2017/03/30 膠原病と間質性肺炎

膠原病と呼ばれる疾患群は、本態不明であるが、たぶん、何らかの自己免疫的な機序と血管病変が関係して、全身の様々な臓器に炎症性障害を来すものである。 曖昧なボンヤリした表現で恐縮であるが、現代医学においては、その程度しか理解されていないのだから、仕方ない。 また、理由はわからないが、膠原病の部分病変として、しばしば間質性肺炎が生じる。 特に、現在のところ非特異性間質性肺炎と分類される病変は、実は全例が自己免疫性肺炎ないし膠原病の肺病変なのではないか、とする意見すらある (Respiratory Medicine 99, 234-240 (2005).)。

以前、某所で、関節リウマチ性間質性肺炎と診断された症例についての報告をみたことがある。 慢性的な肺病変を指摘されていた 60 歳台の男性患者が、肩などの関節痛を主訴に受診した病院で、関節リウマチと診断された。 血清学的にも、リウマトイド因子強陽性、抗 CCP 抗体強陽性、抗核抗体陰性など、関節リウマチとして矛盾しない所見であった。 その後、多数の関節の腫脹や圧痛が生じたが、X 線画像上は、明らかな関節の変形はみられなかった。 その一方で、CT 上で通常型間質性肺炎 (Usual Interstitial Pneumoniae) 様の所見を呈する肺病変は急速に増悪し、呼吸不全で死亡したのである。

膠原病は、間質性肺炎が初発病変であることも稀ではなく、その場合、いわゆる特発性間質性肺炎との鑑別が困難になることは有名である。 従って、上述の経過は、関節リウマチ性間質性肺炎として明らかな矛盾はない。 米国リウマチ学会が唱えている関節リウマチの分類基準にも合致する症例であった。

しかし、それでも、これを関節リウマチと診断するのは正しくないように思われる。 「関節リウマチ」を一つの疾患単位とみるならば、それは、あくまで関節を病変の主座とする膠原病の一型、でなければならない。 上述の症例は、関節病変は比較的軽度であり、むしろ肺病変が急速に進行したのだから、いわゆる関節リウマチと同一疾患とみるのが適切であるとは思われない。 血清学的所見から推測すれば、関節リウマチと類似の細胞学的異常から発した病変には違いあるまいが、あくまで肺を主座とする病変に軽度の関節病変が伴ったものであり、 「関節リウマチ様急速進行性間質性肺炎」とでも呼ぶのが適切であろう。

この未知の病態を一つの疾患概念として確立するためには、病理解剖において、この病変の特徴、特に関節リウマチとの異同について明らかにしなければならない。 おおよそ、次の三点が重要であると考えられる。 1) 全身の炎症反応の程度に比して、関節病変、具体的には滑膜病変の乏しいこと; 2) 肺病変については関節リウマチ性間質性肺炎との間に差異がないこと; 3) 炎症が肺を主座として生じる細胞学的、あるいは組織学的な背景を詳らかにすること。

現在は「関節リウマチ」として一括りにされている疾患群を、本質的に異なる二群に分類しなおすことで、 新たな治療戦略、あるいは早期発見・発症予防の戦略の確立につながることが期待される。 というより、そうした疾患の本態を理解することなしに、適切な治療など、不可能である。

臨床医でもなく、基礎病理学者でもなく、臨床病理学者が存在することの最大の意義が、そこにある。


2017/03/29 BLNAR とアンピシリン

昨日の話題の続きである。 β-lactamase non-producing ampicillin resistant (BLNAR) Haemophilus influenzae による肺炎に対しアンピシリンを治療薬として選択することは、実は、それほど不合理ではない。

そもそも、細菌の「抗菌薬耐性」という言葉の意味は、曖昧である。 臨床的には、「耐性」の指標として、最小発育阻止濃度 (Minimum Inhibitory Concentration; MIC) などが用いられる。 ある抗菌薬の、ある細菌株に対する MIC とは、その抗菌薬の濃度がどれだけ以上であれば、その株が発育しなくなるか、という濃度のことである。 つまり、MIC が大きいということは、その抗菌薬が多量に存在しなければ、その株の発育を阻止できない、ということであって、これを「耐性がある」と言う。 具体的に、どれだけの MIC であれば「耐性株」と呼ぶのかについて、一般的な指標は存在しない。 すなわち、「耐性」の定義は、はなはだ主観的なのであるが、細菌学に詳しくない医師の中には、このあたりを理解していない者が少なくないように思われる。

BLNAR H. influenzae のアンピシリン耐性の場合、MIC が 4 μg/mL 以上であるものを耐性と呼ぶことが多いようである。 ただし、BLNAR と一口にいっても株によってゲノムやプラスミドは多様であるから MIC は一定ではなく、 中には MIC が 2 μg/mL 程度の「軽度耐性」とでも呼ぶべきものもあるらしい。 「高度耐性」の BLNAR に対するアンピシリンの MIC がどの程度であるのかは、よくわからないのだが、たぶん、高々 8 μg/mL ないし 16 μg/mL ではないかと思われる。 この仮定に基づけば、たとえ BLNAR といえども、20 μg/mL とか 40 μg/mL とかいった高濃度のアンピシリンに曝されれば、死滅するのである。

さて、アンピシリンは、肺組織への移行性が非常に優秀であるらしい。 肺切除手術を受ける患者の協力を得て行われた検討 (Infection 18, 307-309 (1990).) によれば、 常用量、つまり 2 g のアンピシリンを投与された患者において、肺組織中の濃度は 1.5 時間ほどかけて血清中濃度と同程度にまで上昇し、 2-4 時間経った時点で血中濃度より高く 27 mg/kg 程度であったという。 ただし、この報告では血清中濃度と肺組織中濃度の比の測定結果は記載されておらず、また個人差も大きいため、誤差が大きいことには留意が必要である。 従って、あまり具体的な数値は議論できないが、概ね血中濃度と肺組織中濃度は等しいと近似してよかろう。

アンピシリンの血中濃度半減期は、短い。患者の全身状態などによって変動はあるものの、分布相の血清中濃度半減期は 5 分程度、 消失相の血清中濃度半減期は 55 分程度のようである (Chemotherapy 36, 149-159 (1988).)。 その結果、1 回 2 g のアンピシリンを経静脈投与すると、直後の血清中濃度は 100 μg/mL を超えているが、2 時間後には 10 μg/mL 程度、4 時間後には 2 μg/mL 程度になる。 薬物の血中濃度の経時的変化には個人差も大きいが、たとえ MIC 8 μg/mL の BLNAR であったとしても、投与後の 2 時間程度は MIC 以上の血清中濃度が保たれることになる。

ところで、アンピシリンを含めペニシリン系抗菌薬は、細菌のペニシリン結合蛋白質、すなわちトランスペプチダーゼと共有結合することで、非可逆的に、この酵素を阻害する。 従って、アンピシリン投与後の 2 時間は BLNAR の細胞壁合成は阻害され、殺菌作用が発揮されるのである。 この薬を一日に 4 回投与するとすれば、一日のうち 8 時間以上は MIC 以上の血中濃度が保たれることになるのだから、それなりの効果を発揮すると期待できる。

もちろん、予め BLNAR とわかっていれば、敢えてアンピシリンを使う理由はない。 しかし、既にアンピシリンの投与を開始した後で BLNAR と判明した場合、かつ、H. influenzae が原因菌であるという確証はないような場合であれば、 そのままアンピシリンで押しきるという戦略は、不適切とまではいえないのである。


2017/03/28 BLNAR インフルエンザ菌

俗にインフルエンザ菌と呼ばれる細菌は、インフルエンザとは何の関係もない。 歴史的な混乱により、そのように命名されたに過ぎぬ。 学名は Haemophilus influenzae という。

Gilbert DN et al., The Sanford Guide to Antimicrobial Therapy, 47e (2017). によれば、 H. influenzae は、ペニシリン G には耐性であるが、同じペニシリン系抗菌薬のアンピシリンには、株によっては感受性がある。 具体的には、吉田眞一他編『戸田新細菌学』改訂 34 版によれば、一部の株はペニシリナーゼ、つまりアンピシリンを含めペニシリン系抗菌薬を分解する酵素を産生するのである。 しかし、ペニシリン系と同じ βラクタム系抗菌薬であっても、セフェム系はペニシリナーゼによって分解されないから、 古典的な H. influenzae は、セフェムに感受性である。

しかし近年、特に日本においては、ペニシリン結合蛋白質の変異によるアンピシリン耐性株が広まっており、 BLNAR (β-Lactamase Non-producing Ampicillin Resistant) と呼ばれる。 この BLNAR も、典型的にはセフトリアキソンなどには感受性である。

さて、本日の話題は、BLNAR による肺炎に対し、アンピシリン、またはスルバクタム / アンピシリン合剤を治療薬として選択することの是非である。 単純に考えれば、BLNAR はアンピシリン耐性なのだから、アンピシリンは無効と思われるので、これを治療薬として用いるのは不適切であるように思われる。 しかし現実には、BLNAR に対してスルバクタム / アンピシリン合剤は有効とする意見があり (成相昭吉, 小児感染免疫, 18, 359-363 (2006).) 私自身も、BLNAR による肺炎に対してスルバクタム / アンピシリンが奏効したと考えられる症例をみたことがある。

思慮の浅い学生や研修医の中には「奏効することもある」という事実に満足する者もいるが、それは、いけない。 世の中の現象には、必ず原因がある。「そういうこともある」という説明に納得するのは、反科学的であり、医師としてふさわしくない。

まぁ、感染症学に造詣の深い人であれば、BLNAR に対してアンピシリンが奏効する理由について、すぐに想像がつくであろう。

詳細を記載しようと思ったのだが、今日は時間がとれないので、明日にしよう。


2017/03/27 出ていけ

我々は、もうすぐ、医師生活二年目に突入する。 初期研修修了後の進路についても、徐々に固まってきた者が多いようである。 もちろん私は、名古屋大学に入る前から「病理」と決めており、五年生の前半に一時的に迷ったものの、その後は微塵も揺らいでいない。

北陸医大 (仮) には、県内出身者で、ずっと県内で生きてきた者も少なくない。 そして、今後も県内で生きていこうとしている者も、稀ではない。 地元愛が強いのは悪いことではないが、私は、そういう人に対して「一度、外に出てはどうかね」と勧めることにしている。 県外に出て、いずれ専門医資格を取得した後ぐらいに、なお地元に対する愛があるならば、戻ってくれば良いのである。

私は何も、我が県の環境が悪いから出ていけ、と言っているわけではない。 一般論として、一箇所にずっと留まり続けることが悪い、と言っているのである。 東京出身者が東京に留まり続けることも、名古屋出身者が東海地方で一生を費すことも、等しく、悪い。

具体的に何がどう悪いのかを説明することは、できない。漠然と「視野が狭まる」としか、言えない。 白状しておくと、この「一箇所に留まるな」というのは私のオリジナルではなく、京都大学一年生の頃に、 誰であったかは覚えていないが「物理工学総論」という科目で出会った、ある教員からの受け売りである。 彼は我々に対し、いかなる場所であれ十年以上は留まるな、と教えた。 それに盲目的に従ったわけではないが、私は京都大学は 9 年、名古屋大学は 4 年で離れたし、北陸医大も 8 年ぐらいで一旦、去ろうと思っている。

生まれ育った土地に留まることは、安楽であろう。 残ることを正当化する理由も、探そうと思えば、いくらでもみつかるであろう。 医師免許の壁に守られていれば、一生を安寧のうちに送ることも、たぶん可能である。 もちろん、今後に予想されるコンピューター技術の進歩は、病理診断医や放射線診断医に暗黒時代をもたらし、嵐を耐え忍ぶことを強いるであろう。 しかし手技を身につけた内科医や外科医であれば、現在のような社会的・経済的な恩恵は剥奪されるべきであるとしても、 少なくとも技師に準ずる立場として生き残ることはできよう。 北陸でひっそりと一生を送るだけなら、諸君にとっては、何の苦難もない。

しかし、それで良いのか。満足なのか。 諸君の野心は、その程度であるか。

今後の北陸医大を支える側の立場から申し上げれば、もちろん、諸君が我が大学の「医局」に残ってくれると、実に助かる。 しかし、自大学出身者の「残留」に頼るような大学に、未来はない。 我が北陸医大は、開学以来四十余年の歴史において、全国から人材を集められる魅力的な大学を築かんと尽力してきた。 ただ地域を支える医師を育成するためだけの矮小な地方大学とは、志が違う。 そういう大学を創りたい、と希うならば、ぜひ、残られるが良い。


2017/03/26 社会常識

献血者検診の際に血液センターのスタッフである看護師から聞いた話だが、以前、献血者検診に「穴あきジーンズ」をはいて来た医者がいたらしい。 北陸医大の研修医かどうかは知らぬ。 まぁ、そういう医者がいたとしても、私は驚かない。医者という人種の非常識さを、よく理解しているからである。 たとえば研修医室において待機中に昼寝をしている研修医は、稀ではない。 それ自体もどうかと思うが、病棟の看護師から電話が着信した際に、眠そうな、不機嫌そうな声で対応し、電話を切った後に舌打ちしながら電子カルテの端末に向かう者がいる。 たぶん、電話の向こうの看護師にはバレていないと思っているのだろうが、実際にはバレバレである。 病棟では半ば公然と「あの研修医、いつも不機嫌そうに対応するから、嫌いなんだよね」というような愚痴が飛び交っているものと推定される。


2017/03/25 献血者検診

北陸医大 (仮) の研修医は、1-2 ヶ月に一回程度、研修の一環として、献血者検診を行う。 以前は二年次研修医のみが行っていたが、諸般の事情により、今年の初め頃から一年次研修医も行くようになった。 過日、私は、3 回目の献血者検診を行った。

献血を行ったことのある人なら知っているだろうが、検診といっても、簡単な問診と血圧測定ぐらいしか行わない。 献血ルームなどであれば心電図検査を行うこともあるが、せいぜい、その程度である。 これらの情報から、献血することで増悪する恐れのある病気の恐れのある人や、あるいは血液製剤の安全が脅かされる恐れのあるような人について、 献血をお断りするのが我々の主たる任務である。 もちろん、採血中に体調を崩した人の救護にもあたるが、今のところ、私は、そういう場面にでくわしていない。

どういう人について献血をお断りするのか、という点については、日本赤十字社がおおまかな指針を示しているが、かなりの程度は検診医の裁量に委ねられている。 たとえば高血圧の場合、収縮期血圧 180 mmHg 以上や拡張期血圧 100 mmHg 以上の場合は、断わっても良いし、大丈夫そうだと判断すれば献血していただいても構わない。

前回までの経験で私が悩んだのは、血圧の左右差である。 たとえば、右腕で測った収縮期血圧が 160 mmHg 程度で、念のため、と左腕で測ったら 190 mmHg、もう一度右で測ったら、やはり 160 mmHg, という場合は、どうするか。 血圧の左右差は、鎖骨下動脈などの太い血管が狭窄している、などの病変が存在する可能性を示唆する。 まぁ、そこで 400 mL の採血を行ったからといって、ただちに重大な異変が生じることは稀だとは思うが、しかし、 高度の動脈硬化性病変がある人から大量採血するのは、怖い。 もし内頸動脈の狭窄なども合併していたら、たとえば一過性脳虚血発作や、てんかん発作などを来すかもしれぬ。 私は臨床医としてはヘッポコであり、「単独では最も役に立たない」と言われる病理医の卵である。 指導医もいない状況で、採血中に失神した患者に対する救急対応など、やりたくもないし、患者としても、やられたくないであろう。 なので、そういう懸念を拭いきれないという理由で、血圧に明らかな左右差のある人の献血は断る方針でやっている。

ただし、左右差を理由に断わるのは献血者検診では一般的ではないらしく、血液センターのスタッフからは、少し嫌な顔をされたこともある。 それでも、献血者の健康と安全を守るのが我々の任務なのだから、知らん顔をして断わるのは、適切な対応であると思う。

ところで、献血者検診を行っていると、実は献血者は問診に対して正確なことを答えていない、ということがわかる。 皆、あまりに健康なのである。過去一年に、何も怪我や病気をしていない人が多すぎる。花粉症や感冒の患者ぐらい、もっとたくさん、いるはずである。 また、何か薬を飲んでいる人も、もっと多いのではないかと思う。 「このくらいの薬なら、構わないだろ」と自己判断して申告しない例が、少なくないのではないか。 しかし医療の立場からすれば、漢方薬やサプリメントでさえ「薬」の範疇に入るし、薬局で買えるような薬でも実は献血に不適なことがあるので、正直に申告していただきたい。 さらに、病院で行った献血に際して、医療従事者なのに「職場に、肝炎になった人はいない」などと申告する人も多い。 病院なら、肝炎の患者ぐらい、いくらでもいるだろう。なのに、意識から抜け落ちているのか知らないが、そのような事実に反する申告をするのである。

なお、「HIV 検査目的の献血ですか?」という問いに対して「はい」と答えた正直者をみたこともある。 正直なのは結構であるし、HIV 検査を実施しているのも事実であるが、検査結果が陽性であっても、現状では供血者に対する通知は行っていない。 通知した方が良いのではないか、という意見もあり、今後は変更されるかもしれないが、現時点では、心当たりがあるなら献血ではなく保健所か病院に行くべきである。

2017.03.26 誤字修正

2017/03/23 多能性幹細胞を用いた再生医療 (3)

私は、多能性幹細胞を用いた再生医療が、嫌いである。理由は、3 つある。

第一には、至極個人的な理由であるが、信仰上の問題である。 私は、聖書は信仰していないが、本質的にはキリスト教徒である。 カトリックの連中は「生命の誕生は神の領分である」という理由で、避妊や体外受精、そして ES 細胞を利用する技術などを批判する一方、 iPS 細胞については歓迎する旨のコメントを発したことがある。 ヴァチカンは生命科学を理解していない、と言わざるを得ない。 iPS 細胞を用いれば、理論上、繊維芽細胞から受精卵を作ることが可能である。 これは、カトリックの忌み嫌う、人の手による生命の創生そのものである。 iPS 細胞というのは、本質的には、そうした生命の神秘を侵す技術なのであって、キリスト教的価値観からすれば、踏み込んではならない領域である。

第二には、流行だから、嫌いである。 iPS 細胞は、それ自体も何かの役に立つかもしれないが、単なる知的好奇心という観点からすれば、たいへん、面白い現象ではある。 しかし、それに群らがる「医学者」連中は、その学術的有用性に真に期待しているというよりも、 予算を獲得しやすい、論文を書きやすい、という理由で、研究しているのではないか。

科学者の誇りは、どこに行ったのか。 流行に乗って、それで大成した科学者は、歴史上、一人として存在しない。

第三の、そして唯一の客観的な理由は、疾患の本態に対する理解と、それに基づく理論的考察が欠如しているからである。 血液疾患に対する造血幹細胞移植などの一部の例外を除けば、多能性幹細胞を用いた「新しい治療法」の多くは、はなはだ稚拙な論理に基づいている。 これをもてはやすマスコミや、学生、若い医師なども、キチンとした医学的考察を怠っており、怠慢であると言わざるを得ない。 理論的根拠を欠く場当たり的な治療法が、本当に有効であることは、極めて稀である。 それ故に、過去の医学者達は単なる経験を信用せず、医学理論を確立することが重要であると説いたのである。

ほんとうに患者のことを考えている医者が、はたして、今の日本に、どれだけ存在するのか。 教科書に記載されているから、偉い人が勧めていたから、ガイドラインに書いてあるから、という理由で診療を行う医者は、真に患者のことを考えているとはいえない。 「私は非才であるから」と言い訳する者もいるが、医者でありながら不勉強であるという事実自体が罪である。 もちろん、本当に必死に勉強して、なお能力が至らなかったのであれば、本人の責任ではない。 しかし「不勉強」と言い訳する医者は、まず間違いなく、必死に勉強してはいない。


2017/03/22 多能性幹細胞を用いた再生医療 (2)

3 月 16 日号の The New England Journal of Medicine に、滲出性加齢黄斑変性に対する iPS 細胞由来の網膜色素上皮細胞シート移植療法についての症例報告が掲載された (N. Negl. J. Med. 376, 1038-1046 (2017).)。 加齢黄斑変性 (Age-Related Macular Degeneration; ARMD) とは、加齢に伴って、網膜黄斑部の網膜色素上皮細胞が変性し、それに伴って視力の低下を来す疾患である。 高齢者の失明の原因として、比較的、頻度が高い。

眼科学に詳しくない人のために、いささかの補足説明が必要であろう。 黄斑部というのは、網膜の、いわば中心部分であって、視野でいうと真ん中に対応する。 通常、測定される視力は、この黄斑部の性能で決まると考えて良い。 網膜には、教科書的には、10 層の構造があるとされている。 そのうち最外層にあたるのが網膜色素上皮細胞層である。 これは、内部にメラニン色素を蓄えた、一層に並ぶ細胞によって構成されている。 医学書院『標準組織学』第 5 版によれば、この網膜色素上皮細胞は、いくつかの機序により視細胞の働きを助けているようである。 なお、視細胞というのは、光に反応して神経シグナルを発する細胞である。

話は逸れるが、この『標準組織学』は、学生向けの医師国家試験対策書である「標準」シリーズの一部として刊行されているものの、内容はキチンとした教科書である。 原著者は、解剖学の分野で教育者として有名な藤田尚男と藤田恒夫である。 他の「標準」シリーズが冠している `Standard Textbook' という表記も付されておらず、英題は `Fujita, Fujita's Textbook of HIstology' となっている。 また、他の「標準」シリーズにみられる「試験に出やすいポイント」のような低俗な付録も掲載されていない。 医師が読んでも恥ずかしくない教科書といえる。

さて、Yanoff et al., Ocular Pathology, 7e (2015). によれば、 加齢黄斑変性は大きく 2 つに分類され、網膜に血管新生を伴うものを滲出性加齢黄斑変性と呼ぶ。 これは、原因はよくわからないのであるが、まず網膜の外側にある脈絡膜で変性が生じ、やがて網膜色素上皮細胞層の外側に血管新生を来す。 この血管からは、しばしば出血を来し、最終的には瘢痕化し、視力障害を来すらしい。 なお、この過程において、視細胞や網膜色素上皮細胞に著明な傷害は生じない。

以上のことから、新生血管や瘢痕組織を外科的に切除すれば失明を防ぐことができ、さらに視力の回復も期待できるのではないか、と考えるのは自然なことである。 実際、過去には、そういう治療が試みられた時期もあるのだが、現実には視力の回復はあまりみられなかった。 これについて、上述の報告では「手術の際に網膜色素上皮細胞や視細胞が傷つけられるためである」と説明しているが、 特に引用文献は付されておらず、そのように考える理由は、よくわからない。

とにかく、網膜色素上皮細胞の損傷が視力低下の原因である、という仮定に基づき、新生血管や瘢痕組織を手術で取り除いた上で、 iPS 細胞を用いて作成した網膜色素上皮細胞を移植する、という治療を、一人の患者に対して行ったのである。 ところが、結果として、視力の回復はみられなかった。その理由についての考察は、述べられていない。

そもそも、なぜ、加齢黄斑変性で視力障害、厳密にいえば空間分解能の低下が生じるのか。病態を正しく理解することなしに、適切な治療法を編み出すことは、できない。

網膜色素上皮の傷害が問題なのだ、という仮定が、既に間違っているのではないか。 外科的治療を行っても視力が回復しない原因は、血管新生や瘢痕化の過程で、網膜のシナプス網に非可逆的な変化が生じたためであると考えた方が自然であるように思われる。 iPS 細胞を用いた網膜色素上皮細胞の移植は、センセーショナルではあるが、理論的根拠は乏しい。


2017/03/21 多能性幹細胞を用いた再生医療 (1)

昨今の臨床医学研究における流行分野の一つに、再生医療がある。 再生医療とは、機能を有する細胞や組織が失われ、あるいは減少したことで生じた臓器障害に対し、 細胞や組織を補充し、あるいは再生させることで、臓器の機能を回復させる医療のことをいう。 この定義からわかるように、再生医療には、多能性幹細胞を利用することは必須ではない。 たとえば、末梢組織に生理的に存在する細胞を刺激して分裂させる、という方法でも良いし、あるいは単能性幹細胞を用いるという手法もあり得る。 むしろ、多能性幹細胞を用いることについて、キチンとした論理的根拠に基づく利点は存在しないように思われる。 しかし、いわゆる iPS 細胞は「再生医療につながる」という謳い文句で世間に認知されてしまった。 このために、一部の医学者が、おそらくは予算獲得などのためであろう、iPS 細胞を用いた「研究」に力を注ぎ、 結果として「再生医療といえば iPS」というような風潮が作られたように思われる。 その一方で、iPS 細胞を使わない再生医療の研究も細々とは行われているのだが、世間からは注目されていない。

こうした「多能性幹細胞信仰」とでもいうべき状況は、日本に限ったことではない。 というより、むしろ米国の方が甚しいようである。 3 月 16 日号の The New England Journal of Medicine の `Perspective' 欄に掲載された記事は、 米国において、幹細胞を用いた治療が、効果や安全性についての根拠もなしに少なからず行われている現状に対し、警鐘を鳴らしている (N. Engl. J. Med. 376, 1007-1009 (2017).)。 この記事では、こうした治療法が「統計的根拠を欠いている」という点を特に問題視しているが、病理学の立場から申し上げれば、 こうした治療法は、そもそも、理論的根拠を欠いていることが問題である。 記事の中では、次のように述べられている。

... the assertion that stem cells are intrinsically able to sense the environment into which they are introduced and address whatever functions require replacement or repair ... is not based on sientific evidence.

言葉を補いながら私が翻訳すると、次のようになる。

移植された幹細胞が、周囲の環境に応じて適切に分化し、結果として、その組織で必要な細胞が補充される、というのが幹細胞移植療法の根拠である。 しかし、そのような考えには、何らの科学的根拠も存在しない。

さて、同じ 3 月 16 日号には、眼科学領域における日本からの報告も掲載されている。 これについて書こうと思ったのだが、いささか長くなってきたので、次回にしよう。

2017.03.22 語句修正

2017/03/20 英語

二日ほど、間があいた。 今日は、何の役にも立たない話を書く。

現代日本において、科学をやろうと思うならば、英語は必須である。 キチンとした成書は英語で書かれているものが多いし、論文も、英語で書かれるのが基本だからである。 医学に関しては、なぜか和文での報告も少なくないが、それでも、本当に学術的意義がある論文は英文で書かれる。 すなわち、和文論文というものは、著者自身が「学術的意義が乏しい」と認めているのである。

私は、小学校 3, 4 年生の頃に、両親の計らいで英会話教室に通っていた。 それで英語が話せるようになったわけではないが、英語に対する親しみだけは身についた。 中学・高校の頃は、特に英語ができるわけでも、できないわけでもなかった。

私が英語を修得したのは、工学部時代である。 一つには、コンピューター、特に UNIX や Linux をいじって遊んでいたことが大きい。 こうしたコンピューターの技術文書は、基本的に英語で書かれている。 中には和訳されるものもあるが、最新情報は英語でしか提供されないのが普通である。 そうした文書を読みながら試行錯誤するうちに、英語を読む能力は身についたようである。

もう一つは、インターネット上のチャットである。 工学部時代、少々、いわゆるネトゲの international service に手を染めたことがある。当然、公用語は英語であり、多少の英語経験を積む効果があった。 あのような場では、独特のくだけた英語を使うのが普通であるが、私は、敢えて整った英語を書き続けた。 上述のコンピューターと、このチャットで、私は英語の読み書きを修得したといえる。

大学院時代にいた研究室では、留学生が少なくなかったため、英語が準公用語であった。 基本的な英語の聞く、話すは、ここで修得したことになる。 彼らはフランスやインドネシアなど、非英語圏からの留学生であり、中には母国の訛りが強い者も、そうではない「整った」英語を話す者もいた。 驚いたのはエジプト人であって、彼は、全くアラブ訛りのない、英国風の英語を話していた。

以上のことからわかるように、私の英語は、読み書き偏重であり、聞く、話すは苦手である。 とりわけ日常会話が弱い。 特に、私は聴解力が低いようであり、日本語会話でさえ聴き取りは苦手なのだから、英語となると壊滅的である。 大学院時代に一度だけ受けた TOEFL でも、Reading が 30 点満点中の 28 点であったのに対し、Listening は 10 点台であった。 ただし、学術的な話に限れば割と大丈夫であって、国際学会では、ほとんど苦労していない。


2017/03/17 虚血性大腸炎

虚血性腸炎、という診断名がある。英語でいう ischemic colitis の訳語なので、ほんとうは虚血性大腸炎とする方が正しい。 中途半端に勉強した学生や研修医の中には、これを「命には障らないような軽症の腸炎である」と思っている者が稀ではないであろう。 一方、米国産のマジメな教科書を開くと、ischemic colitis は軽い腸炎である、というような記述は、みあたらない。

Kumar V et al., Robbins and Cotran Pathologic Basis of Disease, 9e (2015). では「適切に治療しても、患者のうち 10 % は 30 日以内に死亡する」としている。 また、Podolsky DK et al., Yamada's Textbook of GAstroenterology, 6e (2016). も「致死率は 12.7 %」という統計を紹介している。 適切な治療をしても 1 割の症例は致死的である、となれば、かなり重篤な疾患である。 上述のような日本の学生や一部の研修医の間に広まっている認識との間に、なぜ、このような乖離があるのか。

そもそも「虚血性大腸炎」とは、いかなる疾患概念であるか。 病理診断学の聖典 Rosai J, Rosai and Ackerman's Surgical Pathology, 10e. (2011). では、この診断名について、明確な定義を与えていない。 暗に「虚血による腸炎」という意味合いで ischemic colitis という語を用いているようであり、動脈硬化症や糖尿病、あるいは血管炎などによって生じる、としている。

ところが臨床的には、必ずしもこの意味で ischemic colitis という診断名は用いられていない。 上述の Yamada では、急性腸管虚血を、主として小腸に生じる mesenteric ischemia と、大腸に生じる ischemic colitis に大別している。 朝倉書店『内科学』第 10 版でも、「腸管虚血 (mesenteric ischemia)」と「虚血性大腸炎 (ischemic colitis)」とは別疾患として扱われている。 さらに「腸管虚血」を「閉塞性」と「非閉塞性」に区分している点も、Yamada と朝倉とで共通している。 ただし「非閉塞性腸管虚血」と「虚血性大腸炎」の違いについては、明確な記載がない。 なお、この「朝倉内科学」の最新版は第 11 版であるが、現時点では分冊版のみが発売されており、私は来月発売される、一冊にまとまった机上版を購入予定なので、 ここでは前版を参照した。

さて、診断名としての ischemic colitis の名称を唱えたのは英国の A. Marston らであり、これを gangrenous, ischemic stricture, transient, の三型に分類した (Gut 7, 1-15 (1966).)。 朝倉では、このうち予後が比較的悪い gangrenous, つまり壊死型について「ほかの 2 型 (非壊疽型) と異なり不可逆的な腸梗塞をきたすので, 日常臨床では虚血性大腸炎 (狭義) の概念より除外するのが一般的である.」としている。

要するに、日本においては「虚血による腸炎のうち、重症化するものは虚血性大腸炎とは呼ばない」という習慣があるために、 「虚血性大腸炎は軽症である」ということになるのである。 しかし、いわゆる壊疽型と非壊疽型とは、病理学的に決定的な相違があるわけではなく、臨床的にも明確な区別がつかないのだから、これは無意味な区分である。 実際、いささか古い文献ではあるが、1993 年に多田らは「(いわゆる壊疽型を虚血性大腸炎に含めるかどうかは) 必ずしも統一されていない. むしろ混乱して "虚血性腸炎" として用いられているのが現状ではなかろうか」と書いている (胃と腸 28, 889-897 (1993).)。

このように「虚血性大腸炎」なるものは定義が曖昧で、単一疾患ではないどころか、症候群であるかどうかすら、怪しい。 診断基準を提唱した者はいるが、そもそも疾患概念が曖昧なのに、診断基準など確立できようはずがない (胃と腸 28, 899-911 (1993).)。 実際、「虚血性大腸炎」という診断名には感染性腸炎を含めないのが多数意見であるにもかかわらず、臨床的に「虚血性大腸炎」と診断される症例には 少なからずウイルス性腸炎が含まれている疑いがある (胃と腸 48, 1746-1752 (2016).)。

このように、虚血性大腸炎というのは、病理学的実態を伴わない便宜上の診断名に過ぎない。 「虚血性大腸炎の予後は良い」などという発言は、自身の医学的見識の低さを露呈することになるので、慎しんだ方がよろしかろう。


2017/03/16 病理学の灯

どの学術分野においても、流行の研究というものがある。 たとえば核融合炉の研究においては、だいぶ昔からプラズマ動態の研究が流行分野であり、実際に炉を作るための材料研究などは、あまり盛んではない。 また、理由は知らぬが、近年こうしたプラズマ学者達と生物学者や医学者が手を組んで、癌治療へのプラズマの応用、なども一部で研究されているようである。

もちろん、こうした流行というものは、それが学術的に重要だとか、技術開発の鍵だから、という理由で生じるわけではない。 核融合炉の例でいえば、技術的には、材料開発が最も重要なのであるが、核融合炉に耐えられる材料の実現は極めて困難であると考えられている。 それに対しプラズマ動態の研究は、比較的容易であり、研究予算を獲得しやすく、論文を書きやすいが故に流行しているものと思われる。

プラズマの癌治療への応用なども、従来の放射線に比べてプラズマを利用することの利点を曖昧にしたままに研究が行われているフシがある。 というより、プラズマは物理学的には α 線や他の重粒子線と電子線の混合物に過ぎないのだから、プラズマであること自体に特有の利点があるとは思われない。 しかし、物理学的に考えて敢えてプラズマを使う意義は乏しくとも、「プラズマを使う」と標榜すれば新規性があると認められ、予算獲得や論文作成には有利なのである。 ただし、これが流行するのは、研究している当事者が科学的良心を欠いているが故であるとは限らない。 プラズマの専門家である物理学者・工学者は細胞のことをよく知らず、癌の専門家である生物学者・医学者はプラズマのことをよく知らず、 しかも相互理解が乏しいままに形式的な「学際的研究」が行われているとすれば、研究の全体像や意義を誰も把握していない、という状況なのかもしれぬ。

臨床医学でいえば、iPS 細胞を用いた再生医療の研究が流行している。 ただし、iPS 細胞を利用することの意義について、論理的に了解可能な説明を、私は聞いたことがない。 組織や細胞を再生させる目的なら、組織に現存する細胞を適切に刺激すれば良いのであって、多分化能を持つ iPS 細胞を経由する意味はない。 たぶん、本当に最前線で研究している人々は、iPS 細胞を使うことには本当は学術的意義が乏しいことを理解しているのではないかと思う。

腫瘍学の分野でいえば、遺伝子検査による癌の分類が流行している。 特に、いわゆる分子標的薬の有効性と関連して、HE 染色などを用いた組織学的分類の意義が低下した、と主張する者もいる。

病理学者の立場から申し上げれば、これは、とんだ誤解である。 極めて単純な遺伝子学的背景を持つ慢性骨髄性白血病などの例 (N. Engl. J. Med. 376, 982-983 (2017).) を別にすれば、 分子標的治療薬は生命予後を延長することはあっても、根治的ではあり得ず、また、疾患の本態を反映するものでもない。 なぜならば、癌は遺伝子学的に heterogeneous であって、腫瘍全体を表現する遺伝子プロファイルなどというものは存在しないからである。

病理診断医にとって闇の時代が訪れようとしているのは事実である。 形態学的診断については、近いうちに、AI に取って代わられるであろう。 AI による診断には現時点では少なからず技術的課題や法整備の問題はあるものの、いずれも本質的ではなく、やがて解決されるであろう些末なものに過ぎぬ。 そして疾患の分類や診断についても、遺伝子検査の有効性を信じる勢力が強いことは事実であって、組織学的観察を最大の武器とする我々は、 特に一部の臨床医からは、時代遅れになりつつあると思われているだろう。

しかし、理論医学としての病理学的立場から冷静に考えれば、遺伝子検査が疾患の本態を明らかにすることは、少なくとも今後 20 年ないし 30 年は、ないであろう。 遺伝子研究では、統計的に相関がある、といった点までは指摘できるであろうが、それが限界である。 たとえば、ある患者の前立腺癌が「ラテント癌で終わるもの」なのか「いずれ転移を来す恐れがあるもの」なのかを鑑別しようとするとき、遺伝子学が有用とは思われない。 「8 割方、ラテント癌で終わる」とまでは指摘できるかもしれないが、「2 割の頻度で転移する恐れがある」というのでは、臨床的には役に立たぬ。 それを「100 %, 大丈夫です」と断言することは、適切な観察方法を新しく開発する必要があるとはいえ、 理論と形態学を武器とする我々にしか、できない。

次世代シークエンサーの普及などを背景に、学術研究の潮流は遺伝子学に傾きつつある。 しかし、流行に乗ろうとする者は、流行に溺れる。真の科学者は、流行を作ることはあっても、流行に乗ることはない。

我々は、病理学の灯を守り、嵐の過ぎるのを待つべきである。 いずれ、我々の時代が来る。


2017/03/15 The New England Journal of Medicine の読み方

週刊 The New England Journal of Medicine には、毎週、4 報程度の original article が掲載されているが、 これは臨床試験やコホート研究の形をとった「理論なき統計」の論文が多く、面白くない。医学的に重要であるとも思われない。 同誌の日本国内版には、こうした original article の abstract の日本語訳も掲載されているので、基本的には、それだけ読めば充分である。 とても興味を引かれたら introduction と conclusion を読み、なお中身が気になったら、全文を読めば良い。

それに対し、同誌に隔週ぐらいで掲載される review article は、なかなか、よろしい。 たとえば 3 月 9 日号では、Psoriatic Arthritis, つまり乾癬性関節炎について、並の教科書よりもはるかに詳しく丁寧に解説している。 少なくとも Campbell's Operative Orthopaedics, 13e (2017). や Rook's Textbook of Dermatology, 9e (2016). といった名著よりも、詳しい。 学生や研修医などが勉強のために読むには、original article などより、こちらの方が良いだろう。

他にも、images in clinical medicine というものは毎号、掲載されている。 これは、臨床的な写真と症例の簡潔な要約から成る 1 ページの記事であり、5 分程度で手軽に味わえる。欠かさず読むべきである。 なお、これは毎号 2 例が掲載されているのだが、冊子版には 1 症例のみが掲載されており、もう 1 症例はオンライン版にのみ掲載されている。

もちろん、月 3-4 回掲載される Case Records of the Massachusetts General Hospital も勉強になる。 これは医学的論理的に診断をする過程を重視した、ClinicoPathological Conference (CPC) の抄録である。 非常に有名な連載記事であり、世界中の大学や病院で、勉強会の題材にされている。 もちろん、我が北陸医大 (仮) でも、これを題材にした勉強会が行われている。

月 1 回掲載される Clinical Problem-Solving も症例ベースであるが、どちらかといえば一般内科、あるいは、いわゆる総合診療寄りの内容である。 学生が気楽に読むには、上述の Case Records よりも、こちらの方が親しみやすいかもしれぬ。

ともあれ、週刊誌というのは、そもそも娯楽のために読むものであって、我慢してウンウン苦しみながら読むような代物ではない。 The New England Journal of Medicine にしても、学生価格なら毎週 500 円程度であるから、そこらへんの漫画雑誌と大差ない。 気になった記事、面白そうな記事だけ読んだ後は、周囲の学生や研修医を威圧する目的で本棚に並べておけば良い。


2017/03/14 久しぶりにフラジャイルの話

過去にも何度か紹介したが、「フラジャイル」という病理漫画がある。 たぶん、全国の病理医の多くが、これを読んでいるのではないかと思う。 もちろん、私も単行本は全て持っている。 さらに、この漫画が連載されている「月刊アフタヌーン」という漫画雑誌も、電子版を毎月購入している。

いわゆるネタバレになるが、フラジャイルの最新話は、たいへん、よろしかった。 診断困難な症例に対し、組織学的所見だけでなく、諸々の臨床所見からの論理的帰結として岸が「IgA 血管炎」と診断する場面があった。 宮崎の「紫斑がないのは IgA 腎症と合致しない」という指摘に対し、「これから出るんだよ」という岸の返答は、病理医のカッコよさを端的に表している。 病理診断というのは、病理学を基礎として論理的に診断を行うものをいう。組織学的観察は、病理医にとって強力な武器の一つではあるが、病理診断の本質ではない。 この「フラジャイル」では、そうした立場が、初回から現在まで徹底されているのである。

この最新話を読んで、私は、少しだけ、泣きそうになった。というか、ちょっとだけ泣いた。 岸は元臨床医であるが、何かの理由で病理に転向した、という経歴である。 そして病理医として岸の後輩にあたる手嶌の、どうしても岸に敵わない、という苦悩が、今回の話の中心である。 手嶌は優秀な男であるが、病理診断医としては岸に及ばないことを悟り、今後は研究一本で生きていくことに決めた。 その悔やしさを「もう 研究しかない…か」と独白している。 誤解のないよう補足しておくが、診断を諦めて研究一本でいく、というのは、手嶌が研究者としては一流の才覚を持っているからできるのであって、 普通の病理医が「これからは研究一本で生きていこう」などと考えても、無理である。

さて、手嶌は診断医を辞めるにあたり、岸に一矢報いようと試みるのだが、上述のように IgA 血管炎という見事な岸の診断に完敗する。

やっとの思いで辿りついた 病理の現場で
となりにいたのは 別次元の人だった
足掻いても叫んでも届かない世界を
自分をあきらめることしかできない世界を
どうしてこの人は 余さず持ってる
どうして俺は何も持ってないんだ

そこまで思ったところで、中熊教授の「岸? あいつは生粋の病理医って奴じゃねぇよ」「臨床から病理に移って来たんだから」という言葉を思い出す。

そうか
もう病理しかなかったのか

まぁ、ここで泣きそうになるのは、博士過程中退で病理医の卵である私ぐらいかもしれぬ。 しかし、何かで転んで方針転換した経験のある人の胸には、多少は響くであろう。 私の拙い文章では、この漫画の雰囲気は伝わらないだろうから、ぜひ一度、読んでみられると良い。


2017/03/13 癒着構造

3 月 2 日号の The New England Journal of Medicine には、面白い記事が多かった。 とりわけ目を引いたのは `Conflicts of Interest for Patient-Advocacy Organizations' (N. Engl. J. Med. 376, 880-885 (2017).) である。 Patient-Advocacy Organizations というのは、平たくいえば「患者支援団体」であって、ある疾患の患者のための情報提供・情報交換などを行う団体のことである。

この報告によれば、こうした団体のうち少なからずが、製薬会社などの医療関連企業から経済的支援を受け、あるいは団体の代表者などを企業の者が務めている。 特に、企業から寄付を受けていること自体は公にしていても、その額や使途は明らかにしていないなど、企業と団体との結びつきは不明瞭にされていることが多いようである。 そうした企業と Patient-Advocacy Organization との関係は、必ずしも不適切であるとはいえないが、 そうした団体が何らかの提言を発したり、いわゆるロビー活動を行っている場合には、問題が生じる。

日本においても、医師と製薬会社等は、親密な交友関係にあることが多い。 一部の病院等は企業などからの物品受け取りを一律に禁止しているが、名古屋大学や北陸医大 (仮) をはじめとした多くの病院では、 製薬会社負担で高価な弁当が供与される「薬剤説明会」などが行われることが多い。 また、企業ロゴの入ったボールペンやメモ帳などを供与されることも多い。 なお、以前は薬剤の商品名などが入ったボールペン等が供与されていたが、これは、昨年、業界の取り決めで自粛することになり、企業ロゴに変更されたと聞いたことがある。

さて、巷には、良い医者の見分け方、などの情報が満ち溢れている。 その中でも、製薬会社のロゴが入ったボールペンやメモ帳などを使っている医者は信用するな、というのは有名な話である。 何らかの癒着構造がある証左である、というわけである。 ところが、同期研修医と話してみると、こういう話が世間でなされているという事実を知らぬ者が稀ではないらしく、驚いた。

彼らの言い分としては、捨てるのも勿体ないし、第一、弁当やボールペンをもらったからといって、それで投薬などの判断が左右されることはない、というのである。 が、そんな主張を、世間は認めない。李下に冠を正し、瓜田に履を入れ、それで患者から信用されるはずがない。

もちろん私は、そうしたボールペンの類は、全て廃棄している。勿体ないが、使うわけには、いかぬ。 では弁当はどうしているかというと、これは食べている。 「二枚舌」などとの批判もあろうが、研修医としては、これが最も現実的な線であろう。 弁当も全て拒否してしまえば気分は良いが、研修医の立場でそれを行えば、指導医に迷惑がかかるからである。

また、製薬会社主催で行われる「勉強会」の類では、タクシーチケットや、新幹線のチケットなどが支給されることが多い。 少なからぬ医師は「招かれて行くのだから、交通費を先方が負担するのは当然だ」などと思っているかもしれないが、これは世間知らずであると言わざるを得ない。 医師対象ではない、理科や工科、あるいは文科の勉強会であれば、交通費は自己負担か、あるいは大学など所属機関の負担とするのが当然である。 なぜならば、それは「勉強会」なのであって、自分のために参加するのであって、主催者のために参加しているわけではないからである。

なお、北陸医大の某診療科では、基本的に、あるいは全く、そうした弁当を食べない医師もいる。 その人が、そういう理由で断っているのか、あるいは別の理由があるのかは、知らぬ。


2017/03/12 時間外労働

形式的には、我々研修医は、北陸医大 (仮) に雇用されていることになっている。 すなわち、労働力を大学に提供し、対価として給与を受けとっているのである。 もちろん実際には、我々は自身の研修のために大学病院で活動しているのであって、大した労務は提供していない。 給与も、実態としては、給付型奨学金のようなものである。

以前にも書いたことがあるが、欧州あたりでは、国立大学の学費が無償、あるいはそれに近い格安なのが常識である。 さらに、日本語では「奨学金」と訳される scholarship は、使途に制限のない給付型が当然であって、返還の義務が課されるものは loan である。 日本学生支援機構と称する団体が運営しているのは、奨学金ではなく「学生ローン」なのである。 これに対し、国にもよるが、欧州の大学生や大学院生の多くは、scholarship を受け取っている。もちろん、返還の義務など、ない。

私が京都大学大学院の博士課程学生であった頃、国際会議で出会った欧州の大学院生と雑談をする中で 「君は、月にいくらぐらい scholarship をもらっているんだい?」と問われたことがある。 私は「もらっていない。むしろ授業料を払っている。」と答えたのだが、彼は、私が何を言っているのか、一瞬、理解できなかったようである。 日本一を自負する京都大学の大学院生が、scholarship を与えられていないどころか、逆に年に 50 万円もの授業料を支払っているというのは、 彼らの常識からすれば、ありえないことなのである。 そういう意味で、日本の大学生や大学院生の経済状況は、欧米諸国からみてかなり非常識である。 これに対し研修医は、給与名目の奨学金が充実しており、まともであるといえる。

さて、北陸医大では、研修医の時間外労働について、次のように規定されている。 まず、次の項目に該当する行為は、時間外労働とみなされる。

一方、次の項目に該当する行為は、時間外労働とは認められない。

少し考えればわかるように、この規定は、おかしい。 そもそも、臨床診療科で行われるカンファレンスの多くは、患者の診療方針を決定するためのものである。 従って、時間外労働とは認められない「カンファレンス」は、時間外労働とみなされる「患者を診察するための準備・調査」にも該当するのであって、矛盾している。 さらにいえば、医局会や抄読会などへは、自由意思で参加する例もあるかもしれないが、多くは、指導医から命じられて出席している。 業務上の命令によって参加しているのならば、それは業務の一部なのだから、時間外労働として認められなければおかしい。

一方、特に北陸医大の場合、研修プログラムの構成には、かなりの自由が認められている。 たとえば、私は泌尿器科での研修を一ヶ月受けることになっているが、研修修了のための要件という観点からいえば、これは不要である。 むしろ、代わりに病理部での研修でも入れておいた方が、楽である。 それを敢えて泌尿器科にしたのは、私自身が、泌尿器科で研修を受けたいと望んだからである。 それを思えば、泌尿器科で行われる一切の研修行為は、「自らの意志による診療行為の見学」に該当するから、時間外労働と認められる行為は、一切存在しないことになる。

さらに、上述の項目では「指導医の指示ではなく自らの意志による診療行為」が、どちらに含まれるのか、明記されていない。 たとえば、時間外に、指導医から特に命じられたわけでもなく、自主的に病棟を巡回する行為は、どうなるのか。 あるいは、指導医から命じられたわけではなく、志願して時間外の手術に加わった場合は、どうなるのか。

こういう難しい問題に直面したときは、定義や概念に遡って考えると、わかりやすい。 たとえば時間外に及んだ手術に際して、私が患者の創部を縫合したとする。 常識的に考えて、指導医が直接縫った方がキレイであるし、速い。 それを、他のスタッフの人々に少し待っていただきながら私が縫合するというのは、私以外の誰の利益にもなっていない。もちろん、患者の利益にもなっていない。 私は、形式的には指導医の指示によって診療行為をしたことになるが、実態としては、私の勉強のために、患者やスタッフに協力していただいただけである。 その行為に対して時間外労働手当を請求するなどというのは、道理が通らない。

我々の「給与」は、冒頭で述べたように、本質としては奨学金なのであって、労働に対する対価ではないのである。 以上のような論理で、私はこれまで、時間外労働実績簿は全て「0 分」で提出している。


2017/03/11 診断

医師の仕事は、「診断」と「治療」に大別できよう。厳密には、この他にも「説明」などもあるが、これらは診断や治療に付随するものであって、仕事の中心ではない。 医学科生や若い研修医などの間では、診断よりも治療の方に関心が強い者が多く、結果的に、診断過程よりも治療手技の修得に力を注ぐ者が多いように思われる。 病理医や放射線診断医といった診断特化型医師を目指す者は、少数派である。 治療に強い関心を寄せること自体は特に悪いことではないが、「とにかく治れば良いのだ」とばかりに、診断を軽視するようになると、これは不適切である。

ときどき耳にするのが、診断が難しい症例について「いずれにせよ、治療方針は変わらないから、正確な診断は不要である」とか、 「はっきりした診断はできないが、とりあえず今できることは……」といった論法である。 これらは、表面的には、臨床医療における判断と実践のあり方として不適切とはいえない。 しかし、正確な診断を放棄して、いたずらに手技に走ることを正当化するための論理として用いるならば、不当である。

診療の原則として、診断なしに治療方針が決まることは、ない。 これは、あたりまえのことであって、いまさら説明する必要はないと思う。 救急医療に限れば、時間の制約から、診断の定まらない状態である程度の治療を行わねばならないこともあるが、それでも治療と並行して診断を進めるのが基本である。 実際、中堅以上の医師が、上述のような論理で診断を曖昧に済ます場面を、私はみたことがない。

しかし学生や一部の研修医と話していると、担当患者についての診断根拠について「上の先生が、そう言っていた」という論理を持ち出されることが稀ではない。 診断の論理、理屈を、自身の頭では検討していないのであり、実によろしくない。 一部に誤解している者がいるようだが、診断というのは、経験によって行われるものではない。 背景に経験の蓄積はあるかもしれぬが、最終的には、整然とした論理を構築することによって形成されるのが医学的診断である。 本当に正しい診断であるならば、その理屈は、学生にでも理解できるはずである。 それを「上の先生が、そう言っていたから」などと言っているようでは、いつまでたっても、自分で診断することはできない。

何より、「上の先生」の診断を鵜呑みにして、自身の頭脳で納得することなしに、治療に関与することができるという精神の態様自体が、問題である。 こういうことを書くと、「まだ経験が浅く、勉強不足だから、診断などはできないし、間違ったらいけないから」と弁明する者も多い。

逆なのである。 むしろ学生や研修医のうちこそ、自分の頭で診断するように努めるべきである。 学生や研修医の診断を鵜呑みにする指導医など、いない。 我々が自力で診断を試み、それが誤っていたなら、指導医は、それのどこがどう間違っているのか、指摘してくれるはずである。 ただし、看護師等は研修医の診断を鵜呑みにする可能性があるから、カルテ等の記載には注意が必要である。

正直に書くと、私は、誤った診断をカルテに記載し、患者に迷惑をかけたことがある。 入院理由とは別の、入院前からある副病変について、私は、軽微な病変であると誤診して「経過観察で良いと考える」と書いた。 たぶん指導医も私の診断にひきずられたのであろうし、看護師も、私の記載をみて主治医に相談するのを躊躇したのであろう。その病変に対しては、特に何の処置も施されなかった。 誤診した二日後に、私自身が「これは、おかしい」と気づき、主治医に「○○の可能性を否定できない」と報告し、ようやく対応して事なきを得た。 診断の容易ではない病変であったとはいえ、後から思えば、当初の私の診断論理は医学的に不当であって、あの時点で「○○の可能性は否定できない」と記載しておくべきであった。 患者には「もっと早く気づけなくて申し訳ありません」と謝罪し、許していただいた。


2017/03/10 上下関係

医療業界における慣習としての上下関係については、過去にも何度か書いた。 歴史的経緯は知らぬが、医師の間では、特に外科系を中心に、いわゆる体育会系の、年功序列式の上下関係が広く形成されているように思われる。 この上下関係が無意味で不当かつ非生産的であることは、言うまでもない。 こうした、彼らが「当然のこと」として受け入れている上下の序列は、日本の医師界においてのみ通用する「常識」に過ぎず、 無論、精神的に医科ではなく工科に帰属している私は、それに束縛されない。

おべっかを使うことを好む風潮が、一部には存在する。 指導医の言うことに逆らわず、反論しないことが、良いとされるのである。 指導医と称する人の中には、自分のやり方について素直に従わない学生や研修医から異論を唱えられると、教える気がなくなる、などと言う者もいる。 私も名古屋大学時代、臨床実習の際に、指導医が答えられないような小難しい質問をして、冗談だか本気だか知らぬが、「指導医に恥をかかせてはならぬ」と言われたことがある。 ついでに言えば、心電図理論について思う所を述べただけなのに「循環器内科に喧嘩を売った」などと同級生らに噂されたこともある。

実に、くだらない。 異論を唱えるというのは、よく勉強し、よく考えている証拠である。 指導医は、その学生なり研修医なりの唱えた異論が、どう間違っているのかを示せば済むだけのことである。それこそが教育である。 それを為せないならば、それは指導医の側が不勉強なのだから、「教える気がなくなる」と拗ねるのではなく、むしろ自身の不肖を恥じるべきである。 その恥の精神すら持たないようであれば、指導者としての資質を欠いているとの批判を免れることはできない。

少なからぬ学生や研修医は、この上下関係について、次のように正当化しようとする。 すなわち、我々は初心者なのだから、まず「上の先生」のやり方を習い、充分に熟達した後に、初めて、独自の工夫などを行うべきである、と。

理科や工科の人であれば、これを読んで噴飯するであろう。 全く科学的でなく、合理的でもないからである。 しかし遺憾なことに、医師の世界の一部では、こうした古臭い徒弟制度のような発想が、未だに残っているのである。 もちろん、これを「医療とは、そういうものだ」などとして弁護することは、できぬ。 本当に高い学識を持ちキチンとした教育者が、そうした徒弟制度を支持している例を、私は知らぬ。

容易に想像されることであろうが、私は、一部の指導医からは猛烈に嫌われている。 北陸医大 (仮) の教員のうち二名ほどは、私と廊下ですれ違う際に、目も合わせようとしない。 まぁ、彼らの気持ちも理解できなくはない。残念なことではあるが、やむを得ない。


2017/03/09 骨巨細胞腫

骨巨細胞腫というのは、長管骨端を好発部位とする骨腫瘍の一つであって、組織学的には多数の破骨細胞様巨細胞の出現を特徴とする。 巨細胞というのは、多数の核を持つ巨大な細胞のことである。 基本的には、この腫瘍は良性、つまり転移を来さないのだが、局所で aggressive に増殖する傾向があるらしい。 平たくいえば、良性だか悪性だか、よくわからない、いわば境界的な病変のようである。

整形外科学の名著 Azar FM et al., Campbell's Operative Orthopaedics, 13e (2017). では、この腫瘍性病変の病理学的本態について言及していない。 一方、病理診断学の聖典 Rosai J, Rosai and Ackerman's Surgical Pathology, 10e. (2011). によれば、この病変でみられる巨細胞は、 詳細な機序は不明であるものの、TGF-β や RANK などを介して血液中の単球が反応性に融合して形成されたものであるという。 すなわち、真の腫瘍細胞は、間質に豊富に存在する小型の単核細胞であるらしい。 この腫瘍細胞は、電子顕微鏡的には繊維芽細胞や骨芽細胞に類似した形態を持つが、起源は、はっきりしないようである。

ところで、病理診断医向けのアンチョコ本に `Diagnostic Pathology' シリーズがある。 このシリーズの特徴は、病理学的要点を簡潔かつ明瞭に記していることである。 たとえば、このシリーズの中で骨病変を扱っている Nielsen GP, Diagnostic pathology Bone, 2e (2017). の `Giant cell tumor' の節をみると、 この病変は腫瘍性であり、骨芽細胞様の単核腫瘍細胞が RANK を介して反応性巨細胞を形成せしめること、 そして腫瘍細胞には H3F3A ヒストン遺伝子に変異がみられることが記されている。 わかりやすい、といえば、わかりやすい。

しかし、わかりやすい記述というものは、学術的には、あまり正確ではないことが多い。 実際、骨巨細胞腫の病理学的本態というのは議論のある問題であって、文光堂『骨腫瘍の病理』(2012). では、 巨細胞の形態は純粋に反応性の過程として理解することが困難である、として、これも腫瘍性細胞である可能性を指摘している。

この骨巨細胞腫は、何も、特殊な例というわけではない。 医学で扱う問題というものは、だいたい、真相は不明なのである。 それを、どこまでが正しそうで、どのあたりから曖昧なのかを認識し、その闇の中に一歩を踏み出すことが医学なのであり、 それを踏まえて眼前の患者に対応するのが臨床医療なのである。


2017/03/08 国際女性デー

3 月 8 日は、国際女性デーであるという。これは 1977 年に国際連合総会で決議されたものであるらしい。 私は、もちろん国連など大嫌いであるが、世界中に蔓延する不当な男女差別を敵視することには賛同する。 この国際女性デーに合わせて、朝日新聞も特集を組んでいる。

日本における男女差別については 2015 年に書いた。 公然と行われている男女差別を不快に思う女性は少なくないであろうが、敢然と反発する人は、少ない。 なぜなのか、と、逞しい女性の幾人かに訊ねてみたこともあるのだが、要するに「イチイチ反発していたら、キリがない。軽く受け流すしかない。」ということであるらしい。 まぁ、そうであろう。 それに、積極的に反発することで、女友達との関係も含めて人間関係がこじれるリスクもあるから、安易には動けまい。 その意味では我々男性陣が動くべきなのかもしれぬが、しかし、正義を軽んじる日本社会においては、当事者以外からの反発は認めない、という風潮がある。 たとえば私が「それは不当な男女差別ではないか」と唱えても、「お前は男だろう」という言葉により封殺されるのである。

さて、この日記は私の友人・知人の一部も読んでいるような気配があるから、あまり際どいことには触れたくないのだが、 正直に書くと、私は、女性に生まれたかった。 別に誤解されても構わないのだが一応書いておくと、これは性同一性障害だとか同性愛だとかいう意味合いではない。 もちろん、女性の方がチヤホヤされて生きやすそうだ、などという失礼な意味でもない。

今の日本では女性科学者が少ない。これは生物学的差異によるものとは考えにくく、社会的要因によるものであろう。 私はアマノジャクだから、どうせ科学者になるなら、ゴマンといる男性科学者ではなく、希少な女性科学者に、なれるものなら、なりたかった。 他にも女性に生まれたかった理由はあるのだが、それはプライベートな話なので、書かない。

もちろん、現在の日本で女性科学者が不当な差別に苦しんでいることは知っている。 業績は適切に評価されず、活躍の機会が与えられないどころか、そもそも科学的議論の機会を不当にも奪われている。 2015 年の記事でも触れたが、学会発表などでも、女性発表者に対しては批判がヌルいことが多い。 すなわち、女性であるというだけの理由で、一人の科学者として扱われないのである。

それでも私は、女性科学者になりたかった。 私なら、そのような頭の悪い男共と、まともに戦えるのではないかと思うからである。

以上のようなことを断片的に話してみたところ、同期の某女性研修医から「あなたが男性だから、そのように思えるのだ。」と言われた。 確かに、隣の芝生が青いだけのことかもしれぬ。


2017/03/07 科学

2017/03/07 21:30 修正

私に限らず、医療とは無関係な領域で数年から 10 年程度のキャリアを積んだ上で、医師に転向する者は稀ではない。 そういう者は、大抵、いばれるような理由では転向していないので、「人生に躓いたんですよ、ハハハ」と笑ってごまかすことになる。 私も、教授と喧嘩して大学院を中退してしまい、行き場に困って医者になったのです、と説明することにしている。

人にもよるだろうが、私は、工学の世界で過ごした 9 年間が、医師・医学者として活動する上で、役に立たないとは思わない。 むしろ、あの 9 年間のおかげで、他の一般的な医師の目には映らない、多くの物事がみえるようになった。 理論軽視・経験偏重の現在の臨床医学・医療界において、かつて京都帝国大学内科学教授の前川孫二郎が唱えた医学理論の重要性を認識し、 その血脈を受け継いだと自負できるのは、あの頃の経験に支えられているが故である。 もちろん純粋数学や純粋物理学の出身者には、私以上に統計学に詳しく、より厳密な理論派も多いであろうが、そういう人は、普通、臨床医学に興味を示さない。 まぁ、私ぐらいが、ギリギリ現実的な線であろう。

ところで、北陸医大 (仮) 図書館に最近収蔵された書物に『狂気の科学 真面目な科学者たちの奇態な実験』というものがある。 科学史の中で、特に有名でもなく、後世に大きな影響も与えていない、ヘンテコな実験の逸話を集めたドイツ語の書物の訳書である。 たとえば「なぜ、ネコは高所から落下しても脚から着地できるのか」を解明した実験などはマシな方であって、 「培地にキスをして培養した際に生えるコロニー数の男女差」といった、どう考えても何の役にも立たない実験の話が多い。 もちろん、実験をした当人は真面目な、科学的意義のある研究のつもりだったのだろうが、振り返ってみれば、実にくだらない実験である。

こういう、くだらない研究こそが、科学の本質である。 研究の動機など「面白いから」で充分である。 一方、実社会にどう役立つかを説明できなければ研究予算の獲得が困難な現状は、科学を否定するものに他ならない。 また、「役に立つ知識」にばかり興味を示す一部の若い医師や医学科生の態度は、非科学的であるとの批判を免れ得ぬ。

私が京都大学大学院を中退したのは、教授との関係がこじれたためである。 その原因はイロイロあるが、その一つには、研究の意義を巡る衝突があった。

詳細は別の記事に書いたが、私が大学院で行っていた研究は、加速器駆動未臨界炉と呼ばれる新型原子炉の実現に向けた基礎研究であった。 修士課程の頃から、この研究の意義については多少の疑念を抱いていたが、博士課程に進学し、国内外の科学者達と深い話ができるようになり、その疑念は大きくなった。 すなわち、加速器駆動未臨界炉は、実用性が皆無なのではないか、という疑念である。 それについて、当時の指導教員であった助教や、後に教授になった当時の准教授と話したことはあるが、「意義はある」と強く主張する教員と私の間で、合意は形成できなかった。 本当は役に立たないことぐらい、教授だって理解していたはずなのに、それを無理に「役に立つ」と主張したから、我々の関係はこじれたのである。 その他の問題も加わって溝は深まり、結局、私が退学することになった。

今さら当時のことに不平を言いたいわけではないが、私自身が将来、当時の私と似たような学生に出会うことがないとも限らないから、ここに記録しておこう。 もし、あの時「加速器駆動未臨界炉は役に立たない。しかし、なぜ、役に立たなければならないと思うのか」と教授が言ってくれていたなら、私は中退などしなかったであろう。 「役に立たない研究こそ、科学の真髄であり、京都大学の本領である。すぐに役立つ研究がしたいなら、さっさと博士の学位を取得して JAEA にでも就職せよ。」 ぐらいのことを言われれば、私の科学者としての心は、大きく動いたはずである。 実際、私の博士課程修了予定年には、JAEA (日本原子力研究開発機構) の研究職の公募が行われていたのである。


2017/03/06 間質性肺炎の診断における MDD

週刊誌の話を続けよう。 「日本医事新報」が臨床医療寄りの雑誌であるのに対し、医歯薬出版社の週刊「医学のあゆみ」は、やや学術寄りの内容が多い。 「医学のあゆみ」の 2 月 25 日号の特集は「間質性肺炎の MDD」であった。

間質性肺炎、特に、いわゆる特発性間質性肺炎の診断に際しては、MDD (Multi-Disciplinary Discussion) が有効であると言われている。 MDD というのは、臨床医と放射線診断医と病理医が協議して診断を決定する、という方法である。 MDD の方法には、ある程度定められた様式もあるのだが、詳細は、ここでは述べぬ。 「有効であると言われている」と書くと、鋭い人は「一体、誰が言っているのか」と反応するであろう。 それは適切な指摘であって、これは米国、欧州、日本、南アメリカの呼吸器学会が合同で作成したガイドラインで言われているに過ぎない。 この特集を読んでも、MDD 支持派は「ガイドラインで推奨されている」と述べるのみであって、MDD の何がどう優れているのかを明確に述べている者は、いない。

話は逸れるが、北陸医大 (仮) で学生などと話していると、ガイドラインは正しい、などと思っている者の少なくないことに驚く。 教員が、講義などの際に「ガイドラインで決まっているから、そうなのだ」というようなことを言っているフシもある。 一方、名古屋大学時代、我々は「ガイドラインは使うものではない。作るものだ。」と教わり、それに対し多くの学生が「その通りである」と頷いていた。 学生同士で議論する時でさえ、五年生ぐらいになると、「ガイドラインに、そう書いてある」という根拠で何かを主張するのは恥ずかしい、という共通認識が成立していた。 ガイドラインの記載の根拠を把握し、それを元に議論してこそ医師なのであって、ガイドライン通りに診療を行うだけなら、技師と看護師さえいれば充分である。 それを思えば、現在の我が大学の医学科教育は、水準が低いと言わざるを得ない。

閑話休題、この「医学のあゆみ」の特集に掲載された公立陶生病院の谷口医師らによる記事は、 「MDD は間質性肺炎の診断時にかならずしも必要ではない」と題し、一律に MDD を持ち上げることに若干の懐疑を投げかけている。 公立陶生病院というのは、呼吸器内科が有名な愛知県の病院であって、名古屋大学医学科卒業生の就職先としても人気がある。 この谷口医師らの記事も良いが、もっと直接的に MDD の問題点を指摘したのが、近畿大学の田中氏らの記事であり、次のように述べている。

間質性肺炎の診断において, いまや MDD はゴールドスタンダードとなった感があるが, MDD で得られた結論が本当に正しいのかという問題 (正確性の問題) があげられる. MDD では声の大きい人の存在や職場での上下関係に MDD が影響されることもあるであろう. また, 研究会など比較的多くの人数が参加し, 投票により MDD の結論を決める場合でも多数決が正しいとは限らないことをつねに認識しておくことが大切である.

田中氏らは、このような控えめな表現に留めているが、病理学的観点からすれば、MDD には、もっと根本的な二つの問題がある。

第一に、ガイドライン等で MDD を有効としている最大の根拠は、MDD を行うことで診断の一致率や確信度が高まる、という点に過ぎない。 つまり、あるチームで行った MDD と、別のチームで行った MDD が、同じ結論に到達する頻度が高い、というのである。 「もし正しい診断を行えているならば、一致率は高いはずだ」という理由で、診断の一致率が高い MDD は有効である、と考えたくなる気持ちは、理解できなくはない。 しかし、ここでは必要条件と十分条件をよく考えねばならない。 「診断が正しいなら、一致率も高い」というのは真であるが、「一致率が高いなら、たぶん正しい診断である」とは、いえない。 それぞれ単独では不確かな診断や所見が、併されば正確になる、というのは、ベイズ推定が成立するような状況に限られるのであって、 臨床医療にはそぐわない。 むしろ、不確かなものは、いくら集めても不確かなままなのである。 理論を重視する基礎科学の素養がない医師には理解し難いかもしれぬが、 間違った見解で皆が一致する、というのは、珍しいことではない。

第二に、MDD においては、病理医が、病理学者ではなく、形態学者として参加している。 そもそも病理診断の真髄は、「理論医学」たる病理学に基づいて、理論的に診断を行うことにある。 しかるに、MDD においては、病理医は形態学的所見から、考えられる診断を「確信度」で述べることが多い。 つまり「IPF 50 %, NSIP 30 %, CHP 20 %」といった具合である。 この「確信度」というものの意味や定義は、よくわからない。 確率論を修めていない者が、定義を曖昧にしたまま、なんとなく「数値化」して客観的であるかのようにみせかけているのだと思われる。 たぶん、MDD を行っている人々も「確信度」の定義をよくわかっていないであろうが、少なくとも、病理学的ではない。 すなわち、真の病理学的診断が含まれていない、という点が、いわゆる MDD の決定的弱点である。

こうした重大な問題点を抱えているにもかかわらず MDD がもてはやされるのは、他に安心できる診断方法が存在しないからである。 「皆で協議して診断し、意見が一致した」という事実は、たとえ合理性が疑わしく、診断責任の所在が曖昧であろうとも、医師の安心感は大きい。

いわゆる特発性間質性肺炎の病理は未だ全く手つかずであり、巨匠 Anna-Luise Katzenstein でさえ、その解明には至らなかった領域である。 これを、我々が、解き明かし、間質性肺炎の病理診断を確立せねばならない。


2017/03/05 医療不信

週刊「日本医事新報」というのは、臨床医療の諸問題を扱う、主に医師向けの雑誌である。 世間一般でいえば、朝日新聞社の「AERA」や、文藝春秋社の「週刊文春」に相当するぐらいの、格調の高くない雑誌である。

この「日本医事新報」の 2 月 25 日号の特集は「医療不信患者への対処術」というものであり、近藤誠などによる医療批判に対する反論のようなものである。 なお、私は、どちらかといえば近藤誠医師のことは好きであるが、それについては過去に書いたので、ここでは繰り返さない。

この特集記事には、「かかりつけ医の立場から」として、東京の某開業医のインタビューが掲載されているのだが、読んで不愉快になった。 たとえば、最近の「医療不信患者」について、「今までの医療不信患者と何が違うと感じるか。」という問いに対し、 この医師は、まず「患者の選択権が医師の裁量権を上回る時代になった。」と答えている。 確かに、過去には「医師の裁量権が患者の選択権より優先される」と考えられていた時代はあったから、この医師の言葉は、事実に反するとまではいえない。 しかし「患者の選択権が医師の裁量権より優先されるのは、本来のあるべき姿なのであって、過去の考えが間違っていたのだ」と考えているならば、 「……上回る時代になった」などという表現は、出てこないであろう。 つまり、この医師は「やりにくい時代になった」「昔は良かった」という気持ちを、暗に表明しているのである。 私が患者であれば、この医師の診療は受けたくない。

さらに、この医師は「生活習慣病治療薬など即時的に効果が実感しにくい薬を長期間服用する必要がある患者が増え、医師性悪説が成立しやすい環境になっている。 まだまだ恵まれた職業と思われている医師を悪とすることで、週刊誌が読者を掴んだ現状は認識しておくべきだ。」と述べている。 まず「性悪説」という語を誤用しており、この医師は漢文学の教養に乏しいことがわかる。 そして、医学科に合格しただけで、その後は理科や工科に比べてろくに勉強しなくても安定した高収入と社会的地位が保障される医師を 「まだまだ恵まれた職業と思われている」などと表現している時点で、世間知らずでもある。 ついでに言えば、医学なる学問を修め実践するだけで、理科や工科のような激しい競争もなしに、そうした高収入と社会的地位が与えられるのだから、 これはもはや現代における貴族であると言って良い。 我々が極めて恵まれた環境にいることには、疑いの余地がない。 もちろん、我々には貴族としての責任があるわけだが、それを果たそうという意志が、この医師のインタビューからは感じられない。 とはいえ、この医師のような考え方は、臨床医の間では、必ずしも少数意見ではないように思われる。

この特集には、もう一人、「がん専門医の立場から」として、富山医科薬科大学卒で日本医科大学教授の勝俣氏のインタビューも掲載されていた。 これを読み、さすが富山医薬大は見事な人材を輩出したものだ、と、私は感心した。 勝俣教授は、「医療不信に陥っている患者にどう対応しているのか。」という問いに対し、次のように述べている。

患者が医療を否定するようなことを言ってくると、中には「何を言っているんだ」と怒り出す医師もいる。 まだそういう部分が医療側にはある。 そもそも患者は医療を否定したいわけではない。怖いから逃げてしまう。 これは誰にでもある患者心理。医療のプロとして患者の不安をまずは受け止めなくてはならない。

さらに教授は、「週刊誌では患者自身が治療法を選ぶことの重要性を強調している。」という問い (?) に対しては、次のように答えている。

日本ではインフォームドコンセントが誤解されている。 本来は患者と医師が一緒に情報を共有しながら、考えていく過程を指す。 しかし、情報を与えて後は患者の責任、というのが現状で、訴えられないための責任逃れに使っている点も問題だ。
...
患者の自己責任論が強まった結果、医療を否定する情報を受け入れやすい環境ができている。

これを読んで思い出したのが、少し話は違うが、学生時代に某病院でみた事例である。 手術後に貧血の続く患者に対し、主治医は「既に輸血の同意書もいただいているので、必要があると思われる場合には、我々の判断で輸血を行います。」と述べたのである。 この患者は、特に認知機能障害があるわけでも、意識障害があるわけでもなく、基本的には判断能力が保たれている状態であった。 それなのに、「既に同意書にサインしたから」と、まるで、患者の「輸血を拒否する権利」を否定するかのような態度で患者に説明したのである。 この主治医は、インフォームドコンセントというものを「同意書にサインをもらうこと」という意味に誤解しているのではないかと思われる。

言うまでもなく、医療行為についての書面による同意などは、いつでも撤回することができる。 特に理由もいらない。「いやだから、いやなのだ」で構わないのである。 それを「同意書は既にあるから」などと言っているようでは、患者との信頼関係など、構築できようはずもない。


2017/03/03 学問は独りではできない

あたりまえのことである。 教科書一つ読むにしても、独りで読むのと、輪読形式の勉強会などを行うのでは、だいぶ異なる。 たぶん私だけではないと思うのだが、勉強会で他人に説明する、という前提であれば、普段よりも読み方が丁寧になる。 また、勉強会で質問や批判されることによって、あるいは説明すること自体によって、その内容に対する理解が深まる。 いわば、行間にあるもの、文章の裏側にあるもの、独りでは読めていなかった内容に、思慮が及ぶようになるのである。

現在、北陸医大 (仮) で、基礎病理学の教科書を輪読する勉強会を原則として毎週、開催している。 残念ながら私以外の研修医や若手技師などは参加していないのだが、少数の学生が参加してくれており、たいへん助かっている。 この勉強会に関心を示している学生は他にもいるらしいのだが、どうもハードルが高いと認識されている例が少なくないようで、実際の参加者は少ない。 まぁ、中には私のことを危険人物と認定して近寄らないようにしている者もいるのだろうが、そういう学生ばかりではないと思う。

題材にしている教科書が小難しい、という問題はある。 我々は Kumar V et al., Robbins and Cotran Pathologic Basis of Disease, 9th Ed. (2015). を、毎週 30 ページ程度、読み進めている。 これだけの量をキチンと、疑問点を解決しながら熟読しようとなると、本業の他に行う勉強としては、私にとっても容易ではない。 当然、学生や、英語を読み慣れていない研修医等にとっては、至難であろう。 だから学生に対しては、読めそうな量だけ担当すれば良く、やってみて厳しければ残りは私が引き継ぐから、無理しなくて良い、と言っている。

なお、教科書などは必要になったときに読めば良い、と言い訳する者もいるが、本当にそれを実行している者は、いない。 事前に基礎を勉強していなければ、ガイドラインやマニュアル等の記載に疑問を抱くことすら、できない。当然、教科書を開こうという気にすら、ならない。 だいたい、現に臨床医学を勉強し、あるいは臨床医療に携わっているのに、教科書で基本的な事項を確認することすら、実行していないではないか。 だから教科書は、必要になる前に読まなければならない。

さて、研修医というのは、そうした基礎的な勉強に手を出す最後の機会であろう。 ここで勉強しなかった者は、一生、教科書をキチンと読む習慣を身につけずに終わる。 しかし、周囲と同じように行動することを是とする風潮の中で育った医科の学生や研修医にとっては、周囲の人々がアンチョコ本に頼る中で、 自分だけ成書を読むには多大な勇気を要すると思われる。

だから私は、名古屋大学時代と同様、意識的に、周囲にみせるようにしている。 それを疎ましく思う者もいるであろうが、一方で、それに勇気づけられる者もいるであろうことを、期待しているのである。


2017/03/02 良性転移性平滑筋腫

良性転移性平滑筋腫、という概念がある。 先月号の「病理と臨床」の特集は原発不明癌であり、その中で国立がんセンターの吉田は「子宮平滑筋腫の良性肺転移や平滑筋腫症といった病態もあるので, 肺の多発転移や腹腔内多発結節でみつかる平滑筋腫瘍が必ずしも悪性であるとは限らない.」と述べている。 これを読んだ時、私は「おや」と思った。以前に読んだ Katzenstein の教科書に書いてあることと違うからである。

いわゆる肺良性転移性平滑筋腫というのは、細胞異型の乏しい平滑筋細胞が肺において多発性に結節を形成する疾患であって、 通常、子宮などに平滑筋腫の合併ないし既往を有する。 病理学を修めた者であれば「良性転移性」という名称に違和感をおぼえるであろう。 「良性」とは「転移や浸潤を来さない」という意味なのであって、「良性腫瘍の転移」というものは、定義上、存在しないからである。 一体、どういうことなのか。

肺非腫瘍性疾患を専門とする病理診断学の巨匠 Anna-Luise Katzenstein は、著書 `Diagnostic Atlas of Non-Neoplastic Lung Disease' (2016). の中で benign matastasizing leiomyoma について「低悪性度の平滑筋肉腫が転移したものと考えられる」と、簡潔に述べている。 すなわち「子宮平滑筋肉腫の肺転移」というのが疾患の本態であるが、一見、良性腫瘍様なので 「良性転移性平滑筋腫」という病理学的に矛盾した名称が与えられている、とする立場である。 これを支持する根拠としては、先行する子宮筋腫病変と、複数の肺病変が、いずれも同様の X-inactivation パターンを示していた、とする報告である (Human Pathol. 31, 126-128 (2000).)。 これが普遍的事実であるならば、全ての腫瘤が同一細胞起源であると考えるべきであるから、転移性病変であるとみるのが合理的である。 ただし、この報告に掲載されている写真は不鮮明で、私の眼では、同一の X-inactivation パターンであるとまでは読み取れなかった。

一方、病理診断学の聖典 Rosai J, Rosai and Ackerman's Surgical Pathology, 10th Ed. (2011). をみると、この疾患について 「子宮平滑筋肉腫の肺転移、すなわち良性転移性平滑筋腫 benign metastasizing leiomyoma とみる立場と、 多中心性良性平滑筋腫症 fibroleiomyomatous hamartoma とみる立場がある」としている。 後者は、この腫瘍は病理学的に良性のものであって、それが何らかの原因により、子宮と肺にそれぞれ原発した、という解釈である。 この解釈を支持する状況証拠として、妊娠や卵巣切除を契機に、つまりエストロゲンの分泌低下に伴って、 この腫瘍が自然消退した、という報告がある (Cancer 39, 314-321 (1977)., N. Engl. J. Med. 305, 204-209 (1981).)。 良性子宮平滑筋腫は、少なくとも部分的には、エストロゲン依存的に増殖することが知られているので、それと類似の病変であろう、という考えである。 また、他の平滑筋腫の合併や既往なしに肺に病変を生じた症例の存在を根拠に、これを原発性病変であると主張する報告もある (Pathol. Int. 51, 661-665 (2001).)。 ただし、この症例では全身 CT やシンチグラフィは施行したが、MRI や組織学的検索は施行していないようであり、小さな平滑筋腫の検出感度に疑義があり、 肺病変を原発と考えることの根拠としては薄弱である。

以上のように、転移派も原発派も、それぞれ相応の根拠は持ちつつも、決定的証拠がない。 この疾患の本態については、数十年にわたる論争が続いている、というのが現状である。

しかし冷静に考えると、これは、転移性非腫瘍性病変であるとみるのが合理的なのではないか。 そもそも転移という現象が、腫瘍に特異的なものであると考えること自体が合理性を欠いている。 過形成性病変が転移することも、あって良いはずである。 すなわち、エストロゲン感受性に平滑筋細胞が増殖する過形成性病変に、ある種の変異が加わることで転移能を獲得したのが「良性転移性平滑筋腫」であるとみることができる。 通常、過形成性病変は転移先で増殖することができないのだが、子宮体部と肺は、たまたま類似の niche を有しており、この平滑筋細胞は肺で増殖可能なのであろう。


2017/03/01 某病院長と某名誉教授

昨日の記事について、誤解を招くといけないので、最後に一文を追記した。

名大医学部学友時報 2017 年 2 月号が届いた。 これは名古屋大学医学部、おそらく正確には医学科の、同窓会報である。 内輪の発行物ではあるのだが、CiNii Books にも登録されており、他大学からも ILL で相互利用できるはずだから、公開された文献として扱って良いであろう。

今号の 4 ページに掲載されていた愛知県の某病院長の指摘は、たいへん、よろしかった。

今の研修医だけではなく学生も含めて、早い時期から自分の進む専門を選び、進路が決まると、 専門に直接関係ないと思われることに興味を失って勉強を怠るひとがいるように感じます。
...
効率を重視するあまり、つい不必要と思われることを取捨選択する傾向があるように感じます。 本来ならば無限の可能性があるにもかかわらず、先入観にとらわれて自分の選択肢を狭くする結果にならないか心配しています。 若いときに為になると思ったことでその後も普遍的に役に立つことはどれだけあるのでしょう。
...
また一方、専門分野に進めば、周辺に専門知識を持った先生方がたくさんいるため、いつでも知識を得ることができます。 しかし、専門外の事は周囲に聞くこともできないかもしれないし、ある程度の知識がないと自分で調べて勉強するのも効率が悪くなります 逆説的ですが、将来、専門分野に進んだ時に役に立つのは専門分野以外の知識だと感じています。
...
自分の視野を広げるためにも、趣味的でかまいませんが広く医学に興味を持ってみませんか? 「急がば回れ」という諺を思い出してみましょう。

こういう言葉が、卒業生、特に若い研修医に向かって発されるのが、名古屋大学の良い所である。

ひるがえって、我が北陸医大 (仮) は、どうか。 たとえば学生や研修医向けに開催されているセミナーの類をみても、大抵は医師国家試験や、救急外来を中心として臨床に「すぐに役立つ知識」を教えてくれている。 そうしなければ学生や研修医の多くが興味を示さない、という事情があるのは理解できるが、はたして、長期的、大局的な視野を持ったセミナーに、なっているだろうか。 それで大学と言えるのか。

だから私は、病理部での研修中、臨床実習で訪れた学生に対し、切り出し業務の傍で 「von Hippel-Lindau 病と腎淡明細胞癌の、分子生物学的および組織学的な連関について」というような、どう考えても試験や臨床の役には立たない雑談などをした。 これは、それなりに複雑な話であるから、一度聞いただけで彼らが理解できたとは思わない。 また、半分程度の学生からは「うざい研修医がいた」などと言われているに違いない。 しかし、そういう医者を直に見たという経験は、彼らの将来に少しだけ良い影響を与えると期待している。

さて、私は、母校を無条件に礼賛することが愛校心であるとは思わない。その悪い点を悪いと指摘することも、また愛情の表れである。 上述の学友会時報の 6 ページ に掲載されていた某名誉教授の随筆は、残念であった。

私が患者である場合、この頃は患者になって医者に診てもらう機会が多くなってきたが、電子カルテは見てはいけないものと思っている。 だから診察室では医者の書くカルテの画面から目をそらしている。
...
患者がカルテを盗み見てはいけないという法律はないが、「患者はカルテを通常は見ないものだ」という感覚がない人も混じっている。

どうやら、この名誉教授は、患者はカルテを見るべきではない、という信仰の持ち主のようである。時代錯誤である。

患者には自分のカルテを閲覧をする権利がある、というのが現代では常識である。 一部の精神疾患など、稀な例外を別にすれば、カルテは、患者に見られて困るような書き方をすべきではない。 もちろん、書いている現場を横でみられるのは落ち着かないかもしれないが、患者だって、自分のことをどのように書いているのかわからなければ、落ち着かない。 だから、道理を弁えている医者は、むしろ電子カルテの画面を患者から見やすいように配慮して、記載している。

「患者はカルテを通常は見ないものだ」という感覚は、改めなければならぬ。


2017/02/28 LGBT

昨日、男女差別について久しぶりに書いたので、その勢いで、本日は同性愛等を巡る問題について書く。 朝日新聞社は、その偏った報道姿勢について昔から批判されてきたが、記事の文章の質自体は高かったように思われる。 しかし近年では記者の水準が低下しているようで、言葉をろくに扱えていない記事が目立つ。

朝日新聞 digital の 2 月 26 日付記事に LGBT らに優しいトイレ 東京五輪に向け都が計画というものがあった。 性別適合手術を受けていない性同一性障害患者などをはじめとして、公衆トイレを使用するに際して性別上の問題が生じやすい人を念頭に置いた 男女共用トイレを増設することを都が計画している、という内容である。 なお「性同一性障害」という語については、「性別違和」に置き換えようとする動きがあるが、これは疾患の本態を見失った不適切な変更であるように思われる。

さて、この記事でも用いられている LGBT という語は、女性同性愛者 Lesbian, 男性同性愛者 Gay, 両性愛者 Bisexual, トランスジェンダー Transgender の頭文字から作られた語である。 トランスジェンダーの定義は曖昧であるが、性同一性障害患者がこれに含まれることには異論の余地がない。

上述の記事で問題にしているトイレの件は、専らトランスジェンダーについてのものであって、同性愛者等は無関係である。 従って、これを「LGBT らに優しいトイレ」と表現するのは明確な誤りである。LGB は関係ないのである。 こうした不適切な表現は、単に記者の作文能力が低いことを示しているだけでなく、記者や朝日新聞社が LGBT に対して無理解であることをも示している。 おそらく、日本国民の多くは、表面的には LGBT も個性の範囲として認められるべきである、というようなことを言いつつも、 裏では「おかしな人」というような目でみているのではないか。

遺憾ながら、こうした問題に無理解な医師も少なくない。むしろ、世間一般よりも差別主義者が多いかもしれぬ。 医学科のカリキュラムにおいては、こうした疾患群については、ほとんど扱われないことが多いようである。 その上、医者という人種は基本的に倫理観が高くないので、LGBT などの患者を陰で小馬鹿にするような発言をする者も稀ではない。

なお、LGBT は病気ではない、と主張し、「患者」という私の表現に反発する人もいるであろう。 しかし、LGBT は病気である。 医学書院『標準精神医学』第 6 版 (2015). では、疾病 illness を

本来の生理的機能が働かなくなり, その結果生存に不利な状態をいう. この場合, 「どのくらいの人数がそのような状態になっているか」は問題とされず, 「苦しんでいる」という事態のみを問題にするので, これは平均基準ではなく, 明らかに価値基準である.

としている。あなた方は、現に、LGBT ゆえにしばしば理解されず、社会において苦しめられているのであるから、これは立派な病気である。 言うまでもないことだが、病気だから劣っているとか、病気だから社会的に低く扱われても仕方ない、ということはない。 ただ、あなた方は苦しんでいる、という事実を表しているに過ぎない。 もちろん、病気だからといって、治すべきだというわけでもない。

2017.02.28 誤解されるといけないので、最後の一文を追記

2017/02/27 男女差別と小池百合子

久しぶりに、男女差別の話を書こう。 北陸医大 (仮) 附属病院の 1 階にはフードコートがある。名称はフードコートだが、ショッピングセンターなどでみかけるような形式のものではなく、普通の食堂である。 私は、だいたい一日に 2 食ぐらい、ここで食事をしている。

最近、この食堂のメニューに「レディース ホットサンドセット」というものが登場した。 写真をみる限り、普通のホットサンドである。なぜ、メニューに「レディース」などという名称を掲げているのか。 不愉快な男女差別である。

映画館などで「レディースデー」と称し、料金などの面で女性を「優遇」しているのをみかけることもある。 これは一見、女性優位に扱っているようにみえるが、根本的には、女性の方が男性より社会的あるいは経済的地位が低いことを暗黙の前提とした措置である。 すなわち、男女差別、男女格差を固定化するものであって、むろん、憲法の禁じる不当な男女差別にあたる。

朝日新聞 digital に、東京都知事の小池百合子へのインタビュー記事が掲載されていた。 「かわいいね」言われる時こそ甘えずにというタイトルである。 私は、この人の支持者ではない、というより、むしろ反小池派なのだが、日本の男女差別社会を切り崩す先陣としての活躍にだけは期待している。 上述の記事の内容についても、概ね異論はない。この国における、女性の社会的扱いは、おかしい。 ただし、この記事には、2 点、同意できない箇所がある。

記事の中で、小池は 男性の場合は、しがらみや「こうあるべきだ」という既成概念に縛られがちですが、女性はそれがない。時代の変革のドアを開ける役目があるんじゃないかと思っています。 と述べてしまっている。たぶん、口がすべったのであろうが、これは、言うべきではなかった。 男女差別の背景には、そもそも、性別についての不適切なステレオタイプが存在している。 男性はこうあるべき、女性はこうあるべき、という無意味な決めつけが、差別を生んでいるのである。 従って、差別と戦おうと思うなら、そのステレオタイプを否定しなければならない。 仮に、統計的に「既成概念に縛られる男性が多い」という事実があったとしても、それをもって「男性は既成概念に縛られがち」などと言うべきではない。 それを言ってしまえば、「統計的事実」に基づいて「日本の女性は学問に疎い」というような不当な決めつけを許すことになってしまうからである。 こういう軽率で浅慮な発言が時折みられるから、私は小池が嫌いなのである。

また、上述の記事では 大学などの成績では男性よりもむしろ女性のほうが優秀なのに、企業や組織に入るとそれが逆転する。 男性のほうが、ある意味ゲタをはかせてもらっているんですよ、この国は。 などと述べているが、これも事実に反し、女性を過大評価している。 京都大学工学部などでは男女比の偏りが著しく、事実上の男子校、などと言われる有様である。私の学年は、物理工学科 200 余名のうち女性は 6 名のみであった。 化学系や生物系では比較的女子学生も多く、また文科でも女性が多いが、それでもせいぜい、男女比は 1:1 に近い。 名古屋大学医学部医学科でも、女子比率は 2 割か 3 割である。 そもそも、最前線で学問をする女性が、男性に比べて圧倒的に少ないのである。

大学の成績ほど、あてにならないものはない。コツコツと過去問をみて、マジメに無難なレポートを提出していれば、成績は良くなるであろう。 確かに、女子学生には、そういう者が多いかもしれぬ。その意味では「大学の成績では女性の方が優秀」という小池の言葉は正しいが、それは人材としての優秀さとは関係ない。

ただし、女子学生の中に、稀に、驚くほど優秀な人物がいるのは事実である。 私が出会った限りでも、京都大学時代に一人、名古屋大学時代に一人、北陸医大 (仮) に来てから一人、恐ろしくデキる女性をみて舌を巻いたことがある。


2017/02/26 もらえるものは、もらっておく

医者という人種が、現実には大した倫理観も高潔さも持ち合わせていない、という事実は、世間に広く知られているであろう。 特に、金銭まわりは、かなり汚い。

そもそも、医者は高い給料をもらって当然だ、というような認識が広まっていること自体、異常である。 医者といっても、いわゆるゴッドハンドの外科医や神の眼を持つ病理医が高給をもらうことは自然であるかもしれないが、 ごく普通の平凡な医者が、年に 1000 万だとか 3000 万だとかの収入を得ることは、到底、妥当であるとはいえない。 給与の一部を返納せよ、とまでは言わぬが、そこに申し訳なさすら感じないようでは、社会常識が欠落しているとの批判を免れ得ない。

大学病院の医者は、多くの場合、副業として市中病院の非常勤医を兼ねている。 この副業からの収入は莫大で、安くとも時給 1 万円程度である。非常識である。 そうして得た収入を、使途の制限のない自由な研究費などに投入する医学者もいるが、大抵の場合、個人の享楽のために使うようである。 たとえば、「この病院の超音波検査装置は古くて性能が悪い」などと愚痴をこぼす医者は多くても、 私費で超音波検査装置を購入して病院に供与する医者は稀である。

要するに「もらえるものは、もらっておく」という発想なのである。 製薬会社から供与される弁当や物品にせよ、病院等からの給与にせよ、もらって何が悪い、というのである。 北陸医大 (仮) でも、医者同士が金儲けの話をしているのを聞く機会は稀ではない。少なくとも、臨床に直結しない医学談義をしているのを耳にするよりは、圧倒的に頻度が高い。 それが悪いとは言わぬが、それで、あなた方の尊厳は傷つかないのか。

物事の本質を捉えず、表面だけ繕うことに長けた一部の者は「君だって、その高い給料を、受け取るのだろう?」と指摘して、私を黙らせようとする。 確かに私も、給与を返納しようとは思わない。返納したところで、何かが改善するわけではないからである。 世間の人々も、私が給与を返納することを期待しているわけではないだろう。 ただし、その過剰な給与を、自身の娯楽や悦楽のためには用いない、ということは心に決めている。 研修医のうちは書籍費などに、また相応の立場についた後には、使途に制限のない財源として研究・臨床の環境整備のために、投入する所存である。 そうでなければ、私は、かつての同志たる原子炉物理学界の人々に蔑まれる。それは、我慢ならぬ。

私は、もとより医者が嫌いであった。医者になど、なりたくもなかった。現在も、医者であること自体には何らの誇りも抱いていない。 しかし諸君は、違うであろう。医師に憧れ、理想を抱いて、この道を歩んで来たのではないのか。 中には、親や教師の言いなりになって医学科に入り、医師になった者もいるだろうが、それでも、医師という職業に魅力を感じていたはずである。 あの頃の純真な心を、一体、どこに置いてきたのか。

本当に、それで良いのか。あなた方は、そういう医者に、なりたかったのか。


2017/02/25 くだらない論文

私は、常々、米国ハーバード大学教授などが書いた教科書を礼賛し、the New England Journal of Medicine (NEJM) のファンであることを公言している。 そのため、何かを勘違いした人は、私のことを「何だかんだ言って、結局、権威に弱い」などと嗤うかもしれぬ。 そこで本日は、NEJM に掲載された論文の中にも程度の低いものが稀ではない、という事実を指摘することで、私が NEJM を無条件に賞賛しているわけではないことを示そう。

この日記では原則として個人攻撃はしないことにしているが、NEJM に掲載された論文をけなしたところで、著者の名誉に傷がつくわけではないだろうから、具体例を挙げる。 たとえば最新の 2 月 23 日号に掲載された M. S. D. Agus らの `Tight Glycemic Control in Critically Ill Children' (N. Engl. J. Med. 376, 729-741 (2017).) である。 これは、重篤な状態にあり、かつ高血糖を呈している小児に対し、 インスリンを用いて血糖を基準範囲内にまで下げることが有益かどうかを統計的に調べた、いわゆる臨床研究の報告であるが、全く医学的価値がない。

この報告には、そもそも、そうした調査を行おうと考えた理由が記載されていない。 研究の背景が述べられていないのである。 インスリンを用いて血糖を下げることが有益かもしれない、と考える理由すら記載されていない。 何らの理論的根拠や推論も述べられていないのである。 少なくとも文面上は、単に「統計的調査が行われていないから、やってみました」というだけの報告であって、学問ではない。

さらにいえば、この報告では「血糖値を 80-110 mg/dL にまで下げることは有益かどうか」を評価したようだが、この 80-110 mg/dL というのは、 だいたい健常者の空腹時血糖の基準範囲である。 当然、病的な状態にある患者の「正常値」とは異なる。 従って、この「80-110 mg/dL にまで下げる」という発想が既におかしいのであって、これを検証の対象としていることは、浅慮である。 そもそも、なぜ血糖値を下げようと思うのか、という点を曖昧にし、論理的思考を欠いているから、こうした、おかしな条件設定が生じるのである。

補足しておくが、急性期において高血糖自体が有害であるという証拠はない。 インスリン作用不全による細胞内グルコース欠乏は有害であると考えられるが、その場合、高血糖そのものは問題ではない。 その観点からすれば、「血糖値をコントロールする」という発想自体が不適切なのである。

統計調査を行うにあたっては、その背景や、検証の対象とする理論を明確にすることが極めて重要である、という点は、過去に何度も指摘してきたので、ここでは繰り返さない。 素人である多くの医者は勘違いしているが、統計というものは、普遍的ではなく、客観的ですらない。これは、統計学を修めた者にとっては常識である。 そのような、統計の基本中の基本すらわきまえていない報告が、NEJM にも掲載されるのである。

この雑誌の読者の多くは統計を知らないから、この論文のくだらなさにも気づかないであろう。 結果として、少なからぬ読者が、この論文に興味を示し、また、別の論文にもしばしば引用されるであろう。 この論文が掲載された理由が、そうした点を見越した商業主義的戦略にあるのか、それとも単に査読者も統計の素人だからなのか、それは、わからない。

権威に弱いのは、私ではなく、エラい先生の言うことを鵜呑みにして統計をありがたがる諸君の方である。


2017/02/24 The New England Journal of Medicine

週刊 `The New England Journal of Medicine', 略称 NEJM は、臨床医学の分野において最も有名な雑誌の一つであり、発行元は米国の the Massachusetts Medical Society である。 もちろん、Massachusetts といえばハーバード大学や、その附属病院である the Massachusetts General Hospital の膝元であり、同国の医学教育・研究の中心地である。 臨床医学全般を扱う雑誌で世界的に有名なものとしては、他に英国の the British Medical Journal, 通称 BMJ などもある。 私は米国が嫌いであり、むしろ英国の方が好きなのだが、遺憾ながら医学の教科書では米国発のものに名著が多く、雑誌も BMJ より NEJM の方が好きである。 BMJ が多数の論文を掲載し、必然的につまらない論文も多いのに対し、NEJM は厳選された少数の記事のみを掲載しているため、「ハズレ」が比較的少ないからである。 また、NEJM には若手に対する教育を意識した記事なども多く、楽しく読める。

なお、私は英国風の英語を身につけたいと思っているのだが、上述のように、読む文献が主に米国のものなので、 私の英語は、米国風を主体として部分的に英国風が混ざるスタイルになっている。 単語の表記でいえば、たとえば「中心」は基本的に centre と書くが、「ヘモグロビン」は英国式の haemoglobin ではなく米国式の hemoglobin と書いてしまうことがある。

さて、これまで医学雑誌は時々図書館や電子ジャーナルで時々眺める程度であったのだが、今年の初めからキチンと定期的に読むことにした。 ただし、最新情報であっても信憑性の怪しい論文の類をたくさん読むことは、私のような素人に毛が生えた程度の医師にとっては重要ではあるまい。 むしろ、今はまだ、基本的な教科書をしっかりと勉強することが重要であろう。 そこで、舶来物については何か 1 誌だけを読もうと決めた。そして冒頭に述べたような事情により、BMJ ではなく NEJM を選んだのである。 以前から時折眺めていて、馴染みがあった、という理由もある。

腰を据えてジックリと読む場合、電子ジャーナルよりも紙媒体の方が、私は好きである。 ところが北陸医大 (仮) 図書館には、なぜか、紙版の NEJM が発行から一週間遅れで並べられている。 どういうことなのかと図書館に問い合わせてみると、「海外雑誌は届くのが遅れがちになる」との返答であった。 しかし過去の受け入れ状況を調べてみると、昨年の 1, 2 月も同様に一週間遅れで受け入れられていたものの、3 月から 12 月まではキチンと発行日に届いていたことになっている。 従って「海外雑誌だから遅い」という説明は事実に反するだろう、と思われた。

そこで NEJM の日本国内での流通を担っている南江堂洋書部に問い合わせてみると、 日本国内の印刷所から、基本的には発行日に届くように余裕を持って発送されている、との返答であった。 ただし、大学図書館などでは代理店を通していることがあり、その場合は到着が遅れることがある、とのことである。

それをふまえて、改めて北陸医大図書館に問い合わせたところ、今度は「今年から某代理店を通すことになったので、少し遅くなっているようだ」とのことであった。 この回答を信じるならば、今後も NEJM は一週間遅れの到着が続く、ということになる。

週刊誌を、発行から一週間も遅れて読むなどというのは、私のプライドが許さぬ。 京都大学や名古屋大学の連中が発行日に NEJM を読んでいることを思えば、それより一週間も遅れて同誌を手にしている時点で、 既に彼らに対し精神的に敗北していると言わざるを得ない。 北陸の雄たる我々が、京都大学ごときに遅れをとるようなことは、あってはならぬ。

以上のような理由により、結局、私は NEJM を個人で定期購読することにした。 購読を申し込んだのが 2 月 9 日であり、昨日午後にはキチンと 2 月 23 日号が手元に届いた。 初めから、こうしておけば良かった。


2017/02/23 p53 の過剰発現

p53 は、rb と並び、最も有名な癌抑制遺伝子の一つである。 これが 2 コピーとも機能喪失すると、細胞は癌化しやすいと考えられている。 従って、生殖細胞系列で 1 コピーが機能喪失している人は、その後の人生の中で、残りの 1 コピーも喪失した細胞が出現することが多い。 すなわち、全身に癌が多発しやすいのであって、これを Li Fraumeni 症候群という。

病理診断学的には、p53 が機能喪失しているかどうかを直接測定することは一般的ではない。 一応、ゲノムシークエンスをすれば変異があるかどうかは判定できるが、手間と費用がかかる割には、診断的意義が大きくないからである。 むしろ免疫組織化学染色法により P53 蛋白質の過剰発現があるかどうかをみることの方が、広く行われている。

細胞生物学を修めたが病理診断学に詳しくない人は、P53 の過剰発現、というと、なんだか奇異な印象を受けるであろう。 HER2 などの癌原遺伝子が過剰発現が癌化と関係していることはわかるが、癌抑制遺伝子が過剰発現するというのは、尋常ではないからである。

実は p53 には癌原遺伝子としての性格がある、という事実は、昔からよく知られているにも関わらず、細胞生物学の教科書にはあまり記されていない。 ややこしいことに、p53 そのものは過剰発現しても癌化を促すことがないのだが、一部の変異型のみが ras 系列の細胞内シグナルを活性化するらしい。 このあたりについては、歴史的にイロイロと混乱があったのだが、そのあたりも含めて Genes Dev. 4, 1, (1990). のレビューが読みやすい。

生理的には、p53 は構成的に転写・翻訳されているが、通常は MDM2 により速やかに分解されるため、細胞内の P53 蛋白質は少ない。 ところが、一部の変異型 P53 は MDM2 の基質とならないために、細胞内半減期が著しく延長し、発現量が増加する。 その一方で、なぜか、この種の変異型 P53 は上述のような ras 系列のシグナル活性化をもたらすことがある。 従って、免疫組織化学的な P53 の過剰発現は、しばしば ras 系列のシグナル活性化を伴っており、病理診断学的に有用である。 もちろん、変異に伴って抗原性も失われている場合には、免疫組織化学的に過剰発現を検出できないことに注意を要する。

上述のことからわかるように、P53 の過剰発現は、直接的には ras 系列のシグナル活性化を意味しない。 たとえば MDM2 の活性低下があれば P53 は過剰発現するが、これはむしろ癌抑制的に作用する。 また、理論的には、MDM2 の基質からは外れるが ras 系列のシグナルにも影響しないような変異も存在するはずである。 わかりやすい例としては、P53 が完全に機能喪失するような変異が考えられる。

従って p53 の過剰発現を評価する際には、他の免疫染色の場合よりも、特に注意深く考察しなければならない。


2017/02/22 卒業後の進路

過日、北陸医大 (仮) で、主に医学科 5 年生を対象とした進路説明会のような催しがあった。 我々研修医に対しても案内があり、私も出席したのだが、大半の研修医は欠席であった。 この会では、新専門医制度についての説明などが行われたのだが、大学側としては、大学病院の研修医を確保する意図もあったものと思われる。

会の冒頭で副院長は、医師にとって重要な能力として「考える力」を挙げ、それを身につける場として大学病院の環境が優れていることを主張した。 また、某外科の教員も、自科の専門医制度の説明に際して、この副院長の発言に対する援護射撃を行っていた。 私も、彼らの意見に全面的に同意する。

遺憾であったのは、この会では、まるで北陸医大の卒業生は県内の病院や、いわゆる関連病院で研修を受けるのが当然であるかのような前提で話が行われていたことである。 冷静に考えれば、卒業生が県内に留まる必要はないし、実際、半数以上の者は県外で初期研修を受けている。 そういった人々を黙殺するかのような調子で、会は進んでいったのである。 もちろん、これは、県内の医師を確保せねばならないという大人の事情によるのであって、たぶん、県当局からの「要請」もあるのだと思われる。 が、そんなことは学生や我々の知ったことではない。 私は大学や病院に忠誠を誓っているわけではなく、むしろ学問の下僕である。従って、本件については、大学当局は度量が小さい、と、批判せざるを得ない。

北陸医大の卒業生は、原則として、県外で初期研修を受けるべきである。 北陸医大には良い点もあるが、診療の水準は、遺憾ながら、全国トップレベルとはいえない。 適切とはいえない医療行為が行われることもある。 もちろん、それでも県内では最高水準なのだろうし、社会的に容認される範囲から明らかに逸脱しているとまでは言えないかもしれないが、改善せねばならぬ点は多い。 しかし北陸医大で学生時代を過ごし、北陸医大で初期研修を受けてしまうと、こうした「問題のある医療行為」を疑問に思わなくなってしまうのではないか。 実際、周囲の北陸医大出身研修医と話をすると、医学の常識からすれば論外と言わざるを得ないような医療行為について「やむを得ない」と擁護する者の多いことに驚く。 彼らは「そんなことを言うならお前がやってみろ」「君は臨床を知らないから」などと言うが、そうして現状を擁護して批判を封じ込めようとする限り、北陸医大に未来はない。

この現状を否定し、批判し、自身の手で改革せんとする志を有する者は、ぜひ北陸医大に残ると良い。 そうした開拓者精神と、相応の能力の持ち主にとっては、北陸医大は活躍の場に富んでいるといえよう。


2017/02/21 家族からの IC

本日の話題は「家族からの IC」である。 「患者や家族への治療方針の説明」という意味で「IC (informed concent)」とか「ムンテラ (ムントテラピー)」という語が使われることがあるが、これは原義とは異なる。 特に「IC を行う」という表現は、全く意味が通らない。せめて「IC を得る」とするべきである。 同様に「家族への IC」ではなく、「家族からの IC」が正しい。

Informed concent というのは、充分な情報を与えられた上での (患者の) 自発的同意、を意味するのであって、これを欠く診療行為は原則として不適切である。 意識不明である場合などを除いては、診療に関する情報を与えられる権利は患者本人が独占するのであって、家族には「知る権利」はない。 本人の同意なしに家族に対して病状説明を行うことは、医師の守秘義務違反であり、医療倫理の点から重大な不正行為である。 もちろん、治療方針の決定権も患者本人のみが有するのであって、家族には何の権限もない。 従って、「家族からの IC」は原則として不要であるし、むしろ患者の同意なしに「家族からの IC」を得ることは不法行為である。

注意せねばならないのは、認知症などのために本人が充分な判断能力を有さないと考えられる場合である。 法律上は、そういう人々のために成年後見制度があるのだが、現実には、この制度は充分に利用されているとはいえない。 やむなく家族等を事実上の後見人とみなして、これらの人々の同意に基づいて診療を行うことは、明らかに不適切であるとまではいえない。

問題なのは、一定の判断能力を患者本人が有していると考えられるものの、病状回復の見込みがない場合である。 倫理的にも法的にも、「知る権利」は患者のみが有し、治療方針の決定権も患者のみが有し、 そして患者には「知りたくないことは知らされない権利」や「家族に知らされない権利」がある。 特に「家族に知らされない権利」を守ることは、人の尊厳の観点から、極めて重要である。 しかし現実には、本人よりも先に家族に対して病状説明などを行ってしまう例が、存在しているのではないか。 医師、あるいは医療機関の側からすると、先に家族を納得させてしまった方が、トラブルを回避しやすく、特に、患者が死亡した後に揉めにくいからである。

もちろん、これは不適切である。 本人の同意なしに「家族からの IC」を得たり、あるいは治療方針を本人抜きで家族と相談して決めてしまった場合、後で訴えられれば、間違いなく病院の全面敗訴となる。 逆に、本人の同意がなかったために家族への説明を拒否した、という場合であれば、病院側が負ける余地はない。

実際、キチンとした病院であれば、家族に話す前に必ず本人からの同意を得ているはずである。名古屋大学でも、私は、そう教わった。 しかし、中には「死ぬ前には家族に連絡するのが当然だ」などと信じている医者もいるようで、困る。 そういう医者は訴えられるべきだと思うのだが、家族を亡くした遺族には、そういう水準の低い医者を相手に裁判をする気力もないことが多いであろう。 その結果、勘違いした医師が、のさばり続けているのが現状である。

2017.02.23 語句修正

2017/02/19 足場依存性

大腸の高分化型腺癌の組織標本をみていて、ふと思ったことがある。 これらの癌細胞は、周囲間質の繊維化を伴いながら増殖するのが普通である。 その一方で、浸潤能獲得の一環として、マトリックスメタロプロテアーゼやコラゲナーゼなどを発現している。 それなのに、なぜ、この癌細胞は、繊維化を伴っているのか。 腫瘍が惹起した炎症に伴って繊維化が生じるのは理解できるとしても、それを分解して腫瘍細胞が間質を置換するように増殖しても良いではないか。 なぜ、それが起こらないのか。

もしかすると、これらの癌細胞は強い足場依存性を有するがゆえに、周囲間質の繊維化を伴って増殖するのではないだろうか。と、考えたとき、私は、しまった、と思った。 細胞生物学を修めた者であれば、癌細胞の特徴の一つに「足場依存性の喪失」がある、という話を知っているであろう。 私の場合、6 年ほど前、医学部編入受験生時代に某予備校で、そうした知識を得た。 それを「そういうものか」と、何となく受け入れ、無批判に今日まで過ごしてきたことは、私の怠慢、浅慮であるとの批判を免れ得ない。

生物学に詳しくない読者もいるかもしれないから、足場依存性 anchorage dependence について説明しておこう。 一部に例外はあるものの、ヒトの細胞の多くは、何かに接着していないと増殖することができない。 たとえば液体に細胞を浮かべておいた状態では、たとえ栄養が充分で、細胞増殖因子などの刺激が加わっていても、増えないのである。 しかし、これらの細胞がガラスビーズだとか、あるいは試験管壁だとかに接着すると、たちまち増殖を開始する。 このように「足場」が存在しないと増殖しない、という細胞の性質を「足場依存性」と呼ぶ。 ところが、こうした「普通の細胞」が癌化、つまり形質転換 transform すると、なぜか足場がなくても増殖できるようになる、とされる。 これを「足場依存性の喪失」などと呼ぶ。

そもそも「癌細胞は足場依存性を喪失している」という説は、どこから出てきたのか。 私が調べた限りでは、I. Macpherson らの報告 (Virology 23, 291-294 (1964).) が初出のようである。 これは、実験室において細胞にポリオーマウイルスを感染させた際、形質転換した細胞と、そうでない細胞とを、足場依存性の有無で分別できる、とする報告である。 癌細胞の一般的性質を議論しているわけではない点に注意を要する。

1968 年には、M. Stoker らが、足場依存性の細胞生物学的基礎として、細胞周期の G1 チェックポイントの存在を示唆する報告を行った (Int. J. Cancer 3, 683-693 (1968).)。 このあたりの問題については、M. Thullberg らが簡潔にまとめている (Cell Cycle 7, 984-988 (2008).)。

以上のことから、細胞が形質転換するに際して G1 チェックポイント機構が破綻している場合には足場依存性が失われる、と考えられる。 一方、形質転換するためには G1 チェックポイントの破綻は必須ではないし、チェックポイントが破綻すれば直ちに癌化する、というわけでもない。 従って、足場依存性を有する癌細胞は当然に存在するし、また、足場依存性を失ったが癌化には至っていない細胞も存在するはずである。

結論として、「間質の繊維化を伴って増殖する高分化型腺癌は、強い足場依存性を有する」という仮説は、正しそうだといえる。


2017/02/18 無人の荒野を往くが如く

私は病理医の卵であり、先月と今月は、北陸医大 (仮) の病理部で研修を受けている。 来月からは臨床診療科の研修に戻り、来年度末から、また病理部である。

病理部での研修が始まった直後に、指導医の一人が臨床検査技師に対して、私を「一年次の研修医であり、将来、病理をやる可能性がある」と紹介した。 私は、すかさず「先生、可能性があるのではなく、完全に確定です」と訂正した。 迷わない、ということが私の長所なのであって、「可能性がある」などという曖昧な表現は、好かぬ。

ひとくにち病理医といっても、その働き方は多様である。 大学所属の病理医であれば、基礎病理学の研究を主に行い、その一方で病理診断業務も行う、という例も多い。 一方、市中病院であれば、病理診断を専らに行い、研究は基本的に行わない者も多い。 そのあたりについて「どうするつもりかね」と指導医に訊かれた際、私は「外科病理の研究寄り、を考えております」と即答した。

外科病理学というのは、病理診断学と同義である。これに対し実験病理学といえば、基礎病理学のことである。 歴史的に、病理診断学は基礎病理学から派生した学問であり、両者の境界は曖昧であるが、これを完全に分離すべきとする意見も強い。 基礎病理学も病理診断学も、それぞれ高度に専門的な分野なのであって、互いに片手間に行えるようなものではない、というわけである。

さて、私は、基礎病理学ではなく病理診断学の、しかし診断業務特化ではなく研究寄りでやっていきたい、という姿勢を表明したわけである。 こうした点は、早いうちから明確にしておいた方が、周囲の私に対する見方も固まるし、私自身としても将来を見据えやすく、具合が良い。

指導医の一人は、そういう私の方針を聞いて「つまり教授になろうというわけだな」と言った。 もちろん、私は「その通りです」と述べた。これを明確に即答できないようでは、医学者として大成しない。

その指導医は「昨今では、診断特化ではなく病理診断学をやろうという若者は少ない。無人の荒野を往くが如く、存分にやりたまえ。」と私を励ました。


2017/02/17 ネッター

医学科の学生であれば、よほどの怠慢学生を別にすれば、人体解剖図譜、いわゆる「アトラス」を所有しているはずである。 アトラスの中でも有名なのは、Netter と Prometheus であり、いずれも日本語訳されたものが出版されている。

故 Frank H. Netter は医師であったが、解剖図譜だけでなく、様々な疾患の臨床所見などを簡明で美しい図譜として遺した画家でもあった。 `Atlas of Human Anatomy', 邦題「ネッター解剖学アトラス」は、そのうち解剖学に関するものを集めた画集である。 原書は Elsevier から、日本語版は南江堂から、出版されている。 私はネッター派であるから、学生時代、これの第 5 版日本語版を、自宅用、大学用、解剖実習時の持ち込み用、の計 3 冊、購入した。

一方、Prometheus は、もともとドイツで出版されたアトラスであり、原題は Prometheus - LernAtlas der Anatomie というらしい。 日本語版は医学書院から出版されている。 この Prometheus は、要点だけをまとめた「コアアトラス」の他に、4 分冊になった詳細版がある。詳細版を全部購入すると 5 万円程度になるから、これを買う学生は稀であろう。

名古屋大学時代に、同級生の中で抜群に優秀であった女性と、アトラスの優劣を論じたことがある。 彼女がプロメテウス派だというのに対し、私は「プロメテウスも悪くはないが、ネッターの方が詳しいように思う。」と述べた。 すると彼女は「いや、さすがに、それはない。」と言い、自慢のアトラスをみせてくれた。 私は、その表紙をみて「プロメテウスというのは、あの簡略版ではなく、分冊版の詳しい方のことか。」と、驚いた。 彼女は「当たり前でしょう。何を言っているんですか。」と、ニヤリと笑った。

さて、ネッターには、俗に `Green books' と呼ばれる画集がある。 正式名称は `The Netter Collection of Medical Illustlations' であり、1948 年から 40 年ほどかけて完成された伝説的名著である。 これの改訂版が 2011 年から順次出版され、昨年 6 月に、全 14 冊の Green books 第 2 版が完成した。 もちろん Netter 自身は故人であるから、彼が新しい図譜を描いたわけではない。 その代わり、電子顕微鏡写真や組織画像などが掲載され、また、一部は Netter の後継者とされる C. Machado による図譜が加えられた。 オリジナルのネッター支持派の間では、賛否が分かれるかもしれぬ。

この Green Books 第 2 版が、先日、北陸医大 (仮) の図書館の蔵書に加わった。 以前から薄々思ってはいたのだが、この大学の図書館は、一般的な教科書の蔵書は貧弱であるものの、こういうマニアックな書籍は充実している。 たいへん、よろしい。

さて、私は、この Green books を購入しようかどうか、いささか迷った。 ぜひ我が書棚に納めたい品ではあるのだが、なにしろ全部を揃えると 12 万円を超える。 いくら研修医が高給取りだからといって、これは、さすがに高い。 しかし、いずれ購入するのであれば、今、購入してしまった方が良い。 それに、もし仮に私が市中病院の研修医で月給 50 万円を受け取る身であったならば、迷わず購入したであろう。 市中病院の研修医が購入するような医学書を、大学病院の、それも北陸医大の研修医が、予算を理由に購入しない、などということがあってはならぬ。

届くのが楽しみである。


2017/02/16 エリート意識

京都大学工学部にいた頃、同級生の某君から「君は、エリート意識を持っているのか」と問われたことがある。 これに対し私は「もちろん、持っている」と即答した。

日本の一般社会では「エリート意識」という言葉は、「俺は医者だ。賢くて、偉くて、金持ちなのだ。」というような、傲慢な精神の意味で使われることが多いようにも思われる。 もちろん私は、そういう意味で「エリート意識」という言葉を使ったわけではない。

私は共産主義者である。共産主義とは、端的にいえば「能力に応じて働き、必要に応じて取る」ことを是とする思想をいう。 時に誤解されるが、個人の自由の尊重とは何ら矛盾しない思想である。 この共産主義的思想のうち「能力に応じて働き」という部分は、フランス語でいうところの `nobles oblige' と概ね同義と考えて良い。 Nobles oblige という語は、元来は「貴族には相応の社会的責任・義務がある」という意味合いである。 この「貴族」の部分を「能力のある者」と置き換えて解釈していただければ、それが共産主義思想の半分を表しているといえよう。

要するに、我々共産主義者の信ずるところによれば、能力がある者には、それを活用し、社会あるいは人類に貢献する道義的責任がある。 自身の能力を過小に評価し、いたずらに謙遜することは、むしろ無責任な態度として批判されるべきである。

従って、エリート意識とは、自身の能力が他より優れていることを認め、それに伴う責任を自覚することをいう。 京都大学の学生であるならば、そうしたエリート意識は持っていなければならないし、だから私は、冒頭の某君の問いに対して即座に肯定したのである。

なお、誤解を招くといけないので補足しておくが、共産主義の重要な点は「必要に応じて取る」という部分である。 能力の高い者、社会に貢献した者が、より多くの報酬を与えられるわけではない。 これが、現代日本の、いわゆるエリート層には受け入れられない点であろう。 歴史的に共産主義が、裕福でない労働者を主たる支持層としてきたのは、こうした理由からである。

冒頭の話に戻るが、私は「エリート意識」という言葉を、某君とは異なる意味で使ったために、いささか誤解されたかもしれない。 こうした言葉の使い方の流儀の相違による誤解は、医学・医療の世界でも時に経験する。

たとえば「一般」という言葉である。 日常会話用語で「一般」といえば「多少の例外は認めつつも、多くの場合に適用可能である」というような意味であろう。 しかし物理や数学の言葉で「一般」といえば「全ての場合に対し、例外なく適用可能である」という意味である。 そこで、私のような工科の人間が「多少の例外はあるだろう」という意味で「一般には正しくない」と表現すると、 医科の人々には「ほとんどの場合に正しくない」というような意味に解釈されてしまうことあある。 文化の相違から来る誤解である。

もう一つ、先日、ヤヤコシイな、と思ったのが「そのようなことが、あってはならない」という表現である。 私は、この言葉を「現状として、そういうことはあるかもしれないが、望ましくない。研究を進め、なくさなければならない。」というような意味で使う。 理想を掲げ、その実現を目指すことを生業とする科学者としては、自然な表現であると思う。 しかし、この表現は、臨床医家の耳には「それは不適切な医療だ。ミスをしたのではないか。」と非難されているように聞こえることがあるらしい。

なかなか、難しいことである。

2017.02.23 語句修正

2017/02/15 医者が信用されていない件

過去に何度か書いたが、世間の人々は、あなた方が思っているほどには、医者を信用していない。 そのことは、あなた方が書いた初診時カルテをみれば明白である。

まともな医者が書いた初診時のカルテには「生活歴」あるいは「嗜好歴」といった欄が存在し、そこには、飲酒歴や喫煙歴などが記載されているはずである。 そこをみれば、患者が何歳の時に喫煙を始めたのか、わかるはずである。 私が何を言いたいか、わかるであろう。患者の多くは、カルテ上、20 歳で喫煙を始めているのではないか。 「さぁ、二十歳になった。法律が許すようになったから、今後は酒を飲み、煙草を喫うことにしよう。」というわけである。

もちろん、現実には、そんな人は稀である。 だいたい、遅くとも 18 歳か 19 歳ぐらいで喫煙を始めているのではないか。 早い者であれば高校生、あるいは中学生の頃に喫っているはずである。 なお我が母校にも、喫煙する者は少数ながら存在した。 そして「今はコミュニケーションツールとしての役割もあるだろうから喫煙も否定はしないが、二十歳になったら止めろ。」などと指導する教員もいた。 これは、正しい教育であると思う。

閑話休題、患者が虚偽の申告をすることを「仕方ないではないか」などと擁護する者は、視野が狭い。 世界をみよ。 海外の症例報告などをみると、法で禁じられている年齢から喫煙していたことが記載されている症例が、多数、存在する。 さらにいえば、違法薬物の使用歴までキチンと問診している例も多い。 日本でも教科書的には、違法薬物についても聴取すべきと記載されているのに、現実には問診できていない医師が圧倒的に多いであろう。 いわゆる脱法ハーブや大麻が一部に蔓延していることを思えば、違法薬物の使用歴を聴取できていない現状は、大いに問題がある。

あたりまえのことであるが、患者が過去の違法飲酒や違法喫煙を申告したからといって、我々がそれを他言したり、当人を叱責したりすることはない。 むしろ、漏らせば守秘義務違反として、我々が罪に問われる。 それなのに、なぜ、みえすいた嘘をつくのか。

要するに、我々医師は、患者から信用されていないのである。 これを「それは嘘をつく奴が悪い。医者の責任ではない。」などと言う者もいるが、そういう人々は医者に向いていないので、免許を返納した方が良い。

なお、患者が麻薬や覚醒剤を使用していることを知った場合に医師がとるべき対応については、法医学上の議論がある。 基本的には警察等への通報義務はないものの、通報しても守秘義務違反にはあたらない、というのが多数意見のようであるが、異論もないわけではない。 この問題については下総精神医療センターの研修情報に面白い記事があった。


2017/02/14 敗血症の定義についての批判と予言

敗血症の定義については昨年 5 月に少しだけ書いたが、その続きである。 欧米の救急医学会、具体的には the European Society of Intensive Care Medicine と the Society of Critical Care Medicine は、2016 年に Sepsis-3 として、敗血症の「新定義」と、SOFA スコアに基づく診断基準を発表した (J. Am. Med. Asssoc. 315, 801-810 (2016).)。 また日本救急医学会と日本集中治療医学会も、昨年末に日本版の敗血症診療ガイドライン改訂版を発表した。 このガイドラインでは、Sepsis-3 に準じる敗血症の定義と診断基準が推奨されている。

これまで日本で広く用いられてきた敗血症の概念は、Sepsis-1 に基づくものであって、つまり「感染症による全身性炎症反応症候群 (Systemic Inflammatory Response Syndrome; SIRS)」であった。 これに対し「新定義」では敗血症を「感染により重篤な臓器障害を来した病態」としている。 すなわち、感染により著明な炎症反応が惹起されていても、現に臓器障害が明らかでないものは、敗血症ではない、としたことになる。 診断基準上も、SIRS を基本とする Sepsis-1 では臓器障害を問題にしていなかったが、Sepsis-3 では、臓器障害がなければ敗血症とは診断しない。

Sepsis-1 の問題点としてしばしば指摘されたのは、感度も特異度も低い、というものである。 特異度が低いことは、少し考えれば容易に理解できるし、過去にも書いた。 しかし臨床的な観点からすれば、明らかに感染と無関係な理由で SIRS の基準を満足してしまう症例は問題にならない。 多少の過剰診断は生じ得るが、むしろ敗血症見逃しのリスクを減らすことの方が重要だ、というのが Sepsis-1 の理念であった。 従って、「特異度が低い」という点については、臨床的には重要ではない。

一方、感度が低い、という点については、N. Engl. J. Med. 372, 1629-1638 (2015). を引用して、 敗血症と考えられる症例の 1 割強は SIRS の基準を満足しない、という主張が、しばしばなされる。 しかし、この報告をみると、重症感染症でも SIRS の基準を満足しないことがある、と言っているだけであって、 SIRS の診断基準を満たさない敗血症が存在することを認めさえすれば、何の問題もない。

結局のところ、Sepsis-1 の問題点は、ノータリンな医師が無思慮なマニュアル診療する際には役立たない、という点と、 統計をとる際の「分類基準」としては適さない、という点に過ぎない。 診断基準は絶対ではない、ということさえ認識していれば、臨床的には問題ないように思われる。

これに対し Sepsis-3 では、重篤な臓器障害の存在を定義に含め、つまり生命予後の不良なるものに限定して敗血症と呼ぶことにしている。 換言すれば、適切な治療を施しても死亡する恐れの大きい患者のみが「敗血症」と診断されるのである。 治療が遅れれば死亡する恐れもあるが、適切な治療を直ちに行えば救命は容易である、というような患者は、敗血症ではないのである。 SOFA スコアや qSOFA スコアを診断基準に用いるというのは、つまり、そういうことである。

結果として、何が起こるか。 SOFA スコア上は問題がないから敗血症ではない、と診断される症例が、従来よりも増えることになる。 敗血症ではない、となれば、並の医師は油断する。検査や治療が遅れ、緩くなる。 敗血症でないなら血液培養は不要と考える医師も出現すると予想される。

今のうちに予言しておくが、5 年か 10 年の後には「Sepsis-3 を基準に敗血症を診断すると Sepsis-1 を基準とした場合よりも予後不良になる」という報告がなされるであろう。

これは、病理学的本態を軽視し、致死率などという、実体を伴わない統計を偏重したことの弊害である。


2017/02/13 図書館のこと

たまには毒にも薬にもならぬ話を書くのも、よろしかろう。

私は、図書館が好きである。 と言っても、読書が趣味だ、などという高尚な話ではなくて、古い財宝がズラリと並ぶ書架の間をブラブラと歩くのが好きなのである。 そこに納められているのは紙やインクではなく、先人達の情熱と志の結晶である。 いずれは私のタマシイも、ここに加えられるのだ、と思えば、否応なしに興奮するのは自然なことであろう。 従って、私のいう「図書館が好き」というのは、読書好きな人々には、邪である、と言われるかもしれぬ。

臨床医学の世界に蔓延する悪い習慣として、理論の軽視、がある。 教科書には様々な知識が記載されているが、それが、いかにして導出されたのか、何を根拠に、そのように考えられているのか、といった点は、省略されることが多い。 しかも、教科書の記載は、しばしば間違っている。 従って、その記載に疑念を抱いた時には、その教科書の記載の根拠となった文献を調べねばならない。

医学科 4 年生か 5 年生の頃から、そうした古文書漁りが私の趣味になった。もちろん、今でも続いている。 近年では電子ジャーナルが発達しているから、古い文献を複写するにしても、わざわざ図書館まで赴かずに済むことも多い。 これは確かに便利なのだが、本音としては、私は図書館で書架から古い文献を取り出し、自分の手でコピーする方が、楽しい。

その意味でいうと、名古屋大学附属図書館鶴舞分館は、実に楽しかった。 名古屋の図書館は、開架書庫の蔵書も優れているのだが、実は閉架書庫が非常に充実しており、100 年以上前の文献も豊富である。 北陸医大 (仮) 図書館も優秀ではあるのだが、さすがに蔵書数では名古屋に及ばぬ。


2017/02/12 佐賀大学

月刊「病理と臨床」というオタク向け雑誌がある。 これを出版している文光堂は、基礎医学や学生向けの教科書の分野では南江堂、南山堂、MEDSi, 医学書院ほど有名ではないように思われるが、 もっとマニアックな専門書については同社の圧勝である。 私の蔵書でいえば『血液細胞アトラス』『寄生虫学テキスト』といった渋い名著や『小児科学』などの専門書が同社から出版されている。 また病理診断学のアトラスなど、専門医ですら個人ではなかなか購入しないような書物となると、日本では文光堂の独壇場である。

さて「病理と臨床」には「CPC 解説」という連載記事があり、教育的価値のある症例や貴重の症例を病理学的に議論した内容が掲載されている。 先月は「著明な肝脾腫を呈し, 劇症の経過をたどった systemic EBV positive T-cell lymphoma of childhood の 1 剖検例」と題する佐賀大学からの報告であった。 この疾患自体は、すごく稀でマニアックに過ぎるので、ここでは紹介しない。 しかし本症例の臨床経過に、私は、たいへん感心した。

臨床経過を簡略に述べれば、次のようなものである。 40 歳台の男性が、倦怠感と発熱を主訴に近医を受診した。 血液検査では肝酵素高値、CT では肝脾腫がみられ、入院した。 また、腹痛と発熱に対し 4000 mg/day 程度のアセトアミノフェンを処方された。 その後、黄疸や代謝性アシドーシスを来したため、某病院に紹介された。

なお、その「近医」が投与した 4000 mg/day のアセトアミノフェンというのは、添付文書上は最大の投与量であるが、この薬は肝毒性があることで有名である。 肝酵素高値や肝脾腫といった肝傷害を示唆する所見のある患者に対して、このような投与をすることは、常識では考えられない。 平たくいえば、その「近医」が行ったのは、医療過誤である。

そのような患者を紹介された某病院では、患者を集中治療室に入院させ、人工呼吸器や持続血液瀘過透析などを用いた全身管理を開始した。 また敗血症も疑い、血液培養を行うとともにセフェム系抗菌薬であるセフェピムの投与を開始した。 しかし在院第 4 日に、ペニシリン感受性の連鎖球菌菌血症が明らかになったため、セフェピムを中止し、ペニシリン G とクリンダマイシンの投与を開始した。

この抗菌薬のくだりは、記事のメインストーリーとは関係ないのであるが、これを読んで私は、見事なものだ、と、感心した。 連鎖球菌感染症であるなら、抗菌スペクトラムの狭いペニシリン G で充分なのであって、広域スペクトラムのセフェピムを無闇に使うことは、 耐性菌を生み出すリスクとなるだけでなく、その患者の常在細菌叢を乱し、有害無益なのである。 敗血症診療ガイドラインでも、連鎖球菌による敗血症に対してはペニシリン G とクリンダマイシンの組み合わせが推奨されている。 なお、クリンダマイシンは細菌の蛋白質合成、具体的には翻訳を阻害することで、TSS 毒素などの細菌性毒素の産生を抑える働きがあると考えられている。

要するに、このセフェピムからペニシリン + クリンダマイシンンへの切り換えは、感染症治療の基本に忠実な、模範的対応である。 勉強が足りない、あるいは診断能力の低い医師には、こうした抗菌薬の de-escalation は、できない。実際、できていない医師が多いのではないか。 自分の診断に自信がないから、無闇にスペクトラムの広い抗菌薬に頼るのである。 常在細菌叢を乱すことで致死的な転帰につながったとしても、臨床的には原疾患による死亡と鑑別困難なので、 患者を死なせた医師は「不可避な死であった」と自分や遺族を納得させることができ、罪悪感は少ない。 というより、自分が死なせた可能性を認識すらしない例が多いのではないか。

キチンと勉強した医師と、そうでない医師との違いは、こういうところに表われる。 「よく効く薬」を出してくれる医者は、むしろ藪医者なのである。

2017.02.13 語句修正

2017/02/11 考えること

大学院を辞めるとき、某教授から励ましの言葉をもらった。 「これまで主に理論や計算をやってきたのであれば、考える、ということには長けているであろう。 それは、どの分野に移るにしても、大きな武器になるに違いない。」 というのである。 当時は何となく勇気づけられはしたが、教授の言っている意味は、よくわからなかった。

今になってみると、教授の言った通りであった。 「覚える勉強」ばかりしてきた学生や若い医師は、考えるということが、全くできない。 それは、彼らの書くカルテに如実に現れている。 患者の病態に対するアセスメントが、全然、できていない。 ○○の所見があったから△△をした、というような記載ばかりで、「なぜ、そうしたか」が書かれていないのである。 診断名がカルテに記載されていない例も少なくない。

そう指摘すると、若い研修医などの中には「臨床現場は忙しいから、そんな詳細にカルテを書いている暇がない。 お前は気楽な病理だから、そんなことが言えるのだ。」などと言う者がいる。 的外れである。自分達の至らない点を棚に上げて、批判を防ぐことにばかり集中し、自分達が患者を害しているという現実から必死に眼を背けているに過ぎない。

学生には信じられぬことであろうが、たとえば原因不明の貧血をみた時、少なからぬ医師は、その原因検索をまともに行わず、とりあえず輸血で凌ぐ、という対応をする。 なぜ血液塗抹標本をみないのか。なぜ網赤血球やハプトグロビンを測らないのか。なぜクームス試験を施行しないのか。 中には、鉄関連の血液検査すら施行しない者もいる。 さらに恐ろしいことに、MCV が 70 fL を下回っているような患者について「貧血の原因は出血であると考えられる」などと記載した紹介状をみたこともある。

専門外の人のために補足しておくと、出血による貧血は、正球性ないし代償性網赤血球増加による大球性であって、つまり赤血球の大きさは、普通ぐらいか、やや大きくなる。 MCV というのは赤血球 1 個あたりの大きさのことであって、普通は 80 fL ぐらいはある。70 fL というのは、とても小さい。 上述の患者は、たぶん、出血が持続したことで鉄欠乏性貧血を来して代償不全となり、小球性貧血を来したのであろう。 それを主治医は気づいていなかったから「原因は出血である」などと書き、鉄剤の投与も行っていなかったのである。

「診断する」という能力が、根本的に欠如している。 おそらく、学生時代から試験対策と手技にばかり興味を示し、診断学をまともに勉強しなかったのであろう。 そして研修医になってから、まともな診断能力を持たない指導医の背中ばかりみて育つと、結局、診断できない医師ができあがる。


2017/02/10 発熱がないから血液培養は不要

明日から三日間、第 111 回医師国家試験が実施される。 諸君の健闘を祈る。

さて、敢えて今まで聞こえないふりをしてきたのだが、そろそろ我慢がならないので吐き出すことにしよう。 北陸医大 (仮) に来てから幾度となく耳にしたのが「発熱がないから血液培養は不要」という意見である。 意味がわからない。 このような主張が北陸医大ではまかり通っている、という事実が世に知られれば、我が大学の名声は地に落ちるであろう。

私は二年半ほど前、五年生の時の臨床実習で「原因不明の発熱をみたら、黙って血液培養を 2 セット施行せよ」と教えられた。 そりゃそうだ、と思ったし、なぜ、わざわざ「2 セット」などと、あたりまえのことを強調されるのか理解できなかった。 その一方で、「発熱がなければ血液培養は不要」などという説は、名古屋にいた頃には一度として聞いたことがなかった。 当然であろう。 敗血症において発熱は必須ではないし、むしろ体温低下型の敗血症すら存在する。 「発熱がないから血液培養を行わない」などという態度では、少なからぬ敗血症を誤診し、患者を死なせることになる。 なお、これを巡って私が失敗したことは 2 年ほど前に書いた

「発熱がなければ血液培養は不要」という風説が、どこから発したのかは、知らぬ。 少なくとも、私の手元にある内科学、感染症学、細菌学などの教科書には、そのような記載は存在しない。 強いて挙げれば、グラム陰性菌の細胞膜に存在する LPS は発熱を惹起する、というのは有名な話であるから、 「発熱がないなら、グラム陰性菌感染症は考えにくい」と考えることには、一応の根拠がないわけではない。 もちろん、これは「グラム陽性菌感染症では発熱しないことも稀ではない」ということでもあるから、血液培養を不要とする根拠にはならない。

また、北陸医大で時に耳にするのが「血液培養のために大量に採血することは患者の負担になるし、貧血を増悪させる恐れがある」という意見である。 採血が患者の負担になるのは事実だが、しかし、感染症を正しく診断できずに対応が遅れれば、患者の負担どころか、命に関わる。 さらに「大量の採血」といっても、2 セットで 40 mL である。小児ならともかく、成人であれば、40 mL の採血で貧血がどれだけ増悪するというのか。 自分の頭では何も考えず、エラい人の言うことを無批判に受け売りしていると、そういう発想になるのだろう。

なお、某教授のために弁明しておくが、我が大学でも学生に対して「発熱がなければ血液培養は不要」などとは教えていない。

2017.02.25 語句修正

2017/02/09 Bleb

`Bleb' という医学用語がある。日本語では「ブレブ」などと発音されることが多い。 これに似た語として `bulla' という語もあり、日本語では「ブラ」などと発音される。 本日の議題は、この両者の違い、特に `bleb' という語の定義についてである。 中途半端な勉強をした者の中には「肺の気腫性変化のうち、径 1 cm 以下のものを bleb と呼び、1 cm 以上のものを bulla と呼ぶ」などと即答する者もいるかもしれぬ。 が、それは正しくない。

まず、肺 CT の名著である Webb WR et al. High-Resolution CT of the Lung, 5th Ed. (2015). の Chapter 23 の用語集によれば、両者は次のように区別される。 Bleb は臓側胸膜内の空気を含む空間をいい、bulla は、境界明瞭な気腫性領域であって、直径 1 cm 以上であるものをいう。 すなわち、それが胸膜内である、という点において、bleb は bulla とは明確に区別される、というのである。 ところが同書の Chapter 6 では、bleb について

The term bleb is used pathologically to refer to a gas-containing space within the visceral pleura or subpleural lung, no larger than 1 cm.

とある。つまり、場所の問題ではなく、大きさで区別する、というのである。 なぜ、このような食い違いが生じるのか。 双方の記述が根拠として示している参考文献を調べると、その全容がみえてくる。

まず Chapter 23 の方は、胸部画像の専門家集団である Fleischner Society が 1984 年に発表した用語集 (Am. J. Roentgenol. 143, 509-517 (1984).) を 挙げている。この用語集では、確かに、bleb は胸膜内の空間であり、bulla は 1 cm 以上の気腫性領域である、とされている。 なお、この用語集は、いわゆる胸部 X 線画像を念頭においたものであって、CT は想定されていないことに注意を要する。

次に Chapter 6 の方をみると、Fleischner Society の 1984 年の用語集だけでなく、同じく Fleischner Society が CT 所見のためのに発表した用語集 (Radiol. 200, 327-331 (1996).) と、それらの改訂版である 2008 年の用語集 (Radiol. 246, 697-722 (2008).) も挙げられている。 改訂前後の両方を参考文献に並べる、無節操な記述である。 1996 年の用語集では、bleb という語は記載されていない。Bulla については、1984 年の用語集と同様の記載であるが、「上皮性の壁に囲まれている」という要件が加えられている。 一方、2008 年の用語集では、bleb について

A bleb is a small gas-containing space within the visceral pleura or in the subpleural lung, not larger than 1 cm in diameter.

としている。High-Resolution CT of the Lung の Chapter 6 の記載は、これを引用したものであろう。 なお、bulla については 1984 年の記載と同様であって、「上皮性の壁」という記載は削除されている。

なぜ、2008 年の用語集では bleb の定義を変えたのか。この用語集が bleb の項で参考文献として挙げているのは Mayo Clin. Proc. 78, 744-752 (2003). である。 これは、肺嚢胞や空洞についての報告であるが、用語の定義については詳しく議論しておらず、単に

A bleb is a localized collection of air in the immediate subpleural lung or within the pleura and is usually less than 1 cm in diameter.

と宣言されている。ここでは、Fleischner Society の 1984 年の用語集に加えて、Respiration 59, 221-227 (1992). が参考文献として挙げられている。 残念ながら、この報告は北陸医大 (仮) の図書館に所蔵されていないので取り寄せ中であるが、abstract をみる限り、用語について詳しく議論している様子はない。

以上のことから考えるに、bleb という語は、病理学的には伝統的に胸膜内病変を指す語として用いられてきたが、 これを「小さな嚢胞性病変」というような意味で用いる慣習があまりに広まってしまったために、Fleischner Society も現状を追認したのではないかと思われる。 なお、嚢胞性病変を 1 cm より大きいか小さいかで区分することには意味がなく、 画像所見としては bleb という語は使わず、bulla に統一すべきである、とする意見が主流のようである。

最後に、病理診断学の立場から Rosai J, Rosai and Ackerman's Surgical Pathology, 10th Ed. (2011). の記載を紹介しておこう。 この書物によれば、bleb とは、胸膜直下の肺胞が破裂することで空気が胸膜の結合組織内に放出されたものをいう。 また bulla とは、嚢胞性空間であって、薄い胸膜に覆われたものをいう。

このように、用語の定義は統一されておらず、混乱が続いている。 その現状について、Fleischner Society の 2008 年の用語集の序文の最後の段落を引用しておこう。

We hope that this glossary of terms will be helpful, and it is presented in the spirit of the sentiment of Edward J. Huth that "scientific writing calls for precision as much in naming things and concepts as in presenting data". It is right to repeat the request with which the last Fleischner Society glossary closed: "Use of words is inherently controversial and we are pleased to invite readers to offer improvements to our definitions".

他人が提唱した定義を、無批判に鵜呑みにしてはならぬ、ということである。


2017/02/08 血友病 A と B

血友病 A とは血液凝固の第 VIII 因子欠損症のことであり、血友病 B とは第 IX 因子欠損症のことである。 血友病 B には、最初に発見された患者の名から「クリスマス病」という別名もある。 第 VIII 因子は第 IX 因子の補因子として働くため、いずれが欠損しても、結局は第 IX 因子の機能不全となり、つまり第 X 因子の活性化障害を来す。 従って、血友病 A と血友病 B は臨床的には鑑別不能であり、第 VIII 因子活性や第 IX 因子活性を調べることによってのみ鑑別できる。と、言われることが多い。 凝固因子活性検査は「臨床的」に含めないのか、という疑問もないではないが、そこは本質的な問題ではないので、気にしないことにする。

ここまでは、医学科出身者にとっては常識である。 少しマニアックな人であれば、凝固因子活性の測定には混和法を用いることが多い、ということも知っているだろう。 つまり、APTT 延長を来している患者の血漿を第 VIII 因子を欠く血漿と混ぜた場合に、APTT が短縮しないならば第 VIII 因子欠損症が疑われる。 また第 IX 因子を欠く血漿と混ぜた場合に、APTT が短縮しないならば第 IX 因子欠損症が疑われる。

さて、Kumar V et al., Robbins and Cotran Pathologic Basis of Disease, 9th Ed. (2015). をみると、血友病 A と B を臨床的には区別できないことについて `This should not be surprising, given that factors VIII and IX function together to activate factor X.' と述べられている。 私も、こうした記述を学生時代に読んだ時には「そりゃそうだ」としか思わなかった。 しかし今になって改めて考えると、これは、むしろ驚くべきことである。

血友病 A と B を臨床的に区別することは不可能である、という考えの根拠は、 「第 VIII 因子の生理的機能は、第 IX 因子の補因子としての作用『のみ』である」という事実である。 もし他の作用があるなら、それに起因する臨床的な相違が生じると考えるのが自然だからである。 確かに、第 VIII 因子活性が第 IX 因子活性化以外の何かに影響を与えているという話は、聞いたことがない。

それならば、第 VIII 因子と第 IX 因子などという二つの因子を作る必要はなく、はじめから活性化した第 IX 因子を作れば済むことではないか、と考えるのは自然な発想であろう。 なぜ、進化の仮定で我々は、わざわざ二つの因子を獲得したのか。 単なる偶然のいたずらなのか。それとも、そうした選択圧を生じせしめる事情があったのか。 第 VIII 因子には、活性化プロテイン C の作用標的としての役割もあるが、それについては 第 IX 因子が活性化プロテイン C 感受性ドメインを持てば済むだけの話なので、やはり二つの異なる因子が生じた理由にはならない。

この二つの因子の存在は、進化の過程で何か壮大なドラマが生じた名残りなのであろう。しかし私は浅学であり、詳細は知らぬ。

なお、血液凝固カスケードは複雑怪奇であって、現代生理学においてなお、その全容は解明されていない。 長らく、このカスケードは「第 XII 因子から始まる内因系と、組織因子から始まる外因系が、第 X 因子に合流する」と考えられてきた。 しかし、これは in vitro の現象としては正しいが、in vivo では異なるらしい、という考えが近年では主流になっており、 `Robbins' にも、そのように記載されている。 第 XII 因子の存在意義は、よくわからない。


2017/02/07 Morbidity and Mortality

日本の医療業界には、ドイツ語もどき不適切な略語をはじめとして、 単位の不適切な省略など、不適切な表現が横行している。 特に「上がる」については、検査結果について「高値である」という意味で使う者が多いが、それなら、そのまま「高い」と言うべきである。 「上がる」と表現した場合には、「過去の検査結果に比べて高くなっている」という意味になる。

もちろん、中には言葉に気を使う人もいる。 某教授は、別の医師がカルテに記載した「(悪性腫瘍が) MRI で再発した」という表現をみて、 「MRI で、どうやって再発するんだ」と、せせら笑っていた。 いうまでもなく、これは「MRI 所見から、再発と診断された」と書くのが正しいのだが、日本語が不自由な医師は多いのである。

医師の言葉遣いがおかしいのは、遺憾ながら、日本に限ったことではない。 たとえば米国の週刊誌などをみるに、かの国においても `liver function' などの語を不適切に用いる慣習があるらしい。

米国の教科書などで、しばしば `morbidity and mortality' という表現をみかける。 `Morbidity' というのは公衆衛生学用語であって、日本語でいうと「罹患率」である。 これは、人年単位で表した疾患の発生頻度であり、人口 10 万人、一年あたり、の単位を使うことが多い。 たとえば「米国における悪性黒色腫の罹患率は、10 万人年あたり 25 人である」といった具合である。 これに対し `mortality' というのは「死亡率」であって、人年単位で表した、その疾患による死者の数である。 たとえば「米国における悪性黒色腫による死亡率は、10 万人年あたり 3.1 人である」ということになる。 似た言葉に `fatality' というものがあり、これは「致死率」である。 つまり、その疾患を来した患者のうち、どれだけが死亡するか、という割合である。 「急性間質性肺炎の致死率は 50 % 程度である」といった表現になる。

さて、`morbidity and mortality' という語は、そのまま解釈すれば「罹患率と死亡率」ということになり、それ自体は、明らかにおかしな表現であるとはいえない。 しかし実際には、この表現は単なる「死亡率」の意味で使われる場面が多いように思われる。 つまり、単に `mortality' とだけ書けば済むところを、なんとなく `morbidity and mortality' としているのである。 さらにいえば、`mortality' が `fatality' の意味で使われている例が非常に多い点も、日本と同様である。

言葉遣いが甘いということは、つまり、思考が緻密さを欠いている、ということである。 伝われば何でも良い、という態度は、知性の放棄に他ならぬ。


2017/02/06 JFK

かつて米国に John F. Kennedy という男がいた。賢者であった。 彼が大統領就任演説で述べた次の言葉は、日本でもよく知られている。

And so, my fellow Americans: ask not what your country can do for you --- ask what you can do for your country.

これは、黒田和雄訳『英和対照 ケネディ大統領演説集』(原書房; 1963 年) で次のように訳されている。

それゆえ, わが同胞であるアメリカ人諸君, 諸君の国が諸君のために何をなしうるかを問い給うな --- 諸君が諸君の国のために何をなしうるかを問い給え。

この部分だけをみると、何だか全体主義的な、個人の自由を否定する言葉のように聞こえ、JFK は、かくも野蛮な男であったのかと誤解しかねない。 しかし黒田が「国」と訳した語は、原文では country であり、むしろ「人々」とでも訳した方が意味合いとしては適切であろう。 実際、この言葉は次のような主張に続いて発されたものである。

Now the trumpet summons us again --- not as a call to bear arms, though arms we need --- not as a call to battle, though embattled we are --- but a call to bear the burden of a long twilight struggle, year in and year out, `rejoicing in hope, patient in tribulation' --- a struggle against the common enemies of man: tyranny, poverty, disease and war itself.

Can we forge against these enemies a grand and global alliance, North and South, East and West, that can assure a more fruitful life for all mankind? Will you join in that historic effort?

つまり、貧困や戦争といった人類共通の敵と戦うために、世界中で手をとりあって立ち向かおう、という文脈において、 他人から何かをしてもらうことよりも、自分が他人のために何をできるか考えろ、という意味なのである。

さて、我々は初期臨床研修医である。 大学や病院から何を得られるか、何を教えてもらうことができるか、何をやらせてもらえるか、ということに注意が向くことは、やむをえない面もある。 しかし同時に、自分が人々のために、社会のために、何をできるか、本当に考えている者は、どれだけいるだろうか。 与えられた仕事をこなすことに汲々として、自分のことばかり考えるように、なってはいないか。


2017/02/05 労働組合

労働組合というのは、被雇用者たる労働者が構成する組合であって、主として労働契約内容を巡り雇用者と交渉することを目的とするものをいう。 資本主義社会体制おいては、多くの場合、雇用者は被雇用者よりも立場が強い。 というのも、被雇用者は失業した場合に次の職に就くことが一般には容易でないのに対し、雇用者は、代理の労働者を探すことはさほど難しくないからである。 従って、弱い立場にある労働者が団結することによって、雇用者と対等の立場で交渉できるようにすることは重要である。 それを社会的に保障するのが労働基準法などの法令であって、労働組合の立場に法的保障を与えている。

このように、労働組合は社会的に重要な役割を担っているのだが、私は、労働組合に加入していない。 というのも、医師という職業は、他の高度専門技術職と同様に、雇用者よりも必ずしも弱い立場にはないからである。 実際、東京の超有名病院など一部の例外を除けば、多くの病院は医師の確保に四苦八苦している。 逆に医師の方は、就職先にはかなりの自由が効く。 辞められて困るのは病院の方なのであって、医師ではなく、その意味において、労働者の側がむしろ雇用者よりも強い立場にあるといえる。

私は北陸医大 (仮) を愛しており、我が能力を発揮するに最も適した場所は北陸医大であると信じている。 だから、他の病院や大学に比して、いささか待遇が悪かったとしても、それに対して不満を唱えようとは思わない。 しかし、もし大学当局が私に対し明らかに不当な取り扱いをするならば、たとえば自主的な研究の時間を著しく奪うとか、 一般の大学職員よりも低い給与しか払わないとか、そういう場合には、さすがに北陸医大に留まろうとは思わない。 万が一、そういう事態に陥った場合には、当局に抗議した上で、それが容れられないならば北陸医大を去れば良いと考えている。 それで困るのは私ではなく、北陸医大の方なのである。


2017/02/04 本態性血小板血症

二年半ほど前に書いた記事に対する補足である。

本態性血小板血症は、JAK2 などの変異を背景として、骨髄中の巨核球や末梢血中の血小板が増多するものである。 MEDSi 『ハーバード大学テキスト 血液疾患の病態生理』、南江堂『血液専門医テキスト』改訂第 2 版、朝倉書店『内科学』、 血液学の名著である Kaushansky K et al., Williams Hematology, 9th Ed. (2016)., そして止血・血栓学の名著である Marder VJ et al., Hemostasis and Thrombosis, 6th Ed. (2013). は、 いずれも、症候の有無を問わず、原則として本態性血小板血症の全例に対し抗血小板療法を行うことを推奨している。 なお、無症候性の本態性血小板血症に対して抗血小板療法を行うことについての理論的、あるいは統計的根拠は、どこにも示されていない。

これに対し Kasper D et al., Harrison's Principles of Internal Medicine, 19th Ed. (2015). は、 無症候性で心血管危険因子を有さない患者は治療を要さない、と述べている。

これは、ハリソンの方が正しい。 血小板が多いこと自体が血栓形成を促すという報告はないし、生理学的に考えても、そのような現象は考えにくい。

当時の記事に明記した通り、二年前の私は、ハーバードとハリソンのどちらが正しいのか判定できなかった。 しかし今では「ハリソンの方が正しい」と、自信を持って言うことができる。 あまり意識はしていなかったが、医学に対する私の理解は、この二年間で少しばかり深まったようである。

話は変わるが、月刊「臨床検査」の今月号では、血小板機能検査が特集されている。 基本的な内容が簡潔にまとめられており、ややこしい分子的シグナル云々の話は省略されており、初心者にも読みやすい。 もちろん日本語であるし、臨床検査医学に詳しくない一般的な研修医でも理解できるような内容である。 血小板機能障害についてよく知らぬ、という人は、ぜひ、読んでみると良い。


2017/02/03 某国大統領の乱行について

たまには政治の話を書いても良いだろう。

私は、アメリカ合衆国が嫌いである。世界中でイスラエルの次ぐらいに嫌いなのだが、 イスラエルは国ではないから、世界中で最も嫌いな国はアメリカだ、ということになる。 ただし、私は、アメリカ人を嫌いなわけではない。というより、正直にいえば、少しばかり羨しく思うところさえある。

世界中から反感を買っている、例の大統領令の話である。 後任が決まるまでの仮の司法省トップ、すなわち司法省長官代理の任にあったイェイツ氏は、大統領令に背く指示を出したために解任されたという。 さらに、国務省の外交官有志などが大統領令に異議を唱える抗議文を作成したのに対し、 ホワイトハウスの報道官は「政府方針に従わないなら退職すべき」という趣旨の発言をしたという。

国際社会において、アメリカ合衆国が正義を遂行しているとはいえない。むしろ、世界で最も邪悪な国家の一つであろう。 しかし、個人差はもちろんあるが、集団としての傾向でいえば、アメリカ人は、我々よりも、はるかに正義を愛し、悪を憎む心を持っているように思われる。 ましてや、かの国の教養溢れ誇り高い外交官達が、大統領ごときの威嚇に屈するとは思われぬ。

まことに、アメリカは偉大な郷である。

偉大といえば、1 月 30 日の記事で、AIDS の原因が不明であった時期に、疫学的根拠に基づいて男性同性愛者などの献血制限を主張した Don Francis の言葉について紹介するのを忘れていた。 The New England Journal of Medicine の 1 月 12 日号、175 ページからの引用である。

`How many people have to die? ... How many deaths do you need? Give us the threashold of death that you need in order to believe that this is happening, and we'll meet at the time and we can start doing something.'

本職の翻訳家ではない私がエイヤッと訳すと、次のようになる。

一体、何人が死ななければならないのか。諸君は、一体、どれだけの死を必要とするのか。 一体、どれだけの犠牲者が出れば、諸君は、これが現実に起こっていることだと理解するのか。 具体的な数字を示したまえ。それだけの死者が出た後に、対応を議論することにしよう。


2017/02/02 腫瘍の定義 (2)

分化した B 細胞がモノクローナルに増殖する疾患である MALT リンパ腫においては、多くの遺伝子変異や染色体異常が知られている。 Jaffe ES et al., Hematopathology, 2nd Ed. (2017). によれば、第 3, 12, 18 染色体のトリソミーや、t(11; 18), t(14; 18), t(3; 14), t(1; 14) が多いらしい。 これらの転座によって生じたキメラ遺伝子や遺伝子の発現異常が、細胞の異常な増殖を促していることは、ほとんど疑いの余地がない。

こうした遺伝子の異常を伴う疾患について、少なからぬ教科書は、安直に「腫瘍と考えられる」などと述べている。しかし、これは適切な論理とはいえない。 遺伝子異常を背景に、外部からの刺激に過剰に反応して異常な増殖を示す、いわば「モノクローナルな過形成」というべき病態が、理論上、存在するからである。 「モノクローナルな過形成」であれば、外部からの刺激を遮断すれば増殖しなくなるはずであり、あるいは消退する可能性すらある。 これは一種の前癌病変には違いないから、通常の過形成とは区別すべきではあるものの、少なくとも「腫瘍」と呼ぶべきではない。 古典的定義における腫瘍、すなわち、自律的な増殖を続ける病変とは、病理学的にも臨床医学的にも、大きく異なるからである。

もし、だいぶ以前から私の日記を読んでいる人がいたら、「おや、こいつ、前と言っていることが違うぞ」と思われるかもしれない。 というのも、1 年と少し前の記事で私は、遺伝子の異常が存在することを根拠に 「いわゆる副甲状腺結節性過形成は、むしろ腺腫である」と主張しているからである。 しかし、当時の記事で私は、いわゆる副甲状腺結節性過形成は、何らかの外因性刺激に対する反応性の細胞増殖とは考えにくい、と指摘している。 その上で、autocrine ないし paracrine によって増殖していると考えられるから、腺腫とみるべきである、と主張したのである。 遺伝子異常の存在から短絡的に「腫瘍である」と結論したわけではない。

現代病理学の教科書には、なぜか「モノクローナルな過形成」というような概念が記載されていない。 それどころか、5 年から 10 年ほど前までは「モノクローナルな増殖」と「腫瘍性の増殖」を同義として扱う風潮まであったように思われる。 しかし、病理学の教科書をよく読むと、「腫瘍は、変異を来しやすい形質の獲得を背景として生じる」という意味のことが昔から書かれている。 それならば、腫瘍は増殖しながら変異を蓄積していくはずであり、つまり腫瘍は「ポリクローナルな増殖」を呈すると考えるのが自然である。 なぜ、あたかも腫瘍がモノクローナルであるかのような錯覚が生じたのか。

これは、発癌の機序を巡り、白血病、特にリンパ性白血病についての研究が他分野よりも先行した、という歴史的経緯によるものであろう。 遺伝子再構成を経た後のリンパ球に由来する腫瘍に関して研究する限りにおいて、「モノクローナル」とか「ポリクローナル」とかいう語は、 遺伝子再構成の具合を表現する言葉として用いられることがある。 これは臨床的な観点に由来するのではなく、細胞の由来を識別するという、単に研究上の便宜のためだけの用法である。 この用法に限っていえば、確かに血液腫瘍はモノクローナルに増殖するのであるが、ゲノム全体についていえば、当然、リンパ性白血病であってもポリクローナルである。 そのあたりを深く考えない人々によって、「モノクローナル」「ポリクローナル」という語は、不適切な使われ方をするようになったのであろう。


2017/02/01 腫瘍の定義 (1)

「腫瘍」という語は、臨床医療において、しばしば不適切に使われる。 特に、一部の臨床医は「腫瘤」の意味で「腫瘍」という語を用いる癖があるようで、よろしくない。 腫瘍という語は英語では tumour、米国式に表現すれば tumor であって、この英単語の原義は「腫脹」である。 従って、膨らんでいる病変を全て tumour と表現することは、完全に誤りであるとまではいえない。 しかし、Kumar V et al., Robbins and Cotran Pathologic Basis of Disease, 9th Ed. (2015). に the nonneoplastic usage of tumor has almost vanished と記されているように、現代では、普通、「腫脹」の意味で tumour という語は用いない。

医学書院『医学大辞典』第 2 版では、「腫瘍」という語を 「身体を構成する細胞 (体細胞) が, 何らかの原因で自律的に不可逆性に増殖する性質を獲得し, 体内で増殖を続け, 宿主を傷害する病態。」としている。 しかし、これは病理学的には正しくない。無症候性の腫瘍も存在するのだから、「宿主を傷害する」は余計である。 では、そこを省いて「〜 体内で増殖する病変のこと。」とすれば良いのかというと、そうでもない。 たとえばホジキンリンパ腫は、少数の Reed-Sternberg 細胞が、多数の反応性リンパ球を伴って増殖する疾患である。 医学書院流の定義に従えば、Reed-Sternberg 細胞と反応性リンパ球を併せて「腫瘍」であるということになる。 これに対し、反応性リンパ球は非腫瘍性なのであって、Reed-Sternberg 細胞のみが真の腫瘍である、とするのが現代病理学の立場である。

そこで `Robbins' をみると

A neoplasm is an abnormal mass of tissue, the growth of which exceeds and is uncoordinated with that of the normal tissues and persists in the same excessive manner after cessation of the stimuli which evoked the change.

新生物とは、組織の異常な集塊であって、その増殖は無秩序かつ過剰であって、かつ、そうした変化を惹起した元の刺激を取り除いても、同様の態様で増殖を続けるものをいう。

という古典的定義が紹介されている。なお、新生物という語は腫瘍と同義である。 さらに、この古典的定義を分子生物学の言葉で表現したものとして

a disorder of cell growth that is triggered by a series of acquired mutations affecting a single cell and its clonal progeny.

細胞の過剰な増殖を呈する異常であって、ある細胞における一連の変異の獲得、およびその娘細胞への継承によって引き起こされるものをいう。

という表現が紹介されている。 この定義は、現代において広く受けいれられているように思われるが、不適切である。 上述の古典的定義や医学書院の定義に含まれている「自律的に増殖するもの」という要件が含まれていないからである。

この定義が問題になるのは、たとえば、MALT リンパ腫である。 これは Marginal zone lymphoma と呼ばれるリンパ腫の一型であり、よく分化した B 細胞がモノクローナルに増殖する疾患である。 MALT リンパ腫は、時に H. pylori 感染に合併して生じ、H. pylori を除菌することで消失することがある、という点で有名である。 H. pylori 除菌で消失するならば、H. pylori 感染に関連する何らかの刺激に反応してリンパ球が増えていたのだ、と考えるのが自然である。 従って、これは完全に自律的な増殖ではないから、上述の古典的定義や医学書院の定義に従うならば、これは非腫瘍性病変である。 しかし現状では、そうした反応性と考えられる病変まで含めて「リンパ腫」、つまり腫瘍として扱われている。

この反応性リンパ増殖性疾患を腫瘍として扱うことが妥当かどうか、という問題は、次回、書くことにしよう。

2017.02.01 訳修正

2017/01/31 労働力

過日書いた京都大学出身の某君と、学士編入組が基礎医学研究の道に進むことの是非について話し合ったことがある。 我々編入組は、年齢のハンディキャップを少なからず背負っている。 そんな我々が、ポスト争いの厳しい基礎医学研究で、はたして生き残れるだろうか。 名古屋大学など一部の大学は、編入組に基礎研究での活躍を期待するようなことを募集要項に書いているが、はたして、本当にそんなことが可能なのだろうか。 ひょっとすると、単に実験のための労働力として我々を利用する魂胆で、「ごほうび」として医師免許を与えようとしているだけなのではないか。 そういう疑念について、語り合ったのである。

実際、私は、そうした疑問を抱いたまま、名古屋大学の面接に臨んだ。 既に富山大学からは合格をもらっていたので、面接で少しでも不満があれば、名大の合否にかかわらず富山大学に入るつもりであった。 そこで上述の疑念について、やんわりと面接官に確認したところ、研究といっても必ずしも基礎医学である必要はなく、いわゆる臨床研究でも良い、と言われた。 これにより疑念が晴れ、私は名大に入ることにしたのである。

なお、似たようなことは名古屋大学の同期編入生の某君とも話したことがある。 我々医学部出身者は、学識の深さでは、どうしても理学部や農学部の連中に及ばない。そんな我々が、基礎研究をする意義はあるのか、という問題である。 これについては、我々は学識の深さではなく広さ、幅で勝負するべきであろう、という点で合意に達した。

さて、研修医の多くは、基礎医学の学識が極めて乏しい。細胞生物学や生化学など、知らなくても恥ずかしくも何ともない。 「必要になった時に調べれば良い」という者もいるが、そもそも基礎が欠落しているのだから、いざという時に教科書を開いても、理解できない。当たり前である。 そこに書かれている内容を表面的になぞることはできても、それが真に意味するところ、行間にあるもの、文章の裏側に潜んでいるものを、読みとることはできない。 臨床面でいえば、典型症例に対してガイドラインに沿った診療はできても、それ以上のことは、できまい。 では研究面ではどうかというと、 「広く、浅い」医師ならば「狭く、深い」理学部や工学部、農学部の連中を相手にまわしても戦えるであろうが、「狭く、浅い」医師では勝負にならぬ。

一体、なぜ、かくも基礎が軽視されるのか、なかなか理解できなかった。 しかし最近になってようやくみえてきたのだが、彼らは、ただ眼前の問題にコツコツと取り組むことを、二十余年間、続けてきたのではないかと思われる。 入学試験にせよ卒業試験にせよ、あるいは国家試験にせよ、与えられた関門をくぐり続けていけば、明るい未来があると思ってきたのではないか。

それでは、遺憾ながら、便利な労働力にしか、なれない。


2017/01/30 男性同性愛者による献血

2 月 3 日に補足記事がある。

1 年以上前に、 日本赤十字社が定める「献血をできない人」の基準が医学的に不適切であることを述べた。 また、本件についての問い合わせに対する日赤の回答が、到底、納得できないものであった旨も書いた。 日赤の姿勢は、男性同士の性行為であっても充分に安全に配慮して行えば HIV のリスクが高いとはいえない、という医学的事実を無視した、不当に差別的な態度である。

私は、初期臨床研修の一環として、献血に際しての検診業務に携わることもある。 私としては日赤の方針には納得がいかないが、男性同性愛者の献血禁止は明文化されており、検診医の裁量では変更できない。 男性同性愛者の献血を拒否する、などという、医師としての良心に反する行為を、我々は、強要されているわけである。

こうした不当に差別的な態度は、ジュネーヴ宣言の定める医師としての倫理に反するものである。 しかしジュネーヴ宣言は世界医師会なる任意団体が定めただけのものであって、法律でも条約でもない。 日本医師会は世界医師会に加盟しているが、私は日本医師会に加入していないから、私個人は、世界医師会が定めたジュネーヴ宣言とも無関係ということになる。 さらに、日本の法令には、こうした医師としての倫理観についての規定がない。 従って、法令上は上述のような不道徳な行為を禁じる規定がなく、私個人としては、日赤の横暴に対して抵抗する手段がない、というのが現状である。

ところで、The New England Journal of Medicine の 1 月 12 日号 (174 ページ) に `Rethinking the Ban --- The U.S. Blood Supply and Men Who Have Sex with Men' と題する記事が掲載されていた。 タイトルからわかるように、男性同性愛者の献血を一律に禁止することは不適切だ、と主張する内容である。 たいへん論理的、合理的な主張なので、ぜひ読まれると良い。 この記事では、AIDS が世に出現した当初の、疫学的根拠に基づいて AIDS ハイリスク群を献血禁止とした措置は適切で素晴らしかったと認めた上で、 そうした対応は今日では無意味である、と指摘している。 思考停止して、過去の慣習を無批判に、しかも、もっともらしいが実際には不合理な「根拠」を挙げて支持する人々を、強烈に批判しているのである。

我々は、独立した医師である。 医師免許は、医業を為すことの許可証ではない。医学を修め、自身の頭脳で物事を判断できるだけの教育を受けたことの証明書である。 我々にとっては「エラい人が、そう言っていたから」は理由にならない。

なお上述の記事は、次のような格調高い宣言で締めくくられている。

Greatest respect can be paid to the peopole who died and to this tragic and complicated history not by maintaining outdated policies but by constantly reevaluating and implementing changes in line with what we do know and by advancing science in areas we do not fully understand.

我々は AIDS との悲惨な戦いの歴史、および、その中で犠牲となった人々に対して、最大限の敬意を払わねばならない。 その敬意とは、時代遅れの方策に拘泥するのではなく、最新の知見に基づいて常に最適な道を模索することである。 そのためには、未知なる分野を開拓する科学を推し進めることこそが重要である。

2017.02.01 訳修正

2017/01/29 「糸を切れ」

名古屋大学時代の同級生であれば、「糸を切れ」という言葉で、「あぁ、あの話だな、フフフ」と笑うかもしれない。 私が医学科 5 年生の春の思い出話である。 臨床実習では、全ての診療科と、検査部などの非臨床部門とで実習を受ける。 その、最初の診療科での実習の時のことであった。

ある腹腔内の疾患に対し外科手術を受けた患者の病室でのことである。 術後に多少の腹水、つまり腹腔内に水が貯留するのは自然なことであるので、この腹水を排出するために、ドレーンと呼ばれる管を留置しておくのは普通のことである。 つまり、腹壁に穴を開けて、管で腹腔内と体外とをつなぐのである。なんと野蛮な、と思わないでもないが、まぁ、やった方が良いと考えられている。 そして術後何日か経って、ドレーンから出てくる腹水が減ってきたら、これを抜去する。 むやみにドレーンを留置しておくと、その腹壁の穴から細菌が腹腔内に侵入し、腹膜炎などを来す恐れがあるから、不要になった管は早く抜くのが良い。

さて、その病室に入った時、指導医は腹水がほとんど出ていないことを確認し「よし、ドレーンを抜こう」と言った。 そして、学生の中で先頭に立っていた私を指し、「君、やりたまえ」などと言った。 もちろん私は、ドレーンの抜去など、やったことがない。 やるとも思っていなかったから、予習もしていない。 一体、どうやって抜けば良いのか、とんとわからぬ。 しかし患者に不安を与えてはならぬ、と思い、なにくわぬ顔で「はい」と言った。

指導医は、「まずハサミで糸を切りたまえ」と言った。 つまり、ドレーンと皮膚とが糸で縫い合わされているので、それを切断して糸を外し、然る後にドレーンを引き抜くのである。 しかし私は、糸のどの部分を切れば良いのか、わからなかった。 糸を切るというのは、それなりに高度な技なのである。 もしヘンテコな場所で切ってしまうと、糸の一部が患者の皮膚の中に残ってしまい、審美的な問題を生じるだけでなく、感染や炎症を起こすこともある。 だから適切な場所で糸を切らねばならないのだが、そもそも私は、ドレーンと皮膚がどのように縫い合わされているのか知らなかったから、 どこを切れば正しくドレーンと皮膚を分離できるのか、わからなかったのである。

そこで私は、「先生、どこを切れば良いのでしょうか」と助けを求めたのだが、指導医は「糸を切れ」としか言わない。 やむなく私は、どう考えても安全な場所で糸を切ってみたのだが、どう考えても安全な場所というのは、つまり、どう考えても重要でない場所なのだから、 やはりドレーンと皮膚は分離できない。 やむなく私は「先生、どこでしょうか」と繰り返したが、指導医には伝わらない。 「糸を切れ!」「切ったことないんか!」と、声を荒げられたが、もちろん、私はドレーンを固定している糸など切ったことがない。 そこで「はい、初めてです」と言ってしまえば良かったのだが、いささか動揺していた私は、患者の前でそういうことを言って良いのかどうか判断できず、困った。 今から思えば、私が初めてであることなど患者にはバレていただろうから、遠慮せずに言うべきであった。 たいへん不安な思いをさせてしまい、申し訳ない。

最終的には、エイヤッと糸を切って、無事に、私はドレーンを抜くことができた。 要するに、ドレーン抜去時の抜糸は、皮膚を縫合した糸の抜糸と全く同じ要領で良いのである。 それを一言、言ってくれれば何も問題なかったのに「糸を切れ」だけでは、わからぬ。

あのような指導医にならぬよう、気をつけるとしよう。


2017/01/27 国際水準

この日記は、一部の北陸医大 (仮) 関係者にみられているように思われるのだが、気にせずに悪口も書くことにする。

北陸医大には、志のあまり高くない人が、遺憾ながら、少なくないように思われる。 たとえば、ある先進的な治療方法を「北陸地方で初めて導入した」などと表現された場合、北陸医大の人々は、どう感じるか。 たぶん、少しばかり誇らしく思うのではないか。

言うまでもないことであるが、名古屋大学では「東海地方初」とか「中部地方初」とかいう表現は、一度として聞かなかった。 名古屋大学が新たに行うことならば、中部地方で初めてなのは当然であって、わざわざ言及する必要がないからである。 さらにいえば、京都大学では「日本初」という表現も耳にしなかった。 京大の連中は自分達が日本一だと思っているから、少なくとも世界初でなければ、自慢にならないのである。 そこで我が北陸医大を顧みれば、いつのまに我々は、隣県の地方大学と自分達を比較して優劣を論じるような矮小な大学になり果てたのか。

これは、大学の規模がどうとか、予算がこうとかいう話とは、無関係である。我々の精神のあり様の問題である。 「北陸医大は、そういう大学だ。嫌なら名古屋か京都に帰れ。」という批判も、的外れである。 我が北陸医大は「地域と世界に向かって開かれた大学として、生命科学、自然科学と人文社会科学を総合した特色ある国際水準の教育及び研究を行う」ことを、 その理念として掲げている。 国際水準の教育や研究を行うのだという自覚が、あなた方には足りないのではないか。

たとえば、研修医室の個人机をみわたすと、キチンとした成書を並べている者は極端に少ない。 最新情報を集めようと論文検索するにしても、和文論文だけ探して、英文を読もうとしない者も多い。 本当に学術的価値のある内容を和文論文として発表する者など存在しない、という事実を、認識していないのだろう。 さらに、指導医の中にも、診療ガイドラインなどの内容を無批判に受け入れている浅慮な者も稀ではない。 一体、何が、どうなっているのか。

我が大学は、ずいぶん昔から、人材確保に苦労しているらしい。初期臨床研修医も、定員に比して、応募者が少ない。 病院首脳部も、いかにして自大学出身者を残らせるか、ということばかり考え、他大学から人材を集めようという発想を欠いているようである。 そのあたりの問題について、病院長や副院長と話したことは一度や二度ではないが、 どうも彼らは、北陸医大には、他大学から人を集められるだけの魅力が乏しい、と認めてしまっているように思われる。

このように、北陸医大の現状は、惨憺たるものである。 とはいえ、私は、北陸医大の未来が暗い、と言っているわけではない。 まぁ、みているが良い。


2017/01/26 講義中に電話に出る

他大学のことは知らぬが、名大医学科では、講義中に携帯電話が鳴ることがあった。 学生ではなく、教員の携帯電話の話である。 多くの場合、教員は「失礼」などと言って電話に出て、「今は講義中だから」などと言って切り、講義を再開していた。 こうした光景には、違和感があった。

京大工学部時代にも、ごく稀に、教員の携帯電話が鳴ることはあった。 大抵、電源の切り忘れ、マナーモードへの切り替え忘れであって、通常、教員は電話に出ず、そのまま切っていた。 極めて稀に電話に出る教員もいないではなかったが、そういう場合は「出るのかよ」と、学生側が失笑した。 社会通念からいって、妥当な反応であると思われる。

医学部の教員に、講義中であっても電話に出なければならない事情があるのかどうかは、知らぬ。 ただ、講義というのは、大学教員にとって重要な職務である。その最中に、どうしても電話に出なければならない状況というのは、私には想像がつかぬ。 たとえば患者の容態が急変したような場合であっても、別の担当医が対応できる体制が整えられているのが普通であろう。

まぁ、ひょっとすると、私には想像もつかぬ、やんごとなき事情があるのかもしれないから、電話に出ること自体は、明らかに不適切であるとまでは断定できない。 ただし、中には、学生に対する詫びの言葉の一つも発さずに電話に出る教員もいた。 これは言語道断である。社会常識をわきまえぬ野蛮人であると言わざるを得ない。


2017/01/25 巨赤芽球性貧血

22 日の晩から断続的に降雪があり、既に県内の都市部で 40 cm 程度、山間部では 100 cm を越える積雪が生じている。 私は天気予報をよく確認していなかったために、うっかり日曜日の晩に帰宅してしまい、月曜日の朝の通勤バスが渋滞で遅延して苦労した。 今週は、月曜日の朝から金曜日ないし土曜日の晩まで、病院に滞在する予定である。 そんな生活のために指導医には心配をかけてしまっているようだが、病院の住み心地が良いのは事実である。 食事は安い院内食堂で摂ることができるし、図書館には娯楽雑誌もある。 臨床の役には立たない考え事、調べ物をするには、夜の大学病院は、はなはだ快適なのである。

さて、2 ヶ月ほど前に「書く」と宣言したまま放置してきた巨赤芽球性貧血について、いよいよ書こう。 巨赤芽球性貧血とは、ビタミン B12 または葉酸の欠乏により、DNA、具体的にはチミジル酸の合成障害を来し、結果として大球性貧血を生じる疾患である。 基本的には RNA 合成には支障を来さない。 このあたりについては 3 年ほど前に書いた。

病態から考えてわかるように、巨赤芽球性貧血では、しばしば、白血球や血小板の形成障害を伴う。 無効造血に至り、溶血性貧血を合併するのも典型的である。 また、ビタミン B12 欠乏症では、脊髄後索の脱髄を来すことがあることも有名である。 これらのことは、Kaushansky K et al., Williams Hematology, 9th Ed. (2016). などのキチンとしたな教科書には、当然のように書かれている。

しかし、ビタミン B12 欠乏症が、しばしば微小血管障害を合併する、という観察事実を記載している教科書は、あまり多くないように思われる。 ビタミン B12 欠乏による巨赤芽球性貧血で、末梢血中に時に破砕赤血球が出現することは、その筋では、よく知られた事実である (Andres E et al., Am. J. Med. 119, e3 (2006).)。 この破砕赤血球の出現には、血清 FDP や D-Dimer の軽度高値を伴うことが多い。 これらの所見は、高ホモシステイン血症による微小血管障害を反映しているものと考えられているが、詳細な機序は不明である (Yang Z et al., Biochem. Biophys. Res. Commun. 473, 1218 (2016).)。 また、PT や APTT の延長、あるいは著明な血小板減少を伴うような、つまり DIC に至るほどの血栓傾向を来すことは稀である。

ビタミン B12 欠乏症に対する治療としては、ビタミン B12 の補充が最適である。 その診断が確かでさえあるならば、いかに貧血が高度であろうとも、輸血を行うべきではない。 では、ビタミン B12 の投与を開始すると、患者の赤血球の大きさは、その後、どのように変化するであろうか。

常識的に考えれば、ビタミン B12 の投与を開始後には、普通の大きさの、病的ではない赤血球が作られ始める。 そして、それまで存在した病的な大赤血球が寿命を迎えるにつれて、徐々に正常な赤血球と置換されていく、と想像するのが自然である。 ところが、事実は、そうではないらしい。 巨赤芽球性貧血の治療経過を詳細に調べた報告は少ないが、40 年程前の文献に、僅かではあるが記載されている (Bessman JD et al., Blood 46, 369-379 (1975).)。 これによると、治療開始直後に、病的な大赤血球は急速に末梢血中から取り除かれるようである。 機序は不明であるが、たぶん、治療開始に伴い IFN-γ の産生が亢進し、大赤血球が選択的に血管外溶血を来すのであろう。 これは、それなりに根拠のある推論なのだが、データをここに示すことはできず、申し訳ない。 もし、読者に北陸医大 (仮) の人がいたならば、私に直接コンタクトしていただければ、根拠を示して説明してさしあげよう。

なお、この問題については、なぜか Williams などの教科書には、記載されていない。


2017/01/24 慶應病理

1 月 11 日の記事で書いたように、今年から、月刊誌「病理と臨床」をキチンと読むことにした。 今月号の特集は「計量 (デジタル) 病理学: 画像の数値化から補助診断まで」というものである。 これまで、あまり触れたことのない分野であり、なかなか面白い。 ただし、コンピューターや数学に疎い一般の病理診断医や医学科生にとっては、難解で、とっつきにくい内容であろうと思われる。

この特集記事のうち、32 ページから 40 ページまでの「定量的病理診断と病理形態学ルネサンス」は、たいへん良かった。 内容自体も興味深いが、やや複雑な内容を整理して理解しやすく説明されており、なにより、日本語が整っていて美しい。 そして記事の後半に、次のような表現があり、私はニヤリとした。

... しかし, これらの定量データを実際にどう解釈し, 病理診断に役立てていくかについては, 確たる方向性はつかめていない. 兎にも角にも, 人工知能を用いた機械学習を用いて, 闇雲にこれらのデータを解析するのも一つの方法かもしれない. 実際に, 本ソフトウェアにおいても, 癌領域候補の選択に, 機械学習が用いられている. しかし, 決定過程がブラックボックスとなるこのような手法をどの程度医療に活用できるのかは未知な部分が多い.

著者は「結果さえ辻褄が合うなら、それで良い」という考えを嫌う理論派なのであろう。 この段階で、私は、著者のことが好きになった。ところが、次の段落で、追い打ちを受けた。

ここからは, 筆者の個人的見解である. 病理診断は, 病因から, どのようなメカニズムで, 疾患が生じ, 臨床症状を引き起こしているか, 論理的につまびらかにすることである. ある遺伝子変異があると, ある疾患が起こりやすいと, 疫学研究が明らかにしたとき, その過程を埋めるのが, 病理学であると考えている. 人工知能が, ある癌と別の癌で, 予後が異なると判断し, その結果が 99 % の確率で正しいという事実があったとき, その理屈を明らかにするのが病理学の仕事であり, 長年にわたり蓄積された病理形態学の知見との整合性を確認するのが, 病理学に携る者の使命と考えている.

病理診断学が病理学から乖離しつつある現状に対し、的確な批判を穏かな表現で述べた名文である。 さぞや名のある教授が書いたのであろう、と思い著者を確認したところ、慶應義塾大学の橋口明典博士であるという。 失礼ながら私は橋口博士の名を存じていなかったのだが、経歴をみると、同大学医学部を 1995 年に卒業し、助手・助教を 18 年勤め、つい 3 年ほど前に講師になったという。 これほどの見識の人物が、ずっと助教であったのか。 さすが、慶應病理は層が厚いようである。


2017/01/23 比例ハザードモデルと危険因子

同期研修医の某君から、ある論文の内容についてのコメントを求められた。 この日記では、基本的に個人攻撃はしない方針なので、どの論文なのかは明記しないが、いわゆる臨床研究の論文である。 その内容は、入院患者の致死率について、ある因子が、既知の危険因子とは独立した危険因子であることを示した、と主張するものである。

どうやって独立性を証明したのか、と思って読んでみると、どうやら Cox regression analysis を用いたらしい。 詳しい解析方法は記載されておらず、統計解析ソフトを、その数学的内容を理解しないままに、ブラックボックスとして使ったような気配の漂う論文である。 たぶん、多変量解析を巡る、よくある誤りを犯したのであろう。

Cox regression analysis というのは、比例ハザードモデルと呼ばれる仮定に基づいて、結果、この場合でいえば入院患者の致死率、に対して、 複数の因子がそれぞれどの程度影響を与えているか、を推定する手法である。 似たような解析方法として頻用されるのはロジスティック回帰分析であるが、これは、仮定しているモデルが少々違うだけで、大筋では似たような仮定に基づいている。 一般向けの報道記事などで、たとえば「喫煙や年齢の影響を統計学的に除外して評価したところ……」などと書かれるのは、大抵、これらの分析方法を用いたという意味である。

問題なのは、ロジスティック回帰分析にせよ、比例ハザードモデルにせよ、そもそも各因子は互いに独立であることを前提としていることである。 数学的にいえば、これらのモデルは、各因子について変数分離された式によって表される。 初めから互いの独立性を仮定した上で、それぞれの因子の影響を推定しているだけなのであって、この解析法を用いて独立性を評価することは、もとより不可能である。 つまり、著者は統計学をわかっていないか、あるいは、わかった上で敢えて学術的意義のない論文を書いたかの、どちらかである。 なにしろ臨床医学の世界では査読者の方も統計学をわかっていないことが多いから、このくらいデタラメな解析であっても、そこそこ有名な論文誌に掲載される。

そもそも「独立した危険因子」という言葉の意味を、しっかりと考えたことのある学生や医師が、どれだけ、いるだろうか。 「危険因子」の方は、まぁ、なんとなくわかる。 「喫煙している人は (詳しい機序はともかく) 肺癌になりやすい」という傾向が存在するならば「喫煙は肺癌の危険因子だ」と言える。 また「アスベスト曝露は肺癌の危険因子だ」という事実も知られているとしよう。 では「喫煙とアスベストは独立した危険因子である」とは、どういう意味になるのか。

もし発癌が確率事象であるならば、「独立」という言葉の意味は、数学的考察から容易に定義できる。 しかし以前に何度も書いたように、発癌は確率事象ではない。 もちろん確率事象に近似して統計をとることはできるが、その場合、「その母集団で、その仮定された確率分布を用いた場合」に限定された結果しか得られない。 思うに、二つの危険因子の独立性を統計解析によって証明することは、不可能なのではないか。 独立性は、それらの因子が、いかなる機序で結果に影響を及ぼすのかを生理学的・理論的に解明することによってのみ立証できるのではないか。

こうした確率論、統計学の限界について学ぶことは、我々工学部の者にとっては、大学一年生か二年生頃に越えねばならぬ大きな山であった。 それを回避して、盲目的に統計解析ソフトに頼る人々は、いつまでたっても、統計を正しく扱うことはできないであろう。

なお、この「独立」という言葉を、本当に物事をわかっている疫学者の人々が、どういう風に定義しているのかは、知らない。 少なくとも、私が読んだような初等的な教科書に書かれている定義はマヤカシであり、また、統計学の教科書に書かれている定義は、非実用的に過ぎる。


2017/01/21 基礎から順番に積み重ねる

医学部編入受験生時代の友人に、私と同様に、筆記試験では優秀な成績を修めつつも面接で苦戦した人がいる。 京都大学出身で、学生時代は数学を専門としていた。その彼が、受験時代に発した次の言葉は、今も心に強く残っている。

理系の出身者は、基礎の重要性を知っている。

北陸医大 (仮) の図書館に行くと、参考書を机の上に積み上げて熱心に勉強している学生が少なくない。 帰宅時にも荷物は持ち帰らず、閲覧席を不法占拠し私物化していることは問題であるが、よく勉強すること自体は、結構である。 ただし、彼らの勉強の仕方は、おかしい。

まず、参考書が、おかしい。 「病気がみえる」だの「クエスチョンバンク」だの、あるいは医師国家試験対策予備校のテキストだのは積まれているが、キチンとした教科書を一冊も置いていない者が多い。 生理学や薬理学、病理学といった基礎医学はおろか、臨床医学の教科書すら開かずに、一体、何を勉強しているのか。

「まずは眼前に控えた医師国家試験を乗り越えて」云々と言う者もいるが、それで医師になってからキチンと勉強するのかというと、 実際はそうではないということは昨年末に書いた。 その一方で、医学科高学年、あるいは研修医になってから、基礎医学を勉強しなかったことを後悔する者も、一部には存在する。 そういう人に対して、私は留年してでも基礎からやり直すべきだと書いた。

名古屋大学時代、下級生の友人に対して、同様のことを口頭で述べたこともある。 すると「そうはいっても、現実には、それで留年するわけにはいかない。何とかならないだろうか。」と言われた。 私は「なるわけがない。もし、それで何とかなるのなら、これまでキチンと積み上げてきた側の人間は、たまったものではない。」と返した。

当たり前であろう。 これまで、細胞生物学から生理学、生化学、病理学、薬理学、などと積み上げて来た人間と、 それらを省略して表面的な臨床医療だけを覚えた人間との間の差は、今後、開くことはあっても、狭まるはずがない。 それとも、マジメに勉強するのは馬鹿だ、とでも言うのだろうか。そういう医者に診療されたい患者が、いると思うのか。

医学科では、とにかく暗記するだけで点を取れるような試験ばかりが行われているから、学生が、そういう勘違いをする。 ガイドラインに従って、患者の所見を点数化して評価するのが「正しい診断」だというのである。 そして現代においては、指導する側の医師ですら医学を修めていない者が稀ではないから、正のフィードバックが生じ、学生は、ますます誤解する。

冒頭の数学出身の彼にせよ、工学出身の私にせよ、一度はドロップアウトしたとはいえ、京都大学時代の経験に支えられて、幸いにも道を踏み外さずに来ることができた。 これこそが、京都大学の名門たるゆえんである。


2017/01/20 瀘胞リンパ腫およびバーキットリンパ腫

私は学生時代、組織学をキチンとは勉強しなかった。 もちろん、並の医学科生に比べればマシな勉強をしたという自信はあるが、 「私は組織学を修めた」と胸を張って宣言できる水準の勉強は、しなかった、という意味である。 そこで本日は、リンパ節の組織学的構造と密接に関係する話題として、瀘胞リンパ腫とバーキットリンパ腫の話をしよう。

リンパ腫とは、リンパ球系細胞の腫瘍であって、腫瘤を形成するものをいう。 これに対し、骨髄や末梢血に生じる血球の腫瘍を白血病という。 現代では、両者の区別には明確な病理学的意義がないと考えられているため、Leukemia/Lymphoma というような表現も用いられる。

瀘胞リンパ腫というのは、通常はリンパ節に、リンパ瀘胞様の構造を形成しつつ腫瘍細胞が増殖するリンパ腫であって、しばしば BCL2 の過剰発現がみられる。 特に、t(14; 18) の転座の頻度が高いが、これは、14 番染色体にある IgH のプロモーターの下流に、18 番染色体の BCL2 コード領域が配置されるものである。 BCL2 は、ミトコンドリア膜間腔から細胞質へのシトクロム c の放出を抑制する、アポトーシス抑制蛋白質であって、つまり癌原遺伝子である。 従って、これの過剰発現は、癌化を促すことになる。

一方、バーキットリンパ腫では、通常、MYC の機能亢進変異がみられる。 この変異を生じる機序に EB ウイルスが関与していると考えられ、この話も面白いのだが、話が逸れてしまうから、また別の機会にしよう。 MYC には代謝調節や細胞増殖亢進などの働きがあり、これも癌原遺伝子である。 従って、これの機能獲得変異も、癌化を促すことになる。 ここまでは、医学科で基礎病理学を修めた者にとっては常識である。 問題は、BCL2 の過剰発現と MYC の機能獲得変異で、なぜ、表現型がこうも違うのか、という点である。

瀘胞リンパ腫もバーキットリンパ腫も、細胞起源はリンパ節の胚中心の B 細胞であると考えられている。 胚中心の周囲には、不活性状態のマントル B 細胞が存在する。これが T 細胞から刺激を受けて活性化すると、胚中心の dark zone に移動し、 centroblast と呼ばれる盛んに増殖する細胞に分化する。 この centroblast では AID が活性化しており、somatic hypermutation が生じる。 その後、cenroblast は増殖しない centrocyte に分化して light zone に移り、免疫グロブリン可変領域の性状に基づく選択を受け、不適切な centrocyte はアポトーシスする。 すなわち、胚中心では、細胞の増殖とアポトーシスが盛んに起こっているのである。 特に、アポトーシスが盛んに起こる、という事実に対応して、BCL2 の発現は生理的に低下していることが重要である。

以上のことからわかるように、BCL2 が過剰発現すると、本来アポトーシスすべき細胞が死なず、不適切に増殖し、すなわちリンパ腫となる。 この場合、増殖シグナル自体は変異によって生じるのではなく、あくまで生理的に発生している点に注意を要する。 一方、MYC の機能獲得変異の場合、アポトーシスも激しく起こるが、それ以上の勢いで増殖することで腫瘍化する。 このことを反映して、バーキットリンパ腫では、細胞分裂期にみられる Ki-67 蛋白質が高発現している。

このあたりのことは、これまで私が読んだ教科書には明記されておらず、いまいちハッキリしない、もやもやした状態が続いていた。 ところが過日、Jaffe ES et al., Hematopathology, 2nd Ed. (2017). という血液病理学の教科書をみた時、この件について詳細に記述されており、 私は、いたく興奮したのである。


2017/01/19 臨床に飽きたら研究をやる

昨日の記事の続きである。実を言うと、この内容について過去に書いたことがあるような気もするのだが、検索した限りでは、発見できなかった。 たぶん、書こうと思っただけで、実際には書かなかったのだと思う。

医学科の学生などの中には「当面は臨床をやって、年をとって臨床に飽きたら研究をやりたい」というようなことを言う者がいる。 理科や工科の人々、あるいは純粋基礎医学の人々にとっては、ハラワタが煮えくりかえるような発言であろう。 そして、医科学生や若い医師の中には、この発言のどこが問題なのか、理解できない者が少なくないと思われる。

逆の立場で考えれば良い。 医学科を卒業し、医師免許を取得した後、臨床には直接携わらず、専ら基礎研究や公衆衛生などの仕事に従事する医師もいる。 そういう人々が、齢 60 を過ぎた頃に「定年になったら、その後は臨床をやろうと思う」などと言ったら、諸君は、どう感じるか。 そもそも臨床経験がなく、40 年も現場から離れた老人が「明日から臨床医になる」と言ってできるほど、臨床医療というのは、簡単なものなのか。 「臨床を馬鹿にするな」と、諸君は立腹するのではないか。

全く同じことである。 「臨床に飽きたら研究をやる」などというのは、学問を愚弄し、研究に専念する人々を侮辱する発言に他ならない。 学術研究というものは、学問を積み重ねてこなかった臨床医が気軽に手を出せるほど、生易しいものではない。

なぜ、そのような、とんでもない勘違いをする学生や医師が出現するのか。 これは、現在の医学科教育のあり方に、重要な問題があるように思われる。

多くの大学では、いわゆる研究マインドを持たせる目的で、医学科生を一定期間、基礎医学の研究室などに配属し、研究に従事させている。 これ自体は、たいへん、よろしい試みである。 しかし、その研究室で、一体、どういう指導が行われているのか。 私が名古屋大学時代に見聞した限りでは、実験技術を教え、実験を体験させる、という内容が主流であったように思われる。 つまり、研究において最も重要な部分、すなわち、問題をみつけ、現状を把握し、研究の計画を立てる、という部分には、学生は、ほとんど触れていないのではないか。 結果、「実験すること」を「研究」であると勘違いする者が現れる。 しかも、学生にモチベーションを与えるため、などとして、その実験結果を学会などで発表させることも多い。 学会発表の敷居が、非常に低いのである。 これでは、学生が研究というものを軽くみてしまったとしても、やむをえない面はある。 実験するだけなら、大して頭脳は使わず、楽であるから、臨床に飽きた頃に手を出そう、という発想は合理的なのである。

いうまでもなく、本当に物事を考えている学生は、そのような勘違いは、しない。 しかし、頭のカラッポな学生が手厚く保護され、本当に考えている学生が冷や飯を食うような「教育」が、現在の日本では広く行われているのではないかと、私は懸念している。 もちろん、私の手の届く範囲については、そうした流れに対し最大限の抵抗をする所存である。


2017/01/18 医と工 どちらが楽か

ある同期研修医と世間話をしていた時、工学部は医学部よりは楽だったでしょう、などと言われたことがある。 ここでいう「楽」とは、趣味に費す時間がある、という意味である。 もちろん悪気はなかったのであろうが、私の帰属意識は現在でも医科ではなく工科にあるのだから、この発言は、はなはだ不愉快であった。

世間では、医学部、正確にいえば医学科のカリキュラムは厳しい、ということになっているらしい。 しかし、工学部の立場からいえば、それは、ちゃんちゃらおかしい。 医学部の人々がいう「キツい」というのは、必修の授業数が多い、という程度の意味であって、要するに「サボれない」というだけのことである。 授業や実習に出席して、過去問をみて試験対策すれば自然に卒業でき、その後の人生まで保障される医学科の、一体、どこか厳しいのか。 また、医学科で扱う学問は、単に情報量が多いだけで、内容は単純であるし、しかも、別に覚えなくても何とかなる。難解な物理や数学を扱う工学部に比べれば、たいへん、易しい。

私がいた頃の京都大学工学部物理工学科では、必修科目は少なく、卒業に必要な時間拘束は少なかったから、その意味では、医学科より楽であった。 しかし、それは、授業で扱った以外の内容を自主的に勉強していることが当然と考えられているからである。 単に工学部で授業と実習をこなして卒業しただけの者など、研究者としても、労働者としても、全く使いものにならない。 単位を取得して卒業し、国家試験さえ合格すれば許される医学科とは、要求されている水準が全く異なる。

特に、学部卒業後に大学院修士課程、博士課程と進み、学問の道で生きることを選んだ者には、大学院修了後の熾烈な就職争いが待っている。 博士課程修了者の数に比して、研究職のポストの数が、圧倒的に少ないのである。 医学科に喩えれば、医師国家試験合格者数が、医学科卒業者数の 1-2 割でしかない、というような状況だと考えれば良い。 そういう未来を念頭において、非医師の大学院生は、学業に勤しんでいるのである。 楽、ということでいうならば、与えられた道を歩くだけの医学科の方が、圧倒的に楽である。

なお、上述のようなことは、たぶん理学や工学の人々の多くが思っているのだが、 それを口にしても「医学のことを知らないくせに、何を言うか」と叩かれるだけなので、黙っているに過ぎない。 そこで、一応は医学を知っている立場にある私が、工科の人間を代表して、ここに表明する次第である。

何より恐ろしいのは、こうした楽な人生を、「医師」というエリート集団に与えられた特権であると信じている連中の存在である。 苦しい受験戦争を勝ち抜いたことに対する正当な報酬だ、というわけである。 理学・工学、あるいは基礎医学の人々の苦難は、彼ら自身が選んだ道なのだから、我々の知ったことではない、という論理らしい。

私はもともと医者が嫌いであったが、この世界に来て、ますます嫌いになった。

2017.01.19 誤字修正

2017/01/17 積雪

そういえば、雪のことを書くのを忘れていた。 北陸医大 (仮) が所在する北陸地方の某県は、もちろん、雪国である。 ただ、近年では降雪量が少ないようで、今季も、12 月に一度まとまった積雪があった後は、年末年始にも降らなかった。 それでも先週末からの全国的な降雪に際しては、さすがに我が県でも積雪があった。 都市部でも 20 cm 以上は積もったように思われるが、北陸人の感覚からすれば、それほど大した豪雪には当たらないであろう。

もちろん、私は雪国初心者なので、こうした雪にワクワクと胸を踊らせ、「もっと降れ」などと心の中で念じている。 ただし、通勤のバスは混雑したり遅延したりで大変らしいので、一昨日から明日までは病院に泊まり込む予定である。 どうせ家に帰っても、やることなどないのだから、無理に雪中を移動するより、いっそ病院で本でも読みながらヌクヌクと過ごす方がゼイタクというものである。

大学内の散歩コースとしては、講義実習棟 4 階からの眺めが良い。 日中であれば遥かに日本海を望み、夕刻には街の灯が遠くに瞬き、なかなかの風景である。 過日、この講義実習棟を散歩しながら、降り積もる雪を観賞した。 このあたりは、夜間は人気もなく、静かに考え事をするには、すこぶる具合が良い。

我が北陸医大は、現時点では、世間の尊敬と憧れを集めるほどの大学とまでは、いえない。 北陸医大に入った学生にしても、本音をいえば、京都大学や東京大学、名古屋大学には届かず、やむなく北陸医大を選んだ者が多かろう。 しかし、それだからこそ、北陸医大の我々が独自の道を歩み、名古屋や京都を凌駕するような本当に医学的意義のある研究をし、教育を成し、質の高い診療を実現したならば、 これほど痛快なことはない。

誰であったか忘れたが、次のようなことを言った人がいる。 「名門に入ろうとは思わない。私の行く所が名門になるのだ。」


2017/01/16 教科書を読む

MEDSi『ハーバード大学テキスト 心臓病の病態生理』第 3版、という教科書がある。言うまでもなく、心臓の教科書である。 これはハーバード大学の教員と学生が合同で作った、学生向けの教科書の訳本である。名著である。 原書 (5th Ed.) が出版されたのは 2011 年で、訳書は 2012 年である。2015 年には原書第 6 版が出版された。

私がこれを購入したのは 2014 年の 4 月、五年生の頃であった。 臨床実習の際に、この教科書を抱えていったところ、若い指導医から 「すごい本を読んでいるな。それは循環器の医者が読むような教科書だ。」と言われた。 しかし冷静に考えれば、この教科書はハーバードでは学生が当たり前に読んでいるのだから、この指導医の言葉は問題発言である。

ところで、我が北陸医大 (仮) は、優秀で意欲的な学生に恵まれている。 ブラブラと図書館に行くと、しばしば、この「ハーバード大学テキスト」などを机上に広げて勉強している学生をみかける。 また、我が図書館に所蔵されている丸善『ハーバード大学講義テキスト 臨床薬理学』原書 3 版も、よく使い込まれているようで、既にクタクタになっている。 こちらの方は、もしかすると医学科ではなく薬学部の学生が主に読んでいるのかもしれないが、 いずれにせよ、キチンとした成書を開く習慣を持った、立派な学生が多いことの証左である。

図書館では、他に、医学書院『標準組織学』を机上に置いている学生も、しばしばみかける。 つい最近知ったのだが、この教科書は藤田恒夫と藤田尚男の二人のみの手による共著である。 標準シリーズは、大抵、多数の著者によるオムニバス形式なのであるが、「組織学」は例外らしい。 なお、藤田恒夫は 20 世紀後半の日本で有名な解剖学者である。 医学科の学生であれば、藤田恒夫と寺田春水の『解剖実習の手びき』の世話になった者は多いであろう。 この『標準組織学』は、読者に対するメッセージを重視し、学生の知的興奮を呼び起こすことを企図して描かれた名著である。

私の学生時代には、『標準組織学』ではなく、伊藤隆『組織学』改訂第 19 版で勉強していた。 伊藤隆は、北海道大学の名誉教授であるが、名古屋大学の出身であり、 『組織学』も名古屋大学における講義・実習から生まれたものであるという。(参考) この『組織学』は、もちろん、名古屋大学だけでなく、全国的に高い評価を受けている。 CiNii で検索すると、全国 209 の大学図書館に所蔵されているらしく、たぶん、どこの医学部図書館にも置かれているであろう。 と、思っていたのだが、過日、実は我が北陸医大図書館には第 18 版が所蔵されているのみで、2005 年に出版された最新の改訂第 19 版が収められていないことを知り、愕然とした。 これほどの名著が所蔵されていないとは、大学の医学図書館としての沽券に障る。 昨年、私は北陸医大の医師に対し挑発的なことを書いた。 書いた以上、私も、相応の行動を示さねばならない。 そういうわけで、『組織学』を図書館に寄贈しておいたから、近いうちに、書架に並ぶはずである。


2017/01/15 「臨床検査」

「臨床検査」という雑誌がある。 医学書院から発行されている月刊誌で、それなりに歴史のある雑誌であり、もちろん、臨床検査医学の専門誌である。 一応、学術論文も掲載されてはいるが、むしろ臨床検査に関連した特集記事などの、学術研究ではない記事が大半を占めている。 それほど難しいことは書かれておらず、あまり頭を使わずに読めるので、疲れたときにフラリと図書館に立ち寄りペラペラと眺める、というような読み方で良い。 私の場合、家に帰るのが面倒な日は、夜の病院や大学をブラブラ散歩するついでに図書館に立ち寄り、この雑誌を眺める、というのが最近の習慣になっている。

似たような雑誌で「検査と技術」というものもある。 これも医学書院の月刊誌であるが、若手臨床検査技師や学生を対象にした雑誌であるらしく、「臨床検査」よりも基本的な内容が多い。 ただし、これらは臨床検査技師にとっての「基本」なのであって、一般的な医師にとっては、勉強になる内容も多いであろう。

さて、先日の記事で、形態学しかできない病理医が淘汰される時代が来るであろうことを書いたが、似たような状況には、臨床検査技師も直面している。 すなわち、検査の機械化、自動化が進む中で、臨床検査技師に求められる能力も、大きく変化しているのである。 今月号の「臨床検査」には「臨床検査の価値を高める」という特集が掲載されているのだが、ここには、そうした臨床検査技師の今後についての提言の記事もあった。 その中で目についたのが、次のような記述である。

仮に前述の "患者への検査説明" を実際に実現していくとするならば, 現在の卒後教育だけでなく, さらに高度な基礎教育が必要になることは間違いない. 全ての人が実施できる業務にすることは極めて難しいと考える.

私は、臨床検査技師がすごくマニアックな勉強をしているカッコイイ人達であることは知っているのだが、具体的にどういった範囲の勉強をしているのかは、よく知らない。 しかし検査部で研修を受けた際の印象では、少なくとも平均的な医師に比べれば、ずっと適切に患者への説明ができるのではないかと思う。 ひょっとすると、これは単に、北陸医大 (仮) の臨床検査技師の基礎医学的水準が高いというだけのことなのかもしれぬ。

もう一つ、気になったのは次の記述である。

さて, それでは教育現場は何を教授すべきなのか. 自ら学び, 自らことを解決していく能力をどのように養成するのか. その能力の育成ツールとして, 指導の行き届いた "研究" は最適であると考える. 自己学習能力や創造力なくして研究は進められない. 研究していく過程を通じて論理的にものを考え, 論理的に解決策を見いだしていく力が養われる. 極論すれば, 大学院生の研究成果 (論文) は副産物であり, 成果を得るまでの行程で身に付けた能力こそが主産物であると考えてもよいと思う.

この記事を書いたのは、東京医科歯科大学の戸塚実教授である。恐ろしく見識の高い人物といえる。 戸塚実、という名には見覚えがあるものの、一体、どこで拝見したのか、すぐには思い出せなかったのだが、ふと本棚をみて、合点がいった。 日本における臨床検査医学の聖典である金原出版『臨床検査法提要』改訂第 34 版の編者であった。


2017/01/14 MR

MR (Medical Representative) の悪口を書く。 先日、研修医向けのセミナーに併せて行われた薬剤説明会での話である。

ある感染症治療薬について、某社の MR 氏が説明してくれた。 こういう説明会では、大抵、作用機序については詳しく説明されない。 たぶん、臨床医の多くが薬理学に疎く作用機序に無関心なので、製薬会社側も聴衆の程度に合わせた説明をしているのであろう。 まぁ、医学に無関心な医師ばかりが集まる病院であれば、そういう薬剤説明も通用するかもしれないが、天下の北陸医大 (仮) においては、それでは不足である。 そういうメッセージを込めて、私は「その病原体に感染した細胞のアポトーシスを誘導するのか、それとも、宿主細胞から病原体だけを排除するのか」と質問した。

私は、医師の中では生理学や薬理学に精通している方であると思うが、所詮、医師の中では、という程度の話である。 薬剤師や製薬会社の研究者、あるいは MR などには、遠く及ばない、はずである。 だから、一流の MR であるならば、私が抱く程度の疑問については既に興味を持って調査済みであり、即答できるはずである。 その薬剤説明会に来ていた MR 氏が一流の人物であったかどうかは、書かないことにしよう。

研修医や若い臨床医の中には「治れば良いのだ」などといい、薬理学的理解を軽視する者もいる。 たぶん、学生時代にまともに医学を修めず、経験と丸暗記だけのマニュアル診療で、自分が医者をやっているかのように勘違いしているのであろう。 そういう人々は、私をみて「あいつは臨床に向いていない」などと言うが、本当に向いていないのは、一体、どちらの方であるか。 作用機序を理解することなしに、患者の体の中で何が起こっているのか、どうして理解できよう。 生理学・薬理学・病理学などを識らずに、ただマニュアルに従って投薬するだけなら、医者などいらぬ。

医学というものを、軽くみすぎなのではないか。


2017/01/13 骨腫瘍様病変

私は名古屋大学時代、整形外科学をまともに勉強しない不良学生であった。 キチンとした教科書も持っておらず、医学書院の『標準整形外科学』をペラペラとめくる程度の勉強しか、しなかった。 もちろん、整形外科学の単位認定試験は、不合格になった。 この時、私は整形外科学教授の発言に著しく憤慨したのであるが、まぁ、過ぎたことである。

本日の話題は、臨床医学の中でも特に私が不得手とする整形外科学である。 過日、単発性骨嚢腫 solitary bone cyst と動脈瘤様骨嚢腫 aneurysmal bone cyst の組織学的鑑別が問題になった。 文光堂『骨腫瘍の病理』(2012). によれば、solitary bone cyst というのは、非腫瘍性の嚢胞性病変であり、原因はよくわからない。 骨中心性に嚢胞が形成されるのが典型的であり、組織学的には、嚢胞壁は繊維性組織であり、明瞭な被覆細胞はみられない。 しばしば嚢胞壁の間質にフィブリン様物質の沈着がみられ、これは degenerating fibrin deposit と呼ばれる、solitary bone cyst に特異的な所見であるという。 一方、aneurysmal bone cyst というのは、真の腫瘍性病変であるらしい。 ただし、その根拠は「特徴的な染色体転座とキメラ遺伝子の形成がみられるから」というものであって、腫瘍であると断定するだけの根拠はない。 キメラ遺伝子を背景とする反応性の、すなわち過形成性の増殖性疾患ということも、充分に考えられるからである。 この aneurysmal bone cyst は、内部に血性の液体が貯留していることが多いが、これは solitary bone cyst でもみられることがあり、特異的ではない。 放射線画像上は、偏心性の嚢胞を形成することが多い。組織学的には嚢胞壁が比較的細胞成分に富んでいるが、内皮細胞による被覆はみられない。

大抵の場合は、solitary bone cyst と aneurysmal bone cyst は特徴的な組織学的所見を有するので診断には迷わないらしいが、稀に、紛らわしいことがある。 そうした場合に、両者を明確に鑑別することが、はたして、臨床的にどれだけ重要なのだろうか、というのが、本日の疑問点である。

北陸医大 (仮) の研修医室や病理学教室の私の机には、整形外科学の教科書など、置いてない。 一応『標準整形外科学』は持っているはずだが、たぶん自宅のどこかに埋ずもれており、大学には持ってきていない。 そこで、まず図書館で教科書を調べるところから始めた。

医学書院『標準整形外科学』第 12 版によれば、 solitary bone cyst に対しては「内壁の結合組織性膜を掻爬し骨移植を行う」 「ステロイド局所注射やピンニングによる持続排液なども試みられている。」とある。 一方、aneurysmal bone cyst に対しては「掻爬術と人工骨移植術で再発は少なく予後良好である。」とある。 この記述を信じるならば、両者の鑑別は、臨床的にはそれほど重要ではないことになる。 しかし、標準シリーズは、あくまで国家試験対策書であるから、あまり信用してはいけない。

次に、マジメな整形外科学の成書として南山堂『神中整形外科学』改訂 23 版 (2013). を開いた。 これは、キチンとした整形外科学の教科書として、名古屋大学時代にも何度か図書館で開いたことのある書物である。 これによると、solitary bone cyst に対しては病巣掻爬と骨移植が標準的であるらしい。 しかし手に生じた aneurysmal bone cyst については 「罹患中手骨または指骨を除去して骨移植で補填する方法が無理なく, 可能な場合はそうしてもよいが, 罹患中手骨または指骨のある指列全体を切除して, それが中指列の場合は示指列を, それが環指列の場合は小指列を移動する方法も考慮すべきである」などと、激しいことが書かれている。 どうやら、この両者の鑑別は、非常に重要な場合があるらしい。

最後に、洋書の代表として Canale ST et al., Campbell's Operative Orthopaedics, 12th Ed. (2013). をみた。 この書物では、solitary bone cyst と同義である unicameral bone cyst について、小さく無症候性であれば経過観察でもよく、 治療する場合には掻爬術、または吸引およびグルココルチコイドなどの注入が良い、としている。 一方 aneurysmal bone cyst については掻爬術と骨移植が良い、としている。 すなわち、グルココルチコイド注入療法、という選択肢の有無が、違うのである。 なお、この書物では solitary bone cyst が生じる機序を「骨幹端分におけるリモデリングの異常により間質液の流れが阻害されて嚢胞が生じる」としている。 また aneurysmal bone cyst についても「真の腫瘍ではない」という立場をとっている。

結局のところ、solitary bone cyst が間質液の貯留によって生じる passive な嚢胞であるのに対し、 aneurysmal bone cyst は、腫瘍または過形成により細胞成分が active に増殖して生じる嚢胞と考えられる。 結果として、後者は前者に比して周辺組織を破壊する傾向が強く、より積極的な治療が必要になるらしい。 従って、両者をしっかりと鑑別することは、我々病理医に課された重要な任務である、といえる。

2017.01.20 『標準外科学』を『標準整形外科学』に修正

2017/01/12 経験を積むこと

初期臨床研修をどこで受けるか、という問題は、少なからぬ医学科生にとって、割と重大な悩みであるらしい。 私の場合は、初めから大学病院以外は論外と思っていた上に、名大病院も早い時期に候補から外れ、悩むことなく北陸医大 (仮) に決めたのだが、こういう例は比較的稀らしい。

多くの人は、まず、大学病院にするか市中病院にするか、で迷うらしい。 私は未だに、市中病院で研修を受けることの利点が理解できない。 市中病院は基本的に給料が高く、厚生連という農協系列の病院であれば月給 50 万円にも及ぶらしいが、 北陸医大病院で月 30 万円、名大病院なら 35 万円であるから、充分に高給である。 だいたい、臨床検査技師などの非医師技術職の初任給は、我が北陸医大の場合で 18 万円程度であることを思えば、我々研修医は、異常な厚待遇である。

他にもっともらしい市中病院の利点としては、common disease を中心に、たくさんの経験を積める、という意見がある。 Common disease という言葉の意味は不明瞭なので、ここでは議論しない。 問題は「たくさんの経験を積める」という部分である。 大学病院での臨床実習の際に、キチンと勉強した人であれば、市中病院、特に、いわゆる野戦病院において、いかなる診療が展開されているか、多少なりとも知っているはずである。 「肺炎像があるから抗菌薬のレボフロキサシンを投与した。それでも治らないからメロペネムに変更した。やっぱり効かないから、大学病院に紹介した。」という類の症例は、 珍しくないであろう。 多くの市中病院では、そういう水準の医療が行われているのである。そういう診療の経験を積んで、一体、何の役に立つというのだろうか。

非専門家のために説明しておこう。 そもそも「肺炎像」という医学用語は存在しないのだが、一部の臨床家は、なんとなく、この語を用いている。 たぶん「肺炎を疑わせるような画像所見」という意味なのだと思う。 で、常識的に考えれば、それが本当に肺炎なのか、仮に肺炎であるならば、感染性なのか非感染性なのか、感染性なら原因は細菌なのか真菌なのかウイルスなのか、 といった具合に、診断を進めていくのが普通である。 ところが、なぜか、世の中には「肺炎像を呈する原因として疫学的に最も多いのは細菌性肺炎だから」というだけの理由で、 その患者が細菌性肺炎であると決めつける藪医者が稀ではない。 しかも、原因菌を検索することすらなしに、「抗菌スペクトラムが広いし、メロペネムよりは罪悪感が少ないから」とレボフロキサシンを投与するのである。 メロペネムというのは、カルバペネム系抗菌薬であって、様々な細菌に効くので便利であり、濫用されている。 そのためカルバペネム耐性細菌が近年、増加しており、本当に必要な時にカルバペネムが効かない、という事態が生じ、問題になっている。 レボフロキサシンは、メロペネムとは異なり細胞内寄生菌にも有効であるなどの特徴があり、これも便利であるから、不適切に使用される傾向がある。 感染症の専門家の間では、このレボフロキサシン濫用も問題視されているのだが、一般の医師には、まだ充分に認知されていないように思われる。 感染症学を修めたことがなく診断能力の低い医者は、こうした広域スペクトラムの抗菌薬を濫用し、耐性菌を世に放ち、次なる患者を死に至らしめるのである。

「肺炎っぽいからレボフロキサシン」という「治療」なら、医学など修める必要はなく、簡単である。 これまで医学を勉強してこなかった者でも、できる。 そうして患者を次々とさばけば、まるで自分が医療に熟達したかのような錯覚を得ることができ、たいへん、快感であろうと思われる。 ただし、免許の問題さえ別にすれば、その程度の診療を行うのに医者は不要であり、看護師と放射線技師さえいれば充分である。

ある教授から、次のようなことを言われたことがある。 目先の高給に釣られて田舎の病院で初期研修を受ける者もいるが、医師としての最初の二年間は、重要である。 そこで水準の低い研修を受ければ、結局、水準の低い医師になる。


2017/01/11 病理診断の将来

昨日の話に、少しだけ補足しておこう。 私は、病理医の卵の分際でありながら、現行の病理診断について批判を加えている。 これを、不遜だ、とか、ナマイキだ、とかいう意見もあるだろうが、私は、そうは思わない。 門外漢だからこそ、つまらぬ「大人の事情」に捉われずに、より公正な観点から批判できるのである。 実際、工学部にいた頃に比べて現在の私は、医者や医療業界に対する批判が、正当な理由なしに緩くなってしまったように思う。 従って、今のうちに病理診断に対して全力で攻撃して、ハードルを上げておかなければ、 いずれ私が本当の病理医になったときの水準が下がってしまうであろう。それを、私は恐れているのである。

さて、過日、たまたま病院の食堂で某教授と一緒になったときに、病理診断に関する 2 つの問題が話題になった。

一つは、病理解剖の話である。 経過について臨床的に疑問点がない場合であっても、病理解剖を可能な限り行うべきではないか、と私は述べた。 この教授は、なかなか野心的な人である。 私とは違ってオトナなので、オブラートに包んだ穏やかな表現ではあるが、次のような意味のことを述べた。 すなわち、病理解剖を行うべきである点には異存はないが、現実問題として病理解剖を行っても、 臨床医や患者にとって有益な情報がどれだけ得られるか、いささかの疑問がある、というのである。 この問題については先月書いたので、ここでは繰り返さない。

もう一つが、AI, 人工知能についてである。 昨今では、チェスや将棋に続いて、囲碁でもトップクラスの棋士が AI に敗北し、コンピューターの「学習能力」の高さが明らかになった。 病理診断についても、特に形態学的診断の部分については、AI の研究が盛んである。 たまたま、今月号の「病理と臨床」で、AI による形態学的診断の特集が組まれていたが、既に、技術的には相当の水準に達しているようである。 専門外の人のために説明しておくと、「病理と臨床」というのは、文光堂が出版している月刊誌であって、病理診断学の業界では日本で最も有名な雑誌である。 私は、これを時々図書館で眺めていたのだが、ある指導医から「自分で購読した方が良い」と勧められたので、今年から、年間購読することにした。 私は、指導医の言うことには素直に従う、良い子ちゃんなのである。

なお、雑誌といえば The New England Journal of Medicine という週刊誌は、しばしば面白い記事が載っているので、気楽に眺めるのがお勧めである。 図書館で読んでも良いし、学生や研修医であれば年間 3 万円弱で購読できるので、個人で買っても良い。 なお、この雑誌は「週刊新潮」などの娯楽週刊誌と同じようなものであって、パラパラとめくり、面白そうだと思った記事だけを読めば良い。 マジメな学生や研修医の中には、全ての記事を読もうとする者もいるだろうが、まず間違いなく飽きて嫌になるので、やめた方が良い。

閑話休題、教授は、いずれ病理診断の分野において病理医の地位が AI に脅かされるのではないか、などと心配してくれた。 しかし私は、そんなことはない、と考える。 もちろん、形態学的診断しかできず真の病理診断を知らぬ病理医は、AI に駆逐されるであろう。 結構なことである。AI にできることを、高い給料を払ってまで、人間の医者にやらせる必要はない。 一方、本当の病理医であれば、むしろ AI を駆使することで、より効率的に診断業務を遂行し、 AI の手に負えない非典型症例に思考を集中することができるようになるであろう。 私は、本当に、良い時代に生まれたと思う。

ところで、万が一にも誤解されては困るので明記しておくが、本日の記事には、一箇所だけ、嘘がある。それがどの部分であるかは、言うまでもなかろう。

2017.01.12 誤字修正

2017/01/10 プロフェッショナリズム

昨日の記事で、大事なことを書き忘れていた。 言うまでもなく、研修医にとって最も重要な仕事は、勉強すること、である。 研修医は医師免許を持った学生である、と言っても良かろう。 その意味では、私はたぶん、北陸医大 (仮) の研修医の中で、キチンと仕事をしている部類に属すると思う。

また 1 月 5 日の記事で、subglycocalyx から間質に向かう流れが拡散ではなく一方向性である、という事実を明記していなかったので、追記した。 古典的スターリングの法則では、水の移動は全て拡散である、と暗に仮定されていたが、これが誤りなのである。

さて、プロフェッショナリズムという言葉は医療用語でも何でもないが、近年、医学科生や医師に対する教育の場において多用されているらしい。 ただし、この言葉の正確な意味は、よくわからない。 私にとってわからないだけでなく、たぶん、皆、あまりよくわからないまま、なんとなく使っているのではないか。 使う人によって意味がマチマチでコミュニケーションの役に立たない言葉の一つであろう。 だから、私は自分では「プロフェッショナリズム」という言葉は、使わない。

ある教授と食事をした時、プロフェッショナルな医師とは、どういう医師のことを言うか、と問われた。 もちろん、私も教授も、プロフェッショナルという語の意味が曖昧であるという認識は持っており、その上で、あなたはどう考えるか、という問いである。 私は、一瞬だけ迷った後に「診断や治療の方針を、自分の責任において決定・提案できる医師のことである」と答えた。

何をあたりまえのことを、と、思う読者もいるかもしれない。 しかし、私が言っているのは「ガイドラインにどう書いてあるか」とか「エラい先生がそう言っていたから」とかいうことに従うのではなく、 診断や治療戦略の責任を自分の頭脳で担うことができる医師、という意味である。 臨機応変に、ガイドラインの定める「標準」から外れた診療を行うことができる医師、と言い換えても良い。 これを現に行うことができている医師は、稀である。 何を言いたいかというと、そこらへんを歩いている医者の多くはプロフェッショナルではなく、アマチュアだ、ということである。

先に「一瞬だけ迷った」と書いたが、実は私の本音では、「プロフェッショナル」と称するためには、もう少しだけ高い水準を要する。 すなわち、プロフェッショナルとは、不可能性を証明することなしには「できない」と言わない人のことをいう。

研修医や若い医師に対し、医学・医療の理想について話すと、しばしば「そんなの、無理だよ」「それは理想論であって現実離れしている」「君がやってみろ」などと言われる。 時には、私が学生時代に名古屋大学でみた程度の診療行為について「君は臨床を知らないから、そんな理想論を言うのだ」などと言われたこともある。 臨床を知らないのは、一体、どちらなのか。 プロフェッショナルとしての誇りを欠如していると、言わざるを得ない。

私は病理医の卵であるが、研修医などとの内緒話においては、現在の病理診断のあり方に対する批判を激しく展開している。 かなり無茶な要求をしている部分もあることも、理解した上でのことである。 そして私が晴れて病理医になった暁には、この批判は、全て、私自身に向かってくるわけである。 私は、病理学・病理診断学のプロフェッショナルになるわけだから、当然、そうした批判には全て、応えなければならない。


2017/01/09 働かない研修医

この記事に対する補足を 1 月 10 日の記事で述べているので、そちらも参照されたい。

同期研修医と話す際、私はしばしば「仕事なんか、やってないよ」と放言している。給料泥棒なのである。

臨床診療科の場合には、入院患者についての定型的な入力業務などを研修医が「仕事」として行うことは、ある。 しかし、これまで研修を受けた診療科においても、実は私は、そういう業務を指導医に任せてしまうこともあり、あまり積極的にはやらなかった。 さらに現在は病理部で研修を受けているが、検査部の時と同様で、研修医風情が病理部の仕事など、できるわけがない。 私の練習のために、切り出しなどをやらせてもらうことはあるが、診断業務の観点からいえば、私は指導医の邪魔をしているだけであって、仕事をしているわけではない。

そういう意味では、私はたぶん、北陸医大 (仮) で一番「働いていない研修医」である。 同期研修医の一部からは「とんでもない野郎だ」などと思われているフシもある。 しかし、私は、自分が不良研修医であるとは思っていない。 だいたい、入院患者についての入力業務などは、それが自分の勉強になる部分はあるものの、「仕事」としてみれば、月給 31 万円相当の労働とは思われない。 それをやっているからといって「研修医としての仕事をやっている」とは、言えまい。

研修医としての本来の仕事は、大きく二つ、患者に対するムント・テラピーと、指導医に対する適切な質問、であると思う。

ムント・テラピーというのは、「口で治す」という意味のドイツ語に由来する医療用語である。 患者の話をよく聞き、適切に話をすることで心身の回復を助ける、という意味である。 昨今では、この語を「インフォームド・コンセント」や「治療方針などの説明」などと同義で使う医師もあるが、それは原義とは違う。 患者からすれば、我々研修医は、主治医よりは立場が近く、一方では学生とは異なり「一応は」医者である。 それゆえに、主治医や看護師には言いにくい愚痴のようなものを、我々に対してだけ吐き出すことがある。 それをじっくり聞くというのは、研修医にしかできない仕事である。

もう一つ、指導医に対して適切な質問をする、というのも重要な仕事である。 これは、現にみている患者についてでも良く、それ以外でも良い。 研修医らしい、初々しい、あるいは素朴な質問を投げかけることは、互いの利益になる。 これも、研修医の重要な仕事であろう。 ただし外科系診療科や某内科では、私はあまりキレのある質問をできなかったから、ろくに仕事をしていなかったことになる。

結局、私が仕事をしていないことは間違いない。単に北陸医大に寄生している、というのが現状である。 しかし、そういう私を採用したことは、いずれ北陸医大にとって大きな利益となるであろう。

2017.02.25 語句修正

スターリングの法則と glycocalyx (一覧)


2017/01/06 糖衣と浮腫

さて、糖衣 glycocalyx の存在、正確にいえば subglycocalyx space の存在を考慮することで、どうやら血管内外の水の移動を理論的に説明できそうだ、 という話を前回までに書いた。 まだ確立されてはいない理論ではあるが、たとえば炎症に際しては、たぶんサイトカインの影響により、この糖衣が変性・脱落することで、 血管内から subglycocalyx space への水や膠質の移動が亢進し、結果として浮腫が生じると推定される (Ushiyama A et al., J. Intensive Care 4, 59 (2016).)。

また、ネフローゼ症候群における浮腫の機序も、糖衣の障害であると推定される。 すなわち、ネフローゼ症候群の本態は、何らかの機序による糖衣の変性・脱落であると推定される。 腎糸球体で糖衣が脱落すれば、アルブミンなどが尿中に逸脱する。 また、全身の毛細血管で糖衣が脱落すれば、浮腫となる。 すなわち、低アルブミン血症と浮腫は、いずれも糖衣障害の結果なのであると考えられる。 実際、ネフローゼ症候群の患者においては糖衣傷害が起こっていることを示唆する報告もあり、この考えを支持している (Salmito FTS et al., Clinica Chimica Acta 447, 55-58 (2015).)。

さらに想像を進めれば、手術後の体液貯留、いわゆる「サードスペースへの水貯留」も、糖衣障害で説明できるだろう。 すなわち、手術侵襲により、局所、あるいは人工呼吸器を使用した場合には肺などにおいて、炎症性サイトカインの産生が起こり、糖衣障害を来し、 結果として水が subglycocalyx space や間質に移動すると考えられる。


2017/01/05 スターリングの浸透圧の法則の破れ

スターリングの浸透圧の法則が誤りであることを最も明快に示したのは、C. C. Michel である (J. Physiol. 388, 421-435 (1987).)。 Michel は、腸間膜の毛細血管を用いた実験で、血管内静水圧を変化させた際に血管壁を透過する水の量を測定した。 それによると、静水圧を変化させた直後には、一過性に、スターリングの法則に従う水の透過が認められたが、 充分な時間が経過した後の定常状態においては、スターリングの法則は成立しなかった。 特に、血管内静水圧を充分に低くした場合においても、間質から血管内への水の移行はみられず、むしろ、僅かではあるが血管内から間質への水の移動がみられた。 この実験結果について Michel は、「間質のうち血管に近い領域における膠質浸透圧」は「『血管壁を透過する膠質の量』を『血管を透過する水の量』で除したもの」に一致する、 と仮定することで、数学的に説明可能であることを示した。

こうした実験事実を合理的に解釈するために生理学者達が議論を重ねた結果、Revised Starling Principle などと呼ばれるモデルが提唱された (Levick JR et al., Cardiovascular Res. 87, 198-210 (2010).)。 これは、次のような解剖学的背景に基づいている。 まず、血管壁の内腔側には、糖衣 glycocalyx の層がある。この層は、アルブミンなどの膠質をほとんど透過しないが、水は少しは透過する。 糖衣の外には血管内皮細胞がある。隣接する内皮細胞同士は tight junction で強固に結合しており、ほとんど水を通さない。 ところが、よくみると tight junction には僅かな隙間があり、ここを通って、かろうじて、水は基底側に移動することができる。 なお、内皮細胞にはアクアポリンがほとんど発現していないので、細胞内を通る水の移動は、非常に少ない。

このように、血管内と間質の間には、糖衣と内皮細胞に挟まれた狭い空間があり、subglycocalyx space などと呼ばれる。 スターリングの法則は、血管内と subglycocalyx space の間でのみ成立し、subglycocalyx space と間質の間では、もちろん、成立しない。 Subglycocalyx から間質への水の流れは、物理学でいうところの拡散ではなく、基本的には一方向性の流れである、という点が重要である。 スターリングの法則では、水の移動は全て拡散である、ということが暗に仮定されていたが、どうも、それは事実に反するらしい。

たとえば Michel の実験において、血管内静水圧を急激に低下させた直後は、間質から subglycocalyx space に向かって水が流れるので、 血管内と間質の間でスターリングの法則が成立しているようにみえる。 しかし、続いて subglycocalyx space に膠質が貯留し、膠質浸透圧が徐々に高くなるので、やがて、血管内への水の移行は止まり、 むしろ、血管から間質への緩徐な流れを有する状態で平衡となる。

さて、スターリングの法則を信じるならば、たとえば大量出血した患者に対し、生理食塩液やリンゲル液といった、いわゆる晶質液を投与すると、 その水は血管内と血管外に等しく分布することになる。 一方、たとえば等張アルブミン液のような、いわゆる膠質液を投与した場合、その水は血管内に留まる、ということになる。 従って、大量出血などに対しては膠質液を投与することが望ましい、とする意見があった (Twigley AJ et al., Anesthesia 40, 860-871 (1985).)。 現代においても、高張デンプン溶液などを「代用血漿」などとして投与する医師もいる。 しかし昨今では、晶質液を投与した場合と膠質液を投与した場合とで、スターリングの法則から予想されるような差は生じず、利益に乏しいことが知られている。 それどころか、膠質液の投与は腎傷害などを来す恐れがあるので避けるべきである、という意見が現在では多数派である (Webb A et al., Oxford Textbook of Critical Care, 2nd Ed., (2016).)。 すなわち、スターリングの古典的なモデルでは、血漿と組織液の実際のバランスについて、正しく説明することができない。

これに対し Revised Starling Principle においては、膠質液投与後には subglycocalyx space の膠質浸透圧が徐々に上昇する。 というのも、glycocalyx を通って少しずつではあるが膠質が subglycocalyx space に移行するからである。 結果として血管内と subglycocalyx space の浸透圧差は消失するので、膠質液には、投与直後の一時期を除けば、水を血管内に留める効果はないことがわかる。

また、ネフローゼ症候群などにおいて、低アルブミン血症が浮腫の原因となる、という俗説が誤りであることも示すことができる。 すなわち、低アルブミン血症では subglycocalyx space の膠質浸透圧も低下するので、結局、血管内から間質への水の移行は亢進しないのである。

2017.01.10 追記

2017/01/03 正統派ユダヤ教徒とペルシアについて

スターリングの浸透圧の法則の破れについて書くつもりであったが、文献調べなどの準備が間に合わなかったので、代わりにユダヤ教徒とペルシア人の話をしよう。 昨年末の産経新聞にトランプ外交、鍵握るユダヤ人脈 イスラエル右派にてこ入れか という記事が掲載されていた。 要約すると、次期米国大統領のトランプの娘の夫は正統派ユダヤ教徒であって、イスラエルと称する中東の武装勢力に対する支援に熱心だ、ということである。 特に、イスラエルによる占領地への入植活動への支援に力を入れているらしい。

二年と少し前にも書いたが、イスラエルと称する勢力は、国際連合決議に基づいて「建国」されたものであるが、 そもそも国連には、そうした国家の樹立を決定する権限はない。 当然、アラブ諸国の多くやイランなどはイスラエルを国家として認めておらず、紛争が続いている。 イスラエルは、欧米からの軍事的その他の支援を受けて、国連決議で認められた範囲を越えて、エルサレムその他の広大な土地を占領した。 そして占領地に自国民を移住させることにより、自国領としての既成事実化を図っている。これが、いわゆる「入植」である。 国際的な常識からいえば、そうした入植活動は認められないのであるが、欧米諸国は、諸般の事情からイスラエルに対して寛容である。

ここで問題にしたいのは、産経の記事中にある「ユダヤ教正統派」という語についてである。 正統派というのは、英語では orthodox と表現される宗派であって、キリスト教でいえば正教にあたる。 ユダヤ教正統派といえば、昔ながらのユダヤの教えを忠実に守る人々の総称であって、保守派、と言い換えても良い。 当然、正統派の中にも、細かな意見の違いによる多数の派閥があるが、シオニズムを支持するかどうか、で大きく二つに分かれる。

シオニズムというのは、パレスチナの地は神がユダヤの民に与えられたものだ、というユダヤの教えを根拠に、 パレスチナにユダヤ人国家を建設することを支持する主義をいう。 このシオニズム運動の最大の成果が、イスラエルと称する勢力の樹立である。 以前の記事でも書いた通り、正統派ユダヤ教徒の中には、シオニズムに反発する者も多い。 ユダヤ社会の再興は、神が彼らに約束されたものであり、神の手によって成されるべきものなのだから、 それを人の手で、それも武力によって達成するというのは、背教にあたる、というのである。

産経の記事は「ユダヤ教正統派はシオニストである」という前提で書かれている。 これは、真のユダヤ教徒に対する侮辱である。 以前にも紹介した真のユダヤ教徒はイスラエル国家を認めないの動画へのリンクを再掲しておこう。

ところで、近年では、イスラエルに正面から敵対している国の筆頭はイランである。 イラン人の中には、彼らの土地に対する歴史的な呼称に基づく「ペルシア人」という呼び方を好む者も多いらしい。 そのペルシアは、今でこそイスラム圏屈指の大国であるが、歴史的には、アラブ人やアジア人による侵略に苦しめられ続けてきた。 確認しておくが、アラブ人というのは「アラビア語を話す人」という意味であって、地理的には北アフリカから中近東の範囲に多い。 ペルシア人はペルシア語を話すので、アラブ人ではない。 教養の乏しい日本人の中には、アラブ人とイスラム教徒を混同する者も稀ではないが、たいへん失礼な話である。

なお、ペルシアは、1979 年の革命以来、イスラム教と政治の結びつきが強い。 このあたりの問題については、イラン人女性が描いた漫画『ペルセポリス』が、面白い。

さて、日本のマスコミの多くは、イスラエルや米国に同調して、たとえば核開発疑惑などを騒ぎ立て、イランを悪者に仕立て上げようとしているようである。 しかし、原子力の平和利用や、そのための技術開発は、国際条約でも認められた当然の権利なのであって、外国にとやかく言われる筋のことではない。 だいたい、イランがやっている程度のことは、我々日本だって、やっている。 要するに、イスラエルの敵だから叩いているに過ぎない。

私は、真のユダヤ教徒とペルシア人を、応援している。

2017.01.05 語句修正

2017/01/02 サードスペースとスターリングの浸透圧の法則

「サードスペース」についてのレビューとしては、高折益彦によるもの (麻酔 47, S61-S69 (1998).) が簡明である。 高折も指摘しているように、そもそも「サードスペース third space」という語を、誰が最初に用いたのかは、よくわからない。 PubMed で「"third space"」を検索すると 232 件、「"third space" [title]」では 23 件しかヒットしない。 このうち 1978 年の報告 (Mollitt DL et al., J. Pediatr. Surg. 13, 217-219 (1978).) では、`third space' という語が、 特に説明も引用もなく用いられている。この頃には既に、この語が広く知られていたのだろう。 一方、手術などの後に体液貯留がみられるという事実は 1960 年頃 (Shires T et al., Ann. Surg. 154, 803-810 (1961).) には知られていたが、 この報告では非機能的細胞外液 nonfunctional extracellular fluid などの表現が用いられており、third space という語は登場しない。

この「非機能的」という語は、血漿、組織液、リンパ液、という、古典的モデルで考えられてきた体液の移動に加わっていない、という意味である。 この非機能的細胞外液なるものの存在を仮定する意見は少なくなかったが、それが具体的に、どこに、どういう形で存在するのかは、誰も示すことができなかった。 周術期体液管理についての 2008 年のレビュー (Chappell D et al., Anesthesiology 109, 723-740 (2008).) では、これについて

Is it an interstitial shift or located within the mysterious third space?

と、「サードスペース」なる語を揶揄するような表現を用いている。 このように、「サードスペースなる区画に体液が貯留する」という考えは一種の詭弁である、という認識が、専門家の間には存在したようである。 こうした詭弁を持ち出さねばならないという事実は、この古典的モデルが前提としている「スターリングの浸透圧の法則」が誤りであることを示唆する。 しかし、この法則の、どこが、どう間違っているのか説明することができなかったために、便宜上「サードスペース」などの語が使われ続けてきたのである。

スターリングの浸透圧の法則というのは、E. H. Starling が犬を用いた実験に基づいて 1896 年に報告したものである (J. Physiol. 19, 312-326 (1896).)。 なお、この Starling は、後にスターリングの心臓の法則を示した人物である。 スターリングが取り組んでいた問題は「組織液が血管内に移行して血漿となることがあるのだろうか。」というものであった。 すなわち、血漿が血管外に移行して組織液となり、さらにリンパ管に移行してリンパ液となることは既に知られていたが、 血漿と組織液との移行は一方通行なのか、それとも双方向性のものなのか、という問題である。

1890 年代に、腹腔内や胸腔内などに投与した生理食塩水は、リンパ管内の明らかな流量増加を伴うことなしに速やかに吸収される、という観察事実が報告されていた。 これにより、組織液は血漿へと直接移行し得る、と推定されたが、直接的証拠は乏しかった。 そこでスターリングは上述の 1896 年の報告で、犬の右脚に人工的に浮腫を作ると、右脚の血液の方が左足の血液より希釈される、という事実を示し、 組織液がリンパ流を介さずに血漿へと直接移行する、と主張した。 もし組織液がリンパ流を介してのみ血漿へと移行するなら、血液の希釈の程度について、左右差が生じるはずはないからである。

この組織液の血漿への直接移行について否定的な立場を示していたのが Klemensiewicz である。 彼は腸管の切片を用いた in vitro の実験で、間質の静水圧が血管内の静水圧より高くなると血管が虚脱するため、 組織液の血漿への移行は起こらない、ということを 1886 年に報告したらしい。

スターリングの実験結果は、この Klemensiewicz の報告と一見矛盾するものであった。 そこで彼は理論的観点から、もし毛細血管の血管壁を周囲からひっぱる繊維が存在すれば、 間質の静水圧が高くなっても毛細血管は虚脱せず、組織液の血漿への移行は起こり得る、と主張した。 そして、そのような構造を有する組織が体内のどこかに存在するのではないか、と考えた。 しかし実験的には、そのような組織を発見することができなかった。

そこでスターリングが持ち出したのが、今日でいうスターリングの浸透圧の法則であって、つまり、水の移動を膠質浸透圧の差によって説明する理論である。 それまで、浸透圧に基づく水の移動としては、全浸透圧のみが考慮されており、今日でいう晶質浸透圧と膠質浸透圧は明確に区別して考えられてはいなかった。 しかしスターリングは、血管壁はイオンに対する透過性は高いが、蛋白質に対する透過性は低い、と指摘して、 水の移動については晶質浸透圧はほとんど関与せず、主として膠質浸透圧によって決まる、と主張したのである。 この考えに基づけば、静水圧ではなく膠質浸透圧の差を駆動力として、血管を虚脱させることなく、組織液から血漿への直接移行を来すことが説明可能である。

以上のように、スターリングは持ち前の鋭い考察と推論によって、組織液と血漿の間の水の移行モデルを提唱した。 しかし、このモデルが誤りであることは、今日では常識である。 次回は、その点について書くことにしよう。

なお、以上のスターリングの主張は、全て 1896 年の一報の論文に記載されている。 これに対し現代では、論文数を稼ぐために、一連の内容であっても細分化して複数の論文として投稿する者が稀ではない。実に、くだらないことである。

2017.01.02 余字削除、誤字修正

2017/01/01 輸液学

学生時代に、良い教科書はないかと図書館や書店を物色しつつも、結局、コレという書物に出会えなかったのが、婦人科学と輸液学である。 名古屋大学時代には、やむなく、婦人科学については医学書院『標準産科婦人科学』第 8 版を手元に置き、輸液学については教科書を持っていなかった。 なお、産科学については、図書館に所蔵されていた南山堂『ウィリアムス産科学』原著 24 版を使用していた。

北陸医大 (仮) に来て、産婦人科での研修を受けるに際し、産科学は、上述の「ウィリアムス」の原書である Cunningham FG et al., Williams Obstetrics, 24th Ed., (2014). を購入した。 本当は日本語の方が使い勝手が良いのだが、原書の方が安いことと、産科学の教科書を開く機会はそれほど多くないであろうことから、原書を選んだ。 また、この Williams 産科学の姉妹書とでもいうべき婦人科の教科書、Hoffman BL et al., Williams Gynecology, 3rd Ed. (2016). が出版されたばかりであるらしかったので、婦人科の教科書としては、これを購入した。

問題は、輸液学である。輸液のコツ、だとか、研修医のための輸液マニュアル、というような類の薄い本はあるのだが、 キチンと医学的に輸液を論じた教科書というものが、みあたらないのである。 かろうじて、集中治療学の教科書である Webb A et al., Oxford Textbook of Critical Care, 2nd Ed., (2016). などに、 輸液についての概説が掲載されている程度である。

なぜ、輸液についてのキチンとした教科書がないのか、と不思議に思っていたのだが、ある時、「実は『輸液学』などという学問は存在しない」という事実に気がついた。 我々は、基本的な生理学 physiology や腎臓学 nephrology から理論的に輸液について考えているだけであって、 細かな臨床的事項を踏まえた「臨床輸液学」とでもいうべき学問分野は、未だ確立されていないのである。 たとえば、いわゆる細胞外液類似液を投与する際に、生理食塩液が良いのか、乳酸リンゲル液が良いのか、炭酸リンゲル液なのか、それとも酢酸リンゲル液なのか、 という問題について、医学的に合理的な説明を与えることに成功した人は、存在しない。

体液平衡については、研修医向けのアンチョコ本レベルでは、いまだに浸透圧のスターリングの法則を前提としたモデルが示されているのが現状である。 しかし、この法則が誤りであることは明白である。 典型的なのが、外科手術などの後にみられる体液貯留であって、これは、スターリングの法則では説明できない現象である。 そこで苦し紛れに「細胞内液でも細胞外液でもない、第三のコンパートメント、すなわち『サードスペース』に水が貯留しているのだ」などと説明されることがある。 しかし冷静に考えれば、体内の水は「細胞内にある」か「細胞外にある」かのいずれかに決まっているので、「サードスペース」などというものが存在するはずはない。

私は名古屋大学五年生の時、某外科での実習の最後に、教授に対して次のような質問を投げかけた。 「手術の後に、体液が貯留するのは、なぜなのでしょうか。」 もちろん私は、これが現代外科学における極めて重要な未解決問題であることを知っており、教授は明確に回答できないだろう、と予想していた。 イヤラシイ学生である、と、言えなくもないが、教授が真の医学者であるならば、こういう学生の質問を喜んだはずである。 実際、教授は私の質問の意図を正しく認識したのであろう、言葉を詰まらせた。 すると、居合わせた中堅の医師が「この学生は、何もわかってないな」というような顔をして「サードスペースに水が貯まるからである。」と言った。 すかさず私は「確かに、教科書にはそのように記載されていますが、そのサードスペースというものの実体は、何なのでしょうか。」と、刺しに行った。 これに対し、教授は巧くかわしたのだが、具体的にどう逃れたのかは、遺憾ながら記憶していない。

この「サードスペース」を巡る議論は、近年、その筋では盛んに研究されている。 せっかくなので、この問題については、次回、書くことにしよう。

2017.01.02 一部修正

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