2017/11/20 欧州旅行

うっかり書き忘れていたが、本日から欧州旅行に行く。 学会等ではなく、完全に遊びに行くのである。

北陸医大 (仮) の研修医には、労働基準法の定めに従って、初年度に 10 日間、二年目には 11 日間の有給休暇が与えられる。 いわゆるたすきがけ研修のために二年間のうち一部を市中病院で過ごす者の場合は、その段階で雇用契約が一旦解除されるが、 私は二年間全てを大学で過ごすので、既に勤続一年半を超えている。 昨年度は付与された有給休暇を一切消化しなかったが、時効は二年間なので、現在 21 日間の有給休暇を与えられている。 これを使って、本日から 12 月 1 日まで休暇とした。

今回は単身ではなく、両親を伴っての旅行である。 主たる目的地はフィンランドで、北極圏近くの待ちであるサーリセルカまで行く。最大の目当ては、むろん、オーロラである。 せっかくなので、フィンランドの他にも 3 か国ほど訪ねる。

旅行中の記録は、前回と同様、こちらに掲載していく。


2017/11/18 ブルガリア人

あるブルガリア人の原子炉物理学者の話である。

私が彼と出会ったのは、スイスのインターラーケンという街である。 これはスイス南部の二つの湖の間にある街で、ここで 2008 年に開かれた Physor という原子力の国際学会に私は参加した。 この学会のオプショナルツアーとして、若手研究者だけで山の方に遊びに行った。 Physor というのは、米国や西欧の人々が多く参加する学会であって、旧東側の人々は、比較的、少ない。 だからブルガリア人の彼は、かなり目立った。

話は逸れるが、私はロシアのオブニンスクで開かれた国際学会にも参加したことがある。2007 年 10 月のことである。 オブニンスクというのは、モスクワから南西に 100 km ほどの位置にあり、ソ連時代に最初の原子炉が建設された街である。 ここには原子力の単科大学があり、そこで開かれた学会に、修士課程二年次の大学院生として参加したのである。 このオブニンスクでの思い出については、また別の機会に書くことにしよう。

閑話休題、ブルガリア人の話である。 オプショナルツアーの際、何かの流れで、国ごとに順番に自国の歌を唱おう、ということになったらしい。 らしい、というのは、私は誰か別の人と話していたか何かで、その時の全体の動きを把握していなかったからである。 日本で「自国の歌」といえば、まぁ「さくら さくら」か何かを唱っておけば無難である。 ところが、私とは別の日本人参加者が「自国の歌」というのを「国歌」と勘違いしてしまい、私に「君が代を歌えとのことだ」と声をかけた。 私は状況を全く理解しないままに、彼と共に君が代を唱ってしまった。 個人的にはあの歌は嫌いであるから公式の場では歌わないことにしているのだが、あの時は空気を読んだつもりだったのである。 が、我々が唱い終えた後に、事態を察した人がいて、こっそりと我々に近づき「君達は、民謡を唱うべきであった」と忠告した。 この時になって、初めて、私は状況を理解したのである。

さて、ブルガリアの番になった。 ブルガリアからの参加者は彼一人であったので、他の参加者は彼に「さぁ、唱うのだ」と迫った。 しかし彼は「I don't sing. I am a physicist.」などと述べ、拒否した。 周囲は「A physicist sings.」などと迫ったが、彼は頑なに「No, I don't.」と拒み続けたのである。

私は、彼のような人物が大好きである。 世の中には、人脈とゴマ擦りで出世を狙う者が少なくないが、冷静に考えれば、科学者が社交的である必要はない。 頑固なまでに科学者の本分を貫く彼のような人物こそが、本当に科学の未来を担うのである。

ここまで書いて気づいたのだが、このブルガリア人に会ったのは、インターラーケンではなくオブニンスクであったようにも思われる。 まぁ、どちらでも良い。大した問題ではない。


2017/11/17 Halo sign

放射線診断学用語に Halo sign というものがある。 肺 CT の名著 Webb WR et al., High-Resolution CT of the Lung, 5th Ed. (Wolters Kluwer; 2015). によれば、これは

A halo of ground-glass opacity surrounding a nodule or mass.

とのことであり、つまり結節ないし腫瘤の周囲にあるスリガラス影のことである。 これの組織学的実体は何か、というのが本日のテーマである。

MEDSi 『胸部の CT』第 3 版には、直接的な表現はなされていないが、この halo は出血によるものである、と暗に書かれている。 なお、この『胸部の CT』という教科書は、私が学生の頃に放射線科の臨床実習に持参したところ、 ある指導医から「まぁ、日本語で書かれた教科書としては、それが一番よろしかろう」と控えめに褒められた代物である。 英語で書かれた教科書として評価が高いのは、上述の `High-Resolution CT of the Lung' であるが、 こちらには、halo の実体について明確な記載がない。 こうした名著が敢えて詳細に言及しないということは、何かある、ということである。

今日 halo sign と呼ばれる所見について、最初に言及したのは J. E. Kuhlman らの報告である (Radiol. 157, 611-614 (1985).)。 これは、急性白血病患者が合併した侵襲性肺アスペルギルス症の、CT 上の特徴的所見として報告されたものである。 その後、この halo sign は、肺アスペルギルス症に限らず出血性結節において高い感度でみられる所見として報告されたが (Radiol. 190, 513-515 (1994).)、特異度については評価が甘く、はっきりしなかった。

2000 年代に入ってから、非出血性病変においても、頻度は比較的低いながらも halo sign を呈する例があることが指摘されるようになった (Br. J. Radiol. 78, 862-865 (2005). など)。 具体的には、腫瘍細胞の浸潤や、非出血性の炎症反応により halo sign が認められるようである。 詳細な事情は知らぬが、CT の解像度向上などの技術進歩により、こうした halo sign を指摘できるようになったのかもしれぬ。

こうした halo sign の特徴を述べたレビューとしては、Radiol. 230 109-110 (2004). が簡潔で読みやすい。


2017/11/15 北陸に骨を埋めるか

過日、ある 3 年目の医師から「あなたは、我が県に骨を埋めるつもりですか」と問われた。 つまり今後の進路として、北陸医大 (仮) の、いわゆる医局の中で生きて行くのか、それとも別の場所に移るつもりなのか、ということである。

北陸医大に着任して二年近くになる。 正直にいえば、もう嫌だ、他大学に移りたい、と思ったことは、一度や二度ではない。 新しいものを創ろうという気概を持ち、既存の枠組に捉われずに前へ進もうとする人々は、北陸医大にもいないわけではないが、あまりに少ないのではないか。 指導医の言うことを無批判に受け入れ、ガイドラインに盲従する人々が、多すぎはしないか。 名古屋大学にいた頃の私は「名大は腐っている」と憤慨していたが、今から振り返れば、名大は、相対的には高い水準にあったように思われる。

何にせよ、私は、一度は北陸医大から外に出る。 これは北陸医大に嫌気がさしたからではなく、京都大学時代に受けた教えに従うだけのことである。 その後、私は北陸医大に戻って来るのだろうか。

冒頭で述べた 3 年目の医師に対し、私は「それは、北陸医大次第です。相応のポストを提供してくれるなら、戻って来ますよ。」と答えた。 しかし、この言葉には若干の嘘が含まれている。

現在の北陸医大には impact factor の信者が少なくないようである。 この impact factor の誤った用法により人事を左右することには、無論、重大な問題がある。 政治力を駆使して gift authorship を獲得し、 あるいは杜撰な統計解析により「成果」を挙げたかのようにみせかける、科学的意義の乏しい論文を乱発した者が重職に選ばれやすくなるからである。 そういう連中を厚遇するような人事を続け、科学者としても教育者としても資質を欠く者が教授の椅子を占めるようになった大学は、やがて滅びること必定である。 もし十年、十五年後に北陸医大がそういう風潮を残しているようであるならば、私は、たとえ教授の席が用意されようとも、この大学には帰還するまい。


2017/11/14 論文代筆

半年ほど前に、論文代筆サービスについて書いた。 研究データを送れば、論文の執筆から投稿まで代行してくれる、というサービスである。 平たくいえば、論文のゴーストライターサービスである。

この種のゴーストライターが科学倫理的に問題であることは、言うまでもない。 昨日紹介した ICMJE の recommendation から考えても、もちろん、不正にあたる。 科学の世界においては、研究を実際に行った人が論文を書く、というのが鉄則なのであって、 実際にやった人と文章を書いた人が違う、などというものは、科学論文として認められないのである。

法的にいえば、著作権法第 121 条には

著作者でない者の実名又は周知の変名を著作者名として表示した著作物の複製物 (原著作物の著作者でない者の実名又は周知の変名を原著作物の著作者名として表示した二次的著作物の複製物を含む。) を頒布した者は、一年以下の懲役若しくは百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。

とある。この種のゴーストライターを利用しておきながら、まるで自分が書いた論文であるかのように発表することは、著作権法違反にあたる、ということである。

こうした、違法で学術倫理に反するサービスが公然と成立し、「トップジャーナル」の裏表紙に堂々と広告を掲載しているのが、臨床医学研究の現状なのである。 こうしたサービスを利用する者は、同じデータであっても、文章の書き方次第で他人への伝わり方は大きく異なるということを理解していないのであろう。

研究するとは、どういうことなのか。それを医学科では教えていない。 その一方で「研究マインドを持った医師の育成を云々」「基礎研究に進む医師の育成を云々」などと言っているのだから、滑稽である。 基本を疎かにして形だけ整えたところで、医学が発展するわけが、ないではないか。


2017/11/13 Gift Authorship

医学の場における不正行為についてである。 他の大学の事情は知らぬが、少なくとも我が北陸医大 (仮) では、不正が横行している。 研修医の多くも、指導医の求めに応じ、公然と不正行為を行っているが、罪の意識は乏しい者が多い。 科学を修めず、ただ指導者の教えに忠実に行動することした考えてこなかったからである。 「指導者に言われたのだから、仕方ないではないか。」という弁明は、世の中では認められない。その指示に従った、諸君自身の責任なのである。 諸君の犯した不正、科学的犯罪は、二度と償うことができない。諸君の犯罪として、半永久的に、記録に残る。 取り返しのつかない過ちを犯したことを、よく認識し、悔いるべきである。

いわゆるギフト オーサーシップの話である。 これは、他人が成した科学的業績を、まるで自分の手柄であるかのように報告する行為である。 社会常識から考えれば、当然、これは不正行為であって、許されない。 もちろん科学の世界においても、これは重大な不正であるとみなされている。

世の中全般では、教授などのエラそうな立場の連中が、業績を水増しする目的で、このギフト オーサーシップを受ける例が多いようである。 しかし臨床医学の場に限れば、逆に、研修医や学生などがギフト オーサーシップを受けている例も少なくないのではないか。

医学分野における「著者資格」の基準としては International Committee of Medical Journal Editors の recommendation が広く受け入れられている。 多くの学術論文誌も、この recommendation に沿って投稿規定を設けているようである。 この recommendation によれば、論文の著者とは

  1. Substantial contributions to the conception or design of the work; or the acquisition, analysis, or interpretation of data for the work;
  2. Drafting the work or revising it critically for important intellectual content;
  3. Final approval of the version to be published;
  4. Agreement to be accountable for all aspects of the work in ensuring that questions related to the accuracy or integrity of any part of the work are appropriately investigated and resolved.
  1. 研究計画の立案、データの収集、解析、または解釈のいずれかについて、重大な貢献をした
  2. 報告書を記述し、または重大な修正を行った
  3. 最終的に報告書を公表することを承認した
  4. 研究の全体について、その正確さや完全さについて充分な検討と修正が行われたことを保証し、責任を負う

の全ての項目を満足している者をいう。 研究の一部に関与しただけの者は、著者に名前を入れてはならないのである。 そういう者については、論文の末尾に謝辞 acknowledgement として表示する、というのが世界共通の規則である。 だから、例えば研究を指示しただけで内容は把握していない教授だとか、 あるいは実験しただけで論文の内容は知らない大学院生だとかは、著者と名乗ってはいけない。 10 月 17 日の記事で、笹井は科学者ではなかった、と書いたのは、この規則に反し、 自分では内容に責任を負えないような STAP 論文に共著者として名を連らねたからである。

臨床医学でいえば、もちろん、症例報告についても、この規則は適用される。 症例報告の場合、1. の「データ収集」というのは、実際の診療行為と解釈するべきであろう。 すなわち、自分が診療したわけでもない症例について報告することは、基本的には不正行為である。 もちろん、カルテを閲覧し、その記載に基づいて何らかの独自の解析を加えて報告するのならば、構わない。 しかし、カルテの内容をまとめて多少の考察を加えただけでは、症例報告の著者となる資格はない。

北陸医大の場合、研修医が、自分でみたわけではない症例について、地方の小規模な学会などで症例報告している例が多い。 私は、過去に研修医と病院長や指導医らの懇談会の席において、この問題をやんわりと指摘したことがあるが、 某副院長の「経験を積ませるという意味で、良いのではないか」という言葉により抑え込まれた。

北陸医大では、そうやって、研修医に経験を積ませてくれるのである。


2017/11/12 薬物動態

薬の話をしよう。 ある注射製剤についてである。 諸般の事情から具体的な内容を出すことができない点は、ご容赦いただきたい。

私は、この薬剤の作用の持続時間が非常に長い点に興味を持った。 単に注射された薬剤が血中に移行し、効果を発揮する、というだけでは説明できないほど、長時間にわたり、効果が持続するとされているのである。 添付文書やインタビューフォームなどを眺めたところ、臨床試験において高い血中濃度が長時間にわたり保たれた旨は記載されているが、詳細は記されていない。 そこで製薬会社に問い合わせて、添付文書の末尾に掲載されている参考文献のいくつかを届けてほしい、と依頼した。

私が依頼した文献は「社内資料」とされているものであって、一般には公開されていない。 患者が直接依頼した場合はどうだか知らぬが、少なくとも医師が問い合わせた場合、製薬会社は、こうした社内資料でも提供してくれるのが普通である。 なにしろ、薬を患者に投与する判断の最終責任者は医師であって、製薬会社ではない。 「社内資料をみせることはできません」などとして薬剤の重要な情報を秘匿するようでは、我々としては責任を持てないから、その薬を使うわけにはいかない。 従って、まず例外なく、製薬会社は無料で資料を病院まで届けてくれる。

その届けられた資料をみて、私は、首をかしげた。 どうも理屈に合わない、無茶苦茶なことが書かれているように思われたからである。 次のような次第である。

詳細については書かないが、社内資料には、注射を行った後の薬物血中濃度の経時的変化について、臨床試験で頻回に測定した結果が掲載されていた。 そのグラフをみて私は、3 コンパートメントモデルで説明するのが良かろう、と考えた。 ここでいう 3 コンパートメントとは、注射された直後に薬剤が貯留している分画、血液分画、貯蔵分画、である。 この「貯蔵分画」というのは、具体的には脂肪組織か何かだと思うのだが、注射された薬剤が血液を介して移行し、貯蔵される場所のことである。 このような 3 つの分画の存在を仮定するモデルで、血中濃度の変化を近似的に表現できるだろう、と考えたのである。

この血中濃度の経時的変化を理論的に説明するために、製薬会社の研究班では数値計算を行ったらしい。 ところが、その計算モデルは私の考えたような 3 コンパートメントモデルではなく、いわゆるノンコンパートメントモデルであった。 つまり、体の中での薬物の移動を考えないモデルである。 そんなモデルで、この血中濃度の変化を説明できるものか、と思い、よくよく注意して読むと、この計算モデルでは、とんでもない仮定が用いられていた。 具体的には書けないが、まぁ、常識的に考えてありえない、辻褄を合わせるために無理矢理導入したとしか思えない仮定である。

私は、医師の中では薬理学をよく勉強した方であると思うし、統計学や数学についても、医師にしてはデキる方であろう。 それでも私は薬の専門家ではなく、薬剤師などに比べれば、素人といって良い。 だから、ひょっとすると、上述の私の理解は、正しくないのかもしれない。 そう思って、私の理解で合っているかどうか、不自然な仮定のように思われるが、合っているのか、と製薬会社に問い合わせてみた。 返答は、私の理解で合っている、とのことであった。 不自然ではないか、という点についての弁明はなく、暗に「察してください」という雰囲気であった。

ここから先は、私の想像である。 製薬会社の研究員も、当然、この仮定が無茶苦茶であることは認識していたはずである。 3 コンパートメントモデルの計算も、やってみたに違いない。 しかし実測データが少ない場合、3 コンパートメントモデルの計算は誤差が大きくなる。 おそらく、臨床試験のデータが少なすぎて、キチンとした計算結果が出なかったのではないか。 そこでノンコンパートメントモデルを使おうとしたが、当然、普通の計算方法では測定結果と合わなくなる。 やむなく、不合理で無茶苦茶ではあるが、辻褄合わせの仮定を用いることで、みため上は測定結果とよく合致する計算結果を出したのであろう。

この研究者らも、そんな計算は、やりたくなかったであろう。彼らの科学的良心が痛んだであろうことは想像に難くない。 しかし、それでも我々は、彼らのやり方を非難せざるを得ない。 製薬会社には製薬会社の事情があるとはいえ、科学的に不誠実な作為は、不正であるとして詰らなければならない。 それを怠れば、科学は衰退し、医学は滅び、患者が迷惑するのである。

あの数値計算は、インチキである。


2017/11/10 白衣

我が北陸医大 (仮) では、スクラブと呼ばれる半袖の診察衣を着用している医師が多い。 一方、私は襟つきのシャツを着てネクタイを結び、長衣型の白衣を着用するという、名古屋大学における男性医師の標準的な服装を基本としている。 これは、患者に対し「キチンとしている」という印象を与えるための小技でもあるのだが、私の名古屋大学に対する愛校心の表明という意味もある。

さて、私は、背部に「北陸医大 病理」と大きく刺繍された白衣を持っている。 さすがに他科での研修中には着用しないが、夜間や休日は、この白衣を着て院内を徘徊している。

この白衣は我が大学の病理部のユニフォーム、というわけではなく、私が勝手に作ったものである。 ある時、この白衣をみた某教授は「自分で作ったのかね」と尋ねた。 私が「はい」と答えると、教授は「(病理の) 教授の許可は得たのかね」と問うた。 私がニヤリとして「いいえ」と答えると、教授もフフフと笑った。

常識的に考えれば、こういうものを作る際には、事前に部門の責任者である教授の承諾を得るのが無難である。 私も、勝手に作ると叱られるのではないか、と、いささか懸念はしたのだが、敢えて教授に黙ってコッソリと作った。 というのも、事前に申し出て「よろしい」と言われれば問題ないのだが、教授が難色を示した場合に、ややこしくなるからである。 むしろ、明らかな不正や規則違反でない以上、勝手に作ってしまった方が、教授も文句を言いにくい。

ある休日、私がこの白衣を着て病院内を歩いていると、ある外科医から「『病理』を背負っているな、フフフ」と声をかけられた。 私はニヤリとして「ええ、そうです、フフフ」と返事した。

なお、この白衣の左袖には「病理研修医」という肩書と私の名前も刺繍されているので、研修医のうちしか使えない。 来年度からは、新専門医制度の下で私は「専攻医」という立場になるので、「病理専攻医」と刺繍した新しい白衣を調達しようかと考えている。


2017/11/09 いわゆる z-drugs とベンゾジアゼピン

10 月 21 日の記事で少し言及した z-drugs の話である。 これはベンゾジアゼピンと同様に GABA 受容体の作用を増強する薬物群であり、臨床的にはベンゾジアゼピンと同様に睡眠導入剤として用いられるが、 化学構造はベンゾジアゼピンとは異なる。 具体的には zolpidem や zopiclone が該当し、一般名の頭文字が z であることから z-drugs などと俗称されている。 ベンゾジアゼピン系薬物に比して、z-drugs は依存性が少ないと言われている。

しかし、具体的にどの文献であったか記憶にないのだが、教科書か何かで私は 「z-drugs は、ベンゾジアゼピンに比して依存性が少ないと言われてきたが、実際にはそうでもないらしい。」というような記述を読んだことがある。 これがどの文献であったのかは、思い出せない。私の書棚にある教科書を探してみたが、みつからない。

そこで文献検索してみたところ、z-drugs の依存性についてはっきり記載した文献は、あまり多くない。 ただ、近年では「z-drugs の依存性は、以前言われていたほどには低くないようだ」とする記載が多いようである。 まとまったレビューとしては Br. J. Clin. Pharmacol. 64, 198-209 (2007). が読みやすい。 このレビューもそうだが、どうやらフランスでは z-drugs の依存性を警戒する意見が強いようである。

教科書の記載も紹介しておこう。 薬理学の名著 Golan DE et al., Principles of Pharmacology, 4th Ed. (Wolters Kluwer; 2017). では、z-drugs について

This selectivity is associated with reduced muscle relaxant and anxiolytic actions, but tolerance and amnesia remain as potential adverse effects.

と記されているが、依存性が低いとは述べていない。 また精神医学の Sadock BJ et al., Kaplan & Sadock's Comprehensive Textbook of Psychiatry, 10th Ed. (Wolters Kluwer; 2017). は

Although the nonbenzodiazepine hypnotics (z-drugs) are similar to benzodiazepines in human misuse liability measures, the actual rates of misuse may be lower according to some authorities.

としており、z-drugs の依存性が低いという意見に対して否定的な立場を示している。

なぜ、私がこのように z-drugs の依存性にこだわるかというと、現実に z-drugs に依存している患者は多いからである。 長期にわたり「1 日 1 回、寝る前」などとして z-drugs を処方されている患者は、実に多い。 「薬がないと眠れない、薬を出してくれ」などと言って定期的に処方を受けている時点で、それは依存である。 そういう z-drugs 依存の患者は、大学病院でも多いが、昨月に研修で訪れた診療所では、もっと多かった。

もし、いわゆる臨床研究において z-drugs の依存性が低いかのような結果が出たとすれば、 それは、ある種のテクニックにより、こうした z-drugs 依存の患者を統計から外した結果であろう。 統計を知っている者なら、そのくらいの技を使うことは造作もない。


2017/11/07 北陸医大出身者の行く末について

過日、福井大学卒である某教員が、某一年次研修医に次のようなことを話していた。 北陸医大 (仮) を卒業して、いわゆる名門大学附属病院や東京などの有名病院に就職する者がいるが、馬鹿げている。 福井大卒や北陸医大卒ごときが、そういった名門出の連中に混じって、まともにやっていけるものか。 医局人事で場末の病院に飛ばされて、そこで一生を終えるのが関の山である。 と、いうのである。

もちろん、これに対し私は、そんなことはない、と反論した。 いわゆる名門大学出の連中の多くが、そのブランドの看板に頼って安楽な道を歩んでいるのは事実である。 しかし、たとえば名古屋大学などは、そういう連中が増えていることに対し危機感を強めている。 そこに、キチンと勉強した者が、たとえば北陸医大から入っていったならば、重宝され、輝かしい道を歩むことも可能であろう。 そういう時代が、やがて、やってくる。我々の時代が来るのだ。

そう述べた私に対し上述の教員氏は、これからの世の中が、そんな風になるとは思えんね、と述べた。

我々の考えは対立しているようにみえるかもしれないが、実は我々は、完全に見解の一致をみていた。 北陸医大を出て名門に移った者の多くが、現状として冷遇されているのは事実であろうが、 これは昨年書いた通り、北陸医大卒であること自体が原因ではない。 要するに、我々は名古屋大学とは違うのだから、看板頼みではどうにもならず、キチンと勉強して、シッカリと実力をつけねばならない。 実力さえあれば、聖路加であろうが虎の門であろうが、どこでだって、通用するであろう。 通用していないのが現状であるならば、単に、北陸医大の過去の卒業生の多くは不勉強であった、というだけのことである。

私は、北陸医大の我々は今後キチンと勉強する、という前提で「我々の時代が来る」と言っているのである。 これに対し上述の教員氏は、既に野心を忘れ希望を喪っているので、北陸医大の連中は勉強しないという前提で「名門に行っても通用しない」と言っているに過ぎない。

繰り返すが、名古屋大学など、大したことはない。設備や予算の規模はともかく、中の人の能力と質についてならば、北陸医大と大差ないのである。 我々が、名大ごときに負ける道理がない。


2017/11/06 ビリヤーニ

医学と何の関係もないことを書く。インド料理についてである。

私は、しばしば、インド料理店に行く。 名古屋大学時代には、鶴舞キャンパスのすぐ西側にある「ムガルパレス」というインド料理店に入り浸っており、多い時には週に 3 回以上は足を運んでいた。 時に、こうしたインド料理店のことを「カレー屋さん」と呼ぶ者がいるが、正しくない。 というのも、インド料理はカレーばかりではないからである。

本格派インド料理店であれば、カレーの他に、ビリヤーニと呼ばれるインド風ピラフや、サモサと呼ばれる包み揚げなどがメニューに掲載されているはずである。 私自身のことでいえば、このサモサには思い入れが強い。 京都大学二年生の時、初めて一人で海外旅行に行った先のアラブ首長国連邦でのことである。 飛行機がドバイの空港に着いたのは未明であったので、私は朝まで空港で待機した。 その時、最初に現地で食べたのがサモサだったのである。 サモサは、本来はインドの軽食であるが、インド洋とアラビア海を隔てたアラブ首長国連邦でも、好んで食べられているようである。 もちろん、このサモサは美味であった。 そんなわけで私は、初めて行くインド料理店では必ずサモサの有無を確認し、あれば、それを注文することにしている。

サモサ大好き、などという日本人は少ないであろうが、ビリヤーニについては濃厚なファンが存在する。 詳しいことはビリヤニ太郎氏が書いている通り、 ビリヤーニをメニューに掲載しているインド料理店であっても、必ずしも本格的なビリヤーニを出すとは限らない。 本来のビリヤーニは、インディカ米をスパイスで炒めたものであるが、少なからぬ在日インド料理店では、ジャポニカ米を炊いたものをビリヤーニとして供する。 これはこれで美味であることも少なくないが、本来のビリヤーニとは、だいぶ異なる。 さらにいえば、インドでは鶏肉や野菜のビリヤーニも食べられるが、羊肉、つまりマトンのビリヤーニが人気である。 ところが羊肉は日本人にはなじみが薄いせいか、チキンビリヤーニは供してもマトンビリヤーニは出さない、などというインド料理店も存在するのは遺憾である。 もちろん、上述の「ムガルパレス」では、上等なマトンビリヤーニも、サモサも、食べることができる。

過日、富山駅近くのサガールという店に入った。以前はシターラという名であったらしい。 ここにインド料理店があることは、初めて富山を訪れた 6 年前から知っていたが、ディナータイムに入店したのは今回が初めてである。 もちろん、私はマトンビリヤーニとサモサを食べた。たいへん、結構であった。

この店の特徴は、ビーフカレーを提供していることである。 言うまでもなく、インド人の大半を占めるヒンドゥー教徒は牛を母の如く崇めているから、その肉を食べるなどというおぞましいことは、しない。 当然、大抵のインド料理店では、ビーフカレーなどはメニューに掲載していない。 いわゆるインド料理店の中にはネパール系の店も多く、時に「インド・ネパール料理」などと表示している店もあるが、ヒンドゥー教徒が多いことではネパール人も変わりない。

では、このサガールは似非インド料理、インチキなのかというと、そうではない。 よくみると「100 % ハラール」という表示がある。 店員も「al-salam `alaikum」と、アラビア語の挨拶をしている。この挨拶は、アラブ人だけでなく、非アラブのイスラム教徒も使う。 すなわち、この店は、日本でも珍しいイスラム系インド料理店なのである。 だから、ビーフカレーを提供することには何の不思議もないし、逆に、ポークカレーなどというものは出されない。

諸君も、初めて入るインド料理店では「マトンビリヤーニとサモサ」を注文すると良い。 店員からの「こやつ、できるな」という視線を感じることであろう。


2017/11/03 誰もが知っている

私が大学院を中退するとき、某教授から言われた言葉については 3 年前に書いた。 当時は、私は医学科 5 年生の学生に過ぎなかったから、この教授の言葉も、自身の歩む道を信じるための心の支えとして思い起こしたに過ぎない。 しかし、一応は医師免許を取得して一年半が経った現在になって振り返ると、あの教授の言葉は、医学の世界においても完全に通用するように思われる。 試験の成績や指導医からの褒辞などには、何の意味もない。 本当に、どれだけ正しく勉強したかによって、卒業時点で既に雲泥の差が存在する。 その後に医師として生きていく中で、その差は、開くことはあっても縮まることはなく、到底、逆転できるものではない。 周りに惑わされず、自身が正しいと信じる道を往くことである。

さて、某診療所で、所長である北陸医大 (仮) 卒業生の医師と話をした時のことである。 所長は、最近の北陸医大における人事、具体的には 2 人の内科医が教授に昇格したことについて次のように述べた。 はっきりいえば研究業績が抜群なわけではないが、彼らが診療と教育において長年尽力してきたことは誰でも知っている。 北陸医大の人々は、それをキチンとみているし、評価もしている。だから、彼らを教授に据えたのである。 北陸医大には、そういう風土がある。

所長の言葉に、私は勇気づけられた。


2017/11/02 日本専門医機構による不当な男女差別的記載

地域医療研修で学んだことについて、まだ書き終わっていないが、今日は別の話をする。

多くの診療科で、来年度から新専門医制度の運用が始まる。 これは、従来は各学会が主体となって運用してきた専門医制度を、日本専門医機構という団体が主体となって一元管理しようとするものである。 特に内科領域では大幅な制度変更となるため、少なからぬ内科志望の研修医はアタフタしている。 我々病理の場合は、従来と大きくは変わらないため、気楽である。

ところで私は、専門医などという制度が嫌いである。 というより「資格」というものが全般に嫌いである。 そのようなもので、人の能力を測ることができるとは思われない。 資格取得を目的として研鑽し、勉強したかどうかの目安にはなるだろうが、そんなものは、重要ではない。 それなのに少なからぬ人々は、試験合格だの、資格取得だのといった矮小な物事に捉われ、事の本質を忘れ、結果として社会全体の学術技術水準が低下し、科学が衰退するのである。

そういう敵意をもって、過日、私は、日本専門医機構が発表した文書などを眺めていた。 すると、9 月 12 日付で発表された 専門医を目指す医学生・臨床研修医の皆様へ「平成30年度スタート予定の新しい専門医制度の開始に当たって」 という文章に、極めて不適切な表現を発見した。 「(2) 対象者」の「【注意】その他の医師について」という項目に、次のような記載があったのである。

現在すでに地域医療に従事している医師や、勤務場所や勤務時間に制約のかかることが予想される女性医師等については、別途学会に相談してください。 また、必要に応じて機構もご相談に応じます。

これを読んでピンと反応しない者は、差別主義者である。

「勤務場所や勤務時間に制約のかかることが予想される『女性医師等』」と、わざわざ「女性」と書いているのは、なぜなのか。 育児などに関係して時間短縮勤務などをするのは基本的に女性である、というような偏見があるのではないか。 仮に、現時点で時間短縮勤務する人の多くが女性であったとしても、わざわざ、こうした場合に「女性」と限定する理由にはならない。 単に「医師等」とすれば良いものを「女性医師等」とするのは、心の底にある差別意識の表れなのである。

これに対し、「そんな揚げ足をとらなくても」などと日本専門医機構を擁護する者も、差別主義者である。 日頃から男女差別について一定の意識を抱いている者ならば、このような不用意な記載は、しない。 揚げ足をとられるということ自体が、この問題に対して無関心であることの証左なのである。


2017/11/01 抗菌薬の濫用 (2)

昨日書いたように、抗菌薬が濫用される現場を、私はみた。 それに対し私は、「いかがなものでしょうか」と、言おうとは思ったのだが、機会をつかむことができず、とうとう、言えなかった。 一週間、その医師の診療をみて、その苦悩がわかってしまったからである。 言うべきだ、とは思ったのだが、言えなかったのである。 それについて、知りつつ黙ったことを詰られれば、私は反論できない。

まともに勉強した医師であれば、咳に対して、細菌学的検査なしにマクロライドを投与することが医学的に不適切であることは、よく知っている。 フルオノキノロンなど、もってのほかである、ということも、当然、理解している。 しかし、そこで「抗菌薬を無闇に使うべきではない」と説明すれば、少なからぬ患者は「まともに薬も出してもらえない」と不満を抱く。 また、詳細な細菌学的検索を行った上で投薬すれば「検査ばかりされる」と、やはり不満を抱く。 それに対して、とにかく薬を出して、そして回復したならば、それが薬のおかげかどうかはともかく、満足する患者が多い。 本当は、医学的には著しく不適切で無駄な投薬なのだが、素人からみれば、まるで名医であるかのようにみえるのである。 もちろん、患者の中には物事をよく理解している人、理解できる人もいるのだろうが、少なくとも我が県においては、そうした患者は多くない。

結局、マジメにやると、不評を買うのである。 医学的に不適切であっても、患者の関心を買っておいた方が、経営としては良いのである。 それを、敢えて「医師としての良心」などと本筋を貫くことを要求するのは、酷であろう。

これは、日本の保険制度の問題である。 医学的妥当性を追求するより、患者の関心を買って、より多くの患者を集める医療の方が、儲かるのである。 高度で難しい医学的判断や診療は、たいへんな割に、金にならないのが日本の医療なのである。

こういう保険制度を維持する限り、日本の臨床医療の水準は向上しない。 医学的に適切な診療をする医療機関が高く評価され、そうでない医療機関は診療報酬が安くなるような制度が必要である。


2017/10/31 抗菌薬の濫用 (1)

しばらく間隔があいたが、これからは通常の更新間隔に戻る。

本日で地域医療研修は終了し、大学に帰ってきた。 過疎地の小規模病院で 2 週間、市内の 2 つの診療所で 1 週間ずつ、お世話になった。 やはり私には、そうした臨床の最前線よりも大学の方が合っているように思う。 それでも臨床医療について、この研修で学ぶところは多かった。その内容について、これから何回かに分けて書いていこう。

大学にいると、抗菌薬の濫用について憤慨する場面は多い。 市中の病院や診療所で、不適切な抗菌薬投与を受けた上で紹介されてくる患者が多いのである。 典型的な「悪い治療」の例は、次のようなものである。 咳が続く、と訴える患者に対し、マクロライド系抗菌薬であるクラリスロマイシンを投与してみる。 数日して、治らない、と再びやってくると、今度は抗菌スペクトラムを広げてフルオロキノロン系のレボフロキサシンを投与してみる。 それでも治らない、と訴える患者に対してはガレノキサシン (商品名ジェニナック) を投与してみる。 それでもなお症状が続くなら、大きい病院に紹介する。

遺憾なことであるが、こういう「治療」をする医師を、私は、みた。 悪い人ではない。優しい、患者にも他の医療スタッフにも人気があり、さらには他の診療所のスタッフからの評価も良い人である。 私も、嫌いではない。それでも、その「治療」は、だめなのである。

多くの患者は、上述の「治療」のうち、遅くともジェニナックを投与したあたりで、治る。 ただ、多くの場合、これは抗菌薬が効いたからではなく、自然の治癒能力のおかげである。 中には治らない患者もいるが、それは、大抵、非感染性の疾患である。 いずれの場合についても、不適切な抗菌薬投与で耐性菌を生むリスクを冒している点で重大な問題はあるが、 その眼前の患者自身には、無駄な医療費を払わせていること以外には、さほど大きな害は及んでいない。

一番まずいのは、マクロライドやフルオロキノロンに多少の耐性を持つ細菌による感染症であった場合である。 その典型は、結核である。 感染症学の聖典である Bennett JE et al., Mandell, Douglas, and Bennett's Principles and Practice of Infectious Diseases, 8th Ed. (Elsevier; 2015). によれば、結核菌 Mycobacterium tuberculosis は、フルオロキノロン系抗菌薬に感受性であると考えられている。 ただし、結核をキチンと治療しようと思うなら、数日間の抗菌薬投与では不充分であり、数ヶ月間は治療を継続しなければならない。

もし本当は結核である患者に対し、充分な検査をせずにフルオロキノロンを投与すると、どうなるか。 この抗菌薬の作用により、結核菌は、その数を大きく減らす。が、一週間や二週間の治療では、根治はできない。 その結果、症状は完全には治らない。そこで大学病院に紹介されることになる。 しかし、既に治療が始まって結核菌の数が減少しているので、培養検査などを行っても、結核菌を検出できないかもしれない。 つまり、検査陰性でも、結核を否定できないのである。診断できないのである。 そこで、やむなく、結核かどうかの確証がないままに、数ヶ月に及ぶ抗結核治療を開始する、などの望ましくない結果を生むことになる。

だから、安易に抗菌薬を投与しては、いけないのである。


2017/10/26 医事訴訟における診療録の真実性

私は医事訴訟の専門家ではないが、法医学には、平均的な学生や医師よりは強い関心を持っていると思う。

日本においては、医事訴訟は、1990 年代後半から世間の注目を集めており、裁判所の判断も大きく変遷してきてはいる。 以前は、医事訴訟は病院側が圧倒的有利であるとされていたが、近年では、病院や医師の過失を認める判決もそれなりに多い。 そのため、大抵の医師は、医師賠償責任保険に加入しているものと思われる。もちろん、私も加入している。

訴訟で問題になるのは、多くの場合、医師や病院の過失責任である。 当然に注意して気づくべき点を気づかなかった、というのが医師の過失責任であるが、 それが「当然に注意して気づくべきであった」のか「気づかなくてもやむを得ない」のかが、争点になる。 あるいは、事前に患者が同意していたか、インフォームドコンセントがあったかどうか、が問題になることも多い。 こうした訴訟においては診療録 (カルテ) の記載が重要な証拠になる。

診療録に何も記載がなければ、医師は患者をよくみていなかったのではないか、異状をみおとしていたのではないか、との心証を裁判官に与える。 また、患者に説明して同意を得た旨の記載がなければ、説明責任を果たしていなかったのではないか、と疑われる。 これらの場合、医師側の責任が認められ、賠償せよ、というような話になる。 だから、自分の身を守るためにもカルテはキチンと書け、と、我々は病院当局から厳しく指導されているのだが、遺憾なことに、杜撰なカルテを記載する医師は稀ではない。

現時点においては、医事訴訟において、カルテの記載内容が真実かどうか、という点が争点になることは少ないようである。 医師は社会的信用が高く、虚偽の事実を診療録に記載するはずがない、というような前提で物事は動いているようである。

しかし、医師であれば誰でも知っているように、カルテの記載内容は、しばしば、事実に反する。 特にインフォームドコンセントに関しては、キチンと説明せず、巧みな話術で患者や家族に「はい」と言わせただけなのに 「説明して理解と同意を得た」などと記載されることは多い。 また、患者とトラブルになった場合に、医師側に都合が良いように事実を改変してカルテに記載することも、遺憾ながら稀ではない。 私は実際に、複数の医療機関において、そうした事実に反するカルテ記載が行われたのをみたことがある。 こうした現状を、はたして、司法は理解しているのだろうか。

こうした不正行為は、いくら法や規則で縛ったところで、根絶することは難しい。 最終的には、医師の倫理観に頼らざるを得ない。 ところが実際には、道徳観念を欠く医者も少なくないから、哀れな患者は、そうした医者の餌食となる。

時々、患者側が医者などの対応を動画などで撮影し、その不適切なる様がインターネット上で広まり、問題となることがある。 個人的には、そういうことは、積極的に行うべきであると思う。 動画の撮影は容易ではないかもしれないが、録音ぐらいなら、隠し録りも簡単である。

遺憾ながら、患者は、自分の身を、自分の手で、悪しき医者から守らねばならないのが日本医療の現状なのである。


2017/10/25 帰無仮説

検定論を修めた人であれば、帰無仮説という語は知っているだろう。 統計学的検定というのは、ある仮説について「もし、この仮説が正しいならば、このような観測結果は、めったに生じそうにない。 だから、この仮説が間違っていると考えるのが自然である。」という論法をとるのが基本形である。 このような「検定によって否定される仮定」のことを帰無仮説といい、この帰無仮説を否定することを「帰無仮説を棄却する」などと呼ぶ。

この帰無仮説をどのように設定するかによって、検定の意義や価値は大きく変わる。 しかし、これをよく認識せずに、曖昧あるいは出鱈目な帰無仮説を用いて、意味のない検定を行う者は、遺憾ながら少なくない。

ところで、検定のアンチョコ本などをみると「標本数を極端に多くすれば、大抵の検定において有意差が生じる」というようなことが書かれていることが多い。 これの意味が、よくわからない、という質問をある人から頂戴した。 確かに、この件はわかりにくいし、インターネット上などでは、自分で理解せずに安易な受け売りで的外れな解説を述べている者も多い。

たとえば「富山市の猫と金沢市の猫では、出生時体重は同じだろうか?」という問題を統計学的に検定することを考えよう。 単純に考えると、帰無仮説は「富山市の猫と金沢市の猫では、出生時体重は等しい」としたくなる。 ところが、よく考えると、富山と金沢では気候が違うし、猫を飼っている人の経済水準も少し違うであろう。そもそも、生息している猫の種類も違いそうである。 こうした細かな差異があることを考えると、「富山の猫と金沢の猫の出生時体重が厳密に、ミリグラムの精度で等しい」などということは、到底、ありえない。 従って、標本数を十分に大きくして統計誤差を小さくすれば、その僅かな差異を捉えることができ、必ず「有意差あり」という結論になる。 すなわち、この帰無仮説は正しくないことが理論的に明らかであり、わざわざ統計をとって検定する意味はない。

もう少し考えてみると、これは帰無仮説の設定が不適切だったのだ、ということに気づくであろう。 そもそも、なぜ、富山と金沢の猫の出生時体重の違いを調べようと思ったのか。 たとえば、ペットショップの店員が、売れ筋の猫だけを集める目的で富山人と金沢人の傾向の違いを調べようとしたのであろうか。 そうであるならば、出生時体重をミリグラム単位で厳密に議論するのは趣旨から外れる。 むしろ、たとえば帰無仮説を「富山市の猫と金沢市の猫では、平均出生時体重の差は 10 グラム以下である」などとするべきであろう。 この帰無仮説なら、標本数を大きくしても棄却されるとは限らない。 理論的には明らかではないから、実際に猫を集めて検定する価値がある。

なお、上述の帰無仮説において「10 グラム」を基準にしたことには深い意味はない。 この値を小さく設定すれば「有意差あり」となりやすいし、大きく設定すれば「差はない」という結論を出しやすくなる。 素人は、統計学的検定がまるで客観的で普遍的であるかのように誤解しがちであるが、本当は、このように、主観や恣意の入る余地が大きい。 そもそも、有意差判定の基準として頻用される p = 0.05 という閾値自体、何の根拠もない単なる慣習に過ぎないのであるから、検定の目的に応じて合理的に変更して良い。

このように、統計を議論するときには「その統計で、何をしたいのか?」を念頭に置いて、本当に意義のある帰無仮説を設定しなければならない。


2017/10/24 トップジャーナル

今月の前半にお世話になった、某小規模病院でのことである。 私は内科やを中心とする診療の見学や、非医師の医療職についてシャドーイングを行ったりしたのだが、一度だけ、外科手術にも入った。 その時、某大学から非常勤医として来ている医師と話をする機会があった。

外科指導医は、その非常勤医に対し、私のことを「この病理志望の研修医の愛読書は The New England Journal of Medicine である」と紹介した。 愛読書かどうかは知らぬが、まぁ、定期購読しているのは事実である。 すると、その非常勤医は「あれ、読んで面白いかね?」と言った。 臨床医学雑誌として世界一のインパクトファクターを誇る天下の The New England Journal of Medicine を指して、あんなもの、つまらないではないか、と述べたのである。

私はマスクの下でニヤリとして「正直に言って、original article は、つまらんのですがね。Review 記事などは面白いですよ。」と答えた。

この週刊誌を普段は眺めない人には、我々の会話は理解し難いかもしれぬ。 この雑誌は、確かに有名ではあるのだが、original article として掲載されている論文のほとんどは、臨床試験の結果報告である。 「こういう試験を行ったら、こういう結果になりました」というだけの内容であって、読んでも、ちっとも興奮しないのである。 まぁ、昨今の流行からいって、こういう論文は引用されやすく、つまり同誌のインパクトファクターを高める効果はあるだろうが、医学的意義は疑わしいし、面白くもない。 金と労力をかけて臨床試験をやれば、こうした「トップジャーナル」に掲載されるが、はたして、それが医学的に価値のあることなのかどうか。 これは、被引用数や、ましてやインパクトファクターを基準に研究者を評価することの馬鹿らしさにも通じる。 そういう点で、我々は見解の一致をみたのである。

ただし、Review 記事は良くまとまっていて勉強になるし、Case Records などの読み物も、面白い。 この雑誌は、マジメな医学論文誌というより、医学娯楽雑誌と考えた方がよろしいと、私は思う。 娯楽雑誌なのだから、もちろん、最初のページから最後のページまで通読する必要はなく、面白そうな記事だけ拾い読みするので構わない。 いわゆる後期研修医も含めた研修医であれば年額 25,000 円、社会人大学院生を含めた学生は 23,000 円なので、週刊文春を買うのと同程度の安さである。 ぜひ、諸君も読まれると良い。

私はこれまで、名古屋大学時代にも北陸医大 (仮) にも、この非常勤医のように公然と「トップジャーナル」を貶す医師に出会ったことがなかった。 あの北陸の田舎病院で初めて、それだけの見識の持ち主に会えたというのは、皮肉なものである。


2017/10/23 統計学的有意差と真の差

ある人から 4 年ほど前の記事 についてコメントをいただいた。 「有意差はないが、確かに差がみられる」という表現を私がケナした点について、 「有意差があるかどうか」と「本当に差があるかどうか」を分離して考えるべきではないか、というのである。

その人の指摘した通り、この両者は、明確に分離して考えねばならない。これは、次のような例で考えると良いだろう。

まず「緑膿菌に対して、ペニシリン G を投与するのとピペラシリンを投与するので、転帰に差は生じるだろうか?」という問題を考える。 緑膿菌は基本的にペニシリン G に耐性であるが、ピペラシリンには感受性である。 これについては 昨年書いた。 そこで、仮にペニシリン G とピペラシリンを比較する臨床試験を行って「有意差なし」という結果が出たとする。

細菌学的に、ペニシリン G は緑膿菌に無効であり、ピペラシリンは基本的に有効なのだから、理論的に考えて、両者には差が生じるはずである。 それでも臨床試験で有意差が生じなかったのは、何らかの理由により統計誤差が大きく、「真の差」が誤差に埋もれてしまったのだ、と考えるべきである。 この場合、「統計的有意差はないが、本当は差がある」ということになる。

ただし、この場合、初めから差があることはわかっているので、そもそも統計学的検定を行う意味がない。 検定の結果がどうであれ「差はある」という結論は変わりないのだから、検定するだけ無駄なのである。 その意味では、統計的有意差を議論している時点で既におかしい、ともいえる。 世の中には、こういう「結果ありき」で、ハクをつけるためだけの形式的な検査が少なくないので、注意しなければならない。

次に「梅毒に対して、ペニシリン G を投与するのとメロペネムを投与するので、転帰に差は生じるだろうか?」という問題を考える。 細菌学的には、梅毒菌は例外なくペニシリン G 感受性であると考えられているし、キチンとした検証はされていないものの、メロペネムなどのカルバペネムにも感受性と推定される。 それならば、投与量が適切である限り、どちらを投与しても同様に有効なはずである。 とはいえ、何らかの事情で in vivo ではペニシリン G とカルバペネムの間で差が生じる、という可能性もなくはない。 話は逸れるが、「ペニシリン G の方がカルバペネムより有効である」という可能性もある、という点に注意が必要である。 たとえば週刊 The New England Journal of Medicine の 9 月 28 日号の Case Records (N. Engl. J. Med. 377, 1274-1282 (2017).) でも、 暗に「レプトスピラに対し、メロペネムはペニシリン G より効果が劣る可能性がある」という意味の内容が述べられている。 遺憾なことに、メロペネムの方が「強い抗菌薬」であるかのように錯覚している医者も稀ではないようだが、そういう者は細菌学や薬理学を勉強しなおさないと恥ずかしいし、 こうした議論についていけないであろう。

閑話休題、理論的にはペニシリン G もメロペネムも同じ結果になると予想されるが、もしかすると理論が不完全かもしれないので、統計学的検定で確認することは有益である。 そこで臨床試験を行ったところ「有意差はないが、少し差があるような印象を受ける」ような結果になったとする。 この場合は「両者に差がある」とは、もちろん、いえぬ。というのも、「その程度の差は偶然に生じることも考えられる」というのが「有意差はない」という言葉の意味だからである。

冒頭の「有意差はないが、確かに差がみられる」というのは、この後者のパターンの文脈であった。 理論上は差があるかないかわからないが、統計的には「有意ではない」程度の差があるようにみえた、という状況で「確かに差がみられる」と述べていたのである。 これは、統計学を無視した暴論である。 もし、この「差があるようにもみえる」という状況を議論したいのなら、たとえば 95 % 信頼区間を考えるのは有益であろう。


2017/10/22 どうすれば良いのか

昨日「研修医諸君は、指導医のやり方を真似して『できている』と錯覚するが、その『指導医のやり方』は、多くの場合、不適切なのである。」と書いた。 こういうことを言うと、多くの研修医は 「じゃぁ、どうすれば良いんだよ」「じゃぁ、そのように指導医に言えよ」と言う。 「指導医の教える通りにやっているのだから、私は悪くない」という論理なのである。

もちろん私は、話の通じそうな指導医に対しては、やんわりと、その濫用について言うが、話の通じなそうな、つまり頭の悪そうな相手には、言わない。こじれるだけだからである。 それでも、同じ立場の研修医に対しては、必ず、言う。 指導医のやり方を改めさせることはできなくても、次代を担う我々は、より適切な医療を実現していかねばならないからである。

そういう感性が、残念ながら、一部の研修医には乏しい。 問題点をみつけ出し、自身の頭脳で考察し、改善しようという意識がない。 教えられたことを、教えられたようにやれば充分であると思っている。 それが年収 1400 万円 (開業医なら 2500 万円) に値する仕事であると思っているらしい。

2017.10.25 語句修正

2017/10/21 ベンゾジアゼピン濫用

先週から、地域医療研修の一環として、市内の診療所でお世話になっている。 もちろん、何らかの臨床的な技能を磨くためではなく、臨床医療の最前線で何が行われているのかを見学・観察することが主たる目的である。

診療所を見学して驚いたことの一つは、ベンゾジアゼピン依存患者の多さである。 一日に何人かは、ベンゾジアゼピンを長期連用している患者が来るのである。

入院患者に対し、いわゆる睡眠導入剤としてベンゾジアゼピンなどが処方されることは多い。 私は研修医になった当初、下剤や、俗に「眠剤」と呼ばれるこれらの睡眠導入剤が頻回に処方されていることを知り、驚いた。 特にベンゾジアゼピンは、薬理学の教科書には「依存を生じやすいので慎重に使用すべきである」などと記載されているが、 不眠を訴える患者に、かなり気軽に投与されているような印象を受けたのである。

正直にいえば、一年半の研修生活の中で、こうした下剤やベンゾジアゼピン系などの薬剤の使い方に、多少の慣れが生じた。 これらの薬剤を長期連用している患者をみても、それほど強い不快感をおぼえなくなったのである。 しかし、それは適切ではなかった。 無闇にベンゾジアゼピンを処方し続ける医者をみたら、「それは薬物濫用である」と憤慨するのが、医師や薬剤師としての正しい心である。

入院中にベンゾジアゼピン漬けになった患者は、退院する際にも、こうした薬剤を「退院時処方」として与えられることが多い。 その人々が、やがて大学病院を離れて町の診療所に通うようになった時、どうなっているのか。 実は、ベンゾジアゼピンを飲み続けているのである。 入院中にベンゾジアゼピン依存を生じた患者に対し、心ある開業医ならば、減薬を勧める。 しかし患者は、薬を減らすと眠れなくて辛いから、処方してくれと願う。 それに対し、断固として減薬を強く勧めることは難しい。 あまり強く言えば、患者は別の医院に通うようになるだけだからである。

結局、年余にわたりベンゾジアゼピンを飲み続けることになる。 それで健康が保たれるのならまだしも、大抵、倦怠感や眠気などを生じ、日々の生活に支障を来し、それでも薬はやめられないのである。 合法であるという点を除けば、違法薬物の濫用と何ら変わるところはない。我々が、薬物依存患者を作り出しているのである。

こういうことに、多くの医者は、疎い。 若い研修医の中にも「眠れなくて辛いのだから、眠剤を出して休ませてあげるべきでしょ」などと安易に言う者は多い。 もちろん、適切に使う限りはベンゾジアゼピンも悪くはないが、依存を来さないよう、適切な管理を忘れてはならない。そして多くの場合、その適切な管理は、できていない。 研修医諸君は、指導医のやり方を真似して「できている」と錯覚するが、その「指導医のやり方」は、多くの場合、不適切なのである。

なお、非ベンゾジアゼピン系の、いわゆる z-drugs がベンゾジアゼピンより安全である、というようなことを言う者も多い。が、それはキチンとした根拠のある話ではない。 むしろ、濫用の頻度はベンゾジアゼピンより多いのではないか、との意見すらある。

こうしたベンゾジアゼピンを巡る問題に興味のある方は、週刊 The New England Journal of Medicine の 3 月 23 日号に掲載されたレビュー (N. Engl. J. Med 376, 1147-1157 (2017).) を読まれると良い。


2017/10/17 STAP 騒動

いわゆる STAP 細胞について、発表直後の 2013 年 2 月に記事を書いた。 その後、捏造が発覚したために、結局、私は小保方の論文は読んでいない。 この STAP 騒動について、世間の捉え方は、いささか科学的でないように思うので、その点を指摘しておこう。

いわゆる STAP 細胞については、「捏造疑惑」が生じた後に、追試験が行われた。 2014 年 12 月には理化学研究所も追試の結果を発表し、「再現できなかった」と報告した。 当時、世間一般では、この検証結果をもって「STAP 細胞の不存在が確認された」かのような受け止めかたがされた。 しかし、科学界においては、検証を行う前から STAP 細胞の不存在は確認されていた、 さらにいえば理研は検証実験を行うべきではなかった、とする意見が多いのではないかと思われる。

科学者であるためには、何らの肩書も地位も必要はなく、ただ単に、科学に対する誠実さを有していれば充分である。 しかし論文に記載する内容を捏造し、あるいは改竄する者は、いかなる社会的地位を有していたとしても、科学者ではない。 科学者でない者が科学に関する何事かを主張したとしても、それは妄想に過ぎず、我々は、それに耳を貸すべきではない。

小保方は、科学者ではなかった。 話は逸れるが、共著者であり自殺した笹井も、科学者ではなかった。 というのも、笹井は共著者でありながら「データはみていない」などと弁明したからである。 論文の内容に責任を持てないなら共著者になってはならない、というのは科学界の常識である。 現状では、業績を水増ししたり権威付けするために、ほとんど研究に関与していない者が著者に加わることも稀ではないが、これらは全て不正行為である。 騒動の中で追いつめられて自殺した笹井に、同情の余地はない。

小保方が論文に示したデータが改竄されたものであることが明らかになった時点で、科学的には、STAP の存在を信じる根拠は何もなかった。 科学者でない者が、科学的根拠を示すことなしに、妄言を述べているだけに過ぎなくなったのである。 それならば、それは実在しないと推定するのが自然である。 どうして、わざわざ追試を行って検証する必要があるのか。

小保方の主張が正しいかもしれない、と考える個人や団体が、功名を狙って「追試」を行うことは自由である。 しかし科学的には、データ捏造が判明した時点で「STAP 細胞は実在しない」と考えるべきなのであって、 理化学研究所による検証結果を待ってから STAP の存否を判断するべきではない。 理化学研究所も、そんなくだらない実験に追加予算を投入するべきではなかった。

こうしたことは、騒動の当時から一部の研究者らが主張していたようであるが、世間はあまり相手にしなかった。 「もしかしたら、実在するかもしれない」という立場をとるのは、楽である。結果がどうであれ「やっぱり、そうだった」と言えるからである。 これに対し、論理的思考と考察に基づいて未来を予言し、決断することは、勇気がいる。 その勇気こそが科学を推進させるのであって、明日の社会を切り拓くのである。

「存在する『かもしれない』」と、根拠もなしに期待だけで行動する非科学的て軟弱な態度が、この国には蔓延している。


2017/10/16 貧血の定義

「貧血」という語の定義が混乱していることは4 年近く前に書いた。 過日、某所で若い医師と貧血の話をした時に、ふと、この件を思い出したので、改めて、これについて書くことにする。 というのも、当時の私は医学科 4 年生で、今ほど医学に通じておらず、臨床医学界の現状を知らぬままに、少しばかり的を外した記載をしているからである。

「貧血」の定義について、ハーバードの連中が書いた学生向けの参考書 Aster JC et al., Pathophysiology of Blood Disorders, 2nd Ed. (McGrawHill; 2017). は

Anemia is defined as a significant deficit in the mass of circulating red blood cells. ... The presence of anemia is documented by measuring either the concentration of hemoglobin in the blood or the hematocrit, which is the ratio of the volume of red cells to the total volume of a blood sample. ... Occasionally, tests for anemia are confounded by a concurrent alteration in the plasma volume.

貧血とは、循環赤血球量が有意に減少することをいう。 貧血の存在は、血液中のヘモグロビン濃度や、ヘマトクリット、つまり全血に対する赤血球の体積割合を測定することによって確認できる。 時に、赤血球量と共に血漿量も変化することがあり、貧血の検査結果の解釈が難しくなることもある。

と述べている。 この記載が全てであり、その点については 4 年前の私の記載とも一致している。 しかし、この定義を巡る臨床医の理解については、かつての私の認識は不充分であった。

他の教科書が「貧血」をどのように述べているか、紹介しよう。 血液学の名著 Kaushansky K et al., Williams Hematology, 9th Ed. (McGraw Hill; 2016). は次のように述べている。

Anemias are characterized by a decrease ... of the red cell mass. In most clinical situations, changes in red cell mass are inferred from the hemoglobin concentration or hematocrit.

貧血は、赤血球量の減少によって特徴づけられる。多くの臨床場面においては、赤血球量の変化は、ヘモグロビン濃度やヘマトクリットの変化として表われる。

ここでは `characterized' という曖昧な表現が用いられ、定義を明確に述べている箇所がみあたらない。 これは内科学の名著 Kasper DL et al., Harrison's Principles of Internal Medicine, 19th Ed. (McGraw Hill; 2015). も同様であって、

Impaired O2 delivery to the kidney can result from a decreased red cell mass (anemia)

との記載はみられるが、定義を明確には述べていないようである。 どうやら定義を軽んじる風潮は、日本だけでなく、米国の臨床医の間にも蔓延しているのではないかと疑われる。

それでも、ここまでは「濃度 concentration」ではなく「量 mass」を定義としているようだから、表現は気に入らないが、記載内容自体はよろしい。 問題は、次である。

英国オックスフォードの集中治療学の教科書 Webb A et al., Oxford Textbook of Critical Care, 2nd Ed. (Oxford; 2016). は `Anaemia is a haemoglobin concentration (Hb) below expected population values...' と述べている。なお、e ではなく ae として anaemia, haemoglobin と表記するのが英国式である。 Oxford は、さらに `The World Health Organization (WHO) defined anaemia as a haemoglobin < 130 g/dL (haematocrit < 39 %)...' と述べている。もちろん、この 130 g/dL というのは 130 g/L の誤りであろう。 つまり Oxford は、WHO による「定義」に従って教科書を記載しているわけである。

このあたりの事情は日本の朝倉書店『内科学』第 11 版でも Oxford に近い。 「貧血は末梢血の赤血球成分が減少した状態を指し, ヘモグロビン濃度の低下で定義される.」 「WHO 基準では成人男性で 13.0 g/dL 以下, 成人女性では 12.0 g/dL 以下とされ, この基準が広く用いられている」と記載されている。

問題は、この「WHO 基準」である。 朝倉『内科学』では、WHO の Worldwide prevalence on anemia 1993-2005 を文献として挙げているが、私が読む限り、この文書では貧血の定義には言及していない。 WHO は、統計を取るための客観的基準としてヘモグロビン濃度に閾値を設けてはいるが、これを「貧血の定義」とは述べていないのである。 WHO の識者達は、上で紹介した Williams やハーバードの連中が述べているようなことはよく承知しているために、慎重に「定義」と「基準」を分けて考えているものと思われる。 これは、あくまで統計のための分類基準に過ぎず、定義ではなく、臨床的な診断基準でもない。 しかるに、オックスフォードや朝倉『内科学』の著者らは、定義と基準とを混同し、不適切な記載をしているのである。

疾患概念と分類基準とは、明確に分けて理解しなければならない。


2017/10/15 Statistical Adjustment

これを、どう訳せば良いのかは、知らぬ。 いわゆる statistical adjustment についてである。 いわゆる多変量解析と概ね同義である。 これは「様々な交絡因子が存在するデータから、目的とする成分だけを取り出す手法」などと解釈されることが多い。 一般向けの報道などでは「性別や年齢などの影響を除外して解析したところ」などと表現されることが多いように思う。 具体的には、cox の比例ハザード解析や、ロジスティック回帰分析などの手法が用いられることが多い。

統計を知っている人々は、この比例ハザードモデルやロジスティック回帰法が、現実には信用できない、ということを理解しているはずである。 これは、数学的に便利な仮定を用いることで、それぞれの交絡因子の影響を除外する手法である。 しかし通常、この仮定を満足しているかどうか、という点については特に議論せずに解析が行われる。 というより、現実には、この仮定を満足していることは、まず、ない。 現実には満足されていない仮定を用いて、形式的にロジスティック回帰分析を行ったところで、本当に意味のある結果が得られるはずはない。 それなのに、昨今の臨床医療論文においては、意味のない多変量解析に基づいて、さも重要な発見をしたかのような主張が頻回になされているのである。

現代の臨床医療論文は、大抵、結論ありきで書かれる。 「こういう関係があるはずだ」という結論が最初にあって、それを「証明」するためにデータを集め、 そして最初から決められていた「結論」を導出できるように「解析」するのである。 うまくパラメーターを調節し、不都合なデータは「エラー」とみなして削除し、予定した結論が出たら論文にするのである。 この試行錯誤の仮定を、彼らは「解析」と呼んでいる。 「良い結果が出たので報告する」という言葉には、そういう意味が込められているのである。 もちろん、これは良く言えば「不適切な多重検定」であり、悪く言えば「捏造」である。

現在の医学科教育は、基本的には職業訓練であって、ほとんど医学を教えていない。 「これは、こうだ」と教えられたことを覚えるばかりで「これは、なぜなのか」と考える教育は、ほとんど受けていない。 つまり臨床医の多くは、形式的には学士様であっても、実際には大学相当の教育は受けていないので、上述のような欺瞞にも気づかない者が多い。 仮に統計学に疎くても、それなりに科学を修めたことがあれば、ロジスティック回帰分析の胡散くささには気づくはずなのに、 そういう素養がないから、統計学で何ができて何ができないかを認識できないのである。 交絡因子を「正しく」解きほぐすことなど、現代の統計学では不可能なのに、まるで、それができるかのように勘違いしているのである。 なんとなく「皆がやっているから、それで良いのだ」という、非科学的で無責任な態度で「論文」を書いているのである。

学生や研修医の場合、指導者に命じられるままに、自分が何をやっているかもわからず、不正な研究報告を書いている例もあるだろう。 もちろん、これは第一には指導者が悪いのだが、それを不正であると認識できない不勉強な学生や研修医の側にも、責任はある。


2017/10/14 「二重盲検」の罠

過日、地域医療研修の一環として、県内某所の診療所を訪ねた。 そこでたまたま、熟練医師が若手医師に対し、一対一で臨床的な論文の読み方を教える場に同席することができた。 指導医は臨床医学に長じた人物であったが、若手医師の側は未だ経験が浅いらしく、初歩的な内容を詳しく教えていた。 その時に思ったが、口にするタイミングを逃してしまったことを、ここに書き留めておこう。

この時の題材は N. Engl. J. Med. 358, 1887-1898 (2008). であった。 これは、80 歳以上の高齢者を対象に、高血圧症に対する治療介入が予後を改善するかどうかを占った臨床試験の報告である。 `Methods' には、これは randomized, double-blind, placebo-controlled trial であると記載されている。 つまり、プラセボ対照ランダム化二重盲検試験、とのことである。 80 歳以上で収縮期血圧 160 mmHg 以上の患者集団に対し、indapamide またはプラセボを投与し、脳卒中などの頻度が下がるかどうかをみたのである。

言うまでもなく、「二重盲検」というのは、患者にも医者にも、 それが本当の indapamide なのか、それとも薬効のないプラセボなのか、わからないようにして薬を投与した、という意味である。 盲検化する意義は、もちろん、プラセボ効果の影響を除外するためである。 つまり患者が indapamide であると知って薬を飲めば狭義のプラセボ効果を引き起こし、 実際の薬の効果とは無関係に予後を改善する可能性がある。 また、それが indapamide であることを医者が知っていると、治療効果判定の際に、意識的であるか無意識であるかはともかく、不公平な判断を下す恐れがある。 いわゆる観測者バイアスである。 これらの効果が indapamide 群とプラセボ群に等しく生じるようにする、というのが盲検化の目的である。

そんなことは、知っているよ、と、読者の多くは思うであろう。 しかし、違う。諸君の多くは、この「盲検化」の意味を正しく認識していない。 本当の二重盲検であれば、患者も医者も、どうやっても、それが indapamide なのかプラセボなのかを判定できないようになっていなければならない。 この観点からすると、脳卒中などの頻度を判断基準とした臨床試験においては、 一方の群に indapamide を、もう一方の群にはプラセボを、というだけでは、盲検化したことにならない。 なぜならば、indapamide が血圧を下げることは確かなのだから、患者の血圧を測定することで、その投与されている薬が 本当の indapamide なのかプラセボなのかは、容易に判定できてしまうからである。 すなわち、この臨床試験は `double-blind' と称しているが、実際には非盲検である。 本当に盲検化したければ血圧測定を禁止しなければならないが、これはあまり現実的ではない。

他にやりようがないのだから、仕方ないではないか、と言う人は、科学者として、医学者として、失格である。 医師としても、公正で冷静な判断力を欠いており資質に乏しいと言わざるを得ない。

「他にやりようがないから、非盲検試験で判断する」というのなら、構わない。 そもそも「治療介入することが、患者の予後を改善するかどうか」を調べたいのだから、プラセボ効果込みで判断しても、臨床的には問題ないからである。 しかし「他にやりようがないから、本当は非盲検だが、盲検ということにする」というのは、単なる不正行為であり、捏造である。

一部の人々は、この週刊 The New England Journal of Medicine を「トップジャーナル」などと言うが、まぁ、掲載されている論文の質は、この程度なのである。 本当に真剣に誠実に高い水準で科学を論じているとは、到底、いえない。


2017/10/13 努力について

私は、麻布中学・高等学校を卒業し、京都大学に進み、大学院を中退して名古屋大学医学部に編入した。 まぁ、学校名だけをみれば、いずれも名門である。 大学院中退・医学転向という時点で、学問の世界でいえばドロップアウト組なのだが、それでも世間の平均からすれば、いわゆるエリートコースである。 なので、社交辞令として、優秀なのですね、とか、努力したのですね、などと言われることは多い。

社交辞令に対してどうこう言うのも無粋ではあるが、この「努力」という表現が、非常に気になる。 まず根本的な問題として、私は何も努力していない。 世の中の多くの人は学問が嫌いであるらしいから、勉強というのは「がんばって、やる」ものだと思っている。 だから「たくさん勉強しました」という人に対して「努力したのですね」という言葉が、自然に出てくる。

しかし私は、何も、がんばって、歯をくいしばって勉強してきたわけではない。 面白かったから、やりたかったから、やっただけである。 実際、古文は好きになれなかったから、あまり勉強せず、試験の成績は悲惨なものであった。 好きでないことは、やらなかったのである。 これを「努力」などと称するのは誤りであろう。 このあたりの事情は、プロのスポーツ選手も同様であろうと思う。

そして何より、周囲に恵まれた幸運が大きい。 私は、たまたま富裕な両親の下に生まれたから、大学院を中退してからも、全面的に学費と生活費を親に依存して医学を修めることができた。 借金もアルバイトもせずに、教科書類をふんだんに買い揃えることができた。 どう考えても、これは私自身の能力や努力によるものではない。

努力ではないのである。 サッカーというスポーツは、そもそも面白いから、だから子供達が熱中し、やがてプロになり、本田や香川になるのである。 同様に科学というものは、そもそも面白いから、子供も大人も熱中し、そして技術が進歩するのである。 親や教師は、子供にがんばって勉強することを教えるのではなく、学問の面白さを伝えなければならない。

名古屋大学時代にせよ、北陸医大 (仮) に来てからにせよ、「私は、医学が好きである」と宣言する人に、ほとんど出会わない。 これは、ゆゆしきことである。


2017/10/12 刺青と医師免許

過日、大阪地方裁判所で、医師免許を持たずに刺青を施した、いわゆる彫り師に医師法違反の有罪判決が出された。 朝日新聞その他の報道をみる限り、これは妥当な判決である。

この訴訟における争点の第一は、刺青が医師法でいう「医業」にあたるかどうか、という点である。 判決は、医業とは「医師が行わなければ保健衛生上の危害を生ずるおそれがある行為」であるとしており、これまでの法医学の常識と合致している。 これに対し、原告側を擁護する某大学教授は 「(今回の判決のおかしい点は) けがや病気をさせる恐れがある行為は医師免許を取ってなければならないという点です。しかし、そのような行為は世の中にいくらでもある。 理容店はどうでしょうか。料理はどうですか。スポーツは。SM クラブはどうでしょうか。」と言ったらしいが、話にならない。 判決は「『医師が行わなければ』危害を生ずるおそれがある」と言っているのであって、料理やスポーツは、医師が行っても危険なのだから、関係ない。 刺青は、故意に体を傷つける行為なのだから、料理やスポーツとは異なるのである。 ただし SM クラブは際どく、これは、内容によっては傷害罪や暴行罪にあたる恐れがある。ボクシングも、まぁ、際どい。

また、原告は職業選択の自由だとか表現の自由だとを主張したようだが、これも話にならないので、ここでは省略する。

現在の日本の法律では、医療行為である場合を除き、たとえ当人の同意があったとしても、他人の体を故意に傷つける行為は認められていない。 それを「今までやっていたのだから、合法のはずだ」と主張するのは、無理である。 むしろ今まで、医師の診察も監督もなしに施術してきたことが問題なのである。 認められたいなら、裁判をどうこうするのではなく、法制化を訴えなければならない。 医師が直接刺青を行うのは非現実的であるが、医師の処方と監督の下で施術する、というのが合理的な線であろう。 要するに、医師の指示に従って看護師か患者の血管を刺したり、診療放射線技師が患者に放射線を当てたりするのと同じ考えである。

むしろ今回の判決で問題なのは、「では医師免許があれば、刺青を施しても良いのか」という点である。 法医学的には、医行為が合法であるためには 1) 治療を目的とすること; 2) 医学的に妥当であること; 3) 患者の同意があること、の 3 要件が必要とされる。 刺青は、今回の原告側が主張するように、そもそも治療を目的としていない。 その意味では、たとえ医師が行っても、医師法上は問題ないが傷害罪にあたる恐れがある。 この点は美容形成と同じである。

これは刑法第 35 条の「正当な業務による行為は罰しない」という規定との兼ね合いである。 医師が美容外科手術を行ったり、刺青を入れたりする行為が「正当な業務」と言えるかどうか、という点である。

それが仕事だから、というだけの理由では「正当な業務」とはいえない。 たとえば、ある種の団体に属する者が、合意の上で他人の指を切断する行為は合法かどうか、という問題である。 そうした団体における風習として、ある種の状況下では指を切断することは「業務」なのかもしれないが、まぁ、社会通念上、それを「正当な業務」とはいえない。 合法か違法かでいえば、違法とみるべきである。

今回の訴訟において原告側が整然とした法理を述べられなかったことに示されているように、医師の監督下で行われない刺青は、法制度上は、違法と言わざるを得ない。 そして医師の監督下で行ったとしても、それは違法性を棄却するための 3 要件を満足しておらず、日本においては違法とみるべきだと私は思う。 やりたければ、国外でやるべきである。 そこまでは、日本の法律は禁止していない。


2017/10/11 中秋の名月

今年の 10 月 4 日は、旧暦 8 月 15 日にあたり、いわゆる中秋の名月であった。 中秋の名月は旧暦 8 月 15 日というのが定義であるが、細かいことをいえば、これは必ずしも満月ではない。 実際、10 月 4 日の 17 時 50 分頃に私が空をみた時、月は左が僅かに欠けており、月齢 14 程度であるようにみえた。 しかも、既に月は 20 度の高度にまで昇っていた。 望月であれば、明石との経度差を考えても月の出は 17 時 50 分頃であって、そのような高さにあるはずがない。 このあたりの事情については 国立天文台のウェブサイトが詳しい。

巷には、満月の日には出産が多い、という伝説がある。 過日、ある助産師と話す機会があったが、その人も、先の名月の日には出産が多かったと言っていた。 まぁ、伝説は伝説であって、キチンと統計をとれば、そういう偏りは存在しないであろう。 たまたま出産の多かった満月の日は印象に残り、話題にもなるが、そうでなかった満月の日は印象に残らないので、そういう偏りがあるかのように思われるに過ぎまい。 そもそも、上述の名月と望月の違いからもわかるように、世間の人が「満月」と認める日は、だいたい月に 3-5 日程度あり、かなり幅が広いのである。 上述の助産師も、頭のキレる人であるから、本気で満月と出産の相関を信じているわけではなかろう。 単にロマンチックな伝説として酒の肴としているに過ぎない。

しかし恐ろしいのは、昨今の日本における科学教育水準の低さである。 インターネット上で「満月 出産」などのキーワードで検索すると、恐るべき解説を述べたウェブサイトが多数、みつかる。 羊水がどうとか、惑星の引力がどうとか、意味のわからないことを書きつつ、そういう神秘的な何かの実在を客観的根拠なしに信じている連中が、どうやら存在するらしい。

私は何も、科学が万能だというつもりはないし、神の存在や神秘的な力の存在を否定するつもりもない。 しかし、客観的な観察事実に基づくことなく、後づけで理由を捏造して神の威光を主張するのは、合理的でなく、むしろ神を冒涜する所業である。 そもそも科学というのは、物事を考え論じる方法の学問であって、神の存在を否定するものではない。 キチンと実証されるならば、奇跡も科学の範疇に収まるのである。 一方、何の根拠もなしに決めつけ、都合の良い「事実」だけを取り出して「根拠」と主張するのは科学ではない。 その代表が、いわゆる血液型占いであるが、書くのも馬鹿らしいので、ここでは言及しない。


2017/10/10 Brugada 症候群 (3)

Brugada 症候群については、初回の記事で定義の曖昧さを指摘した。 第二回では心電図所見についての再分極説を紹介し、その論理が不適切であることを述べた。 今回は脱分極障害説を紹介しよう。

この脱分極障害説を最初に唱えたのが誰であるかは知らぬが、2005 年の P. G. Meregalli によるレビューで紹介されている (Cardiovascular Res. 67, 367-378 (2005).)。 これは、何らかの事情により右室流出路の興奮が遅延する、と考えることで Brugada 症候群の心電図を説明しようとするものである。 この領域で興奮が遅延すれば、QRS 群の後半から ST セグメント初期にかけて、心筋梗塞における傷害電流と類似の波形が V2 を中心に生じる。 Brugada 症候群における右脚ブロック様変化や ST 上昇は、これに似ている、と考えれば、これは自然な発想である。

この脱分極障害は、右脚ブロックに比して、興奮の遅延の程度が著しいことを特徴とする。 すなわち、右脚ブロックの場合、完全ブロックであっても、固有心筋を伝わる伝導のために、QRS 群の開始から 140 ms 150 ms のうちには心室全体が興奮する。 従って、心電図上は QRS 幅の延長は認められても、ST セグメントは正常なのである。 しかし Brugada 症候群における脱分極障害においては、最も著明な場合には、右室流出路は最後までキチンと興奮しない。 そのため、ST セグメントを通して傷害電流様の異常電流を生じ続け、心電図上は ST 上昇として観察されるのである。

この脱分極障害説では、心電図所見を矛盾なく説明できる。 また、この興奮障害はリエントリー性不整脈の原因になると考えるのは自然であるから、Brugada 症候群で時に致死的不整脈が生じることをも説明できる。 ただし、なぜ、右室流出路に限局して興奮障害が起こるのか、という点は曖昧であった。

この点に一つの回答を与えたのが M. V. Elizari らである (Heart Rhythm 4, 359-365 (2007).)。 Elizari らは、右室流出路には神経堤由来細胞が存在しコネキシンの形成に関係していることを指摘し、これが Brugada 症候群と関係しているのではないかと述べた。

現時点において、脱分極障害説は理論的に最も整合性のある説明であるが、これが Brugada 症候群の機序であることを示す直接的な証拠は存在しない。 しかし、こうした脱分極の障害がなければ、あのような QRS 波形や ST 変化、さらには T 波の陰性化を、論理的整合性をもって説明することはできない。

臨床医の中には「理論的」という言葉を「現実とは異なる」というような意味で用いる者がいるが、それは科学的でない。 理論なき経験則は、疑われなければならない。 理論が観測事実と矛盾するなら、その理論が間違っているだけなのである。 適切な理論を組み立てることで未来を予言するのが科学者であって、それを医療において行うのが医学者であり、医師である。


2017/10/09 教科書を読むこと

教科書を読む、というのは、実は、なかなか容易ならざることである。 これまでアンチョコ本しか読んでこなかった若い医者が、いきなり心機一転して「さぁ、読むぞ」と思ったところで、到底、読めるものではない。

過日、学生と一緒に行っている勉強会で Robbins and Cotran Pathologic Basis of Disease, 9th Ed. の髄芽腫の項を読んだ時のことである。 同書には、次のような記述があった。

This malignant embryonal tumor occurs predominantly in children and exclusively in the cerebellum (by definition).

この悪性胚腫瘍は主に小児にみられ、定義上、小脳においてのみ生じる。

この `exclusively in the cerebellum by definition' という表現を、どう解釈するか。 そう定義されているのだ、そう決められているのだ、などと考えるようでは、医学を修めたことにならない。 そして遺憾なことに、医学を修めた医者は少ないのが現状である。

医学における定義というものは、我々が、我々の便宜のために作ったものに過ぎず、天与のものではなく、普遍的でもない。 それが正しいとは限らず、必要に応じて我々自身が改定していくべきものなのである。 私は名古屋大学時代、そういう教育を受けてきた。 正直にいえば、そういう教育が実施されているか否かという点において、我が北陸医大 (仮) は、現時点では、名古屋大学に及ばないように思われる。

もし、大脳の原発性腫瘍において、髄芽腫と酷似する組織像がみられ、また髄芽腫で典型的にみられるような遺伝子変異がみられたならば、 それを「髄芽腫」と呼んではいけないのだろうか。 これを「定義上、駄目である」と言うようでは、一流の医師とはいえない。 なぜ定義を小脳腫瘍に限定したのか、という理由を考慮していないからである。

これは次のように考えるべきであろう。 我々が髄芽腫と呼んでいるような腫瘍は、我々の知る限りにおいて、小脳以外には発生しない。 すなわち、この種の腫瘍には、小脳でしか生じないような何らかの事情、理屈が存在するはずである。 もし類似の腫瘍が大脳に生じたならば、普通の髄芽腫とは異なる細胞起源、異なる腫瘍化機序が存在するはずであって、それを普通の髄芽腫と同列に扱うべきではない。 注意深く観察すれば、そうした「小脳外髄芽腫様病変」には、普通の髄芽腫と決定的に異なる点が存在するはずなのである。 すなわち、それは髄芽腫とは異なる疾患である。

`Exclusively by definition' という表現には、これだけの意味、これだけの気持ちが込められているのである。 それを読み取ることを「教科書を読む」という。


2017/10/08 続・リハビリテーション

キチンとした病院であれば、高齢の肺炎患者であっても、全身を衰弱させることなく、キチンと自宅に退院させている。 リハビリテーションをキチンとやっていれば、たとえ入院しても、筋力の低下を最低限に留めることができるのである。 それを初めから諦めて、長期安静臥床させて車椅子生活を強いては、何のための入院だか、わからない。 患者は、病気を治すために入院しているのではなく、健康を回復するために入院しているのである。 病気は治ったが車椅子になりました、では、意味がわからない。 が、遺憾なことに、現在の日本においては「キチンとした病院」は少数派であるように思われる。

これほどリハビリテーションが軽視されている現状については、厚生労働省の責任が重い。 なにしろ、医師国家試験では、リハビリテーション医学の分野からほとんど出題されないのである。 結果、多くの学生はリハビリテーション医学を学ばなくなる。 せいぜい、「国試頻出」の、介護保険制度上の事項などをチラリとアンチョコ本で「勉強」する程度である。 それでいて「全身を診る」「全人的医療」などと言っているのだから、滑稽である。

もちろん根本的には、個々の医師や医科学生の資質の問題である。 そもそも、国家試験対策の勉強しかしない、という態度が、おかしいのである。 また自分が専門とする分野以外のことに対する極端な興味・関心の低さも問題である。 結局のところ、医学にも医療にも関心がない状態で医学科に入り、医師になっている現状がまずいのである。

さらにいえば、現在の保険診療制度の下では、こうしたリハビリテーションは、病院にとっては金にならない。 歩ける状態で退院させようが、車椅子に乗せて退院させようが、病院に入る金は基本的には一緒なのである。 「全国どこでも同じような医療が受けられる」というのを保険診療制度の利点として挙げる人がいるが、それは嘘である。 むしろ、医者が保険点数ばかり気にするようになって、診療の質は低下しているのではないか。 何より、そうした議論が臨床医の間ではほとんど起こっていないことが、日本の医療業界の問題である。 米国の週刊誌 the New England Journal of Medicine などをみると、医療制度改革を巡る臨床医同士の活発な議論が誌上で展開されている。 米国の医療制度は悲惨なものであるが、しかし彼らは、それを何とかしよう、という意志は持っているのである。

日本の臨床医、特に若い研修医などは、この点においても水準が著しく低い。 社会医学、公衆衛生学などに興味が全くないのである。 医療制度について何か意見を述べると「医系技官になると良いのではないか」などと言われることが稀ではない。 そういう制度を論じるのは官僚の仕事であって、臨床医の仕事ではない、と思っているのであろう。

諸君は、一体、何のために医師になったのか。金か。それとも社会からの賞賛か。


2017/10/07 リハビリテーション

Brugada 症候群の話の続きは、後で書く。

自分が関わった不適切な医療行為について告白するのは、勇気のいることである。 場合によっては損害賠償請求などされる恐れもあるが、事実は事実なのであって、それを隠蔽することは医療倫理の点から問題があるし、何より科学者としての良心に反する。

ある病院で私が関与した事例である。 80 代の女性が、ある全身性疾患のために某病院の内科に入院した。悪性腫瘍ではなく、生命予後は良好な疾患である。 入院後は、しかるべき薬剤を投与されて全身状態は徐々に改善し、2 週間ほどで病勢は落ち着いた。 問題は、その後である。 その女性は、入院してから寛解するまでの 2 週間、ベッド上で安静にしていた。 そして状態が落ち着いたこの時になってから、我々はリハビリテーションを開始したのである。

高齢者が 2 週間も安静臥床していれば、足腰は弱り、立つこともままならなくなるのは当然である。 では、そこからリハビリテーションを行えば再び体力と筋力が回復するかというと、高齢者の場合、そうはいかない。 もう、一生、立てないままである。

その女性は、入院するまでは元気に日常生活を送っており、畑仕事などもしていたそうである。 国道の向こうにみえる山々が綺麗でね、などと私によく話してくれた。 とにかく歩けるようにならないと始まらない、と、しきりに繰り返していた。 私は内心「あなたは、もう二度と独りでは歩けないのですよ」などと思っていたし、本人も薄々は、そのように感じていたであろうが、言葉にはしなかった。

結局、1 ヶ月半の入院を経て彼女は、立つこともできない状態のまま他院に転院していった。 その後のことは知らぬが、あの状態から歩けるほどに回復するとは、到底、思われない。

リハビリテーション医学を修めていない者であれば「しっかりリハビリすれば戻るかもしれない」などと言うかもしれぬ。 しかし、それは「切断した腕も、頑張れば再び生えてくるかもしれない」というのと同じくらい、稀なことである。 長期臥床で衰弱した高齢者は二度と回復しない、というのが現代医学の常識なのである。 だから、それを防ぐために、たとえ全身状態が悪かろうとも、入院初日からリハビリテーションを実施すべきなのである。

私は、一応はリハビリテーション医学も修めたから、そのくらいのことは知っていた。 しかしリハビリテーションを直ちに開始するよう、指導医に進言しなかった。 これは完全に私の過失なのであるが、私は、そういう全身状態不良の患者にリハビリテーションを実施することは技術的に不可能だと思っていたからである。 この年齢で、こうした全身疾患にかかってしまうと、長期臥床は免れ得ず、もはや歩けなくなることは必定である、と思い込んでいたのである。

それが間違いである、ということを知ったのは、今回の地域医療研修に行ってからである。 長くなってきたので、続きは次回にしよう。


2017/10/01 地域医療研修

明日から 17 日まで、地域医療研修として遠方の市中病院に行く。 その間、日記の更新は週末のみになるかもしれない。 少なくとも Brugada 症候群の話の続きは、書けない。


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