2016/09/30 医者も人間だから

近年、医師の働き方として、QOL だとか、ワークライフバランスだとかいうものを重視する動きがある。 それが悪いことであるとは思わない。過労状態での労働は、過失の温床となり、結局、患者の利益を損なうからである。 ただし、そうしたプライベートの充実は、あくまで医師としての誇り、医学・医療への献身が前提でなければならない。 それはポンペをはじめとして、多くの先人が指摘してきた通りのことである。

特に問題となるのが「誇り」であろう。 医師の誇りについては、山崎豊子が『白い巨塔』で明瞭に描いており、私は名古屋大学時代、いたく感銘を受けた。 以下に引用するのは、胃癌の肺転移を肺炎と誤診されて死亡した患者の病理解剖に際しての描写である。

不意に後方で足音がした。一同が足を止めて、振り向くと、白衣をまとった大河内教授であった。 十二時を過ぎた深夜にもかかわらず、少しの乱れもない毅然とした姿であった。里見と柳原は、一礼して、大河内教授を迎えた。
「先生、深夜に執刀をご依頼して恐縮です」
里見がそう挨拶すると、柳原も深々と頭を垂れて挨拶した。
「いや、解剖とあれば、病理の教授は深夜といえども、即刻に駈けつけて来るのが当り前だ、それより死後何時間、経過しているのだ」
「はあ、それが遺族の気持がきまるまでに時間がかかり、四時間近く経っていますが---」

平然と「深夜といえども、即刻に駈けつけて来るのが当り前だ」などと言い放つことのできる教授が、はたして今の日本に、どれだけ現存しているだろうか。 そして病理解剖まで四時間かかったのを「長い」と言える病理医が、はたして今の日本に、どれだけいるだろうか。

誰であったか忘れたが「病理解剖は、医師が患者に提供する最後の医療行為である」と言った人がいる。 もしかすると「医療行為」ではなく「奉仕」であったかもしれないが、病理解剖では我々が患者に何かを提供するのではなく、 むしろ我々が患者に教えてもらう立場なのだから、「奉仕」というのは正確ではないだろう。 その最後の医療行為を担うという立場に本当に誇りを感じているならば、患者が亡くなったと知れば、義務や責任感ではなく、 自発的感情として「ただちに会いに行きたい」と思うのが当然である。

若い研修医や学生などと話していると、こうした誇りを持たぬ者が稀ではないように思われる。 診断や治療の至らない点を指摘されても「そんなの、無理だよ」「仕方ないじゃないか」「君の言うのは理想論であって、非現実的だ」 「医者にも生活があるのだ」などと抵抗する者は少なくない。 あなた方は、それでも医者なのか。


2016/09/29 右上下肢のモニター心電図

臨床を多少かじった者であれば、モニター心電図で何かを診断するな、と教わったのではないかと思う。 モニター心電図というのは、少数の電極を用いて、四肢誘導のみ、あるいは一つの誘導のみを表示する心電図であって、標準十二誘導心電図に比して診断能力が著しく低い。 従って、モニター心電図で何か異常を疑った場合には、ただちに診断せず、まず標準十二誘導心電図を撮るのが常識である。 とはいえ、モニター心電図から可能な限り多くの情報を引き出すことは重要である。 たとえば II 誘導の波形だけから「新たに出現した右脚ブロック疑い」という情報を引き出すことができれば、心臓の異常の早期発見につながるのである。

心臓超音波検査に行う際には、ふつう、モニター心電図も撮る。 これは、心臓の収縮や弛緩のタイミングを測ることが目的であるから、一般には、波形の詳細は気にしない。 そこで検査の便宜上、右上肢と右下肢、というような、通常の四肢誘導とは異なる変則的な誘導を用いることもある。 過日、私は、この変則的な誘導における「RS パターン」の波形をみた。 もし、通常の II 誘導で「RS パターン」がみられたならば、それは右脚ブロックを示唆する所見である。 では、この変則誘導における RS パターンは、何らかの伝導障害を示唆するのだろうか、ということを、ふと、考えた。

Einthoven の正三角形で考える限り、この変則誘導は通常の II 誘導と同じである。 しかし、かつて京都帝国大学の前川が指摘したように、実際の電極配置を考えれば、 正三角形ではなく直角二等辺三角形で考えるべきであり、その場合、この変則誘導と II 誘導は異なる。 II 誘導のモニター心電図で右脚ブロックを検出できるのは、II 誘導が、前川の二等辺三角形でいう斜辺成分にあたり、 すなわち電気軸の横成分を比較的明瞭に反映するからである。 一方、右上下肢の変則誘導は、純粋な縦成分のみを反映することになる。 なお、直角二等辺三角形モデルでは、aVF 誘導には多少の横成分が含まれていると解釈されることに注意を要する。 以上のことから、右上下肢変則誘導におけるRS パターンは、QRS 群後半に電気軸が < 0°に振れていることを示していると考えられる。 こうした電気軸の振れは、生理的にもみられるものである。

右上下肢変則誘導において RS パターンがみられた上述の患者について、標準十二誘導心電図を確認した。 すると、予想された通り、QRS 群後半に電気軸が -90°程度に振れていた。 極めて軽微な右脚ブロックを示唆するような波形ではあったが、明らかなブロックパターンではなく、生理的といえる範疇であった。 結論として、右上下肢変則誘導における RS パターンは、何らかの異常を示唆するものではないと考えられる。

かつて Einthoven は、充分な理論的説明なしに、専ら経験に基づいて四肢誘導心電図を発明した。 その際、下肢の電極を右につけるか左につけるかについても多くの観察を繰り返し、右下肢では診断的価値が乏しくなることを見抜いたのであろう。


2016/09/28 学生時代に学んだこと

社会一般に言えることだと思うのだが、学生時代に学んだ「原則」と、実際の社会の動きとの間には、かなりの乖離がある。 医療の場合でいえば、感染防護策としてマスク着用を徹底すべし、とか、患者のプライバシーに配慮せよ、とかいうようなことを学生時代には教わるが、 いざ病院の現場に行くと、それらは必ずしも徹底されていない。 私は意志薄弱であるから、ついつい、そうした現場の不適切な慣習に流されてしまうが、それは、よろしくない。

病院や部署によっては、いわゆるインシデントや、患者からの苦情などについて、ノートなどにまとめて情報共有している例も少なくない。 こうしたノートをみると、もちろん、患者からの理不尽な言いがかりもあるが、至極もっともな意見も多い。 たとえば「採血の際に看護師がマスクをしていないのは不衛生ではないか」という意見に対しては、 保守的な勢力からは「絶対にマスクが必要とまではいえない」という返事もあるかもしれないが、 私は「マスクを着用する方が望ましいし、着用しない理由がないのだから、着用するべきである」と考える。 こういう点は、現場の責任者がマスクを着用しているかどうかによって他の者の行動も左右されやすいので、上に立つ者は注意が必要である。

抗癌化学療法を受けている患者からの「化学療法の点滴を受ける旨を、他の患者に聞こえるような状況で言わないでほしい」というような苦情もある。 これも、まったく、その通りであって、実務上の必要から患者本人に問うにしても、単に「点滴」と言うなどして、他人にはそれとわからないような形にするべきである。 そして極めて重要なのが患者の本人確認である。 喋れないような人は別として、患者取り違え防止のために、検査や処置の際には本人に名乗ってもらうのが原則である。 ところが、しばしば、これは省略されてしまう。私も、省略してしまったことが何度もある。 しかし、これは重大な事故の元になるから、面倒でも、イチイチ本人に名乗らせねばならぬ。 実際、私は、軽微ではあるものの、患者を勘違いしたことに起因するインシデントを起こしたことがある。

たぶん、これを読んだ学生の中には、「コイツは、一体、なぜ、こんな当然のことをイチイチ書いているのか」などと不思議に思う者も多いであろう。 それで良い。これは、学生時代に教わった「原則」の方が正しいのであって、現場で横行している慣習の方が間違っているのである。 それを、「実務上、仕方ないのだ」などと言い訳し始めたら、医療の質と安全は、一挙に失われてしまう。


2016/09/25 臨床教育

この記事には、塩沢俊一教授について、不正確な記載が含まれている。2018 年 4 月 4 日の記事を参照されたい。

昔の臨床実地教育は酷いもので、「指導医がやるのを、みて、盗め」という方式であったと聞く。 様々な臨床手技を、一度は指導医がやってみせて、一度は指導医が研修医と一緒にやって、あとは研修医一人でやらせる、というのである。 もちろん、それでキチンと技能を修得できるわけがないのだが、そこは気合と努力と根性で乗りきれ、ということらしい。 さすがに現代では、こういうやり方は非効率、非科学的であり、教育としての質が低いだけでなく、患者の利益を損なうと考えられている。 それでも、古い体質を引きずった一部の病院、診療科では、そういう「教育」方法が残っていると聞くから、恐ろしいことである。 私が患者であれば、そういう病院の診療は受けたくない。

以前、日本には教育をできる医者が少ないということを書いた。 もちろん、北海道大学はかつて解剖学の名著『解剖学講義』を著した伊藤隆に教授の席を与え、『あたらしい皮膚科学』の清水宏を擁している。 また、九州大学は、『膠原病学』を著した塩沢俊一や、 そして日本語の微生物学の教科書としては最高峰の名著である『戸田新細菌学』で知られる戸田忠雄といった、優れた教育者を多数、輩出してきた。 また、山口大学には、個人的にはあまり好きではないが『医学生・研修医のための神経内科学』の神田隆がいる。 しかし、こうした教育者たちは、専ら基礎医学や内科学の分野から生まれたのであって、外科領域における優れた教育者の噂を、私は知らなかった。

過日、電気メスの使い方についてのセミナーが、北陸医大 (仮) で行われた。 セミナーの内容は基礎的なものを中心に充実しており、説明の仕方も巧く、 また講義として一般の若手医師や医科学生を飽きさせない程度に理論的・物理学的内容にまで言及されており、 たいへん、素晴らしいセミナーであった。 講師は、北海道大学の某医師である。 私は、また北大か、と、思った。 どうやら北海道大学では、優れた教育者を引きつけ、培う土壌が、基礎や内科だけでなく外科領域にも及んでいるらしい。

私は、自分も北海道に行こうとか、九州大学に移りたいとか、そういうことを言っているわけではない。 優れた人物というのは、必ずしもブランド力のある東京大学だの京都大学だのに行くわけではない、ということを言っているのだ。 米国の例をみても、間質性肺炎の神様とでもいうべき Anna-Luise Katzenstein は、ハーバードやジョンズ・ホプキンスなどではなく、 State University of New York Upstate Medical University という、はっきりいえばマイナーな無名大学の教授である。 こうした例から鑑みるに、我が北陸医大は、全国から広く人材を集める度量、そこから新しいものを生みだそうとする創意工夫という点において、 日本一を充分に狙うことのできる立場にあるといえよう。

2016.11.22 神田隆氏の所属について誤った記載を修正しました。たいへん失礼いたしました。

2016/09/24 検査手技

私の研修スケジュールでは、9 月 10 月は検査部での研修、となっている。 検査部に二ヶ月も滞在するのは、比較的、稀なようであるが、こうして研修医の希望により自由にスケジュールを組めるのが、北陸医大 (仮) の良い所である。

あたりまえのことであるが、私は、特に検査部の業務を手伝っているわけではない。 私のような素人が、臨床検査などという高度に専門的な業務を遂行できるわけがない。 たとえば心電図を撮るために、電極を患者に貼付することぐらいはできるが、 しかし、指導医の言葉を借りれば「1300 円の商品価値のある心電図」を撮れるかどうかという話になると、たいへん、疑わしい。

私はただ見学しているだけではなく、自分で腹部超音波検査などを実施してもいるが、必ず臨床検査技師が傍におり、適宜、指導や補足検査を行っている。 いうまでもなく、その技師が直接検査を実施した方が圧倒的に速いし、患者の利益にもなる。 要するに、病院のためでも患者のためでもなく、純粋に私のために、私の訓練だけを目的として、私に検査を実施させてくれているのであり、実にありがたいことである。 実際には他の診療科でも同じようなものであって、どちらかといえば我々研修医は、診療業務を手伝うというよりは邪魔している部分が大きいのだが、 検査部は、それが著明であるように思われる。 正しい初期臨床研修のあり方とは、そういうものであろう。

さて、私は病理医志望であるから、何も、自分で超音波検査を行うテクニックなどを修得する必要はない。どうせ、将来、そんな手技を自分で実施はしないのである。 それでも検査の実施訓練を受けているのは、あくまで、その検査で得られた画像を判読するためである。 画像を読むためには、まず、その画像がどのようにして作られているのかを、知らねばならぬ。 そこを知らねば、画像の裏側に何如なる陥穽があるか、到底、想像が及ばぬ。


2016/09/23 富山県議会、市議会の不祥事

北陸ローカルな話であるが、一応、全国区のニュースにもなっているのが、富山県議会議員や市議会議員による政務活動費詐取の騒動である。 要するに領収書を偽造して、政務活動費を不正に受給していた詐欺事件であり、自民党や民進党の議員の大量辞職に発展している。 地元の新聞などでは、連日、この関連の記事が 1 面に大きく掲載されている。 だいたい、こうした不正議員の弁明は、苦しい。 9 月 21 日付の北日本新聞によれば、富山市議会の議長である市田龍一は、実際には購入していないオフィス用品の代金を架空請求した件について 「領収書を先に発行してもらい、後で買おうと思っていたが、忙しかったので忘れた」と「弁明」したらしい。 あたりまえのことだが、未だ購入していない物品について先に領収書を受けとることは不正行為であり、それに基づいて政務活動費を受給すれば詐欺にあたる。

他にも、民進党の橋本雅雄は、市政報告会で使った茶菓子代などを巡り不正な請求を行っていたようである。 これについては、その茶菓子を、直後に行われた懇親会に流用したことが問題視されたようであり、市政報告会の茶菓子代自体は政務活動費から支出して良いらしい。 ここが、私には理解できない。 なぜ、茶菓子代が公金から支出されるのか。

少なくとも、私がいた頃の麻布中学校、高等学校では、領収書のない出費は 1 円たりとも公費からの支出として認めない、 飲食費など個人の享楽に供される性質の出費は一切認めない、というのが鉄則であった。 だいたい、どこの中学校や高等学校でも同じようなものであると思われる。 茶菓子代などは、個人の負担とするのが、あたりまえである。 それなのに、世の中では、なぜか大学生になると中学・高校の頃よりも会計が杜撰になり、社会人では、かなりデタラメな処理をすることが多くなるようである。 しかし、それは「それで良い」のではなく、あくまで中学・高校のやり方が正しいのであり、大人になって、だらしなくなっただけのことである。 富山の市議会議員や県議会議員は、中学生や高校生でさえ備えている程度の分別も、わきまえていないと言わざるを得ない。

こうした杜撰さは、実は、議会に限ったことではない。 我が北陸医大 (仮) でも、いくら何でもマズいよな、と思うような慣行が、少なからず存在する。 医師・患者間の信頼関係に関わることであるが、詳細は書けない。 折をみて、然るべき教授に相談してみることにする。


2016/09/22 いわゆる統計的エビデンス

昨日の記事で、いわゆる統計的エビデンスのことを「砂上の楼閣」と形容したが、これについては若干の補足を要するかもしれない。 というのも、不勉強な医師や学生ほど、「統計的エビデンス」というものを過剰に信用しているように思われるからである。

たとえば、「敗血症に対してグルココルチコイドは無効である」という「エビデンス」を作りたい、と考えたとしよう。 簡単なのは前向きコホート研究を行うことである。通常、軽症例ではグルココルチコイドは投与されないから、 必然的に、グルココルチコイド投与例は重症例ばかりとなり、予後が悪い。 あるいは抗菌薬投与が遅れた症例では必ずグルココルチコイドを投与する、というような方針を採るのも良い。 データが集まった後は、重症度とグルココルチコイドの関係を切り離すためにロジスティック回帰分析などを行うことになるだろう。 しかし、ロジスティック回帰分析は非現実的な仮定に基づいているため、ほんとうは信頼性が低い。 実際、パラメーターを適宜いじれば、かなりの程度、結果を恣意的に操作することができる。 「グルココルチコイド投与例は予後が悪い」という結果を出すことなど、容易であろう。

あるいは、統計誤差が大きくなるように、年齢や重症度、基礎疾患などについて、多様な患者について統計をとるのも良い。 患者がバラバラであれば、結果のバラツキも大きくなり、当然、統計誤差が大きくなる。 そこで患者数を極端に多くし過ぎなければ、統計的には「有意差なし」という結果が出る。 統計学的には、「有意差なし」というのは「差があるのか、ないのか、わからない」という意味であって、何も言っていないに等しいから、 ほんとうは「有意差なし」などという結果には何らの学術的意義もない。 しかし不勉強な医師の中には、なぜか「有意差なし」を「どちらも同じ」という意味に解釈する者が非常に多い。 そのため、「有意差なし」という結果であっても論文として認められるし、「エビデンス」として採用されるのである。 医療関係者以外の人であれば「まさか」と思うような話であろうが、現在の標準的な臨床医の学術水準は、遺憾ながら、その程度なのである。

逆に「敗血症に対してグルココルチコイドは有効である」という「エビデンス」が欲しい場合は、上述の場合とは逆のことをやれば良い。 速やかに抗菌薬投与をできた症例ではグルココルチコイドも一緒に投与する、というようなことをすれば、 グルココルチコイドにより治療成績が向上したようにみせかけることができる。 もちろん、こうしたテクニックは、統計用語でいうところの系統誤差を作っているだけのものであるから、本当は意味がない。 しかし、少なくとも臨床医学の論文では、系統誤差についてはキチンと評価しなくても文句を言われず、「エビデンス」として認められるようである。

中には、いわゆる「N 数」、つまりサンプル数を増やせば誤差は小さくなる、などと信じている者がいるらしい。 しかし、サンプル数の平方根に概ね反比例して小さくなるのは、偶然誤差だけであって、上述の統計誤差は、もちろん、小さくならない。 むしろ、いわゆるメタ解析の場合、質の悪い、系統誤差の大きい研究を含めてしまえば、全体としての誤差は、かえって大きくなる。 そのあたりに留意して、注意深く検討すれば、メタ解析によって任意の「エビデンス」を作ることもできるだろう。

純真な学生や若手医師の中には、そんな悪意で研究をする人はいないだろう、などと思っている者もいるかもしれぬ。 もちろん、それは誤りである。役職や名声を得るために、自称研究者達は、信じられぬほどの不正手段を駆使するものである。 そして、それを知りつつ、互いに指摘しないのが作法なのである。 このあたりのことは、何年か大学院などで過ごした人であれば実感として理解できると思われる。 研究生活の経験がない人は、『背信の科学者たち』(原題 Betrayers of the Truth) という書籍を読んでみると、面白いだろう。


2016/09/21 因果関係

9 月 3 日に書いた、製薬会社による「情報提供」に関係する話である。 過日、主に研修医対象の情報提供の際に、ある疾患について前向きコホート研究の結果を示して「服薬コンプライアンス不良の患者は再燃しやすい」と述べられていた。 「服薬コンプランス」とは、「予め定められた通りに薬を飲む」という意味であって、それが不良というのは、要するに「キチンと薬を飲んでいない」ということである。 製薬会社としては、「コンプライアンス不良だと再燃しやすいのだから、コンプライアンスを高めれば再燃しにくくなる」ということを言いたかったらしい。 しかし、疫学などを修めた医科学生にとっては常識であろうが、「コンプライアンス不良だと再燃しやすい」という調査結果が事実であったとしても、 「コンプライアンスを高めれば再燃しにくくなる」とは、いえない。いわゆる交絡因子の影響があり得るからである。 たとえば「背景に腸管運動障害のある患者はコンプライアンス不良になりやすく、また、腸管運動障害があると再燃しやすい」という関係もあり得る。 この場合、上述のようなコホート研究結果が得られるが、コンプライアンスを高めても再燃を予防することはできない。

その情報提供の際、司会の教授が「何か質問はないかね?」と言うので、私は他の参加者に遠慮する意味で一呼吸おいてから「ハイ」と手を挙げた。 すると教授はニヤリとして「また、君かね。手短に済ませたまえ。」というようなことを言った。 私は、質問というより半分コメントですが、と前置きして、「コホート研究なのだから、因果関係があるとは言えないと思いますが、合ってますよね?」と、 質問のような、質問でないようなコメントを発した。 私としては、「ちょっと、論理が飛躍してますよね」という意味でチクリとやっただけのつもりだったのだが、その MR (Medical Representative) は、 「え、前向きだから、因果関係を示したことになるのではありませんか?」というような反応を示した。

狼狽したのは、むしろ私の方である。 コホート研究では因果関係を示せない、などというのは統計学の基本であり、医学あるいは薬学を修めた者であれば、誰でも知っているはずのことである。 そんなことも理解していない者を MR に任じるとは、一体、その製薬会社は、どういうつもりなのか。 他社の MR であれば、この場合「あなたの言う通りで、因果関係を示したことにはなりませんが、これは参考のためのデータでして云々」などと弁明したであろう。

学生時代から繰り返し書いているが、臨床医療では、理論が不適切に軽んじられている。 「コホート研究だから本当は因果関係を示したことにならないし、特に根拠はないけど、まぁ、たぶん因果関係があるんじゃないか。」というような いい加減な論理が、まかり通っているのである。 少なからぬ臨床医は「しかし厳密に因果関係を示すのは大変だから、臨床的には仕方ないだろう。」などと弁明する。 厚顔無恥とは、このことである。あなた方は一体、何のために医学を修めたのか。 論理を放棄して「なんとなく」で診療するなら、呪術や祈祷によって病を治した古代の医術者と変わらない。無責任である。

なぜ、「コンプライアンス不良が再燃を引き起こすという証拠はない」と明言しないのか。 そのように明言した上での臨床的判断として、コンプライアンスを高めるための工夫をすることは悪くない。 昨今のいわゆる「エビデンス」重視の風潮のために、「統計的エビデンスがないものはダメだ」というような不適切な認識が広まっているように思われる。 特に、医学を修めていない藪医者こそ、統計的エビデンスなどという砂上の楼閣に頼りがちなのではないか。


2016/09/20 臨床をやりたくない

学生時代には少しばかり遠慮していたが、最近では、場面を選んでではあるが、はっきりと「臨床をライフワークにはしたくない」「患者対応を主たる仕事にしたくない」 と言うことにしている。 この言葉だけをみると医師不適格と思われる恐れがあるが、私は、そうは思わない。 私は、患者と話をしたくない、患者を診察したくない、と言っているわけではない。 ただ、患者に病状などの説明をするのが苦痛なのである。

一部に例外はあるものの、基本的には、患者は医学の素人である。 最近ではインターネット等を駆使して、自身の病について知識を蓄えている患者も多い。 しかし、あくまで素人が一朝一夕に勉強しただけのことであるから、医学的に正確な理解からは乖離しているのが当然であり、素人であることには変わりがない。 素人に対して、医学の専門的な内容について正確な説明をして、本当に理解を得ることなど不可能である。 以前にも書いたが、ある種の話術を用いて患者を「理解したつもり」にさせることは可能であるが、あくまで、それは「つもり」に過ぎない。 従って、かみくだいて「わかりやすく」説明して患者を満足させるのが現在の主流であると思われるが、そのためには医学的に不正確な説明を行わざるを得ない。

それが、私には苦痛なのである。 私は、あくまで医学的に正確な、厳密な議論と説明をしたい。 たとえば学生や一般人相手に、医学に興味を持たせるために話術を使うのは、構わない。 しかし患者本人に対して話術を用いて満足させるのは、どうなのか。 研修医になってから、実際に正確ではない説明を受けて、みかけ上は満足して退院していく患者を何人もみてきた。 それが臨床医療のあり方として間違っているとまでは言わないが、私は、それが医学者として誠実な態度であるとは思わない。

日本における医学教育が、医科専門学校などを廃して大学に一本化されたのは、全ての医者は須く医学者たるべし、という理念によるものであったと聞く。 しかし結局のところ、臨床医家と医学者とは、別個の人種なのであって、一人の人間が両者を兼ねることはできないのかもしれぬ。

私は、臨床医家である以前に、科学者であり、医学者の卵である。 だから、患者ではなく、専門家たる医師を相手に、科学者としての誠実さを保てる仕事をしたい。 私が「臨床の前線では働きたくない、病理の方が良い」と言うのは、そういう意味である。

もちろん、医師相手なら医学的に正確な議論ができるか、というと、それは別の話である。 世の中には、学生時代には国家試験対策に専念し、卒業してからは仕事を「こなす」ことに専念し、一度として医学を学んでいない医師が存在する。 ガイドラインにそう書いてあるから、エラい先生がそう言っていたから、というような理由だけで、自分の頭を使わずに、無思慮な診療をするのである。 そういう者に対して、はたして、どれだけ医学的な議論ができるかは疑わしい。


2016/09/17 「臨床的には」

少し、反省したことがある。 たとえば昨日の肺胞再生上皮細胞の件だとか、8 月 9 日のトロンボモジュリンの件だとかを 同期の研修医などに話した際、私は、つい遠慮して「まぁ、臨床的にはトロンボモジュリンを投与すれば良いんだけどさ」などという一言を付けてしまった。 もちろん、これは本心ではない。 医療経済のこともあるが、最適な医療を患者に提供するという観点からは、効くかどうかよくわからないものを闇雲に投与するのは、不適切である。 学生時代には、私は、この点について一切許さず「これを明らかにしていくのは、これからの医学・医療を担う我々の責任である」と強く主張していた。 それに対して、周囲の学生からも一定の理解を得られていたように思う。 ある時などは、私が「まぁ、臨床的には……」と言った際、友人の一人から「あなたが『臨床的には』などと言うのか」という指摘を受けたほどである。 一方、北陸医大 (仮) に来てからは、あまり周囲からの同意は得られていない。そこで私も遠慮してトーンダウンし、心にもない発言をしているわけである。 これが名古屋大学と北陸医大の違いなのか、それとも学生と研修医の違いなのかは、知らぬ。

この最近の私の態度は、やはり、改めねばならないと思う。 名古屋大学はどうだか知らぬが、少なくとも今の北陸医大において、未来への野心と希望を抱き、現状を否定し、理想を語ることができる者は、少ないようである。 現実の障壁を前にして疲れてしまった教授陣や、早くも野心や希望を捨ててしまった若者達には、その任は重すぎる。 その一方で、この現状に不満を抱き、理想を持ちたい、現状を改めたい、という心を抱いている人も、少なくないようである。 それならば、それに応えるのが私の北陸医大における使命であろうし、実際、そのつもりで、ここに来たのである。

もちろん今すぐには、北陸医大の若者達に、私の言葉は届かないであろう。 以前にも書いたが、五年、あるいは十年かけて、彼らの胸に届けば充分である。


2016/09/16 肺胞再生上皮細胞は II 型肺胞上皮細胞なのか

典型的には急性間質性肺炎 (Acute Interstitial Pneumonia; AIP) などでみられる肺胞再生上皮細胞は、慣習的に、II 型肺胞上皮細胞と呼ばれる。 しかし、これは本当に II 型上皮なのか、という疑問について 9 月 2 日に書いた。本日は、その続きを書く。

いわゆる「II 型肺胞上皮細胞の反応性過形成」を巡っては、D. Grotte らの 1990 年のレビュー (Diagn. Cytopathol., 6, 317-322 (1990).) が 有名なようである。 このレビューでは、この過形成細胞が II 型であると判断する根拠については明記されておらず、 超微細構造的に、つまり電子顕微鏡所見から、II 型のようである、とのみ述べ、 Katzenstein AA, Surgical Pathology of Non-Neoplastic Lung Disease, (1982). を参考文献に挙げている。 なお、これは間質性肺炎の病理の第一人者である Anna-Luise Katzenstein が書いた有名な教科書の初版である。 最新版は 2006 年に出版された第 4 版であるが、既に絶版となっており、私は 6 年生の頃に英国経由で入手した。 幸い北陸医大の図書館には同書の初版が所蔵されているので閲覧したところ、 通常の II 型肺胞上皮細胞でみられる lamellar body は減少しているが、微絨毛が豊富であり、II 型肺胞上皮であるといえる、などと書かれている。 よくよく考えると、これは「I 型よりは II 型に近い」と言っているだけであって、I 型でも II 型でもない別種の細胞である可能性は否定されていない。

この点について Katzenstein の教科書の第 4 版では、免疫組織化学および電子顕微鏡所見から、II 型肺胞上皮またはその前駆細胞のようである、と述べている。 その根拠として挙げられているのは防衛医大の Sugiyama らの報告 (Mod. Pathol., 6, 242-248 (1993).) であり、 そこでは肺胞再生上皮細胞がサーファクタントを産生することなどが報告されている。 ただし、全例でサーファクタントを産生しているわけではなく、また、通常の II 型肺胞上皮細胞では発現していない表面抗原もみられるようである。 そのことを考えると、これは再生上皮細胞が II 型であると判断する根拠としては、不充分であると言わざるを得ない。

このように、肺胞再生上皮細胞は、I 型というよりは II 型に近い細胞のようではあるものの、 II 型肺胞上皮細胞である、とまで言ってしまうのは、あまり適切ではないように思われる。 これについて Katzenstein がどう考えているかは、よくわからない。 ただし、今年になって出版された、上述の教科書の改訂版ともいうべき位置付けの Katzenstein AA, Diagnostic Atlas of Non-Neoplastic Lung Disease, (2016). には、この再生上皮細胞の正体について「II 型肺胞上皮である」というような記述がみあたらない。 ひょっとすると Katzenstein も、これが II 型であるかどうかについて疑問視しているのかもしれぬ。

実際のところ、肺胞上皮細胞傷害に続発して II 型肺胞上皮細胞が増殖する、と考えるのは理論的に不自然である。 これは、Katzenstein の「Atlas」のように、単に「再生上皮細胞」とするか、強いていうならば「III 型肺胞上皮細胞」などと呼ぶのが適切であるように思われる。

2016.09.17 語句修正

2016/09/14 アルブミン

名古屋大学時代に、同級生の某君と雑談している時に「濃厚赤血球、新鮮凍結血漿、およびアルブミンの輸血を行う基準は何か」というクイズを出された。 彼としては、輸血を行う目安となるヘモグロビン濃度の数値などを答えてみろ、という意図だったのだろうが、もちろん私は、そんな数値は記憶していない。 「貧血を迅速に補正しなければ生命の危険が生じる恐れがある場合には赤血球輸血を行う。 凝固因子の欠乏による重大な出血を来す恐れがあれば新鮮凍結血漿を輸血する。アルブミンの輸血が有効な状況というのは稀で、ちょっと、思い当たるものがない。」と答えた。

実際、アルブミン投与が有効と考えられる状況は稀であり、名古屋大学時代には、私はアルブミン投与を受けている患者をほとんどみた記憶がない。 ところが北陸医大 (仮) では、アルブミン投与が比較的高頻度に行われているようである。 学生や研修医と話しても、低アルブミン血症で浮腫があるから補正するのだ、というような発言を、しばしば耳にする。 もちろん、以前に書いたように、低アルブミン血症を原因とする浮腫は実際にはかなり稀であり、 浮腫に対してアルブミン投与が有効であるとする根拠は存在しない。 どうもこのあたり、遺憾ながら北陸医大の教育は、時代の最先端から少しばかり遅れているようである。

本日、北陸医大で学生や研修医などを対象としたセミナーで、アルブミンの話があった。 そこでは、救急医療における膠質液輸液の有効性は疑わしい、とか、アルブミンを安易に投与すべきではない、とかいう旨の話があった。 私はよく知らなかったのだが、そのセミナーで聴いた話によれば、1980 年代の日本ではアルブミンが濫用されていたが、その後、徐々に改善されてきているらしい。 要するに、そういう時代に育った医者は、深く考えずに安易にアルブミンを投与しがちなのであろう。 医学・医療においても、無思慮に経験に頼り、指導者の教えに従うのではなく、理論的な検討が重要であることを示す一例である。


2016/09/12 お気持ち

退院する患者が、スタッフ宛に菓子折などを持ってくる例があって閉口する、という話は、6 月に書いた

過日、某診療科で長くお付き合いした患者が退院した。 お付き合い、といっても、私はヘッポコ研修医であるから、話をじっくり聴くぐらいのことしか、していない。 その人は、いささか標準的でない診療経過をたどってしまったために、入院中、やるせない思いを募らせていた。 当然、鬱憤もたまったであろうが、それを家族や看護師にぶつけるのは憚られたようである。 それを受け止めるのは、形だけとはいえ「医師」の肩書を持っている私の仕事であろう、と判断した。

結果的に、私は、その人の重荷を少しだけ軽くすることができたようである。 退院後に外来受診した際、既に別の部門に異動していた私の所に、わざわざ面会にいらっしゃった。 その際に、心の込もったお手紙も頂戴し、たいへん励みになった。 しかし困ったことに、そのお手紙には、ちょっとした「お気持ち」が添えられていた。

お手紙は、たいへん嬉しいものであるが、職業倫理からいって「お気持ち」を受領するわけにはいかぬ。 とはいえ、書留などで送り返すのは非礼にあたるし、気分も害されるであろう。 どうしたものか、と困った末に、某教授に相談することにした。 すると教授が言うには、手紙に添えるという手法は、医師側に断わらせないためのテクニックとして、割とありふれているらしい。 教授は、受け取らず、かつ、つき返すこともしない解決策として、病院への寄付として扱ってはどうか、と述べた。 なるほど、と思った私は、本人から電話で同意を得た上で、そのように手続きをとった。

ただし、一つだけ、問題があった。 寄付として扱うためには、その旨の書類を北陸医大 (仮) に対して提出しなければならない。 これは匿名ではできず、寄付者の記名と捺印が必要だというのである。 理屈としては、その患者に書類を書いてもらうのが一番、正式なのではあるが、いくら何でも、そのように手を煩わせるのは心苦しい。 かといって、他人が勝手に印を捺すのは、社会的にはいささか不適切で、最大限の悪意をもってみれば有印私文書偽造といえなくもない。 結局、その点は卒後臨床研修センターの事務員の方がウマく処理してくれたので助かったのだが、詳細は書かない。

この日記の読者は、患者よりは、むしろ医療従事者が多いであろうが、一応、書いておこう。 お手紙は嬉しいが、「お気持ち」を医師個人に渡すのは、正直なところ困惑するので控えていただけると助かる。 我々は病院職員として仕事をしているだけであるし、それに対する報酬は、キチンと病院から受け取っているのである。 それでも何か、どうしても、というのであれば、病院に対して寄付していただければ、未来の患者のために役立てることができる。


2016/09/10 核実験

医学とは直接関係しない、国際政治の話題である。 朝鮮民主主義人民共和国が、5 度目の核実験を行い、それに対し国際連合安全保障理事会などから強い非難などが表明された。 私は自称共産主義者ではあるが、北朝鮮が共産主義国家であるとは認めないし、同国に特に好意的なわけではない。 ただし本件に関しては、北朝鮮を非難する側に無理がある。

そもそも核兵器の保有や核実験の施行を禁じる法的根拠は、核拡散防止条約に過ぎない。 もちろん、この条約は不平等条約であると批判しているインド共和国などの非加盟国は条約の規定に縛られないが、加盟国は条約に従わなければならない。 北朝鮮は、かつて条約加盟国であったが、2003 年には脱退を宣言している。 条約からの脱退は、条約上で認められた正当な権利であるから、脱退自体を非難することは不適切であるし、脱退した以上は、条約に従う必要もない。 言うまでもないことだが、核兵器を保有している米国等には、道義的観点から北朝鮮の核実験や核兵器保有を批判する資格はない。

安全保障理事会が北朝鮮の核実験に対して批判を表明することも不適切である。 国際連合憲章第 2 条では、加盟国の主権平等が定められている。 それを無視して、いわゆる核保有国やインド、パキスタンの核実験は黙認し、そしてイスラエルの半ば公然の核保有を許す一方、 北朝鮮の合法的な核実験を非難する安全保障理事会の声明こそ、国連憲章を踏みにじる不法で不当な態度である。


2016/09/09 狭い了見

私が直接に確認したわけではなく、あくまで伝聞、噂に基づく話である。 我が北陸医大 (仮) のある某県でも、全国の他の地方と同様に、医師が不足している。 そこで県当局は、研修医を含めて県内の医師が他県に流出することを防ぐべし、という方針をとっているらしい。 我が北陸医大にも、そのような県の意向が伝えられている、という話を聞いたことがある。

実に、了見が狭い。器が小さい、と言っても良い。 たとえば名古屋大学医学部の卒業生にとって、仮に北陸医大を研修先、あるいは三年目以降の就職先として検討した際、最も気になるのが 「一生、この県で過ごさねばならなくなるのではないか」という点であろう。 現状として、この県の医学・医療は、日本の中で先進的な地位を占めているとは言い難い。 若い医師や医科学生が、この県で一生を過ごすことに抵抗を感じるのは、当然のことである。 私だって、もし仮に北陸医大に対して耐え難い不満が生じた場合には辞めてやる、それで困るのは北陸医大の方であって、 私が不利益を被ることはない、という自信と覚悟がなければ、北陸医大に来ることは躊躇したであろう。

逆なのだ。 研修が終わったら、全国どこでも、好きな所に行くが良い、それで通用するだけの質の高い研修を提供する、という態度を示してこそ、人は集まるのである。 京都大学や東京大学、あるいは聖路加国際病院などに人が群らがるのは、そういう理由である。 医師の囲い込みなどを図れば、かえって、この県から医師はいなくなるであろう。

県の意向はともかく、北陸医大としては、どういうつもりなのだろうか。 全国どこに行っても通用するだけの質の研修を、提供する意思はあるのだろうか。それとも、県内の医療を支えられれば充分だと考えているのだろうか。 北陸医大では、定期的に、研修医と病院長の懇談会が開催されている。次回には、このあたりのことを病院長に問うてみようかと思う。

2016.09.10 語句修正

2016/09/08 溶血性尿毒症症候群と血栓性血小板減少症

K. Kaushansky et al., Williams Hematology, 9th Ed., (2016). によると、 溶血性尿毒症症候群 (Hemolytic Uremic Syndrome; HUS) と血栓性血小板減少症 (Thrombotic ThrombocytoPenia; TTP) は、似ているようで、全く異なる病態のようである。 TTP には先天性のものと後天性のものがあるが、ここでは後天性のものだけを議論する。 私は、このあたりの疾患概念について不勉強であったので、両者の相違について明確な認識を持っていなかったが、過日、これを勉強する機会があったので、記録しておく。 もちろん、血液疾患をよく勉強した医科学生にとっては常識的な内容ばかりであろうが、それだけキチンと勉強している学生は多くないであろう。

まず、血液学の入門書である MEDSi 『ハーバード大学テキスト 血液疾患の病態生理』では、次のような説明がなされている。 TTP は、基本的には ADAMTS13 蛋白質に対する自己抗体の出現によって血栓形成傾向を引き起こす疾患である。 ADAMTS13 は「非常に大きな von Willebrand Factor (vWF) を正常のサイズに切断するプロテアーゼ」である。 これが機能を失うことで異常に大きな vWF が形成され、これが「非常に粘着性の強い分子糊として血小板を血管内皮に粘着させる」と考えられる。 これに対して HUS は補体の異常活性化によるものであり、血管内皮細胞傷害などのために血栓形成傾向を来す。 さらに「成人症例では HUS と TTP には連続性がある」ために「血漿 ADAMTS13 タンパク分解酵素を測定しても, 血漿交換療法の有用性を予測できない.」などとしているが、 この「連続性」の詳細については記載がない。 この TTP や HUS を巡る記述は、同書の中でも珍しく、表現が曖昧で、歯切れが悪い。

一方「Williams」では、「ハーバード大学テキスト」とは異なる説明をしている。 そもそも vWF はコーラゲンと血小板を架橋する分子であるが、血小板と結合する A1 ドメインと、コラーゲンと結合する A3 ドメインの間には A2 ドメインと呼ばれる部分がある。ADAMTS13 は、この A2 ドメインで vWF を切断する酵素である。 基本的には A2 ドメインは隠れているが、vWF が血小板と結合した場合には A2 が露出して ADAMTS13 の標的となり、結果、血小板がコラーゲンに接着しなくなる。 このことからわかるように、vWF の巨大マルチマー形成は、ADAMTS13 の不活性化の結果ではあるが、血小板のコラーゲンへの接着亢進の直接的な原因ではない。 だいたい、vWF は血小板を「コラーゲン」に接着させるのであって「血管内皮」に接着させるわけではなく、その意味でも「ハーバード」の記述は不正確である。

さらに「Williams」は、TTP と HUS を完全に別の病態である、としている。 たぶん、ハーバードの「連続性がある」という記述は、両者の臨床像がしばしば似ていることに加えて、 成人症例に限れば両者ともに血漿交換療法が奏効することから生じたものであろう。 しかし「Williams」によれば、TTP における血漿交換療法は抗 ADAMTS13 抗体の除去を目的とするのに対し、 HUS では補体の欠乏を補正し、抗補体自己抗体を除去することを目的とする、としている。 ここでいう補体とは、H 因子などの、補体カスケードを抑制する因子のことである。 HUS の原因は、こうした因子の遺伝的変異や自己抗体による抑制などによる、補体系の調節障害であると推定される。

論理の整合性からいって、「Williams」の説明の方が「ハーバード」よりも優れており、矛盾がない。 もっとも、「ハーバード」の原書が出版されたのは 2011 年であり、「Williams」は 2016 年であるから、両者を比較するのは公平ではないだろう。 「ハーバード」の原書である Bunn HF et al., Pathophysiology of Blood Disorders は、第 2 版が今年の末に出版されるようなので、 そこでは記述が改められているであろう。

2016.09.08 一部追記

2016/09/07 コカインとヘロインについて

詳しいことはよく知らないのだが、快楽目的に不適切に使われる薬物としては、アンフェタミンなどの覚醒剤と、モルヒネなどのオピオイドが典型的である。 最近、一部で流行している、いわゆる脱法ハーブも、大抵、このどちらかに該当する。

コカインというのは、中南米などを産地とするコカの葉から抽出される物質であって、作用は部分的にアンフェタミン類に似ている。 アンフェタミン類は、シナプス小胞からのノルアドレナリン分泌を促すとともに、シナプス前ニューロンへのノルアドレナリンの再取り込みを阻害することで 交感神経刺激作用を発揮する。 上條吉人『臨床中毒学』によれば、コカインはアンフェタミンと同様のノルアドレナリン再取り込み阻害作用を有する他、リドカインと同様の ナトリウムチャネル阻害作用を有するため、局所麻酔効果に優れており、日本でも臨床医療で使用されることがある。

一方、ヘロインは、ケシの実から抽出されるモルヒネから作られるジアセチルモルヒネである。もちろん、麻薬である。 なお、余談であるがメチルモルヒネ、つまりコデインは、日本の法令では麻薬ではないことになっている。 さて、『臨床中毒学』によれば、ヘロインの作用機序はモルヒネと同様であるが、脂溶性が高いため中枢神経系への移行性に優れ、従ってモルヒネより力価が高いのだという。 分布容積もモルヒネの 2-5 L/kg に対してヘロインは 25 L/kg と高い。 血中半減期はモルヒネの 1-7 時間に対して、ヘロインは 2-6 分、とされている。 ただし、これは、あまり正確な記述ではない。 というのも、「半減期」という概念が前提としている単一コンパートメントモデルは、ヘロインの臨床的な薬物動態を説明するには不適切だからである。 換言すれば、複数のコンパートメントを考える場合には、「半減期」を定義することはできない。 この点に関しては、ヘロインと同様に高い脂質親和性を持つ薬物であるプロポフォールを巡って、6 月 21 日に書いた。

こうした薬物動態の繊細な問題については、学生向けの薬理学の教科書では、あまり議論されていないようである。 これは日本に限ったことではなく、薬理学の名著である Golan DE, Principles of Pharmacology, 4th Ed., (2017). でも、詳しくは述べられていない。 ただし、名古屋大学の薬理学の講義では、このあたりの問題も含めた素晴らしい議論が行われていたと記憶している。 なお、こうした問題は麻酔科学では臨床的に重要であり、Miller RD, Miller's Anesthesia, 8th Ed., (2015). では次のように述べられている。

...although of interest to many clinicians, the conventional pharmacokinetic term half-life has limited meaning to anesthetic practice since the clinical behavior of drugs used in anesthesia is not well described by half-life.

少なからぬ臨床医は、普通の薬物動態学で使われる「半減期」というものに興味を持つようであるが、この語は、臨床麻酔においてはあまり意味がない。 というのも、麻酔に用いられる多くの薬物については、その動態を半減期によって簡略に説明することができないからである。

2016.09.08 語句修正

2016/09/06 MCHC の単位

血球算定というのは、古典的には、血液中に血球が何個あるかを数える検査をいう。 しかし歴史的経緯により、血球数だけでなく、それに関連する項目、たとえばヘモグロビン濃度や、いわゆる赤血球指数なども血球算定検査の一環として、現代では行われる。 「赤血球指数」という言葉の意味にも歴史的変遷はあるが、現代では「Wintrobe の赤血球指数」の意味で用いられるのが一般的である。 これは、平均赤血球容積 (Mean Corpascular Volume; MCV)、平均赤血球ヘモグロビン量 (Mean Corpascular Hemoglobin; MCH)、 平均赤血球ヘモグロビン濃度 (Mean Corpascular Hemoglobin Concentration; MCHC)、の三つを指す。 本日の話題は、この MCHC の単位についてである。

MCHC というのは、名前の通り、赤血球中の平均ヘモグロビン濃度である。 従って、MCHC は、血液中ヘモグロビン濃度をヘマトクリットで除すことによって計算できる。 ヘマトクリットというのは、血液中に赤血球が占める体積割合のことである。 物理学的に考えれば、ヘマトクリットは無次元量であるから、MCHC は血液中ヘモグロビン濃度と同じ次元を持つ。 従って、その単位には g/dL などを用いるのが妥当である。 ところが、臨床検査医学の一部の教科書では、MCHC の単位を % として記載している。 物理学的には明らかな誤りであるにもかかわらず、なぜ、そうした記載が散見されるのか。 この問題については、巽のレビュー (日本検査血液学会雑誌, 5, 252-258 (2004).) が、簡明である。 どうやら、MCHC などの指標を提唱した M. M. Wintrobe 自身が、単位について不適切な内容を記載してしまった、というのが、この単位を巡る混乱の原因のようである。

Wintrobe は、この赤血球指数を 1929 年に提案したが、それが日本で広まったのは、 巽によると、Wintrobe の著書 `Clinical Hematology' の第 6 版が出版された 1967 年頃からであるらしい。 この第 6 版までは、Wintrobe は MCHC の単位として「%」を用いていたが、1974 年の第 7 版以降では「g/dL」に変更されたという。 たぶん、Wintrobe 自身が、% 表示の物理学的不適切さを認識していたために、修正したのであろう。

こういうことは、理論研究の世界では、しばしば起こる。 研究の成果、この例でいえば MCHC の計算方法自体は単純なのだが、研究している当人は、ものすごく複雑で難しい考察の末に、この結論にたどり着いている。 その難解な過程を知っているがゆえに、本当は単純な「単位をどうするべきか」という問題を、必要以上に複雑に考えてしまい、かえって不適切な結論に至るのである。 MCHC の例でいえば、本当は Wintrobe は、ヘモグロビンの濃さを表す無次元の指標を提案したかったのであろう。 ところが結局、物理学的に合理的な方法で無次元化する方法を発見できなかった。 そこで、血液の比重を 1 とみなす、というような強引な近似に基づいて、無次元の「%」を単位として採用したものと思われる。 しかし、この近似は、あまりに無茶であるから、第 7 版からは「g/dL」に修正したのであろう。

以上のことからわかるように、MCHC の単位として「%」を用いることは合理性を欠く。 それをよく理解できないという人は、初歩的な物理学、特に、いわゆる次元解析について、一度、勉強してみるのがよろしい。


2016/09/05 カハールの間質細胞の補足

昨日の記事の補足である。 大事な部分を省いてしまったので、神経堤細胞の遊走障害と慢性便秘症の関係についての推測が、わかりにくかったかもしれぬ。

昨日紹介した Hanani らのレビューなどによると、カハールの間質細胞は、神経堤由来ではなく、中胚葉起源であるらしい。 カハールの間質細胞は形態的には神経細胞に似ているが、解剖学的には神経節細胞と平滑筋をつなぐような位置に存在することを思えば、中胚葉由来でも不思議はない。 発生過程においてカハールの間質細胞に分化するには、幹細胞因子 (Stem Cell Factor; SCF) が必要であり、この SCF は神経細胞などから分泌されるという。 従って、カハールの間質細胞が生じるためには、神経堤細胞の適切な遊走が必要であると推定される。


2016/09/04 カハールの間質細胞

9 月 5 日に補足記事がある。

過日、研修医向けのセミナーで、便秘症についての講義があった。 私は、便秘症について、よく理解していなかったので、これを機会に少しずつ勉強している。 残念ながら、日本では研修医向けの低俗なマニュアル本は豊富であるものの、便秘症についてキチンと記述された日本語の成書は乏しいようである。 英語の文献では、D. K. Podolsky et al., Yamdada's Textbook of Gastroenterology, 6th Ed. (2016). が便秘症にも詳しく言及しており、よろしい。 同書は 6 万円程度と、学生が個人で購入するには重厚な書物であるが、北陸医大 (仮) や名古屋大学の図書館では、もちろん、開架書庫に納められている。

ところで、神経解剖学を修めた学生であれば、カハール、という神経解剖学者の名を聞いたことがあるだろう。 彼の業績は多岐にわたるが、たとえば、ゴルジらが唱えた「神経ネットワークは合胞体を形成している」という説を否定し、 別個の神経細胞が互いに連絡しあっているのだ、と主張したことは有名である。 彼は 1985 年、ウサギの消化管の筋層間神経叢に、なんだか機能がよくわからない細胞が存在することを報告した。 今日ではカハールの間質細胞 (Interstitial Cell of Cajal; ICC)」と呼ばれる細胞である。 この細胞の機能については 100 年以上にわたり議論が続いていたが、近年では、消化管の蠕動運動のペースメーカーである、 という見解にまとまりつつある。このあたりについては、M. Hanani らが簡明なレビューを書いている (Acta Physiol. Scand., 170, 177-190 (2000).)。 余談であるが、Hanani はイスラエルの大学教授であるが、この雑誌はスカンディナヴィア生理学会が刊行しているものである。 近年では分子や遺伝子を対象にした基礎研究が日本を含めて世界的に流行しているが、 スカンディナヴィアでは、そうした風潮に迎合せず、巨視的な生理学などを重視する文化が残っているようである。 今年の春の旅行の際にも書いたが、 21 世紀後半から 22 世紀にかけて、世界の科学や医学を牽引するのはスウェーデンやフィンランドであろう。

消化管粘膜にみられる c-Kit 陽性細胞はカハールの間質細胞であると考えられている。 一方で、電子顕微鏡的にカハールの間質細胞と考えられる細胞の中には c-Kit 陰性のものもあるという (J. Auton. Nerv. Syst., 75, 38-50 (1999).)。 結局のところ、カハールの間質細胞とは多くの種類の細胞の総称なのであって、今後、機能面から分類を進めていく必要がある。 たとえば、主として胃の固有筋層に生じる GastroIntestinal Stromal Tumour (GIST) と呼ばれる腫瘍は、このカハールの間質細胞由来であると考えられている。 GIST の発生と c-Kit 発現との間には密接な関係があると考えたくなるが、それでは c-Kit 陰性のカハールの間質細胞から GIST が生じることがあり得るか、 という点については、私はよく知らない。

話を便秘症に戻す。 「Yamada」によれば、慢性便秘症の原因は便宜上、1) 腸管の協働収縮異常; 2) 腸管運動の低下; 3) 過敏性腸症候群、に大別されるが、もちろん、ある程度は重複する。 このうち腸管運動の低下について、長期にわたる便秘の末に結腸切除を受けた患者について組織学的に検索すると、 神経節細胞やカハールの間質細胞の数や大きさが減少しているという。 もちろん、これが便秘症による二次的な変化である可能性はあるが、素直にみれば、むしろ便秘症の素因であると考えたくなる。

小児の先天性疾患である Hirshsprung 病は、神経堤細胞の腸管への遊走に障害を来し、結腸遠位部の神経叢が正常に形成されないことを原因とする疾患である。 ひょっとすると、Hirshsprung 病とまではいかずとも、この胎児期の遊走が乏しかった人が、慢性便秘症になりやすいのかもしれぬ。

2016.09.05 誤字修正
2016.09.05 余計な記述を削除

2016/09/03 薬の「情報提供」

他の多くの病院と同様に、北陸医大 (仮) では、しばしば、製薬会社の MR による薬剤情報提供会が行われる。 「情報提供」とは、わかりやすい言葉でいえば「宣伝」という意味である。 この薬剤情報提供会では、大抵、その薬剤についての豪華なパンフレットが配布され、15 分程度で簡潔に製品紹介が行われるだけでなく、基本的には高価な弁当が提供される。 もちろん、このパンフレット代や弁当代は、根本的には薬価、つまり患者や国民の経済的負担から捻出されている。 このあたりを巡る倫理的な観点からの批判は過去に何度も書いているから、ここでは繰り返さない。

本日の話題は、このパンフレットの中身である。 大抵、パンフレットには臨床試験の統計データを示して、その薬の有効性をアピールするような内容が記載されている。 素人が一見しただけでは、まるで、その薬が画期的で著しい効果を発揮しそうな印象を与える図表が掲載されていることが多い。 ところが、よく読むと、それらの試験はマヤカシのようなものであることが多いのである。

たとえば、薬の効果について評価方法が「症状が軽快したかどうかについての、患者の主観的判断」であるにもかかわらず、 試験の設計として盲検化が行われていない例をみたことがある。 投薬の目的などによっては、効果判定の基準として患者の主観を採用すること自体は、不適切とはいえない。 しかし「患者の主観」にはプラセボ効果が著しく影響するから、その場合、盲検化しなければ、医学的に意味のあるデータにはならない。 それにもかかわらず一部の自称研究者は、非盲検で試験を実施した「論文」を発表しているのが現実である。 そうした「研究」を行う者も、その「論文」を引用する製薬会社も、医学的誠実さを喪い、医療倫理を放棄していると言わざるを得ない。

何より腹立たしいのは、そうした欺瞞に満ちたパンフレットを、素人のみならず、専門家たる医師に対して提示するフテブテしさである。 その程度の詐術を、我々が見抜けないとでも思っているのか。 それほどまでに、我々は侮られているのか。

ほとんどの大学の医学科では、確率論や統計学をキチンと教えていないようである。 学生や研修医に対して、論文を読んで勉強することを推奨する一方で、論文をキチンと読むために必要な統計学を教えていないのだから、トンチンカンな話である。 その結果として、論文の内容を批判的に吟味することができず、著者の主張を鵜呑みにしてしまう例が存在するようである。 ひょっとすると製薬会社の連中は、そうした医師の蒙昧さにつけ込もうとしているのかもしれぬ。


2016/09/02 反応性 II 型肺胞上皮細胞過形成

9 月 16 日の記事も参照されたい。

肺は、嚢状の構造である肺胞と、それに続く気管支から成る構造物である。肺胞内腔表面は、組織学的には、単層の肺胞上皮細胞に覆われている。 肺胞上皮細胞は、扁平な I 型肺胞上皮細胞と、立方状でサーファクタントの産生などを担う II 型肺胞上皮細胞に分類される。 ここまでは、組織学を修めた医科学生にとっては常識である。

肺炎などに際しては、この肺胞上皮細胞も炎症性の傷害を受けるが、ふつう、組織幹細胞などの働きによって再生する。 この再生過程においては、核が大きく、クロマチンが豊富な、つまり異型を示す立方状の細胞が高頻度にみられる。 これは「反応性 II 型肺胞上皮 (reactive type II pnneumocyte)」などと呼ばれるものであるが、細胞診では腫瘍細胞と誤診されることがある。 これについては、河原邦光が書いた日本語のレビュー (岡山県臨床細胞学会誌, 34, 7-11 (2015).) が読みやすい。

さて、ある時、どういう話の流れであったか記憶にないが、北陸医大 (仮) の病理学教授と話していた時、 ある肺の組織像を示して教授は「II 型肺胞上皮だね」と言った。 その時、私は不勉強で、炎症に際して II 型肺胞上皮細胞が過形成するという話を知らなかったから、すかさず 「確かに形態的には II 型肺胞上皮にみえますが、機能的にも II 型なのでしょうか」と質問した。 つまり、たとえば I 型肺胞上皮細胞が立方状に形だけを変えたものではなく、本当に、サーファクタント産生などの II 型肺胞上皮としての 機能を備えた細胞なのだろうか、という疑問を口にしたのである。 これに対して教授は「それは、わからないね」と答えた。

私は細胞診の教科書は持っていないので、さっそく Cibas ES,Ducatman BS, `Cytology: Diagnostic Principles and Clinical Correlates', 4th Ed., (2014). を注文するとともに、 少しばかりの文献検索を行った。 話は逸れるが、この細胞診の教科書を注文する際、たまたま Anna-Luise Katzenstein 教授の新しい教科書 (`Diagnostic Atlas of Non-Neoplastic Lung Disease: A Practical Guide for Surgical Pathologists') が出ているのを発見したので、これも購入することにした。 私は、彼女のファンなのである。

さて、反応性 II 型肺胞上皮の過形成については、米国の M. W. Stanley らをはじめとして、多くの報告がなされている。 しかし、これが本当に II 型肺胞上皮なのかどうかを直接的に検討した文献は、あまり多くない。 大抵、D. Grotte や Stanley らによる 1990 年の報告 (Diagn. Cytopathol., 6, 317-322 (1990).) で使われた判定基準に準拠しているようである。 あいにく、この報告は北陸医大には所蔵されていないため取り寄せ依頼中であり、まだ私は内容を確認していない。

どうも、この状況は、胡散臭い。 この過形成している細胞が II 型肺胞上皮だという根拠は、ひょっとすると、薄弱なのではないか。 炎症が II 型肺胞上皮の増生を促す、というのは、私には、あまり合理的な生体反応であるようには思われない。 Grotte らの報告を確認した後に、あらためて、この日記に記載することにしよう。


2016/09/01 接遇とインフォームドコンセント

接遇、という語が世間でどのくらい頻繁に使われるのかは、よく知らない。 少なくとも医療業界では、医療従事者による患者に対する接し方、という意味で、近年、頻用されるようである。 私自身は、患者に対しては通常の社会常識の範囲内で対応すればよいと考えており、接遇などという、もったいぶった言葉を使うことは好きではない。

昔は、なぜか、医者は患者よりエラいと考えていたらしい。 治療方針を決定するのは医者であるし、検査結果等もイチイチ患者に説明する必要はないと考えられていた。 患者に話す際には、目上の者が目下の者に命令するような言葉遣いや口調でよいとされていたようである。 さすがに近年では、こうした慣行は不適切であるとされるようになった。 たとえば我々は学生時代、「高齢の患者に対して、まるで幼児に話すかのような言葉遣いで接することは不適切であり、敬語を使うべきである。」というように教わった。 冷静に考えれば当然に過ぎることなのであるが、わざわざ、そういうことを明言しなければならないほど、医療業界では非常識な慣習が続いていたのである。

遺憾なことに、頭の古い医者や、勘違いした若手医師の中には、こうした時代の変遷についていけない者もいるようである。 患者に対し、エラそうな、無礼な口のきき方をする医者は少なくない。 学生時代、私は、ある中堅の医師が回診の際、病室の入口を入るや否や、まだ患者の顔もみず挨拶もしないうちに、 ベッドに向かって歩きながら「はい、おなかみせてー」などと言い放つのをみたことがある。 当然、患者は愉快ではなかっただろうが、弱味を握られている立場ゆえに、抗議することもできなかったのであろう。

一部の医者には、患者は医者を無条件に信頼して全てを委ねるのが当然である、というような奢りがあるように思われる。 また、検査をするに際しても、現代では、事前に患者からインフォームドコンセントを得るのが原則であると考えられている。 検査の日程を医者が決定し、一方的に患者に通知するのではいけない、というのである。もちろん、結果は本人に逐一説明するのが基本である。 しかし、その原則も、いったい、どれだけ守られているのか、はっきりしない。 そこには真のインフォームドコンセントは存在せず、ただ、内容を理解しないままに署名された同意書があるに過ぎない。 もちろん患者の中には、こういう医師の態度に納得しておらず、私などにコッソリと不満を漏らす人もいるのである。

患者の側にも問題がないわけではない。 北陸医大 (仮) では、「先生方を信頼して、全てお任せします」などと患者が発言しているのを、何度も聴いたことがある。 こうした、いわば包括的な同意というものは、インフォームドコンセントには該当しないと考えられている。 もちろん、医学の小難しいことはわからないから、どうすれば良いか判断できない、全て任せてしまいたい、という気持ちは理解できる。 しかし、自分の体のことなのだから、最終的に判断、決定するのは、患者自身でなければならぬ。 本来であれば、それを支えるのが医師の職務なのであるが、現状では、そういう認識を欠く医師が稀ではないように思われる。


2016/08/31 尿定性検査の解釈

尿検査というのは、比較的簡便であるから、臨床医療でしばしば行われる。 この時、解釈を巡って問題になることがあるのが「細菌尿」である。

金原出版『臨床検査法提要』改訂第 34 版によれば、尿沈渣の検鏡所見として、強拡大で毎視野 5 個以上の細菌がみられるものを有意の細菌尿とする。 健常者では、通常、尿中に細菌は存在しないので、細菌尿は異常所見である。 ただし、これが直ちに治療を要する病的な尿路感染症の存在を意味するわけではない。 研修医向けのマニュアル本などでは、試験紙法による亜硝酸塩試験で陰性の場合には基本的に尿路感染症ではない、と記述されていることが多いのではないかと思われる。

一方、『臨床検査法提要』では、細菌培養をゴールドスタンダードとした場合、亜硝酸塩試験の陽性反応的中率は 85 %, 感度は 80 % 程度であるという。 偽陰性がそれなりに多いことから、亜硝酸塩試験陰性を根拠に尿路感染症を否定することは危険である、と言わざるを得ない。 また医学書院『臨床検査データブック 2015-2016』でも、亜硝酸還元酵素を欠く細菌への感染の場合や、 尿が膀胱内に貯留していた時間が短い場合などには、偽陰性になるため注意を要する、としている。 従って、原因不明の発熱がある場合などは、亜硝酸塩試験を根拠に尿路感染症を否定するわけにはいかない。

一体、一部のマニュアル本などで亜硝酸塩試験を重視している根拠は、何なのだろうか。


2016/08/30 研修医の仕事

医師の初期臨床研修制度の法的根拠は、医師法第 16 条の 2 第 1 項 「診療に従事しようとする医師は、二年以上、医学を履修する課程を置く大学に附属する病院又は厚生労働大臣の指定する病院において、臨床研修を受けなければならない。」 というものである。 この「臨床研修」の内容を定めているのは、厚生労働省の「医師法第十六条の二第一項に規定する臨床研修に関する省令」である。 この省令では、臨床研修の理念について次のように述べている。

第二条 臨床研修は、医師が、医師としての人格をかん養し、将来専門とする分野にかかわらず、医学及び医療の果たすべき社会的役割を認識しつつ、 一般的な診療において頻繁に関わる負傷又は疾病に適切に対応できるよう、基本的な診療能力を身に付けることのできるものでなければならない。

この省令でいう「一般的な診療」という語の意味は曖昧であり、具体的な研修のあり方は、研修医や研修病院に委ねられていると解釈してよかろう。 ただし、あくまで「基本的な診療能力を身に付けること」が目的なのであって、診療業務の補助戦力として働くことは、研修医の主たる任務たり得ない。

さて、外科研修中のある時、私は、自分が診療上は何の重要な働きもしていない旨を、研修医室で半ば自虐風に発言した。 もちろん、これは「自分の非才が恥ずかしい」という意味ではなく、「それで、何が悪いというのだ」という、開き直りのような文脈での発言である。 これに対して、同期研修医の某君は 「何だ、あなたは、患者の話を聴くことすらできないのか」 と、述べた。 何か診療上の重大な貢献をしていなくても、患者の話をよく聴くことだけでも、それで充分ではないか、何か不満なのか、という意味であろう。

実際のところ、患者の話を聴くということは、重要である。 たとえば患者の中には、学生や研修医の勉強に非常に協力的な人もいて、我々が何かを学び、その経験を未来の患者のために役立てることを強く希望する人もいる。 我々がじっくりと患者の話を聴いて、そこから何かをつかみとること、あるいはじっくりと身体診察をすること自体が、患者の安楽の役に立つことも、あるのである。

我々は、病院や指導医のために働いているわけではなく、あくまで自分の勉強のため、将来の患者のために研修しているに過ぎない。 確かに月 31 万円もの給与を受け取ってはいるが、これは我々が立派な医師となって、将来の医学、医療に貢献することを期待しての 先行投資なのであって、現在の我々の労働に対する対価ではない。堂々と、受け取って良い。

ところで私は、学生時代、経済的には完全にスポンサーに依存していた。 現在の私は、結局スポンサーが両親から北陸医大 (仮) に変わっただけのことであって、他人に養ってもらっているという意味では学生時代と変わりがない。 どうも現代の日本社会では「経済的に自立していること」を重視する風潮があるようだが、私は、それは些細なことであると思う。 我々は勉強すること自体が仕事なのであって、それに対して親や社会が経済的に扶助するのは、自然なことである。 この考え方は私独自のものではなく、むしろ日本や中国の伝統的価値観である。 実際、古代の貴族は三十歳や四十歳になっても親に養われることが当たり前であり、それを恥じるという発想はなかった。

2016.10.01 脱字修正

2016/08/25 英才か、落ちこぼれか

現状では、地縁や血縁でもない限り、名古屋大学を卒業して北陸医大 (仮) に研修医として就職するというのは、あまり一般的ではないようである。 北陸医大の人々は自己評価が低いようで、私が「北陸医大が素晴らしい大学だと思ったから、ここに来たのです」と言っても、なかなか信じてもらえない。 そうした状況では、「名大のエース級の卒業生が北陸医大を選んで来た」などと考えるのは不自然であり、 「名大の落ちこぼれが、東海地方から逃げて北陸の田舎大学に流れて来た」と解釈するのが常識的である。 実際、救急やら外科やらでは、私は、そういう目で見られていたのではないかと思う。 それはそれで構わないし、むしろ、そういう扱いをされた方が、私としては動きやすい。

私が優秀なのか落ちこぼれなのか、ということについては、私自身が、一番よく理解している。 ついでにいえば、私のような人間を適切に評価している人が世の中には一定数、存在するのであって、敢えてそれを表明しないだけだということも、今では理解している。 大学院時代の私は、そのあたりのことがわかっていなかったから、自信を失い、迷走したが、同じ轍は二度と踏まぬ。 この件について、大学院を辞める際に某教授から言われた言葉は、その後の私にとって、大きな支えになっている。

私自身はそれで良いのだが、問題は、周囲の学生や研修医である。 試験の点数だとか、国家試験的、教科書的、あるいはマニュアル的な知識の量だとかいう、わかりやすい指標に支えられなければ不安になる若者は多いようである。 残念なことに、北陸医大では、そういう安直な物差しで学生を評価する教員が多いものと思われる。 本当は、北陸医大には素養のある学生が多いのに、正当な評価を受けていないのである。 もちろん、名古屋大学にも程度の低い教員はいたが、それ以上に、学生に高い志を植えつけようとしている教員が多かった。 このあたりが、現時点における、名古屋大学と北陸医大の格の違いであると言わざるを得ない。

誤解されると困るので明言しておくが、私は、名古屋大学の方が北陸医大より良い、などと言っているのではない。 現状の名大と北陸医大の差は、その程度の些末なものに過ぎない、と言っているのである。 我々の心掛け一つ、志の持ちよう一つで、すぐにでも逆転できる程度でしかない。 むしろ、名門の看板に胡座をかいている名大などに比べれば、北陸医大の方が、よほど将来性に富んでいるといえよう。 我々こそが今後の日本の医学の先端を担うのだ、という気概を持つべきである。


2016/08/24 追記

昨日の記事に対する追記である。 工学部時代にも、加速器を使った実験をする人々が、多量の被曝をしている事実を隠蔽する目的で、敢えて個人線量計を外して実験している、という噂を聴いたことがある。 その意味では、医者だけが異常なわけではない。


2016/08/23 放射線防護

私は原子力村の出身であるから、放射線障害から身を守る術について、放射線科医以外の一般的な臨床医よりは、よく理解していると思う。 先月、私は救急研修を受けたのであるが、個人線量計が 0.2 mSv の被曝を記録した。 放射線を浴びるような行為といえば、不穏の患者の CT 撮影に際して、暴れないよう、撮影室内で押さえていたことが何度かある。 たぶん、その時の被曝であろう。 今月は X 線透視下での診療に何度か加わっているので、また、少々被曝しているかもしれぬ。

指導医の中には、個人線量計を着用せずに診療に臨む者もいる。 というのも、一定量以上の被曝をしてしまうと、なぜ被曝したのかについて面倒な書類を提出せねばならず、その一方で、 被曝したことに対して支給される手当は、微々たる金額に過ぎないからである。 こうした事情をふまえて、診療にあたり、各人の判断で個人線量計を外しておくこと自体は違法ではない。 しかし、 放射線障害防止法第 20 条では、個人線量計を着用させることを許可届出使用者、つまり病院等の義務として定めている。 すなわち、個人線量計なしの診療行為を黙認することは、病院による不法行為にあたる。

医療関係者の中には、放射線被曝について、いささか無頓着な者が少なくないように思われる。 これは、あまり良い風潮ではないし、なにより、愛する北陸医大が不法行為に染まる様をみるのは忍びない。 近いうちに、病院当局に対して然るべき申し立てをしようと思う。

なお、医師が放射線防護に無頓着なのは全国的な風潮であり、北陸医大特有の問題ではないので、その点は、誤解されないよう。


2016/08/22 マクシミリアン・ロベスピエール

私は、自宅から北陸医大 (仮) 附属病院まで、バスで通勤している。片道、だいたい 20 分程度である。 夜遅くなったり翌朝早い場合には病院に泊まり込むこともあるし、また車中で居眠りしていることもあるが、 それ以外の場合、基本的にバスの中では医学とは関係のない小説などを読むことにしている。

4 月から読み続けていた佐藤賢一『小説 フランス革命』を、昨日の帰りのバスで、ようやく読み終えた。 集英社文庫版、全 18 冊である。 これは、タイトルの通り、フランス革命を題材にした歴史小説である。 この小説では、革命初期に活躍したミラボーが高く評価されている一方、革命後半に台頭したマクシミリアン・ロベスピエールは、 理想ばかり掲げて現実がみえない小人物として描かれている。 これは、同じくフランス革命を題材にした初心者向けの読み物である安達正勝『物語 フランス革命』(中公新書) においてロベスピエールが高く評価されているのと対照的である。

フランス革命期に活躍した人々の中で、私が最も好きなのは、このロベスピエールである。 この人物は「腐敗し得ない男」などと呼ばれ、理想を掲げ、最後まで理想を唱え続けた。 なお、彼は生涯独身であっただけでなく、人生を通して一度も女性と親密な関係を結ばなかったのではないかと言われており、その点において一部の層に人気があるらしい。 さて、『物語 フランス革命』では、憲法制定国民議会におけるロベスピエールの初めての演説を、次のように評している。

立憲国民議会でのロベスピエールの演説態度は自信あふれる堂々たるものだったが、内容が先進的すぎてあまり多くの賛同を得られなかった。 それでも、ミラボーは「彼はかなりの人間になるだろう。なにしろ、自分が言っていることを全部信じているからな」と将来性を見越していた。

そして、その後のロベスピエールの活躍について、安達は次のように述べている。

革命前は人権無視、不平等、不公正が堂々と罷り通っていた。 ロベスピエールは、この地上に正義の社会を建設しようという思いで革命に飛び込み、理想一筋に生きてきた男と言ってよい。 ロベスピエールのように理想一筋に生きる人間が国のトップに立てる時代は、歴史上、そうめったにあるものではない。 フランス革命というのは、やはり希有にして貴重な時代だったと私は思う。

ロベスピエールは、理想を掲げ、決して腐敗しない男であったが、周囲の人々は、必ずしもそうではなかった。 結局、理想と現実の乖離のために、ロベスピエールは、やむなく反革命分子を積極的に処刑する、いわゆる恐怖政治を導入せざるを得なくなったのである。 そして恐怖に駆られた人々が起こした、いわゆるテルミドールのクーデターにより、ロベスピエール自身も逮捕・処刑されてしまったのである。 この時、ロベスピエールには武力によって議会を鎮圧する機会もあったのだが、それは不法である、という理由で、従容として処刑を受け入れた。

現代日本人の多数派には、ロベスピエールは、現実と理想の折り合いをつけられない堅物、小人物、というような、佐藤の描いた像の方が受け入れられやすいかもしれぬ。 しかし私は、むしろ最後まで理想を唱え続けたロベスピエールこそ、フランス革命期最大の英雄と称されるべきであると思う。

理想と現実が乖離している時、理想を曲げるのではなく、現実と衝突してでも理想を押し通す勇気を、持ち続けたい。


2016/08/21 吃音症

医学書院『医学大辞典』第 2 版によれば、「吃音症」とは 「音や音節の反復, 音の延長, 間投詞の投入, 単語が途切れること, 会話の休止などで会話の流暢さと時間的流れが損なわれる状態」のことをいう。 有病率は 1 % 弱であるらしく、私も吃音症を患っている。 とはいえ、日常生活に著しい障害を来す程ではない、軽いものであるので、特に医学的介入を受けたことはない。

吃音症の表現型は多様であるが、私の場合は、やや精神的に緊張した場合に、発語困難になるものであり、まぁ、典型的な部類であろう。 たとえば、回転寿司店で「ノドグロをください」と言おうとした際に「ノ、ノ、ノ、ノドグロ」となったり、あるいはそもそも「ノドグロ」が発音できずに 不明瞭な発声になってしまうのである。 これは、幼少の頃から続いており、齢 30 を過ぎた現在でも、治る気配がない。

そんな様では、学会発表などは大変ではないか、と心配される方もいるかもしれないが、実は学術発表の場で吃音に苦しんだことはない。 というのも、発表の場にあっては、その内容について、その場にいる誰よりも私が一番よく理解している。 「この内容について、あなた方はよく知らないだろうから、私が教えてさしあげましょう」ぐらいのつもりで話すわけだから、それほど緊張はしないのである。

冒頭でも書いたが、周囲の理解に恵まれていることもあり、特に日常生活において吃音で苦労することはない。 しかし医学部入学以後には、吃音をからかう、あるいは冷やかすようなことを言われたことは、何度かある。 いまさら、そうした無神経な言葉によって深く傷つくことはないが、極めて不愉快であることには違いなく、当然、良好な人間関係の形成の障害にはなった。

不思議なことであるが、医学を修め、医療に従事しようとする人こそ、そうした身体や精神の繊細な問題について、配慮に乏しいのではないかと感じられる。


2016/08/18 心を強く持つことについて

学生時代、私が病理医志望であることを告げた際、ある病理医に「(病理とは直接関係しないことを学ぶ初期研修の間) 心を強く持ちたまえ」との助言を頂戴した。 このとき、私は「目にみえやすい臨床の魅力に引っぱられ過ぎないように、心を強く持ちたまえ」という意味に解釈していたのだが、 ひょっとすると違う意味であったのかもしれないと、近頃、思っている。

我々は、二年間の研修期間のうち大半を、将来の進路とは異なる診療科での研修に費す。 そこで学ぶべき内容は、それぞれの診療科の専門的なことではなく、むしろ、他科の医師が教養として理解しておくべき内容でなければならぬ。 たとえば、精神科医になろうとしている研修医が、消化器外科の手術法を学ぶ必要はないだろう。 また、外科医になろうとうしている者が、病理診断学の詳細な診断テクニックを修める必要もない。 従って、たとえば同じ病理診断科での研修であっても、外科医志望者に対する研修内容と、精神科医志望者に対する研修内容と、病理医志望者に対する研修内容は、 互いに異ならなければならない。 しかし現状では、そうした「適切な」研修を実施できている病院は、日本中に、一体、どれだけ存在するのだろうか。 名古屋大学時代にも、卒後教育担当の某教授が、某診療科の教授について 「教育熱心であり、専門医育成に力を入れている立派な人物だが、他科に進む研修医に対する教育としては問題があるように思われる」と述べているのを聴いたことがある。

本当に、二年間の初期臨床研修は、有益なのか。本当に、必修とすべきものなのだろうか。 指導医のセンセイ方は、研修医に、何を、どういう目的で、伝えようとしているのか。 「どの科に行っても必要になるだろうから」という言葉をしばしば耳にするが、その「どの科にも」には、 病理診断科や精神科、あるいは厚生労働省医系技官も、含まれているのだろうか。 私には、よく理解できない。

冒頭の病理医が言いたかったのは、そういうことであったのかもしれぬ。


2016/08/17 Harris-Benedict の式

基礎代謝 (Basal Metabolic Rate; BMR) とは、安静に、ただ寝ているだけの状態における熱産生量のことをいう。 これは、食事から摂取すべき最低エネルギー量を推定する際に重要な値であるが、臨床的には、測定するのがかなり大変である。 そこで、近似的に基礎代謝を推定するための手法として広く知られているのが Harris-Benedict の式である。 この式は、Harris と Benedict が `A Biometric Study of Basal Metabolism in Man' と題する長大な論文 (Carnegie Institution of Washington Publication, 279 (1919).) で提示したものであり、 その要点は (Proc. Natl Acad. Sci., 4, 370-373 (1918).) で報告されている。 この式は、身長を H [cm, 体重を W [kg], 年齢を A [year] として、

男性: BMR [kcal/day] = 66.4730 + (13.7516 x W) + (5.0033 x H) - (6.7550 x A)
女性: BMR [kcal/day] = 655.0955 + (9.5634 x W) + (1.8496 x H) - (4.6756 x A)

と、近似するものである。 この式は、麻酔科学の R. D. Miller et al., Miller's Anesthesia, 8th Ed. や、 内科学の D. L. Kasper et al., Harrison's Principles of Internal Medicine, 19th Ed., 救急医学の A. Webb et al., Oxford Textbook Critical Care, 2nd Ed. といった名著が、こぞって紹介している基礎代謝の推定法であり、まぁ、世界的に広く認知されていると考えてよかろう。

しかし、ある程度の物理学的素養のある人であれば、この式には、大いに違和感をおぼえるに違いない。 この Harris-Benedict の式が意味するところを考えてみよう。 まず、万人に共通する普遍的なエネルギー消費として男性では 66.5 kcal/day, 女性では 655.1 kcal/day が存在する、ということになる。 これは脳の基礎的な活動などの、個人差の乏しい代謝を反映するものと考えられる。 しかし、この普遍的なエネルギー消費に、これほどの男女差があると考えるのは不自然である。

次に、体重 1 kg あたり男性で 13.8 kcal/day, 女性で 9.6 kcal/day のエネルギー消費があるというが、これは全身の細胞の維持に要する代謝であろう。 この男女差は、脂肪細胞の量などの違いを反映するのだ、と考えれば、理解できなくもない。 問題は、次の、身長 1 cm あたり 5.0 kcal/day、という項である。これは、一体、何を表しているのか。 Harris と Benedict は、身長と基礎代謝には正の相関があり、しかも、それは身長と体重が相関することだけでは説明できない、という事実を統計的に示した。 ただし彼らは、この相関の正体について、生理学的な説明は加えていない。 理論抜きに、ただ統計だけで議論することは危険である、という認識を、Harris や Benedict は、持っていなかったのだろうか。 また、基礎代謝を身長や年齢と一次関数で結びつけることの理論的根拠も、示していない。

一次関数で近似することが妥当なのは、変数が充分に狭い範囲でしか変動しない場合に限られる。 Harris と Benedict の統計は、幅広い年齢、身長、体重の人々のデータから導出したものであるから、この前提を満足していない。 そこで無理に一次近似してしまうと、結果として、「どんな人にもあてはまらない式」になってしまう。 では、Harris や Benedict は、統計学に疎いから、こうした「不適切」な方法で式を導出したのかというと、そうではない。 そもそも Harris と Benedict は、生理学の基礎研究としてこの統計を調べたのであって、臨床的に基礎代謝を推定することを目的とはしていなかったようである。 これが臨床には適さないことなど、はじめから承知した上で、基礎代謝という量の性質を調べる目的で、統計を調べたのである。

応用科学の分野では、こういうことが、しばしば、起こる。 研究者の本来の意図から離れて、よくよく理解していない人々が、不適切な方法で、その業績を「応用」してしまうのである。 また、Harris-Benedict の式が臨床には向かないということを「なんとなく」は認識していても、それを真摯に追究せず、 「なんとなく、だめなのだ」という程度の理解で満足してしまう学生や医師も、遺憾ながら、少なくないように思われる。

「それで臨床は回るのだから、それで良いではないか」と、彼らは言う。 はたして、本当に、回っているのか。


2016/08/16 ビリルビンとウロビリノーゲン

昨日の記事を読んで、中には「おや、この人、ちょっと疲れているんじゃないか」と思った人もいるだろう。 あるいは、「こいつ、馬鹿じゃないのか」などと思われたかもしれない。

胆汁中に含まれるビリルビンの大半は、抱合型ビリルビンである。 抱合型ビリルビンは、基本的には、腸管から吸収されることはない。 従って、胆汁を経口摂取したからといって、血中ビリルビン濃度に大きな変化は生じないように思われる。 私が昨日書いた記事では、この点に言及していなかったので、なんだかトンチンカンなことを述べているように思われた方もいるだろう。

正直にいえば、実際、その点については、あまり深くは考えていなかった。 そこで、半ば後付けであるが、補足しよう。 腸管内に分泌された抱合型ビリルビンの一部は、詳細はよくわからないが、腸内細菌の作用によりウロビリノーゲンに変換される。 ウロビリノーゲンは腸管から吸収されて血中に移行する。 J. E. Hall, Guyton and Hall Textbook of Medical Physiology, 13th Ed. (2016). によれば、 だいたいウロビリノーゲンの 95 % 程度は腸管内に再び分泌される一方、5 % 程度は尿中に排泄されるという。 従って、血中ウロビリノーゲン濃度は、肝臓周辺の様々な臓器の障害によって変化するが、単独では診断に役立てることは難しい。

さて、ウロビリノーゲンを肝細胞から胆汁中に排泄する分子が何であるかはよく知らないが、たぶん、 ビリルビンと同様に ATP-binding casette C2 (ABCC2) などによる能動輸送で排泄されているものと思われる。 その場合、ウロビリノーゲンとビリルビンは競合的に胆汁中に排泄されることになる。 従って、胆汁の経口摂取は、血中ウロビリノーゲンの増加をもたらし、結果的にビリルビンの胆汁中への排泄を阻害する恐れがある。

一応、このように理屈を構築することはできるのだが、昨日の私は少しばかり疲れていたようだという点は、認めざるを得ない。


2016/08/15 胆汁返還

8 月 16 日に補足記事がある。

「閉塞性黄疸」とは、何らかの事情で胆道が狭窄ないし閉塞し、胆汁排泄に障害を来したことにより生じる黄疸のことをいう。 こうした名称自体はあまり重要ではないのだが、知らないと一部の外科医などから馬鹿にされる恐れがある。 もちろん、私は学生時代、こうした分類や名称をあまり記憶しなかったし、そのことを後悔も反省もしていない。

さて、閉塞性黄疸に対しては、黄疸の軽減目的に胆管ドレナージを行うことがある。 ドレナージというのは、水を排出させる、という意味であって、この場合、胆管にチューブを留置して、鬱滞した胆汁を取り除くことである。 これは、内視鏡を用いて経鼻的に行うこともあるが、経皮経肝的に行うことの方が多い。 世の中には、こうして排出させた胆汁を、経口的に、あるいは胃管などを用いて、患者に飲ませることがある。これを胆汁返還などと呼ぶ。 どうやら、これは名古屋大学などで盛んに行われている手法であり、世界的には標準ではないようで、 消化器学の名著である D. K. Podolsky et al, Yamada's Textbook of Gastroenterology, 6th Ed. には記載がみあたらない。

名古屋大学の二村教授による 1999 年の記述 (日消外会誌, 32, 886-90 (1999).) では、この胆汁返還の主たる目的を「肝再生機能を促進させるため」としている。 胆汁を飲むと肝臓が再生する、などというのは、いささか奇妙な話である。 二村の主張の根拠は、胆道を人為的に閉塞させたラットにおいて、胆汁を体外に排出させるよりも十二指腸内に排泄した方が、肝細胞の分裂が盛んであった、というものである (Hepatology, 20, 1318-1322 (1994).)。 この肝再生の機序について二村は、胆汁中に含まれる肝細胞増殖因子 (Hepatocyte Growth Factor; HGF) の作用によるものと推定したようである (Hepatology, 26, 1092-1099 (1997).)。 しかし、この論理は不自然である。HGF はポリペプチドであるから、これを経口摂取したからといって、活性を保ったまま吸収されて肝細胞に作用するとは考えにくい。 むしろ肝細胞の分裂速度の差異は、胆汁中の栄養素が体外に失われるかどうかによって生じたものと考える方が合理的であろう。

同じく名古屋大学第一外科の菅原らの報告 (臨床外科, 62, 793-797 (2007).) では、 胆汁返還によって、胆汁中の胆汁酸の濃度などに有意な増加がみられた、としている。 しかし、この報告では胆汁返還前と胆汁返還後を比較しているのであって、統計処理としては適切とはいえない。 いうまでもなく、通常ならば、胆汁返還を行った患者と行っていない患者とで比較するべきなのである。 それを、敢えて胆汁返還前後の比較としたのは、たぶん、学術的ではない、諸般の社会的事情によるものであろう。 率直にいえば、あまり名古屋大学らしくない。

さて、閉塞性黄疸において胆汁返還を行うと、胆汁中のビリルビンを体内に戻すことになる。 これは、黄疸の軽減という目的からすれば、あまり好ましくないようにも思われる。 むしろ、適切な栄養管理を行った上で、胆汁は廃棄した方が入院期間も短縮でき、よろしいのではないか。


2016/08/11 適応障害

私の話である。 先月から今月にかけての、救急や外科での研修における精神的ストレスを吐露するために記載する。

私は、救急医療や臨床外科が、大の苦手である。 救急医学や外科学は好きなのだが、臨床となると、ダメである。 医学科五年生以上ぐらいの人ならわかると思うが、あの外科の分化というか、風土というか、そういうものが、ダメなのである。

いわゆるコミュニケーション能力の問題なのだとは思う。 外科的な指導医と、適切な人間関係を築くことが、できない。 学生時代から、そうであった。 外科の指導医と、まともに医学的な話をできた記憶がない。

コミュニケーション障害は、医師として不適格である、という人もいるだろう。そうかもしれない。 ただ、私のような人間をあっさり切り捨てる人がいるとすれば、それもまた、一種のコミュニケーション能力の欠如といえよう。

もっとも、私のような人間を苦手とし、私を「直接は話しにくい相手」と認識している人が、学生時代の同級生や下級生、あるいは上級生の中に一定数、いたことは承知している。 そういう空気を作ってしまっているのは、私の至らない点である。 その意味でいえば、私も外科の人々も、似たようなものといえる。


2016/08/09 播種性血管内凝固

播種性血管内凝固 (Disseminated Intravascular Coagulation; DIC) という概念がある。 これは、敗血症など何らかの疾患を原因として、血液凝固が異常に亢進するものをいう。 これが進行すると血液凝固因子や血小板を使い果たし、結果として血液が凝固しにくくなり、出血傾向を来す。 ついには多臓器障害を来し、死亡することも稀ではない。

DIC に対する治療としては、血液凝固因子や血小板を輸血により補充する他、トロンボモジュリン製剤を投与することがある。 本日の話題は、このトロンボモジュリンの投与は本当に有効なのか、という問題である。

トロンボモジュリンは血液凝固カスケードの一員であって、主にトロンビンに作用する。 すなわち、トロンビンによるフィブリノーゲンの活性化を抑制する一方、トロンビンによるプロテイン C の活性化を促進する。 プロテイン C は、Va 因子や VIIIa 因子を不活化するなどの機序により、血液凝固カスケードを抑制する。 このことから、理論上、トロンボモジュリンは DIC に対して有効であるかのように思われる。

今年の 6 月、トロンボモジュリンは敗血症による DIC に対して実際に有効である、と報告された (Thrombosis and Haemostasis, 115, 1157-1166 (2016).)。 しかし、この報告を素直に信じるのは、いささか危険であろう。 というのも、これは後向きコホート研究であって、統計的バイアスの入る余地が大きい。 さらに、トロンボモジュリン製剤について議論する際には、活性化プロテイン C 製剤を巡る混乱のことを忘れてはならない。

敗血症による DIC に対して、活性化プロテイン C 製剤が有効である、と報告されたのは 2001 年である (N. Engl. J. Med., 344, 699-709 (2001).)。 これは大規模なランダム化プラセボ対照二重盲検に基づくものである。 プロテイン C は、前述のように Va 因子や VIIIa 因子を不活化する以外にも複数の機序で血液凝固を抑制するから、 これが DIC に対して有効であるという結論は、至極、合理的であるように思われた。

ところが、この活性化プロテイン C の有効性は、統計の対象が重症患者ばかりであったせいではないか、とする疑義が示された (Acta Anesthesiol. Scand., 50, 907-910 (2006).)。 学生の中には「重症患者にだけでも効くなら、それで良いではないか」と考える者もいるかもしれないが、それは誤りである。 もし軽症患者には無効であるならば、「プロテイン C は凝固カスケードを抑制することで DIC に奏効する」という仮説は誤りであると考えざるを得ない。 その場合、重症患者に対するプロテイン C の有効性は、抗凝固作用ではなく、抗炎症作用などによるものであると推定される。 それならば、重症患者に対しても、プロテイン C ではなくグルココルチコイドなどを使う方が良いと考えられる。 従って、「軽症患者にも効くのかどうか」という点を追究することは、重要なのである。

さらに 2012 年になって、プロテイン C は敗血症による DIC に対して無効である、と報告された (N. Engl. J. Med., 366, 2055-2064 (2012).)。 その結果、現在では、DIC に対するプロテイン C の投与は、一般的には支持されていない。 ただし、なぜ、プロテイン C が DIC に無効なのかは、よくわからない。

結局のところ我々は、DIC の本質も、凝固カスケードの詳細も、よく理解できていないのである。 プロテイン C が DIC に無効だとするならば、トロンボモジュリンの有効性も疑わしい。 臨床的にトロンボモジュリンを投与することを一概には否定するべきでないが、その有効性を安易に信じることも危険であるといえよう。


2016/08/08 世界の狭小なること

私は工学部一年生の春、ある授業で「同じ組織に十年以上、留まるな」と教えられた。 同じ場所に留まると、思考の柔軟性が損なわれ、変化する勇気を失い、発展と成長が乏しくなるからである、というのが理由である。 いかにも、もっともらしい話である。 だから、というわけでもないのだが、結果的に私は京都大学 9 年、名古屋大学 4 年と、その教えに従う形で所属を変えてきた。 北陸医大 (仮) にも、10 年以上、留まるつもりはない。

医学部に入る時、私は「教育内容など、どこの大学でも大差あるまい」などと思っていた。 医学部教育というのは医師免許を取得するための通過儀礼のようなものなのだから、どんな大学であっても、 自分がシッカリしていれば、キチンと勉強することはできるはずだ、などと甘いことを考えていたのである。 しかし北陸医大に来て、その認識を改めた。 正直に言えば、現状、名古屋大学医学部と北陸医大医学部では、学生に対する教育の質に雲泥の差がある。 北陸医大の学部教育は、要するに医師国家試験対策が主眼なのであって、医学教育ではない。 もし私が、あの時、名古屋大学ではなく北陸医大を選んでいたならば、たぶん、私は卒業する前に潰されていたであろう。

問題は教育だけではない。診療の内容についても、時代錯誤ではないかと思われるような慣行が少なからず存在するが、詳細を書くことは控える。 この、私でさえ指摘できない、という事実から、北陸医大の体質を推察していただきたい。

私は医学界の外からやってきて、また医学部生としても、名古屋大学という比較的マシな大学で育ったから、北陸医大の異常な現状を、異常と認識することができる。 だからこそ、今後、この異常な大学を正常化し、日本一の医学教育機関へと押し上げることができると考えている。 しかし、ずっと北陸医大で育ってきた学生には、これが異常であると理解することは困難であろう。 だいたい、彼らの視野は県内か、せいぜい北陸地方ぐらいまでしか届いていないようにみえる。 日本全体、あるいは世界に向ける視線を、持っていないのではないか。

名古屋大学時代、ある教授から「名古屋大学は、旧帝大と地方大学の悪い所を兼ね備えている」などという自虐を聴いたことがある。 その時は、なかなか的を射た指摘であると私は思ったのだが、北陸医大に来て考えが変わった。 この教授は、本当の地方大学の悲哀を知らない、と言わざるを得ない。

北陸医大の卒業生は、まず日本と世界を知るために、県外に出るべきである。


2016/08/07 雑記

近頃、この日記の内容が、あまり学術的でなくなっているように思われる。 これは、6 月以降、私の生活は学術から離れ、専ら職業訓練に明け暮れて疲弊しており、心の余裕が乏しいからである。 たぶん、この 3 ヶ月が、私の二年間の初期臨床研修の中で最も医学的でない期間になるであろうから、9 月になれば、日記の質も少しは改善するものと思う。

本日は、いわゆる「プシコ」について書いておこう。プシコというのは、医学用語ではない。英語でいう psycho、つまり精神疾患患者を意味する俗語のようである。 なお、英語では p の音は発音しないから、「プシコ」という読みは、たぶんドイツ語あたりから来たのであろう。

「プシコ」という語を好んで使うのは、主に研修医や、若手医師のようである。 この語は、「どうせ精神疾患だから、あまりマジメに相手する必要はない」「大した病気ではない」「精神科の医者に任せれば良い」というような、 甚だ不誠実で、医療倫理を欠く文脈で使われることが多い。 言うまでもなく、精神疾患は重大な問題なのであって、マジメに対応しなければならない。 ところが、一部の若手医師は「全人的医療」というものを知らず、精神疾患について何か勘違いしており、人の心の問題、精神の健康を軽んじているようである。 要するに「プシコ」という語を使う医者は、ろくでもない、と考えて良い。


2016/08/04 血液学の教科書

私が初めて読んだ、キチンとした血液学の教科書は MEDSi 『ハーバード大学テキスト 血液疾患の病態生理』(2012) である。 この教科書は、厚さも 276 ページと少なく、1 ページあたりの文章量も少ないので、気楽に通読できる書物である。 その一方で、タイトルの通り、病態生理をなかなか詳しく解説しており、血液学の初学者である学生に強くお勧めできる。

もちろん、この教科書は初学者向けの簡易なものであり、あまりマニアックな内容にまでは言及されていない。 せいぜい、ビタミン K の作用は翻訳後修飾である、とか、ワルファリン誘発性表皮壊死症の機序について、といった程度までである。 従って、少し血液学に興味を持った学生は、この教科書では物足りなくなるであろう。 そこで私の場合、南江堂『血液専門医テキスト』を買ったのが、五年生の頃であったように思う。 これは、日本血液学会が編纂したものであり、専門医試験向けの参考書ではあるが、それなりに学術的な内容が充実している。 その後、2015 年 6 月、私が六年生の頃に改訂第 2 版が出たので、買い直した。

しかし、六年生の後半には、私は、この教科書には大いに不満をおぼえるようになっていた。 臨床的に重要とされるような知識が羅列しているばかりで、学術的に重要な疾患の本態、本質が、全然、みえてこないのである。 そこで名古屋大学を卒業するにあたり、卒業記念品として私は、ちょうどその頃に新版が出たばかりであった K. Kaushansky et al., Williams Hematology, 9th Ed. (2016). を購入することにした。 正直にいえば、この本は学生が読むには重厚に過ぎるし、とてもキチンと通読できる気がしなかった。 それ故に、学生のうちは手を出さず、あくまで記念品として、卒業に際して購入したのである。

この本を買って良かったと、たいへん満足したのは研修医になってからである。 この書物には、病態から臨床像まで詳細に記載されており、「ここから先は、よくわかっていない」という線まで、キチンと言及されている。 参考文献リストも充実しているので、記載内容に疑義がある場合には、自分で一次資料にあたることもできる。

最近、読んで面白かったのがアルコール依存症における大球性貧血についてである。 アルコール依存症患者に大球性貧血がしばしばみられることは、それなりによく知られている。 「血液専門医テキスト」でも、大球性貧血の原因として、ビタミンや葉酸の欠乏以外に「アルコール多飲」が挙げられている。が、その理由には言及がない。 つまり日本の一般的な臨床医は、「あぁ、アルコール依存症が原因で大球性貧血になることがあるんだね」という程度の理解なのであろう。

もちろん Williams は、その程度では満足しない。 重度アルコール依存症では、高頻度に栄養障害やビタミン欠乏を来すため、ビタミン B12 や葉酸欠乏による巨赤芽球性貧血を来すのだ、と明記している。 また、しばしば鉄欠乏性貧血を合併するために、赤血球平均容積 (MCV) は基準範囲内に収まることが稀ではないという。 この場合、赤血球分布幅 (RDW) が広がることから、病態を見抜くことができる。 余談であるが、名古屋大学では電子カルテ上の血液検査結果に RDW が表示されていたが、北陸医大 (仮) では RDW が表示されないようであり、面白くない。 さて、Williams によれば、ビタミン欠乏がなくても、アルコール多飲者では溶血や出血傾向などを来すようであり、結果として網赤血球増加を来すようである。 網赤血球は普通の赤血球より大きいので、これは巨赤芽球を伴わない大球性貧血の原因となる。

この Williams の説明に従うならば、「血液専門医テキスト」の説明は、あまり正しくない。 というのも、アルコール多飲そのものが大球性貧血を来すわけではなく、あくまで、直接の原因はビタミン欠乏や溶血、貧血などなのである。 アルコールと貧血を直結させてしまうのは、論理構造として、まずい。 これは、以前に書いた同性愛と AIDS の関係について医療業界に蔓延する誤った認識にも通じる問題である。


2016/08/02 長崎大学

医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。 ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。 もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい。

これは、長崎大学医学部の玄関ホールに飾られている銘板に記されている、同学部の開祖ポンペ・ファン・メーデルフォールドの言葉であるらしい。

私自身は、長崎を訪れたことがない。 医学部学士編入の際も、長崎大学は受験しなかったが、それには特に深い理由はなかったように思う。 今から思えば、実に惜しいことをした。

はっきり言うと、長崎大学というのは、北陸医大 (仮) と同じく地方大学に過ぎないのであって、京都大学や名古屋大学に比べれば、ブランド力では圧倒的に劣る。 ところが調べてみると、この大学は、北陸医大に勝るとも劣らぬ、気骨のある大学のようである。 長崎大学病院のウェブサイトに掲載されている「病院長あいさつ」には、さりげなく、次のような一言が記されている。

長崎は、地理的には日本の最西に位置しますが、全国のどこにも劣らない医療をこの地で受けられる病院であらねばなりません。

京都大学などには負けぬ、と、言っているのである。九州の果てにある一地方大学が、である。

私は既に北陸医大と共に歩むと決めた身であるから、初期研修を終えた時点で直ちに長崎大学に合流する、というわけにはいかぬ。 しかし、もし何らかの理由で私が北陸医大を逐われたり、あるいは北陸医大が未来への野心を失ってしまった場合には、ぜひ、彼らと一緒に働きたいと思う。


2016/08/01 Oxford Textbook of Critical Care, 2nd Ed.

私は、学生時代にあまり救急医学や整形外科学をキチンと勉強しなかったので、骨盤骨折についても「大量出血のリスクが高い」という程度にしか知らなかった。 過日、機会があって少しだけ勉強したので、まとめておこう。 なお、この記事を記すにあたっては、標題にも掲げた `Webb A et al., Oxford Textbook of Critical Care, 2nd Ed., (2016).' を参考にした。 タイトルからわかるように、これは英国オックスフォード大学から出版された教科書である。 私は、英語の辞書類にはオックスフォードのものを使っているが、医学の教科書はむしろ米国ハーバード大学のファンである。 救急医学に限ってオックスフォードのものを購入したことには、深い意味はない。

さて、骨盤骨折のうち、救急医学的に緊急性が高いのは骨盤輪骨折である。 これは、2 つの寛骨と仙骨、および 2 つの仙腸関節と恥骨結合で形成される骨盤輪が、その連続性を失うような骨折のことである。 骨盤輪骨折による出血は、90 % 程度の例で静脈性の出血である。 この血液は後腹膜に貯留し、やがて凝固して止血に至るまでに、だいたい 2.0-2.5 L 程度の出血を来すとされる。

英国では、この凝固を妨げないことを優先する治療戦略が広く推奨されているらしい。 詳しくは Brit. Med. J., 345, e5752 (2012). などのレビューを参照されると良い。 この治療戦略では、形成されつつある凝血塊を損なわないよう、患者の絶対安静を保つことが重要である。 そしてもう一つ重要なのが、橈骨動脈を触知できる程度の血圧があるならば晶質液輸液を行わない、ということである。 というのも、循環血液量が増えると出血量も多くなるため、凝血塊が損われる恐れがあるからである。 輸液するならば、晶質液ではなく、専ら赤血球、血小板、新鮮凍結血漿の輸血を行うことで、凝固能を保つことが重要とされる。 これに加えて、抗プラスミン薬であるトラネクサム酸の投与も有効であると考えられている。

こうした治療戦略については、必ずしも世界的な合意があるわけではなく、実際、日本では晶質液や膠質液の大量輸液を支持する意見も少なくない。 特に、この膠質液を投与するという発想については、以前にも書いたが、 不適切なスターリングの法則に基づくものであり、キチンとした理論的根拠がない。 Oxford Textbook of Critical Care では、膠質液輸液は利点が乏しい一方で腎傷害などを来すリスクが高く、有効性は疑わしい、としている。

この Oxford の教科書は、救急医学をキチンと学問として修めたい学生や研修医には、オススメである。

2016.09.02 誤字修正

2016/07/30 救急研修と臨床医療教育

一ヶ月間の救急研修が、明日で終わる。 率直な感想は、二度とやりたくない、というものである。

指導医の中には「何科に進むにせよ、アルバイト等で救急当直もやらねばならないから」などと、基本的な救急対応技術の修得を必須と考える者もいる。 しかしながら、病理医などの場合は、救急当直を行わない場合が多い。 従って、私にとっては救急診療技能の修得自体はあまり重要ではなく、あくまで「救急体験」のような位置付けと認識していた。 だから、本当のことを言うと、私は救急診療のマニュアル的な内容をしっかりとは暗記していないし、救急現場では、まぁ、あまり戦力にはならなかった。

名古屋大学にせよ北陸医大 (仮) にせよ、臨床教育のあり方には、かなり粗末な部分があるように思われる。 とにかく学生や研修医に実践させ、経験によって修得させよう、というのが、現在の日本の臨床医療教育の主流であろう。 そこには、研修で身につけるべき事項のリストはあっても、そもそも何のための研修なのか、目標を達成するための最適な教育方法はどのようなものか、 といった検討が欠如しているように思われる。 結果として、学生や研修医は「やり方を覚える」ことに徹するようになるのだが、はたして、それが本当に適切な医学教育なのか。

たとえば医学の教科書を探そうとしても、日本語の書物はマニュアル本やアンチョコ本の類が豊富な一方で、重厚な医学専門書は極端に乏しい。 まっとうな専門的教科書が欲しければ、英語で書かれたものを買わざるを得ないのである。 どうやら、日本のセンセイ方は、キチンとした教科書を書かない、書けないらしい。 臨床と研究はできても、教育をできる医者は稀なのが、日本の多くの医学部の現状なのだと思われる。

2016.09.02 誤字修正

2016/07/25 楽毅

一年半ほど前に燕の昭王について書いた。 この時、私は「唯一の問題は、昭王に巡り合うことができるかどうか、である。」と書いたが、実際のところ、私は昭王に会うことができた。 人材難に悩み、昭王が苦しんでいる点も、北陸医大の現状は燕に似ている。

燕という国は、中国の東北部に位置していた。 春秋戦国時代を通して、この国が中華の覇権を握ることはなかったが、昭王を戴き楽毅を擁した頃には、斉を滅亡寸前にまで追い込むほどに勢力を拡大した。

楽毅は、もともと中山という小国の臣であった。 隣接する大国、趙の侵攻に対し、戦力では圧倒的に劣る中山兵を率いて奮戦し、散々に敵を苦しめたのだが、結局は敗れて中山国は滅亡した。 その後、楽毅は燕に逃れて昭王に重用され、軍事において大いに活躍した。 楽毅がいなければ、燕が「戦国の七雄」の一つに数えられることもなかった。

さて、あと 20 年のうちには、我が北陸医大は中部地方一の名門医学部になるであろう。30 年あれば、日本一にはなれる。 世界一になるためには、米国の名門、ハーバードを抜かねばならぬが、それも 50 年ほどあれば可能であろう。 そのための下地は、既に、整えられつつある。


2016/07/24 クレアチニンクリアランス

12 月 29 日の記事も参照されたい。

過日、北陸医大 (仮) の方言として「胸写」と「実測」について書いた。 もう一つ、「クレアチニンクリアランス」についても閉口したので、書いておこう。

生理学用語で、ある物質の「クリアランス」とは、「その物質が体内から消失する単位時間あたりの量」を「その物質の血中濃度」で除した値のことをいう。 血中濃度で除する理由は「体内から消失する量は、大抵、血中濃度に比例する」という経験則である。 クレアチニンというのは、筋細胞などに存在するクレアチンの非酵素的代謝産物であって、専ら腎臓から尿中に排泄されることで体内から消失すると考えられている。 厳密にいえば、クレアチニンは糸球体で瀘過される以外にも尿細管から尿中にも分泌されるのだが、 「尿細管では再吸収も分泌もされない」と、おおまかに近似してしまうことも多い。 この近似の下では、上述の経験則は概ね成立し、しかもクレアチニンのクリアランスは糸球体瀘過量 (Glomerular Filtration Rate; GFR) に一致する。 臨床的にクレアチニンクリアランスを測定ないし推定するのは、この糸球体瀘過量を知りたいからである。

定義からわかるように、クレアチニンクリアランスを計算するためには、血中クレアチニン濃度、尿中クレアチニン濃度、および尿量を測定する必要がある。 この尿量の測定は、意外と手間がかかるので、臨床的にはあまり頻回には行われない。 そこで、血中クレアチニン濃度と年齢、体重や性別などからクレアチニンクリアランスを大雑把に推定する計算式が提案された。 このようにして計算された値を eGFR (estimated glomerular filtration rate) と呼ぶ。

ここまでは、まともに生理学を勉強した学生にとっては常識である。 さらに、eGFR は、多くの、あまり正確ではない近似に基づいて計算されるのだから、本当の GFR からは大きく乖離することも稀ではない、ということも容易に想像できよう。 問題は、その eGFR のことを「クレアチニンクリアランス」と呼ぶ医師が、北陸医大では稀ではないことである。

なぜ、こんなデタラメな言葉遣いがまかり通っているのかは、知らぬ。 本当にクレアチニンや腎臓のことを知っている医師であれば、口が裂けても、eGFR のことを「クレアチニンクリアランス」などとは呼ばないであろう。 医師としての見識が疑われる。


2016/07/23 甲状腺機能低下症 (2)

甲状腺機能低下症において、バソプレシンの分泌は亢進するのかどうか、という話である。 私が学生時代に調べた教科書には「亢進する」と断言されていたのだが、 J. L. Jameson et al., `Endocrinology Adult and Pediatric', 7th Ed. では、そのあたりは曖昧にされている。

バソプレシンの分泌が亢進する、と述べた報告の中で有名なものは W. R. Skowsky らの報告 (Am. J. Med., 64, 613-621 (1978).) のようである。 ところが、この論文には、不可解な点がある。 導入部において

This condition ... may present with measureable increases in total body water and exchangeable body sodium [7-9] and, therefore, suggests a dilutional causation [10-12].

と述べられているが、これは論理が破綻しているのである。 まず参考文献 [9] (Postgrad. Med. J, 45, 659-663 (1969).) では、 確かに甲状腺機能低下症患者では健常者に比して水とナトリウムが貯留している旨が述べられている。 しかし、この報告では、患者と健常者の間でナトリウム濃度に有意な差はない、とされている。 それならば、この水とナトリウムの貯留はバソプレシンなどが介在するものより、まずナトリウムの貯留し、その結果として水も貯留した、とみる方が自然である。 そう考えると、Skowsky の論法は、おかしい。 なお、Skowsky が挙げた参考文献 [7-8][10-12] については、北陸医大 (仮) には所蔵されていなかったり、閉架書庫にあったりで、すぐには入手できないため、確認していない。

一方、M. Sahun らの報告 (J. Endocrinol., 168, 435-445 (2001).) では、甲状腺機能低下症の患者では 血清バソプレシン濃度はむしろ低下する、としている。

なぜ、このような食い違いが生じるのか。 Skowsky や Sahun の論文をみると、これらはいずれも、症例対照研究であり、症例の選択バイアスが強く加わっているものと考えられる。 どういうことかというと、Skowsky や Sahun らは、なるべく中立的に研究を進めようとしたであろうし、そのために「典型的な」甲状腺機能低下症の患者を集めたであろう。 しかし、何をもって「典型的」とするかが問題なのである。 特に、バソプレシンの分泌のように非常に複雑な機序で調節されている事象については、症例対照研究で信頼できる結果を得ることは難しい。 たとえば Skowsky の報告においては、血清バソプレシン濃度の個人差が非常に大きい。これは、実際にそのような個人差の大きい集団で調査を行ったのか、 それとも測定系の問題なのかはわからないが、いずれにせよ、統計としての信頼性は低いと言わざるを得ない。

さて、C. H. Yeum らは、動物実験により、甲状腺機能低下症ではバソプレシン非依存的にアクアポリンの発現を促すらしい、と報告した (Pharmacol. Res., 46, 85-88 (2002).)。 私が調べた限りでは、これが最も信頼できる報告のように思われる。 たぶん、このアクアポリン発現亢進に加えて、ヒトならではの生活様式などに起因する複雑な修飾が加わった結果が、 Skowsky や Sahun らの報告でみられたような混乱なのであろう。


2016/07/20 甲状腺機能低下症 (1)

甲状腺機能、という言葉は、非常に漠然としていて、意味がよくわからない。 というのも、甲状腺が産生する甲状腺ホルモンは、多くの臓器において、多様な作用を発揮するからである。 だから、甲状腺機能低下症、という言葉の意味も、よくわからない。 この点について、内分泌学の名著である J. L. Jameson et al., `Endocrinology Adult and Pediatric', 7th Ed. では、 甲状腺機能低下症 hypothyroidism という語の意味を「甲状腺における甲状腺ホルモン産生の低下」としている。 つまり、甲状腺ホルモンの作用については考えないことにしよう、と言っているのである。

さて、甲状腺機能低下症で低ナトリウム血症を来すことがある、というのは、一部では有名な話である。 しかし、その機序については、よく知られていない。

甲状腺ホルモンは、心筋に作用して収縮力を低下させる一方、血管内皮細胞や血管平滑筋に作用して血管透過性を亢進させる。 その結果として、糸球体瀘過量は減少するし、またアルブミンの血管外への漏出を促す。 しかし、これは浮腫や血清ナトリウム濃度とは、基本的に関係ない。

また、甲状腺ホルモンは、繊維芽細胞に作用してコラーゲンやグリコサミノグリカンの産生を増加させるようである。 これは甲状腺刺激ホルモンの作用ではないか、とする意見も一部にはあるようだが、J. Physiol. Pharmacol., 60, 57-62 (2009). によれば、少なくとも心臓においては、甲状腺刺激ホルモンではなく甲状腺ホルモンの作用のようである。 いずれにしても、これは間質浮腫には関係するが、血清ナトリウム濃度とは直接関係しない。

上述の `Endocrinology Adult and Pediatric' では、低ナトリウム血症の原因は、腎臓におけるアクアポリンの発現亢進によるものであろう、としている。 ただし、このアクアポリンの発現にバソプレシンが関与するのかどうか、という点については議論が錯綜しているようである。 そもそも、甲状腺機能低下症において血清バソプレシン濃度は高くなるのか低くなるのか、という点ですら意見が分かれているらしい。 何やら面白そうな話なので、いずれ、整理してみようと思う。


2016/07/19 方言

方言の話である。 年配の患者の中には、かなり強い方言を話す人もいるため、何を言っているのかなかなか理解できず苦労することもないではないが、 今日の話題は、そういう方言ではなく、医療用語の方言、俗語についてである。

北陸医大 (仮) に来て初めて聞いた俗語の一つに「キョウシャ」というものがある。 たぶん、漢字では「胸写」なのだと思うが、要するに胸部 X 線画像のことである。 名古屋大学時代には一度も聞いたことのない表現であるが、長崎出身の某医師によると、どうやら西日本方言であるらしい。 私は、こうした俗語が嫌いである。 しかし、イチイチ「胸部 X 線画像」とか「胸部 X 線写真」とか口で言うのは面倒だ、というのは事実であり、 短縮して「胸写」と表現したくなる気持ちは、理解できなくもない。

問題は、学生や若い研修医が「胸写」という語を使う理由である。 これが方言であり正式な略称ではないことを認識した上で、公の場での使用は避けているならば、問題は少ない。 しかし、中には、これが方言であることを認識していなかったり、あるいは何か高尚な専門用語と勘違いしている者も、いるのではないか。 あるいは、俗語を「使いこなす」ことをカッコイイと思っている者も、いるのではないか。 もし、そうであるならば、実に浅薄なことである。

「胸写」よりも大きな問題は、血圧の「実測」である。 臨床的には、血圧を測定する方法は 2 つに大別される。 一つは、マンシェットを腕に巻いて締めつけ、コロトコフ音を聴取するなどの方法を用いる、いわゆる非侵襲的測定法である。 もう一つは、血管内にカテーテルを刺し込んで、カテーテル位置の圧力を測定する、いわゆる侵襲的測定法である。 詳しい歴史的経緯は知らないが、北陸医大では、非侵襲的測定法のことを「実測」と呼んでいるらしい。 もちろん私は、名古屋大学時代に、そのような言葉を聞いたことはない。

生理学を学んだ者であれば、この「実測」という慣用表現について、「それは、おかしい」と即座に指摘するであろう。 生理学や物理学の観点からいえば、血圧を本当に実測しているのは侵襲的測定法である。 非侵襲的測定法は、いくつかの近似や仮定の元に、血圧を間接的に測定、あるいは推定しているに過ぎない。 しかし、医学を知らない素人の中には、「血圧というのは、マンシェットを腕に巻いて測るものだ」などと思い込んでいる者も少なくないだろう。 たぶん、そうした勘違いに基づいて、非侵襲的測定法を「実測」などと呼ぶようになってしまったのだと思われる。 遺憾なことであるが、この慣習は、北陸医大の医療従事者の多くが生理学を識らないという事実を示唆している。

「胸写」はまだしも、「実測」は無知丸出しで恥ずかしいので、やめた方が良い。


2016/07/18 フェニルケトン尿症

過日、ある学生と話をしていて、フェニルケトン尿症に話題が及んだ。 ところが私は不勉強なので、「フェニルケトン尿症」という名称は知っていても、それがいかなる疾患なのか、わからなかったのである。 そこで、今さらではあるが、この疾患の概略を確認して記載しておくことにする。

フェニルアラニンは必須アミノ酸の一つであるが、通常の食生活をしている限りは、体内で過剰になる。 そこで余剰分をチロシンに変換する酵素がフェニルアラニンヒドロキシラーゼであり、この酵素を先天的に欠くのが、典型的なフェニルケトン尿症の原因である。 結果として、余剰なフェニルアラニンはフェニルピルビン酸などのフェニルケトンに代謝されるのだが、この代謝産物は特に毒性を持たないらしい。 一方、チロシン欠乏症の症状がみられることはあり、たとえばメラニンの産生能低下による髪の脱色などを来すのである。 このあたりまでは、確か朝倉書店『内科学』第 10 版に書かれていたと思うのだが、今は手元に置いていないので確認できない。 余談であるが、北陸医大 (仮) の研修医室は個人用スペースが狭く、あまりたくさんの教科書を貯蔵することができない。 そこで「朝倉内科学」などの使用頻度が低い教科書は自宅で保管しているのだが、こういう時には、少しだけ困る。

さて、R. M. Kliegman et al., `Nelson Textbook of Pediatrics', 20th Ed. によれば、 ややこしいことに、フェニルケトンは基本的に無害であるが、過剰なフェニルアラニンは有害であるらしい。 というのも、フェニルアラニンはチロシンやトリプトファンと同じトランスポーターで中枢神経系に取り込まれるので、 このトランスポーターが飽和することで、中枢神経系においてチロシンやトリプトファンが欠乏するというのである。 このことから、フェニルケトン尿症に対しては、チロシンを充分に含む食品を摂取するだけでなく、フェニルアラニンの摂取を制限することも必要なのである。 ところが、ふしぎなことに、患者の中には、普通の食事をしていても脳中のフェニルアラニン濃度が高くならずに、 結果として中枢神経障害を来さない例も稀ながら存在するらしい。たぶん、アミノ酸トランスポーターの変異か多型が関係しているのだろうが、詳細は不明である。

高フェニルアラニン血症の原因としては、上述のフェニルアラニンヒドロキシラーゼ自体の異常の他に、補因子であるテトラヒドロビオプテリン (BH4) の 欠損症もあるという。 この BH4 は、チロシンヒドロキシラーゼやトリプトファンヒドロキシラーゼの補因子でもあるため、 その欠損症では、ドーパやセロトニンの生合成にも障害を来す。 従って、これに対して単に低フェニルアラニン高チロシン食だけで対応してしまうと、ドーパミンやセロトニンの欠乏に由来する神経障害を来すことになる。

ついでにいえば、過剰なチロシンを分解する代謝経路に異常がある場合でも、高フェニルアラニン血症を来す。 その場合には、フェニルアラニンだけでなくチロシンの摂取量も適切にコントロールしなければならない。 従って、「フェニルケトン尿症」という漠然とした診断名に満足するのではなく、具体的にどういう障害が原因なのかを明らかにすることは重要である。


2016/07/16 意識障害

昨日の記事を書いていて、思い出した話がある。 私が学生時代に、中部地方の某病院の救急部を見学していた際に目撃した事例である。

精神科通院中で自傷行為を繰り返している患者が、意識障害のため救急搬送されてきた。 診療にあたった研修医や看護師は、その自傷行為の傷跡をみて、診療行為としての妥当な範囲を逸脱した 「うわぁ、怖い」とか「なんで、こんなことするのか、理解できない」などという言葉を発した。 もちろん彼らも、意識のある患者に対しては、そのような発言は慎しむであろう。 つまり患者には聞こえていないと思って、油断していたわけである。 ところが、実は患者は言葉を発しないだけであって、周囲の状況をよく理解していたようである。 治療に反応して状態が回復するや否や、研修医や看護師らの発言に対して猛抗議を開始した。 その後どうなったかは、詳しくは書かぬ。 なお、後でカルテを閲覧したところ、事実に反する内容が記載されていた。 患者は医療不信を募らせたようであるが、証拠は残っていないのだから、法的闘争も困難である。

この事例には、カルテの不実記載の他にも二つの問題がある。 第一には、そもそも「うわぁ、怖い」とか「理解できない」とかいう気持ちを抱くこと自体が不適切である。精神疾患に対する基本的な理解を欠如していると言わざるを得ない。 第二に、仮に患者に聞こえていないとしても、不謹慎な言動は慎しまねばならない。社会常識からいって、あたりまえのことである。医学云々以前の問題である。 ところが、上述の事例のあった病院に限らず、全身麻酔下の手術室では、かなり不謹慎な言動が展開されることが多いようである。 医師という連中は、遺憾ながら世間の期待に反して、倫理観を欠いていることが多いのである。

上述のものとは別の某病院では、手術室に「全身麻酔下であったとしても、患者は覚醒しているものとみなして、礼節を保って接すべし」というような掲示がなされていた。 他の病院に比べれば、問題意識が保たれているという意味でマシであるが、そうした掲示をせねばならないほど、医師の倫理観が乱れているのである。


2016/07/15 研修医としての積極性

救急研修中である。 たとえば救急車で患者が来院した際に、静脈カテーテル留置や、動脈血ガス分析を行うとする。 私の場合、そこで「私がやります」と前に出て手技を実施することが、なかなか、できない。 世の中の一般的な基準からいえば、まぁ、積極性の乏しい、質の低い研修医だということになるだろう。

積極性を発揮できない最大の理由は、患者に申し訳ないから、ということである。 どう考えても、私は、そうした手技が巧くない。 そんな私が、患者の体に針を刺すなど、あまりに恐れ多いのではないか、と思えてならないのである。

もし私が、将来、一般内科医になろうと思っているのでれば、気にせず前に出られたのではないかと思う。 私が前に出ることは、眼前の患者の利益にはならなくても、間違いなく将来の別の患者の利益になり、社会全体でみれば有益だからである。 私は (自称) 共産主義者であるから、そうした社会全体の利益のためなら、眼前の患者個人の不利益に対して余計な配慮は、しない。 すみません、ごめんなさい、と心の中で謝りながら前に出るぐらいの勇気は、私も持ち合わせている。 しかし、私は病理医になることに決めている。これは、断じて揺るがない。 その前提で考えると、私がここで患者の体に針を刺すことは、はたして、未来の患者の利益になるのだろうか。

こういうことを書くと、多くの人は「それは言い訳だ」などと私を批判するだろう。 そうだろうか。 むしろ、あなた方こそ、患者の利益と不利益に対して無頓着すぎるのではないか。 研修医はそういうものだから、とか、救急医療とはそういうものだから、とかいう、根拠のない決めつけに従って、結論ありきで話をしているのではないか。

たとえば、少なからぬ医科学生は、全身麻酔がかけられた患者に対して、本人の同意を得ることなく、内診や直腸診を行った経験があるだろう。 非専門家のために補足すれば、内診というのは指を膣の中に挿入して触診をすることであり、 直腸診というのは指を肛門から直腸に挿入して行う触診である。 もちろん、患者の同意なしにこれらを行うことは、医療倫理の観点から許されない。 それを「勉強のため」などという一方的な理由で、学生に実施させているのが現在の医学教育なのである。

そもそも、初期臨床研修を必修として、さらに救急医療や外科を必修科目とすることは、適切なのか。 医師の多くを占める臨床医にとってはともかく、たとえば医系技官とか、あるいは基礎研究者とか、また病理医や臨床検査医にとって、 本当に、救急研修は必修とすべきものなのだろうか。 かつて初期研修が必修ではなかった時代に救急研修を経験せずに専門家になった医師は、そんなに無能なのか。 むしろ、病理や臨床検査こそ、必修とするべきではないのか。


2016/07/09 医師をサッカーにたとえると

私の名古屋大学時代の同級生に、サッカー観戦が好きな A 君という人物がいる。 今は東京の某有名病院の研修医であり、外科医の卵である。 彼は、雑談の中で「医師をサッカーにたとえると、フォワードは外科医だな。病理医はゴールキーパーだ。」などと述べたことがある。 まぁ、だいたい合っているように思われる。 彼は私に、「君は、ノイアーのようになりたいのだろう?」と言った。

私はサッカーにあまり詳しくないのだが、ノイアーというのは、ドイツ代表の名ゴールキーパーである。 自陣ゴール前での守備が巧いのはもちろんであるが、守備範囲が広く、時にはセンターラインを越えてボールを取りに行くこともあるらしい。 平たくいえば、かなり常識外れなゴールキーパーである。 そのノイアーが背後に控えているという安心感から、味方ディフェンダーは積極的に攻撃参加できるようである。

まったく、彼の指摘の通りである。 味方のディフェンダーが抜かれようが、裏を取られようが、しっかりと止めてやる。 そういう病理医に、私はなりたい。


2016/07/04 アセトアミノフェン

私は、医者の中では基礎医学寄りの、より学究的な部類の人間であるとは思うのだが、 それでも、臨床現場にいると、ついつい医学的精神を忘れそうになることがある。 この日記には、医学を忘れた凡庸な医師になってしまうことを恐れ、自らを戒める意味も込められている。

アセトアミノフェンの話である。 この薬は、NSAID 様の解熱鎮痛作用を持つが、抗炎症作用を欠くことから、NSAID には含めないのが普通である。 臨床的には、主に肝臓で代謝されるために腎障害のある患者にも使いやすい一方、肝毒性には注意を要する、という話が有名である。

NSAID の作用は、シクロオキシゲナーゼ阻害による末梢性の抗炎症作用と、中枢性のプロスタグランジン産生抑制による解熱鎮痛作用である。 アセトアミノフェンの場合は、シクロオキシゲナーゼ阻害作用が乏しく、臨床的には中枢性の作用のみが有効であると考えられている。 私が臨床にウツツを抜かしているからといって、そのくらいのことは、いくら何でも、忘れない。

が、研修医・学生合同勉強会のための資料を作成している際、「アセトアミノフェンの作用機序は、いかなるものであるか」が頭に浮かばなくて困った。 私は、つい先日もアセトアミノフェンを患者に処方した。それなのに、その薬の作用機序を言えないとは、一体、どういうことか。これでは藪医者との謗りを免れ得ぬ。 私は狼狽して、D. E. Golan et al., Principles of Pharmacology: The Pathophysiologic Basis of Drug Therapy, 4th Ed. (2017). を開いた。 余談であるが、米国等では、法令上の都合なのだと思うのだが、書籍の出版年としては実際の出版年の翌年が示されることが多いようである。 この教科書も、著作権表示は 2017 年になっているが、実際の出版年は 2016 年である。

さて、同書の 301 ページには、次のように記されていた。

Acetaminophen (paracetamol) preferentially reduces central prostaglandin synthesis by an uncertain mechanism; as a result, the drug produces analgesia and antipyresis but has little anti-inflammatory efficacy.

要するに、機序不明、とのことである。 次からは、アセトアミノフェンを処方する際には、機序不明、と唱えながらカルテに入力することにしよう。


2016/07/03 医者嫌い

以前にも書いたが、私は、昔から医者が嫌いであった。 高校時代には、医者を「人の弱味につけ込んで金を稼ぐ邪悪な職業である」と形容したこともある。 それ故に、大学院を辞めて行き場を失い、やむを得ず医学部に行くと決めた時、私は、医者になどなりたくなかった、と嘆いた。 大学院時代の後輩にあたる、ある女性は、そんな私をみて 「あなたは、いま医者をやっている人間が嫌いなだけであって、医師という職業を嫌っているわけではないでしょう。 それなら、あなたが医師になって、その誤っている部分を正せば良い。 だいたい、あなたは社会の枠組みに対して従順すぎるのだ。」 と叱咤した。

彼女のこの言葉が、今でも、私の原動力になっている。 このことは博士課程時代の記録には書いたが、日記には書いていなかったと思うので、ここに記載しておく次第である。

「世の中には立派な医者もいる」などと言う人がいるが、「立派な医者もいる」では駄目なのだ。 医師は聖職であり、故に、全ての医者は立派な人物でなければならない。 もし、不幸にして立派でない医師がいるならば、その者を矯正し、それが不可能ならば追放することもまた、医師の責務なのである。 我関せず、という態度を取ることは、その不実な医師によって患者が害されることを黙認するに等しく、それ自体が不道徳である。

「世の中には立派な医者もいる」ということは、つまり、「世の中には立派でない医者が多い」という意味である。 従って、これからの生涯、我々は常に戦い続けなければならない。


2016/07/02 メッケル憩室

メッケル憩室、と呼ばれる腸管の先天的形態異常がある。 これは、回腸遠位部にある憩室、つまり行き止まりの脇道のようなでっぱりであり、 R. M. Kliegman et al., Nelson Textbook of Pediatrics, 20th Ed., (2016). によれば、だいたい一般人口の 2 % ぐらいにみられるという。 医学関係者であれば、大抵、名前ぐらいは知っているであろうが、その詳しい特徴となると、意外と、知られていないようである。

`Nelson' によれば、メッケル憩室には「2 の法則」があるという。 つまり、この憩室は人口の 2 % 程度にみられ、だいたい回盲弁から 2 フィート程度吻側の位置にあり、長さは 2 インチ程度であり、 2 種類 (胃と膵臓) の異所性組織が高頻度にみられ、症状は 2 歳までに生じることが多く、女性は男性より 2 倍、頻度が高い。 ただし、こうした特徴については異論もあり、S. E. Mills et al., Histology for Pathologists, 4th Ed., (2012). によれば、 この憩室は回盲部から 20 cm 程度の距離に多く、50 % から 70 % 程度の例では異所性組織がみられないという。

メッケル憩室についてのレビューとしては、Clinical Anatomy, 24, 416-422 (2011). が読みやすい。 これによれば、メッケル憩室の大半は無症候性であるが、4-6 % 程度が発症するという。 症状としては腹痛が典型的であり、その原因は腸閉塞や消化管出血、腸管穿孔などである。 このうち、消化管出血については、機械的に損傷されて生じる場合もあるだろうが、特徴的なのは異所性組織によるものである。 すなわち、なぜかメッケル憩室には胃の組織が生じることが稀ではなく、そこから分泌される胃液などによって周囲の正常腸管が傷害を受けるのである。 これを検出する方法として、99mTc 標識した過テクネチウム酸塩を用いたシンチグラフィが行われることがある。 というのも、詳しい機序はよくわからないのだが、過テクネチウム酸塩は胃粘膜に集積するようなので、これが腸管内に集積した場合、 そこにメッケル憩室が存在することを強く示唆するからである。 この検査は、詳しい事情はよくわからないのだが、小児では感度も特異度も高い一方、大人では感度がやや低く、特異度は著しく低くなるらしい。 もちろん、このシンチグラフィが有効なのは、異所性胃粘膜組織を伴うメッケル憩室の場合に限られる。 上述のレビューによれば、症状を伴うメッケル憩室においても、異所性胃粘膜組織を伴うのは 60-65 % 程度であるというから、 残り 35 % については、別の方法で診断しなければならない。

以上のことからわかるように、メッケル憩室の有無を検索する目的でシンチグラフィを行う、という論理は正しくない。 シンチグラフィが有効なのは、消化管出血があると考えられる小児において、出血の原因として異所性胃粘膜を伴うメッケル憩室を疑っている場合に限られるのである。


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