2020/06/22 胎盤形態異常 (3)

前々回前回とで、周郭胎盤と画縁胎盤について、 襞の有無に基づいて区分する立場と、両者の区別を無意味なものとする立場とがあることを紹介した。 なお、前回書き忘れたが、Benirschke の Pathology of the Human Placenta, 6th ed. では、前回紹介した 389 ページの記載に続いて

The term (註: circummarginate のこと) should be abondoned.

と明記している。

さて、この周郭胎盤であるが、胎児発育不全などと関連があるとする意見や、ほとんど関係ないとする意見、 あるいは周郭胎盤は臨床的に重要だが画縁胎盤は病的意義が乏しいとする意見があり、はっきりしない。 これらの意見は主として疫学的な調査に基づくものであるが、おそらく、周郭胎盤の定義が曖昧で、病理学的議論がないままに なんとなく統計をとったため、報告者によって大きく異なる結論が得られたものと思われる。

周郭胎盤で胎盤辺縁部にみられるフィブリンについては、妊娠中に辺縁部出血を来したものが陳旧化して生じると考えられている。 なぜ出血が生じるのか、とか、なぜ襞が生じるのか、といった形成機序には諸説あり、実際のところ、様々な原因で生じるのかもしれぬ。 すなわち、周郭胎盤は何らかの出血を伴なう異常があったことを示す所見であって、それ自体が特定の疾患を意味するものではない。

おそらく、周郭胎盤を生じるような症例の一部では、母体に何らかの循環障害があって、その結果として胎盤辺縁部出血を来しているのであろう。 そして循環障害があるならば、それが原因となって、胎児の発育不全であるとか、早期産だとかを来す恐れがある。 結果として、周郭胎盤と胎児発育不全との間に相関がみられることになる。 しかし、これは周郭胎盤が原因となって胎児発育不全を来したわけではない。

現在の産科学には不明な点が非常に多い。 切迫早産や、いわゆる胎児機能不全の大半は、少なくとも病理学的には、原因不明である。 ほんとうは、そうした異常な妊娠経過をたどった症例では、何らかの異常が痕跡として胎盤に残されているのであろうが、 現在の病理診断学では、それをキチンと拾いきることができていない。 周郭胎盤を、単なる形態異常としてしか診断できないのが現在の医学であって、その背景にある根本的な問題は、誰の眼にもみえていないのである。

出産というのは、そのように神秘的なものだということもできる。 生命の誕生は神の領域であって、人間が立ち入るべきではない、とする意見もあるだろうし、その神秘に対する畏怖を忘れてはなるまい。 しかし、生命と患者に敬意を払いつつ、その神秘のヴェールを取り払うのが、科学者であり、医学者である。


2020/06/17 男女差別について

胎盤形態異常の話を忘れたわけではないが、今日も医学ではなく差別の話をしよう。男女差別についてである。 世の中には男女差別が広く蔓延している。誰の眼にも明白な事例は、ここでは敢えて挙げない。 むしろ、一見、わかりにくいところに潜んでいる不当な男女差別を例示しよう。

たとえば一部の商業施設が「レディースデー」を設けて女性だけ割引することがあるが、これは不当な男女差別である。 一見、女性を優遇しているかのようにみえるが、合理的根拠なく性別によって差別的取り扱いをすることで、間接的に女性に不利益を与えている。 こういう男女差別が社会の中に根付いていれば、たとえば就職や入試で男性を優遇する、といった差別が行われやすくなるのである。

性犯罪の予防を目的として、鉄道に女性専用車を設けるのも不適切である。 そもそも性犯罪は異性間で行われるとは限らない、という問題がある。 そうでなくとも、加害者になりやすい者と被害者になりやすい者を分離することで犯罪を予防する、 というのは、南アフリカ共和国でかつて行われていたアパルトヘイト政策そのものである。 犯罪予防を目的として白人専用車と一般車とを設けることが不当な人種差別であることには、誰も異論はなかろう。 それならば、どうして、女性専用車と一般車とを設けることが正当であると思うのだろうか。

学問の世界においても、極めて重大な男女差別が公然と行われている。 大学の講義において、女子学生を「女の子」呼ばわりする一方、男子学生を「男の子」とは呼ばない教員がいる。 女子学生を一人前の学生とは認めていないのである。 医学科の場合、講義中のセクハラ発言も非常に多い。

学会発表や、あるいは研究指導の場において、女子学生に対しては批判が緩くなる者がいる。 男子学生相手には厳しい質問を入れるのに、女子学生に対しては優しく簡単なことしか質問しないのである。 女子学生を一人の研究者として認めていないのである。

選択的夫婦別姓制の導入について、同姓が強制されている現行制度では女性の負担が大きい、などと主張する人々がいるが、そういう人々も差別主義者である。 どうして、現行制度で負担が大きいのが「改姓する人」ではなく「女性」だと思うのか。 現行制度では女性が改姓するのが普通である、と思い込んだ上での不適切な主張である。

私の場合は一年半ほどまえに婚姻したのだが、その際に妻の姓に改姓した。 特に妻や妻の親族から求められたわけではなく、私が改姓を希望し、妻の承諾を得た。 世間では女性が改姓する例が多いから、敢えて男性である私の方が改姓したかったのである。

不思議なことが起こった。 私が改姓した、と言うと、友人のうち何人かが「なぜですか」と問うたのである。 私はニヤリとして、「君は差別主義者であるな」と返した。

そうではないか。女性が婚姻に伴って改姓しても、理由を問う人は滅多にいない。 それなのに、どうして、男性が改姓すれば、そこに何か理由や事情があると思うのだろうか。 民法では、夫婦はどちらかの姓を称さねばならない旨の規定はあるが、どちらが改姓するかは定められていない。 女性が改姓するのが普通であるかのように思っている人は、男女平等とは何かをわかっていない。


2020/06/13-2 Black Lives Matter

たぶん明日 (2020/06/14) は日記を書かないので、その分を今日 (13 日) のうちに書いてしまおう。 胎盤形態異常の話は後日にして、今回は最近世界的に盛り上がっている運動について述べる。医学の話ではない。

Black Lives Matter を標語として掲げるこの運動は、米国をはじめとする世界各地で数百年前から続く人種差別に対する抗議行動である。 一部に、この運動に便乗して破壊活動を行っている者がいるようだが、基本的には平和的な抗議行動である。

この運動の標語である Black Lives Matter という言葉をどう日本語に訳すかには議論があるらしい。 6 月 8 日の朝日新聞の記事6 月 13 日の朝日新聞の記事では この語を「黒人の命も大切だ」と訳している。 一方、これを適切な訳でないとする意見も強いようであり、Wikipedia の「ブラック・ライヴズ・マター」の項 (2020 年 6 月 13 日閲覧) では 「黒人の命を守れ」「黒人の命も大切だ、軽視するな」「黒人の命は大切」「黒人の命を軽んじるな」「黒人の命にも価値がある」 「黒人の命はいつだって問題だ」「いつだって黒人の命は大切だ」「黒人の命こそ大切」といった訳が紹介されている。

しかし、これらはいずれも、原文の `Black Lives Matter' の意味を正しく反映していない。 これらの訳では、黒人の命が大切なのであって白人やアジア人はどうでも良い、と言っているかのようにも読めるが、原文にはそのような意味はない。

私が読んだ限りで最も正確に Black Lives Matter という言葉を説明したのは、朝日新聞 論座の 田村明子による記事である。 田村氏の文章が丁寧でわかりやすいので、そちらを読んでいただければ充分なのだが、記事を紹介するだけで終わるのも無責任なので、 私の言葉で簡潔に説明すると次のようになる。

この `Black Lives Matter' という言葉は、少なからぬ連中が歴史的に `Black lives do NOT matter' と言わんばかりの振舞いをしてきた、という事実を前提にしている。 例の警察官が黒人の一般市民を殺害した事件は、その典型である。 `Black lives do NOT matter' を日本語に訳せば「黒人の命などは、どうでもいい、とるに足らない」という意味である。 それに対して `Black lives DO matter' と言いたいのであるが、語呂が悪いので `DO' を省略して `Black lives matter' となったのであろう。 つまり、これは「黒人の命はどうでもいい問題ではない」という、至極当然のことを述べた表現なのである。 しかし、この `matter' という単語を日本語に訳しにくいので、上述のような語弊のある訳が広まったのであろう。

ついでにいえば、米兵が沖縄をはじめとする日本各地の基地周辺で Japanese lives do NOT matter と言わんばかりの振舞いをしてきたのも、歴史的事実である。 正確にいえば、日本だけでなく、イラクやアフガニスタンを含め、世界各地で、そうした振舞いをしてきた。 フランス人も、アフリカやインドシナではフランス革命の精神を忘れてしまったらしく、つい 70 年前まで、そうした蛮行を平然と行ってきた。 日本人も同様で、大東亜共栄圏と称し、主に東南アジアで、非人道的な振舞いをした歴史がある。

つまり、問題は白人だの黒人だのに限定されたことではない。 人は、人であって、黒でも白でも黄色でもない。 人は生まれながらにして自由であり、平等である、ということを理解していない連中が、少なからず存在することが問題なのである。 特に日本の場合、初等教育の場において人権についてキチンと教えられていない。少なくとも私は、そういう教育を受けた覚えがない。 これでは、自主的に勉強した者は良いが、そうでない者は人権意識を持たぬまま成人し、政治・社会を動かす立場になってしまう。

フランス革命を、世界史ではなく、小学校の授業で教えるべきである。

話は変わるが、大日本帝国は東南アジア諸国を欧米の支配から解放したのだ、と主張する者もいる。 しかし、たとえばベトナム独立宣言では 「1940年の秋、連合国に対抗する拠点を更に築くため、日本のファシストがインドシナを侵略し」 「私たち民族はフランスと日本という二重の枷をかけられ」 「実際、1940年の秋から私たちの国は日本の領土となり、もはやフランスの領土ではありませんでした。」 「私たち民族は、フランスの手からではなく日本の手からベトナム国を取り戻したのです。」などと明言されている。 ベトナム人は、日本と協力してフランスから独立したのではなく、ベトナムを占領した日本から、自分達の力で、自分達の国を取り戻したのである。

一方、朝鮮半島は事情が異なる。 武力を背景に大日本帝国が朝鮮半島を併合したことには人道的な問題があるが、あれは植民地化ではない。 日本や欧米が東南アジアで行った植民地運営では、現地人は原住民に過ぎず、奴隷のようなものであって、たとえばベトナム人がフランス人扱いされたわけではない。 それに対し日本に併合された朝鮮人は、法的には日本人となったのである。 法的には日本人であるはずの朝鮮出身者に対し、差別的な取り扱いがされたことは重大な問題であるが、それを「植民地支配」として非難するのは、おかしい。

2020.06.13 文法の誤りを訂正 (does -> do)

2020/06/13 胎盤形態異常 (2)

絨毛膜外性胎盤を、辺縁部に襞があるかどうかで周郭胎盤と画縁胎盤に区分するのは、広く行われている分類法である。 松岡健太郎『やさしくわかる 胎盤のみかた・調べかた』(診断と治療社; 2016). は、写真が豊富で簡潔に記述された胎盤病理学の参考書であるが、 これの 36 ページ 図 4-2 でも

周郭胎盤では絨毛膜板辺縁から卵膜が折り返してひだを作っている. 画縁胎盤ではひだは形成されず, 移行部は平坦である.

と述べられている。この書き方だと、定義ではなく周郭胎盤や画縁胎盤の性質を述べた記載であるようにも読め、曖昧である。 しかし他に両者の相違を明確に述べている部分がないので、たぶん松岡も中山と同様に、これを定義として扱っているのだろう。

米国の文献でも同様の記載がみられる。 Heerema-Mckenney et al. Diagnostic Pathology Placenta, 2nd ed. (Elsevier; 2019). は、Elsevier 社の病理診断学の参考書シリーズ Diagnosticc Pathology の 胎盤編である。 これの 28 ページをみると、周郭胎盤 (Circumvallate placenta) について

Membranes fold onto themselves, forming lip at junction of extraplacental membranes and chorionic disc

とする一方、画縁胎盤 (Circummarginate placenta) は

Membranes arise inside circumference of margin with flat junction

としており、中山や松岡と同様に襞の有無で両者を区別している。

一方、この襞による区分に反対する意見もある。 米軍病理学研究所 (armed forces institute of pathology; AFIP) の病理学アトラス胎盤編 (F. T. Kraus et al., Atlas of nontumor pathology, Placental pathology (ARP; 2004).) では、Circumvallation/Circummargination の項で定義として

Circumvallation is the complete or partial insertion of the fetal membranes in the placental disc away from the peripheral margin, with or without a distinct ridge of degenerating blood clot.

としている。注意すべき点として、襞の有無を問題にしておらず、絨毛膜外性胎盤の同義語として周郭胎盤 (circumvallate) を用いている。 さらに画縁胎盤 (circummarginate) については

The term circummarginate refers to cases without the ridge and should be probably be abandoned for the sake of clarity.

と述べており、周郭胎盤と画縁胎盤の区別は曖昧であるからやめるべきだ、との立場を示している。 さらに胎盤病理学の名著 K. Benirschke et al., Pathology of the Human Placenta, 6th ed. (Springer; 2012). の 387 ページでも周郭胎盤 (circumvallate) について

In circumvallate placentas, the membranes of the chorion laeve do not insert at the edge of the placenta but at some inward distance from the margin, toward the umbilical cord.

としており、襞の有無には言及していない。さらに画縁胎盤 (circummarginate) については

When no typical plication of the membranes occurs at the margin, and when the edge of the protruding placenta is covered only by some fibrin, we speak of a circummarginate placenta.

としており、さらに 389 ページでは

This term, placenta marginata or circummarginate placenta is a poor one, and most authors consider these placentas to be part of the spectrum of circumvallation.

と述べ、画縁胎盤を周郭胎盤の一種であるとする立場を示している。

さて、長くなってきたので、続きはまた次回にしよう。


2020/06/10 胎盤形態異常 (1)

たまには高度に専門的でマニアックな医学の話をしよう。胎盤形態異常についてである。

胎盤は、妊娠成立後に形成される臓器であり、母親由来の細胞からできている部分と、胎児由来の細胞からできている部分とがあるが、 基本的には両者は明確に分かれており、混ざらない。 胎盤の形は千差万別であり、また、臍帯が付着する位置も人によって異なる。 胎盤形態があまりに個性的である場合は、胎児の発育に異常を来し、場合によっては子宮内胎児死亡となることもある。 そのような、母体や胎児に悪影響を及ぼす恐れがあるようなものは病的であるとみなされている。 たとえば前置胎盤や癒着胎盤は、場合によっては大量出血による母体死亡を引き起こす恐れがあるので重要である。

特徴的な所見を呈する胎盤形態異常として、周郭胎盤 (circumvallate) や画縁胎盤 (circummarginate) がある。 両者を総称して絨毛膜外性胎盤 (placenta extrachoralis) と呼ぶこともある。 本日のテーマは、この周郭胎盤と画縁胎盤の相違についてである。

日本語で書かれた胎盤病理学の参考書として有名なのは、中山雅弘 『目でみる胎盤病理』 (医学書院; 2002). である。 「目でみる」などというと、低俗なアンチョコ本であるかのような印象を与えかねないが、著者の中山は胎盤病理の第一人者である。 この参考書 (教科書、というほどの本ではない) も内容はしっかりしており、他人の前で読んでも恥ずかしくない類の書物である。 この書物の 30 ページによれば、絨毛膜外性胎盤とは

正常では絨毛膜板と基底膜板の長さは同じであるが, 絨毛膜板が基底板より短いものをいう。

とのことである。絨毛膜板とは何か忘れてしまった人は、組織学の教科書を読み返すと良い。 基底膜板とか基底板とかいう言葉は、胎盤の構造を表す言葉としては一般的でないように思われるが、ここでは胎盤実質の意味であろう。 要するに、胎盤本体に比べて絨毛膜の方が小さいようなものを、絨毛膜外性胎盤と呼ぶのである。

さて、中山によれば、この絨毛膜外性胎盤はさらに 2 つに分類される。すなわち

表面からみて移行部が平坦なものを画縁胎盤 (placenta circummarginate) といい, 移行部が襞状になっているものを周郭胎盤 (placenta circumvallata) と言う。

とのことである。

時間の都合で、今日はここまでとする。次回、本題に入る。


2020/06/08 民度

「民度」という言葉で思い出すのは、医学科の学生時代、一学年下の学生であった某君が発した一言である。 彼は東京大学卒業後に、いわゆる再受験で医学科に入ったのであるが、次のように述べた。

「医学科の学生は、民度が低い。」

ここでいう民度とは、社会常識、というような意味である。 たとえば講義中は私語を慎むだとか、遅刻して講義室に入る際は後方から静かに入るとか、そういう配慮ができない学生が非常に多い、ということを指摘したのである。

民度といえば、某国の政府重鎮が、「我が国において COVID-19 による死亡者が比較的少ないのは、民度が高いからである」と発言したようである。 この場合の「民度」が何を意味するのかはよくわからないが、たぶん、外出自粛や休業を政府が要請したのに対し、 強制力のない要請にもかかわらず、多くの国民が従ったことを指しているのであろう。 注意を要するのは、これらの外出自粛や休業は、「緊急事態宣言」などの政府からの要請に従ったものであって、 個々の国民が公衆衛生の観点から主体的に判断したものではない、という点である。 その証拠に、政府が要請を行う直前まで皆は盛んに外出し、休業する事業者は極めて少なかった。 また、緊急事態宣言解除の直後から外出をするようになり、営業を再開したのである。

つまり、某大臣のいう「民度が高い」とは、「個々の国民が自身の行動を主体的に判断するのではなく、政府の要請に忠実に従うこと」をいうのであろう。 日本では、このように「上の言うこと」に対し素直に従うことを美徳とする奴隷的文化が一部に存在する。

ところで、米国では建国以前から続いている人種差別に対し、黒人を主体とする多数の人々が、従来よりもはるかに大きな怒りの声を発している。 これに呼応する動きは世界各地でみられ、フランスでも数万人規模のデモが展開された。 フランスでは、現在のところ COVID-19 のため、集会が禁止されているとのことであるが、それに違反しての抗議行動である。 時事通信の記事によれば、パリでの参加者は警察発表で 2 万人、とのことである。

フジテレビによれば、参加者の一人は 「政府は集会を禁じたが、その権利はない。だから違反しているとは思わない」と述べたらしい。 ただし、BBC の記事などに比べるとフジテレビのニュースは信用できないので、 これが実はヤラセである可能性も忘れてはならない。

人間は生まれながらにして自由であり、平等である、というフランス革命の精神は、人類の至宝である。 上述のフジテレビに登場したフランス人は、まさに、そのフランス的精神を発揮している。 不正義と不平等に対する抗議行動を、たとえ COVID-19 蔓延下であったとしても、政府は禁止することができないのである。

政府の要請に忠実に従う人々と、政府の命令を無視して集会する人々と、どちらが進歩的な人間であろうか。

2020.06.08 時事通信の記事の引用を追加
2020.06.10 誤字修正 (分化 -> 文化)

2020/06/03 Intention-to-treat (3)

Intention-to-treat 解析にあたって問題になるのが、データの欠落 (missing data) である。 たとえば、割り付けが行われた後に一切受診しなかった患者がいる場合、それをどう取り扱うか。 5 月 29 日に紹介した COVID-19 に対する remdesivir の臨床試験の中間報告 (DOI:10.1056/NEJMor2007764) の場合では、 こうした患者 (原文の記載では no data after baseline) は解析から除外されている。 全くデータがないのだから、評価のしようがなく、除外しても構わないだろう、という立場と思われる。 これはこれで合理的であるようにもみえるが、前回や前々回に述べたように最大限の猜疑心でみた場合、これも不正な解析であって、 modified intention-to-treat の類とみることができる。 というのも、従来薬やプラセボ群に割り付けられた軽症患者や、新薬群に割り付けられた重症患者について、試験に参加していない医療機関に紹介するなどして 試験から脱落させてしまえば、都合の良い結果を誘導できるからである。

そもそも intention-to-treat 解析の考え方は、研究者側にとって最大限不利な条件で解析する、というものである。 Intention-to-treat であれば、新薬群と従来薬群のそれぞれに、新薬を飲んだ患者と従来薬を飲んだ患者が混在することになるので、 仮に新薬の効果が高かったとしても、その差が「新薬群と従来薬群の差」としてはみえにくく、つまり「有意差なし」になりやすいのである。 こうした不利な条件で解析しても、なお新薬群の方が有意に優れているという結果になれば、その結果は信用しても良いだろう、という論理である。

最大限不利な条件で解析する、という考え方からすれば、データの欠落 (missing data) がある患者については、次のように処理するのが理想的である。 すなわち、新薬群でデータが欠落した患者については、最後に受診した直後に死亡したとみなす。 一方、対照群でデータが欠落した患者については、最後に受診した直後に回復したとみなす。 このようにデータを取り扱うと「新薬群の方が治療効果が高い」という結果は、かなり出にくくなる。 それでもなお新薬群の方が有意に優れていたならば、それは信頼できる結果であるといえよう。

実際のところ、キチンと管理された臨床試験であれば、データの欠落はそれほど高頻度には起こらず、この「最大限不利な条件の解析」でも問題は生じないと思われる。 上述の remdesivir の臨床試験でいえば、missing data で除外された患者数は remdesivir 群で 541 人中 3 人、プラセボ群で 522 人中 1 人に過ぎないのである。 もし、missing data の頻度がもっと高ければ、こうした厳しい条件での解析は困難になるであろうが、 そのように高頻度に missing data が発生するような臨床試験は、そもそも信用ならぬ。


2020/06/02 Intention-to-treat (2)

前回や前々回の記事で modified intention-to-treat 解析という言葉を紹介したが、実際には、そのような解析法は存在しない。 医療統計を紹介した web 上の記事の中には、あたかも、そのような解析法が有力であるかのような記載があるらしいが、 キチンとした教科書には記載されていないはずである。

いわゆる modified intention-to-treat 解析については、Alessandro Montedori らによる批判的報告がわかりやすい (Trials 12:58 (2011).)。 要するに、intention-to-treat 解析を厳密には行っていない場合に、それをゴマカして modified intention-to-treat 解析と称することがあるらしい。 むろん、intention-to-treat 解析を厳密に行わないことに理論的根拠や正当性はないから、つまり、キチンとした解析をしていない、という意味に解釈して良い。 さらに、そうした modified intention-to-treat 解析を行った論文では、研究に出資している企業に都合の良い結果が出やすい、とする興味深い報告もあるのだが、 その内容を私自身はまだよく確認していないので、ここで紹介することは控えよう。

いわゆる modified intention-to-treat 解析の実態についてのレビューとしては、Iosief Abraha らの BMJ 340, c2697 (2010). が よくまとまっている。 このレビューによると、modified intention-to-treat でしばしば行われるのは、割り付けられた内容と実際に投与された内容とが異なる患者を解析対象から外す、 といった操作であるらしい。 この操作が、特に非盲検の試験において、たいへん邪な威力を発揮することについては前回述べたので、ここでは繰り返さない。 他には、治療効果の評価 (検査) が充分ではない症例を除外する例も多いらしいが、これも充分に「有力」な手法であることは容易に想像されよう。

純粋な読者の中には、このような邪悪な modified intention-to-treat 解析を行った論文が掲載されるのは、よほど低俗な論文誌に違いない、と想像する者も多いであろう。 そうした低俗な論文誌というのが具体的に何であるか、私自身はよく調べていないが、上述の Alessandro Montedori らの報告によれば、 Journal of American Medical Association, the New England Journal of Medicine, Lancet, Antimicrobial Agents and Chemotherapy, American Heart Journal, Journal of Clinical Oncology, といった有名な論文誌に、modified intention-to-treat 解析を行った論文が掲載されているらしい。 有名な論文誌に載っているからといって、高尚な論文であるとは限らない、という証左である。

つまり私は、これらの論文誌に載った論文を「医学的意義が乏しい」と言っているのである。 人々の中には、そうした権威ある論文誌に載った論文と、無名の自称医師が web 上に書いていることであれば、前者の方を信用する、という者も少なくないであろう。 そのような、物事の正誤を権威に基づいて判断する者は、知性が乏しいので、私は相手にしない。 まっとうに科学や医学を修めた者であれば、権威の有無に関係なく、自身の頭脳によって正誤を判断し、正しいものを正しいと言い、 誤っているものを誤っていると言えるはずである。

諸君は、科学や医学を、修めたか。


2020/06/01 Intention-to-treat (1)

Intention-to-treat 解析は、介入を伴う臨床試験の結果解析における基本的な方法の一つであって、事実上、必須の解析方法である。 ITT 解析などと略されることもあるらしい。 Intention-to-treat 解析を行っていない臨床試験は、結果の信憑性が著しく低く、医学的意義がないといってよい。 医学科高学年生や医師であれば、この intention-to-treat 解析について学んだことがあるはずだが、実際には、その意義を正しく理解している医師は稀であろう。 なお、世の中には modified intention-to-treat 解析と称される解析法があるようだが、これは不正な解析法であって、これを使った臨床試験は医学的意義が乏しい。 このあたりの事情について、3 回程度にわけて概説しよう。

臨床試験では、患者を二つの群、たとえば新薬群と対照群にわけて治療効果を観察することが多い。 新薬群は、これから試験しようとしている新薬を投与される患者群であり、対照群は、従来の薬あるいは薬効のない偽薬 (プラセボ) を投与される患者群である。 このとき、どの患者をどの群に割り付けるか、コンピューター等を用いて無作為に、つまり人間の意思や判断を反映させずに決定するのがランダム化比較対照試験である。 たとえば前回紹介した「封筒法」は、人間の判断が介入する余地があるので、ランダム化比較対照試験とはいえない。 また、ランダム化されているかどうかとは別の話として、 患者自身も担当医も、その患者がどちらの群であるのか、つまり新薬を飲んでいるのか偽薬を飲んでいるのか知らない、という状態で試験を行うのが二重盲検である。 基本的には、臨床試験は二重盲検ランダム化比較対照試験で行うべきである。 その理由について、医療統計の教科書などでは「バイアスを避けるため」などと表現されることが多いが、それは適切な表現ではない。 二重盲検でなかったり、ランダム化されていない比較対照試験では、結果を不正に歪め、製薬会社等に都合の良い結果に恣意的に誘導することができるから、というのが正しい。 製薬会社は、何としても新薬の臨床試験で「効果あり」という結果を得たいし、 臨床試験を行う研究者も、新薬の臨床試験に「成功」することで医学界における名誉や経済的利潤を得たい。 それ故に、臨床試験では研究者は自分達に都合の良い解析を行っていると推定せざるをえず、 その結果の解釈に際しては徹底的な批判を加え、その批判に耐え抜いた報告のみが医学的意義を有すると判断する。 すなわち、不正を行っている可能性がある、と疑う余地があるような解析を行うと、医学的意義が失われてしまうのである。

さて、intention-to-treat というのは、結果の解析において、患者が実際にどのような薬を飲んだかに関係なく、最初の割り付けに従って解析する、という意味である。 たとえば「ある患者が当初はプラセボ群に割り付けられたが、途中から新薬を飲み始めた」という場合にも、その患者は対照群の一人として解析する。 さらにいえば、「プラセボ群に割り付けられたが、最初から新薬を飲んだ」という場合でも、対照群として取り扱う。 なぜ、最初から新薬を飲んでいる患者を、新薬群ではなく対照群に入れて解析するのか。

もし「プラセボ群に割り付けられたが、最初から新薬を飲んだ」という患者を新薬群として取り扱ったり、 あるいは試験の手順から逸脱したという理由で解析対照から除外したりする場合、製薬会社に都合の良い結果を容易に誘導できる。 具体的には、患者が軽症で予後が良さそうであると判断した場合に、プラセボ群であったとしても新薬を投与してしまえば良い。 そうすれば、全体として新薬群は軽症な患者が多く、プラセボ群は重症な患者が多くなるので、その新薬が実は効果の乏しい薬であったとしても、 臨床試験上は「新薬群の方が予後良好」という結果を誘導できる。 そういう不正な誘導を行ったのではないかとの批判を避けるためには、intention-to-treat 解析をしなければならないのである。

同様に、途中で試験から脱落した患者を解析対象から外すことも、intention-to-treat 解析では認められない。 たとえば 4 週間の投薬が予定されているのに対し、患者が 2 週間で「やっぱり臨床試験への参加をやめます」と表明し、試験対象から外れたとする。 こういう患者を解析対象外とすることが認められるなら、やはり製薬会社にとって都合の良い結果を誘導できる。 つまり、新薬群で重症化して死亡が懸念される患者や、あるいはプラセボ群で元気ピンピンな患者を、試験から脱落させてしまえば良いのである。

鋭い人は気づいたであろうが、この種の不正は、二重盲検でない場合にのみ可能である。 二重盲検の場合は、その患者が新薬群なのかプラセボ群なのか、医師にもわからないから、脱落させた方が都合が良いのか、脱落させない方が良いのか、判断できない。 その意味では、厳格な二重盲検であるならば、必ずしも intention-to-treat 解析を行う必要はなく、試験の手順から逸脱した患者を解析対象から外してしまっても良い。 ただし、実際の臨床試験では、しばしば盲検化が「破れて」おり、患者がどちらの薬を飲んでいるのか、医師にはわかってしまう。 たとえば前回示したような、いわゆる降圧薬を投与する試験の場合、血圧測定によって、患者がどちらの群であるかを推定することが可能である。 形式的には盲検のようでも、実際には盲検化されていないのである。 従って、「二重盲検だから」という理由で intention-to-treat 解析を行わなかった場合にも、やはり不正な誘導をしたのではないかと疑わざるをえない。


2020/05/29 Remdesivir と COVID-19

The New England Journal of Medicine に 5 月 22 日付で掲載された Remdesivir for the Treatment of Covid-19 --- Preliminary Report という報告 (DOI:10.1056/NEJMor2007764) について述べよう。これは、COVID-19 治療薬としての remdesivir の有効性を調べた二重盲検ランダム化比較対照試験の中間報告である。 この報告によると、remdesivir 群はプラセボ群に比して回復が早かったようである。ただし、致死率には有意差はみられていない。

この中間報告を全体としてみれば、まぁ、少しは効きそうな感じであるが、劇的に有効というほどでもない、という印象を受ける。 大雑把にいえば、1 割から 2 割の患者において、回復が早まっているようなのである。 ただし、これは臨床試験の内容を素直に受け取った場合の話である。 試験に参加した人々が、純粋に科学的好奇心から、remdesivir が有効かどうかを知りたい、と思っているなら、そのように素直に受け取って良いであろう。 しかし実際には、製薬会社を中心として莫大な経済的・社会的事情が絡んだ臨床試験である以上、参加者のほとんどが「remdesivir が有効であってほしい」と願っているであろう。 はたして、この臨床試験において、ほんとうに盲検性やランダム性が担保されているのだろうか。

ごく普通の医師を含め素人の中には、二重盲検ランダム化比較対照試験の信頼性を過大評価している者が少なくない。 「臨床試験の結果、そうだったのだから、それは正しいのだ」という論調で、試験結果を鵜呑みにするのである。 しかし現実には、「盲検」と称していながら実際には盲検化が不充分であったり、ランダム割付しているようで実はランダムでなかったり、 あるいは解析方法が不適切で恣意的な結果が誘導されていたりすることが、稀ではない。

たとえば、俗に降圧薬と呼ばれる、血管平滑筋を弛緩させる薬剤について、心筋梗塞のリスクを下げるかどうかを調べる二重盲検プラセボ対照の臨床試験を行ったとする。 患者も医師も、本当の薬剤を飲んでいるのか、プラセボを飲んでいるのか、知らされていない状態で臨床試験を行うのである。 しかしこの場合、血圧を測定すれば、自分が本当の薬を飲んでいるのか、プラセボを飲んでいるのかは、すぐにわかってしまう。 だから、本当に盲検化するならば、血圧測定を禁止しなければならないのだが、それをせずに、つまり実際には盲検化できていないのに、二重盲検と主張されることがある。

「ランダム割付しているようで実はランダムではない」事例の代表は、封筒法による割付である。 これは、中に「新薬」とか「プラセボ」とか書かれた紙が入った封筒をたくさん用意しておいて、 各々の患者をどちらの群に割り付けるかを決める際、封筒を無作為に一つ選んで開封し、中に書いてある内容によって決める、といったものである。 これは簡便な方法であるが、現実には、不正な「選び直し」が行われやすいことから、まっとうな臨床試験では採用されない。 「選び直し」とはどういうことかというと、製薬会社などにしてみれば、重症患者がプラセボ群に割り付けられ、軽症患者が新薬群に割り付けられると都合が良い。 そこで、重症患者が「新薬」の封筒を引いてしまった場合、それを破棄して、別の封筒を選び直すのである。 逆に軽症患者がプラセボを引いてしまった場合も、選び直すことが有効である。 こうしたインチキが行われやすいので、封筒法の臨床試験では、しばしば、新薬群の患者数とプラセボ群の患者数が大きく乖離する。 封筒法を用いた臨床試験は現在でも時々みられるようだが、そのような臨床試験の結果には、科学的意義がない。

「解析方法が不適切」な例は、いわゆる modified intention-to-treat 法である。 実は私は、modified intention-to-treat 法なる解析法を知らなかったのだが、先日、懇意にしている某助産師から教えてもらった。 これについては、長くなるので、別の機会に紹介することにしよう。

とにかく、臨床試験というのは、二重盲検ランダム化比較対照試験だから信頼できる、などという単純なものではない。 冒頭に挙げた中間報告についても、故意か偶然かは知らぬが、結果に重大な影響を与えかねないバイアスは存在する。

特に気になるのはベースラインの患者状態であって、人工呼吸管理や ECMO による補助を受けている患者数は、Remdesivir 群で 541 人中 125 人、 プラセボ群で 522 人中 147 人と、プラセボ群の方が多くなっている。 これが本当にランダムに割付を行った結果の偶然による偏りなのか、何者かの作為による結果なのかは知らぬが、 とにかく、結果として重症患者はプラセボ群に多くなってしまっている。 さらにいえば、そもそも両群の人数が 19 人もずれているのは、どうしてだろうか。 このあたりについての考察は、報告中に記載されていないようである。


2020/05/27 COVID-19 治療薬

例のウイルスによって世界中が混乱している中、日本では治療薬としてファビピラビルなどが注目されている。 この薬は、一般向けのニュースなどでは「アビガン」と呼ばれることが多いようだが、アビガンは商品名であって、薬の名前としてはファビピラビルが正しい。 たとえば臨床試験は特定の商品ではなく薬物自体を対象にしているのだから「アビガンの臨床試験」ではなく「ファビピラビルの臨床試験」とすべきである。 このように商品名と一般名はしばしば混同されており、 たとえばロキソプロフェンのことをロキソニンと呼んだり、プレドニゾロンのことをプレドニンと呼んだりする医師や看護師は少なくない。 しかし、これはハイブリッド車のことを「プリウス」と呼ぶようなものであり、不正確で恥ずかしいからやめた方がよい。

さてMedical Tribuneは医療分野の大手業界紙であるが、記事の内容はあまり医学的でないように思われる。 私は購読していないのだが、ときどき大学に置いてあるのを眺めることがある。 5 月 14 日号には「COVID-19 治療薬の実用化始まる」と題する記事が掲載され、いくつかの薬剤が紹介されていた。 まるで COVID-19 治療に有効な薬が開発ないし発見されつつあるかのようだが、実際には、これらの薬が有効であると考える医学的根拠は現時点では存在しない。

Medical Tribune の記事では、レムデシビル remdesivir について次のように述べている。

米・University of Texas Southwestern Medical Center の James M. Sanders 氏らは、 COVID-19 患者に対して 2020 年 3 月 25 日までに使用報告があった主要な薬剤について文献を検索、 JAMA (2020 年 4 月 13 日オンライン版) で解説。 COVID-19 治療薬候補として現在治験中の薬剤のうち最も有望なのはレムデシビルだとした。

まず「治験」という言葉は「医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律」いわゆる薬機法の 第二条第十七項で定義されているものであって、日本における医薬品等の承認過程で行われる臨床試験をいう。 つまり「臨床試験」の同義語として「治験」を用いるのは誤りであるし、外国では「治験」は行われていない。 新聞記者であるならば、言葉の使い方にはもう少し気を遣うべきであろう。

さて、この記事では引用の仕方が曖昧であるが、Sanders らの論文というのは JAMA 323, 1824-1836 (2020). のことであろう。 しかし、私が読む限り、この論文では「現在臨床試験中の薬剤のうち最も有望なのはレムデシビル」とは書かれていない。 Sanders らの論文は、COVID-19 治療薬候補として現在試験されている様々な薬剤についてレビューしたものであって、remdesivir は、その一つに過ぎない。 おそらく記者は

Currently, remdesivir is a promising potential therapy for COVID-19 due to its broad-spectrum, potent in vitro activity against several nCoVs, including SARS-COV-2 with EC50 and EC90 values of 0.77 μM and 1.76 μM, respectively.

As the results from RCTs are anticipated, inclusion of this agent for treatment of COVID-19 may be considered.

といった記載から、「最も有望」と感じたのだろうが、それは記者の意見に過ぎず、Sanders らは「最も」とまでは述べていない。不適切な書き方であろう。 また、Medical Tribune の記事では

同薬 (註: remdesivir のこと) は、COVID-19 重症患者 53 例 (日本人 9 例含む) に対する人道的使用のコホート研究の結果、68% で臨床的改善を得た (N Engl J Med 2020 年 4 月 10 日オンライン版)。

としている。 これは DOI:10.1056/NEJMoa2007016 のことであろう。 原文を読むと、これは北米や日本およびヨーロッパの医療機関が参加した臨床試験であって、日本の医療機関を通じて参加した患者が 9 人、とのことである。 日本人であるとは書かれていない。些末な違いのようであるが、科学的な話をするのであれば、言葉を適切に使うことは重要である。

この報告は remdesivir の投与を受けた重症患者の 68% が回復した、というだけのことである。 投与されていない患者との比較は行われていないので、この患者が自力で回復したのか、remdesivir によって回復したのかは、わからない。 医学的にはほとんど意味のない臨床試験である。 いったい、Medical Tribune の記者は、どういうつもりで、この論文を紹介したのだろうか。 有名な The New England Journal of Medicine 誌に載った論文だから、と、無批判に受け入れたのであろうか。

The New England Journal of Medicine についていえば、5 月 22 日付で Remdesivir for the Treatment of Covid-19 --- Preliminary Report として、 二重盲検ランダム化比較対照試験の途中報告が掲載された (DOI:10.1056/NEJMor2007764)。 これについても少し書きたいが、長くなってきたので次回にしよう。

2020.05.29 標題を修正した

2020/05/26 ウイルスは生物か

朝日新聞の「医心電心」というコラムに、5 月 25 日付で ウイルスは生物か非生物か 難しい「生きている」の定義 という記事が掲載された。 このコラムは内科医の酒井健司氏の連載である。 素人向けの読みやすいコラムなので、ぜひ読まれると良い。

中学校や高等学校の理科では、ウイルスは生物ではない、と教えられることが多いらしい。 その根拠は、ウイルスは細胞ではないから、としているようである。 上述のコラムでも酒井氏は「別にウイルスが生物だと声高に主張したいわけではありませんが」などと述べ、 態度は曖昧であるが、どちらかといえばウイルスを非生物とする立場に偏っている印象を受けた。

一方、私は名古屋大学医学科の学生であった頃、ウイルス学の教授が講義中に「ウイルス学者は、大抵、ウイルスを生物だと思っている」と言ったのを覚えている。 当時の私は、まぁ、そうだろうね、と思った。 ウイルスは、独自の遺伝情報を有し、他の細胞の機能を利用して自己複製する能力を有している。 形態こそ違うが、機能としては細菌と同じようなものであるから、これは生物とみる方が自然であろう。

そもそも、生物の定義として「細胞から成っている」ことを条件とするのは不適切である。 「生物」という概念は、細胞という構造物が発見されるよりも前から存在した。 レーウェンフックによる顕微鏡の開発以降、あらゆる生物を微細に観察した結果、細胞の存在が確認された。これにより「生物は細胞から成っている」と考えられるようになった。 重要なのは、こうした昔の光学顕微鏡ではウイルスは小さすぎて認識できなかった、という点である。 つまり、正確にいえば、「普通の光学顕微鏡で観察できるような大きさの生物は、細胞から成っている」ということになる。 「大きな生物は細胞から成っているのだから、小さな生物も細胞から成っているはずであり、従って細胞から成っていない存在は非生物である」という論理は、むろん、誤りである。 細胞ではないから、という理由でウイルスを非生物と判断するのは、論理が破綻しているのである。 冷静に考えれば、それは誰でもわかるはずなのに、なぜか、そのようなおかしな論理を受け入れている者が少なくない。

この種の破綻した論理による推定は、医学・医療の分野に広くみられるので、注意が必要である。 たとえば、抗二本鎖 DNA 抗体は全身性紅斑性狼瘡 (systemic lupus erythemathosus; SLE) に特異的だと記載している文献がある。 つまり、SLE の患者ではしばしば抗二本鎖 DNA 抗体が検出されるのに対し、他の疾患でこれが検出されることは比較的稀だというのである。 単純化すれば「抗二本鎖 DNA 抗体を有する患者は、大抵、SLE である」ということになる。 そこで、医学の勉強をせずに国家試験対策ばかり講じた学生や研修医は、抗二本鎖 DNA 抗体陽性の患者に対し安易に「SLE である」と診断しがちである。

抗二本鎖 DNA 抗体の存在は、SLE の特徴の一つに過ぎず、定義ではない。 そうした特徴の一つだけをつかまえて「SLE である」とするのは、論理になっていないのである。 SLE 以外の疾患や健常者でも抗二本鎖 DNA 抗体を有することはありえるのだから、そういう安易な診断は国家試験対策テクニックにしからなず、臨床的に用いるべきではない。 もっとも、SLE をはじめとする膠原病は疾患概念が曖昧なので、正確な診断は難しい。 というより、SLE は症候群に過ぎず、独立した疾患単位ではないと考えられるので、将来的には診断名として使われなくなるであろう。

なお、この記事を書くにあたり過去の書き物を調べていたら、私が 5 年近く前に書いた文章を発見したので、転載しておこう。

---------- 以下引用 (諸般の事情により引用元は示さないが、私が著作権を有する文章である) ----------

2015/11/04 SLE と抗二本鎖 DNA 抗体

全身性紅斑性狼瘡 (Systemic Lupus Erythemathosus; SLE) と呼ばれる症候群がある。 明確な定義がなく、イマイチ概念の不明瞭な症候群であるが、いわゆる膠原病の一つとされている。 ただし、この「膠原病」という言葉も、定義や概念が曖昧である。 本日のテーマは、この SLE と抗二本鎖 DNA 抗体の関係である。 なお、臨床検査における抗二本鎖 DNA 抗体というのは「二本鎖の DNA にのみ反応する抗体」という意味ではなく 「一本鎖または二本鎖の DNA に反応する抗体」という意味である。 これに対し抗一本鎖 DNA 抗体は「一本鎖の DNA にのみ反応する抗体」をいう。

丸善出版『膠原病学』改訂 6 版は、膠原病を概説する名著であり、膠原病に関心のある学生は、卒業までに一度通読すると良いだろう。 塩沢俊一氏の単著であり、全体を通して一貫したストーリーのある優れた教科書である。 ただし、日本語の細かな部分が、いささか粗いように思われる。

この「塩沢 膠原病学」の 361 ページでは「抗二本鎖 DNA (dsDNA) 抗体は原則的に SLE に特異的で, 腎症をはじめ疾患活動性とよく相関し, 診断の重要な指標となる (Schur PH et al. N Engl J Med 278:533, 1968).」としている。 補足しておくと、ここで引用されている Schur らの報告は疾患活動性と抗 dsDNA 抗体の関係を調べたものであって、SLE に対する特異性には言及していない。

これに対し金原出版『臨床検査法提要』改訂第 34 版の 886 ページでは、抗 dsDNA 抗体は活動期 SLE における感度 67 % であるのに対し、 全身性硬化症における感度は 23 %、シェーグレン症候群で感度 14 % としている。 この記述に基づくならば、有病率を考えれば SLE における特異性は高いといえようが、SLE に特異的とまで言うのは、私は憚られる。

そもそも、なぜ抗 dsDNA 自己抗体が生じるのか、という点については、誰も知らない。 「塩沢 膠原病学」は上述のように抗 dsDNA 抗体は SLE に特異的であるとしており、 他の膠原病で陽性となるのは検査手技上の問題で、抗一本鎖 DNA 抗体が存在する際に偽陽性となるためだとしている。 そして、抗 dsDNA 抗体に対応する抗原はアポトーシスの際に遊離したヌクレオソームである、としている。 しかし、そうした抗原が SLE 特異的に出現する理由には言及していない。

はたして、本当に抗 dsDNA 抗体は SLE に特異的なのだろうか。 特異的だと主張する根拠として有名なのは、2012 年に Systemic Lupus International Collaborating Clinics (SLICC) が発表した SLE の分類基準であろう。 (Arthritis and Rheumatism 64, 2677-2686 (2012).) この報告では、抗 dsDNA 抗体は SLE に対し感度 57.1 %、特異度 95.9 % であった、としている。 この報告の特徴は、SLE であるか否かの診断のゴールドスタンダードとして「エキスパートの 80 % が SLE である、または SLE ではない、という点で意見を合致させたもの」 としている点である。 つまり、この分類基準を臨床的に用いる場合、それほど SLE に熟練していない医師であっても SLE のエキスパートと同様の診断を行うことができる、 という点が有益だといえよう。

ここで二点、注意を要する。 第一に、特異度の値は、統計の対象とする患者集団に大きく依存する、という点である。 上述の SLICC は、SLE や他の膠原病と診断された患者を対象に解析したものであるが、いわゆるオーバーラップ症候群や混合性結合組織病は含まれていない。 第二に、この報告においても、エキスパートのうち最大 20 % は異なる診断を行っている、という点である。 そのくらい、SLE の診断は曖昧で主観的なのである。

以上のことを考えると、抗 dsDNA 抗体が SLE に特異的である、というよりも、抗 dsDNA 抗体を伴う膠原病は SLE と診断されることが多い、とするのが正しいのではないか。 両者は、臨床医療における診断だけを考えるなら大差ないが、膠原病や SLE の本質に迫ろうとするならば、重大な差異がある。 「SLE」という曖昧な既成概念を崩しに行くことこそが、我々のような次代を担う医師の役目である。


2020/05/25 臨床検査 (3)

前回と前々回で述べた内容は、医学科の高学年生にとっては常識であろうが、世間では、あまり認識されていないように思う。 というのも、COVID-19 に関連して、特に症状はないが心配だから検査を受けたい、という人が、少なからず存在するらしいのである。 それに対して、医療機関や検査機関の検査能力の限界などを理由に「全く無症状で特別なリスクもない人は検査を受けるべきではない」とする意見や、 あるいは一部の外国の例を挙げて「検査態勢を拡充して広く検査を施行すべきだ」と主張する者がいる。 しかし、検査とは何かを国民がよく理解していない状況では、仮に充分な検査態勢があったとしても、むやみに検査をすべきではない。

というのも、素人の中には「検査で陰性だったから私は感染していない」などと考え、 検査陰性を理由に予防措置を怠る者が稀ではないからである。 わかりやすい例が某国の大統領である。 某国というのが具体的にどこであるとは書かないが、私の認識では、世界で最も優れた理念を掲げて建国され、現在では世界で最も傲慢になってしまった国のことである。 あの大統領は、「私は定期的に検査を受けて陰性を確認している」などという理由で、マスクを着用していない。 周囲の者にはマスクをするよう命じておきながら、である。

もし、感染者が検査上「陰性」と判断されてしまう現象 (偽陰性) が、確率的に、つまりランダムに生じるのであれば、 何度も検査して陰性が続くことを根拠に「感染していない」と判断することは合理的である。 しかし前回述べたように、偽陰性には理由があるのであって、たとえば主治医の検体採取技術が稚拙であるならば、何度検査しても偽陰性が出続ける恐れがある。

このように、「検査陰性」を「感染していない」と誤解する者がいる以上、むやみに検査を施行することは有害である。 また、仮に検査陰性であっても自分が感染者であると仮定して行動すべきなのだから、結局、検査しても何も変わらないのである。

それでも素人は、「検査陰性であれば、明らかに感染しているわけではないといえるので、少し安心できるじゃないか」と言うであろう。 その安心が、だめなのである。それだから AIDS (acquired immunodeficiency syndrome) が蔓延するのである。


2020/05/20 臨床検査 (2)

COVID-19 に対する PCR 検査というのは、概ね次のようなものである。 まず患者の鼻に綿棒を挿入し、鼻咽頭をぬぐう。 この「ぬぐい液」について、COVID-19 のゲノム RNA に特異的な配列を有するプライマーを用いて PCR を試行し、核酸が増幅されれば「陽性」と判定する。 つまり、この検査で「陽性」という結果になるのは、基本的に
1) その患者が COVID-19 に感染していて
2) しかも鼻咽頭に充分量のウイルスがいて
3) それをしっかりと綿棒でぬぐうことができて
4) ゲノム RNA が壊れないままに測定が開始されて
5) 適切な試薬や装置および手技によって測定が行われる
という条件の全てが満足される場合に限られる。 むろん、検査中に COVID-19 が混入したり、あるいは不適切なプライマーを使って PCR を行った場合などは、これらの条件を満足していないにもかかわらず 「陽性」の結果が出てしまうこともあり、これがいわゆる偽陽性なのであるが、それについては今回は議論しない。

重要なのは、上述の 5 条件が全て満足されなければ「陽性」の結果にはならない、という点である。 素人は、条件 1) さえ満足されれば 2) 以降も自動的に満足されるかのように錯覚するかもしれないが、実際には、そんなことはない。

たとえば感染初期や、あるいは治癒しかけの状態であれば、鼻咽頭のウイルス量が少ないかもしれない。 あるいは、稀な状況かもしれないが、鼻咽頭には感染せずに肺にだけ感染しているような状況も、あるかもしれぬ。 これらの場合、条件 2) が満足されないので、実際には感染していても検査上は「陰性」となる。

条件 3) は、おそらく、しばしば満足されていない。鼻咽頭ぬぐい液の採取というのは、それなりに難しい手技である。 不慣れな医師や看護師が採取した場合、採取に失敗することがありえるが、「失敗した」という事実には普通は気づかないので、 ほんとうは感染している患者が検査上は「陰性」ということになってしまう。 いつであったか、日本の某大企業が、医療機関ではない一般法人向けに COVID-19 用の PCR 検査キットを販売しようとしたらしいが、 素人が自分で、あるいは家族に依頼して検体を採取しようとしても、まぁ、キチンと採ることはできないであろう。

条件 4) も、おそらく、しばしば満足されていない。 RNA は DNA に比べて生化学的に不安定であり、壊れやすい。特に、鼻咽頭ぬぐい液の中には RNA 分解酵素が混ざっていることも充分に考えられ、 短時間のうちに RNA 鎖が切断されてしまうおそれがある。 従って、たとえば鼻咽頭ぬぐい液を採取してから一晩あるいは二晩経った後に測定開始した場合、その間に RNA が壊れてしまい、検査結果は「陰性」になるかもしれない。 検体採取後すぐに測定開始できる環境が整っている医療機関であれば良いが、検体を採取してから検査施設まで長距離輸送しなけれなならないような環境では、これが問題になる。

条件 5) も、実は重要である。 PCR は臨床医療というより、生物学研究の手段として幅広く使われている。 こうした研究目的の場合、測定結果に誤差が生じても、適切に統計解析すれば問題ない。 しかし臨床医療における診断目的の場合、ふつうは統計解析などせず、一度の測定で結果を判定する。 そのため、設備にせよ試薬にせよ、精度管理を厳重に行っている。 だから研究用試薬に比べて、診断用試薬は、非常に高価である。 それを「同じ PCR だから」と、研究用の試薬や設備を使って PCR を実施した場合、検査結果に重大な誤差が生じる恐れがある。

COVID-19 や PCR に限らず、臨床検査の結果を解釈するには、こうした諸問題を常に念頭に置いておく必要がある。 しばらく前に、COVID-19 の PCR 陰性の患者に対して、病歴や症状から COVID-19 感染症と診断した医師がいる、というニュースがあった。 素人は「検査陰性なのにトンデモナイ診断だ」と思うかもしれないが、医学的には、必ずしも不適切な診断であるとはいえない。 「検査結果がこうだから診断はこうだ」などと単純に対応させることは、できないのである。 もっとも、病歴や症状で診断できるなら PCR 検査など必要なかったではないか、との批判は妥当である。 その症例では、純粋に医学の立場からすれば検査を実施すべきではなかったのだが、社会的事情から、医学的には不要な検査を行ってしまったのだろう。


2020/05/16 臨床検査 (1)

COVID-19 を巡る混乱が続いている。 日本の場合、PCR の拡充を求める声と、それに慎重な意見とがみられるようである。 現在の日本において、PCR 検査を広く施行することについては、私は反対である。 というのも、PCR 検査、あるいは広く臨床検査について世間の多くの人は正しく認識しておらず、その状況で検査だけを行うと、混乱に拍車がかかると考えられるからである。 そこで臨床検査とは何かということを、何回かに分けて議論しよう。

医学、というより科学を少し修めた人ならば、少し考えれば「COVID-19 に感染しているかどうかを調べる検査」というものは厳密には存在するはずがない、ということがわかるであろう。 さらにいえば「試験管に入れた水溶液中に COVID-19 が存在するかどうかを調べる検査」というのも、厳密には存在しない。 そもそも「COVID-19」とは何だろうか。何をもって、我々は「それ」が「COVID-19」であると言っているのだろうか。 たとえばカプシドやエンベロープを失って核酸のみとなった状態のものを、COVID-19 と呼んでよいのだろうか。 私は言葉遊びをしているのではなく、臨床検査を議論するためには、その対象たる病原体を正確に定義することが重要である。 というのも、言葉の定義があやふやであれば、いったい、我々は何を調べているのか、わからなくなるからである。 科学に疎い人は、おそらく私が何を言っているのかピンとこないであろうから、具体例を挙げる。

「癌」という病気がある、と、されている。 「と、されている」と書いたのは、「癌」という言葉の定義が曖昧だからである。 たとえば諸君が、患者から「私は癌なのですか?」と問われたとしよう。 もし、その患者が乳癌の脳転移を来しており終末期を迎えているならば、言い方は難しいが、内容としては「あなたは癌です。もうすぐ死にます。」という意味のことを伝え、どのように死を迎えるか、一緒に考えれば良い。 この場合、その患者が癌であることは間違いないからである。

その患者が急性白血病であった場合、どうだろうか。 「固形癌」とか「血液癌」という言葉があるぐらいだから、白血病も癌の一種であると考えてよく、この場合も、その患者は癌であると言って良いだろう。 では、ユーイング肉腫の場合は、どうか。 ユーイング肉腫は、肉腫であって、癌腫ではないから、その意味では「癌ではない」ということになる。 しかし「悪性腫瘍」という意味で「癌」という言葉を使うこともあるから、その意味では「癌である」ともいえる。 従って、この場合、その患者がどういう意味で「癌」という言葉を使っているのか、よく注意しなければならない。 むろん素人は癌腫と肉腫の区別など気にしないだろうが、たとえばその患者が病理医である場合、肉腫なのに「癌です」などと説明しようものなら、虚偽の内容を告知されたとして訴訟に発展する恐れすらある。 あるいは、切除した大腸ポリープのごく一部に日本では「上皮内腺癌」とされるが欧米の基準でいえば「高異型度腺腫」とされるような、癌なのかどうなのかよくわからない病変があった場合、どうだろうか。 日本では病理診断上は癌とされるが、これが原因で患者が将来死亡することはありえず、一般人が「癌」という言葉から受ける印象とは程遠い病変である。 もし患者が「命に関わる重大な病気」という意味で「私は癌なのですか?」と問うているならば、単純に「あなたは癌です」と言ってしまうと誤解を招くことになる。

次に、超音波検査などの画像検査で乳癌を強く疑われている患者について、病理学的検査は未だ施行されておらず、確定診断されていない場合は、どうか。 画像検査では、癌を疑うことはできても、癌であると断言することはできず、「『癌かもしれない』か『癌ではなさそう』」かを調べる検査に過ぎない。癌であると確定するには生検を行って、組織学的に癌の存在を確認する必要がある。 一方、組織学的に癌がみられなかったとしても、サンプリングエラーの可能性があるから、組織学的検査を根拠に「癌ではない」と断言することはできない。 そうしてみると、画像検査も組織学的検査も、「その患者が癌かどうかを調べる検査」と表現するのは不適切であろう。

このように、厳密には「癌かどうかを調べる検査」というものは、存在しない。 では COVID-19 感染症の場合は、どうか。それを次回、検討しよう。


2020/04/22 コッホの 4 原則 (2)

本日の記事も、素人が読んで誤解すると困るので、転載を認めない。

昨日の記事の続きである。 念のために強調しておくが、私は、現時点において、世界的に流行中の肺炎の原因を COVID-19 であると仮定して対策することに異を唱えているわけではない。 現状では COVID-19 を原因ウイルスと仮定するのはやむをえない。 私が問題にしているのは、そういう臨床的な話ではなく、医学、ウイルス学の問題として、COVID-19 に重大な病原性があるのかどうか、という点である。

米国ここ数日、米国では PCR 検査で COVID-19 陽性と判断された患者の死亡数が一日に 2000-3000 人程度のようである。 そもそも PCR 検査とは何か、ということを一般人はよく理解しておらず、誤解も多いように思うが、今回はその点は議論しない。 米国の一日あたりの死者数はよく調べていないが、人口が 3 億人以上であるから、たぶん、一日あたり 1 万人ぐらいが死亡しているのだろう。 すなわち、ここ数日の死亡者のうち 20-30% 程度が COVID-19 陽性ということになる。 米国の一般人口における COVID-19 陽性率は、詳しい情報元は後日紹介するが、たぶん、5% 以下程度である。 つまり、死亡者における COVID-19 陽性率は、一般人口よりもかなり高いのであって、COVID-19 と死亡との間に何らかの関連があると考えられる。 ただし、COVID-19 感染が原因で死亡しているのかどうか、つまり因果関係があるのかどうかは、わからない。 このような「因果関係はよくわからないが、何らかの関係はある」という状態を、医学用語で「関連」と表現するので、この 2000-3000 人は 「COVID-19 関連の死亡者」と表現される。 繰り返すが、COVID-19 が原因であるかどうかは、わからない。

COVID-19 を原因と考えてしまうと、発症者が非常に少ない点が不自然である。 どうも、このウイルスに感染した人のうち、詳しい割合はわからないが、ごく僅かの人しか発症せず、また、発症しても軽症で済む人が多いようである。 そのような軽症で済む人と、重症化する人との間に、一体、何の違いがあるのか。

ところで、世間一般では「確率」という語が濫用されている。 たとえば「COVID-19 に感染した人が発症する確率は……」といった具合である。 しかし、ここでいう「確率」とは、いったい、どういう意味なのか。 「確率」の数学的定義はややこしいが、おおまかにいえば「同じ試行を何度も繰り返した場合に、その結果が得られる頻度」という意味である。 しかし「COVID-19 に感染する」という試行を何度も繰り返すことはできないのだから、この場合の「確率」は定義できない。 実際、世の中に本当に確率で表現できる事象は、ほとんど、あるいは全く存在しない。 あるとすれば核分裂などの量子論的な現象ぐらいであろうが、それですら、確率で説明しようとする量子力学は誤りであるとする立場もあり、今日でも議論が続いている。

とにかく、COVID-19 に感染した人が重症化するかどうかは確率事象ではない。 何らかの病理学的機序が存在して、重症化するか軽症で済むか、あるいは無症候かが分かれるのである。 ここで思い出していただきたいのが、昨日紹介した Mandel の教科書で述べられているコッホの原則に対する批判である。 コッホが暗に採用した仮定に従って COVID-19 感染が単独で病因になると考えてしまうと、重症化する患者の少なさが説明できない。 実際には、COVID-19 感染に、何か比較的稀な条件が加わった患者のみが重症化しているはずなのである。

ひょっとすると、COVID-19 依存的に増殖する別の微生物が存在して、この微生物が病原体なのかもしれぬ。 その場合、COVID-19 は、その微生物の増殖を助けているだけで、COVID-19 自体には病原性がないという可能性もある。 こういう現象は充分に考えられる。 たとえば D 型肝炎ウイルスは、ウイルスゲノムの複製に B 型肝炎ウイルスの存在を必要とする。 つまり、D 型肝炎患者には必ず B 型肝炎ウイルスが感染しているが、D 型肝炎そのものは、B 型肝炎ウイルスではなく D 型肝炎ウイルスによって引き起こされているのである。 もっとも、この例では B 型肝炎ウイルスも肝炎を引き起こすので臨床的には B 型肝炎と D 型肝炎の鑑別は困難であるが、理論上は区別して考えることができる。

このように考えると、COVID-19 は流行中の感染症に関連してはいるものの、たぶん、直接の原因ではない。

転載不可はここまで。

2020/04/21 コッホの 4 原則 (1)

医師や医学科高学年生であれば、コッホの 4 原則を知らぬ者はいないであろう。 これは、ある微生物がある感染症の原因であると確定するための原則であって、 吉田眞一他編『戸田新細菌学 改訂 34 版』(南山堂; 2013) の記載によれば、 1) 一定の伝染病には一定の微生物が証明されること. 2) その微生物を取り出せること. 3) その取り出した微生物で実験的に感染させられること. 4) 実験的に感染させた動物から同じ微生物が分離される. の 4 つである。 正確にいえば、1) から 3) まではヘンレの 3 原則であって、コッホは、これに 4) を加えたらしい。

ヘンレの 3 原則は、ドイツの Jakob Henle が 1840 年に提唱したものであって、 その文献はハイデルベルク大学図書館で 公開されているらしい。 ただし私はドイツ語が読めないので、この文献の解読に難渋しており、ヘンレの 3 原則の原文を確認してはいない。 コッホの 4 原則は、同じくドイツの Robert Koch が 1890 年に唱えたものであり、これは Robert Koch-Instituts で公開されているようである。 こちらも、まだ原文を確認してはいない。

これらの原則は、理論的な観点から考案されたものであるが、現実にこれらの原則を満足することは容易ではない。 感染症学の世界的名著である Bennett JE et al., Mandell, Douglas, and Bennett's Principles and Practice of Infectious Diseases, 8th ed., p. 11 (Elsevier; 2015). では

Traditional notions have been challenged, such as the ideas first put forth in Koch's postulates, whereby microbes were viewed as pathogens and as sole etiologic agents of infectious diseases. Such a ``foe'' view neglects our earliest sightings of oral and fecal microbes with Anton van Leeuwenhoek's microscopes, where it was observed that animalcules (microorganisms) reside in a symbiotic and likely mutually beneficial relationsihp with the host.

感染症についてのコッホの原則にみられるような伝統的概念には、問題がある。 歴史的には、微生物は病原体としてみられ、感染症の単一の病因であるとみなされてきた。 こうした微生物を「敵」とみなす視点は、そもそもレーウェンフックの顕微鏡で最初に口腔内や便中の微生物が観察された事実を無視してしまっている。 すなわち、多くの微生物が口腔や腸管の中に住み、宿主と互恵的な関係を成立させているのである。

と述べている。 すなわち、コッホの原則は「感染したから感染症を患う」という単純な関係の存在を暗に仮定しているのだが、 現在では、実際の感染症はもっと複雑な機序で発症するものと考えられている。

とはいえ、ある微生物がある感染症の原因の一部を担っている、と主張するためには、コッホの原則を、厳密ではないにせよ満足する必要がある。 たとえば、肺炎患者の喀痰から Mycoplasma 属菌が検出されたからといって、ただちに、その肺炎の原因が Mycoplasma 属菌であるとはいえぬ。 別の原因で肺炎を来した患者に、たまたま、Mycoplasma 属菌が共生していたのかもしれない。

なお、上述の Mandell の教科書の最新版は第 9 版であるが、私は、この最新版が昨年出版されたことを知らなかったので、まだ入手していない。

ここから先は、素人が読むと誤解する恐れがあるので、転載を認めない。

近頃、世界中で話題になっている COVID-19, いわゆる新型コロナウイルスの話である。 私は、このウイルス感染症についてのウイルス学的研究状況に全く追いついていないのだが、はたして、 このウイルスが、近頃世界中で流行している肺炎の原因であるという学術的根拠は、あるのだろうか。 よくわからない肺炎が流行していて、患者から、これまで知られていなかったウイルスが検出されたとしても、そのウイルスが肺炎の原因であるとはいえないはずである。

特に、これがコロナウイルスである点に注意して解釈する必要があるだろう。 コロナウイルスは、いわゆる風邪ウイルスである。 コロナウイルス自体は、昔から、世界中にいるし、私はこれまで何度もコロナウイルス感染症を患ってきたし、 たぶん、読者諸君も幾度となくコロナウイルス感染を経験してきたはずである。 そのようなありふれたウイルスについて、これまで知られていなかった型がみつかったとしても、それが病因であると確定するのは容易ではなかろう。

たとえば、この COVID-19 感染者は、本当に、ここ数ヶ月で世界的に増加したのだろうか。 世界中で報道されている「感染者数」というのは、検査されて陽性となった患者の数に過ぎない。 実は昔から、全人口の 5% 程度は COVID-19 陽性であった、などという可能性は、否定できているのだろうか。

これを書いている現時点では、時間の都合で、具体的な文献引用をできないのだが、米国で無症候の一般大衆について抗 COVID-19 抗体検査を行ったら 5% 程度が陽性であった、という内容が、少し前に報告されていたように思う。 この抗体陽性者数が、経時的にどう変化するかを追跡すれば、COVID-19 が本当に流行しているのか、それとも昔から存在している by stander のウイルスが 病因と誤認されているのか、はっきりするであろう。

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2020.04.22 誤字修正
2021.08.07 語句修正

2020/04/15 同調圧力

前回の記事に少し補足をしておく必要があるかもしれぬ。 私は、なにも、懇親会その他の社会的活動を自粛する必要はない、と述べているわけではない。 公衆衛生の観点からいって、自粛する方が望ましいのは間違いない。 しかし、政府当局や病院長らが「自粛されたし」と要請しているからといって、それに従うことは当然の義務とはいえないし、 従わない者に対して、不道徳だ、非倫理的だ、反社会的だ、医師失格だ、などと非難するのは不当である、と主張しているのである。

我々勤務医は、大学や病院との雇用契約に基づいて、医師としての労務を提供し、その対価として給与を受け取っている。 職務遂行にあたり、病院長その他の立場にある者から指示命令を受けることはあるが、むろん、それは職務提供に必要な範疇に限られるのであって、 私生活について病院長や教授の指示を受けるいわれはない。 もし、我々の勤務時間外の過ごし方について制約を課したいのであれば、予め雇用契約に盛り込んでおくか、 あるいは逐一手当を支給するなどして我々との合意を形成しなければならぬ。 これは、病院であろうと一般企業であろうと、何ら変わりはない。 たとえば一般企業に勤める労働者が、夜な夜な淫らなサービスを提供する店に出入りして遊蕩に耽っていたとしても、雇用者には、それを咎める権利はない。それと同じことである。

それでは公衆衛生が守られないではないか、と批判する者がいるかもしれぬが、公衆衛生の観点から個人の私的行動を制約したいのであれば、しかるべき法を定めなければならぬ。 もし、多人数の集会を禁ず、などと法で定められたならば、それに反して懇親会に参加した医師が非難されるのは当然のことである。 しかし現在の日本では、そのような禁止規定は存在せず、あくまで自粛を要請するだけの法律しかなく、その要請に従うかどうかは個人の判断に委ねられている。 というのも、日本国憲法では、たとえば第十三条に

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

とあるように、個人の自由が尊重されているから、法律により個人の私的活動を制限することは、よほどやむをえぬ事情がない限り、できないのである。 なお、この条文は「公共の福祉に反しない限り」という部分の解釈が問題であって、たとえば路上で放尿することが公共の福祉に反することは明白であるが、 現在の状況下において懇親会を開催することが公共の福祉に反するかどうかは、判断が難しい。 だから現行法では、とりあえず強制力のない要請や指示のみが規定されており、懇親会に参加するかどうかは個人の裁量に委ねられている。 しかるに、現在の日本社会においては、政府や病院長の要請に従わないことは不道徳だ、非倫理的だ、というような意見が少なくないようである。 恐るべき同調圧力であり、権威への盲従と言わざるをえない。精神的な独立を欠いた、奴隷的発想である。

ところで、先の大戦中には、「非国民」などという言葉を用いて、戦争に協力的でない隣人を非難した者が少なくなかったという。 そういう人々が、戦後に、自身の言動を悔い、反省し、謝罪したのかどうかは、知らぬ。


2020/04/13 倫理を守る

慶應義塾大学病院の研修医が、自粛要請に従わずに懇親会を開催し、COVID-19 感染者を出した、 という内容が文春で報道された。 これに伴って、大学当局も「お知らせ」に文書を掲示している。 この文書では、大学当局は当該研修医の行動について 「今回の初期臨床研修医のとった行動は、患者さんを守るべき医療者として許されない行為であり、医師としての自覚が欠如していたと言わざるを得ません。」 と述べ 「初期臨床研修医には引き続き厳正な注意と指導を行ってまいります。市中感染が急速に拡大する中、医療者としての行動規範をより一層周知徹底し、再発防止に努めてまいります。」 としている。 ただし、この大学からの発表は「新型コロナウイルス感染症に関する当院の状況について」という文書の一部で触れているのみであり、この事案を単独で公表したものではない。 また、事案が判明した時点で公表したわけではなく、文春の掲載日である 4 月 6 日になってからの発表である。 このあたりをどう解釈するかは、個々の国民が考える問題であって、慶應とは無関係な立場である私がここに書くべきではあるまい。

また、中日新聞などが流した共同通信発のニュースによると、 この事案に関連して日本医師会の会長が 「医療倫理の基本は人々の生命と健康を守ること、そのために自分の生活を律することだ」として、 「医療者として倫理を守ってほしい」と述べたらしい。 つまり、件の大学の研修医連中の行為は非倫理的だ、と非難したわけである。 私自身は、研修医修了などといってハメを外して大騒ぎする人種が好きではない。 しかし、彼らの行動が非倫理的である、という批判には、賛同いたしかねる。 私は、会長の発言の全体を読んではいないのだが、具体的に、どの部分が非倫理的であると判断されたのであろうか。

大学当局の文書では、具体的にどの行為が、どういった理屈で「医療者として許されない行為」であると判断されたのか、述べられていない。 読者の中には、「そんなの、あたりまえじゃないか」と思う人もいるかもしれないが、それならば、その「あたりまえ」を言葉で説明していただきたい。

まず「どの行為が問題なのか」という点を考える。 「多人数で会食したこと」自体が問題なのか、それとも、その会食が「大学当局からの自粛指示に反して」行われたことが問題なのか。 前者なら、わからなくもない。 昨今の世界的な COVID-19 の流行をふまえれば、この状況で多人数による会食をすることは公衆衛生的に、まずい。 それなのに、そのような懇親会を開催するとは、彼らは公衆衛生学を修めていないのではないか。医師として不適格である。 そういう内容の非難であるならば、私も賛同する。 ただし、それならば医師として不勉強なだけであって、非倫理的であるとはいえない。

大学当局からの文書では、明記されていないものの、文章全体の流れからすると、どうも「大学当局からの自粛指示に反して」行われたことを問題視しているようにみえる。 当局が再三自粛指示しているのに、それを無視して懇親会を強行したことはけしからん、という論調である。 もし、それを問題視しているのならば、それは会長が言うような「非倫理的」な行動とはいえない。 我々は大学の奴隷ではない。 この状況における懇親会が職務の妨げになるならば、それは大学当局からの指示に従わなければならないが、それは職務契約上の問題に過ぎず、倫理の話ではない。

そもそも、日本医師会に倫理を言われること自体、納得できない。 日本医師会は、一部の医師らによって組織されている団体であるが、医師を統括する団体ではないし、医師全体を代表する立場でもなく、むろん、私は加入していない。 この日本医師会は、日本医師連盟なる政治団体と表裏一体である。 日本医師連盟は、会員から多額の会費を徴収し、主に政府与党への高額な政治献金を行っている。 その一方で、保険診療の診療報酬改訂では、より「適切」な内容に改訂するよう提言を行い、かなりの程度、実現されている。 名目はどうだか知らぬが、実態としては、診療報酬改訂と政治献金とは、共軛関係にあると考えるのが自然である。 政治献金というのは、形式的には、みかえりを求めない善意の寄附だということになっているが、それを本気で信じている者はいないであろう。 それが、倫理を言うのか。

2020.04.15 誤字修正


2020/04/08 緊急事態宣言

医師 5 年目になった。 日記の間隔がだいぶ間隔があいてしまったので、支障のない範囲で、事情を説明しておこう。

近頃、近医精神科を受診している。私の認識では、適応障害である。 医学書院『標準精神医学 第 6 版』によれば、適応障害とは

適応障害もストレスに関連した精神疾患の 1 つであり (中略) 基本的には適応障害は, 原因となるストレス的な出来事に対する情動的な反応と考えられる.

というものであり、幅広い精神障害が、適応障害に分類される。 なお、鋭い人は気づいたであろうが、医学書院『標準精神医学』の最新版は第 7 版であるから、私が引用したのは、一つ前の版である。 『標準精神医学』は名著であるが、あくまで学生向けの教科書に過ぎないので、最新版を手元に置いていないのである。 ただし、学生と話をする時には便利な書物であるから、買っておくのも悪くない。近いうちに買うかもしれぬ。

さて、精神医学の世界的名著といえば B. J. Sadock et al, Kaplan & Sadock's Comprehensive Textbook of Psychiatry, 10th ed. (Wolters Kluwer; 2017). である。 この書物によると、adjustment disorders とは

The adjustment disorders are a diagnostic category characterized by an emotional response to a stressful event.

とあり、『標準精神医学』の記述と合致している。なお、この「ストレス」の内容に制約はないが、具体的なストレスの存在がない場合には適応障害とは診断しない。 私の場合、何が原因のストレスであるかは明白であるが、ここに書くと重大な支障が生じる恐れがあるので、書けぬ。 まぁ、近医精神科に通院して、少しは楽になっているので、なんとかなるであろう。

ところで、今日は医学のことは書かないのだが、近頃世界中で話題の、いわゆる新型コロナウイルス, COVID-19 の話をしよう。 日本政府が「緊急事態宣言」を出したそうであるが、私は、この、いかにも日本的な宣言が、好かぬ。 というのも、この宣言は基本的には強制力のないものであって、自粛を「要請」するだけの内容だからである。

私は、なにも、政府はもっと強力に国民生活を制約すべきだ、と述べているのではない。 むしろ、この政府の「要請」に従う日本国民のあり方を批判しているのである。

公衆衛生の観点からいって、現在の状況下において、むやみに出歩いたり、多数が集まったりするのは、よろしくない。 そうした活動を自粛することは、少なくとも公衆衛生上は、望ましいことである。 ただし人は、生きていれば良いというものではなく、文化的活動も極めて重要であるから、公衆衛生よりも文化を優先し、 この状況下においてたとえばライブハウスに行くことは、一概に不適切であるとはいえぬ。 「ロック活動を中止ぐらいなら、死んだ方がましだ」というような発想は、公衆衛生的には大いに問題があるが、人として間違っているとまでは、いえないのである。

だから、最終的にどう判断し行動するかは個人の問題であって、それを自由に決定するのは、日本国憲法が保障する基本的人権の一部である。 それゆえに、法律においても、そうした個人の行動を制約することは難しく、政府は「要請」しか、できないのである。 日本という国は、そういう、世界でも稀な自由の国なのである。

そうした自由の国にあって我々は、自分の行動を自分で決める権利がある。 ならば、政府が何というかではなく、自分の思想と信念に基づいて行動するのが、独立した一人の人間というものではないか。 集会したいと思うのであれば、政府が緊急事態宣言を出そうが構わずに集会すれば良い。 また、公衆衛生を重んじ公共の利益を願うならば、緊急事態宣言がなくとも外出は自粛すべきなのである。

それを、緊急事態宣言の有無で行動を変えるとは、彼らは一体、いつから政府の奴隷になったのか。


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