 たぶん、彼らは何か画期的な新技術を開発し、それを非公開のまま使用しているのであろう。

以前、漢方医学が不適切に神秘的な扱いを受けている件について書いた。 現在の医学ではどうにもならぬ、ということになった患者は、時に、藁にもすがる思いで、こうした漢方医学やオーソモレキュラーに頼る。 患者に対する心理的、社会的ケアが不足している証拠である。 それだけでなく、自由診療の名の下に、そうした患者を医師が食い物にしているのだから、恐ろしい話である。

2015.12.11 語句修正

2015/12/09 Mohs 手術

皮膚科学において「Mohs 手術」と呼ばれる手術法がある。 日本ではあまり行われていないようだが、欧米では、それなりに支持者がいるらしい。 中山書店『あたらしい皮膚科学』第 2 版をみると、本文中では言及がないものの MEMO として 「切除組織から迅速凍結切片を作成し, 腫瘍が取り切れていることが病理組織学的に確認できるまで, 少しずつ切除する手技である」と紹介している。 この手術法は「切除範囲が最小限で済み低侵襲であること, 再発率が低いことなどが利点である」という。

上述の説明だけではわかりにくいかもしれないが、興味のある人は `Barun-Falco's Dermatology 3rd Ed.' などを確認すると、もう少し詳しく説明されている。 この手法の特徴は、組織学的な検索を行う際の切片の向きが普通とは違う、という点である。 通常、皮膚を病理組織学的に調べる際には、体表面と垂直な向きの断面を、一枚のプレパラートに載せる。 つまり顕微鏡でみると、上の方に皮膚があって、その次に真皮があって、さらに下には皮下組織がある、といった格好になる。 しかし Mohs 手術の場合、体表面と平行な向きのプレパラートを作る。 すなわち、あるプレパラートには表皮しかなく、別のプレパラートには真皮しかない、といった具合である。 こうすることによって、表皮内をどの程度まで腫瘍が広がっているのか、といった評価を行いやすくなる、という考え方である。

先に述べておくが、私は、こういう野心的な試みが大好きである。 周囲に「馬鹿じゃないのか」などと嗤われようとも、こうした常識外れな発想から、新しい検査、新しい治療が生まれるのであって、 こうして科学と医学は発展し、人類は進歩するのである。

`Rosai and Ackerman Surgical Pathology 10th Ed.' は、病理診断学の聖典のようなものであって、どこの病院の病理部に行っても、まず間違いなく、書棚に置いてある。 この Rosai は、上述の Mohs 手術を、極めて激しい論調で批判、攻撃している。 Rosai によると、切片を Mohs 手術で行われる向き (`en face') に作るのは、既に 1 世紀以上前に病理学や組織学の分野で試みられ、 評価が難しく誤判定しやすいという理由で放棄された手法であるという。 さらに、Mohs 手術では外科医自身が検鏡して判断することが多いが、こうした外科医は病理組織学的な訓練を充分に積んでいないことも珍しくないようである。 このため、多くの皮膚科医や形成外科医らは、この手法に懐疑的であるらしい。

このように Mohs 手術の有効性は疑わしいのだが、術中迅速診断を繰り返す、という基本方針自体は、有益であろう。 病理診断は、様々な情報を引き出すことのできる有力な検査であるにもかかわらず、そうした情報のほとんどは、治療に反映されていないように思われる。 たとえば、乳癌に対する化学療法の方針は免疫組織化学染色所見に基づいて決定されるのが普通である。 こうした、治療方針を左右するような情報を提供することこそが、これからの病理診断を担う我々の仕事である。 単に組織をみるだけなら医師である必要はなく、かつてのように、病理診断は臨床検査技師に任せてしまえば良い。

2015.12.11 余字削除

2015/12/08 尿素

12 月 3 日の記事で、私は第 105 回医師国家試験 A 21 の問題を攻撃したが、これは、私の不見識であり、誤りであった。 この問題は、非常によくできており、極めて良い問題であるといえる。 私は、尿素というものをよく知らなかったので、的外れな批判を行ったのである。

友人の某君は、この問題について「脱水じゃないの?」と指摘してくれたが、彼の指摘は完全に正しい。 非ケトン性浸透圧性高浸透圧昏睡では、まず間違いなく脱水がある。脱水が伴わなければ、それほど急激な浸透圧変化は来さないからである。 そして脱水がある場合には、必ず、血中尿素窒素濃度は高くなるのである。この「必ず」というのが重要である。 以下に、生理学的根拠を述べる。

尿素は、細胞膜を通過する。従って、基本的には血漿中、組織液中、および細胞内液での尿素濃度は等しく、浸透圧較差を生まない。 ただし、この透過性は著しく低いので、尿細管のように盛んに水の移動が起こる部位においては、膜の内外での尿素濃度は必ずしも平衡状態に達していない。 `Guyton and Hall Textbook of Medical Physiology 13th Ed.' は、腎髄質の集合管には尿素トランスポーターが発現している、としているが、 他にも近位尿細管あたりにもトランスポーターは発現しているようである。 基本的には、尿素はこの二つの領域で再吸収されると考えてよかろう。 細かいことをいえば、医学書院『臨床検査データブック 2015-2016』によると尿中尿素窒素は 4-13.8 g/day、つまり概ね 4-14 g/L であるのに対し 血中尿素窒素は 0.09-0.21 g/L に過ぎないので、膀胱内でも緩徐に尿素の再吸収は起こっているはずである。

髄質集合管における尿素の再吸収は、飽和しているものと考えられる。 というのも、Goldstein らの調べによれば、遠位尿細管に作用するループ利尿薬などは、尿素排泄率をあまり変化させないらしいのである。 背筋のゾクゾクする話である。(Journal of Applied Physiology 26, 594-599 (1969).) `Guyton' によれば、集合管の尿素トランスポーターの発現は ADH によって調節されているらしい。 つまり ADH は、尿素の再吸収を亢進させて髄質間質浸透圧を高める、という機序によっても水の再吸収を促しているのである。 これらの事情をふまえて、急性腎不全の原因を推定する際に、ナトリウム排泄の具合ではなく 尿素排泄の具合をみた方が良いのではないか、とする意見が、近年、強まっているようである。

私は、尿素について、実に無知であった。


2015/12/07 障害者福祉

同級生の某君と法令上の障害者について話していて、よくわからなかったので、ここにまとめておく。 なお、具体的な法令の条文については、政府の公式サービスであるe-Govで検索するのが良い。

日本国における障害者福祉の基本理念は、障害者基本法で定められている。 基本法というのは、国としての基本的な方針を定める法律であって、諸々の具体的な制度は、この基本法の理念に沿う形で定められる。 形式的には単なる法律であるから、これを改正する際には国会における通常の手続きのみでよく、国民投票などは行われない。 この法律の第二条では、障害者とは「身体障害、知的障害、精神障害その他の心身の機能の障害がある者であつて、障害及び社会的障壁により 継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるもの」とされている。 なお、社会的障壁とは「障害がある者にとつて日常生活又は社会生活を営む上で障壁となるような 社会における事物、制度、慣行、観念その他一切のもの」である。

これは、あくまで医学日記であって、法学日記ではないから法律の詳細に言及することは避けるが、その理念を簡潔にみておくことには意義があるだろう。 まず第一条 (目的) は

この法律は、全ての国民が、障害の有無にかかわらず、等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重されるものであるとの理念にのつとり、 (中略) 相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会を実現するため、 (中略) 障害者の自立及び社会参加の支援等のための施策を総合的かつ計画的に推進することを目的とする。

というものである。そして第四条 (差別の禁止) は

何人も、障害者に対して、障害を理由として、差別することその他の権利利益を侵害する行為をしてはならない。
2 社会的障壁の除去は、それを必要としている障害者が現に存し、かつ、その実施に伴う負担が過重でないときは、 それを怠ることによつて前項の規定に違反することとならないよう、その実施について必要かつ合理的な配慮がされなければならない。

である。社会的障壁を除去に努めることが、義務として定められていることに注意を要する。

さて、障害者支援の具体的内容を定めた法律は、歴史的な変遷があるものの、現在では障害者総合支援法が中心となっている。 身体障害者の場合、支援の内容は、便宜上、障害の程度によって定められる「等級」によって、ある程度、決まる。 これは、身体障害者福祉法施行規則で定められているものであって、基本的には医師による診断書と意見書によって判定される。 等級表は厚生労働省のウェブサイトで閲覧できる。 この等級表の内容が適切かどうか、という点にも議論はあるが、今回は、そのあたりへの言及は避けよう。 注意すべき点は、表中には疾患名は登場せず、あくまで「どのような機能障害があるか」という観点だけで等級は定まる、という点である。

さて、冒頭の某君との間で話題になったのは、心疾患についてである。 等級表では、心疾患による障害で最も軽いのは 4 級であり「心臓の機能の障害により社会での日常生活活動が著しく制限されるもの」となっている。 つまり、仮に心疾患があったとしても、日常生活活動に何ら影響がない程度であれば、法令上の障害者としては扱われない。 ただし、このあたりは客観的基準がないから、医師の「意見書」の加減で、何とでもなるといえば、何とでもなる。 従って、医師は高い倫理観を持ち、障害者支援の不正受給を防ぐ一方で、本当に支援を必要とする障害者には円滑な支援が行われるよう、適切な意見書を書かねばならぬ。


2015/12/06 医科専門学校

医師の仕事というのは、既に確立された医療技術を習得し、それを教えられた通りに患者に対して実施することである。 従って、医学の勉強に際しては、正確な知識を蓄えることこそが重要なのであって、 「勉強する」という語と「覚える」という語は、だいたい、同じ意味と思って良い。

……という意味不明な認識が、なぜか、医科学生や若い医師の間では支配的なようである。 一部の例外を除けば、大抵の教授や学界の重鎮は、むしろ「マニュアル診療ではいけない」というようなことを言っているのに、なぜか、若手は逆の認識を持っている。 たぶん、部活動の悪い先輩などから、よからぬ教えを受けているせいであろう。

従って、医学的な問題を議論しようと思っても「ガイドラインにどう書いてあるか」「教科書にどう書いてあるか」という所で止まってしまい、それ以上は、なかなか進めない。 名大医学科の場合、四年生で PBL、五年生で学生 CPC と、医学的な議論を行う実習もあるのだか、そもそも議論のための基礎を修得していないのだから、 こうした実習は形骸化し、実りの乏しいものになっているように思われる。

医学科の連中は、まるで自分達がエリートであるかのように錯覚しているが、それは大学入学時点での話に過ぎない。 医学科 5, 6 年生は、他学部でいえば大学院修士課程に相当する、ということになっている。 修士課程修了といえば、自分の専門分野についてならば、教授陣や、世界中の研究者を相手に互角に議論、討論できるレベルである。 それをふまえて医学科の現状をみれば、もはや「大学」と称せる水準の教育を行っていないと言わざるを得ない。「名古屋大学附属医科専門学校」などと改組するべきである。

一番の問題は、当事者が問題意識を欠いていることである。 医者は、自分のことしか考えていない。医療制度をどうするか、公衆衛生をどう守るか、ということには、関心がない。 自分の技を研き、出世し、金を稼ぎ、立場を守ることしか考えていないのが、医者であり、医科学生である。 現在の制度に自分が適応することに集中しており、現在の制度を改めようという意識はない。

一つには、大学入試のあり方にも問題はあるのだろう。 それでも、入学後の教育、特に 1, 2 年次の教育さえキチンと行われていたならば、ここまで酷い状況にはならないはずである。 私は北陸に出ていく身であるから、名古屋大学をはじめとした東海地方の医学教育が腐っていようが何だろうが、関係のない話ではある。 しかし、そうした医者の診療を受けねばならない東海地方の住民の方々には、心より同情申し上げる。

北陸の医学教育の現状はよく知らぬが、仮に問題があったとしても、これから我々が建て直すので、心配はいらぬ。 名古屋大学のような歪んだエリート意識は少ないであろうから、北陸の再建は、比較的、容易であろう。


2015/12/05 Overdrive Supporession

心臓には Overdrive Suppression という現象がある。日本語では高頻度駆動抑制などと訳されることもあるが、 そのままオーバードライブ サプレッションと言う方が、よく通じるであろう。 心臓の調律は、普段は洞房結節が担っているが、病的状態では房室結節や His 束、あるいは Purkinje 繊維などが調律を担うこともある。 しかし、洞房結節からの信号が突然、途絶えた場合、たとえば完全洞房ブロックが発作性に生じた場合などは、 房室結節による補充調律が直ちには生じない。 そのため、数秒から数十秒、あるいは一分以上の期間にわたり心静止してしまう。 このように、頻回の刺激を受けている特殊心筋の自動能が抑制される現象のことを Overdive Suppression と呼ぶ。

たとえば房室結節リエントリー性の上室性頻拍の患者に対し、迷走神経刺激法によるリエントリーの解除を試みる場合を考える。 このとき、もし洞房結節が Overdrive Suppression により自動能を一過性に失っているならば、リエントリーを解除すると直ちに心静止するであろう。 単純に考えると、脳が重篤な傷害を受けたり、死亡する恐れがあるので、速やかに胸骨圧迫を行うべきではないか、とも思われる。 はたして、迷走神経刺激法というのは、それほど危険な手技なのだろうか。 それとも、洞房結節は Overdrive Suppression を来さない何らかの機構を備えているのだろうか。

そもそも Overdrive Suppression は、どういう機序によるのであろうか。 `Hurst's The Heart 13th Ed.' をみると、 「よくわからないが、細胞内へのナトリウムイオンの蓄積により Na-K ATPase の活性が亢進するせいではないか」というようなことが書かれている。 一見、論理は通っているのだが、この理屈が正しいならば、洞房結節も Overdrive Suppression を来すはずである。本当だろうか。 Vassalle によるレビュー (Circulation Research 41, 269-277 (1977).) は、Overdrive Suppression の研究の歴史をよくまとめたものである。 この歴史を、簡略にまとめて紹介しよう。

Overdrive Suppression の現象は、臨床ではなく基礎生理学の研究の中で発見されたらしい。 これを初めて明確に記載したのは、1884 年の Gaskell の報告のようである。 しかし、この頃には Overdrive Suppression と、迷走神経刺激による自動能低下は明確に分けて認識されておらず、混乱した議論が続いた。 というのも、実験的に動物の心臓を電気刺激した場合、心筋だけでなく迷走神経も刺激されてしまうため、何が起こっているのか、あまり明確にできなかったのである。

この分野の議論が進んだのは 1960 年代に入り、人工ペースメーカーが臨床的に使われ始めてからである。 人工ペースメーカーが故障して動作停止した場合、Overdrive Suppression による心静止のために患者は死亡する恐れがある。 それを防ぐためにはどうすれば良いか、という観点から、Overdrive Suppression の機序を解明する必要がある、という認識が広まったのである。 こうした必要に応えるような研究を興すことができたのは、それまで臨床的な要求とは関係なしに 基礎生理学的基盤を築いてきた Gaskell や Erlanger, Hirschfelder らの功績である。 ノーベル賞をはじめとして科学的業績を表彰することの問題点は、こうした先人の働きが低く評価され、 最後に形を仕上げた者だけが高く評価される点にある。

話を元に戻すが、1963 年、Vincenzi と West は、細胞内に電極を配置したり印加電圧を適切に設定することにより、迷走神経の刺激を避け心筋を選択的に刺激した。 この場合も、Overdrive Suppression は生じたのである。 さらに 1965 年、Lange は迷走神経を切除しても Overdrive Suppression に変化は生じないことを示した。 これらの研究により、Overdrive Suppression は迷走神経刺激とは別の現象である、という事実が明確になったのである。

1977 年の時点では、Overdrive Suppression は、細胞内の Na イオン濃度上昇、もしくは K イオン濃度の低下により、 Na-K ATPase の活性が亢進しているためであろう、する意見が多かったようである。 つまり、このポンプは膜電位を低く、つまり「大きなマイナス」にする方向に働くから、第 4 相の緩徐脱分極を抑制する、という理屈である。 論理はもっともらしいが、本当に、そんなことで興奮は抑制されるのだろうか、と考えるのは自然なことである。 この点について、Gadsby と Granefield は、1979 年、細胞内 K の枯渇ではなく Na の蓄積によってポンプが活性化している、ということを実験的に示したらしい。 この実験は面白そうなので、彼らの報告はキチンと読んでおこうとは思っているが、まだ目を通していない。

以上のことから考えると、理屈としては、洞房結節でも Overdrive Suppression は起こるはずだ、といえる。 実際、起こる。 いわゆる洞不全症候群の診断目的で行われる洞房結節回復時間というのは、この Overdrive Suppression から回復する時間を測定するものである。 しかし洞房結節の場合、His 束などに比べると、この回復が非常に速いようである。 従って、リエントリーを解除する目的での迷走神経刺激法で患者が死亡することは、よほど特殊な状況でない限りは、ない。 こうした洞房結節の特殊性は、カルシウムチャネルが云々という事情が関係するようであるのだが、そろそろ長くなってきたので、続きは別の機会にしよう。


2015/12/04 図書館の充実していること

名古屋大学のような名門大学に比べると、北陸医大 (仮) のような地方大学には、一つだけ、弱点がある。 学術文献が貧弱なのである。

名古屋大学附属図書館医学部分館は、医学科と同じ鶴舞キャンパスにあり、医学関係の文献を中心に所蔵している。 この図書館の素晴らしいところは、内分泌学、麻酔学、といった分野毎に、大抵の定評ある教科書が開架書庫に納められている点である。 このため、学生がちょっと調べものをしたいと思った時に、`Miller's Anesthesia 8th Ed.' だとか、 「ウィリアムス 産科学 原著 24 版」だとかいった専門書を、すぐに開くことができる。

北陸医大の図書館も、こうした専門書を所蔵してはいる。 しかし OPAC で検索してみると、だいたい「研究室貸出」となっていて、図書館の開架書庫にはないらしい。 もちろん、各研究室に行って「閲覧させてください」と言えば喜んでみせてくれるであろうが、ちょっとした調べ物だけのためにイチイチ研究室を訪問するのは、 時間や労力の観点から、あまり便利とはいえない。

さらに、蔵書量自体も、残念ながら我が北陸医大は名古屋大学に劣る。 たとえば上述の「ウィリアムス 産科学」は優れた訳本で、版も原書の最新版と同じである。 私のような、英語を日本語ほどには扱えない一般的な学生からすると、たいへん、ありがたい書物である。 もちろん名古屋大学では開架書庫に納められているのだが、北陸医大では、OPAC で調べる限り、そもそも所蔵していないようである。 また、これは何かの間違いかもしれないが、小児科学の基本的な教科書である `Nelson Textbook of Pediatrics' も、 19th Ed. は北陸医大の開架書庫にあるのだが、最新版の 20th Ed. が検索に引っかからない。

私のように研修医として北陸医大に赴く者は、まだ良い。 給与の 15 % 程度を資料代に投入すれば、それなりに立派な蔵書を個人で揃えることができるからである。 しかし学生の場合、そうもいくまい。

予算や設備といった面においては、我々地方大学は、旧帝大のような名門には及ばない。 その代わりに、人や診療科の垣根が低いこと、コマワリが効くことを活かして、我々は、我々ならではの医学や医療を展開していく必要がある。


2015/12/03 糖尿病性昏睡

この記事の内容は、誤りである。どう間違っているのかは12 月 8 日の記事を参照されたい。

完全に専門家向けの話である。 第 105 回医師国家試験 A 問題には、おかしな出題が多い。とりわけ酷いのは A 21 であって、次のようなものである。

69 歳の男性。意識障害のため搬入された。1 年前から高血糖を指摘されていたが特に何もしなかった。 1 週前から風邪気味であったが、2、3 日前から咳と微熱を認め、前日から食事摂取が不良となった。 意識レベルは JCSII-30。身長 172 cm、体重 72 kg。呼吸数 16 / 分。脈拍 88 / 分、整。 血圧 104/88 mmHg。 舌の乾燥を認める。心音と呼吸音とに異常を認めない。 尿所見: 蛋白 (-)、糖 3+、ケトン体 (-)。 血液生化学所見: 血糖 760 mg/dL、HbA1c 7.8 % (基準 4.3〜5.8)。 抗 GAD 抗体陰性。
この患者の予想される検査結果に最も近いのはどれか。

a 尿比重 1.010
b Hb 11.5 g/dL
c 尿素窒素 46 mg/dL
d 動脈血 pH 7.15
e PaCO2 30 Torr

日本語がおかしい、とか、検査結果を予想させること自体がおかしい、とかいう点は、この際、抜きにしよう。 それでも、この問題は、おかしい。「正解」できた学生は、不勉強である。 正確にいえば、勉強の仕方がおかしい。

一応、日本国厚生労働省の公式見解では「c」が正解である。 友人の某君は、「非ケトン性高浸透圧昏睡だから、尿素窒素高値」なのだと教えてくれた。

糖尿病による意識障害には、何通りかの機序がある。 インスリンの打ち過ぎによる低血糖、というのは厳密にいえば糖尿病自体が原因ではないから、除外しよう。 教科書によっては乳酸アシドーシスを含めているものもあるが、これも糖尿病を直接の原因とはしないので、ここでは考えない。 すると、残りは概ね 2 通りである。

一つは、いわゆる糖尿病性ケトアシドーシスによる昏睡である。 糖尿病というのは、ものすごく平たくいえば、グルコースの利用障害が全身で生じる疾患である。 細胞内でグルコースが欠乏した結果、肝臓などで脂肪酸の β 酸化が亢進し、いわゆるケトン体が生じる。 このうちヒドロキシ酪酸は酸性なので、結果的にアシドーシスを来す。 このとき、詳しい機序はよくわからないのだが、諸々の代謝異常のために意識障害を来すようである。

もう一つが、いわゆる非ケトン性高浸透圧昏睡である。 これは感染などを契機に、急性にインスリン作用が低下することで生じる。 感染がインスリン作用の低下を引き起こすこと自体は生理的な反応だが、これによって糖尿病を発症することもある。 著しい場合には、急激に著明な高血糖および脱水を来すことがある。

高血糖による脱水は、いわゆる浸透圧利尿、として説明する教科書が多いが、いささか論理に無理があるように思われる。 というのも、通常、高血糖状態では血漿だけでなく組織液中のグルコースも多いのだから、浸透圧利尿が働くとは思われない。 何か別の機構が存在するのであろう。

ともあれ、機序はよくわからないが、とにかく脱水が高血糖に併されば、血漿浸透圧が急激に高くなることがある。 このとき、オスモライトと呼ばれるアミノ酸などの代謝・輸送による細胞内外の浸透圧較差の調節が間に合わず、脳萎縮が生じ、意識障害を来す恐れがある。

以上の議論からわかるように、非ケトン性高浸透圧昏睡は、必ずしも腎機能障害を背景に持たない。 インスリン作用の減弱により糖新生が亢進し、尿素産生が増加する可能性はあるが、検査所見がどうなるかは、何ともいえない。 冒頭の症例において、与えられた情報からは、血中尿素窒素濃度が高値になると考える理由はないのである。 某予備校のテキストでは「非ケトン性高浸透圧昏睡では尿素窒素高値」などと書かれているようだが、彼らが学んでいるのは、医学ではない何かである。


2015/12/02 The New York Times

友人の某氏から、The New York Times の記事を二本、紹介された。 なかなか面白かったので、ここでも紹介しておこう。

一本目は、11 月 22 日に配信された `Are Good Doctors Bad for Your Health?' という記事である。 内容はタイトルから想像される通りのものであって、ある論文の内容を、素人に「わかりやすく」説明したものである。 元の論文が何であるかは明記されていないが、たぶん The Journal of the American Medical Association Internal Medicine 175, 237-244 (2015). であろう。 極めて簡素に要約すれば、「米国の有名病院において、循環器科の上級医が学会で不在であった (であろう) 時期は かえって治療成績が良かった」という内容である。 これだけ読むと、まるで「エラい医者ほど、かえって下手だ」などと短絡的に想像してしまいそうだが、実際にはかなり解釈に難渋する調査結果であって、 そのあたりの議論が The Journal of the American Medical Association Internal Medicine 175, 1419-1421 (2015). でなされている。 しかし The New York Times の記事は、そうした専門的で厳格な議論は抜きにして、「エラい医者を探すのは無駄な努力だ」と言わんばかりに、 無責任に一般大衆を煽る内容になっている。

The New York Times というのは、別段、格調高い出版物ではなく、日本でいえば朝日新聞社の週刊誌「AERA」ぐらいの位置付けである。 娯楽として暇潰しに読むものであって、マジメに読んではいけない。 記事の中で、著者は重大な治療や検査を受ける際には医者に 4 つのことを質問するべきだ、として

という項目を挙げている。最後の一点は、「大学病院の方が市中病院より明確に治療成績が良い」という統計に基づいている。 面白いな、と思ったのは、この続きである。

It is surprising how uncomfortable some physicians get when you ask these questions.

驚くべきことであるが、一部の医者は、こうした質問を受けると不愉快に感じるようである。

日本にも、患者がよく勉強してアレコレ質問することを不愉快に感じ「患者は医師に全てを任せるべきだ」などと考える おかしな医者がいるらしいが、それは米国でも同じであるらしい。 当然といえば当然のことであるが、米国の医学教育の質も、その程度なのであろう。

もう一本の記事は 11 月 24 日の `Force Feeding: Cruel at Guantanamo, but O.K. for Our Parents' というものである。 これは、特に死に瀕している患者に対し、経管栄養、つまりチューブから栄養を流し込むことは、何ら予後を改善しない、という内容である。 医学の観点からいえば、「何を今さら」と思うような内容である。 米国の著名な内科学の教科書である `Harrison's Principles of Internal Medicine 19th Ed.' にも

patients stop eating because they are dying, not dying because they have stopped eating

患者は、死に瀕しているから食べなくなるのであって、食べないから死ぬわけではない

とある。終末期に経管栄養することに意味はない、ということは、医学界では常識なのである。

ところが、記事によれば、米国では、やたらと経管栄養が好まれるらしい。 何やら高度な医療技術を使っているような気がするせいであろうか、医者の中には経管栄養を好む者が多いという。 また、日本でいう老人ホームの類では、経管栄養することで高い料金を利用者に請求できる一方、 スタッフにしてみれば、手で食事を患者の口元に運ぶよりも経管栄養の方が楽だ、という事情もあるらしい。

もちろん The New York Times の記事を鵜呑みにするわけにはいかないが、もし事実であるならば、米国の医療も、かなり低レベルである。


2015/12/01 喘息と急性細気管支炎

ある人に問われて、明確に答えることができなかったので、喘息と急性細気管支炎の違いについてまとめる。

急性細気管支炎という語は、細気管支に急性炎症が起こっている、という状態を表す語であって、疾患名ではない。 細気管支とは、気管支が分岐して細くなったものであり、軟骨を欠く部である。だいたい、径は 1 mm 以下である。 急性細気管支炎の原因はウイルス感染であることが多く、`Nelson Textbook of Pediatrics 20th Ed.' によれば、特に RS ウイルスが多いという。 念のために確認すると、RS ウイルス感染症は乳幼児では非常にありふれた疾患であり、大抵、再感染を繰り返すことで免疫能が確立される。 ワクチンは存在しないが、先天性心疾患など高リスクの乳幼児に対しては、抗 RS ウイルス抗体の投与を行うことがある。

一方、喘息というのは、気管または気管支の慢性的な炎症であり、平滑筋の過形成や粘液の分泌過剰を呈するが、これらの変化は可逆的であるものをいう。 非可逆な変化、すなわち繊維化を来しているものは慢性気管支炎であり、別疾患と考える。 喘息は免疫系、特に好酸球や IgE が関係することが多く、アトピー性喘息などと呼ばれるが、正確にはアトピー性ではなくアレルギー性と呼ぶべきであろう。 なお、免疫系の関与は喘息の定義には含まれず、中には明らかなアレルギー反応を伴わない喘息もある。 この点に注意して考えると、喘息というのも、やはり疾患名ではなく、症候群である。

話が逸れるが、他に閉塞性呼吸器疾患としては肺気腫と気管支拡張症が有名である。 肺気腫とは、肺胞壁の破壊により気腔の拡大を来すもののうち、繊維化を伴わないものをいう。 肺胞壁、すなわち肺間質に繊維化を伴うものは間質性肺炎であり、これも別疾患とみる。 肺気腫と慢性気管支炎は、喫煙などとの関連が強く、しばしば共存することから、慢性閉塞性肺疾患 (Chronic Obstructive Pulmonary Disease; COPD) として まとめて議論されることも多い。 ただし「気管支が繊維化しているもの」である慢性気管支炎と、「肺胞壁が繊維化していないもの」である肺気腫を一緒にしてしまうというのは、 病理組織学的には不自然であるように思われる。 なお、気管支拡張症というのは炎症による平滑筋の破壊により気管支が非可逆に拡張したものをいう。

閑話休題、アレルギー喘息というのは、詳細はよくわからないが、幼少の頃に何らかの事情で免疫系がいささか不適切な格好で形成されてしまったために、 様々な環境因子に対して不適切な免疫応答を来すものであるらしい。 その成立過程には、慢性的な気管支の損傷やリモデリングが関係しているのだろう。 すなわち、乳幼児期に感染等により気管支に炎症を来し、喘鳴が続くことは、喘息の前駆病変であるかもしれないが、 その時点では喘息とは呼ばないのが一般的なようである。

以上のことからわかるように、臨床的には、喘息と急性細気管支炎の鑑別が問題になることは稀である。


2015/11/30 光線角化症と基底細胞癌

11 月 27 日の記事について、 友人の某君から「光線角化症 - 良性基底細胞上皮腫 - 悪性基底細胞癌 同一スペクトラム説は無理があるのではないか」との指摘をいただいた。 光線角化症を背景に生じる浸潤癌としては、基底細胞癌よりも有棘細胞癌の方が多いらしいから、 むしろ同一スペクトラム上にあるのは有棘細胞癌ではないか、というのである。 確かに、彼の主張は正しく、先日の説は、いささかの修正を要する。

表皮は、基本的には組織学的に四層構造として理解され、浅い方から順に角化層、顆粒層、有棘層、基底層の順である。 足底などの表皮が厚い部分では、角化層と顆粒層の間に淡明層が加わる。 この四層ないし五層のうち、生理的に細胞分裂しているのは基底層のみである。 基底細胞は不等分裂し、娘細胞のうち一方は基底層に留まり、もう一方が有棘細胞、顆粒細胞と分化しながら浅層へと移行し、やがて脱核して角化層を形成し、 ついには垢として脱落する。 この脱落する角化細胞が異常に増加したものが、皮膚科学でいう鱗屑である。

上述のように、表皮を形成する細胞は全て基底細胞由来であり、その観点からは、基底細胞癌も有棘細胞癌も同一細胞起源といえよう。 もっとも、基底細胞癌は表皮基底細胞ではなく、毛芽細胞に由来するという意見も有力なのだが、 両者はそもそも似た細胞であるので、ここでは、その問題は議論しないことにする。

`Rosai and Ackerman's Surgical Pathology 10th Ed.' によれば、基底細胞癌では、基本的に Hedgehog 経路の活性化を来す変異が生じているという。 この種の変異が原因となって、上述のような基底細胞の不等分裂が障害を来しているのが基底細胞癌の特徴であって、有棘細胞癌との相違点であろう。

そう考えると、これらの皮膚腫瘍の関係は、次のように整理できる。 まず Hedgehog 経路などに障害がなく分化が保たれているものについていえば、 光線角化症と有棘細胞癌は同一スペクトラム上にあると考えられる。 この場合、carcinoma in situ と良性腫瘍の間には、概念上の明確な区別がない。 こうした病変が浸潤性を獲得した場合、有棘細胞癌となる。 Bowen 病は、たぶん、別系統であろう。 光線角化症が分化障害を獲得すると、基底細胞様の非浸潤性腫瘍性病変が形成される。これが良性基底細胞上皮腫である。 これに浸潤能を伴っているものが悪性基底細胞癌である。

なお、Alan E. Mills は、光線角化症と基底細胞癌は Bcl2 の発現によって鑑別できる旨を報告した。 (The American Journal of Dermatopathology 19, 443-445 (1997).) しかし、この報告は、両者の典型例について 10 例調べただけのものなので、境界病変といえるようなものについて、Bcl2 を鑑別に用いることが合理的であるとはいえない。


2015/11/28 医師国家試験対策予備校

伝聞であるが、ある友人によると、某予備校のビデオ講義で、講師が次のような発言をしていたそうである。 「我々の仕事は、他の人がやっているのと同じようなことを、他の人と同じようにやることである。」 その友人は野心溢れる学生であるので、さすがに、この発言には腹が立ったらしい。 しかし世の医学科生の多くは、むしろ、この発言により安堵するのではないか。

上述の講師の発言内容に対しイチイチ反論することには、私の品格をかえって卑しめる以外の何の意義もないから、ここでは議論しない。 しかし、この話を聴いて、北陸医大で次の四月から同僚になる予定の某君のことを思い出した。

今年の夏であったか秋であったか、北陸医大 (仮) 六年生の彼と、お話をする機会があった。 その時、彼は「予備校のビデオ講座やクエスチョン・バンクなどを中心に勉強するのは、人材の多様性という意味からは、本当は良くないとは思う。」と述べた。 話を聴く限りでは、大学での彼の成績は、あまり芳しくないようである。成績の良し悪しと見識の高低との間には、さして強い相関は存在しないという証左である。 彼と同じような意見の持ち主は、もしかすると名大医学科にも少なくないのかもしれないが、思っていても、それを口にするには多大な勇気を要する。 名大の多数派と北陸医大の彼との違いは、紙一重のようにみえて、実は雲泥の差なのである。

大学入学の時点の偏差値では、率直に申し上げて、我々北陸医大は名古屋大学よりも格下であった。 しかし六年経って、医師としての資質、医学に向き合う姿勢については、どうか。 敷かれたレールから外れまいと、センセイの仰ることを無批判に受け入れ続けるうちに、 医師として学生として、大事なものを次々と捨て去ってしまったという自覚は、彼らにはあるまい。 北陸医大の医師国家試験合格率は国立大学の中では低い方だが、むしろ、あんなおかしな試験に 9 割以上も合格する方が異常である。 北陸医大は、健全といえる。

来春から、彼と共に働けることを、心より楽しみにしている。


2015/11/27 Bowen 病と光線角化症と基底細胞癌

11 月 30 日の記事も参照されたい。

上皮内癌 carcinoma in situ という語は、上皮組織内に限局した腫瘍性病変であって、細胞レベルでは悪性を示唆するものをいう。 「上皮内に限局して浸潤する」という言い方をしても良いだろう。 基底膜を越えては浸潤していない、という点が重要であって、通常は前癌病変と位置付けられる。

皮膚の carcinoma in situ という場合には、表皮内に限局した腫瘍性病変、ということになり、 有名なのは Bowen 病と光線角化症である。 臨床的には、日光のあたる場所に生じやすいのが光線角化症であり、そうでない場所に生じやすいのが Bowen 病である。

両者は、生じる場所が異なるだけでなく、組織学的観点からいって別疾患である。 光線角化症は、どうやら基底細胞層に異常が生じるものであるらしく、ここに強い異型を呈する。 たぶん、メラノサイトが基底細胞層に存在することと何らかの関係があるのだろうが、腫瘍化しているのはあくまで基底細胞であり、メラノサイトではない。 時に著明な角化を示し、皮角と呼ばれる角状の突起を形成することもある。 一方、Bowen 病は有棘細胞層の異常であるらしく、基底細胞層には異型がみられない。 調べたわけではないが、たぶん、基底細胞のゲノムには著明な変異を来していないであろう。

Bowen 病と光線角化症は必ずしも明瞭に区別できるものではなく、臨床的には光線角化症であるが組織学的に Bowen 病様である、ということもあるらしい。 これは病理診断学上は Bowen 病様光線角化症、と分類することになっているが、その理由は知らぬ。 本来は、どの細胞にどのような異常が生じているのか、という病理学的所見に基づいて分類するべきである。 このあたりは「どうせ、臨床的な治療法は同じだから」ということで、あまり積極的に研究されていないがために、病理診断上も中途半端な扱いを受けているものと考えられる。

ところで光線角化症は、基底細胞層に強い異型がみられるということから想像されるように、基底細胞癌との鑑別が難しいこともある。 基底細胞癌というのは、名前の通り基底細胞が癌化したもの、とされてはいるが、「癌」とみなすのが適切かどうかは、よくわからない。 この腫瘍は、時に真皮への強い浸潤傾向を呈するが、転移は稀である。なお、「稀である」というのは「無くはない」という意味である。 浸潤というのも、細胞がバラバラになって真皮に入っていくのではなく、あたかも「真皮内に陥入していくポリープ」とでもいうような形態で、 細胞集塊が真皮方向へと侵入していくのである。 そこで「良性腫瘍じゃないの?」という気持ちを込めて、基底細胞上皮腫 basal cell epithelioma という名称を用いる人もいるが、現在のところ 基底細胞上皮腫と基底細胞癌は同義語であるとされている。

以上のことを考えると、現在「基底細胞癌」とされている病変には、良性腫瘍と真の悪性腫瘍とが混在しているものと思われる。 本当は、光線角化症、良性基底細胞上皮腫、悪性基底細胞癌は、一連のスペクトラム上にあるのだろう。 そうした観点から、将来的には、基底細胞腫瘍を再分類する必要がある。


2015/11/26 核黄疸

過日、同級生の某君から「まさか、君は核黄疸を知らないのか」などと馬鹿にされてクヤシイ思いをしたので、調べた結果を、ここに記す。 念のために弁明しておくと、私は核黄疸というものを全く知らなかったわけではなく、ABO 式血液型不適合による胎児赤芽球症 Erythroblastosis fatalis を 無治療で放置した場合に重篤な障害を来すかどうかを、知らなかったのである。

核黄疸というのは、臨床所見からはビリルビン脳症と呼ばれるものであって、病理組織学的には大脳基底核や海馬などにビリルビン沈着がみられ、中枢神経障害を来すものをいう。 `Swaiman's Pediatric Neurology 5th Ed.' によれば、どうやらビルビンの蓄積に続いて神経細胞が壊死するようであるが、 特に早産児の場合、Purkinje 細胞はビリルビン沈着を伴わずに脱落するという。 これらの細胞が選択的に傷害を受ける機序は、わからない。

このように、詳しい機序は不明であるが、基本的には中枢神経系へのビリルビンの蓄積が問題であると考えられている。 血液脳関門を通過できるのは、いわゆる間接ビリルビンのうち、アルブミンなどと結合していないものであり、これを Unbound Bilirubin (UB) と呼ぶ。 だいたい、間接ビリルビンのうち 0.1 % 程度が unbound bilirubin であるらしい。 著明な高間接ビリルビン血症などの場合には、この unbound bilirubin の濃度上昇を来し、これが核黄疸を引き起こすようであるが、 実際には他の様々な要因も関係するらしく、イマイチ、はっきりしない。

さて、胎児赤芽球症というのは、何らかの事情で胎児が溶血性貧血を来し、赤血球産生が亢進している状態をいう。 母体と胎児で血液型不適合がある場合が典型的であり、臨床的には Rh 不適合の場合が重大な問題になるが、ここでは ABO 式血液型に限って議論する。 `Nelson Textbook of Pediatrics 20th Ed.' によると、これは、概ね次のような病態である。 たとえば母親が O 型である場合、抗 A 抗体や抗 B 抗体は、妊娠に関係なくもとから存在するが、なぜか、これらは基本的に IgM である。 IgM は胎盤を通過しないので、この場合、胎児は基本的に溶血性貧血を来さない。 しかし中には抗 A IgG 抗体を持つ母親もいるらしく、また過去に ABO 不適合の妊娠を経験している場合なども、抗 A あるいは抗 B の IgG 抗体を持つことがある。 この場合、IgG は胎盤を通過するので胎児が貧血を来すことがあるが、どうやら、通常は抗体の量が少ないらしく、胎児水腫を来すことは極めて稀であるらしい。 なお、胎児水腫とは「胎児の全身性浮腫」という意味であるが、この場合は高度の貧血による体液貯留の結果として生じるものである。

胎児の場合、溶血の結果として生じたビリルビンは経胎盤的に除去されるが、出生後は肝臓で代謝せねばならない。 だいたい新生児は肝臓における代謝能が低いので、一過性に高ビリルビン血症を来す。これが、いわゆる生理的黄疸である。 胎児赤芽球症の場合、健常児に比べてビリルビン産生量が多いため、高度の高ビリルビン血症を来すことがある。 しかし ABO 不適合の場合は、Rh 不適合に比べると溶血の程度が軽いから、高ビリルビン血症の程度も軽く、従って核黄疸を来すことは稀である。

一応、このように説明はされているのであるが、どうも釈然としない。論理が飛び飛びであり、キチンと説明できているとはいえない。 免疫機構というものは、今なお、深い霧の向こうに隠れているようである。


2015/11/25 HIV 感染

10 月 12 日に HIV 感染の話を書いたが、いささか不正確な認識で誤った内容を記載してしまったので、訂正し、補足を行う。

まず歴史的に男性同性愛者に HIV 感染が多かった理由についてである。 先日の記事では「男性同性愛者の場合、しばしば肛門に陰茎を挿入するという形態での性行為が行われる」と記したが、 これは「経肛門的に直腸に陰茎を挿入する」というのが正しい。 伊藤隆『解剖学講義』改訂 3 版によれば、 「肛門」というのは、解剖学的には消化管が臀部に開口している部をいうのであって、管腔を形成している部分を指すのであれば「肛門管」とするのが正しい。 さらにいえば、肛門管は直腸の一部であって、肛門柱や肛門洞などの構造がある部分および遠位部をいう。 これは、だいたい外肛門括約筋が存在する範囲と一致する。

上述の解剖学的定義からわかるように、「肛門に軽度の裂傷を来し、そこから精液由来の HIV に感染した」というのも正しくない。 正しくは、直腸に裂傷や擦過傷を来し、そこで露出した血管内に HIV を含む精液が入ることで感染が成立したのである。 `Robbins and Cotran Pathologic Basis of Disease 9th Ed.' によれば、これに加えて、経粘膜的な感染もあるという。 すなわち粘膜において HIV が樹状細胞や CD4 陽性細胞に貪食されることで感染が成立する、というのである。 この場合、直腸だけでなく、口腔からも感染するようである。 性行為による HIV の感染は、概ね、この二通りの経路によるらしい。

せっかくだから、HIV の感染経路について、もう少し補足を行っておこう。 歴史的に、HIV 感染は米国などにおいて男性同性愛者を中心に広がっていた時期があり、それ故に「同性愛者の病気」という不適切な認識が持たれていたことがある。 しかし昨今では、男性同性愛者の間で HIV などの危険性が認識され、コンドームの使用など適切な感染防御策が講じられていることにより、 男性同性愛による新規感染者は比較的減少している。 2009 年の米国における統計で、新規感染のうち男性同性愛によるものは 60 % 程度に過ぎない。 これに対し異性間の性行為による感染が 30 % 程度にまで増加しているという。

異性間の性行為による感染の場合、男性から女性への感染が圧倒的に多いという。これは精液中の HIV が女性に移行するものである。 このとき、女性側の粘膜にびらんや潰瘍があると、当然、感染のリスクは高まる。 その意味で性器ヘルペス、軟性下疳、梅毒などの患者は HIV 感染リスクが高い。 一方、男性側が淋病やクラミジア感染症を有している場合も HIV が女性に移行するリスクは高いらしく、 これは、炎症があると精液中の HIV 数が増加するためであると考えられている。詳細は、わからぬ。

厚生労働省委託事業であるエイズ予防情報ネットによると、 日本人では HIV 新規感染者の 95 % 程度が男性であり、そのうち 7 割程度が同性との性行為、2 割程度が異性との性行為による、となっている。 ただし、この統計は、あまり信用できない。 異性との性行為により感染した男性が 3 ヶ月あたり 20-30 人なのに対し、異性との性行為により感染した女性は 10 人程度でしかない。 一人の女性が売春などを通じて多数の男性に感染させているとしても、男性から女性への感染が少なすぎる。 診断されていない女性 HIV キャリアが多いのではないかと思われる。


2015/11/24 機会は均等か

現在の日本の社会制度は、みかけ上、男女の機会均等が、かなりの程度は担保されている。 大学入試では基本的に男女差別はないことになっているし、むしろ「女子大」というものが存在する分だけ、女性が優遇されているようにみえる。 企業の人事においても、性別を理由にした採用や昇進の差別は禁止されている。 恐るべきは、「禁止されているのだから、ほとんど存在しないだろう」などと信じている世間知らずが、意外と世の中には存在するらしいことである。 社会の中にあっては、実際上は性別を理由とした採用や昇進の差別が、何らかの名目をでっちあげた上で公然と行われていることなど、常識である。

蒙昧な男性陣にはみえにくいところで、女性に対する著しい蔑視は存在する。 たとえば大学における講義の際、男性講師の中には、女子学生を「女の子」呼ばわりする者がいる。 同様に男子学生を「男の子」と呼ぶならともかく、女性だけをそのように呼ぶのは、女性を男性より低くみている証拠である。 また、学会発表や研究指導の場において、女子学生に対しては批判が緩くなってはいないか。 講義中のセクハラ発言も、かなり多い。 就職活動に際して、男子学生はネクタイ着用が事実上、必須である一方で、女子学生は胸元が少し開いたブラウスが容認されるのは、一体、どういうことなのか。 なぜ、女性は化粧をすることが当然であるかのように言われるのか。 飲み会で、なぜ、女性には男性より少なく請求するのか。 食べる量が云々という理屈は、単なる名目に過ぎない。 我々のように酒を飲まない男性も、当然のように満額を払っているのである。

一部の鉄道会社が導入している「女性専用車両」の類も危険である。 性犯罪から女性を保護するため、という目的は、一見、合理的に思われるかもしれないが、実際のところ、これは南アフリカ共和国におけるアパルトヘイトと同じ発想である。 アパルトヘイトも元々は、犯罪者に黒人が多いという統計的事実に基づき、白人を保護するための「合理的」な政策だったのである。 「女性を保護しなければならない」という理由で男性と女性に不平等を設けることは、不適切な男女分離を定着させる恐れがある。 犯罪予防のためにどうしても女性専用車両が必要であるならば、同様に男性専用車両も設けなければ、おかしい。

なんだ、その程度か、という感想を抱いた男性は、少なくないであろう。 まさに、その通りであって、一つ一つは、どれも大した問題ではない。 内心では明確な差別的意識を持っている一方で、体裁だけは平等を装っているところに、日本社会の陰湿さがある。 差別によって作り上げた利権を守るための巧妙な手法といえよう。

医師関係についていえば、厚生労働省、都道府県、さらに大学といった、さまざまな単位で、「女性医師キャリア支援」のようなプロジェクトが存在する。 女性であるが故の、医師として生きていく上での諸々の悩みが存在し、それを支援するためのプロジェクトである、と私は認識している。 しかし、このようなプロジェクトが存在すること、需要があること自体が異常である。 もし日本社会がまっとうであるならば、女性であること自体は、キャリア形成において何らの障害にもならないはずである。


2015/11/23 本人が納得している問題

さて、男女隔差、あるいは男女差別を議論するにあたって問題となるのが「本人が納得しているなら、それで良いではないか」 あるいは「機会は均等なのだから」という意見である。順番に議論しよう。

「本人が納得しているのだから」という主張をする人々は、奴隷制度を、どのように考えているのだろうか。 古代ローマの時代から奴隷、あるいはそれに類する身分制度は存在し、欧州ではフランス革命より少し後、 あるいは米国では南北戦争の頃まで続いていた。 我らがアジア諸国では、第二次世界大戦より少し後になるまで、植民地という形での奴隷制度は存続した。 なお、この意味においては、大日本帝国による朝鮮併合は、植民地化にあたらない。

歴史上、奴隷が武装蜂起などの形で支配者に抵抗した例は多い。 しかし、その多くは衣食や労働などの待遇に対する不満によるものであって、身分の相違そのものを不満として蜂起した例は、少ない。 基本的に、奴隷の圧倒的多数は、奴隷たる身分そのものは受容し、納得していたのである。 もちろん、それは、身分の差異が存在することを当然であると教育され、信じ込まされていたが故なのであるが、結果として納得していたのは事実であろう。

「本人が納得しているのだから」と主張する男女分離主義者は、こうした奴隷制度をも肯定するのか。 良心的な男女分離主義者の中には「奴隷は、生まれながらにして身分が定められている点が、男女隔差の問題と異なる」と述べる者もいるだろう。 そのように「本人が納得しているかどうかの問題ではない」と認めていただけるなら、よろしい。 しかし、中には「奴隷制度も、本人が納得しているなら問題ない」と主張する者もいるだろう。 そうした差別主義者に対しては、遺憾ながら、我々は説得の術を持たない。

人は生まれながらにして平等である、という理念は、歴史的には当然のものではなかった。 これはフランス革命の頃に生まれ、先人達が血を代償として勝ち取り、我々に遺してくれた偉大な財産であり、これがために我々の社会は野獣と一線を画しているのである。 それを放り棄て、人を生まれによって分離しようとする差別主義者に対し、我々は、毅然として戦わねばならぬ。

本人が納得しているかどうかは、関係ない。言うまでもなく、女性は、人間である。 人間である以上、そこには、生物学的に必然といえる限度を超えた隔差は、あってはならない。 それが平等というものである。 特に、この不当な男女隔差を容認している一部の女性は、自分達が人間扱いされていないという事実を認識するべきである。

「機会は均等なのだから」という意見については、既に部分的に反論を述べたが、次回、追加の議論を行う。


2015/11/22 The Global Gender Gap Index 2015 (2)

昨日言及した標題の報告について、簡略にではあるが目を通したので、予定を変更して、本報告に対する感想を述べておこう。 この報告においては、昨日言及したような種類の教育隔差の取り扱いの他にも、統計処理上の問題がある。

Gender Gap Index は、Economic, Educational, Health, Political の 4 つの Sub-Index から計算されている。 それぞれの Sub-Index は、いずれも複数の項目についての統計的男女比を元に、重みつき平均を用いて計算している。 重みは、国ごとのばらつきが大きい項目については小さく、ばらつきが小さい項目については大きく設定されている。 これにより、特定の項目だけが Sub-Index に大きな影響を及ぼす事態を避けているのである。

Sub-Index のうち Economic と Political の 2 つは国ごとに大きく異なるのに対し、Educational と Health は、あまり差がついていない。 Gender Gap Index の計算に際しては、この 4 つの Sub-Index について重みをつけずに単純平均しているため、結果的に、 Gender Gap Index は Economic と Political で概ね決定されてしまい、Educational と Health は、あまり影響を与えていない。

結果として不適切に Gap が小さく、つまり実際以上に男女平等であるかのように評価されている国の代表がルワンダである。 この国は Educational は 112 位、Health は 91 位であるが、Economic が 14 位、Political が 7 位と高いために、総合 6 位となっている。 Educational と Health に適切な重みをつけて平均すれば、ルワンダのランクは、もっと下がる。

逆に割をくったのがフィンランドである。この国は Economic 8 位、Educational 1 位、Health 1 位、Political 2 位と好成績であるが、総合ランクは 3 位とされている。 これに対し 1 位とされたアイスランドは、Economic 5 位、Educational 1 位、Political 1 位ではあるが Health が 105 位であり、 フィンランドより上位の扱いを受けるには、ふさわしくないように思われる。

日本は総合 101 位であるが、Educational 84 位、Health 42 位であるから、これらに重みがつけられていれば、もう少し上位に入るはずである。 さらにいえば、この Health 42 位というのも、釈然としない。 Health は Sex ratio at birth と Healthy life expectancy の 2 項目から成っている。 日本は前者が 99 位、後者が 1 位である。 Sex ratio at birth というのは、一部の国において男女の出生数が異常に偏っている、いわゆる `missing women' の問題を表している。 典型的なのが中華人民共和国であって、出生数の女性対男性の比が 0.87 と、かなり男性が多い。 これが中国人の先天的な偏りであると考えるのは無理があり、女児を堕胎しているか、殺害しているか、社会から隔離しているかの、いずれかであろう。 日本においても、女児に対する不法な堕胎が存在する可能性は否定できないが、さすがに稀であろう。 すなわち、日本において Sex ratio at birth がやや偏っているのは人為的なものではなく、Gender Gap を表すものではないと考えられる。

このように、Gender Gap Index には統計上の様々な問題があるし、日本の 101 位は不当に低い評価であるように思われるが、 日本は経済および政治において男女隔差が大きいという点に異論はない。 これは、昨日述べたように、日本においては本当に高等教育を受けている女性が比較的少ないことと、 男は女より上に立つものだとでもいうような不健全な思想が蔓延していることが背景にあるものと思われる。


2015/11/21 The Global Gender Gap Index 2015

ある友人からThe World Economy ForumThe Global Gender Gap Index 2015という報告を発表したことを教えられた。 標題の通り、世界各国における男女隔差を数値化したものである。 たいへん興味深いものであるので、キチンと読もうと思ってはいるが、なにぶん私は日本語に比べて英語が不得手なので、少し時間がかかるかもしれない。

この記事は、数値の算定方法と日本に関する数値だけを簡略にみただけの時点で書いている。 しかし、それだけでも、この index が信用ならない、ということは確信できた。 この報告に挙げられているスコアは、おおまかにいえば男女が完全に等しいときに 1, 全く等しからぬときに 0 となるものであり、「客観的」な統計的に基づいて計算される。 日本について、Education の分野については隔差が小さく、全 145 ヶ国中で 84 位ではあるものの、スコア自体は 0.988 と、そこそこ高値である。 私の印象では、日本における男女の教育隔差は、かなり大きく、0.988 という値は、高すぎるように思われる。 そこで首をかしげながらスコアの算定方法をみて、納得した。 Education に関するスコアは、初等教育や中等教育、高等教育を受けている人の割合の男女差をみているものであって、 しかも重み係数の関係上、高等教育の有無は、あまり重視されていないのである。

日本の場合、男女問わず、ほぼ全員が中学校までの教育は受けているし、高校への進学率も高い。大学進学率は女性の方が低いが、それでも少なからぬ女性が大学に行く。 従って、スコア算定の上では、あまり男女差がないようにみえる。 ただし、ここでは、京都大学も、地方の女子短大も、同じ扱いである。 日本の大学、特に物理系では男女比の偏りが著しく、京都大学工学部物理工学科では、私の同級生の 97 % が男性であった。 もちろん、入試の時点で女性が男性より不利な扱いを受けているわけではないだろう。 また、欧米では女性の物理学者など珍しくないのだから、これが生物学的な男女差に由来するわけでもないだろう。 要するに日本においては、無茶苦茶な話であるが、「女は物理や数学なんか、やるものではない」という暗黙の認識が未だに広く存在し、 女性は幼少の頃より、そういう教育を受けているものと推定される。 こうした不当で無意味に差別的な取り扱いは、残念ながら数値化しにくく、この報告には取り入れられていないのである。

男女分離主義者の主張として典型的なのは「男と女は生物学的に違うのだから、相応の差異は生じて然るべきである」というものである。 それは、その通りであって、たとえばトイレを男女別に設けることは合理的であるし、 また法的な婚姻を男女間に限定することが明らかに不当であるとまではいえない。 ただし、子供を作らない、あるいは作れない異性カップルも婚姻制度により法的に保護されることを思えば、 同性カップルを同様に保護する法的制度は必要であろう。

我々が問題にしているのは、そうした生物学的な差異の限度を超えた社会的隔差である。 たとえば上述の物理教育に関していえば、暗黙のうちに、女性が物理や数学の教育を受ける機会を制限していることが問題なのである。 これは男女平等の権利という観点からも問題であるが、才能の芽が埋もれ、人材を有効活用できていないという点も重要である。 平たくいえば、無能な男性を一人の技術者として雇い、その妻を家事に専念させるよりは、 有能な女性を一人の技術者として雇い、その夫を家事に専念させた方が、社会的に有益である。 女性は出産が云々という意見もあるが、そんなものは適切な社会制度さえあれば何とでもなることが、欧州諸国で既に証明されている。

この問題は、男女双方の多数派に問題がある。 男性の中には、「女より優位にありたい」「女を支配下に置きたい」という歪んだ野蛮な欲求の持ち主が、遺憾ながら少なくないのではないか。 たとえば、自分より恋人あるいは妻の方が高収入であることがわかった時、落ち着かない気分になる男は少なくないのではないか。 また少なからぬ女性にも、容姿・容貌を気にしすぎるきらいが、あるのではないか。 もちろん、人間であれば、男女を問わず、美しくありたいと思うのは当然である。ここで言っているのは、程度の問題である。

こうした点について、分離主義者は次のように述べるであろう。 「本人が納得しているなら、良いではないか。女性にだって、機会は均等に与えられているのだから、それで良いではないか。」 しかし、上述の教育のことを考えれば、本当に機会が均等であるとは思われない。 また「本人が納得しているなら良い」という理屈に対しては、次回、反駁する。

2015.11.22 日本語の乱れを修正

2015/11/20 フランスの件

ある人から 見事な風刺画 を教えてもらったので、ここに紹介しておこう。 画像だけみて作者の意図を誤解する人がいても困るので、コメントも転載して翻訳する。

PS: pls do understand that this piece is only against the almost unequal treatment of the world media on every terrorism act

追伸: この作品は単に、世界に溢れるテロリズムの活動に対して、世界のメディアが不公平な取り扱いをしていることを風刺しているだけだという点を、ご理解いただきたい。 (訳註: フランスで行われたような破壊活動を支持しているわけではない、という意味である。)

フランス人のいう「自由」と「平等」は、フランス国民にのみ及ぶのか、あるいは EU 域内に限られるのか、それとも人類すべてを包括する理念なのか。 彼らの器量が試されているといえよう。


2015/11/19 Fontan 変法

昨日の続きである。 なお、昨日は「肺動脈弁がついたまま、肺動脈を右心房に吻合する」と記してしまったが、これは誤りであるので、修正した。

Fontan 手術の基本的な理念は、動脈血と静脈血の混合を避ける、ということである。これは良い。有益である。 しかし肺循環への駆動力として右心房を使うのは、まずい。 なぜか右心房が拡大し、肺循環の血流が減少するのみでなく、血栓が形成され、肺塞栓症を来す恐れもある。

Fontan は、右心房を肺循環の駆出ポンプとして利用する際に、肺動脈から右心房へ、また右心房から下大静脈への血液の逆流が問題になると考えていた。 そこで彼は、他人の死体から得た大動脈弁または肺動脈弁を 2 箇所、すなわち、肺動脈と右心房の吻合部、および下大静脈と右心房の境界部に移植した。 しかし実際には、この弁移植は不要であることが知られるようになった。 さらに M. R. de Leval らは、右心房自体も、どうやら肺循環への駆出力として働いていないらしい、 ということを実験的に示した。(Journal of Thoracic and Cardiovascular Surgery 96, 682-695 (1988).) Fontan の考えは、一見、自明なようであったが、実は単なる思い込みに過ぎなかったのである。

この de Leval の提案した手法が、現在でも用いられている心内型 total cavopulmonary connection (TCPC) である。 これは、人工血管を右心房内に通すことで、右心房の助けを借りずに、下大静脈からの静脈血を直接、右肺動脈に流し込むものである。 なお、人工血管は心臓の外側を通すこともあり、これは心外型 TCPC と呼ばれる。 心内型にせよ心外型にせよ、上大静脈は Glenn 手術の要領で右肺動脈に吻合する。

ヤヤコシイことに、上大静脈の右肺動脈への吻合と、下大静脈の右肺動脈への吻合は、現在では同時には行わない。 正確にいえば、乳児期の手術で血管自体は一度に繋いでしまうのだが、下大静脈と右肺動脈の吻合面は、当面は塞いでおき、1-5 歳頃に、この封鎖を取り除くのである。 というのも、いきなり上下の大静脈を右肺動脈につないでしまうと、急激な肺循環血流量の変化のために高度の胸水などを生じ、危険である、ということらしい。 このあたりには、リンパ管の発達具合が関係するかのようなことを昨日紹介した T. B. Fredenburg は書いているが、 Glycocalyx が云々という話も関係するのではないかと、私はニラんでいる。

ところで話は戻るが、Fontan 原法について、先行する Glenn 手術は理屈としては省略可能である、という点は、当然、Fontan も認識していただろう。 こうした「無駄」な操作を彼が行った理由については、よくわからない。 ひょっとすると、de Leval が示したような流体力学的特性を Fontan は既に薄々と感じており、Glenn 手術を省略することが重大な問題を引き起こすと予感していたのかもしれぬ。 そうだとすれば、Fontan の外科医としての勘は、恐るべきものであったと言わざるを得ない。

さて、これらの歴史的経緯から、我々は何を学ぶか。 外科の臨床実習において、一部の教育熱心な医師は、一つ一つの操作には重大な意義があり、それらをよく認識して実施せねばならぬ、ということを強調していた。 操作の意義を理解する、ということは、その手法が開発された歴史的経緯を理解する、ということと表裏一体であろう。 しかし、学生向けの初歩的な外科の教科書には、そうした部分が記されておらず、手術操作の内容だけが簡略に示されている。 そうした操作内容と名称を記憶すること自体は、学生にとって、意味のあることとは思われない。


2015/11/18 Fontan 手術

私は外科学に疎い。何より手先の作業が苦手なので、外科というものが、どうにも好きになれないのである。 だが外科理論は、面白い。 「なぜ、手術の後には体液が貯留傾向になるのか?」という問題は非常に興味深いのだが、この件は、また別の機会に述べることにしよう。 本日の話題は、先天性三尖弁閉鎖症などに対して行われる Fontan 手術という手術法である。 この手法については T. B. Fredenburg らがレビュー (Radiographics 31, 453-463 (2011).) を書いているので、これを踏まえて概説する。

三尖弁というのは、右心房と右心室の間にある弁のことであるが、これが先天的に閉鎖または高度狭窄している例がある。 その場合、たいてい、心房中隔欠損と心室中隔欠損を合併している。 ふつう、心臓の発生過程では心室中隔や心房中隔が形成され、ヒトは二心房二心室になるのだが、なぜか、 三尖弁閉鎖がある場合には、この中隔形成が不完全になるのである。詳しい機序は、知らぬ。 ともあれ、この中隔形成不全のおかげで、右心房から左心房、左心室、右心室を経て、静脈血は三尖弁を通らずに肺動脈に達することができるので、 一応、出生することができる。 もし中隔が完全に形成されてしまったら、血液は循環することができなくなり、死産となるであろうが、なぜか、そうはならないのである。

三尖弁閉鎖症においては、大静脈から来た静脈血と肺静脈から来た動脈血が右心房で混ざってしまうため、大動脈を流れる血液の酸素飽和度が低くなる。 従って末梢組織で酸素が欠乏し、いわゆるチアノーゼを呈することがある。平たくいえば、一種の先天性心不全である。 放っておけば、非代償性心不全となり、死亡する。

「治す」という表現は適切ではないように思われるが、なんとか心臓の機能を向上させるための手術として、いわゆる Fontan 手術が行われる。 これは F. Fontan らが 1971 年に提案した手術法 (Thorax 26, 240-248 (1971).) および、その変法である。 変法という外科用語は「考え方は同じようなものであるが、具体的なやり方を変更した手術法」という意味である。 これに対しオリジナルの手術法を「原法」と呼ぶ。

さて、医学書院『新臨床外科学』第 4 版では、Fontan 原法を「心房中隔欠損を閉鎖し, 右心耳と肺動脈を吻合する.」としている。ここまでは良い。 しかし図では、上大静脈と右肺動脈をも吻合し、上大静脈の心房側断端は閉鎖するように描かれている。 一体、この上大静脈と右肺動脈の吻合には、どのような意味があるのだろうか。

Fontan 手術の目的は、とにかく動脈血と静脈血が混ざるのを避ける、ということである。 そのために心房中隔欠損を閉鎖し、静脈血をそのまま肺動脈に送り込むように、経路を変更する。 その観点からは、上大静脈と右肺動脈の吻合は、無駄な操作であるように思われる。

実は、これを理解するには、Fontan 以前の手術法を知らねばならない。 Fontan より前に 1954 年から 1958 年にかけて Glenn が提案した手術法は、上大静脈を右肺動脈に吻合する、というものであった。 これだと動脈血と静脈血の混合は残ってしまうが、いくらかマシにはなる、ということである。 Fontan は、この Glenn 手術を前提として、さらに動脈血と静脈血の混合をも解消するための手法として、今日でいう Fontan 手術を編み出したのである。

私と同じように「先行する Glenn 手術は省略可能なのではないか?」ということを考えた外科医も、もちろん、いたらしい。 彼らは、一種の Fontan 変法として、上大静脈をいじらずに、心房中隔欠損閉鎖および肺動脈の右心房への吻合のみを行う手法を実践したようである。

さて、これらの手法を用いた場合、血液を肺循環に送り出すための駆動力は、右心室ではなく、専ら右心房に依存することになる。 「心室より力は弱くなるが、三尖弁閉鎖症では右心房が代償性に肥大しているし、まぁ、何とかなるだろう」と、Fontan は考えたようである。

ところが、実はそうでもなかった。 この手術を行うと、やがて右心房は拡大し、収縮力を失い、機能しなくなるどころか、むしろ心房内に乱流を生じてエネルギーを喪失せしめ、 かえって肺循環への血流を阻害することになるらしい。 これは、大雑把にいえば「右心房の容量負荷のため」というようなことになるのだろうが、この「容量負荷」という言葉の意味は極めて曖昧である。 学生に、何となく分かったような気分にさせるための方便に過ぎない。 実際のところ Fontan も、そういうことが起こるとは予想していなかったようである。

とにかく、Fontan 原法はまずい。そこで外科医が何を考えたのか、という点については、そろそろ長くなってきたので、次回にしよう。

2015.11.18 一部勘違いを修正

2015/11/17 非常識である件

三年前にも書いたが、「医者は人の命を救う崇高な仕事である」という表現は、あまり正しくない。 医者が人名を救う場面は確かに存在するが、そういう意味では製薬会社や医療機器会社、自衛官や警察官、消防官も、かなり直接的に人名を助けている。 さらにいえば重化学工業の技術者、工学系研究者などがいなければ、医者の仕事など成立しないし、鉄道整備士らも、医者と同様に人命を助けている。 従って、人命、あるいは社会的責任といった観点から医者を特別視するのは、無理がある。 医師は聖職ではあるが、それは職務の性質からくるものであって、責任の軽重をいっているのではない。

例によって契約上の都合により情報源は詳らかにできないが、某情報サービスによれば、医師の 8 割程度は年収 1000 万円を超えているらしい。 なお、厚生労働省によれば、国立病院の勤務医の平均年収は 1400 万円程度である。 その情報サービスによれば、医師の 3 割以上が収入に不満を持っており、満足しているのも 3 割程度であるという。 一体、何が不満なのかというと、責任の重さに釣り合わない、時間拘束が長い、などの、要するに「割に合わない」というものであるらしい。

だいたい私は、周囲の学生から「非常識だ」などと認定されているようだが、いったい、本当に非常識なのは、どちらだろうか。


2015/11/15 後藤新平

名古屋大学医学部の関係者に、後藤新平の名を知らぬ者はいないであろう。 後藤は幕末の仙台藩出身の医師であり、やがて愛知県病院で医師となり、後に愛知県病院長兼愛知県医学校長となった。 もちろん、愛知県医学校というのは名古屋大学医学部の前身であり、愛知県病院というのは、附属病院にあたる。 なお、名大医学部のウェブサイトの沿革では「愛知医学校」となっているが、 「愛知県医学校」としている文献もある。どちらが正しいのかは、よく調べていないので、知らぬ。 後藤は、その後、南満州鉄道株式会社、いわゆる満鉄の初代総裁になったり、台湾総督を務めたりし、さらに逓信大臣、内務大臣、外務大臣などの任にあたった。 これらの経歴の中で、後藤は特に公衆衛生の重要性を説き、その実施に尽力したことで高名である。 名古屋大学医学部では、偉大な先人の一人として後藤を称えている。

しかしながら、名古屋大学における後藤の取り扱い方は、どうも事実と少し異なるのではないかと思われる。 私は一次史料にはあたっていないが、山岡淳一郎『後藤新平 日本の羅針盤となった男』では、次のように描かれている。

「コレラの伝染が拡大してからでは手遅れだ。平静な状態から衛生に務め、予防しなければならない。(中略) 戦争が起きてから砲弾を造るのでは遅すぎるのだ……」
だが、打てど響かず。誰も伝染病を防ぐ衛生論議に加わろうとはしなかった。 医師たちは多くの患者を集めることに熱中していた。 あるいは病院施設の建設に血道をあげていた。新平の話し相手は、お雇い外国人医師のローレッツしかいなかった。

また、後藤は遊説中に暴漢に襲われた板垣退助を診察したことがあるが、それについて山岡氏は次のように記している。

新平は、板垣を診たときのようすを語っている。
「やっぱり私を青僧だと思っているような感じがするので、板垣の室に入って、 『御負傷だそうですな、御本望でしょう。』と、一喝食わしてやった。(後略)」(『文藝春秋』昭和二年四月号)
板垣は「あいつを医者にしておくのはもったいない。政治家にしたらおもしろい」と新平を評したというが、これも真実かどうかは怪しい。 新平が板垣の前で堂々と振る舞えたのは、長与から「内務省衛生局御用係採用」の内命が届いていたからでもあろう。(中略) 新平は患者の獲得に汲々とする病院に未練はなかった。

もちろん、これは山岡氏や、氏が参考にした文献による偏見であって、実際には、後藤はもう少し丁重に扱われていたのかもしれない。 しかし、後藤が病院長兼校長を一年かそこらで辞し、官僚に転向したのは事実である。山岡氏の書き方で、概ねは当っているものと思われる。

先に書いた某病理医の件もそうであるが、愛知、名古屋という土地には、異質なものを排除し、 仲良しグループで既得権益を囲い込み、変化を嫌う風潮があるのではないか。 彼らは「それで世の中はまわっているのだから」などと弁明する。 これを井蛙という。


2015/11/14 北陸医大 (仮) での住居

私は、北陸医大 (仮) 附属病院に就職する予定である。 先日、事務手続の関係で同病院を訪ねたついでに、不動産屋に立ち寄って住宅情報を収集した。

北陸医大附属病院は、山の中にある。 一応、近くに学生向けの住宅などはあるのだが、それでも徒歩 15 分ほどは要するし、あまり上等な部屋でもない。 市街地にまで出れば物件は豊富なようだが、何しろ私は自動車の運転免許を持っていないし、取得するつもりもない。 従って、市街地に住んだ場合は病院までバスで 20 分ほどかけて通うことになるが、始発が 7 時頃、病院の終発が 21 時頃なので、 ちょっと忙しい時には家に帰れなくなってしまう。 また、通勤に往復 1 時間、交通費を月 15000 円もかけるのも、馬鹿らしい。

もちろん、東京であれば、通勤に片道 1 時間かかるのも珍しいことではあるまい。 私も、中学・高校の頃は、片道 1 時間程度をかけて通学していた。 しかし、徒歩 10 分や 15 分で大学に通えるような環境に長くいたために、私は、もはや片道 30 分の通勤ですら耐えられないような体になってしまったのである。

自動車の運転免許を取得するよう勧める人も多いが、私は、あくまで自動車なしを貫く所存である。 「北陸医大では自動車が必須である」などという常識が誤りであることを、証明したいからである。 だいたい、皆がそうやって自家用車に乗るから、公共交通機関がますます減って不便になるのだ。

名古屋へ帰る汽車の中で、そのようなことを考えていた折、ふと、北陸医大での勤務経験のある某教授の言葉を思いだした。 曰く、あそこは遊ぶような環境でもないし、勉強するには良い所である、とのことである。 そう考えると、いっそ、通勤時間を考えずに市街地に住んでしまうのも、アリであろう。 そうすれば、私は怠け者なので家に帰るのが億劫になり、週のほとんどは病院に泊まり込み、少しは勉強するに違いない。


2015/11/13 臨床医療と倫理

世間の流れに、学生が無責任に迎合するという風潮は、科学研究だけでなく、臨床医療においてもみられる。 それなりに勉強した学生であれば、教科書やガイドライン等に記載に対し、多少の疑問を持つことがあるだろう。 その時「おかしいではないか」と批判的意見を述べるのではなく、「それが標準なのだ」「統計的に、そうなっているのだ」などと、 無理矢理に納得してしまう学生が多いのではないかと思われる。

「まだ私は勉強が足りないので、教科書やガイドラインを批判できる域に達していない」と述べる者もいるが、それは、言い訳にならない。 我々は学生なのだから、勉強が足りないのは当然である。しかし、不勉強な者は物事を批判してはならない、という決まりはない。 もし不勉強ゆえに的外れな批判をしたならば、それに気づいた時点で訂正すれば済むだけのことなのである。 要するに彼らは、ウカツなことを言って反撃を受けたくない、ニラまれたくない、戦いたくないのであって、臆病なだけである。 それも一つの生き方ではあるかもしれないが、それならば「患者のため」というようなことは、金輪際、口にしないでいただきたい。 実際、「俺は自分の立身出世のために医者になるのであって、患者を救いたいとは思っていない」などと豪語する学生も稀に存在する。 彼らは藪医者候補生であり、人格に重大な問題があるが、正直者であるという点において、多少は信頼できる。

上述のような、教科書やガイドラインに対する接し方の問題は、些末なことかもしれぬ。 問題は、臨床実習における振舞である。

学生は、もちろん医師ではないから、医行為は、できない。 「医行為」というのは「適切に実施しなければ患者に害を及ぼす恐れのある行為」全般を指し、基本的には医師でなければ行うことができない。 ただし看護師等が医師の指示に基づいて、診療の補助として行うことは保健師助産師看護師法で認められている。 医学科の学生は、実習上の必要に応じて、医師の監督および指導の下に一部の医行為を行うことがあるが、明確な法的根拠は存在しない。 当然であるが、これは通常の診療の一環とはいえないから、事前に患者の同意を得ることが必須である、と、されている。

しかし現実には、患者の同意を得ずに、学生に医行為を行わせることがある。 私の経験でいえば、某病院の産婦人科において、指導医の指示により内診や経膣超音波検査を行ったことがあるが、患者から明確な同意を得た記憶はない。 もしかすると、そもそも患者は、そこに学生がいるという事実自体を認識していなかったかもしれない。 また、ある病院では、全身麻酔下の手術を終える際に、皮膚をステープラーで閉鎖する操作を行ったこともある。 私は、こうした手技の経験は乏しい方であるらしく、「積極的」な学生は、手術中などに「やらせてください」と言って、もっとイロイロ経験しているようである。

理由は知らぬが、少なくとも愛知県界隈の病院の外科では、こうした「積極的」な学生が高く評価されるらしい。 しかし、事前に患者から同意を得ていないという事実を考えると、こうした実習のあり方は、倫理的に重大な問題があるように思われる。 もちろん、大抵の大学病院では、入口あたりに「学生の実習にご協力ください」というような掲示がなされているが、 これをもって「患者の同意を得ている」と主張することはできない。

基本的に学生は、職員とは明確に形状の異なる名札を胸につけているので、注意してみればすぐに判別できる。 しかし、上述のような実態を知らずに病院を受診している患者は、そこに学生が立っているということ自体、認識できないかもしれない。 特に市中病院の場合、学生が実習に来ているということを知らない患者も多いのではないか。

この日記を読んでくれている人の中に、医療関係者でない人がいるならば、ご忠告申し上げる。 学生の同席を拒むことは、患者が持つ当然の権利である。 実際、我々は「学生が同席する場合、必ず、患者から承諾を得ねばならない」と教育されているし、「患者には拒む権利がある」とも認識している。 もし、事前の承諾なしに学生が同席しているように思われた場合、「あれは誰か」と確認した上で、病院に猛抗議して良い。 というより、抗議するべきである。


2015/11/12 杉晴夫『論文捏造は なぜ起きたのか?』

たまたま、生協書籍部で標題の新書をみつけたので、購入した。 著者の杉氏は、筋肉を専門とする生理学者であり、昨今の日本の科学界のあり方に批判と改革案を投げかける書物である。 標題は論文捏造についてだが、むしろ杉氏が問題視しているのは、いわゆるインパクトファクターなどを用いて研究者を評価したり、 あるいは不適正な方法で研究予算を配分したりといった風潮である。 杉氏の主張としては、こうした風潮は、2004 年の国立大学独立行政法人化以降に強まったという。 杉氏は、かなり辛辣な言葉で批判を述べているが、あまりに適切に攻撃しているので、読みながら、ついニヤニヤしてしまう。 マジメな書物ではあるが、楽しんで読めるので、昨今の大学等のあり方に疑念を抱いている諸君は、ぜひ一度、読まれると良い。

私も、この日記や日常生活において、散々、不満や批判を述べてはいるが、所詮、学生視点の批判に過ぎない。 澱んだ大学の中で四年間も過ごしていると、ひょっとすると私の方が間違っているのではないか、 この名古屋大学方式で世の中はうまく回っていくのではないか、などと思ってしまうことが、時々、ある。 そうした中で、杉氏のような経験豊富な先人からの批判を読むと、我々のような若輩者にとっては、たいへん、励みになる。 こうした援護射撃があれば、我々は、戦っていけるのである。

内容については、一点だけ不満があるが、ひょっとすると、杉氏は若い学生に配慮して、敢えて触れなかったのかもしれない。 すなわち、杉氏が批判するような科学界のあり方に対し、学生があまりに従順である、という問題である。 「現実に教授選はインパクトファクターで決まるのだから、それを稼ぎに行くのは仕方ない」だとか、 「業績は論文で評価されるのだから、論文を書きやすいテーマを選ぶのはやむを得ない」だとかいう発言を、学生の口から聞くことがある。 あるいは、実験等を手伝っただけで、論文の内容に責任までは持てない立場なのに、共著者として学生の名が掲載され、 しかも、それを「自分の業績」として学生自身が誇るような光景も、みられる。

こうした学生の態度は、科学研究に限ったことではない。 臨床医療についても同様なのであるが、夜も更けてきたので、続きは次回にしよう。


2015/11/11 火村正紀氏

デリケートな話題なので、どうしようかと迷ったのだが、我々にとって教訓に富む話であると思われるので、紹介する。 本年 6 月 17 日に、漫画家の火村正紀氏が亡くなった。 その入院生活を漫画として記録したものが「入院ノート」として公開されているということを、 ある人から教えてもらった。 これは、姿勢を正して生と死について考えながら読む、というような堅苦しい代物ではないので、ぜひ気軽に読まれたい。 なお時間が許すならば、氏の作品である「はじめての甲子園」や「シンデレ少女と孤独な死神」も一部は無料で公開されているので、先に読まれると良い。

「入院ノート」に記載された内容について、特に高学年の医学科生であれば、医療・医学の観点から、思う所は多々あるだろう。 私は、敢えて、ここに感想は書かないことにするが、たいへん勉強になった。

ご冥福をお祈り申し上げる。


2015/11/10 心室拡張期における心室内圧の変化

本日は、昨日の「スターリングの法則」を踏まえた上での、心室拡張期の話である。 特に、房室弁が開いた後の期間に注目する。 よくある横軸に心室容積、縦軸に心室内圧をとったグラフでいえば、左下の点から右下の点までの間である。 この 2 点の間では、心室内圧は厳密には一定ではない。 では、具体的に、内圧はどのように変化するだろうか、という問題を考える。 この部分のグラフの形状については、多くの教科書が無頓着であり、それぞれに異なる形を描いている。

`Guyton and Hall Textbook of Medical Physiology' は、まず最初は徐々に圧が下がるが、やがて上昇に転じ、最後に心房収縮によりグイッっと上がる、という図を描いている。 よくよく考えてみれば、これが一番正しい。 MEDSi 『ハーバード大学テキスト 心臓病の病態生理』第 3 版では最後の心房収縮の部分が省略されているし、 医学書院『標準生理学』第 8 版は最初から圧は単調かつ滑らかに上昇するかのように描かれているが、これらは、いずれも、おかしい。

房室弁は、薄く、しなやかであるので、大動脈弁や肺動脈弁とは異なり、速やかに開閉する。 心房と心室の圧の大小関係が逆転する際に、ほぼ瞬間的に開閉すると近似してよかろう。 従って、心室の弛緩により心室内圧が心房内圧と等しくなった時点で、ただちに弁は開き、静脈系から心房を経て心室に至る血液の流れが生じるとみてよい。 その後、心筋はさらに弛緩するから、その期間は心室内圧が減少するのである。

心室が完全に弛緩しても、心室への血液の流入は止まらない。 この時点では、心室より静脈の方が少しだけ高圧だからである。 この圧力差ゆえに、心室はさらに拡張し、心室壁は弾性エネルギーを蓄えることになる。 この圧力が何に由来しているのかを認識しておくことは重要である。 毛細血管や静脈には、自律的に収縮する機構はほとんど存在しないのだから、血液を心臓に送り込み心室を拡張させるエネルギー源が、どこか別に存在するはずである。

このエネルギー源は、大動脈などの、弾性繊維に富む太い動脈である。 これらの血管は、心臓からの拍出によって伸展し、弾性エネルギーを蓄える。 細動脈や毛細血管、細静脈は、かなり大きい抵抗を持っているので、全ての血液が一度に流れていくことはできず、一時的に動脈内に蓄えられるのである。 エネルギーの観点からすれば、一旦、血液の運動エネルギーが動脈壁の弾性エネルギーに変換される、と言っても良い。 このエネルギーが心室拡張期に放出され、血液の運動エネルギーに再変換されて静脈系に運ばれ、さらに心臓に還って心室壁を伸展させるのである。 従って、たとえば動脈硬化が進み拡張期血圧の低下している高齢者においては、この部分の心室拡張が損なわれる。

では、大量輸液を行って循環血液量が増加している状態では、どうなっているのか。 増加した体液は、主に静脈に貯留するであろうが、一部は心臓や動脈に蓄えられる。これによって、心筋も動脈壁も、伸展した状態になる。 静脈壁は、変形はするが、あまり伸展しない。格好つけた表現を用いれば、静脈壁はコンプライアンスが低いのである。 この壁伸展の弾性力は、力学的な観点からすれば、血圧と釣り合っていることになる。

以上のことから、大量出血を来した患者に対して生理食塩水や Ringer 液を輸液することは合理的である、といえる。 血液量が減少した患者においては、心室収縮期に血液を動脈内に蓄えるまでもなく、ほとんどそのまま毛細血管や静脈に送ることができてしまう。 従って、心室拡張期において心室筋が弛緩しきった後には、もう血液が心室に流入しないから、結局、心拍出量は少なくなる。 これに対して輸液を行った場合、血液は多少薄くなってしまうが、度が過ぎない限りは、心拍出量増加の利益の方が大きい。 たとえば血液量を 10 % 増加させた場合、ヘモグロビンは 9 % 程度薄くなるが、心拍出量は 15 % も 20 % も多くなることが期待できるのである。 また、同様に考えて、この状況において β1 刺激薬を投与しても、ほとんど意味がないこともわかる。


2015/11/09 スターリングの心臓の法則

大抵の生理学の教科書には、心臓の働きについて「スターリングの法則」あるいは「フランク-スターリングの法則」というものが記載されている。 しかし、この「法則」の内容を正確に、自信を持って説明できる学生は、ほとんど、いないであろう。 というのも、この「法則」をキチンと説明している教科書が皆無だからである。

最も普及していると思われる説明は「心臓の一回拍出量は、拡張期に流入した血液の量によって決まる」というものであると思われる。 これを教わった学生側の心中に湧き起こる最も自然な感想は「そんなの、あたりまえじゃないか。入って来る量と、出て行く量は、同じに決まっているじゃないか。」 というものであろう。 至極当然の疑問であるが、このあたりをキチンと説明している教科書に、私は出会ったことがない。 「ガイトン 生理学」、医学書院『標準生理学』第 8 版、MEDSi 『ハーバード大学テキスト 心臓病の病態生理』第 3 版あたりは、いずれも、上述の学生の疑問には答えてくれない。 一方、南江堂『シンプル生理学』改訂第 6 版は「心臓の拍出量は動脈血圧には関係せず」という一言を入れており、他と一線を画している。 この教科書は初心者向けの、大学でいえば一年生向けのものであるが、こうした基礎的な事項について正確な説明がなされており、たいへん、良い。 膜電位についても、生理学の教科書の中では『シンプル生理学』が最も明確に記述している。 とはいえ、『シンプル生理学』の説明も、まだ不正確である。

スターリングの法則と呼ばれるのは、Ernest Henry Starling が 1914 年頃の一連の報告で述べたものであって、その内容自体は、現代の教科書の説明の通りである。 しかしスターリングの法則が真に意味する所を理解するためには、当時の生理学の「常識」を、まず知らなければならない。 当時の歴史背景について A. M. Katz がレビュー (Circulation 106, 2986-2992 (2002).) を書いているので、これに基づいて簡略にまとめることにしよう。 なお、この法則をよくまとめて世に知らしめたのはスターリングであるが、それより前にフランクらが既に同じ内容を指摘していたことを、スターリング自身が紹介している。

「心臓をたくさん拡張させれば拍出量は増える」という事実は、スターリングよりもはるか前に知られており、最初の報告者は 1856 年の Carl Ludwig であるという。 これを受けて 19 世紀後半には、動物の心臓を取り出して、静脈側に圧力をかけて心拍出量を調べる、という実験が、たくさん行われた。 この時点では「静脈側の血圧を上げると、なぜか心拍出量が増える」というような理解が一般的だったようである。 これに対し 1890 年頃、Roy と Adami は、「循環血液量」が増えると心拍出量が増える、という関係を指摘し、 さらに「動脈血圧が上がっても心拍出量は減らない」と述べた。 単純に考えると、血液は心室圧と動脈血圧の差に従って流出するのだから、動脈血圧が高い時には、心拍出量は減りそうである。 しかし実際にはそうなっていない、ということを彼らは指摘したのである。 その背景にある機構として、動脈血圧が高い時には、今日でいう「収縮末期容積」が増大することを示し、 収縮末期圧も高くなるから「心室圧と動脈血圧の差」は小さくならないのだ、と説明した。 実はそれまで、心室収縮期には心室は完全に虚脱し、心室内にはほとんど血液が残らない、と信じられていたのである。

そうした背景を踏まえて、スターリングは「静脈の圧には関係なく、流入した血液量そのものが拍出量を規定している」ということを実験的に示した。 「血圧は関係ない」という点が、最も重要なのである。 あるいは細胞の言葉でいえば「筋繊維の緊張」は関係なく「筋繊維の長さ」が問題なのだ、と、言っているのである。 これを強調してスターリングの法則を説明するならば 「心拍出量は、動脈系や静脈系の血圧には無関係であり、心室に流入した血液量によって定まる」と表現できよう。

現代の教科書は、スターリングの話をする前に筋細胞の構造を説明してしまうから、このあたりの衝撃が読者に伝わりにくい。 当時は筋肉の詳細な構造も知られていなかったし、アクチンとミオシンの sliding が云々、という説明が登場するのはスターリングの法則よりも 30 年後のことである。 筋肉自体は収縮する際に常に一定のエネルギーしか消費しない、と考えられており、 神経から強い刺激が加わると、その刺激の強さに応じたエネルギーが神経から筋肉に伝えられ、より強い収縮を引き起こす、とする意見が広く支持されていたらしい。 そういう時代なのだから、「力は関係ない、長さなのだ」という考えは、かなり非常識で、ショッキングだったようである。 なお、「動脈血圧には関係ない」というのは、スターリングではなく上述の Roy と Adami が示したのだから、その点においては『シンプル生理学』も不正確である。

実は、スターリングの恐ろしいところは、ここから先である。 彼は、力ではなく長さが心拍出量を決定する仕組みとして「筋繊維が長くなると、繊維の『活性表面』がより多く露出し、 結果として多くのエネルギーを収縮に費すことができるようになる」という機構の存在を予言した。 アクチンとミオシンが云々、などということは知らなかったはずなのに、今日の我々と同一の理解にまで到達していたのである。

さらにスターリングは、この考えを慢性心不全の病態にあてはめた。 当時、心不全でみられる心室の拡大は専ら病的な現象であると信じられていたのに対し、 スターリングは、これは生理的代償反応であり、代償の限度を超えた場合に致死的となる、と指摘したのである。 今日でいう「代償性心不全」と「非代償性心不全」の概念そのものである。

2017.01.01 脱字修正

2015/11/08 現実をみつつ理想を掲げる

過日の泌尿器科学の再試験に際しては、私は医学書院『標準泌尿器科学』第 9 版を通読した上で、多少の姑息的勉強を行って合格した。 この姑息な手段を用いたことについては、以下の理由により、正当であると考える。

本来、姑息な手段は用いるべきではない。 一方、その理想に固執したことが原因となり留年、あるいは国家試験不合格となることは、誰のためにもならぬ。 もちろん、不幸にして、そうした不合格が生じた場合、非は受験者ではなく出題者の側にあり、その国家的損失は厚生労働省や大学当局の責任である。 そうした批判を公に述べた上であれば、公衆の衛生を守るために、不適切な試験に特化した対策を講ずることは、道義に反するとまではいえない。

一方で、はじめから試験対策に特化して卒業試験を受けることは、よろしくない。 国家試験はともかく、卒業試験には、再試験がある。 まだ後に余裕がある、がけっぷちではないような状況で、不適切な国家や大学当局の姿勢に迎合することは、理想を欠いており、卑屈である。軟弱である。

以上の理由により、卒業試験に関しては、まず本試験は堂々と受けた上で、再試験では点を取りに行く、というのが最も適切な姿勢である。


2015/11/07 医学書院

医学書院は、医学の専門書を扱う著名な出版社である。 学生向けの教科書である「標準」シリーズにも定評はあるが、 『標準精神医学』第 6 版や『標準脳神経外科学』第 13 版などの例外を除けば、全般にストーリー性が乏しいように思われる。 辞書のように使うならともかく、通読するには面白みを欠く。 『神経解剖カラーテキスト』第 2 版のような訳本は楽しめるが、これは原著者の力量に依るものであろう。 一方、辞書類に関しては、医学書院の書物は非常に優れている。 『医学書院 医学大辞典』第 2 版は、三年生の頃に友人の勧めで購入して以来、愛用している。 『臨床検査データブック』は、検査値について生理学的意義も含めて簡潔に記載しており、臨床実習等で大いに役立った。 『臨床中毒学』『認知症ハンドブック』などは、それぞれの分野について詳細に記載した辞書様教科書であり、 通読しようとすると眠くなるが、必要に応じて調べる分にはエキサイティングである。

このように、私は医学書院のファンであったのだが、同時に、近年の「標準」シリーズの傾向には懸念を抱いていた。 というのも、国家試験をやたらと意識するきらいがあり、巻末付録に「医師国家試験出題基準対照表」を掲載したり、 「重要語句」を太赤字で強調するなど、受験参考書としての色彩が強くなっているように感じられる。 天下の医学書院なのだから、学生に媚びて姑息的勉強を煽るのではなく、堂々と、医学的教科書を刊行して欲しかった。

昨日、たまたま生協書籍部で新刊をみていて、愕然とした。 医学書院の「シリーズ まとめてみた」が平積みされていたのである。 このシリーズは、今年の春頃にまとめて刊行されたものであるらしいが、私は、その存在を知らなかった。 医学書院のウェブサイトには「医学生待望! 究極の国試対策本シリーズ」などと書かれている。 帯に何と書いてあったか、正確なところは覚えていないが「医師国家試験に役立つ知識とテクニックをまとめてみました」というような内容であった。 同社のウェブサイトから「まえがき」を引用すると

学生時代に常々感じていたのは「もっと読みやすい参考書があればな〜」ということでした. 今の医学生の国家試験の勉強方法としては,ビデオ講座+教科書+問題集というのが主流ですよね. しかし,受験のように独学でも勉強したい!と思ったときに...

とのことである。著者の天沢ヒロというのが何者であるかは、知らぬ。 検索する限りではペンネームのようだが、こうした低俗な書物を本名で著す勇気はなかったのであろう。中途半端な人物である。

医学書院は、ここまで堕ちたか。


2015/11/06 教科書レビュー: 医学書院『標準泌尿器科学』第 9 版

通読した上でのレビューである。 同書は、泌尿器科学について基本的なことをまとめたものであり、学生が基本的な教養のために読むものとしては過不足がないように思われる。 ページ数も、付録等を含めて 380 ページと、手頃である。 ただし、内科学や外科学の一般的な内容もかなり含まれているので、一字一句キチンと読もうとすると退屈な部分も多い。

内容的には、残念な意味で医学書院らしい。やや辞書的でストーリ性が乏しく、読んでいてワクワク興奮するような書物ではない。 熟読すると退屈で飽きるので、総論だけはマジメに読んで、各論については適宜、飛ばしながら読んでも良いかもしれない。 術語の誤りなど、気になる表現は少なく、文章は整っており、その意味では読みやすい。 ただし 182 ページに「リツキサン」と記載されているのは許容し難い。正しくはリツキシマブである。

医学書院「標準」シリーズは、あくまで医師国家試験を強く意識した教科書だから、 読んで楽しむ、という意味では `Campbell-Walsh Urology 10th Ed.' などの専門書には劣る。 たとえば、精巣腫瘍に対する化学療法としてはブレオマイシン、エトポシド、シスプラチンの BEP 療法が標準的とされるが、 なぜアルキル化薬を使わないのか、というような疑問には答えてくれないので、ガイドラインの解説などを適宜参照しながら読み進める必要がある。

このように『標準泌尿器科学』は、泌尿器科学にそれほど関心のない学生が、あくまで教養程度の目的で書棚に置いておく本としては、推奨できる。


2015/11/05 副腎「結節性過形成」

本日は、泌尿器科学の再試験である。 医学書院『標準泌尿器科学』第 9 版を読んでいて、いくつか気になることはあったが、その最たるものは、いわゆる原発性高アルドステロン症である。

原発性高アルドステロン症というのは、何らかの事情によりアルドステロンが異常に多量に分泌されるものをいう。 有効循環血液量の減少などに対して反応性に多量のアルドステロンが分泌されるのは正常な生理反応であるが、 明らかな刺激もなしに不適切に分泌されることをもって「原発性」と呼ばれている。 もちろん、本当に何の原因もなしにアルドステロンが分泌されるなどということはない。 いわゆる原発性アルドステロン症の 70 % 程度は、副腎皮質の機能性腺腫が原因であるという。 「機能性」というのは、この場合「ホルモンを分泌する」という意味である。 「腺腫」というのは良性腫瘍の一種であるが、副腎皮質では良性腫瘍のほとんどが腺腫であるから、この場合は同義と思っても構わない。 「腫瘍」というのは、「自律性に増殖する細胞の集塊」のことであり、「良性」とは「転移や浸潤をしない」という意味である。 すなわち、機能性腺腫とは「自律性に増殖してホルモンを分泌する細胞の集塊であって、転移や浸潤をしないもの」を意味する。

問題は、ここからである。 「標準泌尿器科学」によれば、残りの大部分、すなわち原発性アルドステロン症の 30 % 程度は「両側副腎皮質球状層過形成」であるという。 細かいことをいうと、解剖学的には「球状層」ではなく「球状帯」と呼ぶ方が一般的である。 球状帯というのは、副腎皮質を 3 つの領域に分けた際の最も浅い部分であって、主にアルドステロンを産生する。 なお、この 3 つの領域というのは必ずしも明確に分かれるものではなく、特に高齢者では、球状帯が不明瞭になることが稀ではないらしい。

病理学を修めた学生であれば、ここで「ん?」と思うだろう。過形成というのは「外部からの刺激によって反応性に細胞が増生したもの」をいう。 ここでいう「副腎皮質過形成」は、一体、何に反応して過形成しているのだろうか。 `Rosai and Ackerman's Surgical Pathology 10th Ed.' をみると、原発性アルドステロン症については記載が乏しく、 「腫瘍と過形成は、臨床所見からだいたい区別できるが、時に、形態学的所見と不一致がみられる」という程度のことしか書かれていない。 どうやら Rosai は、この疾患について関心が乏しいようである。

どうもアヤシイな、と思い `Jameson and De Groot Endocrinology Adult and Pediatric 7th Ed.' を調べてみると、おかしなことが書かれていた。 原発性高アルドステロン症について、腺腫によるものと過形成によるものを CT などの画像によって鑑別することは、時に難しい、というのである。 なぜならば、腺腫は時に非機能性の対側副腎の結節を合併していることがあり、これを両側「結節性」過形成と誤認するからである、という。

ここで私は「馬鹿な」と思った。「結節性過形成」などというものが、あってたまるか、と考えたのである。 副腎皮質が結節性に増生しているとすれば、その局所において、何らかの増殖刺激が加わっているはずである。 「局所において」ということを考えれば、そのシグナルがホルモンやサイトカインのような因子なのか、あるいは細胞内シグナル伝達を攪乱する変異なのかはわからないが、 とにかく、その病変部の細胞に由来すると考えるのが自然である。 その細胞由来の刺激によって、その細胞自体が増殖するならば、それは定義上、腫瘍であって過形成ではない。

もちろん、一般論として「結節は全て腫瘍だ」などと言っているわけではない。 たとえば肉芽腫性病変であるとか、あるいは繊維化による結節だとかは、非腫瘍性結節で間違いない。 消化管でみられる、いわゆる過形成性ポリープについては、本当は腫瘍なのではないかとも思われるが、 外部から様々な刺激を受ける臓器であるので、過形成という可能性も否定はできない。 しかし副腎皮質の結節性過形成というのは、容認できない。

そこで上述の `Endocrinology Adult and Pediatric 7th Ed.' をみると `ACTH-Independent Adrenal Hyperplasia' という節に、恐ろしいことが書かれていた。 Cushing 症候群を来すような副腎過形成の中に ACTH に反応しない結節性過形成があり、 これを ACTH-independent macronodular adrenal hyperplasia (AIMAH) と呼ぶ、としているのである。 「だから、それは、腺腫だろう?」と思いながら `Pathogenesis' の節をみると、Wnt シグナル経路が云々とか、 癌抑制遺伝子の不活化が云々とか書かれている。 やはり、どうみても腺腫である。

結局のところ、これを「過形成」とする根拠は、形態学的な異型に乏しい、という程度のことでしかない。 しかし異型の程度は、厳密には、過形成と良性腫瘍、あるいは良性腫瘍と悪性腫瘍を鑑別する絶対的な基準ではない。 その有名な例が副甲状腺の腺腫と腺癌の違いであって、両者は細胞レベルでの異型の程度には、ほとんど差がないのである。


2015/11/04 SLE と抗二本鎖 DNA 抗体

全身性紅斑性狼瘡 (Systemic Lupus Erythemathosus; SLE) と呼ばれる症候群がある。 明確な定義がなく、イマイチ概念の不明瞭な症候群であるが、いわゆる膠原病の一つとされている。 ただし、この「膠原病」という言葉も、定義や概念が曖昧である。 本日のテーマは、この SLE と抗二本鎖 DNA 抗体の関係である。 なお、臨床検査における抗二本鎖 DNA 抗体というのは「二本鎖の DNA にのみ反応する抗体」という意味ではなく 「一本鎖または二本鎖の DNA に反応する抗体」という意味である。 これに対し抗一本鎖 DNA 抗体は「一本鎖の DNA にのみ反応する抗体」をいう。

丸善出版『膠原病学』改訂 6 版は、膠原病を概説する名著であり、膠原病に関心のある学生は、卒業までに一度通読すると良いだろう。 塩沢俊一氏の単著であり、全体を通して一貫したストーリーのある優れた教科書である。 ただし、日本語の細かな部分が、いささか粗いように思われる。

この「塩沢 膠原病学」の 361 ページでは「抗二本鎖 DNA (dsDNA) 抗体は原則的に SLE に特異的で, 腎症をはじめ疾患活動性とよく相関し, 診断の重要な指標となる (Schur PH et al. N Engl J Med 278:533, 1968).」としている。 補足しておくと、ここで引用されている Schur らの報告は疾患活動性と抗 dsDNA 抗体の関係を調べたものであって、SLE に対する特異性には言及していない。

これに対し金原出版『臨床検査法提要』改訂第 34 版の 886 ページでは、抗 dsDNA 抗体は活動期 SLE における感度 67 % であるのに対し、 全身性硬化症における感度は 23 %、シェーグレン症候群で感度 14 % としている。 この記述に基づくならば、有病率を考えれば SLE における特異性は高いといえようが、SLE に特異的とまで言うのは、私は憚られる。

そもそも、なぜ抗 dsDNA 自己抗体が生じるのか、という点については、誰も知らない。 「塩沢 膠原病学」は上述のように抗 dsDNA 抗体は SLE に特異的であるとしており、 他の膠原病で陽性となるのは検査手技上の問題で、抗一本鎖 DNA 抗体が存在する際に偽陽性となるためだとしている。 そして、抗 dsDNA 抗体に対応する抗原はアポトーシスの際に遊離したヌクレオソームである、としている。 しかし、そうした抗原が SLE 特異的に出現する理由には言及していない。

はたして、本当に抗 dsDNA 抗体は SLE に特異的なのだろうか。 特異的だと主張する根拠として有名なのは、2012 年に Systemic Lupus International Collaborating Clinics (SLICC) が発表した SLE の分類基準であろう。 (Arthritis and Rheumatism 64, 2677-2686 (2012).) この報告では、抗 dsDNA 抗体は SLE に対し感度 57.1 %、特異度 95.9 % であった、としている。 この報告の特徴は、SLE であるか否かの診断のゴールドスタンダードとして「エキスパートの 80 % が SLE である、または SLE ではない、という点で意見を合致させたもの」 としている点である。 つまり、この分類基準を臨床的に用いる場合、それほど SLE に熟練していない医師であっても SLE のエキスパートと同様の診断を行うことができる、 という点が有益だといえよう。

ここで二点、注意を要する。 第一に、特異度の値は、統計の対象とする患者集団に大きく依存する、という点である。 上述の SLICC は、SLE や他の膠原病と診断された患者を対象に解析したものであるが、いわゆるオーバーラップ症候群や混合性結合組織病は含まれていない。 第二に、この報告においても、エキスパートのうち最大 20 % は異なる診断を行っている、という点である。 そのくらい、SLE の診断は曖昧で主観的なのである。

以上のことを考えると、抗 dsDNA 抗体が SLE に特異的である、というよりも、抗 dsDNA 抗体を伴う膠原病は SLE と診断されることが多い、とするのが正しいのではないか。 両者は、臨床医療における診断だけを考えるなら大差ないが、膠原病や SLE の本質に迫ろうとするならば、重大な差異がある。 「SLE」という曖昧な既成概念を崩しに行くことこそが、我々のような次代を担う医師の役目である。


2015/11/03 補足

昨日の記事には、いささか誤解を招きかねない部分があったように思われるので、二点、補足する。

第一に「肺気腫の場合、呼気時に気道が閉塞し、いわゆる閉塞性障害を来し、結果として残気量が増加する」という部分である。 これは、通俗的な説明を無批判に引用してしまったが、よくよく考えると、あまり正確な表現ではない。 吸気時と呼気時の肺容積の変化を理屈で考えると、次のようになるだろう。

呼吸の過渡的な状態を議論するとややこしくなるので、今回は、力の釣り合いが成立している最大吸気時や最大呼気時だけを比較することにしよう。 まず基本的な話であるが、胸膜腔は、若干ながら陰圧、つまり大気圧よりも少しだけ圧力が低くなっている。 その圧力差は、胸郭や肺の間質、および胸膜の弾性によって支えられている。 これが、健常者に比べて、肺気腫の場合や、間質の繊維化がある場合にどうなるか、という問題を考える。

肺気腫というのは、繊維化を伴わない肺胞壁の破壊が生じたものをいう。 この場合、肺全体の大きさが健常者と変わらないと近似すれば、間質が減った分だけ、全肺気量は増加したことになる。 もし、呼吸に伴う肺胞壁の変形具合は健常者と肺気腫患者で同様である、と仮定するならば、この全肺気量の増加分は、そのまま残気量の増加分になる。 実際には、間質が減ることにより、 肺胞壁は、より抵抗なく変形することができる。 このため、肺活量は少し増加し、残気量の増加分は全肺気量の増加分よりは少なくなる。 なお、この際、肺活量は増加しているものの、間質、すなわち血管は減っているのだから、ガス交換の効率は低下していることに注意を要する。 この現象を「残気量が充分に小さくならないうちに呼出が終わる」と解釈することで、慣習的に「肺気腫は閉塞性障害である」と表現されているが、 実際に閉塞が起こっているわけではない。

では肺気腫を伴わない間質の繊維化はどうか。 繊維化というのは、基本的には膠原繊維の増生である。 間質の弾性は主として弾性繊維によって担われているのであって、膠原繊維は、比較的、弾性に乏しい。 俗な喩えをすれば、弾性繊維はゴム風船のようなものであって、膠原繊維は紙風船のようなものである。 しぼんだ風船の中の空気を吹き込むことを考えると、ゴム風船の場合は壁の弾性力のために、内圧の変化の割に体積変化は緩徐である。 これに対し紙風船の場合、一定の範囲までであれば、容易に膨らませることができる。 ただし、パンパンに膨らんだ状態から、さらに膨らませることを考えると、ゴム風船なら頑張れば少しは膨らむのに対し、 紙風船は膨らまない。無理に空気を押し込めば、破裂してしまう。

基本的には、この風船と同じことが肺についても起こる。 間質の繊維化がある場合、生理的な範囲に限っていえば、壁の可動性が向上することで、残気量は減ることがある。 しかし、頑張っても膨らまないのだから、全肺気量や肺活量は減る。いわゆる拘束性障害である。 特に進行した間質性肺炎であれば、壁が肥厚することによる肺胞腔の減少も、肺活量の減少に寄与するであろう。 なお、「無理に空気を押し込めば、破裂する」という現象は、人工呼吸の際に、現実に起こる。

第二は、くだらない話であるが、医師国家試験についてである。 昨日の私の批判に対し、一部の学生からは「まぁ、少しの紛れはあるかもしれないが、一番正しそうな選択肢は、迷わず選べるだろう」という意見があると思われる。 それに対する反論である。

昨日の潰瘍性大腸炎の例でいえば、出題者が「患者」の話をしているのか「疾患」の話をしているのか、問題文からは読み取れない。 サイトメガロウイルス性腸炎と潰瘍性大腸炎は別疾患である、という認識を忘れた学生だけが、迷いなく「正解」できるのである。 肺の例についても、CT は形態学的検査に過ぎず、そこから機能を類推せよというのが、そもそも無理な注文である。 もちろん、放射線医学をわかっていれば機能を想像することはできるが、残気量は、わからない。 どちらも、医学的思考としては、解答不能なのである。 本当に医学的なことを考えているならば「CT 画像をみて、最も適切と思われる診断を選べ」という設問と、 「通常型間質性肺炎において最も典型的な検査所見を選べ」という二つの設問に分離するべきである。 それならば、紛れがない。

現在の医師国家試験は、無理に問題をヒネろうとした結果、医学的な論理を無視する格好になっている。 こうした連想ゲームで多くの学生が高得点を挙げているのは、単に、あなた方が予備校のビデオ講座や「クエスチョン・バンク」を通じて、半ば無意識に、 国家試験的思考を身につけているからに過ぎない。


2015/11/02 要領の悪い学生

11 月 3 日の補足記事も参照されたい。

医師国家試験は、全問選択式であり、記述問題は、ない。 なぜ、そのような形式を採っているのかは、知らない。 記述式の出題を導入すべきではないか、というような議論も、あることは、あるらしい。 選択式の問題なら採点者の恣意が入らず、紛れがなくて公平である、とする意見もあるようだが、それは事実に反する。 なぜならば、選択式の問題には出題者の偏見が入るため、まともに医学の勉強をした学生が不利になるからである。 二つの具体例を示そう。

第 106 回医師国家試験 A9 は、次のような問題である。
ステロイド抵抗性の重症潰瘍性大腸炎への対応で適切なのはどれか。
a アメーバ赤痢の治療を追加する。
b 注腸二重造影で全大腸を観察する。
c モルヒネの投与で腸管の安静を図る。
d サイトメガロウイルスの検索を行う。
e 非ステロイド性抗炎症薬 < NSAIDs > を投与する。

a b c は論外なので、問題は d e である。 ステロイド、正確にはグルココルチコイドを長期投与していれば、免疫抑制状態になり、サイトメガロウイルスに感染し、腸炎を来す恐れがある。 従って d は妥当な対応であるように思われる。 しかし、よく考えると、これは「重症潰瘍性大腸炎患者」への対応としては適切であるが、 潰瘍性大腸炎そのものに対する対応ではない。 その意味では、必ずしも一般的ではないが、グルココルチコイドと NSAID を併用するというのは重症潰瘍性大腸炎そのものへの対応として不適切とはいえないので、 解答としては e を不適とはいえない。

同じく第 106 回医師国家試験 A16 では、X 線 CT のスライスが一枚、示されている。 一枚だけでは何ともいえないが、両側肺下葉に著明な気腫性嚢胞がみられ、蜂巣肺といってよかろう。 たぶん通常型間質性肺炎だと言いたいのだろうが、肺の全体をみないことには、何ともいえない。 設問は、次のようなものである。
この患者の肺機能検査所見として考えられるのはどれか。2 つ選べ
a A-aDO2 正常
b 拡散能低下
c 残気量増加
d 肺活量低下
e 1 秒率低下

頭をカラッポにして答えれば、「間質性肺炎だから b があって、拘束性障害だから d」となるのだろう。 しかし医学、特に生理学や病理学、あるいは呼吸器内科学を学んだ学生なら「c も考えられる」と言うだろう。 下肺野の気腫性嚢胞は、時に上肺野優位の肺気腫を合併する。 こうした病変形成の機序はよくわからないのだが、Combined Pulmonary Fibrosis and Emphysema (CPFE) などと呼ばれている。 肺気腫の場合、呼気時に気道が閉塞し、いわゆる閉塞性障害を来し、結果として残気量が増加することがある。 さらにいえば、気腫性嚢胞自体も、繊維化が軽度であれば残気量を増加させてもおかしくない。

要するに、国家試験は「ステロイドをたくさん使ったからサイトメガロ」とか、 「肺繊維症だから残気量減少」とかいう連想ゲームなのである。 考えてはいけないのである。 コンピューターのように、機械的に正確な対応付けをできるのが、優秀な医者なのである。 まともに医学を勉強してしまった「要領の悪い学生」を振るい落とすのが、医師国家試験である。


2015/11/01 北海道大学

私は、大学院時代に、韓国の某大学との合同学術会議のために北海道大学を訪れたことがある。 その時、同大学の附属博物館を見学したのだが、そこで、同大学の黎明期に掲げられていたという二つの理念に、いたく感激した。

一つは「優れた教育者であるためには、まず第一に、優れた研究者でなければならぬ」というものである。 その意図するところは、次のようなものである。 自身が教わった内容を、そのままに、あるいは自身の経験をふまえて僅かに修正した上で他人に教える者は、並の教育者に過ぎない。 真に優れた教育者は、自身が学んだ内容の本質をよく理解し、批判的吟味を加え、適切な改良を施した上で、次代に引き継ぐものである。 この「よく理解し、吟味し、改良する」という行為が「研究」なのである。

名古屋大学医学部には、物事を覚えることばかりを重視し、批判し吟味することを疎かにする風潮がある。 臨床実習においても、体裁や形式を習うための指導ばかりが重視されていたように思われる。 そして臨床医の大半は、基礎医学に関心がない。 こうした環境において優れた研究者が育つはずがなく、必然的に、優れた教育者も生まれない。 それに対し北海道大学は、南山堂『解剖学講義』で知られる伊藤隆や、中山書店『あたらしい皮膚科学』の清水宏をはじめとして、多数の優れた教育者を輩出しているのである。

もう一つの理念は「政治の中心と学問の中心とは、必ずしも同一ではない」というものである。 英国におけるケンブリッジにせよ、米国におけるマサチューセッツにせよ、ロンドンやワシントンとは、いささか地理的に離れている。 そうした政治の中枢から離れることで、つまらない政治的社会的しがらみから解放された、自由な学問が育つのである。

その意味において、東京大学、京都大学、大阪大学といった強力な学閥の影響から離れ、 ひっそりと日本海に面している我が北陸医科大学 (仮) は、21 世紀後半から 22 世紀にかけての日本の医学を担うに相応しい立地といえよう。 何より北陸医大には、人をみる目のある教授陣が揃っている。


2015/10/31 近藤誠 (2)

近藤誠医師は、「癌は治療するべきではない」というような主張で、世間一般に名の知られた人物である。 基本的に、医療関係者からは嫌われているが、以前にも書いた通り、私は近藤氏を嫌いではない。 また近藤氏を批判する医師の方にも、かなり感情的で非科学的な叩き方がみられるため、その点については、私は近藤氏の側に立ちたい。

某医療関係情報サービスで、近藤批判の記事をみた。 こうした近藤批判の中で、時にみられる主張が「近藤理論にはエビデンスがない」というものであるが、これは的外れである。 これについては、私も過去に何度か書いているし、今さら繰り返そうとは思わない。

また、臨床医からは「迷惑だ」とか「無責任だ」とかいう批判もあるらしい。 しかし「無批判にガイドラインに従う」という無責任なマニュアル診療を行う医師が多い中で、 新しい医療のあり方を模索する近藤氏をことさらに叩くのは、あまり公正な態度ではないように思われる。単なるやっかみであろう。

確かに、近藤氏の理論は、間違っている。その点については、議論の余地はない。 しかし、癌に苦しむ一般大衆が、権威ある医師ではなく近藤氏のような、権威もない、いわば「胡散臭い医師」の言葉を信じるのは何故なのか。 「一般大衆は無知無学だから、正しい医学を理解できないのだ」などと考えている者は、医師たるにふさわしくない。

我々は、これまで患者に対し、自身の疾患や治療について理解してもらうという努力を怠ってきた。 かつては、癌を患者に告知しないまま治療するなどという意味不明な慣習があったらしいし、 また単なる延命治療なのに、根治できるかのように患者に誤解させたまま治療する例も多かったらしい。 昨今でも、治療内容について本当にしっかりとインフォームドコンセントを得ている例は、少ないのではないか。 同意書にサインをもらうことを「インフォームドコンセント」だと誤解しているのではないか。

患者の医者に対する不信感は、たぶん、あなた方が思っているよりも、ずっと強い。 その不信感を患者は口にできないでいるだけなのに、医者は、まるで自分達が信頼されているかのように錯覚しているのである。 そうした一般大衆に対し、我々は、理解を求める姿勢を欠いてきた。 それゆえに、近藤氏のような、主張は不合理であっても大衆の側に立っている医師に、患者が救いを求めるのではないか。 少なくともその意味においては、近藤氏は、時代の一歩先を行く、敬愛すべき医師である。


2015/10/30 「おまえ、焼け死ぬぞ」

一昨日、10 月 28 日 11 時 30 分から、名古屋大学では全学一斉避難訓練を含む地震防災訓練を行った。 しかし、本訓練の実施にあたり、鶴舞キャンパスでは不手際があったように思われる。

そもそも、訓練を実施する旨が周知徹底されていなかったのではないか。 名古屋大学災害対策室によれば、 チラシを全学に配布して周知を図ったらしいが、 私は、このチラシを鶴舞キャンパスでみかけた記憶がない。 当日、私は朝から図書館にいたが、訓練開始の放送があるまで、訓練のことなどすっかり忘れていた。 そういえば、何日か前に「こんど訓練するよ」という主旨の放送を図書館内で聞いたような気がするが、それだけである。

訓練放送が入ってからも、これが避難訓練なのかどうかは、よくわからなかった。 図書館のスタッフも平常業務を続けているようにみえたし、避難誘導もなかった。 そこで、単なる試験放送なのだろうと判断し、私は、避難しなかった。 近くの席にいた同級生も「避難訓練ではないだろう」などと言っていた。

しかし、後で当局に問い合わせたところでは、あれは避難訓練であったらしい。 鶴舞キャンパスの場合、病院は個別に防災訓練をしているが、病院以外は全学一斉訓練の一環として避難訓練を行うことになっていたようである。 つまり、図書館にいた我々は、逃げ遅れたのである。

今回の件で、京都大学工学部の三年生だか四年生だかの頃の事件を思い出した。 私の所属していた物理工学科原子核工学サブコースは、工学部 1 号館という古い建物を本拠としていた。 どのくらい古いのか、よく覚えていないが、戦前から建っていたかもしれない。

その日、たまたま私は早朝から大学にいた。 すると午前 8 時頃であっただろうか、火災報知器が鳴り始めたのである。 設備の老朽化が著しい 1 号館のことであるから、私は「どうせ、誤報であろう」と判断して避難せず、 しかし一方では「もしかすると本当の火災かもしれぬ」と思い、悠然と廊下を散歩しながら状況を見守ることにしたのである。 すると、火災報知器が鳴り続ける廊下で、神野郁夫助教授 (当時) に遭遇した。 神野さんは、ノンビリとした私の姿をみると「おまえ、焼け死ぬぞ」と言ったのである。

後で聴いた話では、現場には煙がないにもかかわらず「煙感知器」が作動したらしく、つまり誤作動であったらしい。 しかし、万が一、本当の火災であった場合、私のようにブラブラと廊下で様子を窺っているような者は、まず逃げ遅れて、死亡するであろう。 神野さんの指摘は、完全に正しかった。 それ以来、私は、避難訓練などには真面目に取り組むことにしている。

2015.11.01 「准教授」を「助教授」に修正した。

2015/10/29 多発性硬化症と視神経脊髄炎

私は不勉強な学生なので、内科学の試験が終わるまで「視神経脊髄炎」という疾患を知らなかった。 この疾患は欧米では稀なので、米国などの教科書を中心に学んでいる学生には馴染みがないであろうが、日本においては頻度が高く、有名であるらしい。 一昨日、Jamilah Project の関係で、この疾患について調べる機会があった。 なかなか面白い話であったので、ここに記録しておく。 `Greenfield's Neuropathology 9th Ed.' や `Merritt's Neurology 13th Ed' の記述を総合すると、次のような次第であるらしい。

多発性硬化症は、中枢神経系の慢性炎症性脱髄性疾患である。臨床的には増悪寛解を繰り返し、しばしば脊髄が冒される。 本疾患においては、詳細な機序は不明であるが、T 細胞の作用によって血液脳関門が非炎症性に機能障害を来すらしい。 中枢神経系は免疫租界であるから、血液脳関門が破綻すれば必然的に、自己免疫性の傷害を受ける。

視神経脊髄炎は、多発性硬化症に類似した疾患であるが、視神経と脊髄の両方が冒される。 歴史的には多発性硬化症の亜型とする意見も強かったが、近年、しばしば抗アクアポリン-4 抗体が生じることが発見され、多発性硬化症とは別疾患であると考えられるようになった。 アクアポリン-4 はアストロサイトに存在し、どうやら、本疾患では補体が活性化して膜攻撃複合体 (Membrane Attack Complex; MAC) を形成し、 アストロサイトの足突起を破壊するらしいのである。 このとき、多発性硬化症とは異なり壊死を伴うことがあり、そうした場合には好中球や好酸球が動員されるようである。 こうして血液脳関門が損なわれ、自己免疫性に中枢神経系が傷害を受ける。 つまり、本疾患の発症には、抗アクアポリン-4 抗体の産生に加えて、宿主細胞を補体から守る機構が少なくとも部分的には損なわれていることが必要であるらしい。

臨床的には、両者は再発予防のための治療法が異なるという意味で、鑑別を要する。 すなわち、視神経脊髄炎の再発予防にはグルココルチコイドの全身投与が有効であるのに対し、 多発性硬化症の再発予防にはグルココルチコイドは無効であり、インターフェロンβが良いとされる。

この違いは、次のように理解できる。 多発性硬化症における血液脳関門の破綻は、詳細な機序は不明であるが、上述のように非炎症性であるため、グルココルチコイドは効かないのである。 インターフェロンの働きはよくわからないが、俗な表現をすれば「細胞に守りを固めさせる」ものであるから、T 細胞による血液脳関門の破壊を免れる効果があるのだろう。 実はウイルス感染症である、という可能性もある。 これに対し視神経脊髄炎は炎症によるアストロサイト傷害が問題なのだから、グルココルチコイドなどの抗炎症薬が有効である。

私が昨日述べたのは、つまり、こういうことなのである。 名大医学科では「理屈なんか、臨床的にはどうでもいい。多発性硬化症の再発予防はインターフェロンで、 視神経脊髄炎はグルココルチコイドだ、という知識が重要なのである。その知識だけあれば患者を治せるし、知識がなければ患者を治せない。」という論理が、まかり通っている。 もちろん、神経内科医を十年もやっているような医者が、そのような知識すら持っていなかったならば「あなたは一体、十年間、何をやってきたのか」と言われても仕方がない。 しかし、学生や研修医、あるいは他科の医者が、そのような知識を持っていることが、はたして、必要であろうか。 教科書をみれば、あるいはコンピューター上で文献を検索すれば、済む話ではないか。 法的なことを別にすれば、優秀な看護師と一台のコンピューターさえあれば充分なのであって、知識の豊富な医者など、いらないのである。 学生や研修医に求められる「医師として備えているべき教養」とは、そうした知識の蓄積のことではない。

2016.06.12 Greenfield 先生の名を失礼にも Greenfields と誤記していた点を修正

2015/10/28 雑感

一昨日で、二回に分かれた内科学の試験が終了した。ひょっとすると合格したかもしれない。

私は、生来、意志薄弱であるから、こうした名大医学科の環境にいると、もしかしたら私の方が間違っているのかもしれない、と、思ってしまうことが時々ある。 過去問をみて試験対策をし、国家試験に向けて知識を習得し、総論を無視して各論を覚える、という勉強法が、医療においては正しいのではないか、と思ってしまうのである。 なにしろ、天下の名古屋大学のセンセイ方や厚生労働省の医師国家試験が、そういう学習方法を推奨しているのだから、 世界の先端を行く日本国が公式にそういう勉強方法を推奨しているのだから、それが正しいのではないかと、思ってしまうのである。

これだけ医者嫌いで、工学部や大学院時代の経験に支えられている私でさえ、こうなのだから、高卒で医学科に来た人々が「あのように」なるのは、無理からぬことである。 この強い圧力に、立ち向かえという方が無茶な要求である。

他大学のことは知らぬが、名古屋大学の場合、臨床的な知識が豊富な学生や研修医が「優秀だ」とみなされる傾向が強い。 なにしろ、この大学においては「勉強する」とは「覚える」という意味なのだから、知識が多いことは、よく勉強したことの証拠なのである。 これに対し、実習中などに生化学や生理学、あるいは病理学や薬理学的な疑問を呈する学生は「基礎向きである」と評されることが多いように思われる。 「基礎向き」という語は、この場合、「臨床医には向いていない」という意味で使われている。

こうして若者達の才能を覆い隠し、狭小な枠に嵌め込む教育が医学科に蔓延している以上、日本の医学と医療の未来は暗い。 そうした時代にあって、医学の灯を守っていくことが、私に課された使命であると認識している。 また、医学科の中にも外にも、ひっそりと私を応援してくださる方がいることは承知している。 そうした方々のおかげで、何とか、私は戦っていけそうである。


2015/10/27 膜電位 (後半)

一昨日の続きである。

Goldman-Hodgkin-Katz の式は、「ある与えられたイオン濃度の下で、膜を通過する正味の電流が 0 になるような電位差」を与えるものである。 しかし、現実の細胞ではイオンはチャネルを通る受動輸送だけでなく Na+-K+ ポンプ による能動輸送によっても移動しているので、Goldman-Hodgkin-Katz の式の前提は成立していない。

さて、よく考える学生ならば、leak channel の存在意義について疑問を持ったことがあるだろう。 このチャネルは、一体、何のために存在するのか。 せっかく Na+-K+ ポンプ が細胞内に取り込んだカリウムイオンを静止状態において細胞外に流出させるなど、エネルギーの無駄遣いではないのか。 しかし進化の過程で失われなかったということは、きっと、細胞にとって、とても重要な存在であるに違いない。一体、その役割は、何なのか。

小難しい数式を駆使してもつまらないから定性的な議論に徹することにするが、 実際のところ、どうやら leak channel は、あまりエネルギーを消費していないらしい。 というのも、静止状態において「カリウムはナトリウムより透過性が高い」といわれるが、あくまで相対的な話であって、カリウムも、 それほどドバドバと流出しているわけではないらしいのである。

その一方で、leak channel の存在は、細胞内におけるカリウムやナトリウムの恒常性を維持するために必要である。 というのも、 Na+-K+ ポンプ は 3 Na+ と 2 K+ が共軛した格好でしかイオンを輸送できないので、 たとえばカリウムだけ、あるいはナトリウムだけが細胞内で少し過剰である、というような状態になったとき、 ポンプだけでは、これを適切な濃度に戻すことができないのである。 それに対し leak channel が少しだけでも開口していれば、もしかすると時間はかかるかもしれないが、いずれは両方のイオンともに適切な濃度に至ることができる。 換言すれば、leak channel は、ほんの少しだけ開口していれば充分だ、ということになる。 まさに `leak' なのである。

もう一つの疑問は、なぜ、高カルシウム血症で神経の興奮性は低下するのか、という問題である。 一見、この興奮性低下はヒトにとって不利益をもたらしているのに、なぜ、進化の過程で、そのような性質が失われなかったのか。 「ガイトン生理学」は「カルシウムイオンはナトリウムチャネルの開口しやすさを変化させる」としている。 この記述に、どれだけ実験的、あるいは理論的な根拠があるのかは、私は把握できていない。 「ガイトン」は、また「ナトリウムチャネルの外側にはカルシウム結合部位があるのかもしれぬ」としている。

私は以前、高カルシウム血症では Na+-Ca2+ 交換輸送体 の活性が低下することで興奮性低下を来しているのではないか、と考えたことがあるが、これは正しくない。 細胞にとって、細胞質のカルシウム濃度を適切に維持することは極めて重要である。 これが制御されないと、種々の酵素の活性がおかしくなり、細胞機能を維持できないからである。 そう考えると、高カルシウム血症の際にカルシウムの細胞外への排出が遅れてしまうと、細胞内カルシウム濃度が上昇し、重大な細胞機能障害や細胞死に至るであろう。 神経の興奮性低下は、これを防ぐための機構であって、カルシウムの細胞内への流入を妨げているものと考えられる。 理想的には、神経の興奮性は低下させずに、高カルシウム血症に反応して Na+-Ca2+ 交換輸送体 の活性が亢進すれば良いと思うのだが、現時点では、そこまでは最適化されていないのであろう。

2015.10.29 脱字修正

2015/10/26 マッチング結果の続き

昨日の話を続けるつもりであったが、ホットなニュースが入ってきたので、膜電位の話は後日にする。

m3.comは、医療関係者向けの情報サイトであり、医学科生も対象とされている。 同サービスが10 月 23 日に配信した記事は、大学病院についてのマッチング結果を総括するものであった。

気になったのは「名古屋大は自大学出身がゼロ」という小見出しの部分である。 「(自大学出身者が) 30 % 以下だったのは (中略) の 9 大学で、昨年より 6 大学増加。出身大学の大学病院に縛られずに初期研修を行う流れも進んでいる。」とある。 全国的にみれば、以前は大学病院での研修が主流であったものが、近年では市中病院で研修する者が増える流れにあるらしいので、これは誤った記述であるとはいえない。 しかし、記事全体としてみれば、まるで名古屋大学が先進的であるかのような誤解を与えかねず、その意味では不適切である。

名古屋大学の場合、もともとは大学病院での研修を行っておらず、卒業生は皆、市中病院で研修を受けていた。 比較的最近になって、名大病院でも研修を行うようにしたのだが、卒業生はなぜか大学病院での研修を好まない傾向が続いている。 私が見聞した限りでは、名大病院で研修を受けない理由として多いのは「給料が安い」「先輩は皆、市中病院に行っている」「そもそも名大病院の研修・教育体制が信用できない」 といったものである。 このうち最後の「研修・教育体制の問題」については、私も思う所があるので、卒業する前に担当教授に心中を打ち明けておこうとは思っている。

このように、統計の上からは名古屋大学の出身者が革新的で、外の世界に飛び出していく積極性を持っているかのように誤解しかねないが、事実は全く逆である。 名大の卒業生は、東海地方の、いわゆる名大関連病院で研修を受ける例が大半である。 中には、名大とは無関係な病院に行く者もいるのだが、私の印象では、それは東海地方以外から名古屋大学に来た学生に多いように思われる。 よその世界からやってきて、名大関連病院の閉鎖社会に辟易して、東海地方から脱出するのかもしれぬ。 あるいは、単に、地元出身者と外様との間で世界に向かう志の高さが違うのかもしれぬ。

何にせよ、外部の人が統計だけをみて名大医学科について勘違いすることのないよう、ご注意申し上げる次第である。


2015/10/25 膜電位 (前半)

10 月 27 日の記事も参照されたい

10 月 6 日に低カリウム血症について書いたが、細胞の観点からカリウムについて、思考実験に基づく考察をする。 よくわかっている人にとっては当たり前の内容であろうが、たぶん、多くの医者は、このあたりのことを全然わかっていない。

神経細胞を例に考える。 まず静止状態においても、一定数のカリウムチャネルは開口している。これは leak channel などと呼ばれるものである。 細胞が興奮した後、再分極する際には、膜電位に多少のアンダーシュートがみられる。 これは電位依存性カリウムチャネルが開口した結果、カリウムの膜透過性が静止状態よりも亢進しており、膜電位がカリウムの静止電位に近づくためであると説明される。 では、もし細胞に何らかの細工を施して、普通の神経細胞に比べて 2 倍の数の leak channel が静止状態において開口しているようにしたら、膜電位は、どうなるであろうか。 私の想像では、「普通の神経細胞よりも静止膜電位が低く、つまり『より深いマイナス』になる」と答える学生が多いのではないか。 しかし実は、逆であって、普通の神経細胞よりも静止電位は大きく、つまりゼロに近づく。

この思考実験は、Goldman-Hodgkin-Katz の式の弱点を浮き掘りにしているように思われる。 あの式には「なぜ、細胞内外にイオン濃度差が生じているのか」という点が考慮されていないため、実際の現象との間に、いささかの誤差を生じるのである。 `Guyton and Hall Textbook of Medical Physiology 13th Ed.' によれば、この誤差は、だいたい 4 mV であるらしい。 この「ガイトン生理学」という教科書は、生理現象を理論的に説明する名著なのではあるが、この誤差については 「Na+-K+ ポンプの影響」とだけ書いてウヤムヤにしている。

極端な例として、細胞膜のイオンチャネルが全て閉じている場合を考えよう。 このとき、全てのイオンについて膜透過性が 0 であるから、Goldman-Hodgkin-Katz の式は使えないことに注意を要する。 この状況では、 Na+-K+ ポンプの働きにより細胞内外に電位差が生じるが、その電位差があまりに大きくなると、 電気化学的勾配のため、ポンプを介した正味のイオンの移動は、なくなる。

この状況で、ほんの少しだけ、膜のカリウムチャネルを開口させたとしよう。 すると、細胞内のカリウムがチャネルを介して細胞外にチョロチョロと流出する一方、 Na+-K+ ポンプはナトリウムを細胞外に、カリウムを細胞内に、と移動させる。 もし、カリウムチャネルが厳密にカリウムだけを通過させ、ナトリウムを全く通さないのであれば、ポンプの働きは、やがて止まってしまう。 なぜならば、外に汲み出すナトリウムイオンが枯渇するからである。 しかし現実には、カリウムチャネルは少しだけナトリウムイオンも通すらしい。 「ガイトン生理学」によれば、だいたい、カリウムとナトリウムの透過性の比は 100:1 ぐらいであるという。 このおかげで、ATP が供給される限りは、ポンプはいつまでも回り続けることができ、またチャネルを介してカリウムは細胞外へと流出し続けることになる。 一種の平衡状態である。

では、このとき、細胞内外のカリウム濃度比は、どうなっているであろうか。 これは、ポンプとチャネルの活性のバランスによる。 ポンプの活性がチャネルの活性よりもずっと高ければ、チャネルが開いていなかった時と同じぐらいの濃度比になるであろう。 一方、もしチャネルの活性の方がずっと高ければ、細胞内外のイオン濃度は、ほとんど同じになるに違いない。 平衡状態であるから、Goldman-Hodgkin-Katz の式を使って、イオン濃度比を膜電位に換算することができる。 すると、ポンプの活性が高い場合の膜電位は「かなり深いマイナス」であるのに対し、チャネルの活性が高い場合は「ほとんど 0」ということになる。 このように考えると、実は膜電位は、形式的にはイオン濃度比で決まっているが、根本的にはポンプとチャネルのバランスで決まっていることになる。

ここで最初の問題を振り返ると、なるほど、カリウムチャネルがたくさん開いている細胞では、膜電位は比較的 0 に近いところで平衡になる、ということがわかる。 神経細胞のアンダーシュートは、非平衡の状態における、一過性の現象に過ぎないのである。

実は本題は、ここからである。 が、長くなってきたので、また明日にしよう。


2015/10/24 マッチング結果

一昨日、初期臨床研修のマッチング結果が発表された。私は、予定通り北陸医大 (仮) に決定した。

大学病院のマッチング結果をみると、名古屋大学医学部附属病院の不人気ぶりが目立つ。 なにしろ、名古屋大学出身者で名大病院にマッチした者の数が 0 なのである。 他に自大学出身者が 0 であったのは自治医科大学のみであるが、自治医大の卒業生は原則として出身地に戻ることになっているので除外すると、事実上、0 なのは名大のみである。

我が北陸地方には 4 つの大学病院、すなわち富山大学、金沢大学、金沢医科大学、福井大学がある。いずれも定員割れであるが、金沢大学は充足率が 76.5 % と、比較的高い。 この金沢大学は、昨年は他大学からの志願者が少なかったが、今年は例年並に戻り、39 人中の 12 人が他大学である。 福井大学は例年通りで、24 人中の 4 人が他大学らしい。 富山大学と金沢医科大学は過去 3 年間、いずれも他大学からは 1 人のみという状況が続いていたが、今年の金沢医大には 2 人が来たらしい。 富山大学は、今年で 4 年連続となった。

地方大学の問題点は、このような人材の固定化である。 確かに、正直にいえば、我々のような地方大学には「これが強みだ」というようなセールスポイントが乏しい。 従って、何かを教えてもらおう、という姿勢の学生を外部から呼び込むことは、難しい。

しかし、何か新しいことを成そう、現状を改革しよう、と思うのであれば、むしろ組織が小さく、革新の気鋭に富む地方大学こそ、優れた場になり得る。 ちょうど明治維新の頃に、薩摩や長州といった田舎出身の若者達が革命の原動力となったようなものである。


2015/10/23 浸透圧

今さらであるが、浸透圧について書くことにする。 というのも、「浸透圧とはどういう性質のものか」を大半の学生は漠然と知っているであろうが、 「なぜ浸透圧が生じるのか」という点については、ほとんどの学生が理解していないと思われるからである。 Wikipedia浸透圧の項をみても、 浸透圧の成因については記載がない。英語版 WikipediaOsmotic pressureも、熱力学的な説明はあるが、 物理や化学の専門家でなければ理解できないような記述になっている。

医学書院『標準生理学』第 8 版では、浸透圧について化学ポテンシャルを用いた説明がなされている。これは理論としては正しい説明なのだが、 一体、どういう学生を想定して記載したのか、理解できない。物理や化学の学生ならともかく、普通の医科学生や医師が、あれを理解できるとは思われない。 その点、`Guyton and Hall Textbook of Medical Physiology 13th Ed' や、日本語版の『ガイトン 生理学 原書第 11 版』は、現実的な医科学生を念頭に置いて、 平易で定性的な説明に徹している。 浸透圧の成因を簡潔に述べれば「溶質が存在するために水が押しのけられており、水分子が半透膜に衝突する機会が減じているから」ということである。 これは、一見、子供だましの誤魔化しであるようにみえるかもしれないが、詳しく分子運動論的な議論をしてみると、実はこれが本当であるらしい、ということがわかる。 基本的には液体と気体は同じような分子運動論で議論できる。 つまり浸透圧の議論は、気体の分圧と同じように考えることができるので、関心のある人は、高校時代に学んだ物理を思い出しながら検討してみると良い。

浸透圧について、多くの学生が疑問に思いつつも、敢えて気にしないことにしている問題は「なぜ、浸透圧は分子の大きさに依存しないのか」という点であろう。 これについては、「本当は分子の質量や大きさに依存している」というのが真相である。 「浸透圧は分子の大きさに依存しない」という理論は、分子が全て理想溶液である、という仮定を用いて初めて導出できる。 理想溶液というのは、高校時代に物理で学んだ「理想気体」の液体版である。 実在の分子には質量も大きさもあるから、この理想溶液に基づく理論は厳密には成立しない。 というより、液体の場合は気体に比べて分子間の相互作用が強いから、この理想溶液の概念は、かなり無理をした、強引な近似法である。 しかしながら生物学では圧力について、それほど高精度な議論や測定が行われておらず、理想溶液近似を用いても実用上の問題が生じていないから、 便宜上、分子の数だけで決まるとみなしている。

世俗的な解釈に基づけば、たとえば 0.5 mmol / L の塩化ナトリウム溶液も、1 mmol / L のグルコース溶液も浸透圧は同じで、だいたい 1 mOsm / kg ということになるが、 厳密な理論では両者の浸透圧は少しだけ異なる。 では、1 Osm という量の厳密な定義は何なのかというと、私の調べた限りでは、よくわからない。 たぶん、Osmole という概念自体が、理想溶液近似の上にのみ成立しているのではないかと思われる。 そこで次のような疑問が湧いてくるであろう。 「臨床検査医学では、どのようにして浸透圧を測定しているのだろうか?」

金原出版『臨床検査法提要』改訂第 34 版によれば、浸透圧の測定は氷点降下法によって行うらしい。 これは、理想溶液近似の下で、水の凝固点は溶質 1 mol / kg あたり 1.858 K だけ低下する、という法則を用いるものである。 あくまで、理想溶液近似なのである。 従って、イオンなどの小さな粒子による浸透圧を議論する分にはよろしいが、グルコースや、あるいはデンプンなどの大きな分子による浸透圧を議論するのであれば、 測定値と真の浸透圧の間には、いささかの誤差が生じる。 ただし、幸か不幸か、臨床医療の現場においては、そのような浸透圧の繊細な相違を問題にする精度での処置は行われていない。


2015/10/22 偽性副甲状腺機能低下症

偽性副甲状腺機能低下症と呼ばれる疾患について、同級生の某君から問い合わせを受けた。 面白い話題であり、世間では、いささか議論が混乱しているようなので、ここに記載しておく。

まず副甲状腺機能低下症というのは、いささか漠然とした名称であるが、要するに副甲状腺ホルモン分泌不全のことである。 丸善『ハーバード大学講義テキスト 臨床薬理学 原書 3 版』によれば、副甲状腺ホルモンの機能はビタミン D の活性化、 腎におけるカルシウム再吸収亢進およびリン再吸収抑制、そして投与方法依存的な破骨細胞活性亢進または骨芽細胞活性亢進である。 特に、腎臓に対する副甲状腺ホルモンの作用が不足した場合、低カルシウム高リン血症を来し、異所性石灰化などを生じることになる。 なお、投与方法依存的な破骨細胞や骨芽細胞への作用の話も面白いのであるが、本題から逸れるので、ここでは割愛する。

偽性副甲状腺機能低下症とは、副甲状腺ホルモンに対する反応性が低下しているものであって、副甲状腺ホルモンの分泌自体には障害を来していないものをいう。 その原因は、`Harrison's plinciples of internal medicine 19th Ed.' によれば、多くの場合は 副甲状腺ホルモン受容体などに共軛している Gi 蛋白質のαサブユニット、すなわち GNAS 遺伝子の変異であることが多い。 この遺伝子の機能異常によるものを I 型、より下流のシグナル伝達の異常によるものを II 型と分類するのが普通である。 I 型は、さらに GNAS 遺伝子のコード領域に変異を有する Ia 型と、非コード領域に変異を有する Ib 型とに分類される。 また、ふしぎなことに、この遺伝子は腎臓の近位尿細管など一部の組織においては、ゲノムインプリンティングにより父由来の遺伝子がサイレンシングを受けているらしい。 なお、この遺伝子の機能異常の検査には副甲状腺ホルモンを投与した際の尿中 cAMP の変化を測定する。 すなわち、尿細管上皮細胞内で副甲状腺ホルモン依存的にアデニル酸シクラーゼが活性化している場合、生じた cAMP の一部が尿中に漏出するらしく、これを検出するのである。

以上のことからわかるように、父由来の GNAS 遺伝子に変異があっても、偽性副甲状腺機能低下症でみられるような低カルシウム高リン血症は来さない。 これを偽性偽性副甲状腺機能低下症と呼ぶ。

さて、もともとの某君からの問い合わせは、オールブライト遺伝性骨形成異常症との関連を問うものであった。 詳しいことは不明だが、GNAS の 1 コピーに機能喪失がある場合、たぶんハプロ不全のために、低身長、精神遅滞、骨形成異常などを来すことが多いらしく、 これをオールブライト遺伝性骨形成異常症と呼ぶ。 すなわち偽性副甲状腺機能低下症 Ia 型や偽性偽性副甲状腺機能低下症では、典型的には、オールブライト遺伝性骨形成異常症を合併する。 しかし、Ia 型の一部の症例や、大半の Ib 型の症例においては、この骨形成異常を合併しないという。 何らかの代償機構が働いて、ハプロ不全が回避されているのであろう。 理屈で考えると、偽性偽性副甲状腺機能低下症の中にもオールブライト遺伝性骨形成異常症を合併しないものがあるだろう。 その場合、全く無症候性であったり、たとえば軽度の低身長だけがみられる、というようなことになる。

以下は蛇足である。 医師国家試験などの流儀では、オールブライト遺伝性骨形成異常症を 2 つに分けたものが 偽性副甲状腺機能低下症 Ia 型と偽性偽性副甲状腺機能低下症である、と単純化するのだろう。 しかし、その流儀では「骨形成異常症を合併しない Ia 型」の存在を説明できない。 そもそも、偽性副甲状腺機能低下症という「疾患」を定義するために オールブライト遺伝性骨形成異常症という「症候群」を用いることは、論理構造として不適切である。


2015/10/21 (2) 日本赤十字社からの回答

過日日本赤十字社に問い合わせた件について、一昨日、広報担当者から回答があった。 内容そのものを転載することは控える。 日赤の説明は理解できるし、事情もわかる。しかし、私自身は、この日赤の主張には、同意できない。 そういう内容の回答であった。

関心のある方は直接日赤に問い合わせるか、私にメール等でコンタクトしていただきたい。

2015.10.22 誤字修正

2015/10/21 首の皮一枚つながった

臨床科目については、いまのところ、脳神経外科学、泌尿器科学、救急医学、整形外科学、形成外科学が本試験で不合格となっている。 このうち脳神経外科学は既に再試験に合格した。 形成外科学については、著しく不勉強であったのは確かなので、再試験になったのは妥当である。 それ以外の科目に共通しているのは、医師国家試験を強く意識した形式での出題がなされた、ということである。 記述式の出題ならなんとかなったであろうが、出題者の意図に沿うことを求められる選択式の出題は、苦手である。 特に医師国家試験は、特徴的な所見を拾って短絡的に診断することが求められる、という奇妙な、医学的でない出題が主体なので、どうにも、ダメである。

整形外科学および形成外科学については、本試験不合格者にはレポートが課された。 その際、対象者は医局に呼び出され「やるべき時には、やるべきことを、キチンとやり給え」という主旨の叱責を受けた。 過去問をみて対策を講じることが「やるべきこと」なのか、それが名古屋大学なのか、と反論したかったが、どうにも話が通じる相手ではないように思われたので、黙っていた。

再試験の山が積み重なっていることばかりが理由ではないが、近頃、著しく気力と意欲が減退している。昨日は一日中、家でグウタラしていた。 そして夜になって、ハッと気がついた。 整形外科学・形成外科学のレポートの締切が、10 月 20 日だったような気がしたのである。 医局に呼び出されたのが 10 月 14 日であり、その時、締切はだいたい 1 週間後だな、と思ったのだが、正確には 1 週間より少し短かったように思われた。 正確な締切日が記載された文書は大学に置いてあるので確認できないが、いずれにせよ、今から書き始めたのでは、どうしても間に合わない。 とにかく、今は布団に入り、朝になってから締切日を確認して、然るべき対応を練ろう、と考えた。

しかし、どうにも眠れない。 なにしろ整形外科の責任者は病院長の石黒教授であり、厳格な人物であるらしい。 本試験で不合格になったうえ、レポートの期日まで破ったとなれば、単位を認定せず、留年に処されたとしても文句は言えぬ。 というより、期日を守るのは社会人にとって極めて重要で基本的なことであって、それができないような学生は、卒業させてはならないと思う。 国家試験を強く意識した本試験の形式や、過去問で対策することを暗に求める教員の姿勢は問題であるが、レポートの期日の件については、一方的に私が悪い。 レポート不受理とされた場合には見苦しく抵抗せず、そのまま留年を受け入れよう、と、腹をくくった。 スポンサーと北陸医大 (仮) には、早めに詫びを入れねばならぬ、などと考えているうちに、ますます目は冴えてしまったので、布団から抜け出した。

期日が過ぎているとはいえ、一応、レポートは完成させて誠意をみせねばならぬ。 午前 4 時 20 分頃、一睡もせぬままに、レポートを書くため、大学の図書館を訪れた。 そこでレポート課題が記された文書をみて、安堵した。締切は「10 月 22 日」と書かれていたのである。私の記憶違いであった。


2015/10/20 生理的貧血

(10 月 14 日の記事における間質性肺炎の記述について、語弊のある部分を修正した。 定義上、膠原病による間質性肺炎は、特発性間質性肺炎には含めない。)

「生理的貧血」という語がある。これは、新生児において、生後 8 週間頃まで徐々に赤血球数やヘモグロビン濃度が減少し、すなわち軽度の貧血を来す現象をいう。 誰にでも起こる、病的ではない貧血なので「生理的」と呼ばれる。 ただし早産児においては、この「生理的貧血」が高度になり、輸血やエリスロポエチンの投与、あるいは鉄剤投与などの介入が必要となることがある。 この「生理的貧血」について、学生向けのアンチョコ本の類には、出鱈目で論理の通らない説明をしているものがあるらしいので、 `Nelson Textbook of Pediatrics 20th Ed.' の記述に沿って、簡略にまとめておく。

まず前提であるが、胎児ヘモグロビン (HbF) は、成人ヘモグロビン (HbA) に比べると酸素親和性が高い、といわれる。 それは事実ではあるが、重要なのは親和性そのものではなく、むしろ生理的な酸素分圧の変化に伴う酸素親和性の変化、である。 このあたりについても出鱈目な説明が世の中にはびこっているように思われるが、本題から逸れるので、ここでは割愛する。 ただし、同じヘモグロビン 1 g であっても、HbF と HbA では末梢組織への酸素運搬能は異なることには注意を要する。 どちらの方が運搬能が高いのか、という点については、一概にはいえない。

胎児の動脈血酸素飽和度は、だいたい 50 % 程度であるらしい。 出生後には、これが 95 % 程度にまで上昇するのだから、この時点では、末梢組織への酸素供給は過剰になる。 結果として、エリスロポエチンの産生は抑制され、赤血球造血も抑制される。当然、網赤血球数は減少する。 やがて赤血球が寿命を迎えるにつれて貧血が進行し、生後 8-12 週間程度で血中ヘモグロビン濃度は 11 g/dL 程度にまで至るらしい。 この頃には腎臓でのエリスロポエチンの産生が亢進してくるので、それ以上の貧血には至らない。 なお、まっとうな栄養が与えられていれば、新生児において鉄が欠乏することはない。 すなわち、この生理的貧血は、鉄欠乏性貧血ではない。

早産児の場合は、いささか事情が異なる。 医原性を含む様々な要因により、貧血が高度になり、輸血を含む介入が必要となることが稀ではない。 その中で特徴的な検査所見は、貧血の程度に比して、血中エリスロポエチン活性が低い、という事実である。 胎児や早産児においては、エリスロポエチンは腎臓ではなく肝臓で産生されるが、どうやら肝臓は、腎臓に比べると、酸素欠乏に対する反応に乏しいらしいのである。 高度の酸素欠乏状態におかれている胎児が、もし成人と同程度の反応性で造血を促してしまうと、赤血球数が増えすぎて大変なことになるのであろう。


2015/10/19 失言

過日、友人の某氏と、米国と本邦における医療制度の相違について話していて、失言をした。

氏によれば、米国においては手術の第一助手を看護師が務める例がある、という。 第一助手というのは、基本的には患者を挟んで術者と向かい合う位置に立って、手術中にピンセットで手術部位をつまんだり、 あるいは腹腔鏡手術であればカメラを動かしたり、といった介助を行う立場である。 現在の日本では、これは通常、あるいは常に、医師が行う。 看護師が行うのは、術者や助手に器具を渡すところまでである。 なお、第二助手という場合には、だいたい第一助手の左側あたりに立って、切開した部位を鉤で引っぱって視野を確保する、などの任務にあたる。

さて、私は外科学については造詣が浅いが、深く考えもせずに「キチンと実地教育が行われるなら、助手は看護師でも良いだろう、ぜひ真似しよう」というようなことを述べた。 すると、すかさず氏から「あんたは助手をなめているのか」という旨のお叱りを受けたのである。

後から考えてみると、確かに、私の発言は不適切であった。 外科手術における助手の仕事というのは、病理診断でいえば切り出しのようなものであろう。 切り出しというのは、手術で切除された検体などをホルマリンなどで固定した後に、スライドガラスに載せるのに適当な大きさに切断する作業をいう。 ナイフで切るだけなので、初心者は、簡単そうだな、学生でもできそうだな、などと思ってしまうかもしれない。 しかし、切り出しのやり方がまずいと、その後の診断に大きな悪影響が生じる。 たとえば癌がありそうなところ、よくわからない構造物があるところ、などが、キチンとプレパラートの真ん中に来るように切り出さねば、 後で検鏡した際に見落とす原因となり、結果として患者が絶大な不利益を被るのである。 具体的にいえば「非浸潤性乳管癌の再発」などは、適切な切り出しを行うことの困難なるが故に生じているものと考えられる。 従って、どこの病院であっても、切り出しは必ず医師が行うのであって、臨床検査技師に任せることはない。

手術の助手も、それと同じようなことであろう。 これまで医学ではなく看護学を学んできた看護師が、手先の技術だけトレーニングして務められるような性質のものではない。


2015/10/18 男女差別

医師の中には、特に意識はしておらず、悪意もないのであろうが、男女差別に富んだ発言をする者がいる。 たとえば医学書院『標準整形外科学』第 12 版の 210 ページには、下肢切断のうち Syme 切断について 「機能的には優れているが, 外観が不良であるため女性には不適当である」としている。 これは「女性は機能よりも外観を気にするものである」というステレオタイプに基づいた記述であり、不当な差別にあたる。 なお、Syme 切断とは足関節よりも少し近位の部分、つまり「足首より少し上の部分」で切断する方法である。

男性であっても、外観の不良なることを理由にして Syme 切断を嫌がる例は稀ではあるまい。 また女性であっても、外観を特に気にせず Syme 切断で構わない、とする例も稀ではあるまい。 結局、こういう場合に「男性」だとか「女性」だとかいうことに言及するのがおかしいのであって、 単に「外観が不良であるため適応には慎重になるべきである」などとするのが正しい。 もしかすると、傾向としては女性の方が外観を気にする例が多いのかもしれないが、あくまで各々の患者の感性によって決めるべき問題であり、 医者が云々する問題ではない。 昔の医者は「治療方針は患者ではなく医者が決定するものだ」などと考えていたらしいが、現代においては不適切な考え方である。

これに関連して想起されるのは、四年生の頃の、頭頸部癌についての講義である。 その講師は、放射線化学療法が外科手術より優れていることを強調していた。 外科手術では、どうしても整容性が犠牲になるため特に「女性は嫌がる」と強調していたのである。 さらに彼は、それを裏付けたかったのであろう、前の方に座っていた女子学生に対し「あなたなら、外科手術と放射線化学療法のどちらを選ぶか」と問うたのである。

ところが彼女は芯の強い、たくましい人物であり、それまでの講師の発言を不愉快に思っていたようである。敢えて「手術で結構です」と言い放った。 私はニヤリとして内心「よく言った」とエールを送ったのであるが、講師は、彼女が何を言っているのか、よく理解できなかったようである。


2015/10/17 窃盗事件

名古屋大学鶴舞キャンパスの生協書籍部が入っている建物の二階や三階には、部活動のための部室があるらしい。 一昨日の晩、ふと見上げると、この部室へと続く外階段の踊り場に、ショッピングカートのようなものがみえた。 もしや、と思い、近づいてみると「MaxValu」と書かれたショッピングカートであった。 名古屋大学鶴舞キャンパスから 200 m ほど北に行くと、「マックスバリュ千種若宮大通店」がある。 ここから不正に持ち出されたものであろう、と、私は推定した。

正直に言うと、私は「面倒なことになった」と思った。 が、仕方がないのでマックスバリュを訪れて事情を告げると、持ってきてくれないか、とのことであった。 そこで一度大学構内に戻り、そのショッピングカートを返却し、名大医学科を代表して謝罪を述べ、帰途につき、翌日になってから大学の学務掛に報告した。

細かいことを言うと、この対応は、若干、問題があったかもしれない。 このショッピングカートが盗品であることは明白であったが、たとえ「正当な所有者」であっても、 現に他人が占有しているものを勝手に持ち出すことは、法律用語でいう「自力救済」であり、緊急避難にあたる場合を除いては窃盗罪にあたる。 たとえば、自動車を盗まれた者が、隣家の駐車場に停められている当該車両を発見して勝手に奪い返す行為は、窃盗罪である。 取り返す際には、キチンと法的な手続きを踏まねばならないのである。 一昨日の件については、当該ショピングカートは踊り場に放置され、手入れもされていないようであったから、私は占有を離脱していると判断し、持ち出したのである。 実際、このショッピングカートは長らく野晒しにされていたようで、劣化が著しく、マックスバリュのスタッフも、 一見しただけではそれとわからず、「これ、うちのかしら」などと発言したほどである。

本件について、当該ショッピングカートを窃取した者が社会人として当然にわきまえているべき道徳を欠いていることは言うまでもない。 また、医師たる資質もない。すなわち医師法第四条および刑法第二百三十五条 (窃盗) の定めにより、「医師免許を与えないことがある」者として指定されているのである。

さらにいえば、この部室を頻繁に使っていた多数の学生にも重大な問題がある。 盗品である当該ショッピングカートが放置されていることを認識していなかったのであれば、観察能力が欠如している。 また、認識した上で何もしなかったのであれば、社会的道徳観念が欠如している。

なお、マックスバリュのスタッフによれば、荷物が多くて運搬が大変な場合などは、サービスカウンターにご相談ください、とのことである。


2015/10/16 不正行為

少し前の話になるが、某医科大学病院で、精神保健指定医の資格を取得するに際し不正行為があったらしい。 m3.comの記事によれば、この資格を取得するには、 主治医などとして一定数の症例に関与しなければならないにもかかわらず、カンファレンスに参加した、という程度にしか関わっていない症例の報告書を提出して 不正に資格取得した者が 10 名以上いたらしい。

精神保健指定医というのは、精神保健福祉法に定められている資格であって、精神障害者の強制入院に関係する。 たとえば、二人以上の精神保健指定医が診察して「自身を傷つけまたは他人を害するおそれがある」と判断した場合には、 都道府県知事の権限により、本人や家族の同意がなくても強制的に入院させることができ、しかも期間の定めがない。これを措置入院という。 もちろん、これは患者の人権を著しく制限する入院形態であるから、その運用は慎重でなければならず、それを担う精神保健指定医の責任は重い。

さて、某医大における不正の件であるが、厚生労働省の見解としては、 組織的な不正ではなく、それぞれの医師が個別にインチキをした、ということになっているらしい。 真相はわからないが、しかし、少なくとも「自分が主治医になっていなくても、カンファレンスに参加した症例なら使って構わないよ」という空気ぐらいは、あっただろう。 また、そこで「いえ、自分が主治医になった症例以外は使いたくありません」などと言えば、 「なんだ、あの糞真面目野郎は」とか、「他の同僚がインチキをやっているとでも言いたいのか」などと批判されるのではないか。

問題は、我々が将来、そういう事態に巻き込まれた時に、どうするか、という問題である。 上級医の指示に従って、結局、資格を剥奪される道を選ぶのか。 それとも、職を失うリスクを背負ってでも、不正を拒むのか。

多くの学生は、既に、前者の道を選ぶことに決めているらしい。 先生方のおっしゃることに従順に、言われたこと、要求されたことを忠実に遂行するという学生生活を選んだということは、つまり、そういうことなのである。


2015/10/15 口腔癌の T 分類

昨日、ふらりと大学生協の書籍部を訪れた際、金原出版『TNM アトラス』第 6 版という書物をみつけた。 中をみると TNM 分類の図説である。しかも編集は、TNM 分類を制定している UICC であり、要するに公式アトラスなのである。 私はオオヨロコビして、直ちに購入した。 そして、道行く知人・友人をみつけるたびに「どうだ、うらやましいだろう」などと自慢したのである。

TNM 分類というのは、悪性腫瘍の広がりの具合を記述するための国際的指標であって、Union for International Cancer Control (UICC) という 識者が集まった国際委員会によって制定された分類法である。 癌の「ステージ」とか「病期」とかいう表現は、近年では一般大衆にも知られつつあるようだが、その病期は、多くの場合、TNM 分類に基づいて評価される。 現時点で最新の TNM 分類は Seventh Edition であり、これを日本語訳したものが金原出版『TNM 悪性腫瘍の分類』第 7 版として出版されている。 昨日購入した「TNM アトラス」は、これにカラーの図説を付したものであり、アトラスとしては第 6 版であるが、内容は TNM 分類の第 7 版である。

この『TNM アトラス』には正誤表が付されており、みると口唇癌および口腔癌について T4a の定義に「骨皮質に浸潤するもの」とあるのは誤りで、 正しくは「骨髄質に浸潤するもの」である、と書いてある。 これは非常に重大な間違いである。 アトラスではない方の『TNM 悪性腫瘍の分類』ではどうなっているのか、と思って調べると、「皮質骨に浸潤するもの」となっている。 日本頭頸部癌学会編『頭頸部癌取扱い規約』第 5 版も「皮質骨に浸潤する腫瘍」としている。 ついでに手元にあった日本頭頸部癌学会編『頭頸部癌診療ガイドライン 2013 年版』をみると、これも口腔癌の T4a は「皮質骨に浸潤する腫瘍」となっている。

私は、骨の「皮質」というのは緻密骨のことであると思っていたのだが、ここに勘違いがあるといけないので、一応、調べてみた。 まず南山堂『解剖学講義』改訂第 3 版や南山堂『組織学』改訂 19 版では、骨については「皮質」という語を用いておらず、「骨質は緻密質と海綿質に分けられる」とのみある。 そして「緻密質と海綿質は臨床では, 緻密骨と海綿骨といわれている.」とある。 私は基礎寄りの人間のつもりであったが、無意識に、基礎解剖学用語ではなく臨床用語を使っていたらしい。 意識的に臨床用語を使うならともかく、無意識なのはいけない、と反省した。 次に医学書院『医学大辞典』第 2 版をみると「緻密質」と「緻密骨」「皮質骨」は同義である、としている。「骨皮質」という語は記載がない。 そして S. E. Mills `Histology for Pathologists' 4th Ed. では `Cortical bone, also known as dense compact bone...' とある。 要するに、これらの語は全部同じ意味である、という点に異論はないらしい。

話を口腔癌の T 分類に戻す。TNM 分類の正本は、英語版の `TNM Classification of Malignant Tumours' である。 UICC の本部はスイスのジュネーヴにあり、米国式ではなく英国式の英語が用いられているらしく、`Tumors' ではなく `Tumours' である。 私は英国派なので、こういう記述をみると、嬉しくなる。 さて、口腔癌の T 分類のページを開くと、次のように記載されている。 `T4a (lip) Tumour invades through cortical bone...' 'T4a (oral cavity) Tumour invades through cortical bone...'

`Into' ではなく `through' であるから、「皮質骨に浸潤する」ではなく「皮質骨を貫通して浸潤する」という意味なのである。 誰かが最初に誤訳したのを、そのまま転載してしまったために、誤った記載が広まったものと考えられる。 国際共通基準として定められた TNM 分類を、日本においてのみ異なった解釈で運用していたとすれば、これは重大な失態、大事件であると思うのだが、 この件が専門家の間でどのように扱われているのかは、知らぬ。 たとえば、今後、臨床研究等で過去の臨床データを比較検討する場合などは、こうした基準の差異が存在することを前提に解析せねばならず、実に困る。 なお、幸か不幸か、「頭頸部癌診療ガイドライン」を読む限りでは、口腔癌に対しては詳細な治療アルゴリズムが確立されていないらしいので、 この誤訳のために病期を過大評価されて不適切に過剰な治療を受けた、という患者は、ほとんどいないのではないかと思われる。

ところで、この `through cortical bone' という表現は、完全に臨床医の立場からみたものである。 つまり、X 線画像や CT では、緻密質が高吸収域として認められるので、それを貫通しているかどうか、という定義が、臨床的には使いやすいのである。 しかし病理医の立場からすると、あまり美しい定義ではないように思われる。 というのも、「緻密質を貫通した先」には、骨である海綿質と、造血の場である骨髄がある。 「骨髄にまで浸潤している」という事実には重大な意義があるが、「海綿質にまで浸潤している」という事実に重大な臨床的意義があるとは思われない。 従って、病理組織学的な立場からすれば、T4a の定義はむしろ「骨髄にまで浸潤している」とするべきであろう。 もちろん、実際上は「海綿骨には浸潤しているが骨髄には浸潤していない」という状況は考えにくいので、このあたりは美的センスの問題に過ぎない。

2015.12.24 余字削除

2015/10/14 内科学の試験

昨日、名大医学科六年生では「内科学 1」の試験が行われた。 内科学の試験は「内科学 1」と「内科学 2」があるが、試験内容がどのように違うのかは、公式には発表されていないように思われる。少なくとも、私は知らぬ。 一応、風の噂で、内科学 1 には呼吸器内科、循環器内科、血液内科、腎臓内科が含まれる、という話を聞いたが、これらの科目を狙い撃ちで勉強して対策することは避けた。 非公式な情報に頼った対策勉強は、邪だからである。 試験内容のうち、腎臓内科の部分について、同級生の一部で議論が紛糾していたので、ここに記載しておく。

まず低ナトリウム血症についてである。 低ナトリウム血症では、神経や筋の興奮性が低下するため、しびれるとか、ふらつくとかいう症状が出るかもしれない。 原因は多様であるが、基本的には水バランスの異常である。すなわち、バソプレシンが過剰に分泌されるなどの事情で水が過度に再吸収されることなどによる。 従って、基本的には、体液量は増加しているとみて良い。

ナトリウムの排泄が過剰になっている可能性もあるではないか、という反論があるだろう。 排泄が過剰というのは、たとえば、スピロノラクトンを過剰に投与した、というような状況を考えているものと思われる。 その場合、確かにナトリウム排泄は亢進するのだが、集合管における水の再吸収も抑制されるため、ふつう、低ナトリウム血症は来さない。 あまりに高度にスピロノラクトンを過剰投与したら低ナトリウム血症になるかもしれないが、その前に高カリウム血症でどうにかなってしまうだろう。 ループ利尿薬などの場合も、結局は同じことである。

つまり、体液量が減少する低ナトリウム血症、などというのは、「ナトリウム再吸収障害に尿崩症が合併している」という特殊な状況や、 「透析で故意にナトリウムを取り除いた」という殺人未遂事件の場合を除いては、存在しない。

低ナトリウム血症の診断に際しては、血漿浸透圧の測定が有用である、とする意見もあるらしいが、これは「有用」という言葉の意味が曖昧で、よろしくない。 低ナトリウム血漿が急性か慢性かを判定したい、という意味であるならば、血漿浸透圧、というより、いわゆる浸透圧ギャップを計算することは有用である。 つまり、慢性化した低ナトリム血漿であれば、いわゆるオスモライトの血中濃度が代償的に増加するので、浸透圧ギャップは増加する。 この場合には、低ナトリウム血症を急速に補正してしまうと、いわゆる浸透圧性脱髄症候群を来す恐れがあり、よろしくない。 逆に、浸透圧ギャップが未だ増加していない、急性の低ナトリウム血症で症状がある場合には、急速に補正した方が良い。 そういう意味で、急場の治療方針を決定するため、という観点では、浸透圧ギャップの測定は有用である。 しかし低ナトリウム血症の原因を診断する上では、血漿浸透圧を測定すること自体は何の役にも立たない。 出題者がどういう意図で「有用」と書いたのかは、知らぬ。

ところで私は、腎臓が大好きな一方で不勉強な、いわゆる下手の横好き状態である。 なにしろ、最近になってようやく、腎臓における電解質や水の調節について親しみが湧いてきた状態であって、糸球体疾患は、未だ我が物としていないのである。 「ネフローゼ症候群」という概念についても、キチンとは把握しておらず、漠然と「蛋白質が尿中に漏れるんだろう?」ぐらいの認識であった。

そこで試験の後に少しだけ勉強した。 MEDSi 『体液異常と腎臓の病態生理』第 3 版を読み返してみると、狭義のネフローゼ症候群は、 基本的には糸球体毛細血管壁のうち遠位の部分で、非炎症性の傷害が起こることで生じる、と書かれている。 すなわち、腎炎により結果的に蛋白質等が失なわれるものは、含まないらしい。 換言すれば、糸球体疾患はネフローゼ症候群と腎炎症候群に大別されるのである。 こうした基本的な概念をよく理解していなかったので、私は、試験の答案に、かなりトンチンカンなことを書いた。 しかも、その内容についてロッカー室でベラベラと話したので、たまたま近くにいた学生の中には 「ププッ、あいつ、全然わかってねーな」ぐらいのことを思った者も、いるかもしれぬ。

また、呼吸器内科の分野の記述問題として、特発性間質性肺炎の分類等を問う出題がなされた。 私は間質性肺炎が大好物であるので、問題をみた瞬間に「キター」と心の中で叫んだ。ひょっとすると、少しだけ口から漏れていたかもしれぬ。 しかし、率直に申し上げると、アレは、非常にマニアックである。

そもそも、いわゆる特発性間質性肺炎は、「特発性」という名称が示すように、何が何だかワケのわからない病態である。 分類といっても、Katzensteinをはじめとした病理学者や放射線医学者らが 検査所見から形態学的に分類している段階であって、病因や機序については、ほとんど理解が及んでいない。

たとえば非特異性間質性肺炎は、しばしば、膠原病に合併している。 しかし、「実は全例が膠原病なのではないか」とする意見もあり、真相は、よくわからない。 さらにいえば、そもそも「膠原病」なる症候群も、正体不明である。 このあたりの謎について、病理学者の卵母細胞たる立場として私自身は強い関心を持っているが、 医師一般が、医学的教養として備えているべき学識の範疇は逸脱していると言わざるを得ない。

最後に一つ補足すると、「組織因子が、血液凝固の、いわゆる内因系カスケードを活性化する」というのは 現代では正しいと考えられている

2015.10.20 語弊のある表記を修正

2015/10/13 頭髪を染めること

名大医学科の場合、だいたい四年生以下の学生は、かなりの割合で頭髪を脱色ないし染色している。 これが、五年生になると、ほとんど例外なく黒髪になる。 そして六年生の夏が過ぎると、また茶色や金色が出現する、という具合である。

どうして、このようなことが起こるのかというと、臨床実習にあたり当局から「頭髪の脱色や染色を自重せよ」という通達があるからである。 五年生の春から六年生の夏まで、我々は臨床実習として患者に接する機会が多い。 その際、頭髪が茶色や金色だと、一部の患者を不快にさせる恐れがあるから、ということであるらしい。

なぜ、学生の頭髪が茶色だと患者が不快になるのか。 これは、二十年ほど前の「髪を染めるのは不良やチンピラのやることだ」という価値観を、一部の人々は今なお保持しているからであろう。 実際のところ、もはや現代では、髪を染めることはさしたる不良行為には当たらず、 社会一般にはもちろん、医師や看護師などにも染色している者は多いし、それも若年者に限らず、中高年の間にも染色は普及している。 いわゆる白髪隠しのための染色は別にしても、頭髪を紫に染めた高齢の婦人なども、それほど珍しくはない。 こうした事情を考えれば、好き嫌いはあるにせよ、「髪を染めるのは不良であり不謹慎だ」「茶髪だなんて、チャラチャラしやがって」 というような発想は時代錯誤であると言わざるを得ない。

実際のところ、学生の髪色に文句をいうのは、いわゆるクレーマーの類であって、大抵の患者は、特に気にしないであろう。 というより、患者自身の息子やら娘やら孫やらが、茶髪や金髪にしている例が多いのではないかと思われる。 もっとも、茶髪の学生をみて「なんだか軽薄そうな学生だな」というような印象は持たれるかもしれないが、 「茶髪を禁ず」などと通達するほどの深刻な問題であるとは思われない。個々の学生の裁量の範囲であろう。 だいたい、西洋人の俳優などが金髪に染めているのをみても「軽薄だ」とは言わず、むしろ「カッコイイ」などと、もてはやしているではないか。

たぶん、学生の多くも「別に茶髪ぐらい、いいんじゃないの」とは思いつつも、エラい先生の指導に敢えて反抗はせず、一応は従う、という方針をとっているのだろう。 そして臨床実習が終わるや否や、自己表現の手段として髪色を再び変えるものと推定される。

問題は、なぜ、そうした理不尽な指導に反抗せず、おとなしく従うのか、ということである。 彼らの言い分としては、たぶん、「そこまでして髪色を貫き通そうとまでは思わない」というようなものであろう。 なぜ、そこで譲るのか。知らん顔をして茶髪やら金髪やらのまま実習に参加し、何か言われたら戦闘を開始する、という若者らしい積極性を、なぜ発揮しないのか。 私自身は天然色の髪色だが、もし学年の誰かが頭髪の色でもめた、という話が聞こえてきたら、喜んで参戦しようと手ぐすねを引いて待っていた。 しかし結局、私の知る限りでは、そういう騒動はなかったらしい。

名大医学科には、平和主義者が多い。


2015/10/12 倫理観の欠如した出題

本記事には一部不正確な箇所がある。11 月 25 日も参照されたい。

ある人から、第 107 回医師国家試験 D18 の問題をみせられて、怒りが湧き起こってきたので、ここに記しておく。 その問題は、次のようなものである。

「病歴と疾患の組合せで正しいのはどれか。2 つ選べ
a. 同性愛 --- ニューモシスチス肺炎
b. 温泉旅行 --- クラミジア肺炎
c. 鳥類の飼育 --- マイコプラズマ肺炎
d. アルコール依存 --- レジオネラ肺炎
e. 産褥期のネコとの接触 --- Q 熱

まさか a. を正解に含めるのではあるまいな、と思いつつ解答をみると、正解は「a e」であった。 なぜそれが正解なのか、という解説は公表されていないのだが、 たぶん「同性愛者にはエイズが多く、ニューモシスチス肺炎はエイズなどの免疫不全者に多いから」という論理であろう。

いささかナマナマしい話が混ざるので、予めお詫び申し上げておく。 確かに、かつてヒト免疫不全ウイルス (Human Immunodeficiency Virus; HIV) に感染する人は男性同性愛者に多かったらしい。 性感染症としての HIV は、基本的には血液感染する。すなわち、感染者の血液や精液に含まれている HIV に曝露されることで感染するのである。 男性同性愛者の場合、しばしば肛門に陰茎を挿入するという形態での性行為が行われるが、妊娠の可能性がないことから、以前はコンドームを使用しない者が多かったらしい。 こうした性行為では、肛門に軽度の裂傷を来し、そこから精液由来の HIV に感染したものと考えられる。

つまり、同性愛が問題なのではなくて、unprotected な性行為が問題なのである。 統計上、同性愛者にエイズが多かったのは、単に同性愛者に unprotected な性行為が多かった、というだけのことに過ぎない。 それを「同性愛はエイズのリスクファクターである」などと考えるのは、統計の不適切な解釈であり、偏見である。

似たような話として、アメーバ赤痢も男性同性愛者に多いとされる。 その理由として、某教員は講義の際に「女子学生もいるので、あまり詳しく話すとセクハラになるから……」などと述べる一方で 試験には「性感染症としてのアメーバ赤痢について述べよ」というような出題をしていた。彼の発言に基づいて考えれば、これはセクハラ出題である。 実際のところ、私は、なぜ男性同性愛者にアメーバ赤痢が多いのか、よくわからなかったが、友人の某君は次のような次第であろう、と教えてくれた。 すなわち、男性同性愛者の性行為においては、肛門に挿入された陰茎を、次に口腔に挿入するという行為が行われることがある、というのである。 ナルホド、と思ったが、要するに、これも unprotected な行為が問題なだけであって、同性愛の問題ではない。 男女の性行為であっても、肛門を舐めるとか、大便を食べるというような行為は、同等に危険なのである。

「しかし同性愛者にエイズが多いのは事実ではないか」などと述べる者もいるが、次のような例を考えていただきたい。 日本には、二十年ほど前に、東京で毒ガスを散布し、国家転覆を試みた武装集団が存在した。 「テロ」という語は適切ではないが、彼らが行ったのは、要するに不法な武装闘争である。 現代の先進国においては、北アイルランドの独立闘争などを別にすれば、あれほどの規模で組織的な武装闘争が展開された例はない。 なお、2001 年のニューヨークの件は、米軍による中近東等での作戦行動に対する反撃、つまり戦争であるから、武装闘争には含めない。

このあたりの事情に無頓着な人が、単なる「統計的事実」だけで判断すると「日本人であることは、テロリストであることのリスクファクターだ」ということになる。 同性愛者をみて短絡的にエイズのことを考えるのは、「日本人をみたらテロリストと思え」という発想と変わりがない。

臨床医学的なことでいえば、問診に際して同性との性交歴を問うことは、医学的に無意味であり、不必要にプラバシーに立ち入っており、 しかも患者が嘘をつくリスクが高いことから、不適切である。 問うのであれば「コンドームを使用しない性行為をしたことがあるか」というような訊き方をするべきである。

このあたりの問題について、天下の日本赤十字社ならキチンとしているだろう、と思い、献血のウェブサイトを閲覧して驚いた。 「献血をできない人」の基準に 「6 ヶ月以内に男性どうしの性的接触があった」という項目が含まれているのである。 「不特定の異性または新たな異性との性的接触があった」という項目が別にあることを考えると、 つまり「長年一緒に生活している特定の男性同士での性的接触」もダメだ、と言っていることになる。 これは一体、どういうことなのか、問い合わせを送った。返信待ちである。

2015.10.13 語句修正

2015/10/10 福島原発事故と甲状腺癌

原発事故により、甲状腺癌は増えるのかどうか、あるいは増えたのかどうか、という点について、議論が続いている。 さる 9 月 30 日にも、Epidemiology誌に 新しい報告が掲載された。 この問題については、純粋な医学的関心ではなく、ある種の政治的あるいは社会的意図をもって主張がなされることが多いので、だいたい、議論がかみ合わない。

この種の疫学調査について、よく指摘されるのは「甲状腺癌にはラテント癌が多い」という点である。 ラテント癌とは、生涯にわたって無症候性で、死後の解剖によって初めて発見されるような癌のことである。 甲状腺の他に、前立腺もラテント癌が多いことで有名である。 積極的に超音波などを用いて甲状腺癌や前立腺癌をスクリーニングすると、こうしたラテント癌が、しばしば発見される。 これは放置しておいても何も問題がないのだが、進行性の、治療を要する癌との鑑別は困難であるため、外科的切除などの不必要な「治療」を受けてしまうことがある。 注意すべきなのは、たとえ外科的に切除された標本をあらためて病理診断したとしても、 それが「本来治療不要であった癌」なのか「治療するべき癌」なのかを鑑別することは一般には難しい、という点である。 症状が出てしまった癌や転移してしまった癌が「治療するべき癌」なのは確かだが、無症状の段階では、人間には両者を鑑別できないのである。 従って、積極的にスクリーニングを行えば、みかけ上、甲状腺癌が「増えた」かのような疫学データが得られてしまうのである。

これについては、たとえば福島県と富山県で同時にスクリーニングを行って結果を比較する、というようなことを行い 「福島では、富山県より明確に甲状腺癌が多い」というような結果が出れば、原発事故との関連を疑う根拠になる。 しかし、これにはかなりの労力と資金を要するから、実際には行われていないようである。 それに準ずる方法として、上述の報告では、福島県内で被曝の多い地域と少ない地域を比較して「甲状腺癌の罹患率に 2.6 倍の差があった」としているが、 95 % 信頼区間は (0.99, 7.0) となっており、統計的に有意な差は認められていない。 この報告を読む限りでは、この 95 % 信頼区間について、多重検定の問題をどう扱っているのか、よくわからない。 研究計画の立て方にもよるが、もし多重検定の問題が存在しており補正がなされていないなら、本来の 95 % 信頼区間は、もっと広いことになる。

なお、統計的に有意な差があっても、それが本当に意味のある差であるとは限らない。 この種の統計の場合、「甲状腺癌」の定義としては穿刺吸引細胞診における「悪性または悪性疑い」というものを用いることが多いようである。 この「悪性疑い」というのが曲者なのである。 細胞診というのは、たとえプロフェッショナルであったとしても、検鏡所見だけで「これだ」と断言できるようなものではない。 患者の臨床的背景も考慮して、総合的に診断するのが原則である。 たとえば顕微鏡的所見が全く同じであったとしても、患者が富山の住民なのか、福島で被曝した人なのかで、診断が変わるのは病理診断学的におかしなことではない。 「たぶん大丈夫そうだけど、福島だしなぁ。ちょっと怖いなぁ。際どいけど悪性疑いにしておくか。」ぐらいの判断は、充分にあり得る。 あるいは、そこまで明確な認識がなくても、無意識にバイアスが入るのは当然のことである。 臨床医にならんとしている学生諸君は、病理診断依頼書に「甲状腺癌疑い」と書くか「甲状腺癌の除外目的」と書くかで、 診断結果が変わる可能性がある、という事実を、よく認識しておく必要がある。

従って、キチンと評価しようと思うならば、二重盲検を行わなければならない。 たとえば富山で行った細胞診の標本と、福島で行った細胞診の標本とを適当に混ぜ合わせて、 診断する人は、それが富山なのか福島なのかわからないような状態で判定を行うのである。 もちろん、そのような比較を行うのは大変な労力と資金を要するが、疫学調査で因果関係を示す、というのは、そのくらい、難しいことなのである。

なお、公正を期すために明言しておくが、私は、いわゆる原子力村の出身者であり、「原発に依存することはやむを得ない」とする立場である。 ただし、今はもう原子力を生業とはしていないし、する予定もないので、いわゆる御用学者の類ではない。


2015/10/09 off-label 使用

しばらく前から、蕁麻疹に悩まされている。 以前、自家感作性皮膚炎と診断されてから、名古屋市内の某皮膚科医院に通院しているのだが、そこでプロピオン酸デキサメタゾン軟膏の他に、 エピナスチン 20 mg/day を処方されている。 このエピナスチンをキチンと飲んでいれば、まず大丈夫なのだが、通院するのが面倒で薬を切らしてしまうと、 だいたい夕方から夜にかけて、膨疹が出現する。

定期的に通院して治療を受ければ良いのだろうが、なにぶん、生来の医者嫌いなもので、ついつい、怠けてしまう。 こうして蕁麻疹が慢性化すると、やがて治療抵抗性になって、よけいに苦しむのではないかと恐れているのだが、それでも、なかなか、通院する気が起きぬ。 一昨日、ひさしぶりに通院した際にチラリとカルテを覗くと、前回来院は 8 月 27 日、となっていた。 エピナスチンは 2 週間分しか処方されていないのにもかかわらず、である。

処方されたエピナスチンが無くなってからは、近くの薬局でアレジオン 10 という商品名の薬を買って飲んでいた。 アレジオンの成分はエピナスチンであり、1 錠あたり 10 mg, 12 錠で 2000 円ほどである。保険が効かない分、処方薬より高い。 アレジオンの用途は、アレルギー性鼻炎などとなっており、蕁麻疹は含まれていない。 それを、どうせ同じエピナスチンだから、と蕁麻疹の治療目的に使用するのは、薬理学的に正しいとはいえ、医療行為としては積極的に推奨できるものではない。

しかも私は、用法として指示されている 1 日 1 錠ではどうにも効きが弱いように感じられたので、処方薬と同じ 20 mg/day になるよう、1 日 2 回の服用として使用した。 こういうやり方は、事故の元であるので、お勧めできない。 薬理学的にも、20 mg 錠を 1 日 1 回使用するのと、10 mg 錠を 1 日 2 回使用するのとでは、だいぶ異なる。 もちろん、通院先の医師には、こんなことは話していない。ここだけの秘密である。

ついでに告白しておくと、処方されたプロピオン酸デキサメタゾン軟膏についても、イケナイ使い方をしたことがある。 そもそも、この薬を何ヶ月も連続使用して本当に大丈夫か、という疑問もあるのだが、それは、この際、気にしないことにする。 この軟膏は、いわゆる Strong に該当するものであって、顔面には、あまり使わない方が良いとされる。 以前、顔に皮疹が出た際、その医師は Mild に分類されるステロイド軟膏を別途処方してくれたのだが、それを塗った部位に炎症が起こってしまった。接触性皮膚炎であろう。 本当は、そこで医師に相談に行くべきなのであるが、面倒だったので、私は、体幹部用に処方された Strong の方の軟膏を顔面に使用したのである。 これは、薬物濫用にあたる危険な行為なので、マネしてはいけない。 もちろん、私も「大丈夫だろう」などと思っていたわけではなく「怖いなぁ、大丈夫かなぁ」と心配しながら、やったのである。当然、医師には内緒にしておいた。

何を言いたいのかというと、こういう患者は、珍しくないであろう、ということである。 患者が、普段コッソリ使っている薬について申告せず、結果として何か重大な事故が生じた場合、「患者が隠していたのだから医師の責任ではない」という態度は許されない。 患者の嘘を見抜けなかった、患者に心を開かせることに失敗した、という点で、医師の側にも重大な瑕疵がある。 特に、こうした薬物の不適切使用や、あるいは違法薬物の使用などは、自己申告しないのが当たり前なのだから、医師は常に、その可能性を念頭に置いておかねばならぬ。

医学科に進んで、医者になろう、などと思う人々は、だいたい、医者をカッコイイと思い込んでおり、医療行為が大好きな人が多いのではないかと思われる。 そこに、医師と患者の温度差がある。 やむにやまれず、本当は大嫌いな医者のところに、シブシブ通う患者だって、存在するのだ。 患者は、医師の前ではニコニコして「先生」などと言っているが、裏では「あのヤブ医者め」ぐらいのことを言っているかもしれぬ。 それに対して「嫌なら来るな」という態度を取ることは、道義的にも、法的にも許されない。

医師は、聖職である。 我々を嫌い、時には憎みさえする相手に対しても、我々は慈愛の心を持って接しなければならぬ。


2015/10/08 後発医薬品

医薬品には、一般名と商品名がある。学術的な議論においては原則として一般名が用いられるが、病院などの臨床現場では商品名が用いられることも多い。 法令上は、医師が薬剤を処方する際には、一般名を用いても商品名を用いても良いことになっている。 一般名で処方された場合には、薬剤師の判断で、後発医薬品、いわゆるジェネリックの薬剤を使うこともできるし、 さらにいえば、後発医薬品の中で患者の好みなどに合わせて好きなものを渡すことができる。 その一方で、商品名で、かつ「変更不可」として処方した場合には、薬剤師の判断で同等の別の医薬品を渡すことはできない。 薬局の在庫管理などの事情から、日本医薬品卸売業連合会は、一般名での処方を求めているらしい。

これに対し医師の中には、変更不可として処方することを擁護する意見も強いようである。 中には、臨床現場における経験として、一般名としては同一の薬剤であっても、商品によって効き方が違うという例は存在する、と主張する者もいるらしい。 しかし、これは、製薬会社が不正を行っているのでなければ、まず間違いなくプラセボ効果であって、論ずるに値しない。

一方、m3.com の記事によれば、日本医師会常任理事の松本氏は 「薬局で別の後発医薬品に変更され、事故が起きた場合に、それを選んだ薬剤師や患者だけの責任ではなく、医師に責任が無いとは言えない」と述べたらしい。

詭弁である。 もし、薬局で変更された結果の事故について医師にも責任があるというのならば、当然、 医師の指示通りの薬剤を使用して生じた事故についても、医師に責任はあるだろう。 そうした場合に、本当に責任を取って何らかの適切な対応をしている医者が、いったい、どれだけ、いるのか。

特に高齢者の場合、一人の患者に対して 5 種類も 10 種類も、時には 20 種類もの薬剤が処方されていることは珍しくない。 これは、薬理学を学んだ者からすれば、恐ろしい状況である。 某医師は、そのような患者について「もはや、体の中で何が起こっているのか、誰にもわからない」と述べた。 そうした恐るべき処方を平然と行い、結果として生じる副作用には知らん顔して「私のせいではない、やむを得ない処方だったのだ」などという一方で、 「責任を取れないから」などと、薬局での商品変更を拒むというのか。

そうした薬剤流通の非効率のために薬局の経済的負担が増し、結果として患者の経済的負担が増えたとしても、病院や医師にとっては、痛くも痒くもない。 それを思えば、「不要なリスク」を減らすために、処方に縛りを入れて保身に走る気持ちは、理解できないでもない。 しかし、そういう医師が「人の命を救う」だの「患者の健康を守る」だのと口にするのは、到底、許容できない。 健康とは、単に身体が疾病に冒されていない状態を言うわけではない。 そんなことも理解していない医師もどきは、もう一度、学生に戻って公衆衛生学、社会医学を勉強し直す必要がある。

2015.10.09 語句修正

2015/10/07 許容範囲

一部に、私に対して「二枚舌」と批判する声があるかもしれないので、一応、弁明しておく。 二枚舌というのは、私が試験対策特化型勉強を批判する一方で、 Jamilah 氏のプロジェクトに関連して医師国家試験の過去問を閲覧している点についてである。

私は何も、過去問をみるのが卑怯だ、とか、過去問をみないというハンディキャップを負いながら合格するのがカッコイイ、などという話をしているのではない。 私は、過去問を閲覧するという行為自体を問題にしているわけではない。 「得点するための勉強」は、否応なしに医学の基本や本質から乖離してしまう、という点を批判しているのである。 特に、現行の医師国家試験のような、医学の基本を無視した試験では、この乖離は顕著なものとなる。

実際、医師国家試験については、過去問を全く閲覧せずに受験することは、お勧めできない。 四年生を対象にした CBT は、基礎医学的な内容が多いことや、再試験があることから、通常の医学の学識だけでも対応できる。 しかし医師国家試験は、医学ではない、暗黙のうちに定められた「国家試験の約束事」が多いために、通常の学識だけでは、まず対応できないように思われる。

少なくとも名大医学科においては、国家試験の問題が著しく不適切であることや、 いわゆる国試対策勉強は邪である、ということを認識している学生は、少なからず存在するように思われる。 しかし、遺憾ながら、試験対策を放棄するまでの勇気は持っていない学生が大半なのであろう。 あるいは、試験を受ける以上は高得点を獲得するために対策を講じるのが当然だ、というような信仰を持っているのかもしれぬ。

全国を探せば、「クエスチョン・バンク」などの国家試験対策本や、MEC, TECOM などといった予備校に頼らない勇気のある学生も、少数ながら存在するであろう。 ひょっとすると、この日記を読んでくれている人の中にも、一人か二人ぐらいは、いるかもしれない。 そして、たぶん彼らも、迫り来る試験に怯え、くじけそうになる自分の弱い心と必死に戦っているのではないかと思われる。 そうした一人か二人の学生のために、ここにメッセージを残しておく。

あなた方は正しい。 たとえ周囲の誰一人として、その正しさを公には認めなかったとしても、それでも、あなた方は正しい。 正しいと信じることを貫くのは、何よりも価値のあることであって、そのために大きな代償を払うことになるとしても、躊躇するべきではない。


2015/10/06 高カリウム血症

腎臓の話が続く。 高カリウム血症とは、血漿カリウム濃度が高い状態をいう。低カリウム血症は、その逆である。 高カリウム血症では細胞が興奮しにくく、低カリウム血症では細胞が興奮しやすくなり、いずれも神経や筋の機能障害を来す。

問題は、それはなぜか、ということである。 MEDSi 『体液異常と腎臓の病態生理』第 3 版などでは、高カリウム血症について、Goldman-Hodgkin-Katz の式から「脱分極する」と説明し、 その結果としてナトリウムチャネルが不活化し、全体として興奮しにくくなる、としている。 脱分極でナトリウムチャネルが不活化する、というのは、いわゆる不活性化ゲートが閉じる、という話をしているのだろう。 しかし、よく考えると、この説明は、おかしい。

もともと、細胞膜にはカリウムチャネルが開口しており、カリウムの膜透過性は高い。 従って、高カリウム血症に至る過程で細胞内にカリウムが 流入するはずであるから、細胞内カリウム濃度は高くなりそうである。 Goldman-Hodgkin-Katz のモデルでいえば、細胞内外のカリウム濃度比は Na, K-ATPase 活性と膜透過性のみによって規定されるのであって、 細胞内や細胞外のカリウム濃度によって規定されるわけではない。 従って、高カリウム血症は、直接的には、脱分極を来さないはずなのである。 この点について、一部の教科書は「イオン濃度比によって膜電位が決まる」などと説明しているようだが、それは木をみているものの森をみていない。 「なぜイオン濃度に差が生じるのか」というところまで考えるべきである。

この問題に関連して、不思議な報告がある。(Journal of Applied Physiology, 82, 1136-1144 (1997).) この報告では、高カリウム血症の際に筋細胞において Na, K-ATPase の発現量が増加することを動物実験で示している。 その一方で、細胞外カリウム濃度の増加に比して、細胞内カリウム濃度の増加は小さいようである。 一体、どういうことなのか。Na, K-ATPase の発現量が増加すれば、むしろ、細胞内外のカリウム濃度比は大きくなりそうなものであるが、逆だ、というのである。

たぶん、カリウムチャネルが開口しているのであろう。 細胞内カリウム濃度が高まるのは、細胞機能の維持という観点からいえば具合が悪いので、高カリウム血症に伴ってカリウムの受動的な流出を促しているものと思われる。 しかし、それだけだと著しい脱分極が生じてしまうから、それを防ぐための機構として、Na, K-ATPase の活性化が生じているものと考えられる。 このようにして細胞内ホメオスタシスが保たれており、細胞内の機能を守るための代償が神経や筋の興奮性低下なのである。

2015.11.25 「過分極」を「脱分極」に訂正

2015/10/05 腎臓の解剖

人体の中で、最も好きな臓器は何か、という質問は、一般社会的な感覚からすれば、かなり猟奇的であるかもしれない。 しかし我々は、人体を詳らかに理解した上で、時に切断し、時に移植するという、いわば猟奇的な行為を生業にしているのだから、 仲間内で、そうした「異常な」問いを発するのは、それほどおかしなことではあるまい。

私の場合、最も好きな臓器は血液であり、それに皮膚、腎臓が続く。 一般的な感覚からすれば血液や皮膚は臓器に含めないかもしれないが、医学的には、まぁ、含めてしまうのが多数派であろう。

血液は、その分化に伴う細胞の変容が比較的容易に観察できるという意味で、また腫瘍の研究材料として扱いやすいという意味で、 形態学者や病理学者の注目を集める臓器である。 また、皮膚は中山書店『あたらしい皮膚科学』第 2 版によれば、面積が 1.6 m2, 重量が体重の 16 % を占める人体で最大の臓器である。 私の美的感覚からすれば、皮膚は、人体において、もっとも調和のとれた組織学的構造を持っている。 その調和の乱れと皮膚疾患とは、表裏一体である。従って、皮膚疾患の診断にあたっては、侵襲性を気にしないのであれば、病理組織学的診断が極めて有効である。 腎臓は、形態的にも機能的にも極めて複雑な臓器である。もはや神秘的であるといっても良い。 その神秘に惹かれ、謎を明らかにしたいと思うのは、医学者として自然な気持ちであろう。

その腎臓の解剖であるが、学生向けの平易な書物では、かなり簡略化されて、いい加減な説明がなされることがある。 たとえば尿細管の区分について、近位尿細管はヘンレの係蹄に続き、その後は遠位尿細管となり、集合管に注ぐ、というような説明が、しばしばなされる。 伊藤隆『組織学』改訂 19 版によれば、この説明は正しくない。 というのも、「ヘンレの係蹄」には、近位尿細管や遠位尿細管の一部が含まれるからである。

まず第一に、ネフロンについて、皮質ネフロンと髄旁ネフロンとを区別することが重要である。 皮質ネフロンは、皮質浅層の糸球体から発するネフロンであって、あまり髄質深くに入っていかない。 一方、皮質深層の糸球体から発する髄旁ネフロンは髄質深くまで至り、髄質間質の高浸透圧形成を担う。

さて、糸球体を発した尿細管は、まず糸球体周辺をウネウネと巡る。これが近位曲尿細管である。 その後、髄質に向かって下行し、近位直尿細管と呼ばれる。両者を併せると尿細管全体の半分程度の長さになるらしい。 続いて薄壁尿細管に移行する。これは、いわゆる「ヘンレの係蹄の細い部」であって、この部分の上皮は皮質ネフロンと髄旁ネフロンで形態が異なるようである。 そして、皮質ネフロンでは通常は下行脚の途中から、髄旁ネフロンでは上行脚の途中から、遠位直尿細管に移行する。 ヘンレの係蹄、というのは、この近位直尿細管から遠位直尿細管までの U 字型の部分をいう。

いわゆるループ利尿薬が作用する部位、すなわち水をあまり通さずに Na+, K+, 2 Cl- を再吸収するのは、 いわゆる「ヘンレの係蹄上行脚の太い部分」、つまり遠位尿細管起始部である。 念のために確認しておくと、この部分ではイオンが著しく再吸収されるため、尿細管周囲の髄質間質が高張となる。 だいたい、生理食塩水の 4 倍ぐらいの浸透圧であると思えば良い。 従って、この高張な間質を集合管が通過する際に、いわゆる「尿の濃縮」が行われるのであって、最大限に再吸収すると、 だいたい生理食塩水の 4 倍ぐらいの高張尿が作られるのである。 なお、この浸透圧勾配を作る原動力は、尿細管上皮の基底側にある Na+, K+-ATPase である。

ここで、ネフロンの構造について理解できない点が一箇所ある。 上行脚の細い部分は、いったい、何のためにあるのだろうか。 下行脚だけで「細い部分」は終わりにして、上行脚は全部「太い部分」にしてしまった方が、髄質深層でより大きな浸透圧勾配を形成でき、効率が良さそうに思われる。

いわゆる対向流増幅系を私が正しく理解していないのか、それとも何か未知の機構が存在するのか、あるいは単なる神様の悪戯なのか、真相はわからない。


2015/10/04 血中二酸化炭素の測定

The New England Journal of Medicineに連載されている読み物に Case Records of the Massachusetts General Hospital というものがある。 これについては、一年半ほど前に書いた。 当時の記事において、私は彼らの表現方法について攻撃を加えたが、一箇所、どうやら冤罪があったらしい。申し訳ない。 The Case Records では、臨床検査所見として `Carbon dioxide' という項目があり、私はこれを 「炭酸水素イオンと二酸化炭素を区別していない」として批判したが、これについては、私の方が間違っていた。 お詫び申し上げる。

日本においては、動脈血液ガス分析で、二酸化炭素関係の項目としては二酸化炭素分圧と炭酸水素イオン濃度、標準条件炭酸水素イオン濃度を測定するのが標準的である。 金原出版『臨床検査法提要』改訂第 34 版によれば、二酸化炭素分圧は「二酸化炭素電極」を用いて測定する。 これは、試料から遊離した二酸化炭素が「電極」中の溶液に溶け込んで電離することによる pH の変化を検出する、というものである。 私の理解が正しいならば、これは本当は分圧を測定しているのではなく、試料中の二酸化炭素濃度を測定して分圧に換算する、という手法である。 もちろん、人体においては分圧も濃度も同じようなものであるから、臨床的には両者を区別する必要はないだろう。

次に炭酸水素イオン濃度であるが、これは直接測定するのではなく、二酸化炭素分圧から Henderson-Hasselbalch の式を用いて計算する。 この式は平衡状態を仮定するものであるから、原理的には、たとえば炭酸脱水酵素の活性が著しく低下しているような状況では大きな誤差が生じ得る。 とはいえ、そういう状況は臨床的にはあまり存在しないので、気にしない学生が多いだろう。 ただし、工学部的な観点からすると、何を測定して何を計算しているのか、という違いを正しく認識していないと、 何かの際に事故の原因となり、危険であるように思われる。

さて、「標準条件炭酸水素イオン濃度」における「標準条件」とは、「動脈血二酸化炭素分圧が 40 mmHg」という意味である。 すなわち、炭酸水素イオン濃度に対する呼吸性因子の影響を補正して計算した値であって、いわゆる代謝性アシドーシスを評価するために算出される。

一方、米国では臨床検査として「総二酸化炭素」を測定するのが一般的であるらしい。 これは MEDSi 『体液異常と腎臓の病態生理』第 3 版によると、試料に強酸を加えることで生じる二酸化炭素を比色法で検出する、というものであるらしい。 この二酸化炭素の由来は、ほとんどが炭酸水素イオンであるが、溶存している二酸化炭素も含まれる。 従って、これは確かに Carbon dioxide としか言いようがないのであって、ハーバードは悪くない。 なお、この検査は「臨床検査法提要」には記載されていない。

2015.10.09 分圧と濃度について少し追記

2015/10/03 急性副腎不全に合併する電解質異常

2 月 13 日に副腎不全について書いた。 しかし、遺憾ながら、一部の論理は破綻していた。 たぶん、アレを読んで「コイツは何もわかっていないな」という感想を抱かれた方もいるであろうが、それは事実なので仕方ない。 とはいえ、いい加減な内容を放置して愛する母校、名古屋大学の名誉を傷つけるのも不本意であるから、補足する。

議題は「なぜ、グルココルチコイドからの急速離脱で低ナトリウム高カリウム血症を来すことがあるのか」という問題である。 過日の記事では、プレドニゾロンのミネラルコルチコイド活性に全ての責任を負わせて説明し、 「ミネラルコルチコイド活性が充分に低いステロイド剤であれば低ナトリウム高カリウム血症は来さないであろう」と予言した。 しかし、この予言は、あまり正しくなかった。

ミネラルコルチコイドは、部分的には、副腎皮質刺激ホルモン (AdrenoCorticoTropic Hormone; ACTH) 依存的に産生される。 具体的には、ステロイド合成系のうちの、いわゆるアルドステロン系のうちデオキシコルチコステロンやコルチコステロンまでは、 コルチゾール系と共通の酵素によって合成されるのである。(`Harrison's Principles of Internal Meidicine' 19th Ed. p. 2309) 従って、ミネラルコルチコイド活性の乏しい、たとえばデキサメタゾンを投与した場合であっても、下垂体を介するフィードバックの結果として、 ミネラルコルチコイドの産生量は低下する。 もちろん、この産生量低下は、通常は別のフィードバック系によって代償されるから、実際にはほとんど電解質異常を来さないであろう。 しかしフィードバック系の障害を合併していたり、あるいは別の薬剤を同時に投与されていたりする場合には、著明な低ナトリウム高カリウム血症を来す可能性がある。

さらに、冷静に考えれば、ステロイド投与中に低カリウム血症を来している必要はない。 どうして、あのようなことを書いたのか、私自身、理解できない。

まとめると、ステロイド離脱による急性副腎不全に伴う低ナトリウム高カリウム血症の機序には二つある。 一つは、そのステロイドのミネラルコルチコイド活性が急激に失われたことによるものであって、これは特に多量のステロイドが投与されていた場合の、離脱直後に生じる。 もう一つは、デオキシコルチコステロンの産生量低下が適切に代償されていないことによるものであって、ステロイド投与中から生じ、 離脱直後にも特に増悪しない。

ついでに補足すると、家族性アルドステロン症 I 型と呼ばれる疾患がある。 ステロイド合成系のうち、CYP11B1 と CYP11B2 がキメラ遺伝子を形成することによって ACTH 依存的にアルドステロンが産生される、というものである。 有名な疾患ではあるが、説明不足な教科書が少なくないように思われる。 私がみた限りでは、「ハリソン」や MEDSi 『体液異常と腎臓の病態生理』第 3 版の記述は、理解できるような説明になっていない。

東京化学同人『生化学辞典』第 4 版によると、デオキシコルチコステロンからアルドステロンを生成するまでの過程は、同一蛋白質の同一活性中心で連続して行われるらしい。 これを知っていないと、キメラ遺伝子の存在とアルドステロン産生の関係を理解できない。

2015.10.04 生化学辞典について追記

2015/10/02 患者確認

医療過誤の中で、時に問題になるのが患者の取り違えである。 特に重大な例でいえば、患者の本人確認を怠ったために、別人に対して手術を行ってしまった、という案件が、過去に何度も繰り返されている。 そのため我々は、患者に対する氏名等の確認を徹底するよう教育されているし、病院内では患者に対し、本人確認への協力を求めるポスターが掲示されている。

それでも、臨床現場では、本人確認を怠る例は多い。 長期にわたり通院ないし入院している患者に対して、診察の度に氏名や生年月日を確認するのを省略したり、不適切な方法で確認する医師は、珍しくないのである。 不適切な方法というのは、たとえば医師の方から「○○さんですね?」と問う、というものである。本来は、患者自身に氏名を言ってもらう必要がある。 というのも、たとえば「ハマダ」さんに対して「ヤマダさんですね?」と問うてしまうと、患者側は聞き違えて「はい」と答えてしまう恐れがあるからである。 毎回毎回氏名を問われるのは、まるで自分のことを忘れられているようで不愉快に感じられるかもしれないが、医療過誤を防ぐために必要なことなので、やむをえない。

私は以前、多数の教授らが出席するパーティーの受付係を務めたことがある。 主たる任務は、誰が出席したのか、入口で確認し名簿にチェックすることであった。 このとき、私は、例外なく、出席者に名前を言ってもらった。 さすがに、病院長や学部長に対してお名前を頂戴してよろしいでしょうかなどと問うのは、少しばかりの勇気を要した。 しかし、私は半ば冗談めかして「患者確認の一貫ということでご協力をお願いします」と押しきった。 病院長は苦笑いしていたようにも思うが、学生にこう言われては、反論できまい。

実際、これは重要なことである。 たとえば病院長が何らかの理由で自院に入院した時にも、氏名の確認は徹底しなければならない。 もし病院長に対する確認を省略するなら、学部長はどうなるのか、他の教授はどうなるのか、他の一般の医師やスタッフの場合はどうなるのか、と、なし崩しになる。 結局、どの患者にも氏名の確認を省略することになってしまうのである。 「これは仕事ですので」と割り切って、例外なく確認する方向で押しきるのが正しい。

2015.10.14 誤字修正

2015/10/01 学生有志勉強会

何度か、学生有志勉強会の呼びかけを行ったことがある。 いずれも参加者が集まらずに企画倒れになったり、あるいは参加者が漸減して自然消滅した。 ことごとく失敗に終わった原因について、同級生の幾人かは、問題点を指摘してくれた。 彼らの意見は、少なくとも部分的には理解できたが、しかし、同意はできなかった。

今の名大医学科には、学生が医学を議論する場が欠如している。 わからないことを調べ、覚え、発表する機会は存在するが、そこには二つの重要な段階が不足している。

一つは調べた後にあるべき「咀嚼し理解する」という段階である。 たとえば薬剤の作用機序や適応、禁忌などを、多くの学生は暗記するばかりで、批判的検討を加えない。 「なぜ禁忌か」という説明を暗記することはあっても、「本当にダメなのか」という疑問を口にすることは稀であろう。

もう一つは議論する段階である。文献に記されていない、自身の頭脳で捻り出した内容を、互いに議論する場が乏しい。 研究室などに通っている一部の学生は、研究室内でそういう議論をしているのかもしれない。 また、友人同士で集まって行う勉強会では、活発な討論がなされているのかもしれない。 しかし、医学科全体としては、情熱を込めて医学を語り合う空気を欠いているように思われる。 これが、東海一の名門、名古屋大学なのか。

発言をしにくい気持ちは、理解できる。 程度の低い質問をしてしまったら恥ずかしい、という気持ちも、わかる。 しかし、本当に優れた科学者は、くだらない質問をする者を馬鹿にすることはない。 あなたの質問を嗤う者の方こそ、知性に乏しいのである。 くだらない質問をする者は、常に、何も質問しない者より偉いのである。 それを思えば、どうして、挙手することをためらう必要があろうか。

京都帝国大学医学部出身の、名古屋で活躍し 20 世紀末に没した、ある病理医は、晩年、次のように記した。

... 名古屋には、基礎的な学問、少なくとも医学やその関連領域は育たないと言われてきたが、それはやはり本当のように思える。...

... 日本には残念ながら、教育の場と学位を授ける場はあっても、まだ創造の場がないのが実情である。...

「正しい知識」や「最先端のスキル」を習得することばかりを重視し、狭い社会の中で、既に敷かれたレールの上を、必死に歩こうとしてはいないか。


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